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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2002
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読者からの質問

「イエスの名によって」というような表現を用いずに,祈りを通して神に近づくのはふさわしいことですか。

聖書は,祈りを通してエホバに近づきたいと願うクリスチャンは,イエスの名によってそうすべきであることを示しています。イエスは弟子たちに,「わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」と述べました。そしてこう付け加えました。「あなた方がわたしの名によって求めることが何であっても,わたしはそれを行ないます。父が子との関連において栄光をお受けになるためです。あなた方がわたしの名によって何か求めるなら,わたしはそれを行ないます」。―ヨハネ 14:6,13,14。

イエスの特異な立場に関して,「聖書・神学・教会 文献事典」(英語)はこう述べています。「祈りの対象は神だけであり,仲介者であるイエス・キリストを通してささげられる。したがって,聖人や天使に向けられる祈願はいずれも,無益なばかりか冒とく的である。被造物を崇拝することは,その被造物がいかに高められたものであるにせよ,そのすべては偶像礼拝であり,神の神聖な律法により固く禁じられている」。

ある人が,非常に報いの多い経験をした後で,「イエスの名によって」という言葉を付さずに「エホバ,感謝いたします」と言うならどうでしょうか。これはふさわしくないでしょうか。必ずしもそうではありません。あるクリスチャンが突然の危険に直面し,「エホバ,助けてください!」と叫んだとしましょう。その人が「イエスの名によって」と言わなかったので,神がご自分の僕を助けないということは到底あり得ないでしょう。

しかし注目すべき点として,ただ単に大きな声を出して語りかけることが,たとえ神に向けられていたとしても,それだけで祈りになるわけではありません。一例として,カインは,弟アベルを殺したことでエホバから裁きを受けた後,こう述べました。「わたしのとがに対する処罰は大きくて負いきれません。いま,あなたはこの日にわたしを地の表からまさに追い立てておられ,わたしはみ顔から隠されるのです。わたしは地にあってさすらい人また逃亡者とならねばならず,だれでもわたしを見つける者はきっとわたしを殺すでしょう」。(創世記 4:13,14)カインはエホバに対して自分の気持ちを述べましたが,激情に駆られて発したその言葉は罪の苦い実に対する不平でした。

聖書は,「神はごう慢な者に敵し,謙遜な者に過分のご親切を施される」と述べています。至高者に対して,単なる人間に対するかのように軽い気持ちで語りかけることは,確かに謙遜さの欠如を表わします。(ヤコブ 4:6。詩編 47:2。啓示 14:7)さらに,神の言葉がイエスの役割について述べていることを知りながら,それでもあえて,イエス・キリストを無視して祈るのは敬意の欠けたことでしょう。―ルカ 1:32,33。

とはいえ,このことは祈りをささげる際にエホバが特定の形式,もしくは決まり文句を期待しているという意味ではありません。大切な要素は,当人の心の状態です。(サムエル第一 16:7)西暦1世紀,コルネリオという名のローマの士官は,「絶えず神に祈願をささげて」いました。無割礼の異邦人であったコルネリオは,エホバに献身していませんでした。コルネリオがイエスの名によって祈りをささげたとは考えにくいことですが,その祈りは「記念として神のみ前に上りました」。なぜでしょうか。「心を調べる方」は,コルネリオが「篤信の人であり……神を恐れ」ていることをご覧になっていたからです。(使徒 10:2,4。箴言 17:3)コルネリオは「ナザレから来たイエス」に関する知識を得ると,聖霊を受け,バプテスマを受けたイエスの弟子になりました。―使徒 10:30-48。

結局のところ,どの祈りが神に聞かれるかを決めるのは,人間ではありません。クリスチャンが時折,神に語りかける際に,「イエスの名によって」というような表現を用いるのを忘れたとしても,自責の念に駆られる必要はありません。エホバはわたしたちの限界をよくご存じであり,わたしたちを助けたいと願っておられます。(詩編 103:12-14)「神のみ子」に信仰を働かせるなら,「何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださる」ことを確信できます。(ヨハネ第一 5:13,14)とはいえ,真のクリスチャンは,とりわけ他の人たちを代表して公の祈りをするときには,聖書に記されている,エホバの目的におけるイエスの役割を認めます。そしてイエスを通して神に祈りをささげることにより,従順にイエスを尊ぶよう努めます。

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