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    ものみの塔 2006 | 10月1日
    • 信仰と敬虔な恐れによって勇気を持つ

      「勇気を出し,強くありなさい。……あなたの神エホバが共にいる」。―ヨシュア 1:9。

      1,2 (イ)人間的な見地からすれば,イスラエルがカナン人に勝利を得る見込みはありましたか。(ロ)ヨシュアは改めてどんな保証を与えられましたか。

      西暦前1473年,イスラエル国民は約束の地に入る態勢を整えていました。前途にある難関を銘記させて,モーセは民にこう述べました。「あなたは今日ヨルダンを渡って入って行き,あなたより大きくて強大な諸国民を立ち退かせようとしている。それは,大きく,天にまでも防備を固めた都市,大きくて背の高い民,アナキムの子らである。その者たちについて……『アナクの子らの前にだれが立ち向かえよう』と言われるのをあなた自身が聞いている」。(申命記 9:1,2)確かにそれら巨人戦士のことは,ことわざにもなっていました。加えて,カナンの一部の民は装備の良い軍隊を持ち,馬を,また車輪に鉄の大鎌のついた戦車を擁していました。―裁き人 4:13。

      2 それに対しイスラエルのほうは,以前には奴隷の民であり,これまで40年は荒野で過ごしてきました。ですから,人間的な見地からすれば,勝利を得る見込みはほとんどないように思えたことでしょう。それでも,モーセには信仰がありました。エホバが民を導いてゆかれるのを『見る』ことができました。(ヘブライ 11:27)モーセは民にこう語りました。「あなたの神エホバがあなたの前を渡って行かれる。……彼らを滅ぼし尽くし,自ら彼らをあなたの前に従わせてくださるであろう」。(申命記 9:3。詩編 33:16,17)モーセの死んだ後,エホバは改めてヨシュアに,ご自分が後ろ盾となることを保証してこう言われました。「あなたとこのすべての民は,身を起こしてこのヨルダンを渡り,わたしが彼らに,すなわちイスラエルの子らに与える土地に入りなさい。あなたの命の日の限りだれもあなたの前に立ち向かう者はいない。わたしは,モーセと共にいたと同じように,あなたとも共にいる」。―ヨシュア 1:2,5。

      3 ヨシュアの信仰と勇気のもととなったものは何ですか。

      3 エホバの支えと導きを受けるために,ヨシュアは神の律法を読んで黙想し,それに従って生きなければなりませんでした。エホバはこう言われました。「そうすればあなたは自分の道を成功させ,賢く行動できるからである。わたしはあなたに命じなかっただろうか。勇気を出し,強くありなさい。うろたえたり,おびえたりしてはいけない。あなたがどこに行こうとも,あなたの神エホバが共にいるからである」。(ヨシュア 1:8,9)神に聴き従ったので,ヨシュアは勇気のある強い人となり,自分の行く道を成功させることができました。しかし,ヨシュアと同世代の人々の多くは従いませんでした。その結果として成功できず,荒野で死に絶えました。

      信仰が欠けて勇気のなかった民

      4,5 (イ)10人の斥候の態度はヨシュアやカレブとどのように異なっていましたか。(ロ)信仰を欠いた民にエホバはどう対応されましたか。

      4 それよりも40年前,イスラエルが初めてカナンに近づいた時,モーセは12人の斥候を派遣して,その地をうかがわせました。そのうち10人は,恐れにとらわれて戻って来ました。そしてこう叫びました。「わたしたちがその中で見た民は並外れて大きな者たちばかりだ。……そこでネフィリムを見た。ネフィリムから出たアナクの子らだ。そのためわたしたちは,自分の目にはばったのように(なった)」。アナキムだけでなく,その地の民が巨人のような者たち「ばかり」だった,というのは本当ですか。いいえ。アナキムは大洪水前にいたネフィリムの子孫でしたか。もちろん,そんなはずはありません。それでも,こうしたゆがんだ見方のために,恐れの気持ちが宿営全体に広がりました。民は,自分たちが奴隷になっていた地であるエジプトに帰ろう,とまで言うようになりました。―民数記 13:31–14:4。

      5 しかし斥候のうちの二人,ヨシュアとカレブは,約束の地に入ろうとする意欲に満ちていました。カナン人は「わたしたちのパンとなる」,と二人は言いました。「彼らの保護となるものは彼らの上から離れ去っており,エホバはわたしたちと共におられるのです。彼らを恐れてはなりません」とも述べました。(民数記 14:9)ヨシュアとカレブは愚かなほど楽観的でしたか。決してそうではありません。国民の他の人々と共に,エホバが強大なエジプトとその神々を十の災厄をもって辱めるのを見ていたのです。そして,エホバがファラオとその軍勢を紅海でおぼれさせるのも見ていました。(詩編 136:15)10人の斥候およびそれに影響された人々が示した恐れは,明らかに弁解の余地のないものでした。エホバは,「わたしが彼らの中で行なったすべてのしるしを見ながら,いつまでわたしに信仰を置かないのか」と述べて,ご自身の心痛を表明されました。―民数記 14:11。

      6 勇気は信仰とどのように結びついていますか。これはどのように現代の例にも見られますか。

      6 エホバは問題の核心を明確に指摘されました。民の憶病な態度は,まさに信仰が欠けていることの表われでした。確かに,信仰と勇気とは密接に結びついています。だからこそ,使徒ヨハネもクリスチャン会衆とそれが行なう霊的な戦いに関して,こう書いているのです。「わたしたちの信仰,これが世を征服する力となったものです」。(ヨハネ第一 5:4)今日でも,ヨシュアやカレブと同じような信仰の結果として,年齢や体力もさまざまな600万を超えるエホバの証人により,全世界で王国の良いたよりが宣べ伝えられています。どんな敵対勢力も,この強大で勇気ある軍勢を沈黙させることはできません。―ローマ 8:31。

