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    目ざめよ! 2002 | 1月8日
    • ツインタワーが崩壊した日

      ニューヨーク市,ワシントンDC,およびペンシルバニアで2001年9月11日に生じた出来事は,世界中の何億,いや何十億という人々の脳裏に深く刻み込まれたことでしょう。ニューヨークの世界貿易センターとワシントンの国防総省が攻撃されたというニュースを見聞きした時,あなたはどこにおられましたか。

      この惨劇で瞬時に多くの資産が破壊されただけでなく,はるかに貴重な多数の命も奪われたため,人類は立ち止まって考えざるを得なくなりました。

      わたしたちは,生活上の優先事項や物事の選択について,何を学んだでしょうか。この悲惨な出来事は,人間の持つ良い特質 ― 自己犠牲,思いやり,忍耐,利他的な心 ― をどのように引き出したでしょうか。この記事と次の記事では,後者の質問を取り上げます。

      生存者は語る

      ニューヨークにおける惨事の直後に地下鉄が止まったため,大勢の人がマンハッタン南部から徒歩で脱出し,その多くはブルックリン橋やマンハッタン橋を渡りました。目の前には,エホバの証人の世界本部のオフィスと工場のビルがありました。大惨事の現場から避難してきた人たちの一部は,間もなくそれらのビルに向かいました。

      最初に到着した人の一人,エホバの証人の母を持つアリーシャ(下)は,全身にほこりと灰を浴びていました。a こう語っています。「電車で職場に向かう途中,世界貿易センターから煙が出ているのが見えました。現場に着くと,辺り一面にガラスが散乱していて,とても熱く感じました。人々が逃げ惑い,警察はみんなを避難させようとしていました。まるで戦場でした。

      「わたしは近くの建物に逃げ込みました。その時,爆発音を聞きました。2機目の飛行機が南棟に激突したのです。黒い煙が立ち込め,言葉では言い表わせないような光景でした。危険区域を離れるように言われ,イースト川を渡ってブルックリンに行くフェリーに乗りました。対岸に着いて見上げると,『ものみの塔』という大きなサインが見えました。母の宗教の本部です! わたしはすぐにオフィスビルに向かいました。そこ以上に安心な場所はないと知っていたからです。わたしはシャワーを浴びて着替えてから,両親に電話することができました」。

      ウェンデル(右)は,二つの棟の間にあるマリオット・ホテルのドアマンでした。こう語っています。「最初の爆発が起きた時,わたしはロビーで勤務中でした。瓦礫が辺り一面に降り注ぐのを見ました。道路の反対側に目をやると,男の人が炎に包まれて倒れていました。わたしは大急ぎで上着とシャツを脱いで駆け寄り,火を消そうとしました。通りがかりの人が手伝ってくれました。男の人の服は燃えてしまい,残ったのは靴下と靴だけでした。それから消防士たちが来て,その人を手当てするために運んで行きました。

      「程なくして,CBSテレビのニュース担当のブライアント・ガンベルが電話をかけてきて,目撃者として様子を話してくれないかと言いました。バージン諸島にいる家族はテレビでそのインタビューを聞き,わたしが生きていることを知りました」。

      世界金融センターに勤務する,身長195㌢の大柄なドナルドは,自分のいるビルの31階から,真正面にあるツインタワーとマリオット・ホテルを見ていました。こう述べています。「目にしたものに言葉を失い,ぞっとしました。人が北棟の窓から落ちたり,飛び降りたりしていたのです。わたしはパニックに陥り,一目散にビルから逃げ出しました」。

      60代の母親と40代の娘二人も体験談を語ってくれました。ルースと妹のジョーニは,母親のジャニスと一緒にツインタワーの近くのホテルに泊まっていました。正看護婦のルースはこう語ります。「わたしはシャワーを浴びていました。突然,母と妹が,『早くシャワーから出て!』と叫びました。わたしたちは16階にいましたが,二人は窓の外を瓦礫が落ちてゆくのを見たのです。母は,男性の体が,どこかから打ち出されたかのように,近くの屋根を越えて飛んで行くのを目の当たりにしました。

