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『死人はよみがえらされます』ものみの塔 1998 | 7月1日
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復活の希望を擁護して
6 復活の信条がコリントで攻撃にさらされたのはなぜですか。使徒パウロはどのように対応しましたか。
6 復活はキリスト教の「初歩の教理」に含まれています。(ヘブライ 6:1,2)それでも,コリントではその教理が攻撃を受けていました。会衆内の一部の人々は,ギリシャ哲学の影響を受けていたのでしょう,「死人の復活などはない」と言っていました。(コリント第一 15:12)そうした報告が使徒パウロのもとに届くと,パウロは復活の希望,とりわけ油そそがれたクリスチャンの希望を擁護しました。これからコリント第一 15章のパウロの言葉を吟味しましょう。前の記事でも勧められましたが,その章全体を読んでおくことは助けになるでしょう。
7 (イ)パウロは,かぎとなるどんな点に注意を集中しましたか。(ロ)だれが,復活したイエスを見ましたか。
7 コリント第一 15章の最初の二つの節でパウロは論議の主題をこう述べています。「兄弟たち,わたしはあなた方に良いたよりを知らせます。それはわたしがあなた方に宣明したもの,またあなた方が受け入れたものであり,あなた方はまたその中に立ち,それにより,……救われつつあります。……実際,いたずらに信者となったのでなければですが」。コリントの人々は,もし良いたよりの中にしっかり立っていなかったとしたら,真理を無駄に受け入れていたのです。パウロは続けてこう述べました。「わたしは,最初の事柄の中で,次のことをあなた方に伝え(ました)。それは自分もまた受けたことなのですが,キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです。そして,葬られたこと,そうです,聖書にしたがって三日目によみがえらされたこと,さらに,ケファに現われ,次いで十二人に現われたことです。そののち彼は一度に五百人以上の兄弟に現われました。その多くは現在なおとどまっていますが,死の眠りについた人たちもいます。そののち彼はヤコブに,次いですべての使徒たちに現われました。しかし,すべての者の最後として,あたかも月足らずで生まれた者に対するかのように,わたしにも現われてくださいました」― コリント第一 15:3-8。
8,9 (イ)復活を信じることはなぜ重要ですか。(ロ)イエスが「五百人以上の兄弟」の前に現われたのはいつのことだったと考えられますか。
8 良いたよりを受け入れていた人たちにとって,イエスの復活は,信じても信じなくてもどちらでもよい事柄ではありませんでした。『キリストがわたしたちの罪のために死んで』よみがえらされたことを証言できる目撃証人は大勢いました。その一人はケファでした。ペテロという呼び名のほうがよく知られています。ペテロは,イエスが裏切られて捕縛された夜にイエスを否んだだけに,自分にイエスが現われてくださったことで大いに慰められたに違いありません。「十二人」,すなわち一団としての使徒たちも,復活したイエスの訪問を受けました。その経験は,恐れを克服して,イエスの復活の大胆な証人となる助けになったことでしょう。―ヨハネ 20:19-23。使徒 2:32。
9 キリストは一群の大勢の人,つまり「五百人以上の兄弟」にも現われました。追随者がそれほど大勢いた地域と言えばガリラヤだけでしたから,これはイエスが弟子を作るようにという命令を与えた,マタイ 28章16節から20節で述べられている時のことであったかもしれません。それらの人は何と強力な証言を行なえたのでしょう。その一部の人々は,パウロがコリント人へのこの第一の手紙を書いた西暦55年にもまだ生きていました。しかし,注目したいのは,すでに亡くなっていた人たちのことが「死の眠りについた」人と言われている点です。それらの人はまだ,復活して天的な報いを受けてはいませんでした。
10 (イ)イエスと弟子たちとの最後の集会はどんな影響をもたらしましたか。(ロ)イエスはどのような意味で「月足らずで生まれた者に対するかのように」パウロに現われましたか。
