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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
塔93 11/15 8–11ページ

妥協することなど考えもしない

エホバのみ手はイエス・キリストの初期の追随者たちと共にありました。(使徒 11:21)彼らは神の助けによって,妥協することなく廉直な生き方を追い求めました。彼らが敵意を向けられたり,時には激しい迫害に遭ったりしたことは,よく知られた歴史の事実です。

キリストの初期の忠実な追随者たちの忠誠は有名です。たとえ命を犠牲にしても,信仰を曲げようとはしませんでした。しかし,なぜ彼らはそれほど残酷に扱われたのでしょうか。

いわれのない憎しみ

イエスと同様に,真のクリスチャンはこの世の野心や信条に和しません。(ヨハネ第一 4:4-6)さらに,キリスト教の成長が「あまりに急速で,あまりに目ざましい成功を見たため,[ローマ皇帝の権力との間の]激しい衝突は避けられなかった」と,歴史家エドモン・ドゥ・プレソンセは書いています。

イエスは預言的な意味を含んだ詩編をご自分に当てはめて,「彼らはいわれなくわたしを憎んだ」と言われたことがあります。(ヨハネ 15:25。詩編 69:4)イエスは弟子たちにこう言われる前に,『奴隷はその主人より偉くはありません。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう』と警告を与えておられました。(ヨハネ 15:20)イエスの足跡に従うのは容易なことではありませんでした。一つには,ユダヤ人の宗教指導者たちがイエスのユダヤ人の弟子たちを,ユダヤ教からの背教者のように扱ったからです。それでも追随者たちは,イエスについて二度と語らないよう要求されたとき,それに従うことを拒み,信仰を曲げませんでした。―使徒 4:17-20; 5:27-32。

西暦33年のペンテコステのすぐ後,弟子ステファノはユダヤ人のサンヘドリンで証言した際,「モーセと神に対して冒とくのことばを語(った)」として非難されました。極めて良識に欠けた告発だったにもかかわらず,ステファノは石打ちにされて殺されました。その結果,「エルサレムにあった会衆に対して激しい迫害が起こ(りました)」。そして,「使徒たちのほかは皆,ユダヤ,サマリア地方全域に散らされ(ました)」。(使徒 6:11,13; 8:1)投獄された人も少なくありませんでした。

ユダヤ人はイエスの追随者たちを「執念深く」追い回した,と「キリスト教とローマ帝国」という本は述べています。ローマ政府はしばしば,クリスチャンを保護するための行動に出なければならないほどでした。例えば,ローマの兵士は,何としても使徒パウロを殺害しようとしていたユダヤ人からパウロを救出しました。(使徒 21:26-36)しかし,クリスチャンとローマ人との関係は依然としてぎくしゃくしていました。

ローマは迫害の激しさを増す

ステファノの死の約9年後,ローマの支配者ヘロデ・アグリッパ1世は,ユダヤ人の機嫌を取るため使徒ヤコブを殺しました。(使徒 12:1-3)そのころには,キリストに対する信仰はローマに広まっていました。(使徒 2:10)西暦64年,ローマ市のかなりの部分が火事で倒壊してしまいました。大火の責任はネロにあるといううわさを鎮めようとして,ネロが火災をクリスチャンのせいにしたため,その後クリスチャンに対するものすごい迫害が始まりました。ネロは,自分の名前にちなんだネロポリスという,もっと壮大な都市を再建するための口実として都市に火を付けたのでしょうか。それとも,ユダヤ教への改宗者で,クリスチャンに反感を持っていたことで知られている女帝ポッパエアに影響されてクリスチャンを非難することにしたのでしょうか。研究者たちにも確かなことは分かりません。しかし,恐ろしい影響が及びました。

ローマの歴史家タキツスはこう述べています。「死には嘲笑が付き物だった。[クリスチャンは]獣の皮を着せられて犬にかみ裂かれたり,十字架に釘づけにされたり,燃料にされ,日が沈むとともしびの代わりに」,皇帝の庭を照らす人間たいまつにされたりしました。クリスチャンの味方ではなかったタキツスは,さらにこう述べています。「彼らは有罪で,見せしめとしての処罰に値したとはいえ,公共の福祉のためにではなく,一人の男[ネロ]の残虐さのために殺されたため,同情をさそった」。

はっきりとした対照

ローマを破壊したと言ってクリスチャンを責めることにより,ネロの思惑どおりになったとはいえ,ネロはクリスチャンを禁令のもとに置いたり,キリスト教を国内で禁止したりはしませんでした。では,なぜローマ人は迫害に同調したのでしょうか。「少人数のクリスチャン社会の信心深さと礼儀正しさが,快楽に狂った異教の世界を悩ませていた」からだと,歴史家ウィル・デュラントは述べています。キリスト教と,血生臭いローマの剣闘士の競技とは,あまりにもかけ離れていました。ローマ人がクリスチャンをローマから追い払い,自分たちの良心の呵責を静めるチャンスを逃すはずがありませんでした。

ローマは無敵の世界強国に見えました。ローマ人は,自分たちの軍事力が優れている理由の一つは,すべての神々を崇拝しているためであると考えていました。ですから,クリスチャンの一神教の排他性について,また皇帝崇拝を含め,他のすべての神を拒絶する態度について理解することに困難を覚えたのです。ローマがキリスト教を,帝国の土台そのものを揺るがす影響力とみなしたのも不思議ではありません。