      「しりごみ」してはならない

      7 「しりごみ」とはどういう意味ですか。

      7 エホバの僕たちが今日勇気をもって良いたよりを宣べ伝えるのは,使徒パウロと同じ思いを抱いているからでもあります。パウロはこう書きました。「わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰を抱いて魂を生き長らえさせる者です」。(ヘブライ 10:39)パウロが述べる「しりごみ」とは,単に一時的に恐れを感じることではありません。神の忠実な僕たちの多くも,ときに恐れを抱いたことがあるからです。(サムエル第一 21:12。列王第一 19:1-4)一聖書辞典の解説によると,それは「引き下がる,撤退する」,もしくは「真理を奉じる面で怠慢になる」という意味です。同じ辞典によると,ここで言う「しりごみ」は,神への奉仕に関し,「帆を下ろして船足を緩める」という意味の比喩とも考えられます。もちろん,信仰の強固な人たちは,迫害,病気,他の試練など,どんな困難にぶつかろうとも「船足を緩める」ことなどは考えません。むしろ,エホバが深く気遣ってくださること,また自分たちの限界を知っていてくださることを理解しているので,神への奉仕になおも進んでゆくのです。(詩編 55:22; 103:14)あなたはそのような信仰を抱いておられますか。

      8,9 (イ)エホバは初期クリスチャンの信仰をどのように強めましたか。(ロ)わたしたちは自分の信仰を強化するために何ができますか。

      8 使徒たちも,自分たちは信仰が足りないと感じたことがあり,イエスに対し,「わたしたちにさらに信仰をお与えください」と言いました。(ルカ 17:5)その誠実な願いはかなえられました。それは特に西暦33年のペンテコステの時で,約束された聖霊が弟子たちの上に注がれて,神の言葉と目的に対するいっそうの洞察が与えられました。(ヨハネ 14:26。使徒 2:1-4)弟子たちは信仰を強められて広く宣べ伝える活動に乗り出し,それにより,良いたよりは反対に面しながらも「天下の全創造物」に伝えられました。―コロサイ 1:23。使徒 1:8; 28:22。

      9 信仰を強化し,奉仕の点でさらに進んでゆくために,わたしたちも聖書を研究してよく黙想し,聖霊を祈り求めることが必要です。ヨシュアやカレブ,またキリストの初期の弟子たちが行なったと同じように,神の真理を自分の思いと心に刻み込むことによってのみ,わたしたちも,霊的な戦いで忍耐して勝利を得るための勇気を抱かせる信仰を持つことができます。―ローマ 10:17。

      信仰 ― 単に信じる以上のこと

      10 真の信仰には何が含まれますか。

      10 昔の忠誠の人々の例に見られるとおり,勇気と忍耐につながる信仰には,単に神の存在を信じる以上のことが含まれます。(ヤコブ 2:19)エホバを人格的な存在者として知り,エホバに全き確信を持つことが必要なのです。(詩編 78:5-8。箴言 3:5,6)つまりそれは,神の律法と原則に従うのがわたしたちの最善の益になる,という点を心から信じていることです。(イザヤ 48:17,18)信仰はまた,エホバがご自分の約束をすべて果たされ,「ご自分を切に求める者に報いてくださる」,と確信していることでもあります。―ヘブライ 11:1,6。イザヤ 55:11。

      11 ヨシュアとカレブの信仰と勇気はどのように祝福されましたか。

      11 そのような信仰は静止しておらず,成長してゆきます。真理によって生き,その数々の益を「味わい」,祈りに対する答えを『知り』,また生活上の他のさまざまな方法でエホバの導きを実感するにつれ,信仰は成長するのです。(詩編 34:8。ヨハネ第一 5:14,15)ヨシュアとカレブの場合も,神の善良さを味わい知るにつれて信仰をいよいよ深めていったのでしょう。(ヨシュア 23:14)以下のことを考えてください。二人は,神があらかじめ約束されたとおり,荒野での40年の放浪を生き残りました。(民数記 14:27-30; 32:11,12)6年にわたるカナンの征服で積極的な役割を与えられました。そして,満ち満ちた健康と長寿を得,加えてそれぞれ自分の相続地も与えられました。忠実に,そして勇気をもってご自分に仕える人たちにエホバは何と豊かに報いられるのでしょう。―ヨシュア 14:6,9-14; 19:49,50; 24:29。

      12 エホバはどのようにご自分の「みことばを大いなるもの」とされますか。

      12 ヨシュアとカレブに対する神の愛ある親切は,詩編作者の次の言葉を思い起こさせます。「あなたはそのみ名すべてにも勝って,あなたのみことばを大いなるものとされた」。(詩編 138:2)エホバがご自分の約束にご自身のみ名を付されるとき,その約束の実現は,人のどんな期待をも上回るという意味で「大いなるもの」となります。(エフェソス 3:20)そうです,エホバを『無上の喜びとする』民が失望に至ることは決してありません。―詩編 37:3,4。

      「神を十分に喜ばせた」人

      13,14 エノクに信仰と勇気が必要だったのはなぜですか。

      13 キリスト以前の別の証人であったエノクの例を考えることによっても,信仰と勇気について多くを学べます。預言を始める前から,エノクは自分の信仰と勇気が試みられることを知っていたようです。どうして知ったのでしょうか。神に仕える者と悪魔サタンに仕える者との間に敵意もしくは憎しみが存続することを,エホバはエデンで述べておられたからです。(創世記 3:15)エノクは,人類史の初期,カインが弟アベルを殺害した時にこの憎しみがすでに噴き出していたことも知っていました。実際のところ,カインやアベルの父親アダムが死んだのは,エノクが誕生してから310年ほど後のことでした。―創世記 5:3-18。

      14 それでもエノクは,勇気をもって「まことの神と共に歩みつづけ」,人々がエホバに逆らって語った「衝撃的な事柄」を断罪しました。(創世記 5:22。ユダ 14,15)真の崇拝のために人を恐れないこの態度によって,エノクは多くの敵を作り,命を脅かされたことでしょう。それに対しエホバは,ご自分の預言者が死の苦しみを免れるようにされました。エノクが「神を十分に喜ばせた」ということを本人にはっきり示した後,エホバはこの人を命から死へ「移され」ました。それは,預言者のこうこつ状態にあった時のことかもしれません。―ヘブライ 11:5,13。創世記 5:24。

      15 今日のエホバの僕たちのためにエノクはどんなりっぱな手本を残しましたか。

      15 エノクが移されたことについて述べてすぐ後,パウロは再び信仰の重要性を強調して,「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません」と述べています。(ヘブライ 11:6)確かにエノクの場合も,信仰が勇気を抱かせ,エホバと共に歩み,神の裁きの音信を不信仰な世界にふれ告げる力を与えました。この点で,エノクはわたしたちにとってりっぱな手本です。真の崇拝に敵対し,あらゆる悪に満ちた世界にあって,わたしたちにも,果たすべき同様の仕事があります。―詩編 92:7。マタイ 24:14。啓示 12:17。

