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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1990
塔90 10/15 30–31ページ

読者からの質問

■ 新世界訳以外の幾つかの翻訳聖書は,創世記 3章1節のアールームというヘブライ語を「こうかつな」もしくは「利口な」と訳しているのに,なぜ新世界訳聖書は,『用心深い』と訳しているのですか。

その聖句はこうなっています。「さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言いはじめた。『あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか』」。

新世界訳は,箴言 12章23節や他の箇所でヘブライ語アールームを「明敏な」と訳しています。それはそのヘブライ語が人間に適用される場合の基本的な意味の一つです。しかし,非常に多くの単語がそうであるように,アールームという語も様々な意味を帯びています。例えば,ベンジャミン・デービドソンは,アールームを次のように定義しています。「I. 悪賢い,こうかつな,陰険な。―II. 慎重な,用心深い」―「ヘブライ語・カルデア語 分析辞典」。

では,なぜ新世界訳は創世記 3章1節で『用心深い』という二次的な意味を選んで使っているのでしょうか。それはその選択のほうが他の翻訳と一致しているからです。例えば,西暦前3世紀のセプトゥアギンタ訳の中で創世記 3章1節がギリシャ語に翻訳されたとき,フロニモスという語が用いられました。同じその語が後にマタイ 10章16節で,「あなた方は蛇のように用心深く,はとのように優しくなければならない」というふうに用いられています。―「今日の英語訳」。

ヘブライ語学者のルートウィヒ・ケーラーは,1945年当時こう注解しました。「蛇は臆病な動物である。これはフロニモスというギリシャ語で非常に的確に表現できる。蛇はこの臆病さや用心深さによって,フレネスを所有・実践していることを表わすからである」。このフレネスとは,他の動物も表わす一種の本能的な知恵のことです。―箴言 30:24と比較してください。

しかし,創世記 3章1節で「明敏な」もしくは「利口な」という語の代わりに『用心深い』という語を用いるもっと重要な理由があります。この箇所で,つまり蛇がエバをたぶらかして罪を犯させたという記述の直前で,蛇を利口な動物と呼ぶとすれば,多くの読者は,単なる蛇が自らの並外れた利口さによってこのたくらみを成し遂げたと聖書は述べている,と結論してしまうかもしれません。そのような解釈をすれば,この話は神話になり下がってしまいます。それもどちらかと言うとばかげた神話です。

聖書はそれとは逆に,そのエデンの園では利口な蛇以上の者が暗躍していたことを教えています。啓示 12章9節は明確に,悪魔サタンをその「初めからの蛇」と同一視しています。悪魔は目に見えない超人間の力であり,腹話術の名人が人形を操作するように,ごく普通の爬虫類を操っていたのです。その策略に蛇を選んで使うのが理想的だったのは,蛇が用心深い性質の動物だからです。その蛇が,持ち前の性質に反して,用心深く人を避けようともせず,かえって大胆に口を開き,エバに向かって話し始めたのですから,それだけ一層効果的にエバの注意をひきつけることになりました。

霊感によって書かれた神の言葉は神話とは無関係であり,わたしたちは新世界訳聖書の正確な翻訳によって,この事実を認識するよう助けられているのです。―テモテ第二 3:16。

■ エホバの証人は死者が無意識であることを知っているのに,なぜ仲間の信者の葬式に出席することを重要なことと考えるのですか。

エホバの証人は,死者の状態について聖書から正確な知識を得ているので,間違った態度やその結果として表われる葬式の際の賢明ではない振る舞いを避けることができ,クリスチャンの葬式に出席する理由もわきまえています。

人は死後に不滅の魂として生き続けるということはありません。神の言葉はそのことをはっきり示しています。(伝道の書 9:5)死後,体は自然な腐敗過程か焼却によって塵に戻ります。死んだ人はもはや生きていません。死者は,神が将来その者を復活させる場合にのみ,再び生きるようになります。―ヨハネ 5:28,29。使徒 24:15。

ですからエホバの証人は,死者には不滅の魂があって,それがどこかで生き続けるといった信条に基づく葬式の習慣には従いません。エホバの証人は,“死霊”を追い払うために大声で歌を歌ったり嘆きの言葉を唱えたりする通夜を行ないませんし,死者をなだめるために徹夜したり過度に嘆いたりすることもありません。

しかしこれは,神の民は嘆き悲しむことをしないという意味ではありません。死者についての正確な知識を持っている真の崇拝者であっても,親族や親しい友人を亡くした場合は悲しい気持ちになります。例えば族長ヤコブは,ヨセフが野獣に殺されたと思ったとき,「息子のために幾日も悼み悲し(み)」ました。そこで,「すべての息子たち,すべての娘たちが次々に立ち上がっては慰めた」と記されています。(創世記 37:33-35)忠実なヤコブが死んだとき,ヨセフは「自分の僕たち,医者たちに命じて父の遺体の香詰め保存を行なわせ」,「エジプト人は彼のために七十日のあいだ涙を流し」ました。ヤコブの家族は死者に関するエジプト人の間違った見方に従っていたわけではないものの,明らかにヤコブの死に心を動かされました。「ヨセフの家のすべての者,およびその兄弟たち」はヤコブがふさわしく埋葬されることを望みました。部外者たちでさえ,彼らが嘆き悲しんでいることに気づきました。―創世記 50:1-11。

エホバの僕たちが仲間の崇拝者や親族の死に本当に心を動かされてふさわしい哀悼の意を表明したことについては,ほかにも聖書から多くの例を挙げることができます。a イエスは,ラザロの死を悼む親族と一緒におられたとき,無感覚な平然とした態度やその場にそぐわない陽気な態度は示されませんでした。それどころか,復活させる力があることに確信を抱いておられたにもかかわらず,涙を流されたのです。(ヨハネ 11:33-35)イエス自身の死後,弟子たちは,イエスが殺されたあと再び命によみがえらされるとイエスから告げられてはいても,嘆き悲しみました。―マタイ 16:21,28。ヨハネ 16:17-20; 20:11。

