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    ものみの塔 1994 | 11月1日
    • エホバ ― 優しい同情心に富む父

      「エホバは優しい愛情に富まれ,同情心の豊かな方なのです」― ヤコブ 5:11,脚注。

      1 立場の低い人たちがエホバ神にひかれるのはなぜですか。

      宇宙は余りにも広大なため,天文学者はそこに存在する銀河の数をすべて数えることはとてもできません。わたしたちの属する銀河,すなわち銀河系も余りにも広大なため,そこに含まれている恒星すべてを数えることはとてもできません。恒星の中にはアンタレス星のように,太陽より何千倍も大きく,何千倍も明るく輝いている星もあります。この宇宙内のすべての星をお造りになった偉大な創造者は,なんと強力な方なのでしょう。実際,その方は,「その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれ(ます)」。(イザヤ 40:26)ところが,畏敬の念を抱かせるこの同じ神が,『優しい愛情に富む,同情心の豊かな方』でもあられるのです。このような知識は,エホバの謙遜な僕たち,特に迫害や病気やうつ病その他の辛く苦しい状況にある僕たちにとって,本当に気持ちをさわやかにするものとなります。

      2 この世の人々は,多くの場合,優しい感情をどうみなしますか。

      2 多くの人は,キリストの「優しい愛情と同情心」といった,より穏やかな感情を弱さとみなします。(フィリピ 2:1)そのような人たちは,進化論に基づいた哲学の影響を受けており,人々に,他の人の感情を踏みにじってでも自分のことを第一に考えるよう勧めます。芸能界やスポーツ界のヒーローとされているのは,涙を流したり,優しい愛情を示したりしない“男らしい”人たちです。政治支配者の中にも,それと同じような振る舞いをする人たちがいます。残忍な皇帝ネロの教師だったストア派の哲学者セネカは,「哀れみは弱さの表われである」ということを強調しました。マクリントクおよびストロング共編の「百科事典」はこう述べています。「ストア哲学の影響は……現代においても引き続き人々の考え方に表われている」。

      3 エホバはモーセにご自分をどのように描写されましたか。

      3 それとは対照的に,人間を創造した方のご性格からは心温まるものが感じられます。その方はモーセに,ご自分を次のような言葉で描写されました。「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神,……とがと違犯と罪とを赦す者。しかし,処罰を免れさせることは決して(しない)」。(出エジプト記 34:6,7)確かに,エホバはご自身に関するこの説明の終わりに,ご自分の公正さを際立たせました。エホバは,故意に罪を犯す者に当然の処罰を免れさせることはされません。とはいえ,まず第一に,ご自分が憐れみ深い神であるということを述べておられます。

      4 しばしば「憐れみ」と翻訳されているヘブライ語の言葉には,心温まるどんな意味がありますか。

      4 時に,「憐れみ」という言葉は,処罰を差し控えるという冷ややかな司法上の意味でのみ考えられる場合があります。しかし,聖書の種々の翻訳を比較してみると,ヘブライ語の動詞ラーハムから派生したこの形容詞の持つ豊かな意味合いが分かります。ある学者たちによれば,その語根には「もの柔らかである」という意味があります。「旧約聖書の同義語」という本の説明によれば,「ラーハムは,わたしたちにとって大切な人,もしくはわたしたちの助けを必要としている人の弱さや苦しみを見た時に生じるような,深い優しい同情心を表わす」言葉です。「聖書に対する洞察」という書籍の第1巻,160ページから163ページには,この望ましい特質に関し,ほかにも幾つかの心温まる定義が挙げられています。

      5 モーセの律法にはどのように,憐れみがはっきり認められますか。

      5 神の優しい同情心は,神がイスラエル国民にお与えになった律法のうちにはっきり見られます。不利な境遇にある人々,例えば,やもめや孤児や貧しい人たちは,情け深い扱いを受けることになっていました。(出エジプト記 22:22-27。レビ記 19:9,10。申命記 15:7-11)奴隷や動物を含めて皆が,週ごとの安息日の休息から益を受けることになっていました。(出エジプト記 20:10)それだけでなく,神は,立場の低い人を優しく扱った人に目を留められました。箴言 19章17節はこう述べています。「立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり,その扱いに対して神はこれに報いてくださる」。

      神の同情の限度

      6 エホバがご自分の民のもとに預言者や使者たちを遣わされたのはなぜですか。

      6 イスラエル人は神の名を担っており,『エホバの名のための家』であった,エルサレムの神殿で崇拝していました。(歴代第二 2:4; 6:33)しかし,やがて彼らは,不道徳,偶像礼拝,殺人などを容認するようになり,大いにエホバのみ名の誉れを傷つけました。神は同情心に富むご性格どおり,国民全体に災いをもたらすことなくその悪い事態を辛抱強く正そうとされました。神は「その使者たちによって彼らに伝えさせ続け,何度も遣わされた。その民とご自分の住まいとに同情を覚えられたからである。ところが,彼らは絶えずまことの神の使者たちを笑い物にし,そのみ言葉を侮り,その預言者たちをあざけっていたので,ついにエホバの激怒がその民に向かって起こり,いやし得ないまでになった」。―歴代第二 36:15,16。

