ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 虐げられている人々のための慰め
    ものみの塔 1996 | 11月1日
    • 虐げられている人々のための慰め

      これまでの人生を通じて,新聞などの見出しに決まった言葉が繰り返し出てきたことにお気づきですか。戦争,犯罪,災害,飢餓,苦しみといった言葉は見飽きていますか。しかし,ある言葉は,ニュースの報道にはまず出てきません。しかもその言葉は,人間が大いに必要としているものを表わしています。その言葉とは「慰め」です。

      「慰める」とは,「力や希望を与えること」,また人の「深い悲しみや苦悩を和らげること」を意味します。この20世紀に,世界はありとあらゆる混乱を経てきたため,希望と,深い悲しみを和らげることは切に必要とされています。確かに今日,ある人たちは,先人が想像すらしなかったような便利品の恩恵を受けています。それはおおかた科学の進歩によるものです。それでも,科学や工業技術は,人間から苦しみの原因をすべて取り除くという意味では,慰めを与えてきませんでした。そうした苦しみの原因には,どんなものがあるでしょうか。

      今から何世紀も前に,賢人ソロモンは苦しみの根本原因の一つを挙げて,「人が人を支配してこれに害を及ぼした」と述べました。(伝道の書 8:9)科学や工業技術は,仲間の人間を支配したがる人間の傾向を改めさせることができませんでした。この20世紀には,そうした傾向がもとで,国の内部で人を虐げる独裁政治が行なわれたり,国同士の恐るべき戦争が起きたりしました。

      1914年以来,戦争で1億人余りが死亡しました。この数字が物語る,人々の苦悩について考えてください。慰めを必要とする膨大な数の遺族が残されるのです。そのうえ戦争は,人が無惨に殺されること以外の苦しみも生じさせます。第二次世界大戦が終わった時点で,ヨーロッパには1,200万人を上回る難民がいました。近年においては,東南アジアの交戦地帯から150万を超える人々が避難しました。バルカン諸国における戦闘では,200万人余りが家を捨てて逃げることを余儀なくされました。多くの場合,それは「民族浄化」を逃れるためでした。

      難民はまさに慰めを必要とします。行き先も,自分や家族の将来がどうなるかも分からないまま,運べるものだけを携えて家を離れざるを得ない人たちは,特にそうです。そのような人は,虐げられている人たちのうちでもとりわけみじめな状態にあり,慰めを必要としています。

      地上のもっと平和な場所では,世界の経済体制の奴隷にも等しい生活をしている人が数え切れないほどいます。確かに,物をたくさん持っている人もいますが,大多数の人は,生計を立てるために日ごとに奮闘しています。人並みの住まいを探している人は少なくありません。失業者は増える一方です。アフリカの一新聞の予測によれば,「世界ではかつてない雇用危機が進んでおり,2020年までには,さらに13億人を上回る人が職探しをしているだろう」ということです。経済的に虐げられている人たちが「力や希望」,すなわち慰めを必要としていることは確かです。

      中には,状況が絶望的であるために犯罪に走る人たちもいます。言うまでもなく,犯罪は被害者を困窮させるだけですし,犯罪発生率が高いと圧迫感が増し加わります。少し前に,南アフリカのヨハネスブルクのスター紙に,「『世界一凶悪な国』の一日」という見出しが掲げられました。その記事は,ヨハネスブルクとその近郊の普段の一日について伝えたものです。その一日で,4人が殺され,8人が自分の車を強奪されました。中流階級の人たちが住む郊外の一つの町では,住居侵入の通報が17件ありました。それに加えて武装強盗も何件か起きました。その新聞が警察の言葉として伝えたところによれば,それは「割合に平穏無事な」日だったということです。殺された人たちの遺族や,家に押し入られたり,車を強奪されたりした人が,自分たちはひどく虐げられていると感じるのも無理はありません。それらの人が必要とするのは,支えと希望,すなわち慰めです。

      ある国や地域では,我が子を売春のために売り渡す親たちがいます。“セックスツアー”目当ての旅行者が押し寄せる,アジアのある国には,売春婦が200万人ほどいると言われ,その多くは子供の時に買い取られたり,誘拐されたりした人です。これらの哀れな被害者以上に虐げられている人がいるでしょうか。このおぞましい売買について論じたタイム誌は,東南アジアの女性団体が1991年に開催した会議について伝えています。その推定によれば,「1970年代半ば以降,世界中で3,000万人もの女性が売られてきた」ということです。

      言うまでもなく,子供は売春のために売り渡されなくても被害者になることがあります。自分の家で,親や親せきから身体的な虐待を受けたり,さらにはレイプされたりする子供は増えています。そのような子供は,長いあいだ感情面での傷を背負わされることもあります。虐げの不幸な被害者であるそうした子供たちも,確かに慰めを必要とします。

      虐げについて考察した古代の人物

      ソロモン王は,人々がいかに虐げられているかを知って,あぜんとしました。こう書いています。「わたしは日の下で行なわれているすべての虐げの行為を見ようとして自ら引き返した。すると,見よ,虐げられている者たちの涙がある。しかし,彼らには慰めてくれる者がいなかった。彼らを虐げる者たちの側には力があった。それで彼らには慰めてくれる者がいなかったのである」― 伝道の書 4:1。

      この賢王は,虐げられている人が慰め手を切実に必要としていることを3,000年前に認めていました。そうであれば,今日の状況についてはこの王は何と言うでしょうか。それでもソロモンは,自分を含め,不完全な人間は,人々が必要としている慰めを与えることはできない,ということを知っていました。もっと力がなければ,虐げる者たちの力を打ち砕くことはできません。そのような人がいるのでしょうか。

      聖書の詩編 72編には,すべての人のための偉大な慰め手のことが語られています。この詩編を書いたのは,ソロモンの父であるダビデ王です。その表題には「ソロモンに関して」とあります。老年のダビデ王が,自分の王座の後継者についてそのように書いたようです。詩編によれば,その後継者は虐げからの恒久的な解放をもたらします。「その日には義なる者が芽生え,豊かな平和が月のなくなるときまで続くことでしょう。そして,彼は海から海に至るまで,……地の果てに至るまで臣民を持つことになります」― 詩編 72:7,8。