      敬虔な恐れに根ざした勇気

      16,17 オバデヤはどんな人でしたか。どのような状況にありましたか。

      16 信仰と共に,人に勇気を抱かせるもう一つの特質があります。それは,神への崇敬の念から出る恐れの気持ちです。神を恐れかしこんだ人の際立った例を一つ取り上げましょう。預言者エリヤや北のイスラエル王国を支配したアハブ王の時代の人です。アハブの支配した時代,北のイスラエル王国はかつてなくバアル崇拝に染まりました。なんと,バアルの預言者450人に加えて,聖木の預言者400人が,アハブの妻である「イゼベルの食卓で食べて」いたのです。―列王第一 16:30-33; 18:19。

      17 エホバに対する冷酷な敵対者であったイゼベルは,真の崇拝をその地から根絶しようともくろみました。エホバの預言者幾人かを殺害し,エリヤをも殺そうとしましたが,エリヤは神の指示のもとにヨルダンを渡って逃げ,かろうじて難を逃れました。(列王第一 17:1-3; 18:13)当時の北王国で清い崇拝を擁護するのがどれほど大変であったかを想像できるでしょうか。しかも,ほかならぬ王宮で働いていたとしたら,どうでしょうか。アハブの家の家令で,神を恐れる人であったオバデヤaはそのような事情のもとにありました。―列王第一 18:3。

      18 オバデヤがエホバの崇拝者として際立っていたのはなぜですか。

      18 オバデヤはエホバへの崇拝の面で用心深く,また思慮深く行動したに違いありません。それでも,妥協しませんでした。現に列王第一 18章3節も,「オバデヤは,エホバを大いに恐れる者であった」と述べています。確かに,オバデヤの抱いたエホバに対する恐れの気持ちは際立ったものでした。そしてこの健全な恐れの気持ちがオバデヤに抜きんでた勇気を持たせ,それはイゼベルがエホバの預言者たちを殺害したすぐ後に発揮されました。

      19 オバデヤは勇気を示してどんなことを行ないましたか。

      19 こう記されています。「イゼベルがエホバの預言者を断ち滅ぼしたとき,オバデヤは百人の預言者を取って,五十人ずつ洞くつに隠し,彼らにパンと水を供給した」。(列王第一 18:4)想像できるとおり,100人もの人にひそかに水や食べ物を供給してゆくのは,大いに危険を伴うことでした。オバデヤはアハブやイゼベルに見つからないようにすると共に,王宮に出入りしていた850人もの偽預言者たちの目を逃れなければなりませんでした。それだけではありません。その地には,農夫から君たちに至るまで偽りの崇拝者たちがほかにも多くおり,オバデヤの秘密を暴いて王や王妃に取り入ろうと,わずかな機会をもうかがっていたに違いありません。それでもオバデヤは勇気を出し,これらすべての偶像礼拝者たちのただ中で,それらエホバの預言者たちの世話をしました。神への恐れは人を何と強くするのでしょう。

      20 敬虔な恐れを抱いたオバデヤはどのように守られましたか。オバデヤの手本はあなたにとってどんな励みになりますか。

      20 オバデヤが神への敬虔な恐れを抱いて勇気を示したために,エホバはオバデヤを敵対者たちから守られたようです。箴言 29章25節はこう述べています。「人に対するおののきは,わなとなる。しかし,エホバに依り頼んでいる者は保護される」。オバデヤは決して特別の人ではありませんでした。捕まって殺されるのを怖く思いました。わたしたちと同じです。(列王第一 18:7-9,12)それでも,敬虔な恐れの気持ちが,人間に対するどんな恐れをも乗り越える勇気を抱かせました。オバデヤは,わたしたちすべてのりっぱな手本です。とりわけ,エホバの崇拝のために自由を,さらには命をさえ危険にする人たちにとって手本になります。(マタイ 24:9)そうです,わたしたちすべても,「敬虔な恐れと畏敬とをもって」ひたすらエホバに仕えることができますように。―ヘブライ 12:28。

      21 次の記事ではどんな点を取り上げますか。

      21 人に勇気を抱かせる特質は,信仰と敬虔な恐れだけではありません。この点でさらに強力な要素として,愛があります。「神はわたしたちに,憶病の霊ではなく,力と愛と健全な思いとの霊を与えてくださった」とパウロは記しています。(テモテ第二 1:7)続く記事では,危機の時代であるこの終わりの日に勇気をもってエホバに仕えるために,愛がどのように助けになるかを学びます。―テモテ第二 3:1。

      [脚注]

      a 預言者のオバデヤとは別人です。

  • 愛によって強められる勇気
    ものみの塔 2006 | 10月1日
    • 愛によって強められる勇気

      「神はわたしたちに,憶病の霊ではなく,力と愛と健全な思いとの霊を与えてくださった」。―テモテ第二 1:7。

      1,2 (イ)愛は人を動かしてどんなことを行なわせますか。(ロ)どうしてイエスの勇気はたぐいまれなものであったと言えますか。

      オーストラリア東海岸のある町の近くで,結婚したばかりの夫婦がスキューバダイビングをしていました。二人が水面に出ようとしたその時,ホオジロザメが女性のほうに突進してきました。男性は勇敢にも,すばやく妻をわきへ押しやり,サメが自分に襲いかかるようにしました。「主人はわたしのために自分の命を差し出してくれたのです」と,残された妻は葬儀の時に話しました。

      2 確かに,愛は人を動かして際立った勇気を発揮させます。イエス・キリストもこう言われました。「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」。(ヨハネ 15:13)この言葉を語ってから24時間もしないうちに,イエスは自らの命を引き渡されました。ただひとりの人のためにではなく,全人類のためでした。(マタイ 20:28)しかもイエスは,単にとっさの果敢な行動として自分の命を差し出したのではありません。ご自分が嘲笑され,虐待され,不当な宣告を受け,苦しみの杭の上で死に処せられることをあらかじめ知っておられました。イエスは,そうなることについて弟子たちに事前の備えをさせようとしてこう言われました。「さあ,わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長と書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定めて諸国の人々に引き渡します。ついで彼らはこれを愚弄し,つばをかけ,むち打ち,そして殺します」。―マルコ 10:33,34。