      7 エホバの同情が限度に達した時,ユダ王国はどうなりましたか。

      7 エホバは同情心に富み,怒ることに遅い方ですが,必要な時には実際に,義にかなった怒りを表わされます。その当時,神の同情は限度に達しました。その結果についてはこう記されています。「そこで,[エホバ]はカルデア人の王を彼らのもとに攻め上らせたので,彼はその聖なる所の家で彼らの若者たちを剣で殺した。彼は若者にも処女にも,年寄りにも老衰した者にも同情を覚えなかった。すべてのものを神は彼の手に渡されたのである」。(歴代第二 36:17)こうして,エルサレムとその神殿は滅ぼされ,国民はとりこにされてバビロンへ連れて行かれました。

      ご自分の名に対する同情

      8,9 (イ)エホバがご自分の名に対して同情を抱くと宣言されたのはなぜですか。(ロ)エホバの敵たちはどのように沈黙させられましたか。

      8 周囲の諸国民はその災いを喜びました。彼らはあざけって,「これらの者はエホバの民で,その地から彼らは出て来たのだ」と言いました。エホバはそうしたそしりに敏感に反応し,こう宣言されました。「わたしは……わたしの聖なる名に同情を抱くであろう。……そしてわたしは……わたしの大いなる名を必ず神聖なものとするであろう。そして諸国民はわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」。―エゼキエル 36:20-23。

      9 神の民が70年間捕らわれの状態を経験した後,同情心に富む神エホバは,彼らを解放し,彼らが帰還してエルサレムに神殿を再建することをお許しになりました。周囲の諸国民はこれを見て驚き,何も言えなくなりました。(エゼキエル 36:35,36)ところが,残念なことに,イスラエル国民は再び悪習に陥りました。忠実なユダヤ人であったネヘミヤは,その事態を正すよう援助しました。ネヘミヤは公の祈りの中で,神がこの国民を情け深く扱われたことを振り返ってこう言いました。

      10 ネヘミヤはどのようにエホバの同情を際立たせましたか。

      10 「その苦難の時に彼らはあなたに叫び求め,あなたも天から聞いてくださり,あなたの豊かな憐れみにしたがって,その敵対者の手から彼らを救う救い主を彼らにお与えになりました。しかし,彼らは休息するや,再びあなたのみ前に悪いことを行なうようになりましたので,あなたは彼らをその敵の手に捨て置かれ,その敵は彼らを踏みにじりました。それから,彼らが立ち返り,あなたに助けを叫び求めると,あなたも天から聞いてくださり,あなたの豊かな憐れみにしたがって,何度も彼らを救い出されました。……あなたは何年も彼らのことを忍(ばれま)した」― ネヘミヤ 9:26-30。イザヤ 63:9,10もご覧ください。

      11 エホバと人間の神々との間にはどんな対照が見られますか。

      11 最終的にユダヤ国民は,神の愛するみ子を残忍な方法で退けたため,特権として与えられていたその地位を永久に失いました。彼らに対する神の忠節な愛のきずなは,1,500年にわたって続きました。これは,エホバが確かに憐れみの神であることのとこしえの証しとなっています。罪深い人間の考え出した残忍な神々や無情な神々とは,なんと鋭い対照をなしているのでしょう。―8ページをご覧ください。

      同情の最大の表明

      12 神の同情の最大の表明となったのは,どんなことでしたか。

      12 神の同情の最大の表明となったのは,神がご自分のみ子を地に遣わされたことです。確かに,忠誠を全うしたイエスの生涯は,悪魔の偽りの非難に対する完ぺきな答えとなり,エホバに喜びをもたらしました。(箴言 27:11)しかし同時に,エホバにとって,ご自分の愛するみ子がむごい仕打ちを受けて屈辱的な死を遂げるのを見守らなければならなかったことは,恐らく,人間の親がかつて耐え忍ばなければならなかったどんな苦痛よりも大きな苦痛だったでしょう。それは人類の救いへの道を開く,非常に愛のこもった犠牲でした。(ヨハネ 3:16)バプテスマを施す人ヨハネの父,ゼカリヤが予告したとおり,それは「わたしたちの神の優しい同情」の豊かさを際立たせるものとなりました。―ルカ 1:77,78。

      13 イエスはどんな重要な点でみ父のご性格を反映されましたか。

      13 神のみ子が地に遣わされたことはまた,人類にエホバのご性格を一層はっきり理解させることにもなりました。どのようにでしょうか。それは,イエスがみ父のご性格を完全に反映しておられた,という意味においてです。特に,立場の低い人たちを扱う優しい同情心のこもった方法の点でそう言えます。(ヨハネ 1:14; 14:9)この点で,3人の福音書筆者,マタイ,マルコ,およびルカは,ギリシャ語の「腸」を意味する言葉に由来する,スプランクニゾマイというギリシャ語動詞を用いています。聖書学者のウィリアム・バークレーは,こう説明しています。「語源となっているその言葉から分かることだが,これは決して普通の哀れみや同情ではなく,人の内奥の深い所からわき起こる感情を描写している。これはギリシャ語の,同情心を意味する最も強い言葉である」。この語は,『哀れみを覚える』とか,『哀れに思う』(英文字義,「哀れみに動かされる」)といったように,様々な形に翻訳されています。―マルコ 6:34; 8:2。

      イエスが哀れみを覚えられた時

      14,15 ガリラヤの都市で,イエスはどのように哀れみに動かされますか。

      14 それは,ガリラヤのある都市でのことです。一人の「体じゅうらい病の」男が,しきたりどおりの警告の言葉も述べずにイエスに近づきます。(ルカ 5:12)イエスは,この人が神の律法で要求されているように,「汚れている,汚れている」と叫ばなかったことで,この人を厳しく戒められるでしょうか。(レビ記 13:45)いいえ,それどころかイエスは,この人の必死の懇願,「あなたは,ただそうお望みになるだけで,私を清くすることがおできになります」という言葉に耳を傾けられます。イエスは「哀れに思い」,手を伸ばしてそのらい病人に触り,「わたしはそう望みます。清くなりなさい」と言われます。すると,この人の健康は,たちどころに回復しました。こうしてイエスは,神から与えられた奇跡的な力だけでなく,そのような力を行使する動機づけとなる優しい感情をも実際にお示しになります。―マルコ 1:40-42。

