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    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 第13章

      二人の王の抗争

      1,2 ダニエル 11章に記されている預言に関心を抱くべきなのはなぜですか。

      互いに敵対する二人の王が,覇権を求める総力戦で,がっぷり組み合っています。時代の流れによって,一方が優勢になったかと思えば,今度はもう一方が優勢になります。片方の王が絶大な権威をもって支配する間,もう一方は活気を失うという時期があり,抗争の全くない期間もあります。しかし,その後またしても闘いが勃発し,抗争が続きます。これまでこのドラマには,シリアの王セレウコス1世ニカトール,エジプトの王プトレマイオス・ラゴス,シリアの王女でエジプトの王妃となったクレオパトラ1世,ローマ皇帝のアウグスツスとティベリウス,それにパルミラの女王ゼノビアなどが登場しました。この抗争の終盤には,ナチ・ドイツ,共産主義陣営,英米世界強国,国際連盟,国際連合なども関与するようになりました。この抗争の大団円として,これらの政治的存在のいずれもが予想だにしなかった出来事が生じます。興奮をさそうこの預言は,今から2,500年ほど前,エホバのみ使いによって預言者ダニエルに語られたものです。―ダニエル 11章。

      2 来たるべき二人の王の敵対関係についてみ使いが詳しく啓示するのを聞いて,ダニエルは興奮を覚えたに違いありません。そのドラマはわたしたちの関心事でもあります。二人の王による権力闘争は現代にまで及んでいるからです。この預言の最初の部分の真実さが歴史的に証明されてきたことを知れば,その預言的記述の最終部分も確実に成就するという信仰と確信が強まります。この預言に注意を払うことによって,わたしたちが時の流れの中のどこにいるかが明確になります。それに加えて,神がわたしたちのために行動されるのを辛抱強く待つ間,その抗争に関しては中立を保つ,というわたしたちの決意も固くされます。(詩編 146:3,5)ですから,エホバのみ使いがダニエルに語る言葉に細心の注意を払って耳を傾けましょう。

      ギリシャの王国を攻める

      3 み使いは「メディア人ダリウスの第一年」にだれに支援を差し伸べましたか。

      3 「わたしは,メディア人ダリウスの第一年[西暦前539年ないし538年]に,彼を強める者またその要害として立ち上がった」と,み使いは述べました。(ダニエル 11:1)ダリウスはすでに没していましたが,み使いがダリウスの治世に言及したのは,それを預言的音信の起点とするためです。ダニエルをライオンの坑から取り上げるよう命令したのは,この王でした。わたしの臣下はすべて,ダニエルの神を恐れるべきである,という布告を出したのもこのダリウスでした。(ダニエル 6:21-27)とはいえ,このみ使いが援軍として立ち上がったのは,このメディア人ダリウスのためではなく,ダニエルの民の君で,このみ使いの仲間であったミカエルのためでした。(ダニエル 10:12-14と比較してください。)神のみ使いがそのように支援を差し伸べた時,ミカエルはメディア-ペルシャの君である悪霊と闘っていました。

      4,5 予告されていた,ペルシャの四人の王とはだれのことですか。

      4 神のみ使いは話を続けます。「見よ,なお三人の王がペルシャのために立つ。そして第四の者は他のすべての者に勝って大きな富を集めるであろう。そして,その富において強くなるとすぐ,彼はすべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻めるであろう」。(ダニエル 11:2)それら三人のペルシャの支配者たちとは一体だれのことでしたか。

      5 最初の三人の王とは,キュロス大王,カンビュセス2世,そしてダリウス1世でした。バルディヤ(あるいは,ガウマータという名の詐称者かもしれない)はわずか7か月しか支配しなかったので,預言はその者の短い治世を考慮に入れていません。西暦前490年に三番目の王ダリウス1世が二度目のギリシャ侵攻を企てます。しかし,ペルシャ軍はマラトンで敗北を喫し,小アジアに撤退します。ダリウスは打倒ギリシャを目ざしてさらなる軍事行動を入念に準備しますが,実現を見ないまま4年後に没し,その遺志は,息子である後継者の「第四」の王クセルクセス1世に引き継がれます。エステルと結婚したアハシュエロス王が,その人です。―エステル 1:1; 2:15-17。

      6,7 (イ)第四の王はどのように「すべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻め」ましたか。(ロ)ギリシャを攻めるクセルクセスの軍事行動はどんな結果になりましたか。

      6 クセルクセス1世は,確かに「すべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻め」ました。ここで言うギリシャの王国とは,ギリシャの独立国家群のことです。「メディア人とペルシャ人 ― その征服と駆け引き」(英語)と題する書物には,「クセルクセスは野心的な廷臣たちの強い勧めで,陸海両面からの襲撃を開始した」と記されています。西暦前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスは,「これと比較すれば,他のいかなる遠征も,さして重要とは思えない」と書いています。ヘロドトスの記録にはこうあります。海軍は「全体で51万7,610人を擁していた。歩兵の数は170万,騎兵の数は8万。それに,らくだに乗ったアラブ人や,兵車で闘ったリビア人も加えなければならない。その数は2万とわたしは見る。したがって,陸海両軍の兵員の合計は231万7,610人となる」。

      7 まさに完全な征服を目ざしていたクセルクセス1世は,西暦前480年に大軍をギリシャに差し向けました。ギリシャはテルモピレーで敵の進軍を遅らせる時間かせぎの作戦を展開しますが,ペルシャ軍はそれを制して,アテネを荒廃させます。ところがサラミスでは惨敗を喫し,西暦前479年にはプラタイアイでもギリシャが勝利を収めます。それに続く143年の間,クセルクセスに続いてペルシャ帝国の王座に就いた7人の王は,だれひとりギリシャを侵攻しませんでした。その後,ギリシャに強大な王が現われます。

      大きな王国が四分される

      8 どんな「強大な王」が立ちましたか。その王はどのようにして,「広範な統治権をもって支配」するようになりましたか。

      8 「ひとりの強大な王が必ず立ち,広範な統治権をもって支配し,意のままに事を行なうであろう」と,み使いは述べました。(ダニエル 11:3)20歳のアレクサンドロスは,西暦前336年にマケドニアの王として「立ち」,まさしく「強大な王」― アレクサンドロス大王 ― となりました。同王は父フィリッポス2世の構想に促されて,中東のペルシャ諸州を攻め取ります。アレクサンドロスの擁する4万7,000の兵は,ユーフラテス川とチグリス川を渡った後,ガウガメラでダリウス3世の率いる25万人の部隊を四散させました。その結果,敗走したダリウスは殺害され,ペルシャ王朝に終止符が打たれます。今やギリシャが世界強国となり,アレクサンドロスは「広範な統治権をもって支配し,意のままに事を行な(い)」ました。

      9,10 アレクサンドロスの王国はその後裔に帰さないという預言は,どのように真実となりましたか。

      9 アレクサンドロスの世界支配は短期間で終わることになっていました。神のみ使いは,さらにこう述べていたからです。「彼が立ち上がった時に,その王国は砕かれ,分けられて天の四方の風に向かう。しかし,それは彼の後裔には帰さず,彼が支配したさいの統治権のほどでもない。彼の王国は引き抜かれて,それら以外の者たちのものとなるのである」。(ダニエル 11:4)アレクサンドロスは33歳にもならないうちに,突如として病に冒され,西暦前323年にバビロンでその生涯を終えました。

      10 アレクサンドロスの広大な帝国は「彼の後裔」に渡されませんでした。弟のフィリッポス3世アリダイオスの統治は7年も続かず,アレクサンドロスの母オリュンピアスの求めにより,西暦前317年に殺害されてしまいます。アレクサンドロスの息子アレクサンドロス4世は西暦前311年まで支配しますが,父親の配下にあった将軍の一人カッサンドロスの手にかかって最期を遂げます。アレクサンドロスの庶出の子ヘラクレスは父親の名による支配を企てますが,西暦前309年に殺害されます。このようにして,アレクサンドロスの王統は絶え,『彼の統治権』はその家系から離れました。

      11 アレクサンドロスの王国は,どのようにして,「分けられて天の四方の風に向か(い)」ましたか。

      11 アレクサンドロスの死後,その王国は「分けられて天の四方の風に向か(い)」ました。部下の多くの将軍たちが,領土獲得を狙ってしのぎを削りました。独眼の将軍アンティゴノス1世は,アレクサンドロスの帝国全域を手中に収めようとしたほどです。しかしこの将軍は,フリギアのイプソスでの戦いで殺されます。アレクサンドロスの配下にあった4人の将軍たちは,西暦前301年までに,自分たちの司令官が征服していた広大な領土に対する実権を握っていました。カッサンドロスはマケドニアとギリシャを支配し,リュシマコスは小アジアとトラキアを掌握しました。セレウコス1世ニカトールはメソポタミアとシリアを確保し,プトレマイオス・ラゴスはエジプトとパレスチナを手に入れました。預言の言葉にたがわず,アレクサンドロスの大帝国は,ヘレニズムの四つの王国に分割されました。

      互いに敵対する二人の王が現われる

      12,13 (イ)ヘレニズムの四つの王国は,どのような経過をたどって二つに減りますか。(ロ)セレウコスはシリアにどんな王朝を設立しましたか。

      12 カッサンドロスは実権を握ってから数年後に没し,西暦前285年にリュシマコスがギリシャ帝国のヨーロッパ地域を所有するようになりました。西暦前281年,リュシマコスはセレウコス1世ニカトールとの戦闘に敗れて死に,アジアの領土の大部分はセレウコスが管理することになりました。西暦前276年には,アレクサンドロスの配下にあった将軍の孫に当たるアンティゴノス2世ゴナタスがマケドニアの王座に就きます。やがてマケドニアはローマに従属するようになり,結局は西暦前146年にローマの属州となります。

      13 この時,ヘレニズムの四つの王国のうち,目立った立場を保っていたのは二つ ― セレウコス1世ニカトールが支配する国と,プトレマイオス・ラゴスの支配する国 ― だけでした。セレウコスはシリアにセレウコス朝を設立し,幾つもの都市を創建しました。シリアの新首都アンティオキア,セレウキア港などもその一部です。使徒パウロは後年アンティオキアで教えました。イエスの追随者たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになったのも,その都市でのことでした。(使徒 11:25,26; 13:1-4)セレウコスは西暦前281年に暗殺されましたが,その王朝は,ローマの将軍グナエウス・ポンペイウスがシリアをローマの属州とした西暦前64年まで支配を続けました。

      14 プトレマイオス王朝がエジプトに設立されたのは,いつのことですか。

      14 ヘレニズムの四つの王国の中で一番長く存続したのは,西暦前305年に王の称号をとなえるようになったプトレマイオス・ラゴスつまりプトレマイオス1世の王国でした。この王が設立したプトレマイオス王朝は,ローマに倒される西暦前30年まで,エジプトに対する支配を続けました。

      15 ヘレニズムの四つの王国から,どんな二人の強い王が台頭しましたか。その二人によって,どんな戦いの火ぶたが切って落とされましたか。

      15 このようにして,ヘレニズムの四つの王国から,強い二人の王が台頭しました。それは,シリアを支配したセレウコス1世ニカトールと,エジプトを支配したプトレマイオス1世です。これら二人の王をもって,ダニエル 11章に描かれた「北の王」と「南の王」の長い戦いの火ぶたが切って落とされました。エホバのみ使いは,それらの王たちの名を挙げていません。それは,幾世紀もの時間の経過と共に,二人の王の実体と国籍が変化してゆくからでしょう。み使いはこまごまとした不要な点は省き,その抗争に関係のある支配者と出来事のみを述べています。

      抗争が始まる

      16 (イ)二人の王は,だれから見て,北および南の王となることになっていましたか。(ロ)最初の「北の王」,および最初の「南の王」の役割を担ったのは,どの王ですか。

      16 耳を傾けてください! エホバのみ使いは,この劇的な抗争の始まりを次のように描いています。「南の王,すなわち彼の[アレクサンドロスの]君たちの一人が強くなる。これ[北の王]は彼に対して優勢になり,その者の支配力に勝る広範な統治権をもって支配することになる」。(ダニエル 11:5)「北の王」および「南の王」という呼称は,この時点ですでにバビロニアでの捕囚から解放され,ユダの地に復帰していた,ダニエルの民から見て北,および南の王を指しています。最初の「南の王」はエジプトのプトレマイオス1世でした。アレクサンドロスの配下にあった将軍の一人で,プトレマイオス1世に対して優勢になり,「広範な統治権をもって」支配したのは,シリアの王セレウコス1世ニカトールでした。「北の王」の役割を担ったのは,その人物でした。

      17 北の王と南の王の抗争が開始された時点で,ユダの地はだれの統治権のもとにありましたか。

      17 抗争が開始された時点で,ユダの地は南の王の統治権のもとにありました。西暦前320年ころから,プトレマイオス1世はユダヤ人が入植者としてエジプトに来るよう働きかけていました。アレクサンドリアではユダヤ人の入植地が繁栄を見ており,プトレマイオス1世はそこに有名な図書館を建てました。ユダにいたユダヤ人は西暦前198年まで,南の王であるプトレマイオス王朝の支配するエジプトのもとにありました。

      18,19 互いに敵対する二人の王は,時たつうちに,どのように「平衡を図る取り決め」に入りましたか。

      18 み使いは二人の王について,こう預言しています。「幾年かの終わりに彼らは互いに盟約を結び,南の王の娘が北の王のもとに来る。平衡を図る取り決めのためである。しかし彼女は自分の腕の力を保てない。彼もまたその腕もずっと立つことはない。彼女自身が引き渡される。彼女を連れて来た者たちも,彼女を産ませた者も,そのころ彼女を強くした者も同様である」。(ダニエル 11:6)この預言はどのように成就したでしょうか。