証しをする代償

西暦1世紀の終わりごろ,使徒ヨハネは「神について語り,イエスについて証ししたために」パトモス島に流刑にされました。(啓示 1:9)ローマ皇帝ドミティアヌスがそうさせたものと考えられています。しかし,イエスの追随者たちに圧力がかけられたにもかかわらず,2世紀になるころまでには,キリスト教はローマ帝国全域に広まっていました。どうしてそのようなことが生じ得たのでしょうか。「初期教会の歴史」という本は,キリスト教は「宣教活動によって結び合わされていた」と述べています。ヨハネと同様に,迫害を受けた初期クリスチャンは信仰を曲げることなく,熱心にたゆまず神について語り,イエスについて証ししました。―使徒 20:20,21。テモテ第二 4:2。

皇帝トラヤヌスがプリニウスをビチニア(現在のトルコ北西部)の総督に任じた2年後の西暦112年までには,クリスチャンに対する迫害は新たな局面を迎えていました。そこでは,それまでの行政の怠慢のため,秩序が乱れていました。神殿はほとんど荒れ果ててしまい,犠牲にする動物のための飼い葉の売り上げはかなり落ち込みました。商人たちは,キリスト教の崇拝が簡素なのがいけないと非難しました。クリスチャンは動物の犠牲も偶像も用いないからです。

プリニウスは異教の崇拝の復興に力を入れましたが,クリスチャンは皇帝の像の前でぶどう酒や香をささげることを命がけで拒みました。やがてローマ当局は,クリスチャンは「高潔な人々であるが,昔の宗教的な伝統に対しては不可解なほど敵対的である」ことを認めたと,ヘンリー・チャドウィック教授は述べます。クリスチャンであることは依然として死に値する罪ではありましたが,イエスの真の追随者たちは妥協することなど考えもしませんでした。

憎しみは,「改宗によって異教の家庭内に生じるいらだち」の結果でもあったと,W・M・ラムジ教授は述べています。「異教の神々を認めることになるという理由で,近所の人が最も普通の慣習に従えなくなると,社会生活は非常に困難なものとなった」とJ・W・C・ウォンド博士は語っています。多くの人が初期クリスチャンのことを,人類を憎む人たちとか,無神論者などとみなしていたのも不思議ではありません。

増加してますます迫害される

使徒ヨハネに教えられたと言われているポリュカルポスは,スミルナ市(現在のイズミル)の長老として尊敬を集めていました。西暦155年,ポリュカルポスは信仰のゆえに杭に掛けられ火あぶりにされました。ローマの属州総督スタティウス・クワドラトスは大勢の人々を集めました。競技場は,神々の崇拝をやめるよう勧めたとして86歳のポリュカルポスを軽べつする敵意に満ちた異教徒と,大安息日であるにもかかわらず薪を集めることをいとわなかった熱狂的なユダヤ人で埋め尽くされました。

その後,激しい迫害の波はローマ世界全域のクリスチャンに押し寄せました。皇帝マルクス・アウレリウスのもとで,クリスチャンの血はさらに大量に流されました。ローマ市民であれば剣で殺され,そうでなければ円形劇場で野獣によって殺されました。罪状は何だったのでしょうか。信仰を曲げたり否認したりしないクリスチャンであるというだけでした。

現在のフランスの都市リヨンは,元はルグドゥヌムというローマ時代の植民市でした。そこは行政の中心地で,ローマとライン川の間に置かれた唯一の要塞でした。西暦177年までには,そこに強力なクリスチャン社会ができ,異教徒の市民たちは彼らに激しく反対しました。まず,クリスチャンは公共の場所から締め出されました。暴徒が暴れ回り,その後あまりの迫害にクリスチャンはあえて家から出ようとしませんでした。ローマの総督は,クリスチャンを捜し出して殺すようにという命令を出しました。

報い

イエスの使徒たちが死んで,彼らが及ぼしていた抑制力が薄れてゆくと,クリスチャンと称する人々の間で背教が生じるようになりました。(テサロニケ第二 2:7)西暦4世紀の終わりには,背教したキリスト教が国教になりました。このキリスト教はすでに腐敗していて,容易に妥協し,世と結びついていました。それは,イエスと初期の弟子たちが決して行なわなかったことです。(ヨハネ 17:16)しかし,聖書の正典はそれよりずっと以前に完成されていました。そこにはクリスチャンの信仰が記録されています。

多数の初期クリスチャンの苦難と死は無駄に終わったのでしょうか。決してそのようなことはありません。彼らは信仰を曲げようなどと考えることなく,『忠実であることを死に至るまでも示し,命の冠を与えられました』。(啓示 2:10)エホバの僕は今なお迫害を受けていますが,初期の仲間の信者の信仰と忠誠は今でも大きな励みとなっています。ですから,現代のクリスチャンも妥協することなど考えもしないのです。

[8,9ページの図版]

ネロ

帝政時代のローマの模型

皇帝崇拝に用いられた祭壇

[クレジット]

ネロ: The British Museumの厚意による

ローマのMuseo della Civiltà Romana

[10ページの図版]

マルクス・アウレリウス

[クレジット]

The Bettmann Archive

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