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タイトルページ/発行者ページエホバの証人と教育
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タイトルページ/発行者ページ
エホバの証人と教育
この出版物は販売を目的としたものではありません。世界的な聖書教育活動の一環として提供されており,その活動は自発的な寄付によって支えられています。
寄付をしたいと思われる方はdonate.jw.orgをご覧ください。
聖句は,特に注記がない限り,現代語による「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」からの引用です。
2019年5月印刷版
Japanese (ed-J)
© 1995, 2019 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
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目次エホバの証人と教育
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目次
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この冊子の目的エホバの証人と教育
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この冊子の目的
「私は,人間の行動を笑わぬよう,嘆かぬよう,憎まぬよう,ただそれを理解するように努めてきた」。オランダの哲学者スピノザはこのように述べました。教育に携わる方として,受け持っておられる生徒ひとりひとりの考え方,背景,信じている事柄などを理解しようと努めておられることでしょう。生徒の中には,エホバの証人の子供もいることと思います。それらの生徒が,ある事柄について,一般とは違う態度を取ることがあるかもしれません。しかしそれが,明らかにその生徒の持つ宗教的また倫理的信条から出たものである場合,それは,先生方に配慮していただくべきものとなります。この冊子は,エホバの証人である生徒たちについてより深く理解していただくため,ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人の出版団体)によって用意されました。時間を取ってお読みいただけましたら幸いに存じます。
他の人の宗教的信条を理解することは,自分がそれを受け入れるとかそれに従うとかいう意味ではありません。また,それについて人に伝えようとすることは,改宗を促すことではありません。この冊子は,エホバの証人の宗教上の見方を,クラスのほかの生徒を含め他の方たちに押し付けることを目的としたものではありません。私たちの願いはただ,受け持っておられるクラスの中のある生徒が親から教えられている原則や信条について先生方に知っていただき,証人の子供を理解するのも,証人の子供に対応してゆくのも難しくはないことを理解していただくことです。もちろん,子供たちの場合,教えられている事柄と実際に行なっている事柄とは必ずしも一致していないかもしれません。子供たちはおのおの,自分の良心を成長させてゆく過程にあります。
たいていの親がそうであるように,エホバの証人も,自分の子供が学校教育から最善の益を得るようにと願っています。そのために,子供たちには,学校の先生に協力すべきことを教えています。それと共に,エホバの証人の親またその子供たちも,教育に携わる方々が証人たちの考え方を理解し,尊重してくださることに深く感謝いたします。
エホバの証人は世界中で知られているクリスチャンです。ですが,ときに誤解されてもいます。ですから,この冊子を通して,受け持っておられるエホバの証人の子供たちについていっそう理解していただくこと,それが私たちの願いなのです。特に,ある幾つかの状況のもとで,証人の子供がときに他の生徒たちとは違った事柄を願い求める場合に,その理由を知っていただければと思います。
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エホバの証人は教育をどのように見ていますかエホバの証人と教育
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エホバの証人は教育をどのように見ていますか