      19 この預言には,セレウコス1世ニカトールの息子で父の後を継いだアンティオコス1世のことは述べられていません。南の王と決戦を交えることはなかったからです。しかし,その後継者のアンティオコス2世は,プトレマイオス1世の息子プトレマイオス2世と長期戦を行なっています。アンティオコス2世とプトレマイオス2世は,それぞれ北の王および南の王となりました。アンティオコス2世はラオディケと結婚し,セレウコス2世という名の息子を持ちましたが,プトレマイオス2世のほうには娘が生まれ,ベレニケという名が付けられました。西暦前250年,これら二人の王は「平衡を図る取り決め」に入りました。この盟約の代価として,アンティオコス2世は妻ラオディケを離縁し,「南の王の娘」ベレニケと結婚します。北の王はベレニケによって一人の息子をもうけ,ラオディケの息子たちではなくこの息子がシリアの王座の相続人となりました。

      20 (イ)どのような意味で,ベレニケの「腕」は立つことがありませんでしたか。(ロ)ベレニケ,「彼女を連れて来た者たち」,そして「彼女を強くした者」は,どのように引き渡されましたか。(ハ)アンティオコス2世が『彼の腕』つまり力を失った後,シリアの王となったのはだれですか。

      20 ベレニケの「腕」,つまり支える力となったのは,父親のプトレマイオス2世でした。この父親が西暦前246年に亡くなった時,ベレニケは夫に対して「自分の腕の力を保て」ませんでした。アンティオコス2世はベレニケを退けて再びラオディケと結婚し,ラオディケとの間に生まれた息子を自分の後継者として指名したのです。ラオディケの策略により,ベレニケとその息子は殺害されました。ベレニケをエジプトからシリアに連れて来た従者たち ―「彼女を連れて来た者たち」― も,同じ結末を迎えたようです。ラオディケはアンティオコス2世を毒殺することまでしています。それで,『彼の腕』も,つまり力も,『立ちません』でした。そのためベレニケの父 ―「彼女を産ませた者」― も,ベレニケのシリア人の夫 ― 一時的に彼女を「強く」した者 ― も死に,ラオディケの息子のセレウコス2世が,シリアの王として残りました。では,次のプトレマイオス朝の王は,このすべてに対してどのように反応するでしょうか。

      自分の姉妹の殺害の復しゅうをする王

      21 (イ)ベレニケの「根」から出た「新芽の一つ」とはだれのことでしたか。その者はどのように「立ち」ましたか。(ロ)プトレマイオス3世はどのように「北の王の要害に向かい」,北の王に対して優勢になりましたか。

      21 み使いは述べました。「彼女の根から出た新芽の一つが必ず彼の地位に立ち,その者が軍勢のもとに来て,北の王の要害に向かい,必ず彼らに攻めかかって優勢になる」。(ダニエル 11:7)ベレニケの親つまり「根」から出た「新芽の一つ」とは,ベレニケの兄弟でした。この人物は父親が死んだ時,南の王として,すなわちエジプトのファラオ,プトレマイオス3世として「立ち」ました。王は,殺害された実の姉妹の復しゅうを直ちに開始し,シリアの王セレウコス2世を攻めるために進撃し,「北の王の要害」に向かいました。セレウコス2世はラオディケに利用されて,ベレニケとその息子を殺害したのです。プトレマイオス3世はアンティオキアの要塞を攻め取り,ラオディケに致命的打撃を加えました。さらに,北の王の領土を経て東へ移動し,バビロニアで略奪をほしいままにした後,インドに向けて進撃しました。

      22 プトレマイオス3世は何をエジプトに運び帰りましたか。同王が「幾年かのあいだ北の王から離れて立(った)」のはなぜですか。

      22 次にどんなことが生じましたか。神のみ使いはこう告げています。「さらに,彼らの神々,彼らの鋳像,彼らの願わしい銀や金の品,またとりこたちを携えてエジプトに戻る。そして彼は,幾年かのあいだ北の王から離れて立つ」。(ダニエル 11:8)その200年余り前に,ペルシャの王カンビュセス2世はエジプトを征服し,エジプトの神々,つまり「彼らの鋳像」を自国に持ち帰っていました。プトレマイオス3世は,ペルシャの以前の王都スサで略奪を働いた際にそれらの神々を取り戻し,それをエジプトに「とりこ」として運びました。また,非常に多くの「願わしい銀や金の品」を戦利品として運び帰りました。自国内の反乱鎮圧を余儀なくされたプトレマイオス3世は,「北の王から離れて立(ち)」,同王にそれ以上害を加えることはありませんでした。

      シリアの王は仕返しをする

      23 北の王が,南の王の王国に入った後,「自分の土地に戻っ(た)」のはなぜですか。

      23 北の王はどのように反応しましたか。ダニエルに対する言葉はこうです。「彼は南の王の王国にまさに入って来る。だが,自分の土地に戻って行くことになる」。(ダニエル 11:9)北の王 ― シリアの王セレウコス2世 ― は反撃し,南のエジプトの王の「王国」つまりその王土に入りますが,敗北を喫します。セレウコス2世は西暦前242年ごろ,生き残ったわずかな兵と共に「自分の土地に戻(り)」,シリアの首都アンティオキアに退却します。この王が死ぬと,息子のセレウコス3世が父の後を継ぎます。

      24 (イ)セレウコス3世はどうなりましたか。(ロ)シリアの王アンティオコス3世はどのように南の王の領土に『入り,みなぎりあふれて通って行き』ましたか。

      24 シリアの王セレウコス2世の子孫について,どんなことが予告されていましたか。み使いはダニエルにこう告げました。「一方その子らは,自ら奮い立ち,群がる大軍をまさに集める。そして彼は進んで行ってまさに入り,みなぎりあふれて通って行く。しかし彼は戻って行く。そして,身を奮い起こして自分の要害へと進む」。(ダニエル 11:10)セレウコス3世の統治は3年も続かず,同王の暗殺をもって終わります。その後継者としてシリアの王座に就いたのは,セレウコス3世の兄弟アンティオコス3世でした。このセレウコス2世の息子は,当時の南の王プトレマイオス4世を襲撃するため,大軍を結集します。シリアのこの新しい北の王はエジプトと戦って勝利を収め,海港セレウキア,コイレ・シリア州,ティルスとプトレマイスの2都市,および周辺の町々を奪回します。さらには,王プトレマイオス4世の軍隊を敗走させ,ユダの多くの都市を攻め取ります。西暦前217年の春にアンティオコス3世はプトレマイスを後にして北上し,シリアの「自分の要害へと進(み)」ました。しかし,程なくして形勢が変わります。

      流れが変わる

      25 プトレマイオス4世とアンティオコス3世はどこで会戦しましたか。何が南のエジプトの王の「手に渡され」ましたか。

      25 わたしたちもダニエルのように,エホバのみ使いがこのあと予告する事柄に,期待を抱いて耳を傾けます。「南の王は憤激し,出て行って彼と,すなわち北の王と戦うことになる。彼はまさに大群を立ち上がらせるが,その群衆は実際にはかの者の手に渡される」。(ダニエル 11:11)7万5,000の兵を擁する南の王プトレマイオス4世は,北上して敵に向かいます。北のシリアの王アンティオコス3世は6万8,000の「大群」を起こし,南の王に対して立ち上がらせていました。とはいえ,この「群衆」も,エジプト国境に程近い海沿いの都市ラフィアでの戦いにおいて,南の王の「手に渡され(て)」しまいます。

      26 (イ)ラフィアの戦いで,どんな「群衆」が南の王によって連れ去られましたか。その時に結ばれた平和条約には,どんな条項が含まれていましたか。(ロ)プトレマイオス4世は「自分の強固な立場を利用しな(かった)」と,どうして言えますか。(ハ)次に南の王となったのはだれですか。

      26 預言は続きます。「そしてその群衆は必ず連れ去られる。彼の心は高ぶり,彼はまさに幾万の者を倒す。しかし彼は自分の強固な立場を利用しない」。(ダニエル 11:12)南の王プトレマイオス4世は,シリアの歩兵1万人と騎兵300人を死へと『連れ去り』,4,000人を捕虜として捕らえます。次いでこれらの王たちは条約を結び,アンティオコス3世はシリアの海港セレウキアを保持しますが,フェニキアとコイレ・シリアは失ってしまいます。この勝利を得て,南のエジプトの王の心は,とりわけエホバに対して「高ぶり」ました。ユダは引き続きプトレマイオス4世の管理下にありました。しかし,この王が「自分の強固な立場を利用し」,北のシリアの王に対してその後も勝利を収めることはありませんでした。むしろプトレマイオス4世は放とうの生活を送るようになり,そのため5歳の息子プトレマイオス5世が,アンティオコス3世の死ぬ何年か前に,次の南の王となりました。

      搾取する者が戻って来る

      27 北の王は,エジプトから領土を奪還するため,どのように,『しばらくの時の終わりに』戻って来ましたか。

      27 アンティオコス3世はその功績のゆえに,アンティオコス大王と呼ばれるようになりました。この王について,み使いはこう述べています。「北の王は戻って来て,初めを上まわる大群を起こすことになる。そして,しばらくの時すなわち幾年かの終わりに,彼はやって来る。大きな軍勢を率い,大量の貨財を携えてそうする」。(ダニエル 11:13)ここで言及されている「しばらくの時」とは,エジプト軍がラフィアでシリア軍を破った後の16年,もしくはそれ以上の歳月を指しています。プトレマイオス5世が幼少にして南の王になった時,アンティオコス3世は「初めを上まわる大群」をもって,南のエジプトの王に奪われた領土の奪還に着手しました。それを達成するため,アンティオコス3世はマケドニア王フィリッポス5世と同盟を結びます。

      28 若い南の王は,どんな厄介な問題を抱えていましたか。

      28 南の王は自分の王国の内紛にも悩まされていました。「その時,南の王に立ち向かう者が多くいる」と,み使いは述べています。(ダニエル 11:14前半)実際に多くの者が「南の王に立ち向か(い)」ました。この若い南の王は,アンティオコス3世およびその同盟者のマケドニアの軍勢だけでなく,エジプトの様々な国内問題にも遭遇していました。王の後見役であり,王の名において支配したアガトクレスがエジプト人たちを尊大に扱ったため,多くの者が反乱を起こしました。み使いはこう付け加えています。「また,あなたの民に属する強盗の子らは,幻を実現させようとして引き回される。彼らは必ずつまずく」。(ダニエル 11:14後半)ダニエルの民の中にも,「強盗の子ら」もしくは革命家となった人たちがいました。ところが,そのようなユダヤ人が抱いていた,故国に対する異邦人による支配の終わりという「幻」は,どれも偽りであって,実現することはありませんでした。つまり『つまずき』ました。

      29,30 (イ)「南の腕」はどのように,北からの襲撃に屈しましたか。(ロ)北の王はどんな経過をたどって「飾りの地に立つ」ようになりましたか。

      29 エホバのみ使いはさらに次のように予告しました。「北の王はやって来て,攻囲の塁壁を盛り上げ,城塞のある都市をまさに攻略する。そして,南の腕は立ち向かうことができない。彼のより抜きの民も同様である。こらえて立つ力はないであろう。そして,彼に向かって来る者は意のままに事を行ない,その前に立ち向かう者はだれもいない。さらに彼は飾りの地に立つ。その手には絶滅があるであろう」― ダニエル 11:15,16。

      30 プトレマイオス5世の率いる軍勢,つまり「南の腕」は,北からの襲撃に屈しました。アンティオコス3世はパニアス(カエサレア・フィリピ)で,エジプトの将軍スコパスと,選ばれた兵士つまり「より抜きの民」1万人を撃退して,「城塞のある都市」であるシドンに追いやります。そこでアンティオコス3世は「攻囲の塁壁を盛り上げ」,西暦前198年にフェニキア人のその海港を攻め取ります。南のエジプトの王の軍勢は敵の前に立つことができなかったため,アンティオコスは「意のままに」行動しました。それでアンティオコス3世は「飾りの地」であるユダの首都エルサレムに向かって進軍します。西暦前198年にエルサレムとユダは,南のエジプトの王の統治下から,北のシリアの王の統治下へと移されました。それから北の王アンティオコス3世は「飾りの地に立(ち)」始めました。「その手には」,反対するユダヤ人とエジプト人すべての「絶滅」がありました。この北の王はいつまで,自分のしたい放題に行動することができるのでしょうか。

      ローマは搾取する者を抑制する

      31,32 北の王が南の王と,平和のための,「平衡を図る協約」を結ぶ結果になったのはなぜですか。

      31 エホバのみ使いは次のように答えています。「彼[北の王]は自分の王国全体の勢いをもって進もうとして顔を向けるが,その者との間で平衡を図る協約ができることになる。こうして彼は効果的に行動する。また,女たちの娘に関し,これを破滅に至らせることが彼に許される。だが,彼女は立ち行かず,ずっと彼のものとしてとどまることはない」― ダニエル 11:17。

      32 北の王アンティオコス3世は,「自分の王国全体の勢いをもって」エジプトを統治すべく「顔を向け」ますが,結果的には,南の王プトレマイオス5世と,平和のための,「平衡を図る協約」を結びます。アンティオコス3世はローマの要求により,計画を変更したのです。エジプトの領土を占拠するため,アンティオコス3世とマケドニア王フィリッポス5世が若年のエジプト王に対抗して手を結んだ時,プトレマイオス5世の後見役たちはローマに保護を求めました。ローマは勢力範囲を拡大できるその機会を利用し,力をもって威嚇しました。

      33 (イ)アンティオコス3世とプトレマイオス5世との間で結ばれた,平和のための協約とは何でしたか。(ロ)クレオパトラ1世とプトレマイオス5世の結婚にはどんな目的がありましたか。そのもくろみが失敗したのはなぜですか。

      33 アンティオコス3世はローマに強要され,平和のための協約を南の王に提出します。しかし,征服した領土をローマの要求どおりに引き渡すのではなく,娘のクレオパトラ1世 ―「女たちの娘」― をプトレマイオス5世と結婚させることにより,名目上それらの領土を譲渡する計画を立てました。持参金に相当するものとして,「飾りの地」であるユダを含む諸州が与えられることになりました。ところが,西暦前193年のその結婚に際して,シリアの王はそれら約束の諸州をプトレマイオス5世に与えませんでした。これはエジプトをシリアに従属させるために仕組まれた政略結婚だったのです。しかし,このもくろみは失敗しました。というのも,クレオパトラ1世は後に夫の側に立ったため,「ずっと彼のものとしてとどまることはな(かった)」からです。アンティオコス3世とローマ人の戦争が勃発した時,エジプトはローマの側に付きました。

