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「そんなはずはない!」愛する家族を亡くしたとき
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「そんなはずはない!」
ニューヨーク(米国)に住むある人はこう話します。「息子のジョナタンは,数マイル離れた友人たちのところへ行っていました。妻のバレンティーナは息子がそこへ出かけるのをあまり好みませんでした。妻はいつも,交通のことを心配していました。でも,息子はエレクトロニクスのことが大好きでした。友人たちが仕事場を持っていて,息子はそこで実地の経験を積めたのです。私はニューヨーク,ウエスト・マンハッタンの自宅にいました。妻はプエルトリコの親族を訪ねていて留守でした。『そろそろジョナタンは帰るころだ』と私は思いました。折しも,ドアのベルが鳴りました。『きっとジョナタンだ』。ところが,そうではありませんでした。それは,警察,そして,救急隊員でした。『この運転免許証,どなたのかお分かりでしょうか』と警察官が言いました。『はい,これは,私の息子の,ジョナタンのです』。『悪いお知らせをしなければなりません。事故がありました。そして……ご子息……ご子息が亡くなられました』。『そんなはずはない!』,それが私の最初の反応でした。その,突然の衝撃が私たちの心に開けた傷あなは,幾年もたった今なお癒えていません」。
『悪いお知らせをしなければなりません。事故がありました。そして……ご子息……ご子息が亡くなられました』。
バルセロナ(スペイン)に住む別の父親はこう書いています。「1960年代当時のスペインで,私たちは幸せな家族でした。妻のマリーア,それに3人の子供たち,男の子のダビードとパキートウ,そして女の子のイーサベル,それぞれ,13歳,11歳,9歳でした。
「1963年3月のある日,パキートウは激しい頭痛を訴えて学校から帰って来ました。私たちは,何が原因なのかと途方に暮れました ― でも,長い時間ではありません。それから3時間後,パキートウは死にました。脳内出血がパキートウの命を突如奪ったのです。
「パキートウの死は,今から30年も前になります。それでも,パキートウを失ったうずくような痛みは,今日まで私たちの中に残っています。親が自分の子供を失って,自らの一部を失ったように感じないでいることはできません。どれだけの時間が過ぎようと,ほかにどれだけ子供たちがいようとも,これは変わらないはずです」。
自分の子供を亡くしたこれら二つの経験は,子供の死に伴う傷が親にとっていかに深く,いかにいやし難いものかを物語っています。次のように書いた一心理学者の言葉はいかにも真実ではないでしょうか。「子供の死は普通,年配者の死に比べてずっと悲しく,ずっと大きな痛手となる。子供は家族の中で死の予測からは最も遠いはずだからである。……どんな場合でも,子供の死は,将来の夢の喪失,きずな[息子,嫁,孫との]の喪失,……経験するはずであった楽しみの喪失となる」。そして,この深い喪失感は,流産によって幼子を亡くしたどんな女性についても言えます。
夫に先立たれたひとりの女性はこう語ります。「私の夫ラッセルは,第二次世界大戦中,太平洋戦域で医療補助員として従軍した経験がありました。幾つかの恐ろしい戦闘を見,それをくぐり抜けた人でした。米国に帰還してからは,もっと平穏な日々を送り,後に神の言葉の奉仕者として仕えるようになりました。60代の初めに,夫は心臓障害の兆候を示すようになりました。それでも,努めて活動的な生活を送っていました。しかし,1988年7月のある日,ひどい心臓発作に襲われて,そのまま死にました。ラッセルを亡くしたことは,私にとってあまりに強い打撃でした。別れのことばを述べることさえできなかったのです。彼は私にとって単に夫であっただけではありません。私の最良の友でもありました。40年のあいだ生活を共にしてきたのです。言い知れない寂しさを忍ばねばならないと感じました」。
これらは,日ごとに世界中の家族を襲っている幾万もの悲痛な別れのわずかな例にすぎません。悲嘆を経験しているたいていの人が語るはずですが,死があなたの子供を,夫を,妻を,親を,あるいは友を奪うとき,それはまさしく,クリスチャンの筆記者パウロが述べたとおりのもの,まさに「最後の敵」です。その恐ろしい知らせに接するとき,最初の自然な反応は,多くの場合,「そんなはずはない! そんなことは信じられない」という否定の念でしょう。これから先に見るとおり,その後に他のさまざまな反応の続くのが普通です。―コリント第一 15:25,26。
しかし,このような悲嘆の気持ちについて考える前に,幾つかの大切な質問にまず答えましょう。死は人にとっていっさいの終わりなのでしょうか。わたしたちの愛する人々に再会できるという希望がどこかにあるでしょうか。
真の希望がある
聖書の筆記者パウロは,その「最後の敵」である死から解き放たれる希望について述べています。パウロは,『死は無に帰せしめられる』と書いています。「除き去られるべき最後の敵は死である」。(コリント第一 15:26,新英訳聖書)なぜパウロはこのことをそれほど確信できたのでしょうか。死からよみがえらされたイエス・キリストご自身から教えを受けていたからです。(使徒 9:3-19)だからこそパウロは,次のようにも書くことができました。「死がひとりの人[アダム]を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人[イエス・キリスト]を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」―コリント第一 15:21,22。
イエスは,ナインのあるやもめに出会って,そのやもめの死んだ息子を目にした時,ひどく悲しまれました。聖書の記述はこう伝えています。「[イエス]がその[ナインの]都市の門に近づくと,何と,見よ,死人が運び出されて来るところであった。それは,その母の独り息子であった。そのうえ,彼女はやもめだったのである。その都市のかなり多くの人々も彼女と一緒にいた。そして,彼女をご覧になると,主は哀れに思い,『泣かないでもよい』と言われた。そうして,近づいて棺台にお触りになった。それで,担いでいた者たちは立ち止まった。それからイエスは言われた,『若者よ,あなたに言います,起き上がりなさい!』 すると,死人は起き直り,ものを言い始めたのである。次いでイエスは彼をその母にお渡しになった。ここにおいて,すべての者は恐れに打たれ,神の栄光をたたえつつ,『偉大な預言者がわたしたちの間に起こされた』,『神はご自分の民に注意を向けてくださったのだ』と言いだした」。イエスがいかに哀れみの気持ちに動かされてそのやもめの息子を復活させたか,という点に注意してください。そして,そのことが将来に何を予示するのかについても想像してください。―ルカ 7:12-16。
