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彼は,支配者として人間より神に従ったものみの塔 1986 | 6月15日
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コンスタンツ公会議での証言
カトリック教会はフスの数々の暴露にもはやがまんできず,1414年から1418年にかけてコンスタンツ湖の近くで開かれたコンスタンツ公会議で自分の見解について答えるようフスを召喚しました。a 彼はウェンツェル国王の弟,皇帝ジギスムントのフスを護衛するとの約束にだまされて出席しましたが,その約束はすぐに偽りであることが判明しました。到着するや否や彼は捕らえられましたが,教皇と公会議のどちらの権力にも抵抗し続けました。
公会議がフスに自分の考えや教えを撤回するよう求めた時,フスは,テモテ第二 3章14節から16節に従ってもし聖書により自分の間違っていることが証明されるなら,喜んで撤回するつもりでいると答えました。フスは,あいまいな言葉を述べて撤回をすれば良心に絶えず責められると感じました。それで彼は,はっきりと次のように述べました。「私の願いは常に,より正しい教理が聖書から証明されることですから,証明がなされるその時には,私にはいつでも撤回する用意があります」。公会議の成員のうち彼の誤りを神の言葉そのものから示す者がほとんどいない,とのフスの異議にもかかわらず,フスは頑固な異端者として有罪宣告を受け,聖書からは何も論じられることなく牢獄に戻されました。
1415年7月6日,コンスタンツの大聖堂でフスは正式に有罪の宣告を受けました。彼に対する判決文が読まれた時,彼は発言を許されませんでした。そして彼の司祭職は公にはく奪され,同時に彼の書いた本も教会の庭で燃やされました。彼は郊外の野原に連れ出され,そこで火刑に処せられました。だれかがこの殉教者の遺骨を取っておくことがないように,その灰は集められてライン川に投げ込まれました。
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彼は,支配者として人間より神に従ったものみの塔 1986 | 6月15日
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a 公会議はカトリック教会の司教および他の指導者が教義,原則,その他の事柄について考慮し,決定を言い渡すための集まりです。歴史を通じて,数多くのそのような公会議がローマ・カトリック教会により承認されました。
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