      34,35 (イ)北の王はどんな「海沿いの地帯」に顔を向けましたか。(ロ)ローマは北の王からの「非難」をどのように終わらせましたか。(ハ)アンティオコス3世はどのようにして死にましたか。次に北の王となったのはだれですか。

      34 み使いは北の王の敗退に言及し,こう付け加えました。「そして彼[アンティオコス3世]は顔を再び海沿いの地帯に向け,実際に多くのところを攻略する。だが,ひとりの司令者[ローマ]が自分[ローマ]のために彼からの非難を絶えさせることになる。そのため彼の非難[アンティオコス3世からのもの]はやむ。その者[ローマ]はそれを彼自身に帰させる。それで彼[アンティオコス3世]は顔を再び自らの地の要害に向ける。彼は必ずつまずいて倒れ,もはや見いだされることはない」― ダニエル 11:18,19。

      35 この「海沿いの地帯」とは,マケドニア,ギリシャ,小アジアなどの海沿いの地域のことです。西暦前192年にギリシャで戦争が勃発し,アンティオコス3世はギリシャに遠征したくなります。その地域の領土をも獲得しようとするシリアの王に不満を抱いたローマは,正式に同王に宣戦を布告します。テルモピレーでローマに敗北を喫し,西暦前190年のマグネシアの戦いにも敗れてから約1年後,シリアの王はギリシャと小アジアの,次いでタウロス山脈以西の一切のものを放棄しなければなりませんでした。ローマは北のシリアの王に多額の罰金を科し,同王に対する覇権を確立しました。ギリシャからも小アジアからも追われ,艦隊のほとんどすべてを失ったアンティオコス3世は,「顔を再び自らの地[シリア]の要害に向け」ました。ローマはすでに『自分たちに対する彼からの非難を彼自身に帰させて』いました。アンティオコス3世は西暦前187年,ペルシャのエリマイスにあった神殿の強奪を企てている間に死にました。このようにして同王は死んで「倒れ」ます。息子のセレウコス4世がその後を継ぎ,次の北の王となりました。

      抗争は続く

      36 (イ)南の王はどのように戦いを続けようとしましたか。しかし,結局どうなりましたか。(ロ)セレウコス4世はどのように倒れ,だれがその後を継ぎましたか。

      36 南の王プトレマイオス5世は,クレオパトラの持参金に相当するものとして手に入るはずだった諸州を獲得しようとしますが,毒殺されてその野望は潰え,プトレマイオス6世が王位を受け継ぎます。セレウコス4世はどうなりましたか。ローマから多額の罰金を科せられ,その支払いに窮していた同王は,エルサレムの神殿に蓄えられているとされる財貨を強奪すべく,財務官ヘリオドロスを遣わします。王座を狙っていたヘリオドロスはセレウコス4世を殺害しますが,ペルガモンの王エウメネスとその兄弟アッタロスが,殺された王の兄弟アンティオコス4世を即位させます。

      37 (イ)アンティオコス4世は,自分がエホバ神より強大であることを誇示しようとして,どのようなことをしましたか。(ロ)エルサレムの神殿の神聖さを汚す,アンティオコス4世による行為が引き金となって,どんなことが生じましたか。

      37 新しい北の王アンティオコス4世は,崇拝に関するエホバの取り決めを根絶しようと努め,自分が神より強大であることを誇示しようとしました。この王はエホバに挑み,エルサレムの神殿をゼウスすなわちユピテルに献納しました。西暦前167年の12月,それまでエホバへの焼燔の捧げ物が日ごとにささげられていた神殿の中庭の大きな祭壇の上に,異教の祭壇が築かれました。10日後には,その異教の祭壇の上でゼウスへの犠牲がささげられました。神聖さを汚すこの行為が引き金となって,ユダヤ人はマカベア家のもとで武装蜂起します。アンティオコス4世は3年の間ユダヤ人と戦いました。西暦前164年,神聖さが汚されたその記念日に,ユダ・マカバイオスは神殿を改めてエホバに献じ,献納の祭り ― ハヌッカ ― が制定されました。―ヨハネ 10:22。

      38 マカベア家による支配は,どのようにして終わりを告げましたか。

      38 恐らく,マカベア家は西暦前161年にローマと条約を結び,西暦前104年には王国を設立したものと思われます。とはいえ,マカベア家と,北のシリアの王との間の摩擦はその後も続きました。結局ローマの介入が要請され,ローマのグナエウス・ポンペイウス将軍が西暦前63年に3か月にわたる攻囲の末,エルサレムを攻め取ります。ローマの元老院がエドム人のヘロデをユダヤの王に任じたのは,西暦前39年のことでした。ヘロデは西暦前37年にエルサレムを攻め取って,マカベア家による支配を終わらせます。

      39 ダニエル 11章1-19節を考慮することから,あなたはどんな益を得ることができましたか。

      39 二人の王の抗争に関する預言の最初の部分が細かな点に至るまで成就しているのを知ると大きな興奮を覚えます。確かに,ダニエルに預言的な音信が伝えられてから約500年間の歴史を見つめ,北の王と南の王それぞれの立場を占めた支配者たちの実体を見極めるのは,何と胸の躍ることなのでしょう。しかし,これら二人の王の政治的実体は,イエス・キリストが地上で生活していた時代から現代まで両者の戦闘が続く間,変化してゆきます。わたしたちは,この預言の中で啓示されている興味深い詳細な点と,歴史上の展開を照らし合わせることによって,競い合うこれら二人の王の実体を見極めることができるのです。

  • 二人の王の抗争
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • [228ページの図表/写真]

      ダニエル 11章5-19節に出てくる王たち

      北の王 南の王

      ダニエル 11:5 セレウコス1世ニカトール プトレマイオス1世

      ダニエル 11:6 アンティオコス2世 プトレマイオス2世

      (妻ラオディケ) (娘ベレニケ)

      ダニエル 11:7-9 セレウコス2世 プトレマイオス3世

      ダニエル 11:10-12 アンティオコス3世 プトレマイオス4世

      ダニエル 11:13-19 アンティオコス3世 プトレマイオス5世

      (娘クレオパトラ1世) 後継者:

      後継者たち: プトレマイオス6世

      セレウコス4世および

      アンティオコス4世

  • 二人の王の実体は変化する
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 第14章

      二人の王の実体は変化する

      1,2 (イ)どんなことがあって,アンティオコス4世はローマの要求に屈しましたか。(ロ)シリアがローマの属州になったのはいつですか。

      シリアの君主アンティオコス4世はエジプトに侵攻し,自らをエジプトの王とします。ローマはエジプトの王プトレマイオス6世の求めにより,大使のカイウス・ポピリウス・ラエナスをエジプトに派遣します。ラエナスは威風堂々たる艦隊を率い,アンティオコス4世に対して,エジプトでの王権を放棄すると共に,同国から撤退することを求めるローマ元老院からの指令を携えていました。シリアの王とローマの大使は,アレクサンドリア近郊のエレウシスで相まみえます。アンティオコス4世は助言者たちと諮る時間を要求しますが,ラエナスは王の周囲に円を描き,その線を踏み越える前に返答せよ,と迫ります。辱められたアンティオコス4世はローマの要求に屈し,西暦前168年にシリアに戻ります。北のシリアの王と南のエジプトの王の対決は,このようにして幕を閉じました。

      2 中東情勢において支配的な役割を果たしていたローマは,その後もシリアに対する締めつけを厳しくしてゆきます。そのため,アンティオコス4世が没した西暦前163年以後もセレウコス朝の王たちはシリアを支配しますが,「北の王」の立場には立ちません。(ダニエル 11:15)結局,西暦前64年にシリアはローマの属州になります。

      3 いつ,またどのように,ローマはエジプトに対して優位に立ちましたか。

      3 エジプトのプトレマイオス朝は,アンティオコス4世の死後も130年余りにわたって「南の王」の立場を保ちました。(ダニエル 11:14)西暦前31年のアクティウムの決戦の際,ローマの支配者オクタウィアヌスは,プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ7世と,その愛人のローマ人マルクス・アントニウスの連合軍を撃ち破ります。その翌年にクレオパトラが自害した後は,エジプトもローマの属州となり,もはや南の王の役割を果たすことはありませんでした。西暦前30年までに,ローマはシリアとエジプトの双方に対して優位に立っていました。では,この後に北の王と南の王の役割をそれぞれ担う他の支配者が現われると考えるべきでしょうか。

      新たな王は「取り立て人」を遣わす

      4 別の支配者が北の王となることを予想すべきなのはなぜですか。

      4 イエス・キリストは西暦33年の春,弟子たちにこう語りました。「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,……その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」。(マタイ 24:15,16)イエスはダニエル 11章31節を引用し,後に現われる「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」について,上記のように追随者たちに警告を与えました。北の王に関するこの預言が与えられたのは,その役割を担うシリア最後の王アンティオコス4世の死後およそ195年が経過したころでした。確かに,さらに別の支配者が北の王とならなければなりません。だれがそうなるのでしょうか。

      5 アンティオコス4世がかつて占めていた地位に就き,北の王として立ったのはだれですか。

      5 エホバ神のみ使いはこのように予告します。「取り立て人を光輝ある王国に通り行かせる者が彼の地位[アンティオコス4世の地位]に立つことになる。だが,数日のうちにその者は砕かれる。それは怒りによるのでも,戦いによるのでもない」。(ダニエル 11:20)そのようにして「立つ」者となったのは,カエサル・アウグスツスとして知られるローマの初代皇帝オクタウィアヌスでした。―248ページの「一方は尊ばれ,他方は軽んじられる」をご覧ください。

      6 (イ)「取り立て人」が「光輝ある王国」に通り行かされたのはいつですか。このことで重要なのはどんな点ですか。(ロ)アウグスツスが「怒りによるのでも,戦いによるのでも(なく)」死んだと言えるのはなぜですか。(ハ)北の王の実体に,どんな変化が生じましたか。

      6 アウグスツスの「光輝ある王国」には,「飾りの地」― ローマの属州ユダヤ ― が含まれていました。(ダニエル 11:16)西暦前2年,アウグスツスは登録つまり人口調査を命じることにより,「取り立て人」を遣わしました。それには,徴税と徴兵のため,人口を把握できるようにする目的があったのでしょう。この布告が出されたので,ヨセフとマリアは登録のためベツレヘムに旅をし,予告されていたその場所でイエスが誕生することになりました。(ミカ 5:2。マタイ 2:1-12)西暦14年8月,アウグスツスは「数日のうちに」,つまり登録の布告を出してから程なくして,76歳で死にました。それは,暗殺者の「怒りによる」のでも,「戦いによる」のでもなく,病気による死でした。北の王の実体は確かに変化していました。この時点で北の王になっていたのはローマ帝国,その皇帝たちでした。

      『軽んじられた者が立つ』

      7,8 (イ)北の王としてアウグスツスの地位に立ったのはだれですか。(ロ)アウグスツス・カエサルの後継者に,仕方なく「王国の尊厳」が与えられたのはなぜですか。

      7 み使いはなおも預言を続け,こう語ります。「軽んじられた者が彼の[アウグスツスの]地位に立つことになる。彼らはその王国の尊厳を決してその者に付そうとはしない。だが,心配なく過ごしている間に彼はまさに入って来て,滑らかさをもってその王国を手に入れる。また,洪水の腕について言えば,それは彼のゆえに押し流されて,砕かれる。契約の指導者もまたそのようにされる」― ダニエル 11:21,22。

      8 「軽んじられた者」とは,アウグスツスの三番目の妻であったリウィアの子,ティベリウス・カエサルでした。(248ページの「一方は尊ばれ,他方は軽んじられる」をご覧ください。)アウグスツスは,性格上の難点があったこの継子を嫌い,その子が次のカエサルになることを望みませんでした。「王国の尊厳」は,後継者になりそうな人たちがすべて死んだ後に初めて,仕方なくこの息子に与えられました。アウグスツスは西暦4年にティベリウスを養子にし,王位継承者としました。アウグスツスの死後,54歳のティベリウス ― 軽んじられた者 ― が『立ち』,ローマ皇帝および北の王としての実権を握ります。

      9 ティベリウスはどのように「滑らかさをもってその王国を手に入れ」ましたか。

      9 新ブリタニカ百科事典(英語)はこう述べています。「ティベリウスは元老院に対して策を弄し,[アウグスツスの死後]ほぼ1か月間は,元老院から皇帝と呼ばれることを許さなかった」。ティベリウスは元老院に対して,アウグスツス以外の何者もローマ帝国の支配という重責を担うことはできないと述べ,元老院議員たちに対して,そのような権威を一個人ではなく一つの集団にゆだねることにより,共和制を復活させるよう求めました。歴史家のウィル・デュラントは,「元老院はその言葉をあえて真に受けず,ティベリウスが最終的に権力の座を受け入れるまで,ティベリウスと挨拶を交わした」と書き,こう付け加えています。「双方とも芝居を演じきった。ティベリウスは元首制を望んでいた。さもなければ,それを回避する何らかの方法を考え出したことであろう。元老院は彼を恐れ,嫌っていたが,以前のような,理論上最高の権能を有する集会を基盤とする共和制の再確立には難色を示した」。このようにティベリウスは,「滑らかさをもってその王国を手に入れ」ました。