      15 イエスはご自分のところに近づいて来た人でなければ同情心を示されないのでしょうか。いいえ,そうではありません。しばらく後にイエスは,ナインという都市から出て来た葬式の行列に出くわされます。恐らくイエスは,それまでに何度も葬式を目撃されたことでしょう。しかし,この時の葬式には,とりわけ痛ましいものがありました。亡くなったのは,やもめのたった一人の息子です。イエスは「哀れに思い」,そのやもめに近づいて,「泣かないでもよい」と言われます。そうして,その息子を生き返らせるという際立った奇跡を行なわれます。―ルカ 7:11-15。

      16 イエスがご自分に付いて来る大勢の群衆に哀れみをお感じになるのはなぜですか。

      16 上記の出来事から学べる感動的な教訓は,イエスは『哀れに思う』と,何にせよ助けになる積極的な事柄を行なわれるという点です。後のある時,イエスは自分にずっと付いて来る大勢の群衆の実情をご覧になります。マタイの伝えるところによると,『イエスは群衆を見て哀れみをお感じになりました。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからです』。(マタイ 9:36)パリサイ人たちは,一般の人々の霊的な飢えを満たすことはほとんど何もしていません。それどころか,多くの不必要な規則を設けて,謙遜な人たちに重荷を負わせています。(マタイ 12:1,2; 15:1-9; 23:4,23)彼らが一般の人々をどうみなしていたかは,イエスの話に耳を傾けていた人たちのことを,「律法を知らないこの群衆はのろわれた者たちなのだ」と言った時に明らかにされました。―ヨハネ 7:49。

      17 イエスは群衆に対する哀れみにどのように動かされますか。その時,後々にまで影響するどんな指針をお与えになりますか。

      17 それとは対照的に,イエスは群衆の霊的な窮状を見て深く心を動かされます。しかし,関心を抱く人があまりにも多いため,イエスにはそれらの人に個人的な世話を与えることができません。それでイエスは弟子たちに,より多くの働き人を求めて祈るようにとお告げになります。(マタイ 9:35-38)イエスは,そのような祈りに調和して,「天の王国は近づいた」という音信を携えた使徒たちを送り出されます。その時に与えられた指示は,クリスチャンにとって,現代に至るまで有益な指針となってきました。イエスは確かに,同情心に動かされて,人類の霊的な飢えを満たされます。―マタイ 10:5-7。

      18 イエスは,群衆にプライバシーを侵害された時,どのように反応されますか。わたしたちはこのことからどんな教訓を学びますか。

      18 別の時にもイエスはやはり,群衆の霊的な必要を気遣われます。この時,イエスと使徒たちは,多忙な伝道旅行で疲れ,休息を取るための場所を探します。しかし,民はすぐに彼らを見つけます。マルコの記録によると,イエスは自分たちのプライバシーがそのようにして侵害されても苛立つことなく,彼らを「哀れに思われ」ました。イエスはなぜそのような深い感情を抱かれたのでしょうか。それは,「彼らが羊飼いのいない羊のようであった」からです。この時もまた,イエスはその感情に促されて行動し,群衆に「神の王国について」教え始められます。そうです,イエスは霊的に飢えている人々を見て深く心を動かされたため,必要な休息を犠牲にして彼らを教えられたのです。―マルコ 6:34。ルカ 9:11。

      19 群衆に対するイエスの気遣いは,彼らの霊的な必要を満たすことにとどまらず,どのようにそれ以上のことに及びましたか。

      19 イエスはおもに人々の霊的な必要を気遣っておられたとはいえ,決して人々の基本的な身体面の必要を見過ごしておられたわけではありません。その同じ時に,「治療を必要とする者たちをおいやしにな(り)」ました。(ルカ 9:11)さらに後の時には,その時まで長い間群衆がイエスと共におり,彼らは家から遠く離れていました。イエスは彼らの身体面の必要を察知し,弟子たちに対してこう言われました。「わたしはこの群衆に哀れみを感じます。わたしのもとにとどまってすでに三日になるのに,食べる物を何も持っていないからです。そしてわたしは,何も食べないままで彼らを去らせたくありません。彼らは途中で力が尽きてしまうかもしれません」。(マタイ 15:32)そこでイエスは,予想される苦しみを防ぐための措置を講じられます。奇跡により,七つのパンと数匹の小さな魚を基に,幾千人もの男女子供に食事を提供されるのです。

      20 わたしたちは,イエスが哀れみに動かされたことに関する最後に記録されている出来事から何を学べますか。

      20 イエスが哀れみに動かされたことに関する最後の記録は,イエスがエルサレムに向かって最後の旅をしておられた時の出来事です。大勢の群衆が,過ぎ越しを祝うためにイエスと共に道を進んでいます。エリコの近くの路上で,こじきの盲人が二人,「主よ,わたしたちに憐れみをおかけください」と叫び続けます。群衆は,彼らを黙らせようとしますが,イエスは彼らに呼びかけ,何をして欲しいのかとお尋ねになります。彼らは,「主よ,わたしたちの目が開くようにしてください」と懇願します。イエスは「哀れに思い」,彼らの目にお触れになります。すると,彼らは見えるようになりました。(マタイ 20:29-34)わたしたちは,このことから実に重要な教訓を学べます。イエスは地上での宣教の最後の週に入ろうとしておられるところです。イエスには,サタンの手先の手にかかって非常な苦痛を伴う死を遂げる前に成し遂げておくべき業がたくさんあります。それでもイエスは,この重大な時の圧力ゆえに,さほど重要ではないからといって,人の必要としている事柄に優しい同情心を示せなくなる,ということなどはないのです。