10 イエスの復活のもう一人の際立った証人は,ヨセフとイエスの母マリアとの間に生まれた息子ヤコブでした。復活以前,ヤコブは信者ではなかったようです。(ヨハネ 7:5)しかし,イエスが現われた後にヤコブは信者となり,恐らく自分の他の兄弟たちの改宗に一役買ったことでしょう。(使徒 1:13,14)イエスは,弟子たちとの最後の集会で,つまり天へ昇って行く時,彼らに,「地の最も遠い所にまで……証人となる」任務を与えました。(使徒 1:6-11)その後,クリスチャンを迫害する者であったタルソスのサウロにも現われました。(使徒 22:6-8)イエスは,「月足らずで生まれた者に対するかのように」サウロに現われました。あたかも,復活が起きる予定の時より何世紀も前に早くもサウロが霊の命に復活し,栄光に輝く主を見ることができたかのようでした。そうした体験をしたサウロは,クリスチャン会衆に対する殺意に満ちた反対をきっぱりやめ,目覚ましい変化を遂げました。(使徒 9:3-9,17-19)サウロは使徒パウロ,先頭に立ってクリスチャン信仰を擁護する人の一人となりました。―コリント第一 15:9,10。
復活に対する信仰は不可欠
11 「復活などはない」という主張の誤りをパウロはどのように暴露しましたか。
11 ですから,イエスの復活は十分に証明された事実です。「ところが,キリストは死人の中からよみがえらされたと宣べ伝えられているのに,あなた方のうちのある人たちが,死人の復活などはないと言っているのはどうしてですか」とパウロは論じます。(コリント第一 15:12)そのような人たちは復活に関して個人的に疑念や疑問を抱いていただけでなく,復活など信じられないとあからさまに語っていました。そこでパウロは,その推論の誤りを暴露します。それによると,もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,クリスチャンの音信はうそであり,キリストが復活したと証言する人は「神の偽りの証人」となります。もしキリストがよみがえらされなかったとすれば,何の贖いも神に払われなかったことになり,クリスチャンは「まだ自分の罪のうちに」あるのです。(コリント第一 15:13-19。ローマ 3:23,24。ヘブライ 9:11-14)また,殉教した人も含め,すでに「死の眠りについた」クリスチャンは,真の希望もなく滅びてしまったことになります。もし期待できるのが今の命だけだとすれば,クリスチャンは実に哀れな状態にあることになります。どれほど苦しみを忍んでも,すべて無駄になってしまいます。
12 (イ)キリストを「死の眠りについている者たちの初穂」と呼ぶことにより何が示唆されていますか。(ロ)キリストはどのようにして復活を可能にしましたか。
12 しかし,実際はそうではありませんでした。パウロは論議を続けます。「キリストは死人の中からよみがえらされ」ました。しかもキリストは,「死の眠りについている者たちの初穂」なのです。(コリント第一 15:20)イスラエル人が従順に産物の初穂をエホバにささげたとき,エホバは豊かな収穫を与えて彼らを祝福されました。(出エジプト記 22:29,30; 23:19。箴言 3:9,10)パウロは,キリストを「初穂」と呼ぶことにより,そのあとの収穫として個々の人が死人の中から天的な命へよみがえらされることを示唆しています。「死がひとりの人を通して来たので,死人の復活もまたひとりの人を通して来(ま)す。アダムにあってすべての人が死んでゆくのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされるのです」とパウロは述べます。(コリント第一 15:21,22)イエスは,自分の完全な人間の命を贖いとして与えることにより復活を可能にし,人類が罪と死の奴隷状態から解放される道を開きました。―ガラテア 1:4。ペテロ第一 1:18,19。a
13 (イ)天への復活はいつ起きますか。(ロ)油そそがれた者でも『死の眠りにつか』ない人がいるのはどうしてですか。
13 パウロは続けてこう述べます。「しかし,各々自分の順位にしたがっています。初穂なるキリスト,その後,その臨在の間に,キリストに属する者たちです」。(コリント第一 15:23)キリストは西暦33年に復活しました。しかし,油そそがれた追随者たち ― キリストに属する者たち ― は,イエスが王としての臨在を始めて少し後の定めの時まで待つことになっていました。聖書預言はその臨在が1914年に始まったことを示しています。(テサロニケ第一 4:14-16。啓示 11:18)その臨在の時に生きている者たちについてはどうでしょうか。パウロはこう述べます。「ご覧なさい,わたしはあなた方に神聖な奥義を告げます。わたしたちはみな死の眠りにつくのではありませんが,わたしたちはみな変えられるのです。一瞬に,またたくまに,最後のラッパの間にです。ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたちは変えられるからです」。(コリント第一 15:51,52)油そそがれた者すべてが墓の中で眠って復活を待つわけでないことは明らかです。キリストの臨在期間中に死ぬ人は,即座に変化するのです。―啓示 14:13。