      10 どのように『洪水の腕は砕かれ』ましたか。

      10 「洪水の腕について」,つまり周囲の諸王国の軍勢について,み使いは,「それは……押し流されて,砕かれる」と述べました。ティベリウスが北の王になった時,その甥に当たるカエサル・ゲルマニクスは,ライン川のローマ軍部隊の司令官でした。西暦15年,ゲルマニクスは軍を率いてゲルマンの英雄アルミニウスを攻め,ある程度の成功を収めました。しかしながら,この限られた勝利の犠牲は大きく,後にティベリウスはゲルマニアに対する作戦を中断し,代わりに内戦をあおることによって,ゲルマン諸族の統合を阻もうとしました。ティベリウスは概して自衛的な外交政策を好み,国境地帯の強化に重点を置きました。この方針はかなりの成功を収め,このようにして「洪水の腕」は制御され,「砕かれ」ました。

      11 どのように『契約の指導者は砕かれ』ましたか。

      11 地のすべての家族を祝福するためにエホバ神がアブラハムと結んだ「契約の指導者」も「砕かれ」ました。その契約の中で約束されたアブラハムの胤は,イエス・キリストのことでした。(創世記 22:18。ガラテア 3:16)イエスは西暦33年ニサン14日,エルサレムのローマ総督の官邸内で,ポンテオ・ピラトの前に立ちました。ユダヤ人の祭司たちは,皇帝に対する反逆のかどでイエスを訴えていました。しかしイエスはピラトにこう述べています。「わたしの王国はこの世のものではありません。……わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。ユダヤ人たちは,ローマ総督がこの無実のイエスを自由にしないようにと,「この男を釈放するなら,あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者は皆,カエサルに反対を唱えているのです」と叫びます。また,イエスの処刑を叫び求めてから,「わたしたちにはカエサルのほかに王はいません」とも言っています。ピラトは“威信の毀損”に関する法律 ― すでにティベリウスが適用範囲を広げ,カエサルに対する事実上すべての侮辱が含まれるようにしていた ― を根拠に,イエスが「砕かれる」,つまり苦しみの杭に付けられるように引き渡しました。―ヨハネ 18:36; 19:12-16。マルコ 15:14-20。

      圧政者が「たくらみを巡らす」

      12 (イ)ティベリウスはだれと盟約を結びましたか。(ロ)ティベリウスはどのようにして,「小さな国民によって強大な者とな(り)」ましたか。

      12 み使いはティベリウスに関する預言をなおも続け,こう語ります。「彼らとの盟約のゆえに彼は欺きを続け,まさに上って来て,小さな国民によって強大な者となる」。(ダニエル 11:23)ローマ元老院のメンバーはティベリウスと法律上の『盟約を結び』,ティベリウスも形式上は元老院に依存していました。しかし,この皇帝は人を欺き,実際には「小さな国民によって強大な者」となりました。その小さな国民とは,ローマの城壁近くに宿営を張っていた,ローマの親衛隊のことです。この親衛隊がすぐそばにいることは元老院にとっては脅威でしたが,ティベリウスはそのおかげで,自分の権威に反逆する民衆のどんな動きも抑えることができました。ですから,ティベリウスは約1万人の親衛隊員によって,強大さを保ったのです。

      13 ティベリウスはどんな点で父祖たちを超えていましたか。

      13 み使いはさらに預言を続けます。「心配なく過ごしている間に,彼はまさにその管轄地域の肥えたところに入り,その父たちまた父の父たちも行なわなかった事を行なう。強奪物と分捕り物と貨財を彼らの間に散らす。そして,防備の施された所に対してたくらみを巡らすが,それはただしばしの間である」。(ダニエル 11:24)ティベリウスは極めて猜疑心が強く,その治世中には指令による殺人が相次ぎました。治世の後半に恐怖がみなぎったことの背後には,おもに,親衛隊の司令官セヤヌスの影響力がありました。結局はセヤヌス自身に嫌疑がかけられ,セヤヌスは処刑されます。民に対する圧政に関して言えば,ティベリウスは父祖たちを超えていました。

      14 (イ)ティベリウスは,どのように,「強奪物と分捕り物と貨財」をローマの各州に散らしましたか。(ロ)ティベリウスは没した時点で,どのようにみなされていましたか。

      14 その一方でティベリウスは,「強奪物と分捕り物と貨財」をローマの各州に散らしました。同帝が没するころまでに,その支配下にあった諸民族はすべて繁栄を享受していました。租税は軽く,ティベリウスは,厳しい時を経験している地域の住民に対して寛大さを示すことができました。兵士や役人たちがだれかを虐げたり,物事の不正な扱いを助長したりすれば,皇帝からの仕返しに遭うことになりました。強大な集中的権力によって治安が維持され,改良の加えられた通信制度が商業を振興させました。ティベリウスは,ローマの内外で物事がきちんと公正かつ着実に施行されるようにしました。法律は改正され,アウグスツス・カエサルの開始した改革が推し進められたことによって,社会的・道徳的規範も強化されました。とはいえ,ティベリウスは,ローマの歴史家タキツスから,うわべを繕うことに長けた偽善者という人物評を与えられるほどに,「たくらみを巡ら(し)」ました。西暦37年3月に没した時点で,ティベリウスは圧政者とみなされていました。

      15 1世紀末から2世紀初頭にかけて,ローマはどんな状況にありましたか。

      15 ティベリウスの後継者で,北の王の役割を担った人としては,ガイウス・カエサル(カリグラ),クラウディウス1世,ネロ,ウェスパシアヌス,ティツス,ドミティアヌス,ネルウァ,トラヤヌス,ハドリアヌスなどがいます。新ブリタニカ百科事典はこう述べています。「アウグスツスの後継者たちは,その大部分がアウグスツスの政策ならびに建設事業を踏襲したが,以前に比して新味に乏しく,虚飾に彩られていた」。同事典はさらに,「ローマの威風と人口が頂点に達したのは,1世紀末から2世紀初頭にかけてであった」と指摘しています。この時期のローマでは,帝国の国境地帯で多少の紛争が見られたものの,ローマにとって,予告されていた南の王との最初の対立は,西暦3世紀まで生じませんでした。

      南の王に対して奮起する

      16,17 (イ)ダニエル 11章25節で言及されている北の王の役割を担ったのはだれですか。(ロ)だれが南の王としての地位を占めるようになりましたか。それにはどのようないきさつがありましたか。

      16 神のみ使いは預言を続けて,こう語ります。「彼[北の王]は大きな軍勢を率い,南の王に対して自分の力と心を奮い起こす。南の王もまた甚だ大きく強大な軍勢を率いてその戦いに奮い立つ。だが,彼[北の王]はこらえて立つことができない。彼に対するたくらみが巡らされるからである。そして,彼の美食を食していた者たちが彼の崩壊をもたらす。また,彼の軍勢についても,それは押し流され,多くの者が打ち殺されて必ず倒れる」― ダニエル 11:25,26。

      17 オクタウィアヌスがエジプトをローマの属州としてから約300年後,北の王の役割を担っていたのは,ローマ皇帝アウレリアヌスでした。一方,南の王の地位を占めていたのは,ローマの植民地パルミラの女王セプティミア・ゼノビアです。a (252ページの「ゼノビア ― 戦士なるパルミラの女王」をご覧ください。)パルミラ軍はエジプトをローマにとって安全な場所にするという口実のもとに,西暦269年,エジプトを占拠します。ゼノビアは,パルミラを東の主要な都市とすることと,ローマの東方諸州を支配することとを望んでいました。アウレリアヌスはこの女王の野心に驚き,「自分の力と心」を奮い起こしてゼノビアに立ち向かいます。

      18 北の王のアウレリアヌス帝と,南の王の女王ゼノビアとの抗争は,どんな結末を迎えましたか。

      18 南の王はゼノビアを頭とする支配的存在として,二人の将軍ザブダスとザバイの指揮する「甚だ大きく強大な軍勢を率いて」,北の王との戦闘に「奮い立(ち)」ました。ところがアウレリアヌスはエジプトを攻め取り,次いで小アジアとシリアへの遠征を開始します。ゼノビアはエメサ(現在のホムス)で敗北を喫し,パルミラに退却します。アウレリアヌスがパルミラ市を攻囲した際,ゼノビアは勇敢に同市の守備に当たりますが,成功には至りません。息子を連れ,ペルシャを目ざして逃亡したゼノビアでしたが,二人共ユーフラテス川であえなくローマ軍に捕らえられてしまいます。パルミラ人が自分たちの都市を明け渡したのは,西暦272年のことでした。アウレリアヌスはゼノビアの命は取らず,西暦274年,ローマを練り歩く凱旋行列の主要な見せ物としています。ゼノビアはローマの貴婦人として余生を送りました。

      19 アウレリアヌスはどのようないきさつを経て,『自分に対するたくらみのゆえに』倒れましたか。

      19 アウレリアヌス自身は,『自分に対するたくらみのゆえに,こらえて立つことができません』でした。西暦275年,ペルシャ人を討つための遠征に出かけたアウレリアヌスは,トラキアで,小アジアに進むべく海峡を渡る機会をうかがっていました。その時,『彼の食物を食した』者たちがたくらみを実行に移し,アウレリアヌスの「崩壊」をもたらしたのです。アウレリアヌスは,不正行為の責任を取らせるため,秘書のエロスを呼び寄せることになっていました。ところが,エロスは死に処すべきある将校たちの名簿を捏造しており,将校たちはこの名簿を見るや,アウレリアヌス暗殺をたくらみ,それを実行に移しました。

      20 北の王の「軍勢」はどのように「押し流され」ましたか。

      20 北の王の歴史は,アウレリアヌス帝の死をもって終わったのではありません。ローマの他の支配者たちがその後に続きます。西の皇帝と東の皇帝が並立した時期もしばらくありました。そうした人たちのもとで,北の王の「軍勢」は「押し流され」,つまり「散らされ」,b 多くの者が,北方のゲルマン諸族の侵入により,『打ち殺されて倒れ』ました。西暦4世紀にはゴート族がローマ国境を突破します。侵入は跡を絶ちませんでした。西暦476年,ゲルマン民族の指導者オドアケルが,ローマから支配した最後の皇帝を退位させます。西ローマ帝国は西暦6世紀の初めまでに壊滅し,ブリタニア,ガリア,イタリア,北アフリカ,イスパニアなどを,ゲルマンの王たちが支配しました。東ローマ帝国は15世紀に入っても存続します。

      大きな帝国が分割される

      21,22 コンスタンティヌスは西暦4世紀にどんな変化をもたらしましたか。

      21 エホバのみ使いは,ローマ帝国の何世紀にも及ぶ崩壊の過程については不必要な詳細を述べることなく,北の王と南の王がさらに行なう目覚ましい事柄について予告します。しかし,ローマ帝国における事態の進展を手短に復習することは,後代の互いに敵対する二人の王の実体を見分ける助けになります。

      22 4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスが,国家として,背教したキリスト教を公認します。この皇帝は西暦325年,小アジアのニカイア教会会議を召集し,自らその会議を主催することまでしています。コンスタンティヌスは後に王宮をローマからビザンティウムつまりコンスタンティノープルに移し,そこを新たな首都としました。ローマ帝国は,皇帝テオドシウス1世が没した西暦395年1月17日まで,単独の皇帝の支配のもとで存続しました。

      23 (イ)テオドシウスの死後,ローマ帝国はどのように分割されましたか。(ロ)東ローマ帝国が終わりを迎えたのはいつですか。(ハ)1517年の時点でだれがエジプトを支配していましたか。

      23 テオドシウスの死後,ローマ帝国はその二人の息子の間で分割されました。ホノリウスが西側を取り,アルカディウスは東側を取ってコンスタンティノープルを首都としました。ブリタニア,ガリア,イタリア,イスパニア,北アフリカなどは西側の区分,マケドニア,トラキア,小アジア,シリア,エジプトは東側の区分に属する諸州でした。西暦642年にエジプトの首都アレクサンドリアがサラセン人(アラブ人)の手に落ちると,エジプトはカリフの属領となります。東の最後の皇帝となったのは,1449年1月に即位したコンスタンティヌス11世でした。1453年5月29日,スルタンのメフメト2世率いるオスマントルコがコンスタンティノープルを攻め取り,東ローマ帝国に終わりをもたらします。エジプトは1517年にトルコの属領となりました。ところが,古代には南の王に属していたこの地も,やがて西側の別の帝国の支配下に入ることになっていました。

      24,25 (イ)ある歴史家たちによれば,神聖ローマ帝国の始まりをしるしづけたのは何ですか。(ロ)神聖ローマ帝国の“皇帝”という称号は結局どうなりましたか。

      24 ローマ帝国内の西側の陣営では,ローマのカトリック司教が台頭しました。注目に値するのは,西暦5世紀に教皇の権威を主張したことで知られる教皇レオ1世です。程なくして教皇は,西側の皇帝を戴冠させるという挙に出ました。西暦800年のクリスマスの日にローマでそれが行なわれ,教皇レオ3世がフランク王カール(シャルルマーニュ)を戴冠させ,新しい西ローマ帝国の皇帝としています。この戴冠はローマにおける皇帝の立場を復活させました。また,一部の歴史家たちによれば,これは神聖ローマ帝国の始まりをしるしづける出来事でした。以来,それぞれキリスト教を標榜する東ローマ帝国と,西の神聖ローマ帝国が併存するようになります。

      25 時の経過と共に,シャルルマーニュの後継者たちは無力な支配者であることが明らかになりました。一時期は皇帝の座が空位となっていたこともあります。一方,ゲルマン(ドイツ)の王オットー1世は,北および中央イタリアの大半を掌握し,イタリア王を自称していました。そこで,教皇ヨハネス12世は西暦962年2月2日,オットー1世に神聖ローマ帝国の帝位を授けました。その首都はドイツにあり,同帝国の皇帝たちはその臣民の大部分と同じドイツ人でした。それから5世紀が経過し,オーストリアのハプスブルク家が“皇帝”の称号を獲得し,神聖ローマ帝国の存続期間中はほとんど,その称号を保持しました。