      同情を際立たせる例え

      21 主人が奴隷の多額の負債を取り消したことによって何が例証されていますか。

      21 イエスの生涯に関するこうした記述の中で使われているギリシャ語動詞,スプランクニゾマイは,イエスの話された例えのうち三つの例えの中でも使われています。一つの物語の中で,ある奴隷は多額の負債を返済するための期間を猶予してほしいと請い願います。その奴隷の主人は,「哀れに思って」,その負債を取り消してやります。これはエホバ神が,イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせる個々のクリスチャンに対して,罪という多額の負債を取り消す点で大いなる同情を示してこられたことを例証するものです。―マタイ 18:27; 20:28。

      22 放とう息子のたとえ話は何を例証していますか。

      22 次いで,放とう息子の話があります。正道から外れたその息子が家に戻って来る時にどんなことが起きるか,思い起こしてみてください。「彼がまだ遠くにいる間に,父親は彼の姿を見て哀れに思い,走って行ってその首を抱き,優しく口づけしたのです」。(ルカ 15:20)これは,正道から外れたクリスチャンが真の悔い改めを示すとき,エホバが哀れみを覚え,再びその人を優しく受け入れられることを示しています。ですから,これら二つの例えによって,イエスはわたしたちの父エホバが『優しい愛情に富む,同情心の豊かな方である』ことを示しておられるのです。―ヤコブ 5:11,脚注。

      23 わたしたちは,隣人愛を示したサマリア人に関するイエスの例えから,どんな教訓を学べますか。

      23 三つ目に,スプランクニゾマイが例えの中で使われている例は,強盗に襲われて半殺しの状態で置き去りにされた一ユダヤ人の窮状を見て『哀れに思った』,情け深いサマリア人に関するものです。(ルカ 10:33)そのサマリア人はそうした感情に促されて行動し,見ず知らずのその人を助けるために自分の力の及ぶことをすべて行ないました。これは,エホバとイエスが,優しさと同情を表わす点でご自分の模範に従うよう真のクリスチャンに期待しておられることを示しています。どのようにそうすることができるか,次の記事でその幾つかの方法が取り上げられます。

  • エホバ ― 優しい同情心に富む父
    ものみの塔 1994 | 11月1日
    • [12,13ページの囲み記事]

      「優しい,愛のこもった気遣い」を意味する写実的表現

      「ああ,わたしのはらわた,わたしのはらわたよ!」と,預言者エレミヤは叫びました。何か良くない物を食べたため腸の病気にかかり,苦痛を訴えていたのでしょうか。いいえ,そうではありません。エレミヤはユダ王国に臨む災いを懸念する自分の深い感情を描写するためにヘブライ語の隠喩を用いていたのです。―エレミヤ 4:19。

      エホバ神は深い感情を抱いておられるので,ヘブライ語の「はらわた」もしくは「腸」を意味する言葉(メーイーム)は,神の優しい感情を描写するためにも用いられています。例えば,エレミヤの時代よりも何十年も前に,イスラエルの十部族王国はアッシリアの王によってとりこにされました。エホバはイスラエルの民の不忠実さに対する罰としてそれを許されました。しかし,神は流刑にされた彼らをお忘れになったでしょうか。いいえ,そのようなことはありません。神は,ご自分の契約の民の一部である彼らに,なおも深い愛着を抱いておられました。エホバは彼らのことを主立った部族エフライムの名で呼び,こう問いかけられました。「エフライムはわたしにとって大切な子なのか。また,優しい扱いを受けた子供なのか。わたしは,彼に敵して語れば語るだけ,彼のことをなおも必ず思い起こすからである。それゆえに,わたしのはらわたは彼のために騒ぎ立った。わたしは必ず彼を哀れむであろう」― エレミヤ 31:20。

      エホバは,「わたしのはらわたは……騒ぎ立った」と述べることにより,一種の修辞的表現法を用いてご自分の流刑にされた民に対する愛情という深い感情を描写されました。19世紀の聖書学者,E・ヘンダーソンは,この節に関する注解書の中でこう書いています。「ここでエホバが表明している,戻って来た放とう者に対する親らしい優しい感情の,その感動的な表明に勝るものはない。……エホバはそのように[偶像礼拝を行なうエフライム人]に敵して語り,彼らを処罰したが,……決して彼らのことを忘れたわけではなく,むしろ彼らの最終的な回復を期待して喜んだ」。

      ギリシャ語で「腸」もしくは「はらわた」を指す言葉も,クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で同じような意味で用いられています。使徒 1章18節では文字どおりの意味で用いられていますが,文字どおりの意味ではない場合,それは愛情や同情といった優しい感情のことを指しています。(フィレモン 12)この言葉は,ギリシャ語の「良い」または「よく」を意味する言葉と結びつけられている場合があります。使徒パウロと使徒ペテロは,『優しい同情心に富む』よう,字義どおりには「哀れみをよく示す傾向を持つ」ようクリスチャンを励ました時にその結合表現を用いています。(エフェソス 4:32。ペテロ第一 3:8)ギリシャ語の「はらわた」を意味する言葉は,ギリシャ語のポリュという言葉と結びつけられる場合もあります。この結合語は,字義どおりには「はらわたが多い」を意味します。ギリシャ語のめったに使われないこの表現は,聖書中に一度だけ用いられており,エホバ神のことを指しています。新世界訳ではその箇所が,『エホバは優しい愛情に富んでおられる』と訳されています。―ヤコブ 5:11。