14 油そそがれた者はどのように,「死んだ者となるためにバプテスマを受け」ますか。
14 パウロは問いかけます。「そうでなければ,死んだ者となるためにバプテスマを受けている者たちは,何をしていることになりますか。死人のよみがえらされることが決してないのであれば,なぜ彼らはそのような者となるためにバプテスマを受けたりするのですか。なぜわたしたちはまた刻々危難に遭っているのですか」。(コリント第一 15:29,30)一部の聖書翻訳では,生きている個々の人が死者のためにバプテスマを受けるという意味に取れますが,パウロはそういうことを言っていたのではありません。結局のところ,バプテスマはクリスチャンが弟子であることと関連した事柄であり,死んだ魂は弟子とはなれないのです。(ヨハネ 4:1)むしろパウロは,生きているクリスチャンのこと,その多くはパウロ自身と同じように「刻々危難に遭って」いる人たちのことを論じていました。油そそがれたクリスチャンは,『キリストの死へのバプテスマを受けた』のです。(ローマ 6:3)油そそがれて以来,いわばキリストと同じような死に至る歩みへの「バプテスマを受け」ていました。(マルコ 10:35-40)それらの人は,栄光ある天的な復活の希望を抱いて死ぬのです。―コリント第一 6:14。フィリピ 3:10,11。
15 パウロはどんな危難を経験しましたか。それを耐え忍ぶのに,復活に対する信仰はどのように一助となりましたか。
15 パウロは次に,自分自身が「日ごとに死に面している」と言えるほど危難に直面したことを説明します。一部の人から誇張していると非難されることがないよう,パウロはさらに,「兄弟たち,わたしたちの主キリスト・イエスにあってわたしが抱く,あなた方についての歓喜にかけて,このことを確言します」と述べています。「エルサレム聖書」はこの節を,「兄弟たち,わたしは日々死に面しており,わたしたちの主キリスト・イエスにあってわたしがあなた方に対して抱く誇りにかけてその点を誓うことができます」と訳しています。パウロは自分が直面した危険の一例として,32節で,『エフェソスで野獣と戦った』ことを述べています。ローマ人はしばしば,犯罪者を闘技場で野獣の前に投げ出すことにより処刑しました。もしパウロが文字どおりの野獣との戦いを切り抜けたのであれば,生き残れたのはエホバの助けがあったからとしか考えられません。復活の希望がなかったなら,そのような危難に身をさらす生き方を選ぶのは全く無謀なことだったでしょう。将来の命の希望がなかったなら,神に仕えるために辛苦を忍び,犠牲を払うことにはほとんど意味がないでしょう。「もし死人がよみがえらされないのであれば,『ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから』」とパウロは言います。―コリント第一 15:31,32。コリント第二 1:8,9; 11:23-27をご覧ください。
16 (イ)「ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」という表現はどこから取られたのでしょうか。(ロ)そうした考え方をすることにはどんな危険がありましたか。
16 パウロは,不従順なエルサレムの住民の宿命論的な態度を描写している,イザヤ 22章13節を引用したのかもしれません。あるいは,死後の生命に関するどんな希望をも蔑視し,肉的な快楽こそ人生における主要な善であると考えたエピクロス派の信条を念頭に置いていたのかもしれません。いずれにせよ,「食べたり飲んだりしよう」という哲学は不敬虔なものでした。それゆえに,「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣を損なうのです」とパウロは警告します。(コリント第一 15:33)復活を退ける人たちとの交わりは,有害なものとなりかねません。そのような交わりが,性の不道徳,分裂,訴訟,主の晩さんに対する不敬など,パウロがコリント会衆に関して扱わなければならなかった問題の一因となっていたのかもしれません。―コリント第一 1:11; 5:1; 6:1; 11:20-22。
17 (イ)パウロはコリント人にどんなことを勧めましたか。(ロ)答えるべきどんな質問が残っていますか。