どの親もそうであるように,エホバの証人も子供の将来に心を配っています。教育の問題に非常な重きを置くのもそのためです。「教育は,人が社会の有用な成員となるよう助けるべきものである。また,人が自分たちの文化的遺産に対する認識を深めて,より満足のゆく生活を送れるよう助けるべきものである」。
ワールドブック百科事典からのこの引用も示唆するとおり,学校教育のおもな目的の一つは,子供たちを日常の生活のために訓練することです。それには,やがて自分の家族の必要を顧みることができるようにすることも含まれます。エホバの証人はこれを聖なる務めと受け止めています。聖書そのものはこう述べています。「当然のことですが,自分に属する人々,ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら,その人は信仰を否認していることになり,信仰のない人より悪い」。(テモテ第一 5:8)学業に費やす年月は,人生においてやがて担う責任のために子供を備えさせます。そのために,証人たちは教育をきわめて真剣に取り組むべきものと考えています。
「教育は,人が社会の有用な成員となるよう助けるべきものである。また,人が自分たちの文化的遺産に対する認識を深めて,より満足のゆく生活を送れるよう助けるべきものである」―ワールドブック百科事典
エホバの証人は,「何をするにも,人に対してではなく,主に対してするように,心から行いなさい」という,聖書の命令にしたがって生きることに努めています。(コロサイ 3:23,「新共同訳」,日本聖書協会)この原則は,学校生活も含め,日々の生活のすべての面に及びます。ですから証人たちは,しっかりと勉強し,学校で与えられる務めにまじめに取り組むよう自分たちの若者たちに説き勧めています。
「何をするにも,人に対してではなく,主に対してするように,心から行いなさい」―コロサイ 3:23,新共同訳
聖書はまた,自分の住む国の法律に服するべきことを教えています。ですから,一定年齢までの教育が義務となっている場合,エホバの証人はその法律に従います。―ローマ 13:1-7。
健全なレクリエーション,音楽,いろいろな趣味,体の運動,図書館や博物館に行くこともみな,平衡の取れた教育のために重要
聖書は,日常の生活を営むための訓練を重視してはいても,それが教育の唯一また第一の目的ではないことも示しています。価値ある教育は,子供の内面に生きる喜びを育み,分別のある個人として社会の中にそれぞれの場を持つよう助けるはずです。ですからエホバの証人は,教室外の活動をどのように選ぶかも非常に大切であるとみなし,健全なレクリエーション,音楽,いろいろな趣味,体の運動,図書館や博物館などに行くことも,平衡の取れた教育のために重要であると考えています。さらに,年長の人たちを敬い,年上の人たちの役に立つ機会を求めるようにということも子供たちに教えています。
補足的な教育についてはどうですか
新技術の発達により,求人市場は絶えず変化しています。結果として,特別に訓練を受けていない分野や職種で仕事に就かなければならない若者も多くいます。そのために,作業の習慣や個人的訓練,とりわけ状況の変化に適応してゆく能力は,若い人たちにとっていよいよ貴重になってゆきます。ですから学生は,ルネッサンス期の随想家モンテーニュが述べたとおり,『よく詰まった頭ではなく,よくできた頭』を持つ大人になることが求められるでしょう。
失業問題は豊かな国でも貧しい国でも社会に影響を与え,十分な資格を持たない若者たちを脅かすこともあります。ですから,求人市場が,法律によって求められる最低限度の訓練以上のものを要求している場合,それによって受け得る益とその付加的学習に伴う犠牲の面とを考量しながら補足的な教育について決定できるよう子供を指導することはそれぞれの親の責任です。
ですが,人生における成功には単なる物質面での豊かさ以上のものがあることに同意されるでしょう。近年,男性でも女性でも,仕事に全生活をかけていた人々が,その職を失ったときに一切のものを失ってしまったことがあります。生活のための仕事に身を費やすあまり,家族の生活また子供たちと過ごす時間を犠牲にし,子供の養育面で機会を逸してしまった親たちもいます。
平衡の取れた教育のためには,人を真に幸福にするものとして物質上の豊かさ以上のものが必要なことを考慮に入れなければならないのは明らかです。イエス・キリストも,「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と述べました。(マタイ 4:4,新共同訳)エホバの証人はクリスチャンとして,自分の物質上の必要を顧みるための備えをしつつ,道徳的また霊的な特質を培うことの大切さを認識しています。