      再び明確な姿を現わした二人の王

      26 (イ)神聖ローマ帝国の終わりについて,どんなことが言えますか。(ロ)北の王として,だれが登場しましたか。

      26 神聖ローマ帝国に致命的な打撃を加えたのはナポレオン1世でした。ナポレオン1世は1805年にドイツで勝利を収めた後,同帝国の存在を認めようとしなかったのです。皇帝フランツ2世は帝位を守ることができず,1806年8月6日にローマ皇帝の立場を退き,オーストリアの皇帝として自国の政府に戻ります。ローマ・カトリックの教皇レオ3世と,フランク族の王シャルルマーニュが建設した神聖ローマ帝国は,1,006年を経て終わりを告げました。1870年には,ローマが,バチカンから独立したイタリア王国の首都となり,その翌年,カエサルもしくはカイゼルと称されたウィルヘルム1世をもって,ドイツ人の帝国が発足します。現代の北の王 ― ドイツ ― が,このようにして世界の舞台に登場しました。

      27 (イ)エジプトはどのような経過をたどって,英国の保護領となりましたか。(ロ)だれが南の王の地位を占めるようになりましたか。

      27 では,現代の南の王とはだれのことでしょうか。歴史が示すとおり,英国が帝国としての実権を握ったのは17世紀のことでした。ナポレオン1世は英国の通商路を断とうとして,1798年にエジプトを征服しました。その後に戦争が起き,英国とオスマントルコの連合軍は,この抗争の始まりにおける南の王エジプトから,フランス軍を強制撤退させました。それに続く世紀の間,エジプトにおける英国の影響力は増大し,1882年以降のエジプトは,実際には英国の属領でした。第一次世界大戦が勃発した1914年,エジプトはトルコの領地となっており,ヘディーウつまりエジプト副王によって支配されていました。しかし,同大戦でトルコがドイツの側に付いた後,英国はヘディーウを罷免して,エジプトを英国の保護領と宣言します。英国とアメリカ合衆国は徐々に親密な関係を築き上げ,英米世界強国となりました。この両者が一つになって,南の王の地位を占めるようになったのです。

      [脚注]

      a 「北の王」および「南の王」という言い方はいずれも称号であるため,王,女王,国家陣営など,どんな支配的存在をも指すことができます。

      b ものみの塔聖書冊子協会発行,「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」のダニエル 11章26節の脚注をご覧ください。

  • 二人の王の実体は変化する
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • [248-251ページの囲み記事/図版]

      一方は尊ばれ,他方は軽んじられる

      一方は,紛争に明け暮れた共和国を世界帝国へと変身させ,他方は23年間にその国の富を20倍に殖やしました。死んだ時に一方は尊ばれましたが,もう一方は軽んじられました。イエスが生活し,宣教を行なったのは,これら二人のローマ皇帝の治世中のことでした。それらの皇帝とはだれですか。一方は尊ばれたのに,他方がそうでなかったのはなぜですか。

      「ローマは煉瓦の都市だったが,自分はそこに大理石の都市を残した」

      西暦前44年,ユリウス・カエサルが暗殺された時,その妹の孫に当たるガイウス・オクタウィアヌスは弱冠18歳でした。ユリウス・カエサルの養子で,その主要な後継人であった青年オクタウィアヌスは,自分の相続権を主張すべく,直ちにローマへ旅立ちます。ローマで出くわした手ごわい相手 ― それは,カエサルの副司令で,第一の後継者と目されていたマルクス・アントニウスでした。その後の政略と権力闘争は13年に及びます。

      オクタウィアヌスがローマ帝国の押しも押されもせぬ支配者となったのは,エジプトの女王クレオパトラとその愛人マルクス・アントニウスの連合軍を破って(西暦前31年)からでした。その明くる年,アントニウスとクレオパトラが自害して果て,オクタウィアヌスはエジプトを併合します。このようにしてギリシャ帝国の名残をとどめる最後のものも除き去られ,ローマが世界強国になりました。

      オクタウィアヌスは,ユリウス・カエサルの暗殺された原因が独裁権力の行使にあったことを忘れず,その轍を踏まないよう注意を払いました。共和制を好むローマの感情を害さないようにするため,君主制の実質を共和制の外観で装いました。また,「王」や「独裁者」という称号を退けただけでなく,さらに進んで,すべての属州に対する管理をローマ元老院にゆだねるつもりであることを公表し,自分の役職を辞する意図を明らかにしました。この戦術は功を奏し,元老院は感謝して,オクタウィアヌスがその地位を保ち,属州の一部を管理し続けるよう強く要請しました。

      さらに,西暦前27年1月16日,元老院はオクタウィアヌスに,「高められた者,神聖な者」を意味する「アウグスツス」(Augustus)の称号を授与しました。オクタウィアヌスはその称号を受け入れただけでなく,ある月の名称を自分にちなんだものに改めました。さらに,2月から一日を取って,8月(August)が,ユリウス(Julius)・カエサルにちなんだ名を持つ7月(July)と同じ日数を持つようにしました。このようにしてオクタウィアヌスはローマの初代皇帝となり,その後はカエサル・アウグスツスもしくは「尊厳者」として知られるようになりました。後に「ポンティフェクス・マクシムス」(大神官)とも称するようになり,西暦前2年,つまりイエスが誕生した年には,元老院から「国父」を意味するパテル・パトリアエという称号を与えられました。

      同年,「人の住む全地に登録を命ずる布告がカエサル・アウグスツスから」出ました。それで,「すべての人が登録をするため,それぞれ自分の都市に旅立(ち)」ました。(ルカ 2:1-3)この布告の結果,イエスは聖書預言の成就として,ベツレヘムで生まれました。―ダニエル 11:20。ミカ 5:2。

      アウグスツスの治政の特色は,ある程度の正直さと安定した通貨でした。さらにアウグスツスは効率的な郵便制度を設け,道路や橋も造っています。軍隊を再編し,常設海軍を置き,親衛隊として知られる,皇帝警護の精鋭部隊を設立しました。(フィリピ 1:13)アウグスツスの庇護のもとで,ウェルギリウスやホラティウスといった文筆家が活躍し,建築家たちは,今でいう古典的なスタイルで美しい作品を造り上げました。アウグスツスは,ユリウス・カエサルが完成を思い見て果たせなかった建物を仕上げ,数多くの神殿を修復しています。同帝が言い出したパックス・ロマーナ(「ローマの平和」)は200年以上持続しました。西暦14年8月19日,アウグスツスは76歳で没し,その後は神格化されました。

      「ローマは煉瓦の都市だったが,自分はそこに大理石の都市を残した」と自賛したのは,アウグスツスです。ローマが,紛争に明け暮れた以前の共和制に戻ることを望まなかったアウグスツスは,次の皇帝の育成を志しました。ところが,後継者に関しては選択の余地がほとんどなく,甥が一人,孫が二人,婿が一人,義理の息子が一人死亡していたため,後継ぎとして残されていたのは,継子のティベリウスだけでした。

      「軽んじられた者」

      アウグスツスの死後1か月もたたないうちに,ローマ元老院は54歳のティベリウスを皇帝に指名しました。ティベリウスは西暦37年3月まで生きて支配したので,イエスの公の宣教期間中にローマ皇帝として君臨したのはティベリウスでした。

      皇帝としてのティベリウスには,美徳と悪徳の両面がありました。美徳の一つは,贅沢なものにお金を使いたがらなかったことです。結果的に帝国は繁栄し,皇帝のもとには,災害時や困難な時期に復興を援助する基金がありました。評価できる点として,ティベリウスは自分を単なる人間とみなし,多くの名誉称号を退け,皇帝崇拝を自分自身ではなく,概してアウグスツスに向けさせました。アウグスツスやユリウス・カエサルが自分のために行なったような,カレンダー上の一つの月に自分にちなんだ名前を付けることもなく,他の人たちがそのようにして皇帝を尊ぶことも許しませんでした。

      しかし,ティベリウスの場合,目立っていたのは美徳よりも悪徳のほうでした。人の扱い方には非常に猜疑心の強い偽善的な面があり,その治世には,指令に基づく殺人が非常に多く行なわれました。殺された人たちの中には,ティベリウスの以前の友人が数多く含まれていました。同帝は不敬罪<レズ・マエスト>(威信の毀損)に関する法律の適用範囲を広げ,扇動行為に加えて,ティベリウス自身に対する誹謗にすぎないものもそこに含まれるようにしました。多分ユダヤ人はこの法律を根拠にして,ローマ総督ポンテオ・ピラトに圧力をかけ,イエスを殺させたのでしょう。―ヨハネ 19:12-16。

      ティベリウスは,防備を固めた兵舎を市の城壁の北に建てることにより,親衛隊をローマの近辺に集中させました。親衛隊の存在は,皇帝の力を脅かしていたローマ元老院を威圧し,民衆のいかなる無法な動きも抑え込みました。さらにティベリウスが密告の制度を奨励したため,同帝による支配の後期には恐怖が広がりました。

      ティベリウスは死んだ時,圧政者とみなされていました。その死をローマ人は歓び,元老院はティベリウスの神格化を拒みました。このような理由により,「軽んじられた者」が「北の王」として立ち上がると述べる預言は,ティベリウスに成就したことが分かります。―ダニエル 11:15,21。

      どのような理解が得られましたか

      • オクタウィアヌスがローマの初代皇帝になったいきさつは,どのようなものですか

      • アウグスツスによる治政が成し遂げたことについては,何と言えますか

      • ティベリウスには,どのような美徳と悪徳がありましたか

      • 「軽んじられた者」に関する預言は,どのようにティベリウスに成就しましたか

      [図版]

      ティベリウス

      [252-255ページの囲み記事/図版]

      ゼノビア ― 戦士なるパルミラの女王

      「その肌は浅黒かった。……その歯は真珠のように白く,その大きな黒い瞳は,ただならぬ輝きを放っていたが,人を魅了する美しさがそれを和らげていた。その声はよく通り,耳に快かった。男性的なその理解力は,勉学によって強化され,より魅力あるものとなっていた。ラテン語に疎かったわけではないが,ギリシャ語,シリア語,エジプト語は等しく堪能の域に達していた」。歴史家エドワード・ギボンはそのように述べて,シリアの都市パルミラの戦士なる女王ゼノビアを称賛しました。

      ゼノビアの夫はパルミラの貴族でオダエナトゥスといい,ローマ帝国のために行なったペルシャ遠征を首尾よく果たしたことから,西暦258年にローマの執政官<コンスル>の地位を与えられました。その2年後,オダエナトゥスはローマ皇帝ガリエヌスから,コレクトール トーティウス オリエンティス(東方の行政総監督官)の称号を授与されます。ペルシャの王シャープール1世制圧の功績を認められたのです。やがてオダエナトゥスは「王の王」と名乗るようになります。オダエナトゥスのそうした一連の成功は,かなりの程度,ゼノビアの勇気と慎重さに依存していたと言えるかもしれません。

      ゼノビアは帝国の建設を志す

      オダエナトゥスは人生の最盛期にあった西暦267年,後継ぎと共に暗殺されます。ゼノビアは自分の息子の年齢が低すぎたので,自ら夫の地位を継承しました。美しく,覇気があり,為政者としての手腕に恵まれ,夫と共に遠征することに慣れており,数か国語を流ちょうに話せたゼノビアは,首尾よく臣民からの敬意と支持を集めます。ゼノビアは学問を愛し,識者たちを周りに侍らせました。ゼノビアの相談役の一人に,「生きた図書館,歩く博物館」と言われた哲学者で修辞学者のカッシウス・ロンギヌスがいます。「パルミラとその帝国 ― ローマに対するゼノビアの反乱」(英語)という本の中で,著者のリチャード・ストーンマンは次のように述べています。「オダエナトゥスの死後5年間で……ゼノビアは,民の心の中に東方の女王としての地歩を固めた」。

      ゼノビアの領土の一方の側には,夫と二人で弱体化させたペルシャが,もう一方の側には,崩壊しかかったローマがありました。当時のローマ帝国の状況について,歴史家J・M・ロバーツは,こう述べています。「3世紀,……ローマは東西の辺境で多難な時期を迎えた。その一方で,ローマ国内では内戦と継承争いの新たな時代が始まっていた。22人の皇帝(詐称者は除く)が現われては去っていった」。一方,シリアの女王のほうは,自国で専制君主としての確固たる地位を占めていました。「二つの帝国[ペルシャとローマ]の均衡を図りながら,ゼノビアは,その両方を支配する第3の帝国の建設を志すことができた」と,ストーンマンは言っています。

      西暦269年,王権を拡張する機会がゼノビアに開かれました。ローマの支配権に抵抗する詐称者がエジプトに現われたのです。ゼノビアの軍隊はすばやくエジプトに進軍して反乱を制圧し,エジプトを占領しました。ゼノビアは自らをエジプトの女王と宣言し,自分の名を刻んだ硬貨を鋳造しました。その王国は今やナイル川からユーフラテス川にまで広がりました。ゼノビアは生涯のこの時点で,「南の王」の地位を占めるようになりました。―ダニエル 11:25,26。

      ゼノビアの首都

      ゼノビアが首都パルミラを強固にし,美しく飾ったので,そこはローマ世界における大都市の一つに数えられるまでになりました。人口は15万人を上回ったと推定されています。周囲21㌔と言われる壁に囲まれた都市パルミラは,豪華な公共建造物,神殿,庭園,柱,記念碑などで埋め尽くされました。大通りには柱廊があり,高さ15㍍余りのコリント式円柱,約1,500本が立ち並びました。都市の至るところに,英雄や裕福な篤志家たちの像とか胸像が立っていました。西暦271年にゼノビアは,自分と亡夫をかたどった一対の彫像を建てました。

      太陽神殿はパルミラにおけるひときわ立派な建造物の一つで,同市の宗教界の中心的存在だったに違いありません。ゼノビア自身も太陽神とゆかりのある神を崇拝していたのかもしれません。しかし,3世紀のシリアは多くの宗教のひしめく国でした。ゼノビアの領土には,クリスチャンと公言する人,ユダヤ人,太陽や月の崇拝者などがいました。ゼノビアはこれら多種多様な崇拝に対して,どのような態度を取ったでしょうか。著述家のストーンマンは,「賢い支配者は,民にふさわしいと思えるどんな習慣も軽視しない。……すでに神々はパルミラの側に結集していると……期待されていたのである」と述べています。ゼノビアは宗教的には寛容だったようです。