      「わたしは急いで服を着て,3人で階段を下り始めました。あちこちで悲鳴が上がっていました。通りに出ると,爆発音が聞こえ,火の粉が見えました。わたしたちは,急いで南のバッテリー公園へ行くように言われました。スタテン島行きのフェリー乗り場があるところです。そこに行く途中,母を見失ってしまいました。母は慢性的なぜん息持ちなのに,こんなひどい煙や灰やほこりを切り抜けることができるでしょうか。30分ほど母を捜しましたが,見つかりませんでした。でも,母はとても沈着冷静な人なので,初めのうちはあまり心配しませんでした。

      「やがて,わたしたちは,ブルックリン橋まで歩いて行って対岸に渡るようにと指示されました。橋のブルックリン側に着いて,『ものみの塔』という大きなサインを目にしたときは本当にほっとしました。もう安心だと思いました。

      「わたしたちは温かく迎えられ,泊めていただけることになりました。着の身着のままだったので,服もいただきました。でも,母はどこにいるのでしょう。一晩中,いろいろな病院に当たってみましたが,手掛かりはありませんでした。翌日,午前11時半ごろに連絡を受けました。なんと,母が下のロビーに来ていたのです。母はそれまで何をしていたのでしょうか」。

      母親のジャニスが話を続けます。「ホテルを飛び出した時,わたしは,逃げ遅れた年配の友人のことが気にかかっていました。引き返して自分で彼女を連れ出したいと思いましたが,それは危険すぎました。騒ぎの中で,娘たちとはぐれてしまいました。でも,二人ともしっかりしていますし,ルースは正規の看護婦なので,あまり心配しませんでした。

      「どこを見ても,助けの必要な人たちがいました。特に子どもや赤ちゃんです。わたしはできるだけ多くの人に手を貸しました。そして,けがの程度によって負傷者を選別して治療するトリアージ・エリアに行き,すすやほこりのこびりついた警官や消防士の手や顔を洗うのを手伝いました。午前3時ごろまでそこにいました。その後,最終フェリーに乗ってスタテン島に行きました。娘たちがそこに避難しているかもしれないと思ったのです。でも二人は見つかりませんでした。

      「朝になり,マンハッタンに戻る最初のフェリーに乗ろうとしましたが,救急隊員ではなかったので乗れませんでした。その時,手伝ってあげた警官を見かけました。『ジョン,マンハッタンに戻らなければならないの』と呼びかけると,彼は『ついておいで』と言ってくれました。

      「マンハッタンに着くと,マリオット・ホテルに向かいました。年配の友人を助けるチャンスがまだあるかもしれないと思ったのです。しかし,とんでもないことでした。ホテルは廃墟と化していました。ダウンタウン一帯は死んだも同然で,全く生気がありません。悲痛な面持ちのやつれきった警官や消防士がいるだけでした。

      「わたしはブルックリン橋に向かいました。橋を渡りきるころ,『ものみの塔』という見慣れたサインが見えました。たぶん娘たちはそこにいるでしょう。思ったとおり,二人はロビーに降りて来て,迎えてくれました。わたしたちは強く抱き合い,あふれる涙を抑えられませんでした。

      「驚いたことに,あれだけの煙やほこりや灰の中で,一度もぜん息の発作が起きませんでした。足手まといになりたくない,役に立ちたいと思っていたので,ずっと祈っていました」。

      「着陸する場所なんてありません」

      20代前半のレイチェルという女性は,「目ざめよ!」執筆員にこう語りました。「マンハッタン南部にある自宅のブロックを歩いていると,頭上で飛行機の音がしました。あまりに大きな音だったので,思わず見上げると,信じられないことに,どう見ても,巨大な旅客機が下降しているのです。なぜそんなに低く,そんなに速く飛んでいるんだろうと思いました。着陸する場所なんてありません。操縦不能になったのでしょうか。その時,女の人が,『今の飛行機がビルにぶつかった!』と叫ぶのが聞こえました。北棟から巨大な火の玉が噴き出し,大きな黒い穴が開いているのが見えました。

      「生まれてこのかた見たこともない,恐ろしい光景でした。とても現実とは思えませんでした。わたしは,ただぼう然とその場に立ち尽くしていました。それから幾らもたたないうちに,もう一方のタワーにも別の飛行機が激突し,やがてタワーは二つとも崩れ落ちました。わたしはパニックに陥りました。耐えられる限界を超えていたのです」。

