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  • 神が悪を許している理由を,ある人々はどのように説明しているか
  • 目ざめよ! 1987
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目ざめよ! 1987
目87 10/8 4–5ページ

神が悪を許している理由を,ある人々はどのように説明しているか

神には人間の苦しみを創始したことに対して罪があるか,それとも潔白か。災害に関しては,それが個人的なものであろうと,サン・ラモンの場合のように大規模なものであろうと,この質問が大きく立ちはだかります。英国の雑誌「エバンジェリカル・クォーター」は,「全能で愛そのものである神に対する信仰を妨げる最大の障害の一つは,世界には不当な苦しみと思われるものが存在していることである」と述べています。

ですから,中には,実際に苦しみを引き起こしているかどうかはともかく,苦しみを黙認しているとして神を非難する人々もいます。神学者のジョン・K・ロスは「歴史そのものが神に対する起訴状である。……神の責任に伴う事柄を軽く見てはならない」と書きました。

しかし,アウグスティヌス以来,多くの宗教思想家は,神が無罪であることを雄弁に論じてきました。17世紀の哲学者ライプニッツはその努力の一環として,弁神論,つまり「神を義とする理論」という語を造り出しました。―6ページをご覧ください。

現代の神学は証人席に立つ

神は非難に値するという嫌疑を晴らすための努力は,現代まで続いています。クリスチャン・サイエンス教会の創始者であるメリー・ベーカー・エディは,そもそも悪が存在したという考えを否定することによって問題を解決しようとしました。「聖書への鍵つき科学と健康」という本の中でエディ夫人は,「神が……罪を犯し得るものとして人間を造られたということは決してない。……したがって,悪は一つの幻想であり,現実の基盤を欠いている」と書きました。―下線は本誌。

ほかの人たちは,苦しむことには徳とみなせるものがあるという根拠に基づいて神を弁護しました。かつて一人のラビは,「苦しみは人の品性を高め,人の考えから誇りや浅薄さを除去するようになる」と述べました。幾人かの神学者はそれと同様の趣旨に沿い,地上における苦しみは「道徳的性格を持つ我々が,将来の天の王国における生活の備えをするために必要」であるという理論を考え出しました。

しかし,人々を浄化したり罰したりするために神が災害をもたらす,もしくは許されると考えるのは道理にかなっていますか。確かに,サン・ラモンで生き埋めになった人たちには,道徳的成長を改善するための機会などほとんどありませんでした。神は,生き残った人たちに教訓を与える目的で彼らを犠牲にされたのでしょうか。もしそうだとしたら,その教訓とは何ですか。

ですから,「善良な人々に悪いことが起こる時」というクシュナーの本が一般の人々の心をとらえたのも,もっともなことです。その本の著者は苦しみに伴う痛みを個人的に知っていたので,読者を慰め,神が善良であるという確信を読者に再び与えようとしたのです。とはいえ,罪のない人々が苦しむのを神が許しておられる理由の説明になると,クシュナーの論法はおかしくなってきます。「神は,義人が平和で幸福な生活を送ることを願っておられるが,神でさえ,それをもたらせない時がある」と,クシュナーは説明しています。

このようにクシュナーは,邪悪ではなくても弱い神,全能ではなく,それより幾分劣った神を提唱しましたが,それでもクシュナーは,不思議なことに神の助けを求めて祈るよう読者に勧めました。しかし,限界があるように思えるこの神が一体どのように実際の助けとなり得るかについて,クシュナーは言葉を濁しています。

古代における論争

世界の宗教思想家たちは,これまで神を弁護するための納得できる論戦を張ることも,悪の犠牲になった人々に真の慰めを与えることもできませんでした。恐らく,裁判にかけられるべきなのは神ではなく,神学でしょう。それら矛盾する諸理論は,ほぼ4,000年前に語られた空しい論法のおうむ返しにすぎないからです。その時代に,神を恐れるヨブという名の男子の苦しみを中心に,一つの論争が起きました。ヨブは裕福で著名な東洋人でしたが,一連の災いの犠牲者になりました。ヨブはたて続けに,自分の富を失い,子供に死なれ,最後には忌むべき病気にかかって苦しみました。―ヨブ 1:3,13-19; 2:7。

3人のいわゆる友がヨブを助けにやってきました。しかしこの3人は慰めを与えるどころか,神学をもってヨブを攻撃します。彼らの議論の骨子は,『ヨブよ,あなたをこのようにしたのは神なのだ! あなたが,何か悪いことをしたために罰を受けているのは明らかだ! その上,神はご自分の僕たちを全く信じておられない』ということでした。(ヨブ 4:7-9,18)ヨブは,神が「ご自分のためにわたしを的として立てられ」たように見えるその理由を理解できませんでした。(ヨブ 16:11,12)ヨブは立派に忠誠を保ち,悪の責任を直接神に帰すことは全くしませんでした。

それにもかかわらず,ヨブの慰め手たちは,災いで苦しむ者はみな,悪行のゆえに神に罰せられているということを示唆して,事実上「神を邪悪な者とし」ました。(ヨブ 32:3)しかし神は,慰め手たちの誤った見解をすぐに正されました。

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