      おそらくダビデは,この言葉を書いた時,息子ソロモンのことを考えていたのでしょう。しかしソロモンは,詩編に述べられているような形で人間を益する力は自分にはない,ということをわきまえていました。ソロモンは詩編の言葉を小規模に,また全地の益のためではなく,イスラエル国民のために成就することができたにすぎません。霊感によるこの預言的な詩編は,ソロモンよりもはるかに偉大な方に注意を向けているものと思われます。それはいったいだれでしょうか。イエス・キリストのほかにはあり得ないでしょう。

      イエスの誕生について告げたみ使いは,「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え(る)」と言いました。(ルカ 1:32)さらに,イエスはご自分を「ソロモン以上のもの」と呼んでおられます。(ルカ 11:31)イエスは神の右に復活して以来,天におられ,そこから詩編 72編の言葉を成就されます。そのうえイエスは,虐げを行なう人間のくびきを砕く力と権威を神から与えられています。(詩編 2:7-9。ダニエル 2:44)したがって,詩編 72編の言葉を成就するのはイエスです。

      虐げはもうすぐ終わる

      それは何を意味するのでしょうか。人間によるあらゆる形の虐げからの自由がもうすぐ実現することを意味します。この20世紀に見られた,前例のない苦しみや虐げは,「事物の体制の終結」を示すしるしの一部としてイエスが予告しておられたものです。(マタイ 24:3)とりわけイエスは,「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上が(る)」と予告されました。(マタイ 24:7)預言のその特色が成就しはじめたのは,1914年の,第一次世界大戦が勃発したころです。イエスはさらに,「不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう」とも言われました。(マタイ 24:12)不法と愛の欠如は,虐げを行なう邪悪な世代を生み出しました。したがって,イエス・キリストが地の新しい王として事態に介入される時は近いはずです。(マタイ 24:32-34)このことは,イエス・キリストに信仰を抱き,人間を慰める方として神から任命されたイエスに期待を寄せる,虐げられた人々にとって何を意味するでしょうか。

      その質問の答えを得るため,キリスト・イエスに成就している,詩編 72編の続きの言葉を読んでみましょう。「助けを叫び求める貧しい者,また,苦しんでいる者や助け手のない者を彼(は)救い出(します)。彼は立場の低い者や貧しい者をふびんに思い,貧しい者たちの魂を救います。彼は虐げと暴虐から彼らの魂を請け戻し,彼らの血はその目に貴重なものとなります」。(詩編 72:12-14)このように,神の任命された王,イエス・キリストは,虐げのためにだれも苦しむことがないよう見届けてくださいます。イエスは,あらゆる形の不公正を終わらせる力を持っておられます。

      『それは結構なことだ。でも今はどうだろうか。現に今苦しんでいる人たちのためにどんな慰めがあるのか』と言う方もおられるでしょう。実のところ,虐げられている人たちのための慰めは確かにあります。本誌の続く二つの記事では,まことの神エホバと,その愛するみ子イエス・キリストとの親密な関係を培うことによって幾百万という人々がすでに慰めを経験していることが示されています。わたしたちはそのような関係から,虐げの多い今の時代に慰めを得ることができますし,人はそのような関係から,虐げのない永遠の命へと導かれます。イエスは神への祈りの中で言われました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。

  • 慰めをエホバに求めなさい
    ものみの塔 1996 | 11月1日
    • 慰めをエホバに求めなさい

      「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなた方互いの間に持たせてくださいますように」― ローマ 15:5。

      1 慰めの必要が日増しに高まっているのはなぜですか。

      慰めの必要は日増しに高まっています。聖書筆者の一人が1,900年余り前に述べたとおり,「創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いて」います。(ローマ 8:22)現代において,「うめき」や「苦痛」はこれまでになく増大しています。人類は第一次世界大戦以来,戦争や犯罪,また多くの場合人間の地球管理の不手際と結びつけられる自然災害という形の危機を次々と経験してきました。―啓示 11:18。

      2 (イ)いま人間が被っている災いについて最も責めを負うべきなのはだれですか。(ロ)どんな事実は慰めのもととなりますか。

      2 現代にこれほど多くの苦しみが生じてきたのはなぜでしょうか。聖書は,1914年に王国が誕生した後にサタンが天から放逐されたことに関する記述の中でこう答えています。「地と海にとっては災いである。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである」。(啓示 12:12)この預言の成就についての明白な証拠は,サタンの邪悪な支配がもう少しで終わることを示しています。地上での生活は,サタンがわたしたちの最初の親を反逆に導く以前の平和な状態に間もなく戻ろうとしています。この点を知るのは,何という慰めでしょう。

      3 人間が慰めを必要としていなかったのはいつのことですか。

      3 当初,人間の創造者は,最初の人間夫婦のために美しい庭園を住まいとして与えました。それは,「喜び」または「楽しみ」という意味でエデンと呼ばれた地域にありました。(創世記 2:8,脚注)さらに,アダムとエバは完全な健康を享受し,死ぬことなく生きつづけるという見込みを持っていました。園芸,美術,建築,音楽など,二人が能力を伸ばすことのできた数多くの分野について考えてください。また,地を従えて楽園にする任務を果たしつつ研究のできたすべての創造のみ業についても考えてください。(創世記 1:28)まさに,アダムとエバの生活は,うめきや苦痛ではなく,楽しみと喜びで満たされるはずでした。明らかに,彼らは慰めを必要としてはいなかったでしょう。

      4,5 (イ)アダムとエバが従順の試みで失格したのはなぜですか。(ロ)人間はどういう理由で慰めを必要とするようになりましたか。

      4 それでも,アダムとエバが確かに必要としていたものがあります。それは,天の親切な父に対する深い愛と感謝の念を培うことでした。二人はそのような愛に動かされて,どんな状況のもとでも神に従うことができたはずです。(ヨハネ 14:31と比較してください。)残念ながら,わたしたちの最初の親は二人とも,正当な主権者であられるエホバに従いませんでした。むしろ,堕落したみ使いである悪魔サタンの邪悪な支配に身をゆだねました。エバを誘惑し,禁じられた実を食べるという罪を犯させたのはサタンでした。次いでアダムも,「それから食べる日にあなたは必ず死ぬ」と神が明確に警告しておられたその木の実を食べて罪を犯しました。―創世記 2:17。

      5 このように,その罪深い夫婦は死に向かい始めました。神は死刑を言い渡す際,アダムに対してこのようにも言われました。「地面はあなたのゆえにのろわれた。あなたは,命の日のかぎり,その産物を苦痛のうちに食べるであろう。そして,それはいばらとあざみをあなたのために生えさせ,あなたは野の草木を食べなければならない」。(創世記 3:17,18)こうしてアダムとエバは,耕されていない地を楽園に変える見込みを失いました。二人はエデンから追放され,のろわれた地面から何とか食物を得ようと奮闘しなければならなくなりました。彼らの子孫は,この死にゆく罪深い状態を受け継いだため,大いに慰めを必要とするようになりました。―ローマ 5:12。