      ゼノビアはその華やかな個性により,多くの人から称賛を得ました。最も重要なのは,ダニエルの預言の中で予告されていた政治的存在としての役割を担うということでした。とはいえ,その治世は5年しか続きませんでした。ローマ皇帝アウレリアヌスは西暦272年にゼノビアを破ると,すぐさまパルミラを略取し,再起不能な状況に陥れました。ゼノビアは寛大な扱いを受けました。ローマの元老院議員と結婚し,世間とは交渉を持たずに余生を送ったと言われています。

      どのような理解が得られましたか

      • ゼノビアの性格はどのように描かれてきましたか

      • ゼノビアは,どのような目覚ましい事柄を成し遂げましたか

      • ゼノビアは宗教に対してどんな態度を取りましたか

      [図版]

      兵士に向かって話す女王ゼノビア

      [246ページの図表/図版]

      ダニエル 11章20-26節に出てくる王たち

      北の王 南の王

      ダニエル 11:20 アウグスツス

      ダニエル 11:21-24 ティベリウス

      ダニエル 11:25,26 アウレリアヌス 女王ゼノビア

      予告された ゲルマン民族の 英国と,

      ローマ帝国の 帝国 その後の

      崩壊によって 英米世界強国

      形成されたもの

      [写真]

      ティベリウス

      [写真]

      アウレリアヌス

      [写真]

      シャルルマーニュの小彫像

      [写真]

      アウグスツス

      [図版]

      17世紀の英国の軍艦

      [230ページ,全面図版]

      [233ページの写真]

      アウグスツス

      [234ページの写真]

      ティベリウス

      [235ページの図版]

      アウグスツスの布告により,ヨセフとマリアはベツレヘムへ旅をした

      [237ページの図版]

      予告どおり,イエスは「砕かれ(て)」死んだ

      [245ページの図版]

      1. シャルルマーニュ 2. ナポレオン1世 3. ウィルヘルム1世 4. ドイツの兵士たち,第一次世界大戦

  • 互いに敵対する王たちは20世紀に突入する
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 第15章

      互いに敵対する王たちは20世紀に突入する

      1 ある歴史家は,19世紀ヨーロッパの指導者はだれであったと述べていますか。

      歴史家ノーマン・デーヴィスは,「19世紀ヨーロッパには,それ以前に知られていた何物もはるかに及ばない活力が見られる」と書き,さらにこう述べています。「ヨーロッパは様々な力によって,つまり,科学技術の力,経済の力,文化の力,大陸間の力などによって,かつてなく激しく揺れ動いた」。デーヴィスによれば,「ヨーロッパにおける揚々たる“力の世紀”」の指導者となったのは「第一に大英帝国であり……後の何十年かはドイツ」でした。

      『悪を行なうことに傾く』

      2 19世紀の終わりに,「北の王」および「南の王」の役割を担っていたのは,それぞれどの強国ですか。

      2 19世紀が終わろうとしていたころ,「北の王」となっていたのはドイツ帝国であり,英国は「南の王」の立場にありました。(ダニエル 11:14,15)エホバのみ使いはこう述べました。「これら二人の王は,その心を悪を行なうことに傾け,一つの食卓について偽りを語り合う」。み使いの言葉は続きます。「しかし何事も成功しないであろう。終わりはなお定めの時に臨むのである」。―ダニエル 11:27。

      3,4 (イ)ドイツ帝国の初代皇帝となったのはだれですか。どんな同盟が結ばれましたか。(ロ)カイゼル・ウィルヘルムはどんな政策を取りましたか。

      3 ウィルヘルム1世がドイツ帝国の初代皇帝になったのは1871年1月18日のことでした。同皇帝はオットー・フォン・ビスマルクを宰相に任じます。その新しい帝国の発展を目ざしていたビスマルクは,他国との衝突を避け,オーストリア-ハンガリーおよびイタリアと組んで,いわゆる三国同盟を結びました。しかし,この新たな北の王の関心事が南の王の関心事と対立するまでに,長い時間はかかりませんでした。

      4 1888年にウィルヘルム1世とその後継者フリードリヒ3世が死ぬと,29歳のウィルヘルム2世が皇帝の座に就きます。ウィルヘルム2世つまりカイゼル・ウィルヘルムはビスマルクを辞任に追い込み,ドイツの影響力を世界全体に広げるという政策を取りました。「ウィルヘルム2世のもとで,[ドイツは]尊大かつ好戦的な態度を取った」と,一歴史家は述べています。

      5 二人の王はどのように「一つの食卓」につきましたか。そこで何を語りましたか。

      5 ロシアの皇帝ニコライ2世が1898年8月24日,オランダのハーグに平和会議を招集した際,その場には国際的な緊張感がただよいました。この時の会議と,その後1907年に開かれた会議により,常設仲裁裁判所がハーグに設立されました。ドイツ帝国も大英帝国も,この裁判所の加盟国となることにより,表向きは平和を好む者のようになりました。表面は仲良く「一つの食卓に」つきますが,両者は「その心を悪を行なうことに傾け」ます。『一つの食卓について偽りを語る』という外交戦術には,真の平和を促進する力がありませんでした。それらの王の政治的,商業的,軍事的野心に関しては,『何事も成功しません』。二人の王の終わりは,「なお[エホバ神の]定めの時に臨む」からです。

      「聖なる契約に逆らう」

      6,7 (イ)北の王が「自分の土地に戻る」とは,どのような意味でしたか。(ロ)南の王は,拡張する北の王の影響力に,どのように対抗しましたか。

      6 神のみ使いは言葉を続け,こう語ります。「そして彼[北の王]は大量の貨財を携えて自分の土地に戻る。その心は聖なる契約に逆らう。そして彼は効果的に行動し,必ず自分の土地に戻る」― ダニエル 11:28。

      7 カイゼル・ウィルヘルムは古代の北の王の「土地」に,つまり地上における状態に戻りました。どのようにでしょうか。ドイツ帝国を拡張し,その影響力を拡大するという意図のもとに,帝国による支配を強化したのです。ウィルヘルム2世はアフリカその他の場所で,植民地化を図る活動を推し進めます。海洋における英国の覇権に挑戦すべく,強力な海軍も設置しました。新ブリタニカ百科事典(英語)は,「ドイツの海軍力は,当初は無視できる程度だったのが,10年そこそこの間に,英国に次ぐ地位にまで伸張した」と述べています。英国は覇権を維持するため,自国の海軍拡張計画の実施を余儀なくされます。英国はフランスと和親協商を,ロシアともそれに類似した協定を結び,三国協商を成立させます。事ここに及び,ヨーロッパは片や三国同盟,片や三国協商という二つの陣営に分割されます。

      8 ドイツ帝国はどのようにして,「大量の貨財」を得るようになりましたか。

      8 ドイツ帝国は攻撃的な政策を取ったため,自国のために「大量の貨財」を得ることになりました。三国同盟の盟主であったからです。オーストリア-ハンガリーとイタリアはローマ・カトリックでした。ですから,三国同盟もまたローマ法王の好意を得ましたが,南の王,ならびに大部分が非カトリックの三国協商はそうではありませんでした。

      9 北の王はどのように,心の中で「聖なる契約に逆ら(い)」ましたか。

      9 エホバの民はどうかというと,長い間,「諸国民の定められた時」が1914年に終わるということをふれ告げていました。a (ルカ 21:24)その年,ダビデ王の相続者イエス・キリストの手中にある神の王国が天に設立されました。(サムエル第二 7:12-16。ルカ 22:28,29)1880年3月当時,「ものみの塔」誌は神の王国の支配を,「諸国民の定められた時」つまり「異邦人の時」(ジェームズ王欽定訳)の終結と関連づけました。しかし,北のドイツの王の心は,『聖なる王国の契約に逆らって』いました。カイゼル・ウィルヘルムは,その王国の支配を認めるどころか,世界制覇のための独自の策略を促進することにより,「効果的に行動し」ました。ところがこの王はそうすることにより,第一次世界大戦の種をまいたのです。

      王は戦争で「失意」させられる

      10,11 第一次世界大戦はどのようにして始まりましたか。どのような意味で,それは「定めの時に」生じましたか。

      10 み使いはこのように予告します。「定めの時に彼[北の王]は戻って行き,南に向かってまさに攻め寄せる。しかし,後の時は初めの時と同じにはならないであろう」。(ダニエル 11:29)地に対する異邦人の支配を終わらせる神の「定めの時」は,神が天の王国を樹立された1914年に到来しました。その年の6月28日,オーストリアの大公フランツ・フェルディナントとその妻が,ボスニアのサラエボでセルビア人のテロリストに暗殺され,この事件をきっかけに第一次世界大戦が勃発します。

      11 カイゼル・ウィルヘルムは,セルビアへの返報をオーストリア-ハンガリーに迫ります。ドイツの確実な支援を取り付けたオーストリア-ハンガリーは,1914年7月28日,セルビアに宣戦を布告しました。ところがロシアはセルビアを援助し,ドイツがロシアに宣戦布告をすると,フランス(三国協商の一角)がロシアを支援します。そこで今度はドイツがフランスに宣戦を布告し,パリへの接近を容易にするため,英国によって中立が保証されていたベルギーに侵攻します。それで英国がドイツに宣戦を布告します。巻き込まれた国々はほかにもあり,イタリアは寝返りました。大戦中,英国はエジプトを保護領としました。それは,北の王がスエズ運河の通行を遮断して,古代の南の王が治めたエジプトの地に侵入するのを阻むためでした。

      12 第一次世界大戦中,どんな点で,物事は「初めの時と同じ」にはなりませんでしたか。

      12 「同盟国側の規模と兵力にもかかわらず,ドイツの勝利はほぼ確実に見えた」と,ワールドブック百科事典(英語)は述べています。以前の二人の王の抗争では,北の王であったローマ帝国が一貫して勝利を収めました。ところが今回の『物事は,初めの時と同じようでは』ありませんでした。北の王は戦争に負けました。み使いは次のように述べて,その理由を示します。「彼に対してキッテムの船が必ず攻め寄せる。彼は必ず失意させられる」。(ダニエル 11:30前半)「キッテムの船」とは何のことですか。

      13,14 (イ)北の王に攻め寄せた「キッテムの船」とは,主に何のことでしたか。(ロ)第一次世界大戦が続く中,数の増えたキッテムの船がどのように現われましたか。

      13 ダニエルの時代,キッテムとはキプロスのことでした。第一次世界大戦の初期,キプロスは英国に併合されました。さらに,「ゾンダーバン図解聖書百科事典」(英語)によると,キッテムという名称の「意味は拡大されていて,西[洋の国々]一般,特[に],海に生きる西[洋の国々]をも含む」とされています。新国際訳は「キッテムの船」という表現を「西部の沿岸地帯の船」と訳出しています。第一次世界大戦中,キッテムの船は主に,ヨーロッパの西岸沖に浮かぶ英国の船でした。

      14 戦争が長期化する中で,英国海軍は数の増えたキッテムの船によって強化されました。1915年5月7日,ドイツの潜水艦U-20は客船ルシタニア号をアイルランドの南の沖で沈没させます。死者の中には128人のアメリカ人が含まれていました。その後ドイツが潜水艦戦を大西洋に広げたため,米国の大統領ウッドロー・ウィルソンは1917年4月6日,ドイツに宣戦を布告します。米国の戦艦と軍隊によって増強された南の王 ― この時点では英米世界強国 ― は,敵対する王との全面戦争に突入します。

      15 北の王はいつ「失意」させられましたか。

      15 英米世界強国の襲撃に遭った北の王は「失意」させられ,1918年11月に敗北を認めました。ウィルヘルム2世はオランダへ亡命し,ドイツは共和国になりました。しかし北の王は,それで終わったわけではありません。

      王は「効果的に」活動する

      16 預言によれば,北の王は敗北に対して,どのような反応を示しますか。

      16 「彼[北の王]はまさに戻って行って聖なる契約をひぼうし,効果的に行動する。また戻って行って,聖なる契約を離れる者たちに考慮を払う」。(ダニエル 11:30後半)み使いはそう預言しました。そして実際そのとおりになりました。

      17 どのようなことからヒトラーが台頭しましたか。

      17 大戦終結後の1918年,勝利を収めた連合国は,ドイツに懲罰的な講和条約を課しました。ドイツ人はその条約の条項を過酷と感じ,発足したばかりの共和国は当初から不安定でした。ドイツは数年間,極度に逼迫した状況のもとでよろめき,大恐慌に見舞われました。その結果,600万人が職を失いました。1930年代の初めまでに,アドルフ・ヒトラー台頭の機は熟していました。ヒトラーは1933年の1月に首相となり,翌年には,ナチスが言うところの第三帝国の総統の地位に就きました。b

      18 ヒトラーはどのように「効果的に行動」しましたか。

      18 ヒトラーは政権を握るが早いか,イエス・キリストの油そそがれた兄弟たちによって代表される「聖なる契約」に,残忍な攻撃を加え始めます。(マタイ 25:40)そのようにしてヒトラーは,これら忠節なクリスチャンたちに対して「効果的に」行動し,残虐にもその多くを迫害しました。ヒトラーは経済面でも外交面でも成功を収め,それらの分野でも「効果的に」行動しました。数年もたたないうちにヒトラーは,ドイツを世界の舞台における名立たる大国としました。

      19 支援を求めて,ヒトラーはだれに誘いをかけましたか。

      19 ヒトラーは「聖なる契約を離れる者たちに考慮を」払いました。どんな者たちのことですか。それは,神との契約関係にあると唱えながら,イエス・キリストの弟子であることをやめてしまった,キリスト教世界の指導者たちのことと思われます。ヒトラーは「聖なる契約を離れる者たち」に呼びかけて,その支援を得ることに成功しました。例えば,ローマ法王との政教条約を締結し,1935年には教会省を創設しました。その目的の一つは,福音教会を国家の管理のもとに置くことでした。