      なんと感謝すべきことでしょう。宇宙内で最も強力な方であるエホバ神は,同情心に欠けた人間の考え出した残忍な神々とは大いに異なっておられるのです。真のクリスチャンは,自分たちの『優しい愛情に富む』神に倣って,互いを扱う際に神と同じように行動するよう動かされます。―エフェソス 5:1。

      [10ページの図版]

      神の同情が限度に達した時,エホバは正道から外れたご自分の民がバビロニア人に征服されることを許された

      [11ページの図版]

      エホバ神にとって,ご自分の愛するみ子の死を見守ることは,かつて人が味わったどんな苦痛よりも大きな苦痛であったに違いない

      [15ページの図版]

      イエスはみ父の情け深いご性格を完全に反映しておられた

  • 優しい同情心に富む人でありなさい
    ものみの塔 1994 | 11月1日
    • 優しい同情心に富む人でありなさい

      「優しい同情心,親切……を身に着けなさい」― コロサイ 3:12。

      1 今日,同情を示すことが大いに必要とされているのはなぜですか。

      歴史上,これほど多くの人が同情心のあふれる援助を必要としたことは,かつてありません。病気,飢餓,失業,犯罪,戦争,無政府状態,自然災害などに直面して,幾百幾千万もの人々が助けを必要としています。しかし,それよりもさらに重大な問題があります。それは,人類が霊的に絶望的な状態にあることです。サタンは自分の時の短いことを知っており,『人の住む全地を惑わしています』。(啓示 12:9,12)ですから,真のクリスチャン会衆の外部の人々は特に,命を失う危険に瀕しています。しかも,来たるべき神の裁きの日に処刑される人々に対し,聖書は何ら復活の希望を差し伸べていないのです。―マタイ 25:31-33,41,46。テサロニケ第二 1:6-9。

      2 エホバはなぜ,邪悪な者たちを滅ぼすことを差し控えておられますか。

      2 それでも,エホバ神は最後のこの時に至るまで,感謝しない者や邪悪な者たちに対して辛抱し,同情を示し続けておられます。(マタイ 5:45。ルカ 6:35,36)エホバは,不忠実になったイスラエル国民に対する処罰を遅らせたのと同じ理由でそうしてこられました。「『わたしは生きている』と,主権者なる主エホバはお告げになる,『わたしは,邪悪な者の死ではなく,邪悪な者がその道から立ち返って,実際に生きつづけることを喜ぶ。立ち返れ。あなた方の悪の道から立ち返れ。なぜなら,イスラエルの家よ,どうしてあなた方が死んでよいであろうか』」― エゼキエル 33:11。

      3 エホバがご自分の民ではない人々に同情を抱いておられることについては,どんな実例がありますか。わたしたちはこのことから何を学べますか。

      3 エホバの同情は,邪悪なニネベの人々にも差し伸べられました。エホバは彼らに,差し迫った滅びについて警告するため預言者ヨナを遣わされました。彼らはヨナの宣べ伝えた事柄に好意的に反応し,悔い改めました。そのため,同情心に富む神エホバは,その時はその都市を滅ぼすことを差し控えられました。(ヨナ 3:10; 4:11)もし神が,復活の見込みのあったニネベの人々を惜しまれたのであれば,神は今日,永遠の滅びに直面している人々に対してどれほど同情を感じておられることでしょう。―ルカ 11:32。

      類例のない,同情を示す業

      4 エホバは今日の人々に対してどのように同情を表明しておられますか。

      4 エホバは同情心に富むご性格に調和して,ご自分の証人たちに,『王国の良いたより』を携えて近隣の人々を訪ね続ける使命を与えておられます。(マタイ 24:14)そして,命を救うこの業に人々が感謝の念を抱いてこたえ応じるとき,エホバは彼らの心を開いて王国の音信の意味を悟れるようにされます。(マタイ 11:25。使徒 16:14)真のクリスチャンは自分たちの神に見倣って,優しい同情を示します。関心を示した人を再度訪問し,可能な場合には聖書研究という方法でそれらの人を助けることにより,そうするのです。例えば,1993年に,450万人余りのエホバの証人は231の国や地域で,家から家へと宣べ伝えて隣人たちと聖書研究を行なう業に10億時間以上を費やしました。それによって,新たに関心を抱いたそれらの人には,自分の命をエホバに献げて,バプテスマを受けた証人たちの隊伍に加わる機会が差し伸べられます。こうして彼らも,滅びゆくサタンの世にまだ捕らわれている,弟子になる見込みのある人たちのために,類例のないこの同情を示す業に専心します。―マタイ 28:19,20。ヨハネ 14:12。