幾人もの目撃者がいるその場で,イエスは,見た者にとって忘れることのできない復活を行なわれたのです。それは,この出来事より少し前にイエスがすでに予告していた復活,すなわち,「新しい天」のもとでなされる地上の命への回復を保証するしるしとなりました。それよりも前に,イエスはこう言っておられたのです。「このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです」。―啓示 21:1,3,4。ヨハネ 5:28,29。ペテロ第二 3:13。
復活を目撃した他の人々の中に,ペテロ,およびイエスの旅行に同行した12人のうちの他の幾人かが含まれています。それらの人たちは,復活したイエスがガリラヤの海のほとりで話をするのを現実に聞いたのです。その時の模様はこのように伝えられています。「イエスは彼らに,『さあ,朝食を取りなさい』と言われた。弟子たちのうち,『あなたはどなたですか』とあえて尋ねる者は一人もいなかった。それが主であることを知っていたからである。イエスは来て,パンを取って彼らに与え,魚も同じようにされた。イエスが,死人の中からよみがえらされたのち弟子たちに現われたのは,これで三度目であった」―ヨハネ 21:12-14。
このため,ペテロは全くの確信を込めてこのように書くことができました。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父がたたえられますように。神はその大いなる憐れみにより,イエス・キリストの死人の中からの復活を通して,生ける希望への新たな誕生をわたしたちに与えてくださったのです」―ペテロ第一 1:3。
使徒パウロも次のように述べて,自分の確信となっている希望を言い表わしています。『わたしは律法の中で述べられていること,預言者たちの中に書かれていることをすべて信じています。そしてわたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望はこれらの人たち自身もやはり抱いているものであり,義者と不義者との復活があるということです』―使徒 24:14,15。
ですから,多くの人には,自分の愛する人たちが,この地上で,しかも今とは非常に異なった状況のもとで生き返るのを見るという確実な希望があるのです。それはどのような状況でしょうか。故人となったわたしたちの愛する人々のために聖書が差し伸べるこの希望のさらに細かな点については,「死んだ人たちのための確かな希望」という,この冊子の最後の部分で論じられています。
しかし,愛する人との死別のために悲嘆しておられる方たちのため,その方たちが抱いておられるかもしれない疑問に答えることからまず始めましょう。このような悲しみを感じるのは異常なことですか。自分の悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか。他の人たちはどのように助けになれますか。わたしたちとしては,悲嘆に暮れている人たちをどのように助けることができますか。そして,大切な点として,聖書は死んだ人たちのための確かな希望としてどんなことを述べていますか。自分の愛する人にもう一度会えるでしょうか。そして,それはどこで?
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このように感じるのは普通のことですか愛する家族を亡くしたとき
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このように感じるのは普通のことですか
身近な親族を亡くしたある男性はこう書いています。「英国に育った子供として,私は自分の感情を人前で表わしてはいけないと教えられていました。私が何かで痛がっていたとき,元軍人の父親が,きっとした口調で,『泣いてはいけない!』と言ったのを覚えています。私は,母親が私たち子供たちのだれか(4人いた)に口づけしたり抱擁したりしたことがあるかどうかを思い出せません。自分が父親の死に接したのは56歳の時でした。言いようのない喪失感を覚えました。それでも,初めのうち,私は泣くことができませんでした」。
文化の違いによりますが,人々が自分の感情をあらわに表現する土地もあります。喜んでいようと悲しんでいようと,他の人たちは,その人がどのような気持ちでいるのかすぐに分かります。他方,世界のある地域,ことに北ヨーロッパや英国の人々,とりわけその男性は,自分の感情を秘め,情感を抑え,苦境にあっても弱みを見せず,心の内を外に表わさないようにしつけられています。しかし,大切なだれかと死別したとき,自分の悲しみの気持ちを表わすのは何か間違っているでしょうか。聖書は何と述べていますか。
聖書の中の泣いた人々
聖書は東地中海地域のヘブライ人によって書き記されましたが,ヘブライ人は感情をよく表現する民族でした。聖書は,自分の悲嘆の気持ちを率直に表わした人たちの例を多く載せています。ダビデ王は殺害された息子アムノンの死を嘆き悲しみました。事実ダビデは,「非常に激しく泣いた」のです。(サムエル第二 13:28-39)ダビデは,王位を奪おうとした背信の息子アブサロムの死をさえ嘆きました。聖書はこう記述しています。「すると,王[ダビデ]は動揺して,門口の上の屋上の間に上って行って泣きだした。彼は歩きながら,このように言った。『我が子アブサロム,我が子,我が子アブサロムよ! ああ,わたしが,このわたしが,お前の代わりに死ねばよかったのに。アブサロム,我が子よ,我が子よ!』」(サムエル第二 18:33)ダビデは普通の父親ならだれもがするように悲しみました。そして,どれほど多くの親たちが,子供の代わりにむしろ自分が死ねばよかった,と感じてきたことでしょう。子供が親より先に死ぬというのはあまりに不自然なことに感じられるのです。
イエスは友人ラザロの死に対してどのように反応されたでしょうか。その墓に近づいて,涙を流されたのです。(ヨハネ 11:30-38)後に,マリア・マグダレネも,イエスの墳墓に近づきつつ泣きました。(ヨハネ 20:11-16)確かに,聖書の述べる復活の希望を理解しているクリスチャンは,死者の状態に関して聖書にはっきり根ざした信条を持たないある人々のように,悲しみに打ちひしがれてしまうことはありません。とはいえ,普通の感情を持つ人間として,真のクリスチャンも,復活の希望を抱いてはいても,だれにせよ愛する者の死を悼み,嘆き悲しむのです。―テサロニケ第一 4:13,14。