      「腕」が王から出る

      20 北の王は,どんな「腕」を,だれに対して用いましたか。

      20 み使いの予告にたがわず,ヒトラーは程なくして戦争に赴きました。「彼から出る腕があって立ち上がる。そうして彼らは聖なる所を,要害をまさに汚し,常供のものをも除き去る」。(ダニエル 11:31前半)この「腕」とは,第二次世界大戦中に北の王が南の王と戦うために用いた軍事力のことです。1939年9月1日にナチの「腕」がポーランドに侵攻しました。その二日後,英国とフランスがポーランドを援助するためドイツに宣戦を布告します。こうして第二次世界大戦が始まりました。ポーランドはすぐに倒れ,その少し後にドイツ軍は,デンマーク,ノルウェー,オランダ,ベルギー,ルクセンブルク,フランスを占領します。「1941年の終わりに,ナチ・ドイツはヨーロッパ大陸を制御した」と,ワールドブック百科事典は述べています。

      21 第二次世界大戦中,北の王の形勢はどのように悪化しましたか。その結果どうなりましたか。

      21 ドイツとソビエト連邦の間で,友好と協力と境界設定に関する条約が調印されていたにもかかわらず,ヒトラーは1941年6月22日にソ連の領土に侵攻します。ソビエト連邦はこの行動を契機に英国の側に付きました。当初ドイツの軍隊は快進撃を遂げますが,その中でソ連軍は粘り強く抵抗します。1941年12月6日,予測に反してドイツ軍はモスクワで敗北を被りました。その翌日,ドイツの同盟国であった日本がハワイの真珠湾を爆撃します。このことを知ったヒトラーは,「もはや我々が戦争に負けることは不可能だ」と,側近に語っています。12月11日,ヒトラーは米国に対して性急な宣戦布告を行ないますが,ソビエト連邦と米国の力をあなどっていました。ソ連軍が東から攻撃をかけ,英米の軍隊が西から攻囲するに及んで,ヒトラーの形勢はたちまち悪化しました。ドイツの軍隊は次々に領土を失い始め,ヒトラーが自殺した後の1945年5月7日,ドイツは連合軍に降伏します。

      22 北の王はどのように『聖なる所を汚し,常供のものをも除き去り』ましたか。

      22 「彼ら[ナチの腕]は聖なる所を,要害をまさに汚し,常供のものをも除き去る」と,み使いは述べました。古代のユダにおいて,聖なる所はエルサレムの神殿の一部でした。しかし,ユダヤ人がイエスを退けた時,エホバはユダヤ人とその神殿を退けました。(マタイ 23:37–24:2)西暦1世紀以降いまに至るまで,エホバの神殿とは,実際には霊的な神殿のことです。その神殿の聖の聖なる所は天に,霊的な中庭は地上にあって,大祭司イエスの油そそがれた兄弟たちは,その中庭で奉仕します。1930年代以後,「大群衆」は油そそがれた残りの者と共に崇拝を行なってきました。それゆえ大群衆は『神の神殿で』奉仕している,と言われています。(啓示 7:9,15; 11:1,2。ヘブライ 9:11,12,24)北の王は,その管理下にある国々において,油そそがれた残りの者とその仲間たちを容赦なく迫害することにより,神殿の地上の中庭を汚してきました。その迫害は激しく,「常供のもの」― エホバのみ名に対する賛美の犠牲 ― が除き去られたほどでした。(ヘブライ 13:15)それでも,第二次世界大戦中,忠実な油そそがれたクリスチャンたちは,甚だしい苦しみにもかかわらず,「ほかの羊」と共に宣べ伝える業を続けました。―ヨハネ 10:16。

      『嫌悪すべきものが据えられる』

      23 1世紀の場合,「嫌悪すべきもの」とは何でしたか。

      23 第二次世界大戦の終わりが近づいたころ,神のみ使いの予告どおり,もう一つの出来事がありました。「彼らは荒廃をもたらす嫌悪すべきものを必ず据える」のです。(ダニエル 11:31後半)イエスも「嫌悪すべきもの」について述べておられました。西暦1世紀の場合,それは,ユダヤ人の反乱を鎮圧するため西暦66年にエルサレムにやって来たローマ軍でした。c ―マタイ 24:15。ダニエル 9:27。

      24,25 (イ)現代における「嫌悪すべきもの」は何ですか。(ロ)いつ,どのように,『嫌悪すべきものが据えられ』ましたか。

      24 現代の場合,どんな「嫌悪すべきもの」が『据えられて』きたでしょうか。それは,神の王国の,「嫌悪すべき」まがい物と言えるでしょう。それは,第二次世界大戦が勃発した時に,世界平和をもたらす機構としては存在しなくなり,底知れぬ深みに入れられた緋色の野獣,つまり国際連盟でした。(啓示 17:8)しかし,その「野獣」は『底知れぬ深みから上る』ことになっていました。それが生じたのは,旧ソビエト連邦を含む50か国の加盟する国際連合が設立された1945年10月24日のことでした。このようにして,み使いの予告した「嫌悪すべきもの」― 国際連合 ― が据えられました。

      25 ドイツは二つの世界大戦の間中,南の王の主だった敵であり,北の王の立場を占めていました。では,次にその立場を占めるのはだれでしょうか。

  • 互いに敵対する王たちは20世紀に突入する
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • [268ページの図表/写真]

      ダニエル 11章27-31節に出てくる王たち

      北の王 南の王

      ダニエル 11:27-30前半 ドイツ帝国 英国,およびその後の

      (第一次世界大戦) 英米世界強国

      ダニエル 11:30後半,31 ヒトラーの第三帝国 英米世界強国

      (第二次世界大戦)

      [写真]

      大統領ウッドロー・ウィルソンと王ジョージ5世

      [写真]

      多くのクリスチャンが強制収容所で迫害された

      [写真]

      キリスト教世界の指導者たちはヒトラーを支援した

      [写真]

      フェルディナント大公はこの自動車の上で暗殺された

      [写真]

      ドイツ人兵士,第一次世界大戦

      [257ページの写真]

      1945年,ヤルタにおいて,英国の首相ウィンストン・チャーチル,米国の大統領フランクリン・D・ルーズベルト,ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンは,ドイツ占領,ポーランド新政府樹立,国際連合設立に向けた会議の開催に関して合意に達した

      [258ページの写真]

      1. フェルディナント大公 2. ドイツ海軍 3. 英国海軍 4. ルシタニア号 5. 米国の宣戦布告

      [263ページの写真]

      アドルフ・ヒトラーは,戦時の同盟国日本が真珠湾を爆撃した後,勝利を確信した

  • 競い合う王たちの終わりが近づく
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • 第16章

      競い合う王たちの終わりが近づく

      1,2 第二次世界大戦の後,北の王の実体はどのように変化しましたか。

      フランスの哲学者で歴史家のアレクシー・ド・トクビルは,米国とロシアの政治情勢について考察し,1835年にこう書きました。「一方には,行動の主要な方策として自由があるが,もう一方に存在するのは隷属である。両者の……道は異なっている。それでいながら,どちらも摂理という一種のひそかなる意向により,いつの日か,世界の一半の運命を自らの手中に収めるよう召されているかに見える」。第二次世界大戦後,この予言はどれほど的中していたでしょうか。歴史家J・M・ロバーツは次のように書いています。「第二次世界大戦の終わりに,世界の運命はついに,全く異なる二つの強大な権力機構によって制御される様相をまさに深めた。一方はかつてのロシア,一方はアメリカ合衆国に基盤を置く機構である」。

      2 二つの世界大戦を通じて,南の王である英米世界強国の主要な敵となったのはドイツでした。ドイツは北の王の立場を占めていました。ところが第二次世界大戦後,この国は分割されます。西ドイツは南の王の同盟国となり,東ドイツは別の強力な存在 ― ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営 ― に組しました。この陣営もしくは政治的存在は北の王として立ち上がり,英米の同盟に激しく敵対しました。さらに,これら二人の王の敵対関係は冷戦へと発展し,1948年から1989年までそれが続きました。北の王であったドイツは,かつて「聖なる契約に逆ら(って)」行動しました。(ダニエル 11:28,30)共産主義陣営はこの契約に関して,どのように行動するのでしょうか。

      真のクリスチャンは,つまずきながらも優勢になる

      3,4 「契約に対してよこしまな行動をしている」者たちとはだれのことですか。その者たちは北の王とどのような関係を持ってきましたか。

      3 神のみ使いはこう述べました。「契約に対してよこしまな行動をしている者たちを,彼[北の王]は滑らかな言葉で背教に導き入れる」。み使いの言葉は続きます。「しかし,自分たちの神を知っている民は,優勢になり,効果的に行動する。そして,民のうち洞察力のある者たちは,多くの者に理解を分かつ。また彼らは,剣と炎により,捕らわれと強奪とによって幾日かのあいだ必ずつまずきに渡される」。―ダニエル 11:32,33。

      4 「契約に対してよこしまな行動をしている」者たちが,キリスト教世界の指導者以外を指すとは考えられません。その者たちはクリスチャンと唱えてはいても,自らの行動によって,キリスト教の名そのものを汚します。ワルター・コラーズは自著「ソ連の宗教」(英語)の中で,「[二度目の世界大戦の間,]ソ連政府は母国を守るため,諸教会に物質面と道徳面での援助を求める努力を払った」と述べています。戦後,教会の指導者たちは,すでに北の王となっていたこの強国の無神論的な政策にもかかわらず,ここに述べたような友好関係の維持に努めました。このようにしてキリスト教世界は,以前に倍してこの世のものとなりました。それは,エホバの目に嫌悪すべき背教でした。―ヨハネ 17:16。ヤコブ 4:4。

      5,6 「自分たちの神を知っている民」とはだれのことですか。その民は北の王のもとで,どのような生活を送りましたか。

      5 では,真のクリスチャン,つまり「自分たちの神を知っている民」で,「洞察力のある者たち」についてはどうでしょうか。北の王のもとで生活するクリスチャンも,ふさわしく「上位の権威に服(し)」ていたとはいえ,この世のものではありませんでした。(ローマ 13:1。ヨハネ 18:36)よく注意して「カエサルのものはカエサルに」返しましたが,同時に「神のものは神に」返しました。(マタイ 22:21)そのため,クリスチャンの忠誠は厳しく試みられました。―テモテ第二 3:12。

      6 その結果として,真のクリスチャンは「つまずき」ながらも「優勢になり」ました。つまずいたと言えるのは,厳しい迫害を受け,中には殺された人さえいたからです。しかし,大多数の人たちが忠実を保ったという意味では,優勢になりました。イエスと同じように,世を征服したのです。(ヨハネ 16:33)さらに言えば,刑務所や強制収容所にいるときでも,決して宣べ伝えることをやめませんでした。そのようにして,「多くの者に理解を分か(ち)」ました。北の王の支配する国々の大半で迫害が生じていても,エホバの証人の数は増加しました。「洞察力のある者たち」の忠実さは実を結び,それらの国々では「大群衆」に属する人の数が増え続けました。―啓示 7:9-14。

      エホバの民は精錬される

      7 北の王のもとで生活する油そそがれたクリスチャンは,どんな「多少の助け」を得ましたか。

      7 「つまずきに渡されている時,彼ら[神の民]は多少の助けによって助けられる」と,み使いは述べました。(ダニエル 11:34前半)二度目の世界大戦における南の王の勝利は,その王のライバルのもとで生活するクリスチャンに,ある程度の解放をもたらしていました。(啓示 12:15,16と比較してください。)同じように,その後を継いだ王に迫害されていた人たちも,解放を経験することが時々ありました。冷戦が終わろうとしている中で,多くの指導者たちは,忠実なクリスチャンが危険な存在ではないことを悟るようになり,それらのクリスチャンに法的認可を与えました。また,数の膨れ上がる大群衆からも助けがありました。油そそがれた者たちの忠実な宣べ伝える業にこたえ応じて,その者たちを助けたのです。―マタイ 25:34-40。

      8 一部の人たちは,「滑らかさによって」,どのように神の民に加わりましたか。

      8 冷戦期間中,神への奉仕に関心があると公言したすべての人が,良い動機を抱いていたわけではありません。み使いは,「多くの者が滑らかさによって彼らに加わる」と,警告を発していました。(ダニエル 11:34後半)真理に対する関心を示したものの,神に献身することを渋った人は少なくありませんでした。さらに,良いたよりを受け入れたかに見えて,実際には当局のスパイだった者たちもいます。ある国からは次のような報告が寄せられています。「これら無節操な人物の中には,共産主義者であることを公言する者たちがいました。彼らは主の組織の中にひそかに入り込み,大いに熱意を示し,奉仕の高い立場にも任命されていました」。

      9 ある忠実なクリスチャンたちが潜入者たちのゆえに『つまずく』ことを,エホバがお許しになったのはなぜですか。

      9 み使いの言葉は続きます。「そして,洞察力のある者たちの中にもつまずかされる者がいる。それらの者のゆえに精錬を行ない,清めを行ない,白くすることを行なうためであり,こうしてついに終わりの時に至る。それはなお定めの時に臨むのである」。(ダニエル 11:35)潜入者たちは,ある忠実な人たちが当局の手中に落ちるように仕向けました。エホバがこれらのことをお許しになったのは,ご自分の民を精錬し,清めるためでした。ちょうどイエスが「苦しんだ事柄から従順を学ばれ(た)」ように,忠実なそれらの人たちも,信仰を試されることによって忍耐を学びました。(ヘブライ 5:8。ヤコブ 1:2,3。マラキ 3:3と比較してください。)そのようにして彼らは『精錬され,清められ,白くされ』ます。

      10 「こうしてついに終わりの時に至る」という表現は何を意味していますか。

      10 エホバの民はつまずきと精錬を経験し,「こうしてついに終わりの時に至る」ことになっていました。もちろんエホバの民は,この邪悪な事物の体制の終わりに至るまで,迫害に遭うことを予期しています。しかし,北の王の割り込みの結果として神の民が清められ,白くされることは,「定めの時」のあいだに臨むものでした。したがって,ダニエル 11章35節の「終わりの時」は,神の民が北の王の襲撃を忍耐しつつ精錬されるのに必要な期間の終わる時と関連しているに違いありません。つまずくことは,エホバによって定められた時に終わったものと思われます。