      5 神の同情が限度に達する時,神を誤り伝えている宗教はどうなりますか。

      5 間もなくエホバは「雄々しい戦人」として行動されます。(出エジプト記 15:3)ご自分の名とご自分の民に対する同情のゆえに,悪を一掃し,義にかなった新しい世を確立なさいます。(ペテロ第二 3:13)神の憤りの日を最初に経験するのは,キリスト教世界の諸教会でしょう。神は,エルサレムにあったご自分の神殿を容赦することなくバビロンの王の手に渡されたのですから,ご自分を誤り伝えてきた宗教組織を容赦することなどされません。神は,キリスト教世界と他のあらゆる形態の偽りの宗教を荒廃させることを,国際連合の成員国の心の中に入れられます。(啓示 17:16,17)エホバはこう宣言しておられます。「わたしとしても,わたしの目は惜しみ見ず,わたしは同情を示さない。わたしは彼らの道を必ず彼らの頭にもたらす」― エゼキエル 9:5,10。

      6 エホバの証人は心に促されてどんな方法で同情を示しますか。

      6 エホバの証人は,まだ時が残されている間,救いに関する神からの音信を熱心に宣べ伝えることにより,隣人に同情を示し続けます。そしてもちろん,可能な場合には,物質的に困っている人々を助けることもします。しかし,この点での彼らの第一の責任は,近い関係にある家族の成員や,信仰において結ばれている人たちの必要を顧みることにあります。(ガラテア 6:10。テモテ第一 5:4,8)エホバの証人が様々な災害に見舞われた仲間の信者のために行なってきた多くの救援活動は,同情を示す点での顕著な模範となっています。とはいえ,クリスチャンは優しい同情を示すのに危急の事態を待つ必要はありません。日常生活での浮き沈みに応じて目ざとくこの特質を表わします。

      新しい人格の一部

      7 (イ)同情は,コロサイ 3章8-13節で新しい人格とどのように結びつけられていますか。(ロ)クリスチャンは優しい愛情を培うなら,どうすることが一層容易になりますか。

      7 確かに,優しい同情心に富んだ人となるうえで,自分の罪深さやサタンの世からの悪い影響は妨げになります。それゆえに聖書は,「憤り,怒り,悪,ののしりのことば,また……卑わいなことば」を捨て去るよう勧めています。わたしたちは,その代わりに『新しい人格[神の像に合致した人格]を身に着ける』よう助言されています。まず第一に,「優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを」身に着けるよう命じられています。次いで,聖書はそれらの特質を表わす実際的な方法を示しています。「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい」。わたしたちがもし兄弟たちに対する「優しい同情心」を培っていれば,快く許すことはずっと容易にできます。―コロサイ 3:8-13。

      8 快く許す精神を抱くことはなぜ大切ですか。

      8 これに反して,同情心を示して許すということをしないなら,自分とエホバとの関係が危うくなります。この点はイエスの語られた,仲間を許さなかった奴隷の例えの中で力強く示されました。その奴隷の主人は彼を,「借りているものすべてを返すまで」牢屋に入れたのです。その奴隷はそのように扱われても仕方がありませんでした。憐れみを請い求める仲間の奴隷に対して全く同情を示さなかったからです。イエスはその例えの結論として,「もしあなた方各自が,自分の兄弟を心から許さないなら,わたしの天の父もあなた方をこれと同じように扱われるでしょう」と言われました。―マタイ 18:34,35。

      9 優しい同情は,新しい人格の最も重要な面とどのように関連していますか。

      9 優しい同情心に富むことは,愛の一つの重要な面です。そして,愛は真のキリスト教を見分けるためのしるしです。(ヨハネ 13:35)そのため,新しい人格についての聖書の描写は,「これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」という言葉で締めくくられています。―コロサイ 3:14。

      そねみ ― 同情の妨げ

      10 (イ)わたしたちの心には,何が原因で嫉妬が根を下ろすかもしれませんか。(ロ)嫉妬によってどんな悪い結果の生じる場合がありますか。

      10 人間としての自分の罪深さのゆえに,わたしたちの心には種々のそねみの感情が容易に根づいてしまう場合があります。ある兄弟や姉妹は,わたしたちにはない生来の能力や物質面での利点に恵まれているかもしれません。あるいはまた,特別な霊的な祝福や特権を受けているかもしれません。わたしたちは,もしそのような兄弟姉妹をねたましく思うなら,彼らに優しい同情をもって接することができるでしょうか。多分,できないでしょう。それどころか,嫉妬心がいつかは批判的な話や不親切な行動となって表われるかもしれません。というのは,イエスは人間について,「心に満ちあふれているものの中から人の口は語る」と言われたからです。(ルカ 6:45)他の人はそのような批判に同調するかもしれません。そのために,家族内や神の民の会衆内の平和が乱される場合もあります。

      11 ヨセフの10人の兄たちは,どうして心に同情を抱けなくなってしまいましたか。それはどんな結果につながりましたか。

      11 ある大きな家族に起きた事を考えてみてください。ヤコブの10人の年上の息子たちは,弟のヨセフに対する嫉妬心をつのらせました。ヨセフが父親から特に愛されていたからです。その結果,『彼らはヨセフに対して穏やかに物を言うことができませんでした』。後にヨセフは,神から祝福として与えられた夢を見,自分がエホバの恵みを受けていることを証明しました。そのために兄たちは「その憎しみを一層つのらせ」ました。彼らは自分の心から嫉妬を除き去らなかったため,心に同情を抱けなくなり,重大な罪を犯すことになりました。―創世記 37:4,5,11。