泣くべきか,泣くべきでないか
今日のわたしたちの反応はどうでしょうか。感情をはっきり示すのは難しい,あるいは,きまりが悪いでしょうか。カウンセラーたちは何を勧めていますか。それらの人々の現代の見解は,多くの場合,霊感による聖書の古代の知恵を繰り返しているにすぎません。自分の悲嘆を抑えるのではなく,それを表現すべきである,とそれらの人々は述べています。これは,ヨブ,ダビデ,エレミヤなど,古代の信仰の人々を思い出させます。それらの人々の表わした悲嘆の情は聖書の中に残されています。彼らは自分の感情を封じ込めたりはしませんでした。ですから,自分を孤立させてしまうのは賢明ではありません。(箴言 18:1)もちろん,哀悼の気持ちの表わし方は文化によって異なりますし,それぞれの土地で行き渡っている宗教信条によっても違ってきます。a
泣きたい気持ちになったらどうしたらよいでしょうか。泣くことは人間の性質の一部です。ラザロが死んだ時のことをもう一度思い起こしてください。その時イエスは「霊においてうめき……涙を流された」のです。(ヨハネ 11:33,35)こうしてイエスは,悲しみ悼むことが,愛する人の死に際して決して異常な反応ではないことを示されました。
愛する者を亡くしたとき,悲しんだり泣いたりするのは正常なこと
この点は,小さな娘レイチェルをSIDS(乳児突然死症候群)で失った母親アンの場合によく示されています。アンの夫はこのように述べています。「不思議なことに,アンも私も,葬式では泣きませんでした。ほかのみんなが泣いていました」。しかし,これにこたえてアンはさらにこう述べました。「そうです,でも私は,わたしたちふたりのためにたっぷり泣きました。その悲しい出来事の数週間後,ようやく自分独りになって家にいたある日,私はこみ上げてくるものを抑えられませんでした。私は一日じゅう声を上げて泣きました。でも,それが助けになったと思います。それで気持ちが楽になりました。自分の子供の死を悲しまないではいられなかったのです。悲しんでいる人たちには泣かせてあげるべきだと本当に思います。『泣かないで』と声をかけるのがある意味で自然な反応のようですが,それは実際には助けになりません」。
ある人たちはどんな反応をするか
自分の愛する者の死のゆえに悲痛な心情になったとき,ある人はどんな反応をしたでしょうか。一例として,ファニータの場合を取り上げましょう。ファニータは赤子を亡くすことがどのような気持ちにならせるかを知っています。すでに5回も流産の経験があったからです。彼女はもう一度妊娠しました。そのため,車の事故で入院を余儀なくされた時,当然のことながら心配しました。2週間後に,時ならぬ陣痛が始まりました。しばらくして,小さな女の子バネサが産まれました。900㌘を少し超えるだけでした。「私はとても興奮しました。自分もついに母親になったのです!」とファニータは思い返しています。
しかし,彼女のこの幸福感は長く続きませんでした。その4日後,バネサは死にました。ファニータはこう回想しています。「私は非常にうつろなものを感じました。母親としての誉れは取り去られたのです。全く満たされない気持ちでした。家に戻ってバネサのために私たちが用意していた部屋に入り,その子のために自分が買っておいた小さな肌着を見るのは心の痛むものでした。その後の二,三か月のあいだ,私は娘の誕生の日のことを思い返していました。だれとも何のかかわりも持ちたくありませんでした」。
極端な反応でしょうか。他の人たちには理解しにくいかもしれません。しかし,ファニータのようにそれを実際に経験した人たちは,このような赤ちゃんの場合であっても,しばらく生活した人との死別の場合と同じ悲しみを味わったと語ります。生まれるずっと前から,その子は親たちから愛されていた,とその人々は話すことでしょう。母親とは特別のきずなができています。その赤子が死ぬとき,まぎれもなくひとりの人が失われたことを母親は感じるのです。そして,これこそ他の人々が理解すべき点です。
怒りやとがめの気持ちがどのように影響するか
別の母親は,自分の6歳の息子が先天的心臓疾患のために急死したことを伝えられたとき自分がどのように感じたかを話しています。「私は,感覚のまひ,信じられないという思い,とがめの気持ち,そして,あの子の病気の重さを悟らなかった夫と医師に対する怒りなど,一連の反応を経験しました」。
怒りの気持ちも悲嘆のひとつの兆候です。それが医師や看護婦たちへの怒りとなることもあります。死んでしまう前にもっと手をつくしてくれるべきだったと感じるのです。あるいは,間違ったことを言ったりしたりしているように思える友人や親族に対する怒りとなることもあります。どうして自分の健康をもっと大切にしなかったのかと,故人となった人に対し憤りを持つ人たちもいます。ステラはこのように回想しています。「私は,自分の夫に対して憤りを感じたのを覚えています。このようにならなくてもよかったのを知っていたからです。主人はかなりの病気だったのに,医者の警告を無視したのです」。そして,今は亡き人への憤りの気持ちは,あとに残された人にその死がもたらした重荷のためである場合もあります。
そうした怒りのために罪の意識を持ってしまう人もいます。つまり,怒りを抱いたということで自らをとがめることがあるのです。愛する者の死について自分を責める人たちもいます。「もっと早く医者に行かせていたなら」,「別の医者にみせていたなら」,あるいは「もっと健康に注意させていたなら,死ななかっただろうに」と考えるのです。
子供の死は耐えがたい心の衝撃 ― 純粋な同情と感情移入がその親たちの助けとなる
この罪の意識がさらに進むこともあります。特に,愛する者を突然に,全く予期しない状況で亡くした場合です。今は亡き人に対してかつて怒ったり言い合ったりした時のことを思い出しはじめるのです。あるいは,その死んだ人のために自分のすべき事を全部してあげられなかったと悔やむこともあります。
多くの母親のこうして長く続く悲嘆の過程は,多くの専門家が述べている事柄の裏づけとなります。つまり,子供の死は親,とりわけ母親の生活に,いつまでも残るすきまを生じさせます。
配偶者を亡くしたとき
夫もしくは妻との死別もいやしがたい衝撃となります。とりわけ,二人が連れ添って活動的な人生を送ってきた場合にはそうです。それは,旅行,仕事,種々の楽しみ,相互の依存など,二人が共にしてきた生活スタイル全体の終わりを意味します。
