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クラサオ2002 エホバの証人の年鑑
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[98ページの図版]
下: アカ・ファン・ダルフセンは,ギレアデ第39期のクラスを卒業した後,1964年に到着した
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クラサオ2002 エホバの証人の年鑑
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宣教者がいっそうの援助を与える
1962年,ギレアデ学校の再教育課程に出席するラッセル・イエーツに代わって,ギレアデ第37期生のジョン・フライが支部の監督に任命されました。それから1年半後,フライ姉妹が妊娠したので,フライ夫妻は英国に戻り,イエーツ兄弟が支部の仕事を再開しました。1964年12月31日,ギレアデ第39期のクラスを卒業したオランダ出身のアカ・ファン・ダルフセンが到着しました。クラサオ島の土を踏んだアカを迎えたのは,打ち上げ花火の華麗な光景と,闇夜に鳴り響く,耳をつんざくような爆竹の音でした。とはいえ,島民の歓迎を受けていたわけではありません。それは,土地の人々が悪霊を追い払い,旧年の悪運を払いのけ,新年の到来を告げる年中行事だったのです。若くて精力的なファン・ダルフセン兄弟は巡回奉仕を開始し,後には地域の奉仕も行ないました。そして,ほとんどの宣教者と同様,新たな住みかを愛するようになりました。こう語っています。「人々は温かく,友好的で,正直です。ここに割り当てられたことは喜びであり,特権です」。
1974年にアカは,トリニダード出身のジュリーという姉妹と結婚し,ジュリーは夫と共に旅行する奉仕を行ないました。ジュリーは思い出をこう語っています。「人々の愛想のよい寛容な態度には感心しました。私はパピアメント語が全く話せませんでしたが,色々助けていただいたので,楽しく伝道できました。『コン タ バイ』(お元気ですか)と声をかけて,家族全員がどうしているかを尋ねるのは難しくありませんでした。ここでは,そのように尋ねる習慣があります。文書の配布も容易でした。大変だったのは,四つの言語の文書を入れた重いかばんを持ち歩くことや,ほこりや風との闘いでした。でも,私にとっては,それも本当に喜びでした」。アカとジュリーは,アルツハイマー病を患っていた,アカの父親を世話するため1980年にオランダに行きましたが,1992年にクラサオに戻りました。
ギレアデ第67期生のロバータス・バーカースと妻ゲイルは,ファン・ダルフセン夫妻の留守中,巡回奉仕を続け,全時間宣教に対する熱意を大いに高めました。1986年,オットー・クロースターマンと妻イボンヌが,ギレアデを卒業してクラサオにやって来て,クロースターマン兄弟は1994年に支部の調整者に任命されました。2000年,二人はオランダに戻りました。2000年3月にはファン・ダルフセン兄弟が支部委員に任命されて夫婦でベテルに招かれ,現在もベテルで奉仕しています。1997年,ブルックリンのグラフィックス部門のグレゴリー・ドゥホンと妻シャロンが,在外ベテル奉仕者としてクラサオに派遣されました。正看護婦のシャロンは,末期がんを患っていたラッセル・イエーツ兄弟の介護の点で,ほかの人たちと共に非常に大きな助けになりました。2000年3月,ドゥホン兄弟が支部の調整者に任命されました。兄弟は,親切な近づきやすい人柄で,みんなから深く感謝されています。現在,グレゴリー・ドゥホン,クリントン・ウィリアムズ,およびアカ・ファン・ダルフセンが支部委員会で奉仕しています。
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