      3 イエスが大いなる勇気を示せたのはなぜですか。

      3 イエスが傑出した勇気を示せたのはなぜでしたか。信仰と敬虔な恐れとが大きな要素となっていました。(ヘブライ 5:7; 12:2)しかしそれ以上に,イエスの勇気は,神への愛と仲間の人間に対する愛に根ざしていました。(ヨハネ第一 3:16)信仰や敬虔な恐れに加えてそのような愛を培うならば,わたしたちもキリストと同様の勇気を示すことができます。(エフェソス 5:2)そのような愛をどうしたら培えるでしょうか。まずその愛の源である方を知ることが必要です。

      「愛は神からのもの」

      4 どうしてエホバは愛の源と言えますか。

      4 エホバは愛を体現しておられ,愛の源でもあられます。使徒ヨハネはこう書きました。「愛する者たちよ,これからも互いに愛し合ってゆきましょう。愛は神からのものだからです。そして,すべて愛する者は神から生まれており,神について知るのです。愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」。(ヨハネ第一 4:7,8)ですから,神に倣った愛をわたしたちは培うことができます。それは,正確な知識を得てエホバに近づくと共に,その知識に心から従って行動するときに初めて培えます。―フィリピ 1:9。ヤコブ 4:8。ヨハネ第一 5:3。

      5,6 イエスの初期の追随者たちがキリストのような愛を培えたのはどうしてですか。

      5 11人の忠実な使徒たちとささげた最後の祈りの中で,イエスは神を知ることと愛において成長することとの関連を示して,こう言われました。「わたしはみ名を彼らに知らせました。またこれからも知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。(ヨハネ 17:26)イエスは,ご自身とみ父との間にあるような愛を培えるように弟子たちを助け,神のみ名の表わしたもの,つまり神のすばらしい特質を言葉と手本で実際に示されました。そのためにイエスは,「わたしを見た者は,父をも見たのです」と言われたのです。―ヨハネ 14:9,10; 17:8。

      6 キリストのような愛は聖霊の所産です。(ガラテア 5:22)初期のクリスチャンは西暦33年のペンテコステに約束の聖霊を受けた時,イエスから教えられた多くの事柄を思い出しただけでなく,聖書の述べている事柄の意味をいっそう深く把握できました。そのようにして洞察が深まることにより,神への愛もいよいよ深まったはずです。(ヨハネ 14:26; 15:26)結果はどうでしたか。命の危険に面しても,良いたよりを大胆に,また熱心に宣べ伝えたのです。―使徒 5:28,29。

      行動で表わされた勇気と愛

      7 パウロとバルナバは宣教旅行を共にして,どんなことを耐え忍ばなければなりませんでしたか。

      7 使徒パウロは,「神はわたしたちに,憶病の霊ではなく,力と愛と健全な思いとの霊を与えてくださった」と書いています。(テモテ第二 1:7)パウロがこう述べたのは自らの経験に基づいていました。バルナバと宣教旅行を共にした時,その二人にどんな事があったかを考えてください。アンティオキア,イコニオム,ルステラなど,多くの都市で宣べ伝えました。どの都市でも幾人かの人が信者となりましたが,敵意に満ちる反対者となった人たちもいました。(使徒 13:2,14,45,50; 14:1,5)ルステラでは,激高した暴徒がパウロを石打ちにし,死んだと見てそのまま放置しました。「しかし,弟子たちが取り囲んでいると,彼は起き上がり,市の中に入って行った。それから次の日,彼はバルナバと共にデルベに向かった」と記されています。―使徒 14:6,19,20。

      8 パウロとバルナバが示した勇気は人々に対する深い愛をどのように反映していましたか。

      8 生死にかかわるこの暴挙はパウロとバルナバをひるませ,あきらめさせましたか。いいえ,むしろその逆です。デルベで「かなり大勢の弟子を作った」後,二人は「ルステラ,イコニオム,さらにアンティオキアに帰り」ました。なぜでしたか。信仰において引き続き強くあるよう,新しい人たちを勇気づけるためでした。「わたしたちは多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」と,パウロとバルナバは言いました。明らかにこれらの人々の勇気は,キリストの「小さな羊たち」に対する深い愛から出ていたのです。(使徒 14:21-23。ヨハネ 21:15-17)それら二人の兄弟は,発足して間もないそれぞれの会衆ごとに長老たちを任命し,祈りをささげ,「彼らをその信ずるエホバにゆだね」ました。

      9 エフェソスの長老たちはパウロの愛にどのように応じましたか。

      9 パウロは人のことをよく気遣う,大いに勇気のある人でしたから,初期のクリスチャンの多くはパウロを深く愛するようになりました。パウロがエフェソスの長老たちとの会合を開いた時のことを思い出してください。そこはパウロが3年間とどまって多くの反対を経験した町でした。(使徒 20:17-31)ゆだねられた神の羊の群れをしっかり牧するように勇気づけた後,パウロは長老たちと一緒にひざまずいて祈りました。その時,「すべての者は少なからず泣き,パウロの首を抱いて優しく口づけした。自分の顔をもう見ないであろうと語ったパウロの言葉に,彼らはひときわ胸を痛めたのである」と記されています。これら兄弟たちはパウロに何と深い愛を抱いていたのでしょう。実際,いよいよ別れの時が来ると,パウロとその旅仲間たちは「振り切るようにして」出かけなければなりませんでした。その地方の長老たちは,できれば行かせたくないと思ったのです。―使徒 20:36–21:1。

      10 現代のエホバの証人は互いに対して勇気ある愛をどのように示してきましたか。

      10 今日の旅行する監督たち,会衆の長老たち,他の多くの人たちも,エホバの羊のために示す勇気ゆえに深く愛されています。例えば,内戦に悩まされた土地や伝道が禁じられている国で,旅行する監督とその妻は,諸会衆を訪ねるために,幾度も自分たちの命や自由を危険にさらしてきました。また同じように,多くの証人たちは,仲間の証人たちのことを明かさず,あるいは霊的な糧をどこから得ているかを明らかにしないために,敵対的な支配者やその手先にかかって苦しめられました。ほかにも幾万人もの証人たちが,良いたよりの伝道を続け,クリスチャンの集会で信仰の仲間と集い合うことをやめないために,迫害され,拷問に遭い,命をさえ奪われてきました。(使徒 5:28,29。ヘブライ 10:24,25)わたしたちも,それら勇気ある兄弟姉妹たちの信仰と愛に倣うことができますように。―テサロニケ第一 1:6。