17 それでパウロはコリント人に,きっぱりとこう勧めます。「義にしたがって酔いから覚めなさい。罪を習わしにしてはなりません。神についての知識を持たない人たちがいるからです。わたしはあなた方を恥じさせるために話しています」。(コリント第一 15:34)復活に対する否定的な見方のために,あたかも酔っているかのような,霊的に無感覚な状態に陥っている人もいました。そのような人は目覚めて,まじめさを保つ必要がありました。今日の油そそがれたクリスチャンたちも,世の懐疑的な見方に影響されることなく,霊的に目覚めている必要があります。天への復活の希望をしっかり抱いていなければなりません。しかし,質問がまだ残っていました。当時のコリント人のためにも,今のわたしたちのためにも答えなければなりません。例えば,次の質問です。14万4,000人はどんな形で天によみがえらされるのですか。また,今も墓の中にいて天的な希望を持っていない他の何億という人々についてはどうですか。そのような人々にとって復活は何を意味することになるでしょうか。次の記事で,復活に関するパウロの論議の残りを吟味します。
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『死は無に帰せしめられます』ものみの塔 1998 | 7月1日
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『死は無に帰せしめられます』
「最後の敵として,死が無に帰せしめられます」― コリント第一 15:26。
1,2 (イ)使徒パウロは死者のためのどんな希望を示しましたか。(ロ)パウロは復活についてのどんな質問に取り組みましたか。
「我は……身体のよみがえり,永遠の生命を信ず」。使徒信経はそう述べています。カトリック教徒もプロテスタント信者も,律儀にそれを復唱しており,自分たちの信条が使徒たちの信じていた事柄よりもギリシャ哲学に似ていることに気づいていません。しかし,使徒パウロはギリシャ哲学を退けました。不滅の魂があるとは信じていませんでした。それでも,将来の命があることを固く信じ,霊感のもとに,「最後の敵として,死が無に帰せしめられ(る)」と書きました。(コリント第一 15:26)これは,死にゆく人間にとって,一体何を意味するでしょうか。
2 答えを得るために,コリント第一 15章の,復活に関するパウロの論議に戻りましょう。その初めの数節でパウロは,復活をキリスト教の教理の肝要な部分として確立しました。そして今度は,特定の質問に取り組みます。「しかしながら,『死人はどのようによみがえらされるのか。いったいどんな体でやって来るのか』と言う人がいることでしょう」と述べています。―コリント第一 15:35。
どんな体で?
3 一部の人が復活を退けたのはなぜですか。
3 この質問を提起した時,パウロは多分,プラトンの哲学の影響を相殺しようと考えていたのでしょう。プラトンは,人間には肉体の死後も生き続ける不滅の魂がある,と教えました。そのような観念をもって育てられた人たちには,キリスト教のその教えは無用に思えたことでしょう。魂が死ぬことなく生き続けるのであれば,どうして復活する必要があるでしょうか。それに,復活は恐らく不合理に思えたでしょう。いったん肉体が分解して塵になってしまったなら,どうして復活があり得るでしょうか。聖書注釈者のハインリヒ・マイヤーによれば,一部のコリント人の敵対行動は,「肉体の物質の回復は不可能だ,という哲学的見地に」基づいていたのかもしれません。
4,5 (イ)不信仰な人たちの唱える異議はなぜ理にかなったものではありませんでしたか。(ロ)パウロの「ただの種粒」の例えを説明してください。(ハ)神は,復活する油そそがれた者に,どんな体をお与えになりますか。
4 パウロはそれらの人の推論のむなしさを暴露します。「道理をわきまえない人よ! あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。そして,あなたがまくものについて言えば,後にできる体ではなく,ただの種粒をまくのです。それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。しかし神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます」。(コリント第一 15:36-38)神は人が地上で生きていた時の肉体をよみがえらせようとしておられたのではありません。そうではなく,一種の変化が起きるのです。
5 パウロは復活を種の生長になぞらえます。小麦の小さな種は,それから生長する植物とは全然似ていません。ワールドブック百科事典はこう述べています。「種は生長し始めると,多量の水分を吸収する。その水分によって種の内部に多くの化学変化が生じる。また,種の内部組織が膨張して種皮が裂ける」。事実上,その種は種としては死に,新生の植物となります。神がその発育をつかさどる科学的な法則を定め,それぞれの種はその種類にしたがって体を与えられるという意味で,『神はそれに体をお与えになり』ます。(創世記 1:11)同様に,油そそがれたクリスチャンも,まず人間として死にます。そのあと,神はご自分の定められた時に,彼らを全く新しい体で生き返らせます。パウロがフィリピ人に告げたとおり,「イエス・キリスト(は)わたしたちの辱められた体を作り替えて,ご自分の栄光ある体にかなうものとしてくださる」のです。(フィリピ 3:20,21。コリント第二 5:1,2)その人々は霊の体で復活し,霊の領域で生きます。―ヨハネ第一 3:2。
