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目ざめよ! 1999
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死に面しても神に仕える

ジョアン・マンコカの語った経験

1961年6月25日,兵士たちはアンゴラのルアンダで私たちが開いていたクリスチャンの集会を解散させました。私たち30人は刑務所に連行され,大変ひどく打たれたため,兵士たちは30分ごとに,だれかが死んでいないかどうかを確かめるため戻って来ました。私たち全員が生き延びたため,私たちの神はまことの神に違いない,と兵士たちのだれかが言うのが聞こえました。

こうして打たれた後,私はサンパウロ刑務所に5か月間入れられました。その後,9年間,次々に別の刑務所に移され,さらに何度となく打たれ,食べ物も満足に与えられず,何度も尋問されたりして苦しめられました。1970年に釈放されて間もなく再び逮捕され,このたびは現在のベンティアバ,つまりサン・ニコラウの悪名高い死の収容所に送られ,そこで2年半拘留されました。

法律を守る市民である私が,聖書に基づく自分の信条について他の人に話したからといって,どうして投獄されたのだろう,また神の王国の良いたよりについて私は最初どこで学んだのだろう,と疑問に思われるかもしれません。

良い教育を施される

私は1925年10月,アンゴラ北部のマケラ・ド・ゾンボという町の近くで生まれました。1932年に父が亡くなったとき,母はベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)にいる母の弟に預けるため,そのもとに私を送りました。本当はそうしたくなかったのですが,私を養う資力がなかったのです。

おじはバプテスト派の信者で,聖書を読むよう私に勧めてくれました。それで,おじの教会の会員になりましたが,自分の学んだ事柄で霊的な飢えはいやされませんでしたし,神に仕えるよう心を動かされることもありませんでした。しかし,おじは私を学校に通わせ,良い教育を受けられるよう助けてくれました。私はとりわけフランス語が話せるようになり,やがてポルトガル語も話せるようになりました。学校を卒業した後,レオポルドビル(現在のキンシャサ)にあった中央ラジオ放送局に無線電信士として就職しました。その後,二十歳の時,マリア・ポバと結婚しました。

新しい宗教運動

同年つまり1946年に私は,バプテスト教会に所属していた教養のあるアンゴラ人の聖歌隊指揮者の感化を受けるようになりました。その人は,アンゴラの北部に住む,キコンゴ語を話す人々を教育し,その地位を向上させたいと意気込んでいました。そして,「神の国 ― 全地の希望」という題の英文の小冊子のポルトガル語訳を1部入手していました。その小冊子は,ものみの塔聖書冊子協会が発行し,エホバの証人が頒布したものでした。

その聖歌隊指揮者はこの小冊子をキコンゴ語に翻訳し,それを使って,ベルギー領コンゴで働いていた私たちアンゴラ人のグループとの聖書の討議を毎週司会しました。やがてその指揮者は,米国にある,ものみの塔協会の本部に手紙を書き,さらに文書を入手しました。しかしその指揮者が伝えてくれた情報には,教会の教えが混じっていました。ですから私は,真のキリスト教とキリスト教世界の非聖書的な教えとをはっきり区別することができませんでした。

とはいえ,ものみの塔協会の文書に収められている聖書の音信は,以前バプテスト教会で聞いていた事柄とは全く異なっていることに気づきました。例えば,聖書はエホバという神の固有のみ名をたいへん重視していること,また真のクリスチャンはいみじくも自らエホバの証人と称していることを知りました。(詩編 83:18。イザヤ 43:10-12)さらに,エホバに忠実に仕える人たちは地上の楽園で永遠に生きられるという聖書の約束を知って心がなごみました。―詩編 37:29。啓示 21:3-5。

聖書の真理に関する私の知識は限られていましたが,エホバ神について語りたいという燃えるような願いを抑えきれなかった預言者エレミヤのように感じました。(エレミヤ 20:9)私たちの聖書研究グループの成員は私と一緒に家から家への伝道に携わりました。私はタイプライターで打った招待ビラを使って人々を招き,おじの家の庭で公開集会も開き,一度などは78人もの大勢の人が出席しました。こうしてアンゴラ人の聖歌隊指揮者の指導のもとに,新しい宗教運動が組織されました。