      愛が冷えるのを許してはならない

      11 サタンはエホバの僕たちにどのように霊的な戦いをしかけていますか。エホバの民には何が求められますか。

      11 地に投げ落とされたサタンは,エホバの僕たちに怒りをぶつけようとしています。それら僕たちが「神のおきてを守り行ない,イエスについての証しの業を持つ」からです。(啓示 12:9,17)悪魔の戦術の一つは迫害です。しかし,この戦略は逆の結果を生む場合が少なくありません。それはクリスチャン愛のきずなによって神の民をいっそう互いに引き寄せ,多くの人をいよいよ熱心にならせるからです。サタンの別の戦術は,人間の罪の傾向に訴えることです。この策略に抵抗するには,別の意味での勇気が求められます。その戦いは内面的なもので,『不実で必死になる』自らの心の中の正しくない欲望に対するものだからです。―エレミヤ 17:9。ヤコブ 1:14,15。

      12 サタンは神に対するわたしたちの愛を弱まらせようとして,どのように「世の霊」を用いていますか。

      12 サタンの兵器庫には別の強力な武器である,「世の霊」があります。これは,世の支配的な傾向もしくは主要な動機で,神の聖霊に真っ向から対立しています。(コリント第一 2:12)世の霊は貪欲さと物質本位の見方を,つまり「目の欲望」を推し進めています。(ヨハネ第一 2:16。テモテ第一 6:9,10)物質的なものも金銭もそれ自体は有害ではありませんが,それに対する愛が神への愛を押しのけるなら,サタンが勝利を得たことになります。世の霊の「権威」つまり力は,罪深い肉への強い働きかけ,その巧妙さ,執ようさにあり,またそれが空気のようにどこへでも浸透する点にあります。世の霊があなたの心に影響することのないようにしてください。―エフェソス 2:2,3。箴言 4:23。

      13 わたしたちの道徳上の勇気はどのように試みられることがありますか。

      13 世のよこしまな霊に抵抗して,それを退けるためには,道徳上の勇気が必要です。例えば,みだらな映像が現われたときに,席を立って映画館を出る,またはコンピューターやテレビを消すには勇気が要ります。消極的な見方をさせる仲間の圧力に立ち向かい,悪い交わりを断つにも勇気が求められます。学友や職場の仲間また近所の人々や親族から嘲笑されても神の律法や原則を擁護するためには,やはり勇気が必要です。―コリント第一 15:33。ヨハネ第一 5:19。

      14 世の霊に感化されているならどうするべきですか。

      14 ですから,神と霊的な兄弟姉妹に対する愛を強めるのは何と大切なのでしょう。時間を取って自分の目標と生き方を吟味し,何らかの形で世の霊に感化されていないかどうかを見てください。もし多少でも感化されているならば,世の霊を排除し,もう自分の中に入らせない勇気をエホバに祈り求めてください。エホバがそのような誠実な請願を無視されることはありません。(詩編 51:17)しかも,エホバの霊は世の霊よりはるかに強力なのです。―ヨハネ第一 4:4。

      個人的な試練に勇気をもって立ち向かう

      15,16 キリストのような愛はどのように個人的な試練に耐える力となりますか。例を挙げてください。

      15 エホバの僕たちが取り組まねばならない状況としては,不完全さや老化から来るものもあります。それにはしばしば病気,体の障害,抑うつ,その他の多くの問題が伴います。(ローマ 8:22)キリストのような愛はそうした試練に対処する助けになります。ザンビアのクリスチャン家庭に育ったナマンゴルワの場合を考えてください。ナマンゴルワは2歳のころから体に障害を抱えるようになりました。彼女はこう語っています。「人目を気にするようになり,わたしの体を見て人々は驚くのではないかと考えました。でも,霊的な兄弟たちがもっと良い見方を持たせてくださいました。それによって人目を気にするという問題を乗り越え,やがてバプテスマを受けました」。

      16 ナマンゴルワは車いすを持っていますが,砂地の道路では手とひざをついて地面をはわなければならないこともあります。それでも彼女は,毎年2か月は補助開拓者として宣教奉仕に参加しています。ナマンゴルワが証言をしていた時,ある家の人は涙を流しました。なぜでしたか。わたしたちの姉妹の信仰と勇気に感動したのです。エホバの豊かな祝福のしるしとして,ナマンゴルワの聖書研究生のうち5人がバプテスマを受け,そのうちの一人は会衆の長老として奉仕しています。「わたしの足は時々ひどく痛みます。でも,そのためにやめようとは思いません」と彼女は述べています。この姉妹のように,体は弱くても,神と隣人に対する愛のゆえに霊においては強力な証人たちが世界中に数多くいます。そのような人たちは皆,エホバの目に何と望ましいものなのでしょう。―ハガイ 2:7。

      17,18 病気その他の試練に耐えるのに多くの人に助けとなっているのは何ですか。地元での例を挙げてください。

      17 慢性の病気も人の勇気をくじき,憂うつな気持ちにならせます。ある会衆の長老はこう述べています。「わたしの出席する書籍研究の群れの一姉妹は糖尿病と腎臓疾患をわずらい,別の姉妹はがん,二人は重い関節炎,もう一人は慢性の皮膚疾患と線維筋痛症を抱えています。みな時には気落ちすることもあります。それでも,病状が重い時や入院している時でない限り集会を休みません。みな野外奉仕に定期的です。『わたしが弱いとき,その時わたしには力がある』と述べたパウロを思い出させます。この方たちの愛と勇気を褒めずにはいられません。状況の厳しさが,かえって生活の中心となるべきものに目を向けさせ,何がいちばん大切かに注目させているのかもしれません」。―コリント第二 12:10。