      慰めとなる約束が成就する

      6 (イ)人間が罪に陥った後,神は慰めとなるどんな約束をされましたか。(ロ)レメクは,慰めに関連したどんな預言を述べましたか。

      6 エホバは,人間に反逆を唆した者に裁きを言い渡した際,ご自分が『慰めを与える神』であることを示されました。(ローマ 15:5)アダムの反逆の悲惨な結果からやがてその子孫を救い出す「胤」を遣わす,という約束によってそれを行なわれたのです。(創世記 3:15)後に神は,この救出を予示するものをも備えてくださいました。例えば神は,アダムの子セツを通してアダムの遠い子孫となったレメクに霊感を与えて,レメクの子が行なう事柄をこのように預言させました。「この者は,エホバがのろわれた地面から来るわたしたちの仕事と手の苦痛からの慰めをもたらしてくれるだろう」。(創世記 5:29)この約束にしたがって,その男の子はノアと名づけられました。その名には,「休息」また「慰め」という意味があると理解されています。

      7,8 (イ)どんな事態のため,エホバは人間を創造したことで悔やまれましたか。それに対してエホバは何を行なうことを意図されましたか。(ロ)ノアはどのようにその名の意味どおりの人となりましたか。

      7 その間に,サタンは天のみ使いたちの中から追随者たちを得ていました。それらの者は物質の体を着けて人間となり,アダムの子孫である魅力的な女性を妻としてめとりました。そのような不自然な結合は人間社会をいっそう退廃させ,ネフィリムすなわち「倒す者たち」と呼ばれる,神を認めない種族を生み出しました。それらの者は地を暴虐で満たしました。(創世記 6:1,2,4,11。ユダ 6)「そのためエホバは,人の悪が地にあふれ(る)のをご覧になった。そしてエホバは,地に人を造ったことで悔やみ,その心に痛みを覚えられた」とあります。―創世記 6:5,6。

      8 エホバはその邪悪な世を全地球的な洪水によって滅ぼすことを意図されましたが,まずノアに箱船を造らせて命を長らえさせました。こうして人類と動物の種が救われました。ノアとその家族は,大洪水後に箱船から出て清められた地に立った時,大きな安らぎを感じたに違いありません。地面に対するのろいが解かれ,農耕がずっと容易に行なえるようになったことを知るのは,大きな慰めだったでしょう。レメクの預言は実現し,ノアはその名の意味どおりの人となりました。(創世記 8:21)神の忠実な僕ノアは,人間にある程度の「慰め」をもたらす器となりました。しかし,サタンと配下の悪霊の使いたちの邪悪な影響は大洪水をもって終わったわけではないので,人間が罪,病気,死の重荷のもとでうめくことはその後も続きました。

      ノアよりも偉大な方

      9 イエス・キリストはどのように,悔い改めた人間のための助け手また慰め手となってきましたか。

      9 やがて,人類史の初めの約4,000年が終わるころ,約束の胤が到来しました。エホバ神は,人間に対する深い愛に動かされて独り子を地に遣わし,罪を負った人類のための贖いとして死ぬようにされました。(ヨハネ 3:16)イエス・キリストは,ご自分の犠牲の死に対して信仰を働かせる,悔い改めた罪人に大きな安らぎを与えます。命をささげてエホバに献身し,バプテスマを受けてみ子の弟子になる人は皆,永続するさわやかさと慰めを経験します。(マタイ 11:28-30; 16:24)そのような人は,不完全な人間ではあっても,清い良心をもって神に仕えることに深い喜びを見いだします。イエスに引きつづき信仰を働かせるなら,永遠の命をもって報われるということを知るのは,何と大きな慰めでしょう。(ヨハネ 3:36。ヘブライ 5:9)たとえ弱さゆえに重大な罪を犯すことがあるとしても,彼らには助け手,すなわち慰め手である復活した主イエス・キリストがいます。(ヨハネ第一 2:1,2)彼らはそうした罪を告白し,罪を習わしにすることのないよう聖書的な措置を講じることによって安らぎを得ます。その安らぎは,『神は忠実で義なる方ですから,罪を許してくださる』ことを理解することから得られます。―ヨハネ第一 1:9; 3:6。箴言 28:13。

      10 イエスが地上におられた間に行なわれた奇跡から何を学べますか。

      10 イエスは地上におられた間に,悪霊につかれた人を自由にし,あらゆる病をいやし,死んだ愛する家族を生き返らせることによってもさわやかさをもたらしました。確かに,そうした奇跡は一時的な益となったにすぎません。その恩恵を受けた人も後に年老いて死んだからです。とはいえ,イエスはそれによって,ご自分が将来,全人類に注ぐとこしえの祝福に注意を向けさせました。いまや力ある天的な王なるイエスは,間もなく悪霊たちを単に追い出すよりはるかに大きな事を行なわれます。悪霊たちを,その指導者サタンもろとも底知れぬ深みに,つまり無活動の状態に投げ込むのです。こうしてキリストの輝かしい千年統治が開始されます。―ルカ 8:30,31。啓示 20:1,2,6。

      11 イエスが自分のことを「安息日の主」と呼んだのはなぜですか。

      11 イエスは,ご自分が「安息日の主」であると言われ,イエスによるいやしの多くは安息日に行なわれました。(マタイ 12:8-13。ルカ 13:14-17。ヨハネ 5:15,16; 9:14)なぜそうされたのでしょうか。安息日は,イスラエルに対する神の律法の一部を成し,こうして「来たるべき良い事柄の影」としての役目を果たしました。(ヘブライ 10:1)仕事を行なう六日間の平日は,人間が過去6,000年間サタンの圧制的な支配に隷属してきたことを思い起こさせます。週の終わりの安息日は,大いなるノアであるイエス・キリストの千年統治の間に人間が経験する,慰めとなる休息を思い起こさせます。―ペテロ第二 3:8と比較してください。