6 復活する人に神がふさわしい霊の体をお与えになる,と考えるのはなぜ理にかなったことですか。
6 それは信じ難いことでしょうか。そうではありません。パウロは,動物の体も種類によって様々に異なっている,と論じています。さらに,天のみ使いたちと血肉の人間とを対比して,「天的な体と地的な体があ(る)」と述べています。無生の創造物にも豊かな多様性があります。「星は他の星と栄光の点で異な(る)」とパウロは述べています。科学が青色星,赤色巨星,白色矮星などの天体を発見するずっと前にそう述べました。こうしたことを考えれば,復活する油そそがれた者にも神がふさわしい霊の体をお与えになるというのは理にかなったことではないでしょうか。―コリント第一 15:39-41。
7 不朽とは,また不滅性とは,何を意味していますか。
7 パウロは次いでこう述べます。「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます」。(コリント第一 15:42)人間の体は,完全なときでも,朽ちやすい状態にあります。殺され得るのです。例えば,復活したイエスは「もはや腐れに帰することのない者」とされた,とパウロは述べました。(使徒 13:34)イエスは,完全であっても朽ちやすい,人間の体でよみがえることはありませんでした。神が復活する油そそがれた者たちにお与えになる体も,朽ちないものです。死ぬことも衰弱することもありません。パウロは続けてこう述べます。「不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます」。(コリント第一 15:43,44)さらにパウロは,「死すべきものは不滅性を着けねばならない」とも述べています。不滅性とは,終わりのない,滅びることのない命を意味しています。(コリント第一 15:53。ヘブライ 7:16)復活する人たちは,こうして「天的な者の像」,つまり復活を可能にしてくださったイエスの像を帯びるのです。―コリント第一 15:45-49。
8 (イ)復活する人が地上で生きていた時と同じ人であることはどうして分かりますか。(ロ)復活が起きると,どんな預言が成就しますか。
8 このように変化するにもかかわらず,復活する人は依然として生前と同じ人です。同じ記憶,同じ優れたクリスチャンの特質を持つ者としてよみがえらされます。(マラキ 3:3。啓示 21:10,11,18)その点でイエス・キリストと似ています。イエスは霊者から人間に変わりました。次いで,死を遂げ,霊者として復活しました。それでも,「イエス・キリストは,昨日も,今日も,そして永久に同じです」。(ヘブライ 13:8)油そそがれた者たちには何と栄光に満ちた特権があるのでしょう。パウロはこう述べています。「しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久に呑み込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります。『死よ,お前の勝利はどこにあるのか。死よ,お前のとげはどこにあるのか』」― コリント第一 15:54,55。イザヤ 25:8。ホセア 13:14。
地上への復活
9,10 (イ)コリント第一 15章24節の前後関係からすると,「終わり」とは何ですか。それに関連してどんな出来事が生じますか。(ロ)死が無に帰せしめられるには,どんなことが起きなければなりませんか。
9 天での不滅の霊の命という希望を持っていない大勢の人々には将来があるのでしょうか。確かに,あります。パウロは,キリストの臨在中に天への復活が起きることを説明した後,それに続いて生じる出来事を大まかにこう述べています。「次いで終わりとなります。その時,彼は王国を自分の神また父に渡します。その時,彼はあらゆる政府,またあらゆる権威と力を無に帰せしめています」― コリント第一 15:23,24。