ユニスは夫が心臓発作で急死した時のことをこう説明しています。「初めの1週間,私は感情的に無感覚になっていました。まるで自分の機能が停止してしまったかのようでした。物を味わうことも,においをかぐこともできませんでした。とはいえ,私の論理的感覚だけは別個に働いていました。CPRと投薬によって主人の病状を安定させる努力がなされていた間ずっとそのそばにいましたから,私はよくある拒否症状は経験しませんでした。それでも,強いざせつ感がありました。車が断がいから落ちて行くのを見ていながら,自分では何もできないでいるような気持ちでした」。
彼女は泣きましたか。「もちろん泣きました。特に,送られてきた何百通もの慰めのカードを読んでいた時です。一枚ごとに声を上げて泣きました。それは,その日の残りのひと時に立ち向かう助けになりました。でも,自分がどのような気持ちかと幾度尋ねられても,それは何の助けにもなりませんでした。どう見ても,私は惨めな気持ちでした」。
ユニスにとって,悲しみをこらえて生きる助けとなったものは何でしたか。彼女はこう語っています。「それと気づかず,無意識のうちに,自分のこれまでの生活を続けてゆこうと思い定めていました。それにしても,今なお辛く感じられるのは,日々の生活をあれほど愛した主人が,いま共にいてそれを楽しめないことを思うときです」。
『他の人の言うままになってはならない』
「告別 ― さようならをいつ,どのように」の著者たちはこう忠告しています。「他の人の言うままに行動したり感じたりしてはいけない。悲しみがどのような過程をたどるかは人それぞれに違う。あなたは悲しみすぎている,あるいはもっと悲しんでもよいと他の人たちは考え,その考えをあなたに知らせようとするだろう。そうした人たちを許してあげると共に,それを忘れてしまいなさい。他の人たちが,あるいは社会全体が作り上げた型に無理に自分を合わせようとすることによって,感情面での健康の回復のための自分の成長を妨げることになる」。
言うまでもなく,悲しみに対処する方法は人によって異なります。どんな人にとってもある一つの方法が他の方法より必ず優れている,と言おうとしているのではありません。しかし,沈滞した状態になり,悲嘆に暮れた人が現実の状況に自分を合わせることができなくなってしまうなら,そこには危険があります。その時には,同情心のある友人からの助けが必要でしょう。聖書は,「真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である」と述べています。ですから,助けを求めること,話すこと,そして,泣くこともためらわないでください。―箴言 17:17。
悲しみは死別に対する自然な反応であり,悲嘆していることが人の前であらわに示されるとしても悪いことではありません。しかし,答えの必要な質問がほかにもあります。『自分の悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか。とがめや怒りの気持ちを感じるのは普通のことですか。そのような反応にどう対処したらよいでしょうか。死別の悲しみを忍ぶのに何が役に立ちますか』。次の部分はこれらの問いに,また他の多くの問いに答えることでしょう。
a 例えば,ナイジェリアのヨルバ族の人々は,伝統的に魂の輪廻を信じています。そのため,母親が子供を亡くした場合,強い悲嘆が示されますが,それはほんのしばらくの間だけです。ヨルバ語の言い回しにあるとおり,「こぼれ出たのは水,ひょうたんが割れたわけではない」からです。ヨルバの人々によると,これは,水を運ぶひょうたんとも言うべき母親は,恐らく死んだ子供の輪廻として,別の子供を産むことができる,という意味です。エホバの証人は,聖書に全く裏づけのない誤りの教えである不滅の魂や輪廻の思想に基づく迷信的な伝統にはいっさい従いません。―伝道の書 9:5,10。エゼキエル 18:4,20。
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この悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか愛する家族を亡くしたとき
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この悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか
「私は自分の感情をこらえるのにかなりの重圧を感じました」。マイクは,父親が死んだ時のことを思い出してこのように語ります。マイクにとって,自分の悲しみを抑えるのは男らしいことでした。しかし後に,自分のこの考え方が正しくないことに気づきました。それで,マイクの友人が祖父を亡くした時には,自分がどのようにしたらよいかが分かっていました。こう語っています。「何年か前だったなら,肩をたたいて,『めそめそするなよ』と言っていたことでしょう。しかし今は,彼の腕を取ってこう言いました。『どのようにでも君の感じるままでいいんだよ。それが君の助けになるんだから。独りでいたいのなら,僕はどこかへ行くし,一緒にいて欲しいなら,僕はここにいる。感じるままでいることを恐れなくてもいいんだよ」。
マリーアンも,夫を亡くしたとき,自分の感情をこらえることに難しさを覚えました。このように回想しています。「私は,他の人たちの良い手本にならなければいけないと考えて,自分の普通の感情を表わしませんでした。でも,他の人のために強い支えになろうとしてみても,自分の助けにはならないことをやがて知りました。私は自分の状況を分析してみて,『どうしても泣きたければ泣いたほうがよい。強がってはいけない。それを自分の体から出してしまいなさい』と言えるようになりました」。
こうして,マイクもマリーアンも共に,悲しみがあるならそれを表わしなさい,と勧めています。これは間違いではありません。なぜ? なぜなら,悲しみを感じて表わすことは,感情を解きほぐすのに必要なことだからです。感情を解放することによって,重圧となっているものを除くことができます。感じていることをそのとおり自然に表現することは,それに正確で思いやりのある情報が伴っているなら,あなたの感情を正しい視点に置くのに役立つのです。
もちろん,すべての人が自分の悲しみを同じ方法で示すわけではありません。そして,愛する人を急に亡くしたのか,あるいは長い闘病の後であったのかという点も,残された人の感情面の反応に関係することでしょう。とはいえ,一つのことは確かなようです。つまり,自分の感情を抑圧することは,体の面でも情緒の面でも有害です。自分の抱く悲しみの気持ちを解放するほうが,ずっと健康的なのです。どのように? 聖書はこの点で実際的な助言を差し伸べています。
悲しみの気持ちを解放する ― どのように?