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種々の教育プログラムエホバの証人と教育
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種々の教育プログラム
エホバの証人は世界じゅうで聖書教育の仕事を進めていることで広く知られています。
エホバの証人が聖書教育の活動に力を注いでいるために,証人たちは一般の教育にはあまり関心を持っていないのではないか,と思う方がいるかもしれません。しかし決してそうではありません。人を教えるためには,教える人がまず学ばなければならず,そのためにはそれなりの訓練と知識が必要です。そのため,エホバの証人は,一般の学校教育を十分に活用するとともに,ものみの塔協会の運営する種々の教育プログラムや学校からも多年にわたって益を受けてきました。それらは,知的・道徳的・霊的な面で向上できるよう証人や他の人たちを助けてきました。
例えば,多くの国でエホバの証人は特別の課題に直面してきました。正規の学校教育を受ける機会がほとんどあるいは全くなかったために読み書きができない人たちにどのように教えたらよいか,という点です。この必要にこたえるため,ものみの塔協会は読み書き教育プログラムを進めてきました。
一例としてナイジェリアでは,エホバの証人による読み書き学級が1949年以来運営されてきました。これにより,幾万人ものナイジェリアの人々が読み方を学んできました。ある調査によると,ナイジェリアでは,エホバの証人の識字率は90%を超えていましたが,それ以外の人たちの識字率は50%にも達しませんでした。メキシコでも,1946年以来,読み書き学級が開かれています。ある年には,6,500人余りの人が読み書きを学びました。実際,10万人を優に超える人々がこの助けを通して読み書きができるようになっています。読み書き学級は,長年にわたり,ボリビア,カメルーン,ネパール,ザンビアなど,他の多くの国でも開かれてきました。エホバの証人は,「読み書きに励む」という冊子を100以上の言語で700万部以上発行してきました。
このような読み書き教育プログラムは,それが行なわれている国の教育当局者からも高く評価される場合が少なくありません。例えば,メキシコの政府関係者は手紙でこのように書いています。「皆さまのご協力に感謝いたします。文字を読めない人々に知識の光をもたらす面で,多くの人の益となる皆さまの高潔かつ意欲的な働きに対し,衷心からの祝意を,州政府を代表してお伝えいたします。……皆さまの教育活動の成功をお祈りいたします」。
その他の訓練
生徒たちは人々の前で朗読したり話したりする訓練を受ける
エホバの証人は聖書教育の活動に非常な重きを置くゆえに,聖書の教えを他の人々に説明する能力を向上させることに努めています。例えば,世界の11万9,000を超えるすべての会衆において,生徒たちは人々の前で朗読したり話したりする技術を磨いています。ごく幼い児童でも,文字が読めるようになれば,入校してこの訓練を受けることができ,これは,一般の学校での学習その他の分野においても児童の益になります。教育関係者の中には,証人である生徒たちが概して自分の考えを上手に言い表わす,と述べる人が少なくありません。
本を読むことは証人たちの会衆内で大いに勧められており,それぞれの家庭においても家族のための図書棚を設けて,広い範囲の出版物を備えるように励まされている
加えて,エホバの証人の各会衆は,その王国会館または集会の場所に,聖書研究の手引きや辞書その他の参考書を備えた図書棚を設けるようにしています。この図書棚は王国会館での集会に来る人がだれでも利用できるようになっています。本を読むことは証人たちの会衆内で大いに勧められており,それぞれの家庭においても家族のための図書棚を設けて,子供や大人の必要にかなった広い範囲の出版物を備えるように励まされています。
特別な訓練
ものみの塔協会はほかにも,男女の宣教者を訓練するための学校,また地方ごとの会衆での宣教上の責任を担う男子を訓練する学校も運営しています。これら各種の学校は,エホバの証人が教育を大いに重視していることをさらに示すものです。
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宗教的多様性の課題エホバの証人と教育
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宗教的多様性の課題