10 「終わり」とはキリストの千年統治の終わりのことであり,その時イエスは謙遜かつ忠節に王国を自分の神また父に渡します。(啓示 20:4)「すべてのもの……を,キリストにおいて再び集める」という神の目的は成就していることでしょう。(エフェソス 1:9,10)しかし,まず,キリストは神の至高の意志に反対する「あらゆる政府,またあらゆる権威と力」を滅ぼしてしまいます。これにはハルマゲドンでもたらされる滅び以上の事柄が含まれます。(啓示 16:16; 19:11-21)パウロはこう述べています。「[キリストは]神がすべての敵を彼の足の下に置くまで,彼は王として支配しなければな(りません)。最後の敵として,死が無に帰せしめられます」。(コリント第一 15:25,26)そうです,アダムに由来する罪と死はすべて跡形もなく除き去られてしまうのです。ですから当然,神は死者を生き返らせて「記念の墓」を空にされることでしょう。―ヨハネ 5:28。
11 (イ)死んだ魂を神が再創造できることはどうして分かりますか。(ロ)地上に復活する人々にはどんな体が与えられますか。
11 これは人間の魂を再創造することを意味します。あり得ないことでしょうか。そうではありません。詩編 104編29,30節は,神にはそれができることを保証しているからです。「あなたがその霊を取り去られるなら,彼らは息絶え,その塵に戻って行きます。あなたがご自分の霊を送り出されるなら,彼らは創造されます」と記されているのです。復活してくる人は生前と同じ人ですが,同じ体を持つ必要はありません。天によみがえらされる人の場合と同様,神はご自分の意にかなうふさわしい体をお与えになります。その新しい体は,身体的に健全であると共に,当人の家族が見分けられる程度に元の体と似ていることでしょう。
12 地上への復活はいつありますか。
12 地上への復活はいつあるのでしょうか。マルタは死んだ兄弟ラザロについて,「彼が終わりの日の復活の際によみがえることは知っております」と言いました。(ヨハネ 11:24)どうして知っていたのでしょうか。復活は当時,論争の種になっていました。パリサイ人は復活を信じていましたが,サドカイ人はそうではなかったからです。(使徒 23:8)それでもマルタは,復活を望み見たキリスト以前の証人たちについて知っていたに違いありません。(ヘブライ 11:35)また,ダニエル 12章13節から,終わりの日に復活があることを識別できたでしょう。さらには,イエス自身から聞いて知っていたかもしれません。(ヨハネ 6:39)その「終わりの日」はキリストの千年統治に符合します。(啓示 20:6)この大いなる出来事が始まるその「日」に満ちわたる興奮を想像してみてください。―ルカ 24:41と比較してください。
どんな人が戻ってくるか
13 啓示 20章12-14節には,復活に関するどんな幻が記されていますか。
13 啓示 20章12節から14節には,ヨハネの見た,地上への復活の幻が記されています。「わたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている」。
14 復活する人々の中にはどんな人が含まれますか。
14 復活には「大なる者も小なる者も」,つまりかつて生きて死んだ著名な人も無名の人も包含されます。実際,幼児でさえそれに含まれるのです。(エレミヤ 31:15,16)使徒 24章15節では,別の重要な点が明らかにされています。「義者と不義者との復活がある」ということです。「義者」の中でも著名なのは,アベル,エノク,ノア,アブラハム,サラ,ラハブなど,昔の忠実な男女でしょう。(ヘブライ 11:1-40)そのような人たちと会話して,遠い昔の聖書中の出来事に関し,目撃者からの詳しい情報が得られることを想像してみてください。「義者」には,比較的最近亡くなり,天への希望を持っていなかった,神を恐れる何千何万という人々も含まれるでしょう。その中に,あなたの家族の一員だった方や愛していた方がおられますか。その人と再会できるというのは何と大きな慰めでしょう。しかし,同じように戻ってくる『不義な』者とはどんな人々のことでしょうか。これには,聖書の真理を学んで自分に当てはめる機会を持たずに死んだ何億,あるいは何十億という人々が含まれます。
15 戻ってきた人たちが「それらの巻き物に書かれている事柄により……裁かれ(る)」とはどういう意味ですか。
15 では,戻ってきた人たちはどのように「それらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれ(る)」のでしょうか。それらの巻き物は,その人々の過去の行ないの記録ではありません。その人々は死んだ時,生涯中に犯した罪からは放免されたのです。(ローマ 6:7,23)しかし,復活した人間は依然として,アダムに由来する罪のもとにあります。ですから,それらの巻き物は,すべての人がイエス・キリストの犠牲から十分な益を受けるために従わなければならない,神の指示を説明するものであるに違いありません。アダムに由来する罪の最後の痕跡が除かれると共に,完全な意味で「死が無に帰せしめられます」。その1,000年の終わりまでに,神は「だれに対してもすべてのものとな(り)」ます。(コリント第一 15:28)もはや人は大祭司つまり贖い主の執り成しを必要としなくなります。全人類はアダムが元々享受していた完全な状態に回復していることでしょう。