      12 わたしたちは,慰めとなるどんな経験を待望することができますか。

      12 キリストの支配を受ける地上の臣民は,自分たちがついにサタンの邪悪な影響から完全に自由になったことを知るとき,何という安らぎを覚えるのでしょう。そして,自分たちの体や感情や精神の病がいやされるのを経験するとき,いっそうの慰めを得ることでしょう。(イザヤ 65:17)そのうえ,愛する家族が死人の中から戻って来るのを迎え始めるときにどれほど強い感動を覚えるかを考えてください。こうして神は「彼らの目からすべての涙をぬぐい去って」くださいます。(啓示 21:4)イエスの贖いの犠牲の益が徐々に適用されてゆくにつれ,神の王国の従順な臣民は次第に完全な人間になり,アダムの罪のどんな悪影響からも全く解放されます。(啓示 22:1-5)次いでサタンが「しばらくのあいだ」解かれます。(啓示 20:3,7)エホバの正当な主権を忠実に擁護する人はすべて,永遠の命をもって報われます。完全な意味で「腐朽への奴隷状態から自由にされ(る)」,という言い尽くせない喜び,また安らぎを想像してください。こうして従順な人々は「神の子供の栄光ある自由」を享受することになります。―ローマ 8:21。

      13 真のクリスチャンすべてが,神の与えてくださる慰めを必要とするのはなぜですか。

      13 それまでの間わたしたちは,サタンの邪悪な体制のただ中で生活するすべての人に共通のうめきと苦痛を忍ばなければなりません。体の病気や感情面の障害の増加は,忠実なクリスチャンを含め,あらゆる人に影響を及ぼします。(フィリピ 2:25-27。テサロニケ第一 5:14)加えて,クリスチャンであるわたしたちは,「自分たちの支配者として人間より神に従(う)」ゆえにサタンが浴びせる不当なあざけりや迫害をしばしば経験します。(使徒 5:29)そのため,サタンの世の終わりまでずっと忍耐しながら神のご意志を行ないつづけるには,神が与えてくださる慰めや助けや力が必要です。

      慰めはどこから見いだせるか

      14 (イ)イエスは亡くなる前の夜にどんな約束をされましたか。(ロ)神の聖霊の慰めから十分に益を得るには何が求められていますか。

      14 イエスは亡くなる前の夜,忠実な使徒たちに対し,ご自分が間もなく彼らのもとを去り,父のもとに戻ることを明らかにされました。弟子たちはこのことで困惑し,悲嘆に暮れました。(ヨハネ 13:33,36; 14:27-31)イエスは,弟子たちが引き続き慰めを必要とすることを見て取り,「わたしは父にお願いし,父は別の慰め手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます」と約束されました。(ヨハネ 14:16,脚注)ここでイエスは,神の聖霊について述べておられました。聖霊は,イエスの復活の50日後に弟子たちに注がれました。a とりわけ神の霊は試練の際に弟子たちを慰め,神のご意志を行ないつづけられるよう彼らを強めました。(使徒 4:31)しかし,そのような助けは自動的に得られるとみなすべきではありません。それから十分に益を得るため,クリスチャンは各自,神が聖霊によって備えてくださる,慰めとなるその助けをずっと祈り求めてゆかなければなりません。―ルカ 11:13。

      15 エホバはどんな方法で慰めを与えてくださいますか。

      15 神が慰めを与えてくださる別の方法として,み言葉聖書があります。パウロはこう書きました。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。(ローマ 15:4)これは,聖書と,聖書に基づく出版物に書かれている事柄を定期的に研究し,黙想する必要があることを示しています。また,クリスチャンの集会に定期的に出席する必要もあります。集会では,神の言葉からの慰めとなる考えが分け与えられます。そうした集まりのおもな目的の一つは,互いに励まし合うことです。―ヘブライ 10:25。

      16 慰めとなる神の備えは,何をしたいとの願いをわたしたちに抱かせるはずですか。

      16 パウロがローマ人にあてた手紙はさらに,慰めとなる神の備えを活用することから得られる良い結果を示しています。パウロは書きました。「忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなた方互いの間に持たせてくださいますように。それは,あなた方が同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです」。(ローマ 15:5,6)そうです,慰めとなる神の備えを十分に活用することにより,わたしたちは勇気ある指導者イエス・キリストにいっそう倣う者となれるのです。それは,証しの業や集会で,また仲間の信者との個人的な会話や祈りの中で自分の口を用いて常に神の栄光をたたえたいとの願いを抱かせます。

      厳しい試練のとき

      17 エホバはどのようにみ子を慰めましたか。どんな結果になりましたか。

      17 イエスは,苦痛の死を遂げる前の夜に,「ひどく苦悩し」,「深く憂え悲しみ」ました。(マタイ 26:37,38)それで,弟子たちから少し離れたところに退いて父に助けを祈り求め,「その敬虔な恐れのゆえに聞き入れられました」。(ヘブライ 5:7)「ひとりのみ使いが天から現われて[イエス]を強めた」と聖書は伝えています。(ルカ 22:43)その後イエスが反対者たちに勇敢に,また雄々しく立ち向かったことは,神が極めて効果的な方法でみ子を慰めたことの証拠です。―ヨハネ 18:3-8,33-38。

      18 (イ)使徒パウロの生涯で特に試練となったのはどの時期ですか。(ロ)どうすれば,骨折って働く,思いやり深い長老たちに慰めとなることができますか。

      18 使徒パウロも,厳しい試練の時期を幾度も経験しました。例えば,エフェソスでの宣教の特色となったのは,「涙とユダヤ人たちの陰謀によって[彼]に降り懸かる試練」でした。(使徒 20:17-20)ついには,パウロの宣べ伝える活動をめぐって女神アルテミスの支持者たちが市内で騒動を起こし,こうして後にパウロはエフェソスを去りました。(使徒 19:23-29; 20:1)北方の都市トロアスに向かう際,別の事柄がパウロの思いに重くのしかかっていました。エフェソスでの騒動よりも前のある時点で,穏やかならぬ知らせが届いていました。発足したばかりのコリント会衆は分裂に悩まされ,また淫行を容認していたのです。それでパウロは事態を正したいと思い,強い戒めの手紙をすでにエフェソスから書き送っていました。これは簡単なことではありませんでした。パウロは後に第二の手紙の中で,「わたしは多くの患難と心の苦もんから,多くの涙をもってあなた方に書いたのです」と打ち明けています。(コリント第二 2:4)パウロと同様,思いやり深い長老たちにとって,矯正のための助言や戒めを与えるのは簡単なことではありません。それは,長老たちも自分の弱さを痛切に意識しているからでもあります。(ガラテア 6:1)ですからわたしたちは,聖書に基づく愛ある助言に快くこたえ応じることにより,わたしたちの間で指導の任に当たっている人たちに慰めとなることができますように。―ヘブライ 13:17。