私の最初の投獄

私は知りませんでしたが,ベルギー領コンゴでは,ものみの塔協会と関係のある運動は一切禁じられていました。そのようなわけで,1949年10月22日に私たち数人は逮捕されました。裁判が行なわれる前に,判事はひそかに私と話をし,私を釈放する処置を講じようとしました。私が州の職員であることを知っていたからです。しかし自由を得るには,私たちが伝道した結果として組織されたこの運動を放棄していなければなりませんでした。私はそうすることを断固として拒みました。

刑務所で2か月半過ごした後,当局はアンゴラ人の私たちを故国に送還することにしました。しかしアンゴラに戻ったところ,ポルトガル植民地当局も私たちの活動に疑いを抱き,私たちの自由を制限しました。私たちの運動の支持者たちがベルギー領コンゴからさらに到着したので,結局,アンゴラの各地に私たちの仲間は1,000人余りいました。

やがて,著名な宗教指導者シモン・キンバングの追随者たちも私たちの運動に加わりました。それらの人はものみの塔協会の文書の研究には関心がありませんでした。聖書は霊媒による以外に説明できるものではないと信じていたからです。当時,まだ私たちの指導者とみなされていた聖歌隊指揮者をはじめ,私たちの運動に加わった仲間の大半もそういう見方を支持していました。私は,ものみの塔協会の真の代表者と連絡を取れるようにしていただきたい,とエホバに熱烈に祈りました。そうすれば,私たちの運動の支持者全員に聖書の真理を受け入れさせ,非聖書的な慣行を退けるよう説得できるのではないだろうかと考えていました。

この運動の一部の支持者たちは,私たち数人の行なっていた伝道をひどく嫌がっていました。それで,私たちのことを当局に密告し,私たちをある政治運動の指導者として告発しました。その結果,1952年2月,カルロス・アゴスティーニョ・カディやサラ・ラモス・フィレモンをはじめ,私たち数人が逮捕され,窓のない監房に閉じ込められました。しかし親切な看守が,妻たちの差し入れた食べ物のほか,1台のタイプライターを持ってきてくれたので,私たちはものみの塔協会の小冊子の写しをたくさん作ることができました。

それから3週間たった後,私たちはアンゴラ南部の砂漠地帯,バイア・ドゥスティグラシュに追放されました。妻たちも私たちと一緒にそこへ行きました。私たちは重労働4年の判決を受け,ある水産会社で働くことになりました。バイア・ドゥスティグラシュには漁港がなかったので,妻たちは水の中を歩いて,魚の入った重い荷物を船から運び,朝から晩まで何回も往復しました。

この捕虜収容所では,私たちの運動に加わっていたほかの仲間を見つけたので,聖書の研究を続けるよう説得しようとしましたが,それらの人は聖歌隊指揮者のトコに従うことを好んだため,やがてトコ主義者と呼ばれるようになりました。

待望の会合

バイア・ドゥスティグラシュにいたとき,私たちはものみの塔協会の北ローデシア(現在のザンビア)支部の住所を見つけ,援助を要請する手紙を書きました。私たちの手紙は南アフリカ支部に回され,同支部からは,私たちが聖書の真理に関心を抱くようになったいきさつを尋ねる手紙が届きました。私たちのことは米国のものみの塔協会本部に伝えられ,私たちと連絡を取るため特別の代表者を派遣する取り決めが設けられました。その代表者は,外国で長年経験を積んだ宣教者ジョン・クックでした。

クック兄弟がアンゴラに到着した後,私たちを訪ねる許可をポルトガル政府当局から得るのに数週間かかりました。同兄弟は1955年3月21日にバイア・ドゥスティグラシュに到着し,私たちの所に五日間とどまることが認められました。聖書に関する同兄弟の説明は大変満足の行くもので,私はこの兄弟がエホバ神の唯一まことの組織の代表者であることを確信しました。その訪問中の最後の日にクック兄弟は,「王国のこの良いたより」という主題で公開講演を行ない,バイア・ドゥスティグラシュの行政長官をはじめ,合計82名が講演に出席し,出席者は皆,その話の印刷された写しを1部もらいました。