教育に携わる方のひとりとして,過去の世紀の教育家がほとんど直面することのなかった,宗教的多様性の課題に面しておられることでしょう。
中世全般に言えることとして,一つの国の市民はおおむね同じ宗教を奉じていました。ヨーロッパについて見ると,19世紀の終わりになっても,西にカトリックとプロテスタント,東に東方正教会とイスラム教,そしてユダヤ教など,幾つかの主だった宗教が知られているだけでした。今日この面での多様性は,ヨーロッパで,また世界の至るところでずっと一般的に見られます。その土地で以前には知られていなかった宗教が,生まれつきの住民の一部が受け入れる,あるいは移民や難民が持ち込むというかたちで,新たに根づいています。
ですから今日,アメリカ,イギリス,オーストラリア,ドイツ,フランスなどにも,イスラム教徒,仏教徒,ヒンズー教徒がおおぜい見られます。また,クリスチャンであるエホバの証人は,239の国や地域で活動的な奉仕を行なっています。活動しているエホバの証人の数が15万人を超える国が世界に14あります。―「エホバの証人 世界的な宗教」という囲み記事をご覧ください。
同一地域での宗教的慣行の多様性は,教育に従事する人々にとってときに難しい課題となります。例えば,一般的に行なわれる祝祭に関して,次の重要な疑問の提起されることがあります。つまり,どんなしきたりも,各人の宗教にかかわりなく,すべての生徒に同じように課してよいでしょうか。大多数の人がその祝い事に何のこだわりも感じないとしても,少数派のグループに属する人々の見方も尊重されるべきではないでしょうか。そして,考えるべきもう一つの面があります。つまり,法律で国家と宗教の分離を定め,宗教を教育内容に含めないことにしている国においては,その種の祝い事を学校で義務的に行なうことに矛盾を感じる人がいるのではないでしょうか。
誕生日
宗教に関連があるにしてもその度合いはごく少ないとみなされる祝い事についても,理解の不足による誤解の生じる場合があります。多くの学校で行なわれている誕生日の祝いについて,このことが言えます。エホバの証人は誕生日を祝う他の人たちの権利を尊重しますが,証人たち自身はこの祝い事に加わらないことをよく知っておられることでしょう。それでも,エホバの証人とその子供たちがこの祝い事に加わらない理由をご存じではないかもしれません。
フランスで広く頒布されている事典,ル・リーブル・デ・レリジョーン(「宗教の本」)はこの慣習を一つの儀式と呼んで,「非宗教的式典」の中に挙げています。誕生日の祝いは今日,害のない非宗教的慣習のようにみなされていますが,実際には,キリスト教ではない宗教に由来があります。
アメリカーナ百科事典(1991年版)はこう述べています。「エジプト,ギリシャ,ローマ,ペルシャなどの古代世界では,神々や王や貴人の誕生日を祝った」。ラルフ・リントンとアデリン・リントンは共著「誕生日に関する伝承」の中で,このことの背景となる理由を明らかにして,こう書いています。「文明のゆりかごとされるメソポタミアとエジプトは,人が自分の誕生の日を記念してそれを重んじる点でも最初の土地であった。古代において誕生日を記録しておくのは重要なことであったが,それはおもに,誕生の日付が天宮図<ホロスコープ>による占いにおいてかぎとなったからである」。このような占星術との直接のかかわりは,占星術について聖書の述べている事柄のゆえにそれを避けようとする人々がためらう点の一つです。―イザヤ 47:13-15。
ですから,ワールドブック百科事典の中に,「初期のクリスチャンはいかなる人の誕生日を祝うことも異教に由来する習慣とみなし,[キリストの]降誕さえ祝わなかった」とあるのも驚くにはあたりません。―第3巻,416ページ。
証人たちは人々と楽しく過ごす
以上の点に留意して,エホバの証人は誕生日の祭り事には加わらないことにしています。言うまでもなく,子供の誕生は喜ばしく,栄えある事柄です。当然ながら,親はみな,子供が年々育ち,成長してゆくのを見て喜びを抱きます。エホバの証人も,贈り物をしたり共に楽しく過ごしたりして,自分の家族や友人に愛を表わすことに大きな喜びを感じます。とはいえ,誕生日の祝いの由来を考えて,証人たちはむしろ,一年を通じて他の時にそのような楽しみを持つようにします。―ルカ 15:22-25。使徒 20:35。
クリスマス
クリスマスは全世界で,キリスト教ではない多くの国においてさえ祝われています。この祝日はキリスト教国のおおかたの教派によって受け入れられているために,エホバの証人がこれを祝わないことをむしろ不思議に思われるかもしれません。証人たちがこれを行なわないのはなぜでしょうか。