      19 パウロがトロアスからマケドニアに進んだのはなぜですか。パウロはやがてどのようにして安らぎを得ましたか。

      19 パウロはエフェソスにいた間に,コリントの兄弟たちに手紙を書いただけでなく,援助のためにテトスを遣わして,手紙に対する反応について報告する任務をゆだねました。パウロは途中のトロアスでテトスに会いたいと思っていました。パウロはそこで,弟子を作るよい機会に恵まれます。しかし,テトスがまだ着いていなかったために不安は解消されませんでした。(コリント第二 2:12,13)それでさらにマケドニアまで旅を進め,そこでテトスと落ち合うことを期待しました。パウロの不安は,自分の宣教に対する激しい反対によってさらに募りました。こう述べています。「マケドニアに着いた時,わたしたちは肉体に少しも安らぎを得ませんでした。わたしたちは依然あらゆる仕方で苦悩させられていました ― 外には戦い,内には恐れがありました。しかしながら,うちひしがれた者を慰めてくださる神は,テトスをそこにいさせることによってわたしたちを慰めてくださったのです」。(コリント第二 7:5,6)パウロは,テトスがついに到着して,コリントの人たちが自分の手紙に好意的にこたえ応じたことを告げたとき,大きな安らぎを得たのです。

      20 (イ)パウロの場合のように,エホバは他のどんな重要な方法で慰めを与えてくださいますか。(ロ)次の記事では何について考えますか。

      20 パウロの経験は,今日の神の僕たちにも慰めとなります。その多くも試練に直面して「うちひしがれ(る)」,つまり「憂いに沈(む)」ことがあります。(フィリップス訳)「慰めを与えてくださる神」は,わたしたち一人一人の必要をご存じであり,互いどうしが慰めとなるようわたしたちを用いることがおできになります。ちょうどパウロが,コリントの人々の悔い改めの態度に関するテトスの知らせから慰めを得たのと同じです。(コリント第二 7:11-13)次の記事では,コリントの人々に対するパウロの温かな返事と,それが今日,神の慰めを効果的に分け合う者となるうえでどのようにわたしたちに役立つかを考えます。

  • エホバが与えてくださる慰めを分け合う
    ものみの塔 1996 | 11月1日
    • エホバが与えてくださる慰めを分け合う

      「あなた方に対するわたしたちの希望は揺るぎません。あなた方が苦しみを分け合う者となっているのと同じように,慰めをも分け合う者となることを知っているからです」― コリント第二 1:7。

      1,2 今日クリスチャンになった多くの人はどんな経験をしてきましたか。

      現在「ものみの塔」誌を読んでおられる方々の中には,神の真理を知らずに育った方も少なくありません。あなたもその一人かもしれません。そうであれば,自分の理解の目が開き始めたときにどのように感じたかを思い出してください。例えば,死者は苦しんでいるのでなく意識がないのだということを初めて理解したとき,安心したのではないでしょうか。そして,死者のための希望,すなわち幾十億もの人が神の新しい世での命へと復活することを知ったとき,慰めを得たのではないでしょうか。―伝道の書 9:5,10。ヨハネ 5:28,29。

      2 悪を終わらせてこの地上を楽園に変えるという神の約束についてはどうでしょうか。このことを知ったとき,あなたは慰められ,期待に胸を膨らませたのではないでしょうか。決して死ぬことなく,来たるべきその地上の楽園に生きて入るという見込みについて初めて知ったとき,どのように感じたでしょうか。きっと感激したことでしょう。あなたは,今エホバの証人が全世界で宣べ伝えている,神からの慰めの音信を受け入れたのです。―詩編 37:9-11,29。ヨハネ 11:26。啓示 21:3-5。

      3 神からの慰めの音信を他の人に分かつ人たちも患難に遭うのはなぜですか。

      3 しかしあなたは,聖書の音信を他の人に分かとうとしたとき,「信仰はすべての人が持っているわけではない」ことも悟るようになりました。(テサロニケ第二 3:2)以前の友人の中には,あなたが聖書の約束に対する信仰を言い表わすために嘲笑する人もいたことでしょう。エホバの証人と共に聖書の研究を続けたため,迫害に遭うことさえあったかもしれません。生活を聖書の原則に合わせようとあなたが変化しはじめた時,反対は強まったかもしれません。あなたは,神からの慰めを受け入れるすべての人にサタンとその世が加える患難を経験するようになったのです。

      4 新たに関心を抱くようになった人たちは,患難に対してどのように異なった反応をするかもしれませんか。

      4 残念ながら,イエスの予告のとおり,ある人たちは患難のためにつまずいてクリスチャン会衆と交わるのをやめてしまいます。(マタイ 13:5,6,20,21)自分が学ぶ,慰めとなる約束に思いを留めて患難に耐える人たちもいます。その人たちはやがて自分の命をささげてエホバに献身し,み子イエス・キリストの弟子としてバプテスマを受けます。(マタイ 28:19,20。マルコ 8:34)もちろん,バプテスマを受けたからといってクリスチャンの患難がやむわけではありません。例えば,不道徳な生活をしてきた人にとって,貞潔さを保つことは厳しい闘いとなる場合があります。未信者の家族からの絶え間ない反対に立ち向かってゆかなければならない人もいます。どんな患難に遭うにせよ,神への献身の道を忠実に追い求める人は皆,一つのことを確信できます。その人たちは,極めて個人的な形で神からの慰めと助けを経験するのです。

      「すべての慰めの神」

      5 パウロは,多くの試練に遭うことに加えてどんな経験もしましたか。

      5 神が与えてくださる慰めを深く感謝した人の一人に使徒パウロがいます。パウロは,アジアとマケドニアでの甚だしい試練の時期の後,コリントの会衆が自分の戒めの手紙に快くこたえ応じたことを聞いて大きな安らぎを覚えました。パウロが第二の手紙を書こうと思い立ったのはそのためです。そこには,次の賛美の言葉が収められています。「わたしたちの主イエス・キリストの神また父,優しい憐れみの父またすべての慰めの神がほめたたえられますように。神はすべての患難においてわたしたちを慰めてくださ(います)」― コリント第二 1:3,4。