アンゴラに5か月間滞在した際,クック兄弟は幾人かのトコ主義者やその指導者と連絡を取りましたが,その大半はエホバの証人になることに関心がありませんでした。ですから,当局に対して自分たちの立場を明らかにしなければならないと感じた私と仲間は,そうするために1956年6月6日付の公式の手紙を作成し,その手紙をモサメデシュ地域の総督閣下あてに送りました。そして,私たちはもはやトコの追随者たちとは一切無関係であり,「エホバの証人協会の成員」とみなされるべきであるということをその手紙に明記しました。また,崇拝の自由を認めていただきたいと要請しました。ところが,私たちの刑期は短くされるどころか,2年に延長されてしまいました。

バプテスマを受けるまでのいきさつ

ついに1958年8月に解放された私たちは,ルアンダに戻る途中,エホバの証人の小さな群れを見つけました。その群れは1年前に宣教者メルビン・パースローが組織したものでした。パースローはジョン・クックの代わりにアンゴラに派遣されましたが,私たちが到着した時にはすでに国外に追放されていました。その後,1959年にエホバの証人のもう一人の宣教者ハリー・アーノットが訪れました。ところが,アーノットは空港で飛行機を降りたとたん,逮捕され,出迎えるために待っていた私たち3人も逮捕されました。

ほかに,マニュエル・ゴンカルベスと,バプテスマを受けて間もないポルトガル人の証人ベルタ・テイシエイラの二人も,今後集会を開かないようにと警告されてから釈放されました。アーノット兄弟は国外に追放され,私は,自分がもはや証人ではないということを宣言した書面に署名しない限り,バイア・ドゥスティグラシュに送り返されることになると警告されました。7時間にわたって尋問された後,私はどんな書類にも署名することなく釈放されました。それから1週間後,友人のカルロス・カディとサラ・フィレモンと同様,私もついにバプテスマを受けることができました。私たちはルアンダ郊外のミュセケ・サンベザンガで部屋を借りました。アンゴラで最初のエホバの証人の会衆の場所となったのはそこでした。

迫害が再び始まる

集会に出席する関心のある人の数は増えるようになりました。中には私たちをこっそり見張るためにやって来たものの,集会を楽しみ,後にエホバの証人になった人さえいました。しかし政治情勢は変化しており,1961年2月4日,国家主義者の反乱が起きてから,私たちにとって状況はいっそう困難なものになりました。私たちに関する誤った考えが広まっていたにもかかわらず,3月30日にはキリストの死の記念式を,出席した130名の人たちと共に首尾よく祝うことができました。

6月のこと,私が「ものみの塔」研究を司会していたとき,憲兵隊が私たちの集会を解散させました。女性や子どもたちは釈放されましたが,この記事の冒頭で触れたように,そこにいた男性30人が拉致されました。私たちは2時間にわたって絶え間なくこん棒で殴られました。私はその後,3か月間吐血しました。それで,自分はきっと死ぬだろうと思いました。実際,私を殴った人は,私が死ぬと断言しました。殴られたほかの人たちの大半は,バプテスマを受けていない新しい聖書研究生でしたから,私はそれら研究生のために,「エホバ,あなたの羊たちを顧みてください」と熱烈に祈りました。

エホバに感謝すべきことですが,それらの研究生は一人も死ななかったため,兵士たちは大変驚きました。兵士たちの中には心を動かされて,私たちの神をたたえた者もおり,この方の助けで私たちは生き残れたのだとさえ言いました。やがてそれらの聖書研究生のほとんどは,バプテスマを受けた証人になり,中には現在,クリスチャンの長老として仕えている人もいます。そのうちの一人シルベストレ・シマウはアンゴラの支部委員の一人になっています。

