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古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部ものみの塔 2011 | 11月1日
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文書そのものは何を示しているか。VAT 4956の事例を取り上げましょう。この粘土板の冒頭には,「バビロンの王ネブカドネザルの第37年」と記されています。16 そのあとに,月や惑星が様々な恒星や星座とどんな位置関係にあったかを示す詳細な描写がなされています。また,月食が1回あったことも記されています。学者たちによれば,それらすべての位置関係は西暦前568/567年のものであり,ネブカドネザル2世がエルサレムを滅ぼした,その治世の第18年は,西暦前587年ということになります。しかし,それら天文学的な資料は,本当に西暦前568/567年だけを指しているのでしょうか。
その粘土板では,月食がバビロニアの第3の月シマヌの15日に起きたとされています。確かに,西暦前568年のその月である7月4日(ユリウス暦)に月食がありました。しかし,その時より20年前の西暦前588年7月15日にも月食がありました。17
もし西暦前588年がネブカドネザル2世の第37年であったとしたら,その治世の第18年は西暦前607年になります。まさに,聖書の年代記述がエルサレムの滅ぼされた年としている年です。(下の年表をご覧ください。)では,VAT 4956には,西暦前607年を裏づける証拠がほかにも含まれているでしょうか。
その粘土板には,前述の月食のほかに,月の一連の観測結果が13,惑星の観測結果が15記されています。それらは,月や惑星が特定の恒星や星座とどんな位置関係にあったかを述べています。18 また,日の出入りと月の出入りとの時間間隔も,八つ記録されています。18a
研究者たちは,月の位置に関する記述が非常に信頼できるので,VAT 4956に見られるそれら月の一連の13の観測結果を注意深く分析してきました。過去の特定の日における天体の位置を示せるコンピューター・プログラムの助けを得て,データを分析しました。19 その分析によってどんなことが明らかになったでしょうか。月の位置に関するそれら一連の観測結果は,西暦前568/567年の場合すべてが適合するわけではありませんが,それより20年前の西暦前588/587年の位置として割り出されたものとであれば,13のすべてがぴったり一致します。
月の観測結果が西暦前568年よりも西暦前588年のほうに当てはまる箇所の一つが,この両ページにわたる粘土板の写真とその説明に示されています。その粘土板の3行目には,月が「[ニサヌ]9日の夜」に特定の位置にあったことが記されています。ところが,最初にその出来事を西暦前568年(天文学的には,–567年)の事とした学者たちは,西暦前568年に月がその位置にあったのは「ニサヌの9日ではなく8日」だったとみなしました。それで,その粘土板の日付を西暦前568年とするために,書記官が誤って「8」ではなく「9」と書いた,としたのです。20 しかし,3行目に記されている月の位置は,西暦前588年ニサヌ9日のものと完全に一致しています。21
明らかに,VAT 4956の天文学的データの多くは,ネブカドネザル2世の第37年が西暦前588年であることを示しています。ですからこの事実は,エルサレムの滅ぼされた年が,まさに聖書の示しているとおり西暦前607年であったことを裏づけるものです。
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古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部ものみの塔 2011 | 11月1日
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[26,27ページの囲み記事/図版]
VAT 4956は実際に何と述べているか
争点となるのはなぜか。この粘土板の3行目には,第1の月(ニサヌ/ニサン)の「9日の夜」に「月が乙女座ベータ星の前方1キュビトの所にあった」と記されている。しかし,1915年にノイゲバウアとワイドナーは,西暦前568年(エルサレムの滅びを西暦前587年とする年)に関して,「月がこの星の1キュビト前方にあったのはニサン8日であって,ニサン9日ではない」と書いている。(斜体は本誌。)一方,粘土板の記述と月の位置がぴったり一致するのは,西暦前588年のニサン9日であり,この場合,エルサレムが滅ぼされたのは西暦前607年となる。
9日なのか,それとも8日なのか
(1)左ページの拡大写真に示されているとおり,9を表わすアッカド語の符号がはっきり見える。
(2)ノイゲバウアとワイドナーは,この楔形文字のテキストを翻字する際に,「9」を「8」に変えた。
(3)元のテキストでは「9」であったことを脚注の中だけで示している。
(4)二人はドイツ語訳の中でも「8」とした。
(5)1988年,サックスとフンガーは,「9」と記されている実際どおりのテキストを出版した。
(6)それでも,英訳の中ではその改変をそのままにし,「9日」は「8日の誤り」であるとしている。
[クレジット]
bpk / Vorderasiatisches Museum, SMB / Olaf M. Teßmer
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古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部ものみの塔 2011 | 11月1日