多くの百科事典類がはっきり述べるとおり,イエスの誕生した日付は,単に異教ローマの祝祭と合わせるために12月25日と定められました。幾つかの参考資料に明言されている以下のことをご覧ください。
「キリスト誕生の日付は知られていない。福音書はその日もその月も示していない」―新カトリック百科事典,第3巻,656ページ。
「ローマのサトゥルヌスの祭りがクリスマス時期の華やいだ習慣ほとんどすべての原型となった」―「宗教・倫理の百科事典」
「今日ヨーロッパで広く行なわれている,また昔から伝えられてきたクリスマスの習慣のほとんどは,純粋にキリスト教の習慣ではなく,教会によって採り入れられ,もしくは認容された異教の習慣である。……ローマのサトゥルヌスの祭りがクリスマス時期の華やいだ習慣ほとんどすべての原型となった」―「宗教・倫理の百科事典」(エディンバラ,1910年),ジェームズ・ヘースティングズ編,第3巻,608,609ページ。
「クリスマスは4世紀以来すべてのキリスト教会において12月25日に祝われてきた。その当時,これは異教の冬至祭りの日で,『太陽の誕生(ラテン語,ナーターレ)』と呼ばれるものであった。日が再び長くなりはじめて太陽があらためて誕生したかのように思えたからである。ローマの教会はこのごく一般的な風習を採り入れて……それに新たな意味を付したのである」―ユニベルサリ百科事典(フランス語),1968年,第19巻,1375ページ。
「クリスマスの祝祭は,ソール・インウィクトゥス(ミトラ)のための異教の種々の祝いに対応するものとして発展した。また,12月25日は冬至にあたるので,キリストによって世界に到来した光と同一視され,こうしてソール・インウィクトゥスの象徴性がキリストに移し換えられた」―ブロックハウス百科事典(ドイツ語),第20巻,125ページ。
クリスマスについての事実を知った時,ある人々はどのように行動したでしょうか。ブリタニカ百科事典はこう述べています。「1644年に英国の清教徒<ピューリタン>は,それ[クリスマス]が異教の祝祭であるという理由により,議会令によっていっさいの歓楽と宗教儀式とを禁じ,それを断食の日として守るように命じた。チャールズ2世はその祝典を再興させたが,スコットランド人はピューリタンの見方を守った」。初期のクリスチャンはクリスマスを祝いませんでしたが,エホバの証人も今日それを祝わず,またクリスマスと結びつきのある活動に参加しません。
しかし聖書は,他のいろいろな機会に贈り物をしたり,家族や友人を楽しい食事に招いたりすることについては,それを勧めています。そして,単に社交的に期待されているから贈り物をするのではなく,真に寛大な気持ちを抱くよう子供を訓練することを親たちに促しています。(マタイ 6:2,3)エホバの証人の子供たちは,寛容な気持ちと他の人への敬意を抱くように教えられており,これには,クリスマスを祝う他の人の権利を認めることも含まれています。それと共に,クリスマスの祝い事には加わらないという自分たちの立場が尊重されるなら,そのことに感謝します。
他の祝い事
エホバの証人は,それぞれの国で学校の年間行事として行なわれる他の宗教的もしくは半宗教的な祝い事に対しても同様の見方をします。その中には,例えば,アメリカのハロウィーン,ドイツのカーニバル,ブラジルの6月の祭り,フランスの公現祭<エピファニー>,そして日本では節分などがあります。これら,またここに挙げられていないどの祝祭についてでも,もし何かご質問をお持ちなら,エホバの証人の親またその子供たちはきっと喜んでお答えすることでしょう。
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無視できない道徳的価値観エホバの証人と教育
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エホバの証人は子供たちにクリスチャンとしての真の価値観を持たせることに努めている
無視できない道徳的価値観
いつの時代にも,その時代の通念とされたものに立ち向かった勇気ある男女がいました。ある人々は,政治的,宗教的,また人種的圧制に耐え,自分の大義のために命をなげうつことさえありました。
初期のクリスチャンはとりわけ勇敢でした。最初の3世紀の厳しい迫害の間,皇帝を崇拝することを拒んで異教徒のローマ人の手で死に処せられた人も少なくありませんでした。闘技場の中に祭壇がしつらえられることさえありました。自由を得るために,クリスチャンは皇帝の神性を認めてただ一つまみの香をたきさえすればよかったのです。それでも,妥協する人はほとんどいませんでした。大多数は,自分の信仰を放棄するよりむしろ死を選んだのです。