9年間にわたる苦難

冒頭で述べたように,その後9年間,さまざまな苦難に遭い,刑務所もしくは強制労働収容所に次から次へと移されました。そのすべての場所で政治犯たちに証言することができ,現在,そのうちの多くの人がバプテスマを受けた証人になっています。妻マリアと私たちの子どもたちは私に同行することを許されました。

私たちがセルパ・ピント強制労働収容所にいたとき,4人の政治犯が脱走しようとしているところを見つけられました。それらの政治犯は囚人たち全員の面前で残忍な拷問を受けて殺され,囚人たちは脱走することなど考えることさえしないよう脅されました。その後,収容所長はマリアと子どもたちの面前で私を脅し,「お前が再び伝道しているところをわたしが見つけたなら,脱走しようとした者たちと同じようにお前も殺されるぞ」と言いました。

ついに1966年11月,私たちはサン・ニコラウの恐ろしい死の収容所と言われていた所に入れられることになりました。そこに着いた私たちは,収容所の管理者がシド氏であることを知ってぞっとしました。何とサンパウロ刑務所で私たちを実際に殴り殺そうとしたあの人物だったのです。毎月,何十人もの囚人が組織的に殺され,私の家族はそうした残忍な殺害現場を見ざるを得ませんでした。その結果,マリアは神経衰弱になり,いまだに完全に回復していません。やがて私は妻と子どもたちをルアンダに移動させる許可を得ることができ,そこで二人の年上の娘テレサとジュアンが面倒をみてくれました。

自由になったのに,またもや投獄される

翌年,1970年9月に釈放された私は,ルアンダで家族や兄弟たちみんなと再会しました。9年間留守をしているうちに,伝道の業がどれほど進展したかを知り,涙が出ました。1961年に投獄されたころ,ルアンダの会衆は四つの小さな群れで構成されていましたが,今や大きな会衆が四つもあり,6か月ごとにエホバの組織の旅行する代表者の援助を受けていました。自由の身になれた私は本当にうれしく思いましたが,その自由は長続きしませんでした。

ある日,今は消滅した国家捜査防衛警察の長官が訪ねてきました。娘のジュアンの面前で私にお世辞を言った後,署名するようにと言って私に1通の書類を手渡しました。その書類は同警察のために情報提供者として奉仕するよう私の協力を要請したもので,その奉仕に対して多くの物質的な報酬が約束されていました。署名を拒んだところ,サン・ニコラウに送り返されることになると脅され,そこから二度と再び解放されないだろうと言われました。

自由の身だったわずか4か月の後の,1971年1月,そうした脅しの言葉がそのとおりになりました。ルアンダで合計37人のクリスチャンの長老たちが逮捕され,サン・ニコラウに送られたのです。私たちは1973年8月までそこに幽閉されました。

釈放されても依然として迫害される

1974年,ポルトガルで信教の自由が公布され,後にこの自由はポルトガルの海外州にも適用されることになりました。1975年11月11日,アンゴラはポルトガルから独立しました。その同じ年の3月,最初の巡回大会を自由に開催できたのは,何と胸の躍る経験だったのでしょう。私はルアンダ市のスポーツ会場で開催された喜びにあふれたその集会で公開講演を行なう特権にあずかりました。

しかし,新しい政府は私たちの中立の立場に反対し,またアンゴラ全土では内戦が激化しました。事態は非常に危機的なものになったため,白人の証人たちは国外へ避難することを余儀なくされました。地元の兄弟である私たち3人は,エホバの証人のポルトガル支部の指導のもとでアンゴラの伝道の業を監督することになりました。

やがて私の名前が新聞やラジオで取り上げられるようになり,私は国際帝国主義の代理人として,またアンゴラの証人たちに武器を取ることを拒否させている人物として非難されました。その結果,ルアンダ州の初代総督のもとに出頭するよう命じられました。私は世界じゅうのエホバの証人の中立の立場について敬意を込めて総督に説明しました。その立場は,イエス・キリストの初期の追随者たちの取った立場なのです。(イザヤ 2:4。マタイ 26:52)植民地支配が行なわれていた期間,私が刑務所や強制労働収容所で17年余りを過ごしたことを説明すると,総督は私を逮捕しないことに決めました。