      「泳ぐしかないなら,泳ごう」

      16歳のデニーズは,アメリカン証券取引所の隣にある学校に着いたところでした。そこは,世界貿易センターから南に3ブロック離れたところにあります。「午前9時を過ぎたところでした。何かが起きたようでしたが,それが何なのかは分かりませんでした。わたしは学校の11階で歴史の授業を受けていました。生徒たちは皆ぼう然としていました。先生はテストを続けようとしましたが,わたしたちは外へ出て家に帰りたいと思いました。

      「その時,2番目の飛行機が南棟に激突して,わたしたちの建物も揺れました。それでも,何が起きたのか,まだ分かりませんでした。突然,先生のトランシーバーから,『飛行機が2機,ツインタワーに激突した!』という声が聞こえました。わたしは,『このままじっとしていちゃだめだ。これはテロで,次の標的は証券取引所だろう』と思いました。みんなもそう思って,外に出ました。

      「全員,バッテリー公園まで必死に走りました。わたしは何が起きているのか見ようと振り返りました。南棟が崩れそうになっていました。ドミノ倒しのように,高いビルが次々と崩れてゆくのではないかと思いました。灰やほこりが鼻とのどに詰まり,息をするのも大変でした。イースト川に向かって走り,『泳ぐしかないなら,泳ごう』と思いました。逃げながら,助けてくださいとエホバに祈りました。

      「やがて,わたしはニュージャージー行きのフェリーに乗りました。母に見つけてもらうまで5時間以上かかりましたが,何とか無事でした」。

      「これで死んでしまうのだろうか」

      ニュージャージー州プリンストン在住の28歳のジョシュアは,北棟の40階で授業を行なっていました。その時のことを,こう語っています。「突然,爆弾が爆発したような衝撃を感じました。揺れたので,『いや,地震だったんだ』と思いました。しかし,外を見て,自分の目を疑いました。煙と瓦礫が,ビルの周りで渦を巻いていたのです。わたしは生徒たちに,『みんな,何も持たずに逃げろ。急げ!』と言いました。

      「わたしたちは階段を下り始めました。煙が充満してきて,スプリンクラーから水が出ていました。しかし,パニックは生じていませんでした。ただ,この階段を選んだことが間違いでなく,炎と鉢合わせしませんように,と祈りつづけました。

      「階段を駆け下りながら,『これで死んでしまうのだろうか』と思いました。ずっとエホバに祈っていると,何とも言えない安らかな気持ちになりました。それまで感じたことのないような心の平安です。その時のことは決して忘れないでしょう。

      「やっとの思いでビルから出ると,警察が人々を誘導していました。タワーを見上げると,どちらにも,ざっくり切り込まれたかのような穴が開いていました。現実とは思えない光景でした。

      「その時,気味の悪い音が聞こえました。何万もの人が息を殺しているかのような,不気味な静けさが広がりました。ニューヨークが一瞬静止したような感じでした。次いで,悲鳴が上がりました。南棟が真下に崩れ始めたのです。煙と灰とほこりが,津波のように襲いかかってきました。まるで映画の特殊効果のようでした。しかし,これは現実です。煙に追いつかれると,息をするのもやっとでした。

      「マンハッタン橋に着いて振り向くと,大きなテレビアンテナのある北棟が大音響と共に崩れ落ちるのが見えました。橋を渡りながら,エホバの証人の世界本部であるベテルにたどり着けますようにとひたすら祈りつづけました。ベテルを見てあんなにうれしかったことはありません。工場の壁には,毎日何万という人が目にする,『神のみ言葉 聖書を毎日読みましょう』という大きなサインが見えました。わたしは,『もうちょっとだ。がんばろう』と思いました。

      「この出来事について考えるたびに,優先すべき事柄をきちんと優先させておくことの大切さをしみじみと感じます。生活の中で第一のものを第一にすべきなのです」。

      「タワーから人が飛び降りるのが見えました」

      22歳のジェシカは,ダウンタウンの地下鉄の駅から出たときに,事件を目撃しました。「見上げると,灰や,瓦礫や,様々な金属片が落ちてくるのが見えました。公衆電話に並んでいる人たちは,待たされるせいで,どんどんヒステリックになってゆきました。わたしは落ち着けるように祈りました。その時,また爆発がありました。鉄骨やガラスが空から降ってきます。『また飛行機だ!』という叫び声が聞こえました。