現代において,クリスチャンであるエホバの証人は,政治上の中立を保つことに関してこれと同様の立場を取ります。例えば,ナチズムに対する証人たちの確固たる態度は歴史の事実として確立されています。第二次世界大戦前と大戦中に,ドイツのエホバの証人の約4分の1が,おもに強制収容所で命を失いました。それは,証人たちが中立の立場を守り,「ハイル・ヒトラー」と唱えることを拒んだためです。幼い子供たちは無理やりエホバの証人である親から引き離されましたが,それでも強圧に屈することなく確固たる態度を守り,他の人々が強制しようとした聖書に反する教えによって自分の節義を曲げたりはしませんでした。
国旗敬礼
エホバの証人は今日,全体的にはこのような厳しい迫害にさらされてはいません。それでも,年少の証人たちが,良心上の理由で国旗敬礼など愛国主義的な儀式に参加しないことに関して誤解の生じる場合がときにあります。
「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」―マタイ 22:21
エホバの証人の子供たちは,他の人たちが国旗に敬礼するのを妨げたりはしないように教えられています。敬礼するかどうかは各人が決定すべきことだからです。ですが,証人たち自身の立場はしっかり定まっています。つまり,いかなる国の国旗も敬礼しないのです。これは決して,不敬な態度を示すことを意図したものではありません。証人たちはどこに住んでいようとも,その国の国旗に確かに敬意を払い,その国の法律に従うことによってその敬意を示します。証人たちはいかなる反政府活動にも決して加わりません。事実,証人たちは,人の立てた今日の世界の諸政府が「神の取り決め」によるものであり,神がその存在を許しておられることを信じています。ですから証人たちは,税金を払い,そのような「上位の権威」に敬意を払うように,との神の命令に服すべきであると考えています。(ローマ 13:1-7)これは,「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と述べたキリストの有名な言葉にそうものです。―マタイ 22:21。
『では,なぜエホバの証人は敬礼をして国旗に敬意を示さないのか』と言われる方がおられるかもしれません。それは,国旗への敬礼を崇拝の行為とみなし,崇拝はただ神に対してなされるべきものと考えているからです。証人たちは良心上,神以外のだれに対しても,また何に対しても崇拝をささげることができません。(マタイ 4:10。使徒 5:29)ですから,教育に携わる方々がこの信念を認めて,証人たちの子供が自分の信条にしたがって行動することを受け入れてくださるなら,エホバの証人はそのことに深く感謝いたします。
注目できる点として,国旗敬礼が崇拝と結びついていると考えているのはエホバの証人だけではありません。次の言葉がそれを示しています。
「初期の国旗は,ほとんど全く宗教的な性質のものであった。……国旗に神聖さを付与するために宗教の助けが常に願い求められていたように思われる」(太字は本誌)―ブリタニカ百科事典。
「国旗は十字架と同様に神聖なものである。……国家の旗章に対する人の心構えにちなむ規則や規定には,『国旗に対する礼拝』,......『国旗への崇敬』,『国旗に対する献身』などといった強調的で表現力のある語句が用いられている」(太字は本誌)―アメリカーナ百科事典。
「クリスチャンは……[ローマ]皇帝の守護霊に犠牲をささげることを拒んだ。― それは,今日で言えば,国旗への敬礼や忠誠の誓いの復唱を拒むことに相当する行為である」―ダニエル・P・マニックス著,「まさに死のうとしている人々」(1958年),135ページ。
ヘブライ人の3人の青年はバビロニアの王ネブカドネザルが立てた像にひれ伏すことを拒んだ
もう一度述べますと,エホバの証人は,国旗への敬礼を拒むからといって,それによっていずれかの政府やその指導者への不敬を表わそうとするのではありません。ただ,国家を表象する画像や彫像にひれ伏したり敬礼したりする崇拝の行為をしない,というだけなのです。これを,聖書の時代にバビロニアの王ネブカドネザルがドラの平野に立てた像にひれ伏さなかった3人のヘブライ人の青年たちの態度と同じものと見るのです。(ダニエル 3章)ですから,他の生徒が敬礼し,あるいは忠誠の誓いをするとしても,エホバの証人の子供は,そのような場合に聖書によって訓練された良心に従うように教えられており,静かに,そして敬意を保った態度で,それに参加することを控えます。これと同様の理由で,エホバの証人の子供たちは,国歌の斉唱や演奏の際,それへの参加を控えます。