当時,アンゴラでエホバのために証人として奉仕するには勇気が要りました。私の家は監視されていたため,家で集会を開くことはやめざるを得ませんでした。しかし使徒パウロが述べているように,『わたしたちは,あらゆる面で圧迫されながらも,動きが取れないほど締めつけられていたわけではありませんでした』。(コリント第二 4:8)宣教の面で不活発になったことは決してありませんでした。私は伝道の業を続行し,旅行する奉仕者として仕え,ベンゲラ,ウイラ,そしてフアンボという州の諸会衆を強めました。当時,私はフィレモン兄弟という別名を使っていました。

1978年3月,私たちの伝道の業は再び禁止され,革命を好む狂信者たちが私を殺そうとたくらんでいるという知らせを確かな筋から受けました。それで私は,アンゴラのナイジェリア大使館に勤務していたナイジェリア出身のある証人の家に避難しました。それから1か月後,事態が収まったので,巡回監督として兄弟たちに仕える業を続けました。

業は禁止され,内戦が起きたにもかかわらず,何千人ものアンゴラ人が私たちの伝道にこたえ応じました。証人になる人の数がよく増えたので,ポルトガル支部の指導のもとに,アンゴラの伝道の業を世話するため国内委員が任命されました。その間に,私はポルトガルへ何度か旅行し,そこで必要な医療を受けましたし,資格のある奉仕者たちから貴重な訓練も受けました。

ついにもたらされた伝道の自由!

強制労働収容所にいたころ,政治犯たちはよく私をばかにして,もし伝道を続けるなら,私は決して自由の身にはなれないだろうと言いました。でも,私はこう答えたものです。「今はまだエホバが扉を開く時ではありませんが,エホバがそうなさったなら,だれも閉じることはできません」。(コリント第一 16:9。啓示 3:8)制限を受けることなく伝道するそうした機会の扉は,1991年にソ連が崩壊した後,大きく開かれました。その時,私たちはアンゴラで信教の自由をいっそう味わえるようになりました。1992年に,エホバの証人の業は正式に合法化されました。ついに1996年,アンゴラにエホバの証人の支部が設立され,私は支部委員の一人に任命されました。

私が長年にわたって投獄されていた間,私の家族はともかくいつも顧みていただきました。私には子どもが6人おり,そのうちの5人は今でも健在です。愛するジュアンは昨年,がんで亡くなりました。残った子どもたちのうち4人はバプテスマを受けた証人ですが,もう一人の子どもはまだバプテスマの段階を踏んでいません。

1955年,クック兄弟が私たちを訪ねたころ,神の王国の良いたよりを宣明していたのは,私たち合計4人のアンゴラ人だけでした。現在,この国には3万8,000人余りの王国宣明者がおり,毎月,6万7,000件余りの聖書研究を司会しています。良いたよりを宣べ伝えている人々の中には,以前私たちを迫害した人もいます。これは何とすばらしい報いでしょう。私を生き長らえさせ,み言葉を宣明したいという私の燃えるような願いを実現させてくださったエホバにどれほど感謝していることでしょう。―イザヤ 43:12。マタイ 24:14。

[20,21ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

コンゴ民主共和国

キンシャサ

アンゴラ

マケラ・ド・ゾンボ

ルアンダ

サン・ニコラウ(現在のベンティアバ)

モサメデシュ(現在のナミベ)

バイア・ドゥスティグラシュ

セルパ・ピント(現在のメノンゲ)

[クレジット]

Mountain High Maps® Copyright © 1997 Digital Wisdom, Inc.

[22,23ページの写真]

下: 1955年,ジョン・クックと共に。左側はサラ・フィレモン

右: 42年後,ジョン・クックとの再会

[23ページの写真]

妻マリアと共に

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