      18 もしあなたも身体の弱さ,病気,その他の問題と闘っておられるなら,失意して勇気をなくしてしまうことのないように,助けを「絶えず祈り」求めてください。(テサロニケ第一 5:14,17)感情面での浮き沈みを経験されるとしても,積極的で霊的な物事,とりわけ貴重な王国の希望にいつも目を向けるようにしてください。「わたしにとっては野外宣教が何よりの薬です」と一姉妹は述べました。良いたよりを他の人々に伝えようとすることが,この姉妹に積極的な見方を保たせています。

      過ちを犯しても愛によってエホバに立ち返る

      19,20 (イ)罪に陥った人がエホバに立ち返る勇気を持つ点で助けになるものは何ですか。(ロ)次の記事ではどんなことを取り上げますか。

      19 霊的に弱くなった人や罪に負けた人の中には,エホバのもとに戻りにくく感じている人たちが少なくありません。でもその人が真に悔い改めて,神への愛を再び燃え立たせるなら,必要な勇気はわいてくるでしょう。米国に住むマリオaの例を考えてください。マリオはクリスチャン会衆を離れ,アルコールや麻薬にひたるようになり,20年後には刑務所に入れられていました。マリオはこう語っています。「自分の将来のことを深く考え,再び聖書を読むようになりました。じきにエホバの特質,中でも神の憐れみを感じるようになり,何度もそれを祈り求めました。刑務所を出た後,以前の交友は避け,クリスチャンの集会に行き,やがて復帰できました。身体面では自分のまいたものを刈り取っていますが,今ようやくすばらしい希望を自分のものにしました。エホバの同情と許しには,どれほど感謝しても感謝しきれません」。―詩編 103:9-13; 130:3,4。ガラテア 6:7,8。

      20 確かに,マリオのような状況にある人は,エホバのもとに立ち返るために懸命な努力をしなければなりません。それでも,聖書の研究および祈りと黙想によって再び燃え立った愛は,必要な勇気と決意を抱かせるでしょう。マリオは,王国の希望によっても強められました。そうです,愛,信仰,敬虔な恐れと共に,希望もまた,わたしたちの生活を導く強力な要素となります。次の記事では,この価値ある霊的な贈り物に注目しましょう。

      [脚注]

      a 名前は変えてあります。

  • エホバを待ち望み,勇気を出しなさい
    ものみの塔 2006 | 10月1日
    • エホバを待ち望み,勇気を出しなさい

      「エホバを待ち望め。勇気を出し,あなたの心を強くせよ。そうだ,エホバを待ち望め」。―詩編 27:14。

      1 希望はどれほど大切ですか。この語は聖書の中でどのように用いられていますか。

      真の希望は,明るく輝く光のようです。それによってわたしたちは,当面の試練の先を見,勇気と喜びを抱いて将来に向かうことができます。エホバ神だけが確実な希望を差し伸べることができ,エホバはそれを,ご自分の霊感の言葉を通して行なっておられます。(テモテ第二 3:16)現に,「希望」(hope)に相当する語は聖書の中に160回余り出ており,良い物事に対する切実で確かな期待について,またそのような期待の対象となるものに関して用いられています。a そうした希望は,根拠もなく実現の見込みもないような単なる願望よりはるかに勝っています。

      2 イエスの生き方において希望はどのような役割を果たしましたか。

      2 試練と苦難に面した時,イエスは当面するものより先に目を向けて,エホバを待ち望みました。「この方は,自分の前に置かれた喜びのために,恥を物とも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右に座られたのです」。(ヘブライ 12:2)イエスは,エホバの主権の立証とそのみ名を神聖にすることとにしっかり目の焦点を当てていたために,神への従順の道から決してそれず,そのためのどんな代償もいといませんでした。

      3 神の僕の生活において希望はどのような役割を果たしますか。

      3 ダビデ王は,希望と勇気の結びつきを指摘して,こう述べます。「エホバを待ち望め。勇気を出し,あなたの心を強くせよ。そうだ,エホバを待ち望め」。(詩編 27:14)心を強くしたいなら,希望をぼやけさせてはならず,常にそれを思いの中にはっきりと,心の中にしっかりと保っていなければなりません。そうすることによって,勇気と熱心さを表わす面でイエスに見倣い,弟子たちが行なうようにとイエスからゆだねられた業に励むことができます。(マタイ 24:14; 28:19,20)確かに希望は,信仰や愛と並んで神の僕の生活の特色となるものであり,肝要な,あせない特質といえます。―コリント第一 13:13。

      あなたは『希望に満ちあふれて』いますか

      4 油そそがれたクリスチャンとその仲間である「ほかの羊」は何を切に望み見ていますか。

      4 神の民にはすばらしい将来があります。油そそがれたクリスチャンはキリストと共に天で奉仕する時を待望し,「ほかの羊」は,「腐朽への奴隷状態から自由にされ,神の[地的な]子供の栄光ある自由を持つ」ことを望み見ています。(ヨハネ 10:16。ローマ 8:19-21。フィリピ 3:20)「栄光ある自由」には,罪とその惨めな結果からの救出も含まれています。「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の与え主であるエホバは,ご自分の忠節な者たちに確かに最高のものを差し伸べてくださるのです。―ヤコブ 1:17。イザヤ 25:8。

      5 どうすればわたしたちは『希望に満ちあふれる』ようになりますか。

      5 クリスチャンの希望は生活の中でどれほど大きな地位を占めるものですか。ローマ 15章13節にこうあります。「あなた方が信じることによって,希望を与えてくださる神が,あなた方をあらゆる喜びと平和で満たしてくださり,こうしてあなた方が聖霊の力をもって希望に満ちあふれますように」。そうです,希望は,暗がりを照らすろうそく程度のものではなく,朝の光り輝く太陽のようであり,人の生活を目的あるものとし,平和と幸福と勇気でみなぎらせます。記された神の言葉を信じて神の聖霊を受けると,『希望に満ちあふれる』ようになる,と述べられている点に注目してください。ローマ 15章4節はこう述べています。「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」。ですから,こう自問してください。『聖書の良い研究生となり,日ごとに聖書を読むことによって,自分の希望をいつも明るく保っているだろうか。神の霊をいつも祈り求めているだろうか』。―ルカ 11:13。