      12,13 わたしたちは自分の心に嫉妬の感情が芽生えたなら,どうすべきですか。

      12 彼らは残酷にも,ヨセフを奴隷として売り飛ばしました。そして,自分たちの悪行を覆い隠そうとして,父親をだまし,ヨセフは野獣に殺されたのだと思い込ませました。何年も後に,彼らが飢きんのためにエジプトへ下って行って食物を買わざるを得なくなった時,彼らの罪は明るみに出されました。彼らは食糧管理官を見てもヨセフであることに気づきませんでした。その管理官は彼らを回し者だと非難し,末の弟ベニヤミンを連れて来るのでなければ二度と援助を求めてはならないと告げました。このころにはベニヤミンが父親から特に愛されており,彼らはヤコブがベニヤミンを行かせたがらないことを知っていました。

      13 彼らはヨセフの前に立っている間に,良心に促されてこう告白しました。「確かにわたしたちは弟[ヨセフ]のことで罪科がある。わたしたちの同情を請い求めていたのに,その魂の苦しみを見ながらそれを聴き入れなかったからだ。だからこの苦しみがわたしたちに臨んでいるのだ」。(創世記 42:21)ヨセフは同情心を示しながらも毅然とした態度で事を扱うことにより,兄たちが本当に悔い改めたことを証明できるようにしました。その後,彼らに自分がヨセフであることを打ち明け,彼らを寛大に許しました。元どおり家族は和合しました。(創世記 45:4-8)クリスチャンであるわたしたちは,このことから教訓を学ぶべきです。そねむことの数々の悪い結果を知っているのですから,助けを求めてエホバに祈り,嫉妬心を「優しい同情心」に置き換えるべきでしょう。

      同情を抱く妨げとなる他の要因

      14 わたしたちはなぜ,暴力行為を不必要に見聞きすることを避けるべきですか。

      14 ほかに,暴力行為を不必要に見聞きすることが,同情心に富む点で妨げとなる場合があります。暴力を特色とするスポーツや娯楽は,流血を好む気持ちを助長します。聖書時代の異教徒たちは,ローマ帝国各地の闘技場で定期的に剣奴の試合や他の形で人が拷問にかけられる場面を見ていました。一歴史家によれば,そのようなことを娯楽としていたため,「獣とは異なる人間特有の,苦しみに同情する神経が麻痺して」しまいました。今日の世界に見られる娯楽の多くも,同じ影響力を持っています。クリスチャンは,優しい同情心に富んだ人になろうと努力しているのですから,読み物,映画,テレビ番組などに関し,良いものだけを厳選するようにしなければなりません。賢明にも彼らは,詩編 11編5節の,「[エホバ]は暴虐を愛する者を必ず憎む」という言葉を銘記しています。

      15 (イ)人はどのように,同情心の重大な欠如を露呈することがありますか。(ロ)真のクリスチャンはどのように,仲間の信者や隣人の必要にこたえ応じますか。

      15 自己中心的な人も,同情心に欠けるきらいがあります。これは重大なことです。使徒ヨハネはその点をこう説明しています。「だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら,その兄弟に向かって優しい同情の扉を閉じるなら,その人にはどのようにして神の愛がとどまっているでしょうか」。(ヨハネ第一 3:17)これと同様の同情心の欠如は,隣人愛を示したサマリア人に関するイエスの例えの中の独善的な祭司やレビ人によって示されました。これらの人は,自分の兄弟である半殺しにされたユダヤ人の窮状を見ながら,道路の反対側へよけてそのまま行ってしまったのです。(ルカ 10:31,32)一方,同情心の厚いクリスチャンは,兄弟たちの物質的また霊的な必要に目ざとくこたえ応じます。また,イエスの例えに出てきたサマリア人のように,見知らない人たちの必要にも関心を払います。弟子を作る業を推し進めるために自分の時間やエネルギーや資力を喜んで惜しみなく費やしているのはそのためです。このようにして,幾百万人もの人々の救いに寄与しているのです。―テモテ第一 4:16。

      病気の人に対する同情

      16 わたしたちには,病気の人を扱う点でどんな限界がありますか。

      16 病気は,不完全な死にゆく人間の宿命です。クリスチャンも例外ではありません。彼らのほとんどは医学の専門家ではなく,また彼らはキリストや使徒たちから奇跡を行なう力を受けていた一部の初期クリスチャンがしたように奇跡を行なえるわけでもありません。キリストの使徒たちや彼らとじかに交わっていた人たちが死んだ後は,そのような奇跡的な力も見られなくなりました。ですから,脳の機能障害や幻覚を含め,身体的な病気にかかっている人たちを助けるためのわたしたちの能力は限られています。―使徒 8:13,18。コリント第一 13:8。

      17 わたしたちは,病気になり子供にも先立たれたヨブがどのようにあしらわれたかを考えるとき,どんな教訓を学べますか。

      17 病気にかかると,多くの場合,憂うつになるものです。例えば,神を恐れる人であったヨブは,重い病気とサタンのもたらした数々の災いのため,深く憂いに沈みました。(ヨブ 1:18,19; 2:7; 3:3,11-13)ヨブは,優しい同情をもって扱ってくれる,また『慰めのことばをかけてくれる』友人を必要としていました。(テサロニケ第一 5:14)それなのに,3人のいわゆる慰め手たちは,ヨブのもとを訪れて,性急にも間違った結論を下しました。彼らは,ヨブが災いを被ったのは彼自身に何らかの落ち度があったからではないかと述べて,憂いに沈んでいるヨブを一層憂うつにならせました。クリスチャンは優しい同情心を示し,仲間の信者が病気になったり落ち込んだりした時,ヨブの慰め手が陥ったようなわなに陥らないようにするでしょう。ある場合,病気になったり落ち込んだりした人がおもに必要とするのは,長老や他の円熟したクリスチャンが何度か親切に訪問して,思いやり深く話に耳を傾け,理解を示し,愛のこもった聖書的な諭しを差し伸べることだけなのです。―ローマ 12:15。ヤコブ 1:19。

