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  • 現代の崇拝において音楽の占める位置
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1997
塔97 2/1 24–28ページ

現代の崇拝において音楽の占める位置

歌は神の賜物です。声を出して歌うなら,自分も楽しめますし,創造者にも楽しんでいただけます。歌うことによって,わたしたちは自分の感情を,悲しみも喜びも表現できます。そればかりか,歌の創始者エホバに対する愛や崇敬や賛美を声に出して表わすことができます。

聖書が音楽に触れている箇所は300ほどに上りますが,そのほとんどは,エホバの崇拝と関連しています。歌はまた,喜びと結びつけられています。歌う人にとって喜びとなるだけでなく,エホバにとっても喜びとなるのです。詩編作者はこう記しました。「神に調べを奏でよ。エホバはその民を楽しんでおられるからである」― 詩編 149:3,4。

では,現代の崇拝において歌はどれほど重要でしょうか。今日のエホバの民は声を出して歌うことにより,どのようにエホバに楽しんでいただくことができますか。真の崇拝において,音楽はどんな位置を占めるべきでしょうか。これらの質問に答える上で助けになるのは,崇拝における音楽の歴史をよく調べることです。

歴史上,崇拝において音楽が占めてきた位置

聖書の中で音楽のことが初めて述べられている箇所は,エホバの崇拝と関連して特記されているところ,というわけではありません。創世記 4章21節でユバルは,最初の楽器を発明したか,あるいは何らかの音楽関係の職業を始めた可能性のある人物とされています。とはいえ,人間が創造される前から,音楽はエホバの崇拝の一部でした。幾つかの聖書翻訳は,み使いたちが歌っているところを描いています。ヨブ 38章7節は,み使いたちが喜びにあふれて叫び,「称賛の叫びを上げ(た)」と述べています。このように,人類が登場するずっと以前からエホバに対する崇拝において歌が歌われていた,と考えられる聖書的な根拠があるのです。

一部の歴史家は,古代ヘブライ人の音楽は旋律だけで,和声(ハーモニー)はなかったと主張してきました。しかし,聖書中で際立って言及の多い楽器,たて琴は,同時に二つ以上の音を出すことができました。たて琴奏者は,この楽器の奏でる音を組み合わせると和声が生まれることに気づいていたに違いありません。ヘブライ人の音楽は幼稚なものであるどころか,疑いなく,極めて高度なものでした。さらに,ヘブライ語聖書中の韻文や散文からして,イスラエル人の音楽は質の高いものだったと言うことができます。確かに,その音楽を生み出した力は近隣諸国のそれよりもはるかに高尚なものでした。

古代の神殿の組織は,神殿での崇拝において器楽編成と声楽を複雑に組み合わせることができるようになっていました。(歴代第二 29:27,28)「指揮者」,「専門家」,「学ぶ者」,「歌うたいたちの頭」などがいたのです。(歴代第一 15:21; 25:7,8。ネヘミヤ 12:46)歴史家のクルト・ザックスは,彼らの高度な音楽的技能についてこう論じています。「エルサレムの神殿に関連した合唱団と楽団は,音楽教育と技能と知識の水準が高いものだったことを示唆している。……その古代の音楽がどのように聞こえたのかは分からないが,その音楽に力,威厳,支配力などがあったことを示す証拠は十分にそろっているのである」。(「東西古代音楽の発生」,1943年,48,101,102ページ)「ソロモンの歌」は,ヘブライ人の詩の創造性や質の高さを示すよい例です。これは,歌の形でつづられた物語で,オペラのリブレット,つまりせりふに似ています。この歌はヘブライ語本文の中で,「歌(複数)の歌」,つまり,最も卓越した歌と呼ばれています。古代ヘブライ人にとって,歌を歌うことは崇拝の不可欠な要素でした。エホバを賛美するとき,歌によって積極的に感情を表現することができました。

1世紀のクリスチャンによる歌

初期クリスチャンの間でも,音楽は引きつづき崇拝の一部とされ,常に用いられました。霊感のもとに記された詩編のほかに,彼らは崇拝のための独自の曲や歌詞を作ったものと思われ,現代のクリスチャンが用いる歌の作詞作曲の先例を作りました。(エフェソス 5:19)ウォルドー・セルデン・プラットの著わした「音楽史」という本にはこう説明されています。「公私の崇拝において歌を歌うのは,初期クリスチャンにとって当然のことであった。また,ユダヤ人改宗者にとっては,会堂での習慣を継続することにほかならなかった。……ヘブライ語聖書の詩編に加え,……この新たな宗教は,絶えず新たな賛美歌を作り出す傾向があった。初めそれらは,ラプソディーの形式をとっていたようだ」。a

歌を歌うことの価値を際立たせているのは,イエスが主の晩さんを制定されたとき,イエスと使徒たちが歌を歌ったという事実です。その歌は恐らくハレルでした。(マタイ 26:26-30)ハレルは,詩編に記録されているエホバに対する賛美の歌で,過ぎ越しの祝いに関連して歌われました。―詩編 113-118編。

