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    2000 エホバの証人の年鑑
    • 決して忘れられない大会

      プラハで,エホバの証人の国際大会を1991年8月9日から11日に行なうという計画が立てられました。第一段階はスタジアムを借りることでした。どのスタジアムでしょうか。世界でも指折りの大きさの,プラハのスパルタキアド・スタジアムです。エホバの証人はまだチェコスロバキアで法的に登録されていなかったので,当時の国内委員会の調整者,アントン・ムリーンがスタジアム全体を個人的に借りました。これは勇気のいる計画でした。それはエホバに対する強い信頼の行動でしたし,エホバはそれを祝福されました。

      宿舎部門には膨大な仕事があり,その監督としてルボミール・ミュラーが割り当てられました。統治体の兄弟たちは良い宿泊施設が必要になることをよく理解していました。そのため,ヘンシェル兄弟とジャラズ兄弟は個人的に,プラハ中のホテル候補を下見しました。二人はホテルの各部屋に入って,ベッドでさえも確かめました。廊下に公共の浴室やトイレがあるホテルはまったく不適当ですと二人は言いました。なぜでしょうか。ヘンシェル兄弟はこう説明しました。「普通の状況ならそれで十分でしょう。泊まり客は違う時間に行き来するからです。しかし,大会の代表者たちは大体同じ時間に出発して戻ってきます。トイレのところでどうなるか想像できますか。兄弟たちにそうさせることはできません」。地元で組織していた兄弟たちは,統治体の成員が大会出席者一人一人の福祉に個人的な関心を払っているのを見て実際的な訓練を受けました。

      「自由を愛する人々」国際大会の出席者最高数は7万4,587人でした。その中で,チェコスロバキアからは2万9,119人,ドイツからは2万6,716人,ポーランドからは1万2,895人が出席しました。それ以外の5,857人は36の他の国々からの代表者たちでした。新しくバプテスマを受けたのは2,337人で,チェコスロバキアからの1,760人,ドイツからの480人,ポーランドからの97人もの人々を見るのはすばらしいことでした。

      大会全体の最高潮となったのは,間違いなく,8月10日の土曜日に起きた事柄です。いつからともなく,チェコスロバキアの座席の人たちは,割れるような拍手と共に全員立ち上がりました。その拍手は止まることなくまる10分続きました。人々の表情は喜びに輝いていました。その理由は何だったのでしょうか。統治体の成員アルバート・シュローダーは話の結びに,まず聴衆に新しい本が英語で出たことを紹介しました。人々は幾分がっかりしました。しかし,その次に,一冊になった「新世界訳聖書」が新たに印刷され,チェコ語とスロバキア語で発行されたことが発表され,聴衆は驚きました。多くの大会出席者が喜びの涙を流しました。

      代表者たちはその大会から深い感銘を受けました。新聞はどう報じたでしょうか。いつものように,偏見のある記事もあり,友好的な記事もありました。8月12日の月曜日,「ストラホフに人があふれる」という見出しで,ベンコフ・デニーク・チェスケーホ・ア・モラブスコスレズスケーホ・ベンコバ(チェコとモラビア-シレジア地方の地方日刊紙)は次のように報じました。

      「エホバの証人の国際大会が金曜日から日曜日までプラハで開催された。出席者はヨーロッパ,アメリカ,日本など各国から来た7万5,000人。エホバの証人は1912年よりチェコスロバキアで活動している。エホバの証人の代表者たちは思いやりと自己鍛錬で知られるようになった。大会自体,整然としており,よく準備されていた。土曜日のバプテスマの際,雨が降り始めたが,それを見守る人々はその場所を動かず,新しい仲間を長い拍手で歓迎していた」。

  • チェコ共和国
    2000 エホバの証人の年鑑
    • [216ページの写真]

      1991年のプラハで行なわれた国際大会 ― 注目に値する出来事

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