      「見上げると,恐ろしい光景が目に入りました。煙と炎の吹き出す上層階から人々が飛び降りているのです。今でもまざまざと目に浮かぶのは,一組の男女の姿です。二人はしばらく窓にしがみついていましたが,ついに力尽きて手を離し,落下して,落下して,落下して……。見るに堪えませんでした。

      「その後わたしはブルックリン橋に行き,歩きにくい靴を脱いで,川向こうのブルックリンへと走りました。『ものみの塔』のオフィスビルに入ると,すぐに温かく迎えてくださり,気持ちを落ち着かせることができました。

      「その夜自宅で,『目ざめよ!』誌,2001年8月22日号の,『心的外傷後ストレスに対処する』という特集記事を読みました。まさに必要な情報でした」。

      この甚大な被害を目にした人々は行動を起こし,助力を惜しみませんでした。次の記事は,その面を取り上げます。

      [脚注]

      a 「目ざめよ!」誌はほかにも多くの生存者にインタビューしました。この短い記事にすべてを掲載することはできませんでしたが,その方たちの協力のおかげで,これらの経験談を補足し,裏付けることができました。

      [8,9ページの図/図版]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      全壊

      1 北棟 世界貿易センター 1

      2 南棟 世界貿易センター 2

      3 マリオット・ホテル 世界貿易センター 3

      7 世界貿易センター 7

      重度の損壊

      4 世界貿易センター 4

      5 世界貿易センター 5

      L ワン・リバティー・プラザ

      D ドイツ銀行 リバティー通り130番

      6 米国税関局 世界貿易センター 6

      N S 北側と南側の歩道橋

      一部損壊

      2F 世界金融センター 2

      3F 世界金融センター 3

      W ウィンターガーデン

      [クレジット]

      As of October 4, 2001 3D Map of Lower Manhattan by Urban Data Solutions, Inc.

      [図版]

      一番上: まず南棟が倒壊した

      上: 「ものみの塔」のビルに避難した人たちもいた

      右: 大勢の消防士や救助隊員が,休まずグラウンド・ゼロでの作業を続けた

      [クレジット]

      AP Photo/Jerry Torrens

      Andrea Booher/FEMA News Photo

      [3ページの図版のクレジット]

      AP Photo/Marty Lederhandler

      [4ページの図版のクレジット]

      AP Photo/Suzanne Plunkett

  • 多方面からの支援と思いやり
    目ざめよ! 2002 | 1月8日
    • 多方面からの支援と思いやり

      米国各地はもとより,よその国からもボランティアがやって来ました。29歳の消防士トム(上の写真)は,そうしたボランティアの一人で,カナダのオタワから来ました。トムは「目ざめよ!」誌にこう語りました。「テレビで事件を見て,ニューヨークにいる消防士仲間の精神的な支えになれればと思いました。金曜日に車で出発し,土曜日にグラウンド・ゼロに行って援助を申し出ました。いわゆるバケツリレー班に配属され,瓦礫をバケツで一杯ずつ運び出しました。

      「シャベルを使って,慎重に瓦礫をより分け,犠牲になった消防士たちの身元を知る手掛かりを探しました。わたしが見つけたのは,かぎのかかったドアをこじ開けるために使うハリガン・ツールと,ホースの継ぎ手でした。とても骨の折れる作業でした。約50人のボランティアでダンプカー1台をいっぱいにするのに2時間かかりました。

      「9月17日月曜日,前の週の火曜日にビルに突入した幾人かの消防士の遺体が運び出されました。その時の様子は絶対に忘れないでしょう。救助隊全員が作業を中断し,ヘルメットを脱いで立ち,犠牲となった仲間に敬意を表したのです。

      「立ってグラウンド・ゼロの惨状を眺めながら,現在の命がいかにはかないかを痛感しました。自分の人生,仕事,家族について深く考えさせられました。危険ではあるものの,わたしの仕事はとてもやりがいがあります。人々を助け,命を救うことさえできるからです」。