      6 コリント第二 1章3,4節のパウロの言葉から何を学べますか。

      6 霊感によるこれらの言葉には多くのことが込められています。それを分析してみましょう。パウロは,手紙の中で神への賛美や感謝をささげたり,願いを述べたりするとき,たいてい,クリスチャン会衆の頭であるイエス・キリストに対する深い認識をも言い表わしています。(ローマ 1:8; 7:25。エフェソス 1:3。ヘブライ 13:20,21)パウロが「わたしたちの主イエス・キリストの神また父」にあててこの賛美の言葉を述べているのはそのためです。次いでパウロは,自分の書いた物の中では初めて,「優しい憐れみ」と訳されるギリシャ語の名詞を用いています。この名詞は,他の人の苦しみに接して悲しみを言い表わすのに用いられた言葉から派生しています。こうしてパウロは,だれでも神の忠実な僕で患難に遭っている人に対して神が抱く優しい気持ち,つまりその人たちのために憐れみ深い行動へと神を動かす優しい気持ちを描き出しています。最後にパウロは,「優しい憐れみの父」と呼んで,この望ましい特質の源であられるエホバに目を向けています。

      7 エホバが「すべての慰めの神」であると言えるのはなぜですか。

      7 神の「優しい憐れみ」は,患難に遭っている人に安らぎをもたらします。ゆえにパウロは,続けてエホバのことを「すべての慰めの神」と述べています。ですからわたしたちは,仲間の信者の親切によってどんな慰めを経験するとしても,その源であるエホバに目を向けることができます。真の永続する慰めで,神から出ていないものはありません。さらに,人間をご自分の像に創造して,他の人を慰めることができるようにしてくださったのも神です。そして,慰めを必要とする人たちに優しい憐れみを示す動機づけを神の僕たちに与えているのは,神の聖霊です。

      他の人を慰める者となるよう訓練される

      8 神は試練の源ではありませんが,患難に耐えるなら,わたしたちにどんな良い影響が及びますか。

      8 エホバ神は,ご自分の忠実な僕たちに様々な試練が臨むのを許されるとはいえ,決してそのような試練の源ではありません。(ヤコブ 1:13)それでもわたしたちは,患難に耐えるときに神が与えてくださる慰めによって,他の人々が必要とするものをもっと敏感に察するよう訓練されます。それはどんな結果になりますか。「神によって自ら慰められているその慰めをもって,わたしたちがどんな患難にある人たちをも慰めることができるようにしてくださる」とあります。(コリント第二 1:4)こうしてエホバは,わたしたちがキリストに見倣って「嘆き悲しむすべての者を慰め(る)」とき,仲間の信者や宣教で会う人たちと慰めを効果的に分け合う者となれるようわたしたちを訓練しておられるのです。―イザヤ 61:2。マタイ 5:4。

      9 (イ)何が苦しみを忍耐する助けになりますか。(ロ)わたしたちが患難に忠実に耐えるとき,他の人たちはどのように慰めを得ますか。

      9 パウロは,キリストを通して神から満ちあふれるほどの慰めを得たおかげで多くの苦しみを忍耐しました。(コリント第二 1:5)わたしたちも,神の貴重な約束について黙想することにより,また神の聖霊の支えを祈り求めることにより,さらには神に祈りを聞き届けていただく経験を重ねることにより,満ちあふれるほどの慰めを経験できます。こうしてわたしたちは,引きつづきエホバの主権を擁護し,悪魔が偽り者であることを証明するための強さを持てます。(ヨブ 2:4。箴言 27:11)どんな患難であれ,それに忠実に耐えたときには,パウロのようにすべての誉れをエホバに帰すべきです。クリスチャンは,エホバの慰めによって試練のもとで忠実を保つことができるのです。忠実なクリスチャンの忍耐は,兄弟たちに慰めを得させ,『同じ苦しみを忍耐する』決意を他の人たちに抱かせます。―コリント第二 1:6。

      10,11 (イ)古代コリントの会衆に苦しみを生じさせていた事柄にはどんなものがありますか。(ロ)パウロはコリント人の会衆をどのように慰めましたか。そしてどんな希望を言い表わしましたか。

      10 コリントの人々は,真のクリスチャンすべてに臨む苦しみにあずかっていました。それに加えて,悔い改めない淫行の者を排斥するようにという助言も必要でした。(コリント第一 5:1,2,11,13)そのような処置を取らず,闘争や分裂を終わらせようとしていなかったことは,会衆に恥辱をもたらしていました。しかし,彼らはついにパウロの助言を当てはめ,真の悔い改めを示しました。ゆえにパウロは,コリントの人々を温かく褒め,彼らが自分の手紙にりっぱにこたえ応じてくれたことから慰めを得た,と述べました。(コリント第二 7:8,10,11,13)排斥されたその人も悔い改めていたようです。それでパウロは,「親切に許して慰め,そのような人が過度の悲しみに呑み込まれてしまうことのないようにすべきです」と諭しました。―コリント第二 2:7。

      11 パウロの第二の手紙は,コリント会衆にとって慰めとなったに違いありません。それはパウロが目指していたことでした。パウロはこう述べています。「あなた方に対するわたしたちの希望は揺るぎません。あなた方が苦しみを分け合う者となっているのと同じように,慰めをも分け合う者となることを知っているからです」。(コリント第二 1:7)そして,手紙の結びでこう激励しています。「引き続き……慰めを受け(て)ゆきなさい。そうすれば,愛と平和の神があなた方と共にいてくださるでしょう」― コリント第二 13:11。

      12 すべてのクリスチャンには何が求められていますか。

      12 このことから何と重要な教訓を学べるのでしょう。クリスチャン会衆のすべての成員には,神がみ言葉,聖霊,また地的な組織を通して与えてくださる「慰めを……分け合う」ことが求められているのです。排斥された人でさえ,悔い改めて,間違った歩みを正しているのであれば,慰めを必要としているかもしれません。そのため,「忠実で思慮深い奴隷」は,そのような人を援助するための憐れみ深い備えを設けてきました。年に一度,二人の長老たちは,排斥された人たちのうちのある人々を訪問することができます。それらの人は,もはや反抗的な態度を取ったり,由々しい罪を習わしにしていたりはせず,復帰のために求められる措置を取る点で助けを必要としているかもしれません。―マタイ 24:45。エゼキエル 34:16。