      6 希望を明るく保つためには何に用心しなければなりませんか。

      6 わたしたちの模範者イエスは神の言葉によって大いに力を得ました。イエスについて深く考えることにより,『疲れて,自分の魂が弱り果ててしまわない』ようにすることができます。(ヘブライ 12:3)当然のこととして,神から与えられた希望が思いや心の中でおぼろげになるなら,あるいは自分の目の焦点がどこかよその所,例えば物質的な物事や世俗的な目標などにそれてしまうならば,じきに霊的な疲れにとらわれ,やがては道徳的な強さや勇気を失うことになってしまうでしょう。そうなると,「自分の信仰に関して破船」を経験することにもなり得ます。(テモテ第一 1:19)一方,真の希望は信仰を強くさせます。

      希望 ― 信仰に不可欠なもの

      7 どんな意味で希望は信仰に不可欠ですか。

      7 「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」と,聖書は述べています。(ヘブライ 11:1)ですから希望は,単に信仰に付随するものではありません。それは,信仰にとって不可欠な要素なのです。アブラハムの例を考えてください。人間的な観点からすれば,相続人となる子どもについてエホバから約束を受けた時,アブラハムも妻のサラも,子を産む年齢を過ぎていました。(創世記 17:15-17)アブラハムはどのようにこたえ応じたでしょうか。「達しがたい希望ではありましたが,それでも希望をよりどころとして彼は信仰を抱きました。それは……彼が多くの国の民の父となるためでした」。(ローマ 4:18)そうです,神から与えられたアブラハムの希望は,自分たちがやがて子孫を持つという信仰の確かな土台となりました。次いでその信仰によって,希望はさらに明るくなり,強くなりました。こうしてアブラハムとサラは自分たちの郷里と親族を離れ,その後の生涯を異国の地にあって天幕で生活するという勇気も得たのです。

      8 忠実に忍耐することによって希望はどのように強められますか。

      8 アブラハムは,エホバに従うことが難しかったときにも絶対の従順を示し,それによって自分の希望をしっかり保ちました。(創世記 22:2,12)同じように,エホバへの奉仕において従順であり,忍耐を働かせるなら,わたしたちも自分の報いを確信できます。「忍耐」は「是認を受けた状態」をもたらし,それは希望を生じさせ,「その希望が失望に至ることはありません」とパウロは書いています。(ローマ 5:4,5)それでパウロは,「わたしたちは,あなた方一人一人が同じ勤勉さを示して,希望に対する全き確信を終わりまで保つようにと願います」とも書いています。(ヘブライ 6:11)そのような積極的な見方はエホバとの親密な関係に基づくものであり,それによって,どんな苦難にも勇気をもって,さらには,喜びをもって立ち向かうことができます。

      「希望によって歓びなさい」

      9 いつもどんなことを行なうなら『希望によって歓ぶ』ことができますか。

      9 神から与えられたわたしたちの希望は,世が提供するいかなるものよりもはるかに勝っています。詩編 37編34節はこう述べています。「エホバを待ち望み,その道を守れ。そうすれば,神はあなたを高めて地を所有させてくださる。邪悪な者たちが断ち滅ぼされるとき,あなたはそれを見るであろう」。確かに,『希望によって歓ぶ』べき理由がすべてそろっています。(ローマ 12:12)とはいえ,そのためには自分の希望を思いの中で常に鮮明にしておかなければなりません。神から与えられた自分の希望についていつも思い返していますか。自分がパラダイスにいる情景を思い浮かべることができますか。健康にあふれ,思い煩いはなく,愛する人々に囲まれ,真に充足感のある仕事に携わっているのです。わたしたちの出版物に描かれるパラダイスの場面について黙想しますか。そのようにして定期的に思い返すことは,壮大な景観を眺められる窓のガラスを拭くことに似ています。ガラスをきれいにしておかないなら,どろやほこりのために美しい景色はじきにぼやけてしまうでしょう。そうなると,他のものがわたしたちの注意を奪うかもしれません。決してそのようにはなりませんように。

      10 報いに目を留めていることがエホバとの関係を強くするのはなぜですか。

      10 言うまでもなく,わたしたちがエホバに仕えるおもな動機はエホバへの愛です。(マルコ 12:30)それでも,報いを待望するのは良いことです。事実エホバは,わたしたちがそうするようにと期待しておられます。ヘブライ 11章6節はこう述べています。「信仰がなければ,神を十分に喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分を切に求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」。エホバは求める者に報いてくださる方ですが,ご自分をそう見るようにと望んでおられるのはなぜでしょうか。それは,わたしたちが天の父をよく知っていることを示すものとなるからです。天の父は寛大な方で,ご自身の子たちを愛してくださっています。「将来と希望」を持っていなかったなら,どんなに不幸で,容易に失意していたかを考えてみてください。―エレミヤ 29:11。

      11 モーセの場合,神から与えられた希望は賢明な決定をする上でどのように助けになりましたか。

      11 神から与えられた希望に終始目の焦点を合わせる点で際立った手本となっているのはモーセです。「ファラオの娘の子」として,モーセには権力と,威信と,意のままになるエジプトの富とがありました。それらを追い求めますか。それとも,エホバに仕えるでしょうか。モーセは勇気をもってエホバに仕えることを選びました。なぜでしたか。「報いを一心に見つめた」からです。(ヘブライ 11:24-26)確かにモーセは,エホバが自分の前に置いてくださった希望に関して無頓着ではありませんでした。

      12 クリスチャンの希望がかぶとのようであるのはなぜですか。

      12 使徒パウロは,希望をかぶとになぞらえました。比喩的なかぶとはわたしたちの知力を保護し,賢明な決定をさせ,物事の優先順位を健全なものにし,忠誠を保たせるからです。(テサロニケ第一 5:8)あなたはそれをいつでも身に着けておられますか。そうであれば,モーセやパウロのように,あなたも,「不確かな富にではなく,わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に」希望を託していることになります。確かに,利己的な関心事の追求に背を向けて多くの人々の進む流れに逆らうには勇気が要りますが,それには努力のかいがあります。いずれにせよ,エホバを待ち望み,エホバを愛する人たちの前途には「真の命」が置かれているのに,どうしてそれ以下のもので満足してよいでしょうか。―テモテ第一 6:17,19。