今日の神の僕たちは,死がもたらす悲しみを感じることができ,実際に感じます。それでも,彼らは聖書の教えを理解しているので,次のテサロニケ第一 4章13節と14節に調和して悲嘆を和らげ,平衡のとれたものにすることができます。「兄弟たち,死んで眠っている者たちについてあなた方が知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人々のように悲しむことのないためです。イエスは死んでよみがえったということがわたしたちの信仰であれば,神はイエスにより死んで眠っている者たちをも彼と共にやはり連れ出してくださるからです」。

ではクリスチャンの葬式(つまり,一人の信者に関する追悼の話)に出席することについてはどうでしょうか。証人たちはそのような式を執り行ない,それに出席するのを有益なことと考えていますが,それには聖書的な理由があります。

ヤコブが息子を亡くしたと思えたとき,「すべての息子たち,すべての娘たちが次々に立ち上がっては慰めた」という点を思い起こしてください。(創世記 37:35)多くの国では通例,葬式の時には親族が集まります。そのため,あまり親しくなかったので感情的に大きな影響を受けていない人たちにとって,同情や慰めの言葉をかける機会が開かれます。ラザロの死後,『大勢のユダヤ人がマルタとマリアのところに来て,その兄弟のことで彼女たちを慰めようと』しました。(ヨハネ 11:19)これは,「どんな患難にある人たちをも慰める」ことを願うクリスチャンにも影響を与えます。―コリント第二 1:4。

クリスチャンの監督たちは,非常に多忙だとしても,群れに慰めを与える点で率先すべきでしょう。彼らは,りっぱな羊飼いであられる模範者イエスが『心の打ち砕かれた者を包帯で包み,嘆き悲しむすべての者を慰める』使命を帯びておられたことを思いに留めます。(イザヤ 61:1,2。ヨハネ 10:14)イエスは都合のよい時にだけそのような慰めを差し伸べたのではありません。ラザロの遺族と共に過ごす,つまり彼らと悲しみを共にすることを進んで行なわれたのです。―ヨハネ 11:11,17,33。

クリスチャンはたとえ葬式の時に遺族に多くのことを言えなくても,その場にいるだけで善を行なうことができます。嘆き悲しむ家族の成員は,クリスチャン会衆の若い人も年老いた人も大勢が同情心を抱いて出席してくれたことを見て大いに慰められるかもしれません。ラザロの死を嘆き悲しんでいたその姉妹たちのもとにイエスが来られたとき,一部のユダヤ人が示した反応を思い出してください。「ご覧なさい,彼に対して何と愛情を抱いておられたのでしょう」と言ったのです。(ヨハネ 11:36)クリスチャンの葬式に出席した未信者の親族,隣人,あるいは仕事関係の人たちは,大勢の証人たちが出席していることに好感を持ち,伝えられる聖書の真理に一層心を開くようになりました。

出席する証人たちの振る舞いは,その場にふさわしいものであるべきでしょう。死んだ人は苦しんではいないということを知っており,忠節な人には復活が約束されているという確信を抱いてはいても,「泣くのに時があり,笑うのに時がある。泣き叫ぶのに時があり,跳び回るのに時がある」という諭しを心に留めます。(伝道の書 3:4)葬式や追悼式は,大声で冗談を飛ばす時ではありません。「歓ぶ人たちと共に歓び,泣く人たちと共に泣きなさい」という助言に従って,感情移入をすべき時です。―ローマ 12:15。

ほかにもう一つ,エホバの証人が葬式に出席する理由があります。神の言葉はこう述べています。「嘆きの家に行くことは,宴会の家に行くことに勝る。それがすべての人の終わりだからである。生きている者はそれを心に留めるべきである。……賢い者たちの心は嘆きの家にあるが,愚鈍な者たちの心は歓びの家にある」― 伝道の書 7:2-4。

エホバの証人には希望を抱く理由があるとはいえ,これらの言葉は霊感によるものであり,わたしたちの益のために聖書中に収められました。葬式は「嘆きの家」にたとえられるかもしれません。式に出席する時,わたしたちは普段の関心事や活動から離れて,命のはかなさについて熟考できます。病気か何か「予見しえない出来事」によって死に見舞われ,あっけなく無に帰してしまう可能性はだれにでもあります。「人もまた,自分の時を知らない」からです。(伝道の書 9:11,12)クリスチャンの葬式に子供を伴って出席する親は,それが,死の現実,贖いの必要,「死人をよみがえらせてくださる神」に仕えることの知恵などについて子供と話し合う機会に発展することに気づいておられるかもしれません。―コリント第二 1:9。伝道の書 12:1,13。

エホバの証人は葬式を秘蹟とはみなしませんが,そうした悲しい出来事があった時は慰めを差し伸べる機会になるということは確かに認めています。クリスチャンは葬式に出席することにより,亡くなった仲間のクリスチャンに対して抱いていた愛と敬意を示すことができます。また,人生の意味について,神のみ前で自分の命をどのように用いるべきかについて,一層真剣に考えるよう心を動かされるかもしれません。

[脚注]

a 創世記 23:2,19。民数記 20:29。申命記 34:7,8。サムエル第二 1:11,12; 3:31-34; 13:32-37; 18:33。歴代第二 35:24,25。ヨブ 1:18-20。詩編 35:14。エレミヤ 9:1。ルカ 7:12,13; 8:49-52。使徒 8:2; 9:39。

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