      アジアでパウロに生じた患難

      13,14 (イ)パウロはアジアで経験した厳しい患難の時期についてどのように述べましたか。(ロ)パウロはどんな出来事について考えていたのかもしれませんか。

      13 この時までにコリント人の会衆が経験していた苦しみは,パウロが耐えなければならなかった多くの患難とは比較になりませんでした。それゆえパウロは次の点を気づかせることができました。「兄弟たち,アジア地区でわたしたちに生じた患難について,あなた方に知らずにいて欲しくないのです。わたしたちは,自分の力を超えた極度の圧迫を受け,そのため自分の命についてさえ全くおぼつかない状態でした。事実,自らのうちでは,死の宣告を受けているのだと感じました。これは,わたしたちが,自分自身ではなく,死人をよみがえらせてくださる神に信頼を置くためだったのです。死のような大いなるものから神はわたしたちを確かに救い出してくださったのであり,これからも救い出してくださるでしょう。今後も救い出してくださるということ,これがこの方に対するわたしたちの希望なのです」― コリント第二 1:8-10。

      14 聖書学者の中には,パウロはここでエフェソスでの騒動に言及していたのだろうと考える人もいます。それはパウロと,旅仲間であった二人のマケドニア人,ガイオとアリスタルコの命が危ぶまれるものでした。これら二人のクリスチャンは劇場の中に引きずり込まれ,そこを埋め尽くした暴徒たちが「約二時間もの間,『偉大なのはエフェソス人のアルテミス!』と叫びたて」ました。やがて市の役人が何とか暴徒を静まらせました。このようにガイオとアリスタルコの命が脅かされたことで,パウロはひどく心を痛めたに違いありません。現にパウロは,中に入って行って狂信的な暴徒を説得したいと思いましたが,そのようにして命の危険を冒さないようにと,とどめられました。―使徒 19:26-41。

      15 コリント第一 15章32節は,どんな極限的な状況について述べているのかもしれませんか。

      15 しかしパウロは,上述の事よりもはるかに極限的なある状況について述べていたのかもしれません。パウロはコリント人への第一の手紙の中で,「わたしがエフェソスで,人間がするようにして野獣と戦ったのであれば,それはわたしにとって何の益になるでしょうか」と尋ねています。(コリント第一 15:32)これはパウロの命が,単に獣のような人間によってではなく,エフェソスの競技場で実際の野獣によって脅かされたことを意味しているのかもしれません。犯罪者たちは,刑罰として,血に飢えた群衆が眺める中で野獣と戦うよう強制されることがありました。もしパウロが実際の野獣と戦ったことについて述べていたのであれば,ちょうどダニエルが実際のライオンの口から救い出されたのと同じように,最後の瞬間に残忍な死を奇跡的に免れたのでしょう。―ダニエル 6:22。

      現代の実例

      16 (イ)多くのエホバの証人が,パウロの忍んだ患難に共感を覚えるのはなぜですか。(ロ)信仰のために亡くなった人たちについて何を確信できますか。(ハ)危ういところで死を免れたというようなクリスチャンの経験にも,どんな良い面がありますか。

      16 今日の多くのクリスチャンは,パウロの忍んだ患難に共感を覚えます。(コリント第二 11:23-27)今日でも,クリスチャンは「自分の力を超えた極度の圧迫を受け(て)」きましたし,「自分の命について……全くおぼつかない」状況に直面した人も少なくありません。(コリント第二 1:8)大量殺戮を行なう者や残忍な迫害者たちの手にかかって死んだ人たちもいます。わたしたちは,そのような人たちが慰めとなる神の力によって忍耐できたこと,また天的な希望であれ,地的な希望であれ,その成就を心と思いにしっかり留めて亡くなったことを確信できます。(コリント第一 10:13。フィリピ 4:13。啓示 2:10)一方,エホバが事態を動かされ,兄弟たちが死から救出された例もあります。そのような救出を経験した人は,「死人をよみがえらせてくださる神に」対するさらに強い信頼の念を培ったに違いありません。(コリント第二 1:9)彼らはそれ以後,神からの慰めの音信を他の人に分かつ際,いっそうの確信を込めて語るようになりました。―マタイ 24:14。

      17-19 どんな経験は,ルワンダの兄弟たちが神からの慰めを分け合う者となっていることを示していますか。

      17 近年,ルワンダの愛する兄弟たちは,パウロやその仲間と同じような経験をしてきました。多くの人が命を失いましたが,兄弟たちの信仰を砕こうとするサタンの試みは失敗しました。むしろ,この国の兄弟たちは,個人的にはいろいろな形で神からの慰めを経験してきました。ルワンダに住むツチ族とフツ族の大量虐殺が行なわれていた間,フツ族の人で,自分の命の危険を冒してツチ族の人たちを守った人々もいれば,ツチ族の人で,フツ族の人たちを守った人々もいました。中には,仲間の信者を守ったとして過激派によって殺された人たちもいます。例えば,ガヒジという名のフツ族の証人は,チャンタルという名のツチ族の姉妹をかくまったとして殺されました。チャンタルの夫であるツチ族のジャンは,シャーロットという名のフツ族の姉妹によって別の場所でかくまわれました。ジャンと,ツチ族の別の兄弟は,40日のあいだ大きな煙突の中に隠れ,夜間に時折出て来るだけでした。シャーロットは,フツ族の軍のキャンプ近くに住んでいたにもかかわらず,その間ずっと食べ物を差し入れて,二人をかくまいました。このページには,再会したジャンとチャンタルの写真が載っています。二人は,ちょうどプリスカとアクラが使徒パウロのために行なったようにフツ族の仲間の崇拝者たちが自分たちのために「首をかけ(て)」くれたことに感謝しています。―ローマ 16:3,4。

      18 フツ族の別の証人,ルワカブブは,ツチ族の仲間の信者を守ったとして,新聞「インタレマラ」の紙面で称賛されました。a このように伝えられました。「さらに,エホバの証人であるルワカブブは,兄弟たち(仲間の信者同士の呼び方)と手分けして,あちらこちらに人々をかくまい続けた。ルワカブブは,ぜんそくを患っていたにもかかわらず,丸1日を費やして,それらの人に食べ物と飲み水を届けていた。彼に並々ならぬ強さを与えたのは神にほかならない」。