親の権利
近年,たいていの国では,自分の信念にしたがって子供に宗教的教導を与える親の権利が尊重されています。カトリック教会で今日でも施行されている次の教会法にも見られるとおり,大方の教派がこの権利を支持しています。「子供に生命を付与した者として,親は,これを教育するきわめて厳格な義務のもとにあり,またそれを行なう権利も有している。それゆえ親は,自分の子供に,教会の教理にそってキリスト教の教育を施す主要な務めを負う」―カノン(教会法),226。
子供たちは他の人たちに関心を払うように教えられている
エホバの証人はこれ以上の何をも求めてはいません。子供を顧みる親として,真にクリスチャン的な価値観を自分の子供たちに持たせ,隣人への愛と他の人々の資産に対する敬意とを教え諭すことに努めているのです。使徒パウロはエフェソスのクリスチャンに,「父親たち,子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように,育てなさい」と述べましたが,証人たちはこの助言に従おうとしているのです。―エフェソス 6:4,「新共同訳」,日本聖書協会。
宗教的に分かれた家庭
一方の親だけがエホバの証人である家庭もあります。そのような場合,証人となっている親は,自分の宗教上の信念にそって子供を教え導く権利が証人でないほうの親にもあることを認めるよう促されています。いろいろな宗教上の見方に接することは,子供にマイナスの影響となる場合がたとえあるとしても,それはわずかです。a 実際のところ,どんな子供も,自分の受け入れる宗教を決めなければなりません。当然のことながら,親がエホバの証人であってもなくても,すべての若者が親の奉じる宗教上の原則にそのまま従うわけではありません。
良心上の自由に対する子供の権利
もう一つ知っていただきたい点として,エホバの証人は,クリスチャンとして各人が持つ良心を重視します。(ローマ 14章)1989年の国際連合総会で採択された「子供の権利条約」は,「思想,良心および宗教の自由」に対する子供の権利,および自由に自己の意見を表明し,その児童に影響を及ぼすすべての事項や手続きにおいてそれを考慮される権利を認めています。
どんな子供も他の子供と全く同じではありません。ですから,学校でのある活動また課業に関して年少のエホバの証人や他の生徒の下す判断に多少の違いがあるとしても,それは当然あり得べきこととして受け止められることでしょう。そしてさらに,良心の自由の原則も支持してくださるものと確信しています。
a 異教派間の結婚から生まれた子供について,スティーブン・カー・ルーベン博士は,自著「異種併存の世界でユダヤ教の子供を育てる」の中でこう書いています。「親が,宗教上の問題点に関して,否認,不統一,秘密,回避の生活を送ると,子供は混乱させられる。親が自分の信条,価値観,祝祭のやり方などに関して率直,正直,明快であると,子供は,信教上の問題において,それなりの安心感や自尊心を身に着けて育ち,それは,全体的な自己認識を形成し,社会における自己の役割を知る上で非常に重要である」。
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親の役割エホバの証人と教育
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親の役割
今日の社会において,子供を均衡の取れた大人に育て上げることは,確かに決してやさしい仕事ではありません。
米国立精神衛生研究所は,子育てに成功したとみなされる親たちに関する調査の結果を公表しました。それは,その子供が21歳以上で,「子供たちがそれぞれ社会に順応した生産的な大人となっている」親たちです。『あなた自身の経験から他の親たちに与える最良の助言は何ですか』という問いが,これらの親たちになされました。特に多かったのは次の答えでした。『あふれるほどに愛する』,『組織的にしつける』,『いっしょに時を過ごす』,『子供に善悪の区別をはっきり教える』,『互いへの敬意を培う』,『子供の言うことに本気で耳を傾ける』,『説教よりも指針を与える』,『現実をよく見る』。
よく整えられた安定した青少年を育てる面で教育者は重要な役割を果たす