話すことは感情の解放に役立ちます。古代の族長ヨブは,自分の10人の子供すべてに先立たれ,加えて他の幾つもの悲劇に遭遇したとき,このように言いました。「わたしの魂は自分の命に対して確かに嫌悪を感ずる。わたしは自分についての気遣いを漏らそう[ヘブライ語,「解き放とう」]。わたしは自分の魂の苦しみのうちにあって語ろう!」(ヨブ 1:2,18,19; 10:1)ヨブとしては,自分の気にかかっている事柄をもはや抑えておくことができませんでした。それを解き放つことが必要であり,『語らないでは』いられませんでした。同じように,英国の劇作家シェークスピアも「マクベス」の中にこう書いています。「悲しみには言葉を与えよ。黙せし悲嘆は,ふくらみすぎし心にささやきて,その破裂を命ぜん」。
ですから,自分の感じている事柄を,辛抱づよく同情心をもって聴いてくれる「真の友」に話すのは,ある程度の安らぎとなります。(箴言 17:17)自分の経験や感情を言葉で言い表わしてみると,それを理解し,それと取り組むことが大抵の場合やさしくなります。そして,聴いてくれる人が,同じように肉親を亡くしたことがあり,死別の経験を乗り越えた人であれば,問題にどのように対処したらよいかについて何かの実際的な提案をくみ出すことができるでしょう。ひとりの母親は,自分の子供を亡くしたとき,同じように死別の悲しみを知る別の母親と話すことがどうして支えとなったかを,このように述べています。「ほかにも同じ経験をして,それから立ち直っている人がおり,その人がしっかり生きて,生活にそれなりの秩序を取り戻していることを知るのは,私にとってとても力になりました」。
聖書の中の例は,自分の気持ちを書きとめてみることが悲しみの気持ちを表現する助けになる場合のあることを示している
自分の感じていることを他の人に話したい気持ちにならないならどうでしょうか。サウルとヨナタンが死んだとき,ダビデは情感あふれる哀歌を詠んで,自分の悲しみの気持ちをそこに注ぎ出しました。その哀悼の詩はやがて聖書のサムエル記第二の書の一部として記録されました。(サムエル第二 1:17-27。歴代第二 35:25)これと同じように,自分の気持ちは文章のほうが表現しやすいと感じる人もいます。夫を亡くしたある人は,感じたことを書きしたため,自分の記したことを幾日ものちに読み返した,と話しています。これは,この人にとって気持ちを解きほぐす助けになりました。
話すにせよ書くにせよ,自分の感情を何かの形で伝えることは,悲しみを解きほぐす助けになります。それはまた,何か誤解している点を整理するのにも役立ちます。子供を亡くしたある母親はこのように話しています。「夫と私は,子供を亡くしたあとに離婚してしまった人たちのいることを聞き,そのような事が自分たちに起きないようにと願いました。それで,何かの怒りを感じて相手を責めたい気持ちになった時にはいつも,二人でその点をよく話し合いました。そのようにすることによって,私たちはむしろ互いに引き寄せられたと思います」。こうして,自分の感情を伝えることによって,たとえ同じ死を悼んでいる場合でも,人によって悲しみ方が違い,それぞれのペースと方法があるのだ,という点を理解できるようになるでしょう。
もう一つ,悲しみを解きほぐすのに役立つのは,声を出して泣くことです。『泣き叫ぶのに時がある』と聖書は述べています。(伝道の書 3:1,4)自分の愛する人の死はまさにそのような時です。悲しみの涙を流すことは,それから癒えるための過程として必要なことのようです。
ひとりの若い女性は,母親を亡くしたときに親しい友の一人がどのようにそれを乗り越える支えとなってくれたかを思い出してこう述べています。「友人はいつでも私の求めにこたえてそこにいてくれました。いっしょに泣き,話の相手となってくれました。私は自分の感情をありのままに表わすことができ,それが私にとって重要でした。きまりの悪い思いをせずに声を上げて泣くことができたのです」。(ローマ 12:15をご覧ください。)涙を見せることについて恥じらう必要もありません。すでに見たとおり,聖書の中には,イエス・キリストをはじめ,明らかに何らためらうことなく悲嘆の涙を人の前で流した信仰の男女の例がたくさんあります。―創世記 50:3。サムエル第二 1:11,12。ヨハネ 11:33,35。
どんな文化においても,悲しむ人にとって慰めは貴重なもの
しばらくは,自分の感情がどのようになるか予測もつかないようなことさえあるかもしれません。それほどの予告もなく涙があふれ出て来ることもあるでしょう。夫を亡くしたひとりの女性は,スーパーマーケットでの買い物(夫の生前によくいっしょに行なったこと)が自分に涙をもよおさせることがあるのを知りました。とりわけ,夫の好物であった食品につい手を伸ばしてしまったりしたときです。自分に寛容であってください。涙をこらえなければならないと感じなくてもよいのです。忘れないでください,それは悲しみの,自然で,必要な過程なのです。
とがめの気持ちと取り組む
さきにも述べたとおり,自分の愛する者との死別ののちに,罪の意識を感じる人がいます。この点は,忠信の人ヤコブが,自分の息子ヨセフは「たちの悪い野獣」に殺されたのだと信じ込まされた時に示した,激しい悲嘆の情を説明するものとなるかもしれません。息子たちの安否を確かめさせようとしてヨセフを遣わしたのはヤコブ自身でした。ですからヤコブとしては,『なぜ自分はヨセフを独りで出してしまったのか。なぜあの子を,野獣の群がる所に送ってしまったのか』と,自らを罪の意識で責めさいなんでいたことが考えられます。―創世記 37:33-35。
あなたも,自分の側の何かの手落ちが,愛する人の死の一因となったと感じるようなことがあるかもしれません。実際であれ,想像上のことであれ,その種のとがめを意識するのも,こうした悲しみに対するごく普通の反応の一つであることを理解しておくのは役立ちます。ここでも,そのような感情を自分だけのものにしておくべき理由はありません。自分がどのようにとがめを感じているかを話すことが,大いに必要な安どの気持ちをもたらすことでしょう。
しかしながら,どれほど人を愛しているとしても,わたしたち自身はその人の命を制御することはできず,「時と予見しえない出来事」がわたしたちの愛する人に臨むのを防ぐことはできません。(伝道の書 9:11)さらに,あなたの動機は悪いものではなかったはずです。例えば,医師にみせるのをもっと早くできなかったからといって,あなたとしては,自分の愛する人が病気になって死ぬことを意図したのでしょうか。もとよりそうではありません! では,その人の死を来たらせた責任が本当にあなたにあるのでしょうか。決してそうではありません。
ひとりの母親は,娘を車の事故で亡くしましたが,その後,とがめの気持ちに対処することを学びました。こう説明しています。「自分が娘を行かせたことで責められるものを感じました。でも,そのような感じ方は賢くないと思うようになりました。娘を父親といっしょに使いに行かせたことそのものに間違ったことはありません。それはただ,一つのひどい事故だったのです」。