      19 また,関心を持つフツ族の夫婦,ニコダムとアタナジについても考えてみましょう。この夫婦は,大量虐殺が勃発する前に,アルフォンスという名のツチ族の証人から聖書を学んでいました。二人は命の危険を冒して,アルフォンスを自宅にかくまいました。後に二人は,自宅が安全な場所ではないことを悟りました。ツチ族の友人のことは近所のフツ族の人たちに知られていたからです。それで,ニコダムとアタナジは,アルフォンスを庭の穴の中にかくまいました。それは賢明なことでした。近所の人たちがほとんど毎日のようにアルフォンスを探しに来るようになったからです。アルフォンスは,その穴の中に28日間横たわりながら,ラハブに関する記述のような,聖書中の記述について黙想しました。ラハブは,エリコの自宅の屋上に二人のイスラエル人をかくまいました。(ヨシュア 6:17)今アルフォンスは,良いたよりの伝道者としてルワンダで奉仕を続けており,フツ族の聖書研究生が自分のために命の危険を冒してくれたことを感謝しています。ところで,ニコダムとアタナジはどうなっているでしょうか。二人は現在,バプテスマを受けたエホバの証人で,関心のある人たちと20件余りもの聖書研究を司会しています。

      20 エホバはルワンダの兄弟たちをどのように慰めてこられましたか。しかし,多くの兄弟たちは引き続き何を必要としていますか。

      20 ルワンダで大量虐殺が始まったころ,その国には良いたよりの宣明者が2,500人いました。幾百人もが命を失ったり,国外に逃れるのを余儀なくされたりしたにもかかわらず,証人たちの数は3,000人余りにまで増えています。これは,神が確かに兄弟たちを慰めてこられたことの証拠です。エホバの証人の大勢の孤児ややもめについてはどうでしょうか。当然ながらそれらの人は今でも患難を忍んでおり,これからも慰めを必要としています。(ヤコブ 1:27)神の新しい世で復活が生じるときにはじめて,それらの人の涙は完全にぬぐい去られるでしょう。とはいえ,彼らは兄弟たちによる救援のおかげで,また自ら「すべての慰めの神」の崇拝者となっているために,その境遇に対処することができています。

      21 (イ)ほかにもどこで兄弟たちは神からの慰めを大いに必要としてきましたか。助けるためにわたしたちすべてにできる一つのことは何ですか。(「戦時下の4年間に与えられた慰め」という囲みをご覧ください。)(ロ)慰めの必要が余すところなく満たされるのはいつのことですか。

      21 このほかにも,エリトリア,シンガポール,旧ユーゴスラビアなど多くの場所で,兄弟たちは患難に遭いながらもエホバに忠実に仕えつづけています。わたしたちは,それらの兄弟たちが慰めを得られるよういつも祈願をささげることにより,兄弟たちを助けることができますように。(コリント第二 1:11)そして,神がイエス・キリストによって完全な意味で,「[わたしたちの]目からすべての涙をぬぐい去ってくださ(る)」ときまで忠実に忍耐することができますように。そうすればわたしたちは,エホバが義の新しい世で与えてくださる慰めを余すところなく経験することでしょう。―啓示 7:17; 21:4。ペテロ第二 3:13。

  • 戦時下の4年間に与えられた慰め
    ものみの塔 1996 | 11月1日
    • 戦時下の4年間に与えられた慰め

      旧ユーゴスラビア領では,戦時下の4年間に多くの人が数々の苦難や厳しい物不足を経験しました。その中には,「すべての慰めの神」を忠実に崇拝し続けた何百人ものエホバの証人が含まれていました。―コリント第二 1:3。

      サラエボに住む人々は,それに輪を掛けた生活上の苦難を経験しました。大都市サラエボは,戦争中ずっと包囲されていたからです。電気も水もまきも食糧も不足していました。こうした極限状況で,エホバの証人のサラエボ会衆はどのように活動を続けていたのでしょうか。近隣諸国のクリスチャンたちは命の危険を冒して,大量の救援物資を運び込みました。(「ものみの塔」誌,1994年11月1日号,23-27ページをご覧ください。)また,サラエボの兄弟たちも,霊的な事柄を分かち合うことを第一にしつつ,自分が持っている物を互いに分かち合いました。包囲中,同市から来たクリスチャンの監督は次のような報告をしました。

      「わたしたちは集会を非常に大切にしています。妻とわたしは,他の30人の人たちと一緒に,片道15㌔を歩いて集会に出席します。時には,発表された給水時間帯が集会の開かれる時間とかち合うことがありました。兄弟たちはどうしたでしょうか。家に居たでしょうか。それとも,集会に出席したでしょうか。兄弟たちは集会に出席することを選びました。兄弟たちはいつも助け合い,持っているものは何でも分け合っています。わたしたちの会衆の一人の姉妹は市の外れの,森の近くに住んでいるので,比較的容易にまきを集めることができます。また,この姉妹はパン屋で働いており,給料は小麦粉で受け取ります。それで,できる時には,大きなパンを焼き,集会に持ってきてくれます。集会後の帰りがけに,皆に一切れずつくれるのです。

      「大切なのは,兄弟姉妹のうちで,自分は見捨てられていると感じる人が一人もいないことです。次にだれが困った状況に陥り,助けを必要とするようになるかは,だれにも分かりません。道路が凍って滑るようになったころ,一人の姉妹が病気になったので,若くて力の強い兄弟たちは姉妹をそりに乗せて引き,集会に連れてゆきました。

      「わたしたちは全員,宣べ伝える業に参加しており,エホバはわたしたちの努力を祝福してこられました。エホバはボスニアにおけるわたしたちの苦境を見てこられ,増加,それも戦争前には経験したこともないような増加をもって祝福してくださっています」。

      同様に,旧ユーゴスラビア内の戦争に引き裂かれた他の地域においても,エホバの証人は厳しい苦難にもかかわらず増加してきました。エホバの証人のクロアチア事務所から,一群の証人たちに関する次のような報告が寄せられています。「ベリカ・クラドゥシャに住む兄弟たちは極めて困難な状況に立たされていました。町は数回攻撃を受けました。兄弟たちは,クロアチア人,セルビア人,イスラム教徒の幾つかの軍隊に対して,自分たちの中立の立場を説明しなければなりませんでした。彼らが多くのこと ― 投獄,殴打,飢え,死の危険 ― を耐え忍ばなければならなかったのは確かです。それでも,全員が忠実を保っており,エホバが自分たちの活動を祝福してくださるのを目の当たりにするという比類ない特権にあずかっています」。

      こうした苦難にもかかわらず,ベリカ・クラドゥシャやその隣にあるビハチのエホバの証人は引き続き増加しており,隣人たちに神の慰めの音信を熱心に伝えています。これら二か所の合計26名の王国伝道者たちは,39件の家庭聖書研究を司会しているのです。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする