-
クリスマスに関する真実目ざめよ! 2010 | 12月
-
-
聖書は何と述べているか: 聖書にはイエスの誕生の日付は記されていません。とはいえ,イエスは12月25日に生まれたのではない,と言えます。どうしてでしょうか。聖書によれば,イエスが生まれた時,ベツレヘム近郊で羊飼いたちが「戸外に住んで」,夜間に羊の群れの番をしていました。(ルカ 2:8)その地域では10月になると寒い雨季が始まるので,羊飼いたちは ― 特にベツレヘム周辺のような高地では ― 夜間に羊を安全な屋根の下に入れました。12月は最も寒く,時には雪も降りました。a
注目すべき点として,初期クリスチャン(その多くはイエスの伝道活動に同行した)は,いかなる日付であれイエスの誕生を祝ったりはしませんでした。むしろ,イエスの命令に従い,イエスの死だけを記念して祝いました。(ルカ 22:17-20。コリント第一 11:23-26)『異教に由来していても構わないではないか』と思われますか。神は,『構わない』とは考えておられません。『真の崇拝者は霊と真理をもって父を崇拝する』とイエス・キリストは述べています。―ヨハネ 4:23。
-
-
クリスマスに関する真実目ざめよ! 2010 | 12月
-
-
聖書は何と述べているか: 何人の「博士」がイエスのもとを訪れたかについて,聖書は何も述べていません。2人だったかもしれず,3人か4人,あるいはもっと多かったかもしれません。「博士たち」と訳している翻訳聖書もありますが,原語の「マゴイ」は占星術者や呪術者を意味しており,聖書によると,そうした者たちは「エホバにとって忌むべきもの」です。(申命記 18:10-12)東方からの長旅のゆえに,それら占星術者たちはイエスが家畜小屋にいる間には到着しませんでした。おそらく何か月もの旅の後に,イエスがいる「家の中に」入り,「母マリアと共にいる幼子」を見ました。―マタイ 2:11。
-
-
クリスマスに関する真実目ざめよ! 2010 | 12月
-
-
明らかに,これは普通の星ではありません。神はみ使いたちを用いて,イエスの誕生を謙遜な羊飼いたちにお知らせになりました。その神が,星を用いて異教徒の占星術者たちを,まずイエスの敵のところに,それからイエスのところに導いたりなさるでしょうか。ですから,この星は悪魔サタンの陰険な手段であったに違いありません。サタンはそのようなまやかしを行なうことができます。(テサロニケ第二 2:9,10)皮肉なことに,クリスマスツリーのてっぺんには大抵,ベツレヘムの星と呼ばれる飾りが付けられています。
-
-
クリスマスに関する真実目ざめよ! 2010 | 12月
-
-
聖書は何と述べているか: 「あなた方は偽りを捨て去ったのですから,おのおの隣人に対して真実を語りなさい」。最も身近な「隣人」は家族です。(エフェソス 4:25)聖書は,『真実を愛し』,「心に真実を語る」べきであるとも述べています。(ゼカリヤ 8:19。詩編 15:2)サンタ(あるいはクリストキント)がクリスマスの時にプレゼントを持って来る,と子どもに言うのは,たわいない楽しみにすぎない,と思えるかもしれません。しかし,悪意がないとはいえ,幼い子をだますのは正しいこと,また賢明なことでしょうか。イエスをたたえるはずの時が子どもをだます時になるのは,おかしなことではありませんか。
-
-
クリスマスに関する真実目ざめよ! 2010 | 12月
-
-
聖書は何と述べているか: 喜びと寛大さは真の崇拝の特徴です。『義なる者たちよ,喜べ。喜び叫べ』と聖書も述べています。(詩編 32:11)そのような喜びは,多くの場合,寛大さと関係があります。(箴言 11:25)「受けるより与えるほうが幸福である」とイエス・キリストは言いました。(使徒 20:35)また,「いつも与えなさい」,つまり与えることを日常生活の一部としなさい,とも述べました。―ルカ 6:38。
そのようにすることは,儀礼的な贈り物をすることや,社会の習慣に従うために仕方なく与えることとは異なっています。本当の寛大さについて,聖書はこう述べています。「各自いやいやながらでも,強いられてでもなく,ただその心に決めたとおりに行ないなさい。神は快く与える人を愛されるのです」。(コリント第二 9:7)この優れた指針に従う人は,自らの寛大な心に促されて与えます。一年を通じて,いつでも与えます。そのようにする人を神は祝福なさいます。そして,与えることは決して重荷ではありません。
偽りに基づく習慣
聖書の光に照らすと,クリスマスはほぼすべての面で,異教の慣習や,聖書の記述の歪曲に基づいていることが分かります。ですから,クリスマスは実際にはキリスト教のものではありません。では,どのようにして持ち込まれたのでしょうか。キリストの死後しばらくして,聖書の予告どおり,多くの偽教師が現われました。(テモテ第二 4:3,4)それら無節操な教師たちは,真理を教えることよりも,キリスト教を異教徒に受けの良いものにすることに関心がありました。そのため徐々に,人気のあった異教の祝祭を取り込み,それに“キリスト教”のラベルを張ったのです。
聖書はそうした「偽教師」についてこう警告しています。「彼らは……まやかしの言葉であなた方を利用するでしょう。しかし彼らに対して,昔からの裁きは手間どっているのではなく,その滅びはまどろんでいるのでもありません」。(ペテロ第二 2:1-3)
-