『それでも,ああ言えば良かった,こうすれば良かったと思うことがあまりに多い』と言われるかもしれません。きっとそうでしょう。しかし,自分は完全な父親,母親,子供であった,と言える人がわたしたちの中にだれかいるのでしょうか。聖書は,「わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人で(す)」と述べて,大切な点を銘記させています。(ヤコブ 3:2。ローマ 5:12)ですから,自分が完全ではないという事実を受けとめてください。『もしああしていれば』とあれこれ考えてみても,状況は少しも変わらず,むしろ立ち直りを遅らせてしまうだけでしょう。
自分の落ち度は想像ではなく実際のものだった,と信じるそれなりの理由があるとしましょう。その場合でも,罪の意識を和らげる点で最も重要な要素は何かを考えてください。それは,神からの許しです。聖書はこのような保証の言葉を与えています。「ヤハよ,あなたの見つめるものがとがであるなら,エホバよ,いったいだれが立ち得るでしょうか。あなたのもとには真の許しがあるからです」。(詩編 130:3,4)過去に戻って事態を変えるということはできません。しかし,過去の誤りについて神の許しを請うことはできます。その後はどうすればよいのでしょうか。神が,以前の過ちをぬぐい去ることを約束しておられるのであれば,あなたも自分を許すべきではないでしょうか。―箴言 28:13。ヨハネ第一 1:9。
怒りの気持ちに対処する
もしかしたら,医師や看護婦たち,友人たち,さらには今は亡き人に対してさえ,ある種の怒りのようなものも感じておられるでしょうか。これも,死別に対するごく普通の反応の一つであることを認めてください。あなたのその怒りの気持ちは,自分が受けた打撃の自然な反映なのかもしれません。ある著述家はこう書いています。「その怒りの気持ちに気づくこと,しかしそれにしたがって行動せず,ただ自分がそれを感じていることを知っているだけで,それが持つ破壊的な影響から逃れることができる」。
自分のその怒りの気持ちを言い表わす,もしくは分かち合うことも助けになるかもしれません。どのように? もちろん,無制御に爆発させることによってではありません。聖書は,怒りの気持ちを長く宿しているのは危険であると警告しています。(箴言 14:29,30)しかし,思いやりのある友とそれについて語り合うことが慰めとなることでしょう。また,怒りの気持ちが生じるとき,精力的に体を動かすことが,感情を解きほぐすのに役だったと感じている人たちもいます。―エフェソス 4:25,26もご覧ください。
自分の感じている事柄について正直で包み隠しのないのは大切なことですが,ここで少し注意しておくべき点もあります。自分の感情を表現することと,それを他の人にぶつけることには大きな違いがあります。自分の感じた怒りや失意について他の人を責める必要はありません。ですから,自分の感情について思いのままに語りつつも,人に敵対したりすることのないよう気をつけてください。(箴言 18:21)悲しみに対応してゆく点では,一つの非常に優れた助けがほかにあります。それについて次に取り上げましょう。
神からの助け
聖書はこう保証しています。「エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」。(詩編 34:18)そうです,神との関係が,他の何事にも勝って,愛する人の死に対応する助けとなるのです。どのようにでしょうか。ここまでに述べたすべての実際的な提案は,神の言葉である聖書に基づき,あるいはそれにかなったものなのです。これらの点を当てはめることは,耐えてゆくための助けとなることでしょう。
さらに,祈りの価値を見落とさないでください。聖書はこう勧めています。「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる」。(詩編 55:22)同情心のある友に自分の感情について語りつくすことが助けとなるのであれば,「すべての慰めの神」に自分の心の中を注ぎ出すことは,はるかに大きな助けとなるはずではないでしょうか。―コリント第二 1:3。
祈ることによって単に気持ちが軽くなるというのではありません。「祈りを聞かれる方」は,誠実に求めるご自分の僕たちに聖霊を与えることを約束しておられます。(詩編 65:2。ルカ 11:13)そして,神の聖霊つまり神の活動する力は,あなたが日一日と進んでゆくことができるよう,『普通を超えた力』を与えることができます。(コリント第二 4:7)忘れないでください,神は,ご自分の忠実な僕たちがどんな問題にぶつかろうとも,そのいずれにも耐え忍ぶことができるように助けることがおできになるのです。
子供を死に奪われたひとりの女性は,その喪失に耐えてゆく上で,祈りの力が自分と自分の夫にとってどれほど支えとなったかを思い出して,こう語っています。「晩に家にいて,悲しみにただ押しつぶされそうになった時には,声を上げていっしょに祈りました。娘なしで何かをしなければならなかった最初の時,最初の会衆の集会に行ったとき,最初に大会に出席したとき,私たちは力ぞえを求めて祈ったものです。朝,目を覚まして,その現実が全くこらえがたいものに思えた時にも,助けてください,とエホバに祈りました。なぜか,自分独りで家に入ることは私にとって本当にやるせないものでした。それで,独りで家に帰った時にはいつも,ただエホバに祈りをささげて,なんとか平静さを保てるようにとお願いしました」。この忠実な婦人は,こうした祈りが間違いなく相違を来たしたことを確信しており,それは全く正しいことです。あなたも,たゆまぬ祈りにこたえ応じて,『一切の考えに勝る神の平和が,あなたの心と知力を守ってくださる』のを知ることでしょう。―フィリピ 4:6,7。ローマ 12:12。
神が与えてくださる助けはまさしく相違を来たします。クリスチャンの使徒パウロは,神が「すべての患難においてわたしたちを慰めてくださり……わたしたちがどんな患難にある人たちをも慰めることができるようにしてくださる」と述べました。確かに,神の助けはその苦痛を除き去るわけではありません。しかし,それに耐えやすくすることができます。それは,あなたがもはや泣くことがないとか,自分の愛する者を忘れるとかいう意味ではありません。ですが,あなたは立ち直ることができます。そして,立ち直ることを通して,その経験は,同様の喪失に直面する他の人たちを助ける面で,あなたを,いっそう同情心に富む,思いやりのある人とすることでしょう。―コリント第二 1:4。
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他の人はどのように助けになれますか愛する家族を亡くしたとき
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他の人はどのように助けになれますか