      エホバの証人も実際的な援助を行なう

      惨劇の最初の二日間に,70人ほどの人がエホバの証人の世界本部に避難しました。ホテルの部屋と荷物を失った人たちには,泊まる場所と着替えが提供されました。また,食事も備えられました。そして恐らくもっと重要なこととして,経験を積んだクリスチャンの長老たちが感情面で支えとなりました。

      エホバの証人は,グラウンド・ゼロと呼ばれるようになった場所で働く捜索救助隊員にも,必要な非常用装備や物資を送りました。救助現場に消防士を運ぶための輸送手段も消防局に提供しました。39歳のエホバの証人でごみ収集作業員のリカルド(右)は,幾百人もの人たちと共に,連日大量の瓦礫を片づける作業を行ないました。リカルドは「目ざめよ!」誌にこう語りました。「目にする光景のため,心身ともに疲れ果ててしまいます。行方不明の同僚を探す消防士たちにとっては特にそうです。彼らがまだ生きている消防士を引っ張り出すのを見ました。別の消防士は,落ちてきた人に当たって死んでいました。多くの消防士が泣いていました。わたしも泣き崩れてしまいました。あの日,彼らは最高に勇敢でした」。

      「時と予見しえない出来事」

      この惨事で,何千人もの人が亡くなりました。その中に,少なくとも14人のエホバの証人がいます。惨事の現場や,その付近にたまたまいた人たちです。トリニダード出身の65歳のジョイス・カミングズは,世界貿易センター近くの歯科医院に予約がありました。悲しいことに,それは惨劇が起きたのとほぼ同じ時間でした。ジョイスは煙に巻かれたらしく,近くの病院に急いで運ばれましたが,助かりませんでした。これは一例にすぎず,ほかにも大勢の人が「時と予見しえない出来事」の被害を受けました。(伝道の書 9:11)ジョイスはとても熱心な福音宣明者として知られていました。

      カルビン・ドーソン(囲み記事をご覧ください)は,南棟84階の証券会社で働いていました。カルビンのいたオフィスからは,飛行機が衝突した直後の北棟がはっきり見えました。外出中の雇い主は,何が起きたのかを確かめるために電話を入れました。その人はこう述べています。「カルビンは自分が見ている事柄を伝えようとして,『人が飛び降りている!』などと言っていました。わたしは,そこから逃げるように,またほかの人たちにもそうさせるように言いました」。しかし,カルビンは脱出できませんでした。雇い主は,こう続けています。「カルビンはすばらしい人物で,みんなに尊敬されていました。信心深くない人たちも彼を尊敬していたのです。わたしたちは,彼の信仰心と人間味に感服していました」。

      犠牲になった別のエホバの証人は,4人の子どもの父親で,ニューヨーク市消防局の隊長だったジェームズ・アマトー(左のページの右下)です。ジェームズを知る人たちは,彼は勇敢だったので,「ほかの人が逃げているような時でも,燃え盛る建物に入って行った」と言います。ジェームズは死後,大隊長に昇進しました。

      もう一人のエホバの証人は,7年の経験を持つ消防士のジョージ・ディパスクワレで,妻メリッサと2歳の娘ジョージア・ローズがいます。ジョージはスタテン島にあるエホバの証人の会衆の長老で,南棟が倒壊した時,10階にいました。やはり他の人を救おうとして自分の命をなげうったのです。

      この二人だけでなく,何百人もの消防士,警察官,救急隊員が,勇敢にも人々を救い出そうとして命を失いました。それらの人々の勇気は,いくら強調しても強調しすぎることはありません。後にニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニは,昇進した消防士たちにこう語りました。「極めて困難な状況下でもひるまずに前進する皆さんの強い意思は,わたしたちすべての心を打ちます。……そして,……勇気の点でニューヨーク市消防局の右に出るものはありません」。

      慰めを与える宣教奉仕

      悲劇の後,数日にわたり,米国各地の約90万人のエホバの証人は,悲嘆に暮れる人々を何とかして慰めようと努力を傾けました。隣人への愛に動かされ,嘆き悲しむ人々を慰めたいと思ったのです。(マタイ 22:39)また,宣教奉仕を通して,苦悩する人類に対する唯一の真の希望を示すことにも努めました。―ペテロ第二 3:13。