      弱い人に対する同情

      18,19 (イ)長老たちは,弱い人や過ちを犯した人をどのように扱うべきですか。(ロ)審理委員会を構成する必要がある場合でも,長老たちが優しい同情を抱いて悪行者を扱うことはなぜ大切ですか。

      18 とりわけ長老たちは,優しい同情心を示さなければなりません。(使徒 20:29,35)「わたしたち強い者は,強くない者の弱いところを担うべきで(す)」と,聖書は命じています。(ローマ 15:1)わたしたちは皆,不完全なので,間違いを犯します。(ヤコブ 3:2)「それと知らずに何か誤った歩みをする」人を扱う際には,優しさが必要です。(ガラテア 6:1)長老たちは決して,神の律法を適用する点で道理をわきまえなかった独善的なパリサイ人のようになろうと思ってはなりません。

      19 パリサイ人とは対照的に,長老たちは,優しい同情心に富んでいる点でエホバ神とイエス・キリストの模範に従います。長老たちのおもな仕事は,神の羊を養い,励まし,元気づけることです。(イザヤ 32:1,2)長老たちは,多くの規則によって物事を統制しようとする代わりに,神の言葉の中に見いだされる数々の優れた原則に従うよう訴えます。したがって,長老たちの役目は,築き上げること,すなわち兄弟たちの心に喜びと,エホバの善良さに対する感謝の念を抱かせることであるべきです。もし仲間の信者が何かちょっとした過ちを犯したなら,長老は普通,他の人の聞いている所で当人をいさめたりしないでしょう。どうしても話す必要がある場合は,優しい同情心に動かされて当人をわきへ連れて行き,他の人に聞こえない所で問題を話し合います。(マタイ 18:15と比較してください。)ある人がどれほど折り合いの悪い人であっても,長老の側の近づき方は,辛抱強い,助けになろうとするものであるべきです。決してその人を会衆から追い出すための口実を見つけようと思ってはなりません。審理委員会を構成する必要がある時でさえ,長老たちは重大な悪行に関係した人を扱う際に優しい同情を示すでしょう。その穏やかな態度が,当人にとって悔い改める助けになることもあるのです。―テモテ第二 2:24-26。

      20 どんな場合には,情に動かされて同情を表わすことはふさわしくありませんか。それはなぜですか。

      20 しかし,エホバの僕が同情を示すことができない時もあります。(申命記 13:6-9と比較してください。)クリスチャンにとって,排斥された親しい友人や親族との『交友をやめる』ことは,真の試練となり得ます。そのような場合,哀れみの感情に屈しないようにするのは大切なことです。(コリント第一 5:11-13)過ちを犯した人は,そのような毅然とした態度を見て,悔い改めるよう促されることもあるのです。さらに,クリスチャンは異性を扱う際に,性の不道徳につながりかねない不適当な同情を示すことを避けなければなりません。

      21 わたしたちはほかのどんな分野において優しい同情を示さなければなりませんか。そうすることにはどんな益がありますか。

      21 誌面が限られているため,優しい同情を必要とする多くの分野 ― お年寄り,家族のだれかに先立たれた人,信者ではない配偶者から迫害されている人などに接する際のこと ― をすべて取り上げることはできません。献身的に奉仕する長老たちも同じように優しい同情をもって扱われるべきです。(テモテ第一 5:17)彼らを敬い,支持してください。(ヘブライ 13:7,17)『あなた方はみな優しい同情心に富む人でありなさい』と,使徒ペテロは書いています。(ペテロ第一 3:8)わたしたちは,同情を必要とする状況では常にそのように行動することにより,会衆の一致と幸福を促進し,外部の人たちを真理に引き寄せます。そして特に,そうすることによって,優しい同情心に富んでおられる父エホバに誉れを帰するのです。

  • 優しい同情心に富む人でありなさい
    ものみの塔 1994 | 11月1日
    • [19ページの囲み記事]

      同情心に欠けていたパリサイ人

      休みの安息日は,神の民にとって霊的また身体的な祝福となるはずでした。ところが,ユダヤ人の宗教指導者たちは多くの規則を作って,神の安息日の律法を汚し,民にとって律法を重荷にしてしまいました。例えば,人は事故に遭っても病気にかかっても,命が危険にさらされているのでない限り,安息日に助けを求めることはできませんでした。

      パリサイ人のある学派は,安息日の律法の解釈が非常に厳格で,「安息日には嘆き悲しむ人を慰めることも,病気の人を見舞うこともしない」と述べました。他の宗教指導者たちは安息日にそのような見舞いを行なってもよいとしましたが,「涙を流すことは禁じられている」と規定しました。

      ですから,イエスがユダヤ人の宗教指導者たちを,公正,愛,憐れみなど,律法のより重要な要求を見過ごしているとしてとがめたのは正当なことでした。イエスが彼らに対して,「あなた方は……伝統によって神の言葉を無にしています」と言われたのも不思議ではありません。―マルコ 7:8,13。マタイ 23:23。ルカ 11:42。

      [17ページの図版]

      エホバの証人は231の国や地域において,人々の家庭で,街路で,さらには刑務所で,類例のない同情を示す業を行なっている

      [18ページの図版]

      テレビなどで暴力行為を見聞きしていると,優しい同情心がむしばまれる

日本語出版物(1954-2026)
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