「もし私にできることがあったら,何でも知らせてください」。家族を亡くしたばかりの友人や親族に,わたしたちはよくこのように言います。もちろん,誠実な気持ちでそう言うのです。役立つことがあるならどんな事でもしたいと思っているのです。しかし,家族を亡くしたその人が,わたしたちに電話でもかけてきて,「あなたに助けていただける事を思いつきました」と言ってくるでしょうか。そのようなことは普通ありません。ここで明らかなように,悲嘆に沈んでいる人の真の支えとなり,慰めになろうとするのであれば,わたしたちのほうから何かを進んで行なうことが必要でしょう。
聖書の箴言はこのように述べています。「適切な時に話される言葉は,銀の彫り物の中の金のりんごのようだ」。(箴言 15:23; 25:11)何を言い,何を言うべきでないか,また何をし,何をすべきでないかをわきまえることには知恵があります。以下に挙げるのは聖書に基づく提案で,肉親を亡くした人たちがほんとうに役立ったと感じた点です。
何をすべきか……
よく聴いてあげなさい: 「聞くことに速く」ありなさい,とヤコブ 1章19節は述べています。あなたにできる最も大きな助けの一つは,よく耳を傾けて,肉親を亡くした人の悲痛な思いを共にすることです。肉親を亡くした人の中には,愛する人の死について,それが事故であっても病気であっても,その様子について,またその別れ以来自分が感じていることについて,ぜひ話したいと感じている人たちもいます。ですから,「そのことについて話したいと思われますか」と尋ねてみるのがよいでしょう。その人自身が決めるようにしてください。自分の父親が死んだ時のことを思い出して,ひとりの青年はこう話しています。「他の人たちが,それがどのようないきさつだったのかと尋ね,そのあと実際に耳を傾けてくださったのは,私にとって本当に力になりました」。辛抱づよく,同情心をこめて聴いてください。何かの答えや解決策を出さなければならないと感じる必要は必ずしもありません。何でもその人が伝えたいと思うことを話せるようにしてあげてください。
安心させてあげてください: その人が可能なかぎりを尽くしたのだという点(あるいは,ほかのどんな点でも,真実で積極的な見方だとあなたの知っていること)を認めてあげてください。悲しみ,怒り,とがめの気持ち,あるいは他のどんな感情にせよ,その人の感じていることが決して異例なものではないだろうという点でも安心させてあげてください。あなたの知っている方で,同じような死別の経験からしっかり立ち直った人の例について話してあげるのもよいでしょう。箴言 16章24節が述べるとおり,そのような「快いことば」は「骨のいやし」となります。―テサロニケ第一 5:11,14。
いつでも力になれるようにしなさい: 多くの友人や親族がそばに来ている初めの数日だけでなく,何か月も過ぎて,他の人たちがそれぞれいつもの活動に戻った後にも,自分が助けになれることを示してください。そのようにすることによって,「苦難」の時に友のそばに立つ「真の友」となれるでしょう。(箴言 17:17)車の事故で子供を亡くした母親テレシアはこう述べています。「友人たちは,晩の時間に必ず何かを計画してくれて,私たちが自分たちだけで家で長く過ごさないでよいようにしてくれました。それは,私たちのうつろな感覚を満たす助けになりました」。そのあと幾年たっても,結婚の記念日や亡くなった日など,思い出となる日は,残された人たちにとっては辛い時になりがちです。そのような日付はカレンダーに印を付けておいて,その日が巡ってきた時に,必要なら,同情の気持ちで自分も何か支えになれることを伝えられるようにすることはどうでしょうか。
確かに必要な事柄がはっきり分かるなら,求められるまで待たず,適宜率先して行なう
適宜率先しなさい: 何かの使い走りがありますか。だれかが子供たちを見ていてあげる必要がありますか。訪ねて来る友人や親族の泊まる場所が必要でしょうか。家族を亡くしたばかりの人はとかくぼう然としてしまって,他の人たちに何をして欲しいかを告げることはおろか,自分たちが何をしたらよいのかさえ分からなくなりがちです。ですから,確かに必要な事柄がはっきり分かるなら,求められるまで待つには及ばないでしょう。進んで事を進めてください。(コリント第一 10:24。ヨハネ第一 3:17,18と比較してください。)夫を亡くしたひとりの婦人はこのように回想しています。「『私にできることがあったら,知らせてください』と多くの方が言ってくださいました。でも,ある友人は何も尋ねませんでした。すぐに寝室に入って,ベッドから寝具を外し,主人の死に際して汚れのついたシーツ類を洗ってくれました。別の方は,バケツに水をくみ,そうじの道具を手にして,主人が吐いた床の敷物をきれいにしてくださいました。数週間後,会衆の長老のひとりは,道具を持って仕事着で来てくださり,『何か直さなければならないものがきっとあるでしょう。何でしょうか』と尋ねてくださいました。その方の助けは私の心にとって何と貴重だったのでしょう。ちょうつがいが一つだけになっていたドアを修理し,電気の備品も直していただいたのです」。―ヤコブ 1:27と比較してください。
親切なもてなしを差し伸べなさい: 「人を親切にもてなすことを忘れてはなりません」と聖書は諭しています。(ヘブライ 13:2)とりわけ,悲嘆に沈んでいる人たちにもてなしを差し伸べることを銘記しているべきです。「いつでもいらっしゃい」という招待よりも,日と時間を決めてあげるほうがよいでしょう。たとえその人が辞退しても,すぐにあきらめないことです。何かの穏やかな励ましが必要なのかもしれません。人の前で自制を失ってしまうことを恐れて,あなたの招きを断わったことさえ考えられます。あるいは,そのような時期に食事や友人との交わりを楽しむことにためらいを覚えるのかもしれません。聖書に出てくる,もてなしの精神に富んだ女性ルデアのことを思い出してください。ルカはその家に招かれましたが,「彼女はわたしたちを強いて連れて行った」と述べています。―使徒 16:15。
辛抱づよくあり,思いやりを働かせなさい: 肉親を亡くした人が当初口にしてしまう事柄にあまり驚かないでください。その人は怒りやとがめを感じているのかもしれないことを忘れないでください。感情的な爆発がたとえあなたに向けられたとしても,それは,いらだった反応をしないために,あなたの側の洞察と辛抱が求められる場合でしょう。「優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい」と聖書は勧めています。―コロサイ 3:12,13。
手紙を書きなさい: しばしば見落とされているのは,哀悼や同情の気持ちを表わしたカードなどの手紙の価値です。それの良い点ですか。母親をガンで亡くしたシンディーはこう答えています。「ひとりの友人は素敵な手紙を書いてくださいました。それはほんとうに助けになりました。何度も読み返すことができたからです」。その種の励ましの手紙やカードは,「少しの言葉」であるにしても,あなたの心から出たものであるべきです。(ヘブライ 13:22)その言葉を通して,あなたがその人のことを心にかけていること,自分もその亡くなった方についての特別の思い出を抱いていることを伝え,また故人となったその方によって自分の人生がどのように影響を受けてきたかを伝えることができるでしょう。