偽りの崇拝の影響

いわゆる暗黒時代が訪れるころには,宗教音楽は陰気な詠唱になっていました。西暦200年ごろ,アレクサンドリアのクレメンスは,「我々が必要としているのは一つのもの,すなわち,崇敬を表わす穏やかな歌詞だけである。たて琴や太鼓や笛やラッパは要らない」と語りました。制限が加えられ,教会音楽は声楽に限られました。この形式は,詠唱,もしくは単旋聖歌として知られるようになりました。「音楽の遺産」という本はこう述べています。「コンスタンティノープルの設立から40年もたたないうちに,ラオデキア会議(紀元367年)は,礼拝式に楽器が加わることも,会衆が加わることをも禁じた。正教会の音楽は,もっぱら声楽だけになった」。(下線は本誌。)これらの制限は,何ら初期のキリスト教に根拠を持つものではありませんでした。

暗黒時代には,聖書は一般の人々には閉ざされた本でした。あえて聖書を所有したり読んだりしたクリスチャンは迫害され,場合によっては殺害されることもありました。ですから,この暗黒時代に,神に対する賛美を歌うという習慣が一般に見られなくなったのも不思議ではありません。一般の人々は聖書に接する機会がなかったのですから,聖書全巻の10分の1が歌で占められていることなど,どうして知り得たでしょうか。神がご自分の崇拝者に,「エホバに新しい歌を,忠節な者たちの会衆でその賛美を歌え」と命じておられることを,だれが教えてくれたでしょうか。―詩編 149:1。

音楽を崇拝におけるふさわしい位置に戻す

エホバの組織は,音楽と歌を崇拝におけるしかるべき位置に戻すため,多くのことを行なってきました。例えば,「シオンのものみの塔」誌,1896年2月1日号の内容は全部,歌だけから成っていました。その主題は,「シオンの朝の喜びの歌」というものでした。

1938年,会衆の集会で歌うことはほとんど中止されましたが,その後まもなく,使徒たちの手本や導きに倣うのは賢明だということが皆に分かってきました。1944年の地域大会で,F・W・フランズは,「王国奉仕の歌」という主題の講演を行ないました。兄弟は,人間が創造されるよりもずっと以前に,神の天の被造物がエホバに対する賛美の歌をささげていたことを示し,「神の地上の僕たちが高らかに声を上げて文字通りの歌を歌うのは,ふさわしいことであり,神に喜ばれることである」と述べました。そして,崇拝における歌についての論議を展開した後,毎週の奉仕会で用いるための,「王国奉仕の歌の本」を発表しました。b それから,「通知」(現在の「わたしたちの王国宣教」),1944年12月号で,そのほかの集会でも開会と閉会の歌が歌われることになる,との発表がなされました。歌は再び,エホバの崇拝の一部となったのです。

『心の中でエホバに歌う』

心から歌うことの価値は,苦境や迫害を長年経験してきた東ヨーロッパやアフリカの兄弟たちの例からも分かります。ロター・ワグナーは,独房で7年間を過ごしました。どのようにして耐えたのでしょうか。兄弟はこう語っています。「数週間というものは,王国の歌を思い起こしてその全部を記憶することに専念しました。歌詞が正確に分からない場合には一,二節をとにかく自分で作りました。……王国の歌には何と人を励まし,強める考えが収められているのでしょう」。―「エホバの証人の1975年の年鑑」,230-232ページ。

忠実の立場ゆえに5年間独房に監禁されていたハロルド・キングは,エホバへの賛美の歌を作曲し,歌うことに慰めを見いだしました。兄弟が作曲した曲の幾つかは現在,エホバの証人の崇拝で用いられています。歌うことに結びついた喜びは,人を支える力になります。しかし,エホバに対して賛美を歌うことの価値を認めるのに,迫害を経験する必要はありません。

エホバの民はだれでも,歌うことに喜びを見いだせます。言葉では自分の気持ちを思いどおり表現できないことがあるかもしれませんが,声を出して歌うときには,エホバに対する気持ちを自由に表現できます。使徒パウロはクリスチャンに,「詩と神への賛美と霊の歌とをもって自分に語り,心の調べに合わせてエホバに歌い」続けるよう勧告し,どうすれば賛美を歌うことから喜びを見いだせるかを示しました。(エフェソス 5:19)わたしたちの心が霊的な事柄で満たされているなら,歌は非常に気持ちのこもったものになります。ですから,上手に歌えるようになるためのかぎは,正しい心構えなのです。

エホバと良い関係にあるなら,喜びにあふれた霊は高揚し,エホバの賛美を語り,歌い,大声で告げるよう動かされます。(詩編 146:2,5)わたしたちは,自分が楽しんでいる事柄については心をこめて歌います。そして,歌,あるいは歌の情感が気に入っているなら,恐らく実感をこめてその歌を歌うことでしょう。