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16. 「バビロニア出土の天文日誌と関連文書」,第I巻,アブラハム・J・サックス著,ヘルマン・フンガー編著,1988年発行,47ページ。
17. 「バビロニア人の月食観測 紀元前750年から前1年まで」(英語),ピーター・J・フーバー,サルボ・デ・メイス共著,2004年発行,186ページ。VAT 4956によれば,この月食はバビロニアの第3の月の15日に起きた。これは,シマヌの月が15日前に始まっていたことを示唆している。もしその月食がユリウス暦の西暦前588年7月15日に当たるとしたら,シマヌ1日は西暦前588年の6月30日/7月1日となる。したがって,バビロニアの第1の月(ニサヌ)の始まりは2か月前の5月2日/3日となり,その日から新年が始まったことになる。普通,月食の年は4月3日/4日に始まったはずであるが,VAT 4956にはその6行目に,前年の第12(最後)の月の後に,余分の月(うるう月)の加えられたことが述べられている。(粘土板には,「XII2[第13]の月の第8日」と記されている。)ゆえに,実際には5月2日/3日になるまで新年は始まらなかったことになる。したがって,西暦前588年のこの月食の日付は,粘土板のデータと符合する。
18. 「ライプチヒで行なわれた,王立ザクセン科学協会の討議に関する報告」(ドイツ語),第67巻,1915年5月1日,「ネブカドネザル2世の第37年(–567/566年)に関する一天体観測者の文書」,パウル・V・ノイゲバウア,エルンスト・F・ワイドナー共著,67-76ページより。それによると,月と特定の星もしくは星座との位置関係の観測結果が13載せられている。また,惑星の観測結果も15挙げられている。(72-76ページ)月を表わす楔形文字のしるしは明瞭で間違えようがないが,惑星の名称やその位置を表わすしるしの中には不明瞭なものもある。(「メソポタミアの惑星天文学-占星術」,デービッド・ブラウン著,2000年発行,53-57ページ)ゆえに,その惑星観測の記述は,推測が必要で,幾つもの異なった解釈ができる。月がかつてどの位置にあってどのように見えたかは容易に分かるので,VAT 4956で言及され月と結びつけられているそれら他の天体の位置は特定でき,いつその位置にあったかも確定できる。
18a. これらの間隔(“月に関連した三つの時間”)は,その月の第1日の日の入りから月の入りまでの時間と,その月の後半の他の二つの時間である。学者たちは,それらの時間測定の記述を暦の年月日と結びつけてきた。(「年代を特定できる最初期の北極光観測」[英語],F・R・スティーブンソン,デービッド・M・ウィリス共著。「一つの空の下で ― 古代近東における天文学と数学」[英語],ジョン・M・スティール,アネット・イムハウゼン共編,2002年発行,420-428ページより)古代の観測者たちはある種の時計を用いてこの時間の長さを測ったが,そのような測定結果の記述は信頼できるものではない。(「アルキメデス,第4巻,科学・技術の歴史と哲学の新研究」,「初期の天文学者たちによる月食の時に関する観測と予測」,ジョン・M・スティール著,2000年発行,65-66ページ)一方,月の位置を他の天体との関係で算定した記述は,より確かなものである。
19. この分析は,TheSky6™という天文学ソフトウェアを使って行なわれた。それに加えて,包括的なフリーソフトCartes du Ciel/Sky Charts(CDC)と米国海軍観測所提供の暦変換ツールも使われた。惑星の位置の多くについての楔形文字の記号は,推測や幾通りかの解釈が可能なので,それらの位置に関する記述は,この天文日誌に記された年を特定するためのこの調査には用いられなかった。
20. 「ライプチヒで行なわれた,王立ザクセン科学協会の討議に関する報告」,第67巻,1915年5月1日,「ネブカドネザル2世の第37年(–567/566年)に関する一天文観測者の文書」,パウル・V・ノイゲバウア,エルンスト・F・ワイドナー共著,41ページ。
21. VAT 4956の3行目には,「月は乙女座ベータ星の前方1キュビト(すなわち2度)の所にあった」と記されている。前述の分析により,ニサヌ9日のその月は乙女座ベータ星の前方2度4分,下方0度にあった,という結論が出た。それは完全な一致とされた。
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古代エルサレムが滅ぼされたのはいつか ― 第2部ものみの塔 2011 | 11月1日
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[25ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
VAT 4956がエルサレムの滅ぼされた年として指し示しているのは ― 西暦前587年? それとも607年?
■ その粘土板には,王ネブカドネザル2世の治世第37年に起きた天文学上の事象が記されている。
■ ネブカドネザル2世は在位第18年にエルサレムを滅ぼした。―エレミヤ 32:1。
もしネブカドネザル2世の第37年が西暦前568年だったとしたら,エルサレムの滅びは西暦前587年だったことになる。
西暦前610年
600年
590年
580年
570年
560年
その第37年が西暦前588年であったなら,エルサレムの滅びは,聖書の年代記述の示している西暦前607年となる。
■ VAT 4956は西暦前607年を指し示している,と考えるほうが理にかなっている。
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