-
悪名高い娼婦 ― 彼女の滅びものみの塔 1989 | 4月15日
-
-
ヒトラーはナチ国家とバチカンの間の政教条約締結の交渉のため,パーペンを団長とする代表団をローマに派遣しました。法王ピウス11世は,「ドイツ政府の首脳の中に,意志強堅な反共の徒が現われた」ことを大変うれしく思っている,とドイツの外交使節に語りました。1933年7月20日には,バチカンで念の入った調印式が行なわれ,(程なく法王ピウス12世になろうとしていた)パーチェリ枢機卿がその政教条約に署名しました。a
3 (イ)ある歴史家は,ナチ国家とバチカンとの政教条約について,何と書きましたか。(ロ)バチカンでの祝賀会の際,フランツ・フォン・パーペンにはどんな名誉が与えられましたか。(ハ)ナチのオーストリア乗っ取り政策に関して,フランツ・フォン・パーペンはどんな役割を果たしましたか。
3 ある歴史家はこう書いています。「この[バチカンとの]政教条約はヒトラーにとって大きな勝利であった。それはヒトラーに外の世界から初めて精神的援助を与えるものとなり,しかもそれは極めて高い源からの援助であった」。
-
-
悪名高い娼婦 ― 彼女の滅びものみの塔 1989 | 4月15日
-
-
a 当時,この政教条約の二つの条項が秘密にされたことには明らかな理由がありました。それらの条項は,ソ連に対抗するための共同戦線と,ヒトラーの軍隊に徴兵されていたカトリック司祭の責務に関するものでした。彼らを徴兵することはベルサイユ条約(1919年)に違反する行為であり,ドイツは依然としてこの条約に拘束されていました。この条項が一般の人々に知られたなら,ベルサイユ条約の他の調印国は困惑したことでしょう。
-
-
悪名高い娼婦 ― 彼女の滅びものみの塔 1989 | 4月15日
-
-
H・W・ブラッド-ライアンは1939年に出版された自著「フランツ・フォン・パーペン ― その生涯とその時代」の中で,法王の勲爵士がヒトラーに権力を付与した際に,またバチカンとナチスとの間の政教条約の交渉に当たった際に用いた計略の詳細を説明しています。
-