      『わたしは決してあなたを離れない』

      13 エホバはご自分の忠節な僕たちにどんな保証を与えておられますか。

      13 「苦しみの劇痛」がしだいに増し加わる世界にあって,現在のこの事物の体制に希望を託す人たちは,前途について極めて暗い事態しか見ることができません。しかし,エホバを待ち望む人たちにそのような恐れは少しもありません。(マタイ 24:8)その人々は引き続き「安らかに住み,災いの怖れによってかき乱されることはない」のです。(箴言 1:33)現存する体制に希望を置いてはいないので,パウロの次の諭しに喜んで従うことができます。「あなた方の生活態度は金銭に対する愛のないものとしなさい。そして,今あるもので満足しなさい。『わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない』と言っておられるからです」。―ヘブライ 13:5。

      14 クリスチャンが自分の物質上の必要物を過度に心配しないでよいのはなぜですか。

      14 「決して」という強調の言葉が繰り返されていることは,神が顧みてくださることの確かさを表わしています。イエスも神の愛ある配慮を保証して,こう言われました。「ですから,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのもの[生活上の物質面での必要物]はみなあなた方に加えられるのです。それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです」。(マタイ 6:33,34)神の王国のために熱心になり,同時に生活面での必要を顧みる責任をしっかり担ってゆくのは易しいことではないという点を,エホバが知っておられます。ですから,わたしたちに必要なものを顧みてくださるエホバの力と意向に全幅の信頼を置きましょう。―マタイ 6:25-32; 11:28-30。

      15 クリスチャンはどのようにして『目を純一』に保てますか。

      15 『目を純一』に保つとき,エホバに依り頼んでいることになります。(マタイ 6:22,23)純一な目とは,誠実で純粋な動機のことであり,貪欲や利己的な野心はそこにありません。また純一な目を持つというのは,極貧の生活をするとか,クリスチャンとしての責任をおろそかにしてよいという意味ではありません。むしろそれは,エホバへの奉仕を第一の地位に置きつつ,「健全な思い」を働かせることです。―テモテ第二 1:7。

      16 純一な目を保つのに信仰と勇気が必要なのはなぜですか。

      16 純一な目を保つには,信仰と勇気が必要です。例えば,クリスチャンの集会が予定されている時間にいつも働くようにと雇い主が要求する場合,勇気をもって霊的な優先順位を守りますか。ご自分の僕たちを顧みるというエホバの約束に疑念を抱く人がいれば,サタンのほうはただ圧力を加えてゆけばよく,結果としてその人は集会に全く出席しなくなるかもしれません。そうです,わたしたちの側に信仰が欠けると,サタンに足がかりを与え,エホバではなく,サタンがわたしたちの物事の優先順位を定めることになります。それは悲劇的なことではないでしょうか。―コリント第二 13:5。

      「エホバを待ち望め」

      17 エホバに信頼を置く人たちはどのように今日でも祝福されていますか。

      17 聖書が繰り返し示しているように,エホバを待ち望み,神に依り頼む人は決して失望に至りません。(箴言 3:5,6。エレミヤ 17:7)確かに,少ないもので満足しなければならないこともあります。でもそれを,自分たちのために備えられている祝福と比べて小さな犠牲と見るのです。こうして自分が「エホバを待ち望(んで)」いることを実証すると共に,エホバが忠節な者たちの心の正しい願いすべてをやがてかなえてくださる,という確信を示すのです。(詩編 37:4,34)ですから,そのような人たちこそ,今でも真に幸福な人々です。「義なる者たちの期待は歓ぶことであり,邪悪な者たちの望みは滅びうせる」。―箴言 10:28。

      18,19 (イ)どんな愛ある保証をエホバは与えてくださっていますか。(ロ)どうしたらいつもエホバに自分のすぐ「右に」いていただけますか。

      18 父親と手をつないで歩くとき,幼子は安心感を抱きます。天の父と共に歩むわたしたちについても同じです。エホバはイスラエルにこう言われました。「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいるからである。……わたしはあなたを本当に助ける。……わたし,あなたの神エホバは,あなたの右手をつかんでいる。あなたに,『恐れてはならない。わたし自らあなたを助ける』と言うその[者]が」。―イザヤ 41:10,13。

      19 エホバが手を引いてくださる,これは何と温かな情景なのでしょう。ダビデはこう書きました。「わたしは自分の前に絶えずエホバを置きました。神がわたしの右にいてくださるので,わたしはよろめかされることがありません」。(詩編 16:8)どうしたらエホバに,いつも自分のすぐ「右に」いていただけるでしょうか。少なくとも二つの方法でそれができます。一つは,生活のすべての面でみ言葉を導きとすることです。もう一つは,エホバがわたしたちの前に置いてくださった栄光ある賞を見つめることです。詩編作者アサフはこう歌いました。「わたしは絶えずあなたと共にいます。あなたはわたしの右手をつかんでくださいました。あなたはご自分の助言をもってわたしを導き,その後,わたしを栄光へ連れて行ってくださるのです」。(詩編 73:23,24)こうした保証のもとに,わたしたちはまさに確信をもって将来に向かうことができます。

      「あなた方の救出が近づいている」

      20,21 エホバを待ち望む人々にはどんな将来がありますか。

      20 エホバに自分のすぐ右にいていただく必要は日ごとに増しています。間もなく,偽りの宗教の滅びを皮切りとして,サタンの世はかつて経験したことのない患難を迎えることになります。(マタイ 24:21)信仰に欠けた人類を恐れが覆うことでしょう。しかし,その混乱の時にも,エホバの勇気ある僕たちは,希望のうちに歓びにあふれます。イエスはこう言われました。「これらの事が起こり始めたら,あなた方は身をまっすぐに起こし,頭を上げなさい。あなた方の救出が近づいているからです」。―ルカ 21:28。

      21 ですから,神が与えてくださった希望にあって歓び,気を散らさせようとサタンが用いる巧妙な物事に欺かれたり誘われたりすることのないようにしましょう。同時に,信仰,愛,敬虔な恐れを培うために励みましょう。そうすることにより,どんな状況のもとでもエホバに従い,悪魔に抵抗する勇気を持てるでしょう。(ヤコブ 4:7,8)まさに,次の勧めのとおりです。「エホバを待ち望むすべての者たちよ,勇気を出せ。あなた方の心が強くあるように」。―詩編 31:24。

      [脚注]

      a クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で,「希望」という語はしばしば油そそがれたクリスチャンの天的な報いを指して用いられていますが,この記事では,一般的な意味での希望について取り上げます。

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