しかし,よく整えられた安定した青少年を育てることに取り組むのは親だけではありません。教育関係者の方々もこの点では重要な役割を果たしています。経験豊かな教育問題カウンセラーはこう述べています。「正規の教育の主な目的は,知的,身体的,感情的に十分成長した,責任能力のある青少年を育て上げる点で親を支援することである」。
ですから,親と教育関係者とは目標を共にしています。その目標は,生きることを楽しみ,自分の生きる社会で持ち場を見つけることのできる,釣り合いの取れた,円熟した大人に成長するよう若者を育ててゆくことです。
張り合うのではなく,共に働く関係
親が教育関係者と協力しないと問題が生じます。例えば,自分の子供の教育に全く無関心な親たちがいます。一方では,学校の先生と張り合うような親もいます。こうした状況についてフランスの一刊行物はこう述べました。「教師はもはや唯一の船長ではなくなっている。親たちが自分の子供の成績を気にかけるあまり,教科書を調べ上げ,教え方を評価したり批判したりし,自分の子が悪い成績を取るとすぐさま反応してくる」。このような行動は教育担当者の権限を侵すものともなり得ます。
エホバの証人は,親が教育関係者と協力し,自分の子供の教育に積極的で建設的な関心を持つほうが,子供も教育を受けやすいと考えている
エホバの証人は,親が教育関係者と協力し,自分の子供の教育に積極的で建設的な関心を持つほうが,子供も教育を受けやすいと考えています。そして,教育に当たる方たちの仕事がいよいよ難しいものとなっているゆえに,このような協力はいま特に大切である,と考えています。
今日の学校の問題
学校も社会の一部として,社会全般のかかえる種々の問題から保護されているわけではありません。ここ幾年かの間に社会のかかえる問題は急速に増大しました。米国のある学校の状態について,ニューヨーク・タイムズ紙はこう伝えました。「学生たちは教室で眠り,落書きだらけの廊下で脅し合い,まじめな生徒をあざける。……ほとんどすべての学生が,赤子の世話とか,刑務所に入れられてしまった親の面倒,ギャング同士の果たし合いなどの問題にかかわっている。どの日も生徒のほぼ5分の1は欠席している」。
とりわけ気がかりなのは,多くの国で広がっている校内暴力の問題です。ときたまのけんか,それも突いたり押したりする程度であったものが,ほとんど日常的な銃や刃物による傷害行為になっています。凶器の持ち歩きは普通になり,襲撃は凶暴化し,子供たちは容易に暴力に訴え,その年齢も低くなっています。
言うまでもなく,すべての国がこれほど暗い現実を抱えているわけではありません。それでも,世界の多くの教育関係者は,フランスの週刊誌「ル・ポワン」が,「教師はもはや尊敬の対象とみなされていない。権威を失っている」と述べる状況に直面しています。
多くの時間を子供といっしょに過ごす親はうまくゆく
権威を侮るこのような傾向はどの子供にも現実の危険をかもします。ですから,エホバの証人は,今日の学校生活で失われていることの多い,権威に対する従順や敬意を子供たちの内に育むことに努めています。
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まとめエホバの証人と教育
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まとめ
エホバの証人の抱く宗教的信条について十分に取り上げることはこの冊子の範囲を超えています。ここではむしろ,エホバの証人が信じている原則の幾つかを説明し,受け持っておられる生徒の親の一方または双方がエホバの証人である場合に,その家庭でどのような訓育がなされているかについて,幾つかの例を示すことに努めました。
エホバの証人は,子供の霊的な成長を重視しています。そして,これが子供の他の面での成長をも促すことを確信しています。証人たちが抱く信条,また守る原則は,その生活に,生きる意味を与え,日常の諸問題と取り組む助けともなっています。さらに,それらの信条や原則は,意欲ある生徒となり,生涯を通じて善良な市民となるための努力を促すはずです。
エホバの証人は,生きることについて現実に即した見方をすることに努めており,そのためにも教育を非常に大切なものと見ています。ですから,自分たちに可能な限り先生方と力を合わせようとしています。証人たちはこれからも,家庭において,また世界中の証人たちの崇拝の場において,自分たちの子供が,この実りある協調の関係において自分の役割を果たすように教えつづけてまいります。
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