秩序正しい復活
16 (イ)復活は秩序正しく進行すると考えるのはなぜ理にかなったことですか。(ロ)死人の中から戻ってくる最初の人々の中に,恐らくどんな人たちが含まれますか。
16 天への復活が秩序正しく「各々自分の順位にしたがって」なされるのですから,地上での復活も,大混乱を引き起こす人口爆発とならないことは明らかです。(コリント第一 15:23)理解できることですが,復活したばかりの人は面倒を見てもらう必要があるでしょう。(ルカ 8:55と比較してください。)身体的な命を支える物や ― より重要なこととして ― エホバ神とイエス・キリストについての,命を与える知識を得るための霊的な援助が必要です。(ヨハネ 17:3)もしすべての人が一斉に生き返るとしたら,それらの人を十分に世話することは不可能でしょう。復活は漸進的に起きてゆく,とするのが理にかなった考え方です。サタンの体制の終わる直前に死んだ忠実なクリスチャンは恐らく,最初によみがえる人たちの中に含まれるでしょう。また,「君」として仕える昔の忠実な人たちが早いうちに復活することも期待できます。―詩編 45:16。
17 聖書は復活に関するどんな点について沈黙していますか。クリスチャンがそのような事柄について過度に心配すべきでないのはなぜですか。
17 しかし,そのような事柄に関して独断的になるべきではありません。多くの点に関し,聖書は沈黙しています。個々の人の復活がいつ,どの場所で,どのように起きるのか,細かなことは明示していません。戻ってくる人がどのように住まいや食事や衣服を備えられるのかについても述べていません。また,わたしたちは,復活した子供の養育や世話という問題をエホバがどのように解決されるのか,あるいはわたしたちの友人や愛する者にかかわる特定の状況をエホバがどう扱われるのかについても,確かなことは言えません。もちろん,そのような事柄について思い巡らすのは自然なことですが,今のところ答えられない疑問に答えようとして時間を費やすのは賢明ではありません。わたしたちは,忠実にエホバに仕え,永遠の命を得ることに注意を集中しなければなりません。油そそがれたクリスチャンは,栄光ある天への復活に希望を置きます。(ペテロ第二 1:10,11)「ほかの羊」は,神の王国の地上の領域での永遠の相続物を待ち望みます。(ヨハネ 10:16。マタイ 25:33,34)復活に関して分からない多くの細かな事柄について,わたしたちは全くエホバに依り頼みます。わたしたちの将来の幸福は,『すべての生きているものの願いを満たす』ことのできる方の手の内にあって確実なのです。―詩編 145:16。エレミヤ 17:7。
18 (イ)パウロはどんな勝利を際立たせていますか。(ロ)確信を抱いて復活の希望に頼るのはなぜですか。
18 パウロはその論議の結びに,「神に感謝すべきです。わたしたちの主イエス・キリストを通して勝利を与えてくださるからです!」という感嘆の言葉を述べました。(コリント第一 15:57)そうです,イエス・キリストの贖いの犠牲によりアダムに由来する死に対する勝利が得られ,油そそがれた者と「ほかの羊」の両者がその勝利にあずかるのです。もちろん,今日生きている「ほかの羊」は,この世代に特有の希望を持っています。増加し続ける「大群衆」の一部である彼らは,来たるべき「大患難」を生き残って,身体的な死を一度も経験しないかもしれないのです。(啓示 7:9,14)しかし,たとえ「時と予見しえない出来事」に遭って,あるいはサタンの手先の手にかかって死ぬとしても,復活の希望に確信を置くことができます。―伝道の書 9:11。
19 今日のクリスチャンすべてはどんな勧めに留意しなければなりませんか。
19 ですから,わたしたちは死が無に帰せしめられるその栄光ある日を切に待ち望みます。復活に関するエホバの約束に揺るぎない信頼を寄せていれば,物事に関して現実的な見方をすることができます。今の世でどんなことが起きようと ― たとえ死のうと ― 何ものも,エホバが約束しておられる報いをわたしたちから奪うことはできません。ですから,コリント人へのパウロの最後の勧めは,今日,2,000年前と同じく適切です。「こうして,わたしの愛する兄弟たち,あなた方の労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから,堅く立って,動かされることなく,主の業においてなすべき事を常にいっぱいに持ちなさい」― コリント第一 15:58。
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