気持ちをこめて歌うと言っても,大声で歌う必要はありません。大きな声を出すことが必ずしも良い歌い方というわけではないのです。他方,聞き取れないような声で歌うのも良い歌い方とは言えません。生まれつき声の通る人の場合,歌声は小さくてもはっきり聞こえることがあります。グループに混じって上手に歌うには,調和して歌うことが一つの課題になります。合唱の場合であれ斉唱の場合であれ,周りの人たちの声量に合わせるなら,歌は快く,よくそろったものになります。クリスチャンらしい慎みを示し,注意して聴くなら,元気よく歌いながらも声を出し過ぎないようバランスをとることができます。もっとも,歌の上手な人や特別に声の美しい人は,大きな声で歌うのを控えようなどとは決して思わないでください。会衆がエホバへの賛美を歌うとき,美しい声の人がいると大変励みになります。

集会で歌う時は,旋律にハーモニーをつけて歌うよい機会ともなります。旋律を聞いただけでハーモニーをつけられる人や,歌の本にある各パートの音符を読んで歌える人は,歌声にハーモニーをつけ,その調べをさらに美しくするよう勧められています。c

中には,『私は音痴なんです』とか,『私の声はひどいんです。高音になるとかすれてしまいます』などと言う人がいるかもしれません。そのため,そうした人は,王国会館で歌うときでも気後れしてしまいます。実のところ,エホバの見地からすると,エホバを賛美する歌声に“ひどい”声などというものはありません。練習したり,神権宣教学校で与えられる有益な提案に従ったりすれば,話すときの声を改善できるように,歌うときの声も改善することができます。雑用をしながらハミングをするだけで,声がよくなった人もいます。ハミングは,声の音質を滑らかにするのに役立つのです。一人でいる場合や,ほかの人の邪魔にならない場所で仕事をしている場合,ふさわしい時に「王国の調べ」を歌うなら,非常によい発声練習が行なえますし,楽しく,くつろいだ気分にもなれます。

交わりの際に,王国の歌を数曲歌うようにすることもできます。ギターやピアノの伴奏,また録音された協会のピアノ伴奏に合わせてそうした歌を歌うなら,交わりに霊的な趣が加わります。また,歌を覚えたり,会衆の集会で上手に歌ったりする助けにもなります。

協会は,会衆が集会で熱意をこめて歌う助けとなるよう,伴奏を録音したものを備えてきました。音響装置を扱う人は,伴奏を流すとき,音量に注意していなければなりません。音が小さすぎると,会衆は自信を持って大きな声で歌えないかもしれません。音響装置を操作している兄弟は,自分が会衆と一緒に歌っている時に,伴奏の音が助けとなるようにリードしているかどうかを確認できます。

エホバに調べを奏でなさい

歌は,創造者に対する気持ちを表現する機会をわたしたちに与えてくれます。(詩編 149:1,3)それは,単なる感情のほとばしりではなく,制御された,理性的な,喜びにあふれた賛美の表現です。会衆で歌うときに心をこめて歌うなら,続いて行なわれるプログラムに備えて心や思いをふさわしく整えることができ,また,エホバの崇拝にますますあずかるよう鼓舞されます。歌を歌うと感情がかきたてられますが,歌詞はわたしたちを教えるものともなります。こうして斉唱や合唱で気持ちを表現するなら,わたしたちは集合した民として共に学べるよう,柔和で謙遜な態度で心を整えていることになります。―詩編 10:17と比較してください。

歌はこれからもずっとエホバの崇拝の一部となるでしょう。ですから,わたしたちには,自分の心情をうたった詩編作者の次の言葉に永遠に和してゆく見込みがあります。「わたしは生きている限りエホバを賛美します。わたしのある限りわたしの神に調べを奏でます」― 詩編 146:2。

[脚注]

a ラプソディーとは,それぞれの楽節に自由な精神が表われている楽曲のことです。ラプソディーは多くの場合,英雄にまつわる出来事や英雄的な人物を褒めたたえたものでした。

b コリント人への第一の手紙 14章15節からすると,1世紀のクリスチャンの崇拝においては決まって歌が歌われていたようです。

c 現在の歌の本,「エホバに向かって賛美を歌う」にある歌の中には,ハーモニーをつけて歌う人のために,四部合唱の形式をそのままとどめているものもあります。しかし,歌の多くはピアノ伴奏用にアレンジされており,曲の国際色が保たれるような形式になっています。きちんと四部の和声が記されていない歌に即興でハーモニーをつけるなら,集会での歌はいっそう楽しいものになるでしょう。

[27ページの囲み記事]

上手に歌うための提案

1. 歌の本を持ち上げて歌う。こうすると,もっと自然に呼吸ができる。

2. 各フレーズの初めに息を十分に吸う。

3. 初めのうち,自分がちょうどよいと思うよりもやや大きめに口を開けると,自然に声量が増して,声の響きもよくなる。

4. 何よりも,歌っている歌の情感をいつも心にとめておく。

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