      証人たちは思いやり深く人々に近づきました。聖書から慰めを与え,さわやかさをもたらすキリストの手本に倣うためです。キリストはこう述べています。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきは心地よく,わたしの荷は軽いのです」。―マタイ 11:28-30。

      地元マンハッタンにあるエホバの証人の会衆の長老たちは,グラウンド・ゼロ地区への立ち入りを許され,現場の救助隊員に話しかけて慰めました。とても良い反応が返ってきました。その奉仕を行なった人たちは次のようにコメントしています。「わたしたちが聖句を読むと,隊員たちは目に涙を浮かべていました」。マリーナの船上で休憩している隊員もいました。「その人たちはうなだれ,途方に暮れているように見えました。目にしたものに打ちのめされている様子でした。わたしたちはそばに行って腰を下ろし,聖書の言葉を読みました。隊員たちは,来てくれて本当にありがとう,こういう慰めをまさに必要としているんだと言いました」。

      惨事の後に訪問を受けた多くの人が読む物を求めたので,何千部もの冊子が無料で配布されました。例えば,「愛する家族を亡くしたとき」,「戦争のない世界がいつの日か実現しますか」,「神は本当にわたしたちのことを気遣っておられますか」という冊子です。加えて,「目ざめよ!」誌の二つの号の特集記事に特別な注意が向けられました。「変貌するテロリズム」(2001年5月22日号),および「心的外傷後ストレスに対処する」(2001年8月22日号)です。証人たちは幾度も,聖書の復活の希望を説明しました。(ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15)この慰めの音信は恐らく何百万という人々に伝えられたことでしょう。

      考えさせられるはず

      このニューヨーク市で起きた惨事のような出来事を見聞きすると,わたしたちすべては自分の生き方について考えさせられるはずです。利己的な事柄を追求するだけのために生きているでしょうか。それとも他の人々の幸福に寄与することを行なおうとしているでしょうか。預言者ミカはこう問いかけました。「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」。(ミカ 6:8)慎み深い人は,神の言葉に目を向けます。そうするなら,死者に対する真の希望を見いだし,神が地上に楽園の状態を回復するために間もなく行なわれる事柄を見極めることができます。聖書の約束についてもっと知りたいと思われる方には,お近くのエホバの証人と連絡を取ることをお勧めいたします。―イザヤ 65:17,21-25。啓示 21:1-4。

      [11ページの囲み記事/図版]

      タティアナの祈り

      夫のカルビン・ドーソンを亡くしたリーナは,7歳の娘がささげた祈りについて「目ざめよ!」誌に話してくれました。それは,父親が帰ってこないことをその子が知った数日後のことでした。リーナが祈った後に,タティアナは,「ママ,わたしも祈っていい?」と尋ねました。母親が,いいわよと言うと,タティアナはこう祈りました。「天のお父さん,エホバ。この食事と今日の命をありがとうございます。わたしとママが元気でいられるように,あなたの霊を注いでください。あと,パパにも,帰って来る時に元気なように霊を注いでください。帰って来る時,パパが素敵で,元気で,幸福で,健康でありますように。そして,またわたしたちと会えますように。イエスのお名前を通して……あ,あとママを元気にするのを忘れないでください。アーメン」。

      リーナは,この子は事情を呑み込めているのだろうかと思い,こう言いました。「ティアナ,すばらしいお祈りだったわ。でもね,パパはもう帰って来ないのよ」。たちまちタティアナの顔がショックで曇りました。「帰って来ないの?」「ええ。ママはそう言わなかったかしら。パパが帰って来ないことはあなたも分かっていると思っていたわ」。するとタティアナは,「でも,新しい世で帰って来るっていつも言ってたじゃない!」とこたえました。ようやく娘の祈りの意味を理解したリーナは,こう言いました。「ごめんね,タティアナ。ママは誤解していたわ。パパがあした帰って来るって言っているのかと思ったの」。リーナは,「新しい世が娘にとってそこまで現実のものとなっていることを知って,うれしく思いました」と述べています。

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