一緒に祈りなさい: 家族を亡くしたその人たちと共に,あるいはその人たちのために祈ることの価値を軽く見ないでください。聖書は,「義にかなった人の祈願は……大きな力があ(る)」と述べています。(ヤコブ 5:16)例えば,あなたがその人たちのために祈るのを聞くのは,とがめの念など,その人たちが持つ消極的な気持ちを和らげる助けになるでしょう。―ヤコブ 5:13-15と比較してください。
何をすべきでないか……
あなたがその病院で共にいることが家族を亡くした人の励ましとなることがある
何を言い何をしたらよいかが分からないからといって何もしないでいてはいけない: 『今はそっとしておいてあげたほうが良いだろう』と勝手に考えてしまうことがあるかもしれません。でも,実際のところは,場違いなことを言ったりしたりしてはいけないと思ってただ引き下がっているのかもしれません。しかし,友人や親族や信仰の仲間から敬遠されると,肉親を亡くした人にとってはいっそう寂しく,その悲痛な思いをただ募らせることにもなるでしょう。最も親切な言葉や行為とは,最も簡単なものである場合が多いのです。この点を覚えていてください。(エフェソス 4:32)ただあなたがそこにいることが励ましの元となることもあるのです。(使徒 28:15と比較してください。)自分の娘が死んだ時のことを思い出してテレシアはこう語ります。「1時間もしないうちに,病院のロビーは友人たちでいっぱいになりました。すべての長老たちが夫人といっしょに来てくださいました。髪にカーラーを付けたままの女性たち,仕事着のままの方たちもおられました。皆やりかけの事をそのままにして駆けつけてくださったのです。何と言ったらよいか分からないと言う方が大勢おられましたが,それは問題ではありませんでした。ともかくそこへ来てくださったのです」。
悲しまないでと無理に言ってはいけない: 『まあ,まあ,泣かないで,泣かないで』と言ってあげたい気持ちかもしれません。しかし,涙はあふれさせたほうがよいでしょう。夫の死を思い返してキャサリンはこう語ります。「家族を亡くした人には,自分の感情を表わし,それをじゅうぶん出させてあげることが大切だと思います」。どのように感じるべきかを他の人に指示するようなことは避けてください。また,人の感情を守るために自分の感情を隠さなければならない,とも考えないでください。聖書はむしろ,「泣く人たちと共に泣きなさい」と勧めています。―ローマ 12:15。
亡くなった人の衣服その他の遺品を処分しなさいと,当人の備えができていないうちに性急な勧めをしてはならない: 思い出を呼び覚ます品物は悲しみを長引かせやすいので,それは処分したほうがよいのではないかとわたしたちは感じるかもしれません。しかし,「目にしなければ忘れる」というのは,ここでは当てはまらないでしょう。家族と死に別れた人にとっては,亡くなった人のことを徐々に去らせてゆくことが必要でしょう。自分の年若い息子ヨセフが野生動物に殺されたのだと思い込まされた時の族長ヤコブの反応について,聖書の記していることを思い起こしてください。血にまみれたヨセフの長い衣を前にした時,ヤコブは「息子のために幾日も悼み悲しんだ。それで,すべての息子たち,すべての娘たちが次々に立ち上がっては慰めたが,彼は慰めを受け入れようと(はしなかった)」と記されています。―創世記 37:31-35。
『もうひとり赤ちゃんを持てばよい』などと言ってはならない: 子供を亡くしたひとりの母親は,自分の場合を思い起こして,「人々が別の子供を持てばよいと言うのを聞いた時,私は憤慨しました」と語っています。悪ぎはなくこう言うのですが,死に別れた子供に取り替えがきくという意味の発言は,悲嘆に暮れる親たちにとっては,「剣で突き刺す」ような言葉なのです。(箴言 12:18)ひとりの子供を別の子供と置き替えることは決してできません。なぜでしょうか。一人ひとりが独特の存在だからです。
亡くなった人のことを話題にするのをことさら避けてはいけない: ある母親はこう回想しています。「息子ジミーのことを話そうとせず,その名前さえ口にしない人がとても多くいます。率直に言うと,他の人たちがそのようにしたとき,私としては心証を害されました」。ですから,故人の名が出たからといってことさらに話題を変えるには及びません。亡くなった愛する人について話したいことがあるかどうか,その人に尋ねてみてください。(ヨブ 1:18,19および10:1と比較してください。)家族を亡くした人の中には,友人たちに慕われた故人の特別の面などについて話を聞くのをうれしく思う人たちもいます。―使徒 9:36-39と比較してください。
『それがいちばん良かったのだ』などとすぐに言ってはならない: 死に関して何か積極的な点を見つけようとするのは,必ずしも,「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ(る)」ことにはなりません。(テサロニケ第一 5:14)母親が死んだ時のことを思い返してひとりの若い女性はこう話しています。「『お母さんはいまは苦しんではいない』とか,『とにかくいまは平安よ』と言う方たちがいました。ですが,それは私にとってうれしい言葉ではありませんでした」。この種の言い方は,残された人たちに,悲しむ必要はないとか,死別はそれほどの意味を持たない,というように伝わることもあります。実際のところその人は,愛する人との別れを痛切に悼み,深く悲しんでいることでしょう。
『お気持ちはよく分かります』とは言わないほうがよい: 本当に分かっているでしょうか。例えば,子供を亡くした親の気持ちが,自分ではそのような死別の経験がないのに果たして分かるのでしょうか。たとえ同様の経験があるとしても,他の人はあなたと全く同じ感じ方をしていないかもしれないことも認めてください。(哀歌 1:12と比較してください。)他方,もし適当であれば,愛する者との死別から自分がどのように立ち直ったかを話すことにはきっと何かの益があるでしょう。娘を亡くしたひとりの母親は,同じく娘に先立たれた別の母親から,普通の生活に戻るまでがどのようであったかを聞いて力づけられました。こう話しています。「娘さんを亡くしたその方は,『あなたの気持ちはよく分かる』というようなかたちで話を始めませんでした。ただ自分がどうであったかを話して,私のことについては私に考えさせてくれました」。
家族を亡くした人を助けるためには,同情心と,識別力と,深い愛が求められます。あとに残された人があなたのところに来るのを待っていないでください。「私にできることが何かあるなら……」とは言わないでください。その「何か」を自分で見つけ,適宜率先して行なってください。
まだ幾つかの質問が残っています。聖書が差し伸べる復活の希望についてはどうでしょうか。それは,あなたにとって,また亡くなったあなたの愛する方にとって,どのような意味がありますか。それが信頼できる希望であることをどのように確信できますか。
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