      王は自分を大いなるものとする

      11 エホバの主権に対する北の王の態度について,み使いは何と述べましたか。

      11 北の王について,み使いはこのように付け加えます。「その王はまさに自分の意のままに事を行ない,自分を高め,自分を大いなるものとしてあらゆる神の上に高める。また,[エホバの主権を認めることを拒み,]神々の神たる者に向かって驚くべきことを語る。また彼は糾弾がなし終えられるまでは必ず成功を収める。決定された事柄は遂げられねばならないからである。また彼は自分の父たちの神に何の考慮も払わない。女たちの願いにも,他のすべての神にも考慮を払わず,すべての者に勝って自分を大いなるものとする」― ダニエル 11:36,37。

      12,13 (イ)北の王はどのようにして,「自分の父たちの神」を退けましたか。(ロ)北の王は「女たち」の「願い」に考慮を払いませんでしたが,その「女たち」とはだれのことですか。(ハ)北の王はどの「神」に栄光を帰しましたか。

      12 北の王はこれらの預言的な言葉を成就し,キリスト教世界の三位一体の神のような,「自分の父たちの神」を退けました。共産主義陣営はあからさまな無神論を奨励しました。そのようにして,北の王は自分を神とし,「すべての者に勝って自分を大いなるものと(し)」ました。この王は,北ベトナムなど,自らの政権の侍女として仕えた従属国,つまり「女たちの願い」に考慮を払わず,「自分の意のままに」行動しました。

      13 み使いは預言を続け,こう述べました。「要害の神に対しては,自分のその地位からも栄光を帰する。その父たちの知らなかった神に対して,金により,銀により,宝石により,望ましい物によって栄光を帰する」。(ダニエル 11:38)実際,北の王は現代の科学的軍国主義である「要害の神」に信頼を置きました。この「神」を通して救いを求め,その祭壇上に莫大な富を犠牲としてささげたのです。

      14 北の王はどのように「効果的に行動」しましたか。

      14 「彼は,異国の神と共になって,最強の防備の施されたとりでに対しても効果的に行動する。彼はだれでも自分を認めた者を栄光に富ませ,それらの者を多くの者の中で支配させる。また,代価を取って土地を配分する」。(ダニエル 11:39)北の王は自分の軍事的な「異国の神」を信頼し,はなはだ「効果的に」行動し,「終わりの日」における恐るべき軍事強国となりました。(テモテ第二 3:1)この王のイデオロギーを支持した者たちは,その見返りとして,政治や経済の面だけでなく,時には軍事的な面でも支援を与えられました。

      終わりの時における「押し」

      15 南の王はどのように北の王を「押し」ましたか。

      15 「終わりの時に,南の王は彼と押し合う」と,み使いはダニエルに告げました。(ダニエル 11:40前半)南の王は「終わりの時」の間,北の王を『押して』きたでしょうか。(ダニエル 12:4,9)確かにそうしてきました。第一次世界大戦後,当時の北の王であったドイツに懲罰的な講和条約が課されたことは,確かに「押し」であり,報復を誘発しました。南の王は第二次世界大戦で勝利を収めた後,恐るべき核兵器の標的を自分のライバルに定め,北の王に対抗する強力な軍事同盟,つまり北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。同機構の役割について,英国の一歴史家はこう述べています。「ヨーロッパの平和を脅かす主因として認識されてきたのはソビエト連邦であり,北大西洋条約機構は同連邦を“封じ込める”ための主要な手段であった。その任務は40年にわたって遂行され,議論の余地がないほどの成功を収めた」。冷戦期間中,南の王による「押し」には,ハイテク技術を駆使したスパイ活動や,外交や軍事面での攻勢が含まれるようになりました。

      16 北の王は南の王による押しに,どのように応じましたか。

      16 北の王はどのように応じましたか。「これに対して北の王は兵車と騎手と多くの船とをもって強襲する。彼は必ず多くの土地に入り,みなぎりあふれて通り行く」。(ダニエル 11:40後半)終わりの日の歴史的特色となってきたのは,北の王の領土拡張政策でした。二度目の世界大戦中に,「王」であったナチは自国の国境からみなぎりあふれて周囲の国々に入り込みました。その戦争が終結した時,後を継いだ「王」は強大な帝国を築きました。冷戦中,北の王は代理戦争の形で,さらにはアフリカ,アジア,中南米諸国で生じた暴動の際にライバルと戦いました。北の王はまことのクリスチャンを迫害し,その活動を妨げましたが,やめさせることは決してできませんでした。また,北の王が軍事面でも政治面でも攻勢に出た結果,幾つもの国がその統制下に置かれました。まさにみ使いが預言したとおりです。「彼はさらに飾りの地[エホバの民の霊的地所]にも入り,多くの土地がつまずきに渡される」― ダニエル 11:41前半。

      17 北の王の領土拡張政策は,どの程度抑えられることになっていましたか。

      17 とはいえ,北の王が世界制覇を遂げることはありませんでした。「これらは,すなわち,エドム,モアブ,またアンモンの子らの主立った部分はその手から逃れ出る」と,み使いは予告しました。(ダニエル 11:41後半)古代において,エドム,モアブ,アンモンは,南の王エジプトの領土と,北の王シリアの領土の間に位置していました。現代において,それらは,北の王が標的としながら傘下に置くことのできなかった様々な国や組織を表わしています。

      エジプトは逃れられない

      18,19 南の王はライバルの影響をどんな面で感じましたか。

      18 エホバのみ使いはさらに言葉を続けます。「彼[北の王]はそれらの土地に向かってしきりにその手を突き出す。エジプトの地は逃れ出るものとはならない。そして彼は隠された金銀の宝をまさに支配し,またエジプトのすべての望ましい物を支配する。そしてリビア人とエチオピア人は彼の歩みに付く」。(ダニエル 11:42,43)南の王「エジプト」でさえ,北の王の領土拡張政策の影響を逃れられませんでした。例えば,南の王はベトナムで手痛い敗北を被りました。では,「リビア人とエチオピア人」についてはどうですか。古代エジプトと隣り合っていたこれらの民は,地理的に現代の「エジプト」(南の王)と隣り合っている諸国民を予示しているのかもしれません。それらの民は時に北の王の信奉者となり,その『歩みに付いて』きました。

      19 北の王は『エジプトの隠された宝』を支配してきたでしょうか。確かに北の王は,南の王の経済資源の用い方に強力な影響を及ぼしてきました。南の王はライバルに対する恐れのゆえに,巨額の資金を費やして,膨大な規模の陸海空軍を維持してきました。北の王はその程度にまで,南の王の富の配分を「支配」してきた,つまり統制してきたのです。

      最後の軍事行動

      20 み使いは北の王の最後の軍事行動をどのように描写していますか。

      20 軍事,経済,その他の手段によって北の王と南の王が対立する関係は,終わりに近づいています。エホバのみ使いは次のように述べて,これから生じる抗争の詳細を啓示しています。「彼[北の王]をかき乱す知らせがあって,日の出る方から,また北から来る。そのため彼は非常な激怒を抱き,滅ぼし尽くすため,多くの者を滅びのためにささげようとして出て行く。そして彼は自分の宮殿のような天幕を,壮大な海と聖なる飾りの山との間に設ける。それでも,彼は必ず自分の終わりに至る。これを助ける者はいない」― ダニエル 11:44,45。

      21 北の王に関するどんな点は,これから理解することになりますか。

      21 1991年12月にソビエト連邦が解体したことに伴い,北の王は大きく後退しました。ダニエル 11章44節と45節が成就する時,だれがこの王となっているのでしょうか。旧ソビエト連邦を構成していた国の一つがそうなるのでしょうか。それとも,これまでに何度かあったように,完全に実体が変わるのでしょうか。新たに幾つかの国でなされた核兵器の開発は,今後また軍備競争を生じさせ,北の王の実体に何らかのかかわりを持つようになるのでしょうか。これらの質問に対する答えを得るには,時を待たなければなりません。憶測を避けるのは賢明なことです。北の王が最後の軍事行動を開始する時,聖書に基づいた洞察力を持つ人は皆,預言が成就していることを明確に理解するでしょう。―284ページの「ダニエル 11章に出てくる王たち」をご覧ください。

      22 北の王による最後の攻撃について,どんな質問が生じますか。

      22 とはいえ,北の王が間もなくどんな行動を取るかは分かっています。北の王は,「日の出る方から,また北から来る」知らせに促されて,『多くの者を滅ぼし尽くすための』軍事行動を起こします。だれを標的とした軍事行動でしょうか。どんな「知らせ」がこのような攻撃の引き金となるのでしょうか。

      かき乱す知らせによって動揺させられる

      23 (イ)ハルマゲドンの前に,どんな際立ったことが生じなければなりませんか。(ロ)「日の昇る方角から来る王たち」とはだれのことですか。

      23 偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの終わりについて,「啓示」の書が述べている事柄を考慮してください。「全能者なる神の大いなる日の戦争」,つまりハルマゲドンの前に,真の崇拝のこの大敵対者は「火で焼き尽くされ」ます。(啓示 16:14,16; 18:2-8)その滅びは,神の憤りの第六の鉢が象徴的なユーフラテス川に注ぎ出されることによって予示されています。「日の昇る方角から来る王たちのために道が備えられる」ようにするため,川の水はかれてしまいます。(啓示 16:12)この王たちとはだれのことですか。エホバ神とイエス・キリストにほかなりません。―イザヤ 41:2; 46:10,11と比較してください。

      24 エホバのどんな行動が北の王をかき乱すと考えられますか。

      24 大いなるバビロンの滅びについては「啓示」の書に真に迫った描写があり,こう記されています。「あなたの見た十本の角[終わりの時に支配する王たち],また野獣[国際連合],これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼き尽くすであろう」。(啓示 17:16)支配する者たちが大いなるバビロンを滅ぼすのはなぜでしょうか。それは,『神がご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れる』からです。(啓示 17:17)それら支配する者たちの中には北の王が含まれています。「日の出る方から」北の王の耳に入ってくることとは,エホバが,宗教上の大娼婦を滅ぼし尽くすことを人間の指導者たちの心に入れる時の,エホバのその行動のことを言っているのかもしれません。

      25 (イ)北の王は何を特別な標的としますか。(ロ)北の王はどこに『自分の宮殿のような天幕を設け』ますか。

      25 しかし,北の王が憤りを向ける特別な標的があります。み使いの言葉によると,北の王は「自分の宮殿のような天幕を,壮大な海と聖なる飾りの山との間に設ける」ことになっています。ダニエルの時代,壮大な海とは地中海,聖なる山とは,神の神殿のかつての所在地シオンのことでした。したがって,預言の成就において,激怒した北の王は,神の民に対して軍事行動を取ります。霊的な意味で,「壮大な海と聖なる……山との間」の地点とは,エホバの油そそがれた僕たちの霊的地所を表わしています。それらの僕たちは,神から疎外された人類の「海」から出て,イエス・キリストと共に天のシオンの山で支配するという希望を抱いています。―イザヤ 57:20。ヘブライ 12:22。啓示 14:1。

      26 エゼキエルの預言に示されているとおり,「北から来る」ニュースはどこから発せられると考えられますか。

      26 ダニエルと同じ時代に生きていたエゼキエルも,「末の日に」神の民に加えられる攻撃について預言しました。マゴグのゴグ,つまり悪魔サタンが,まず戦闘をしかける,とエゼキエルは述べました。(エゼキエル 38:14,16)ゴグは象徴的にどの方角から来るのでしょうか。「北の最果てから」と,エホバはエゼキエルを通して言われました。(エゼキエル 38:15)その襲撃がどれほど悪意に満ちたものであっても,エホバの民が滅ぼされることはありません。この劇的な会戦は,ゴグの勢力を全滅させようとするエホバの側の戦略的措置によって行なわれるのです。そのため,エホバはサタンに対してこう言われます。「わたしは必ず……あなたのあごに鉤を掛け,あなたを……連れ出す」。「わたしは……あなたを導いて,北の最果てから上って来させ,イスラエルの山々の上に連れて来る」。(エゼキエル 38:4; 39:2)ですから,北の王を激怒させる「北から来る」ニュースは,エホバに源を発しているに違いありません。しかし,「日の出る方から,また北から来る」知らせに結局どんなことが含まれるかは,神だけが決定する事柄であり,それを理解するには時を待たなければなりません。

      27 (イ)ゴグが,北の王を含む諸国民をけしかけて,エホバの民を攻撃させるのはなぜですか。(ロ)ゴグの攻撃はどんな結末を迎えますか。

      27 ゴグについて言えば,「神のイスラエル」の繁栄ゆえに,全面的な襲撃を組織します。神のイスラエルは「ほかの羊」の「大群衆」共々,もはやサタンの世のものではありません。(ガラテア 6:16。啓示 7:9。ヨハネ 10:16; 17:15,16。ヨハネ第一 5:19)ゴグは,「諸国民の中から集められた民,すなわち[霊的な]富や財産をためている民」を不信の念を抱いて見ます。(エゼキエル 38:12)ゴグは,クリスチャンの霊的地所を,奪い取る機の熟した「無防備の田園の地」とみなし,人類に対する全面的な支配を妨げるこの障害を除き去るため,あらん限りの手を尽くします。それでも成功しません。(エゼキエル 38:11,18; 39:4)北の王を含む地の王たちはエホバの民を攻撃する時,『必ず自分たちの終わりに至り』ます。

      『王は自分の終わりに至る』

      28 北の王と南の王の将来について,どんなことが分かりますか。

      28 北の王の最後の軍事行動は,南の王に向けられるのではありません。ですから,北の王は,大いなるライバルの手にかかって終わりに至るのではありません。同様に,南の王も,北の王によって滅ぼされるのではありません。南の王は「人手によらずして」,神の王国によって滅ぼされます。a (ダニエル 8:25)それどころか地の王たちすべてはハルマゲドンの戦闘で,神の王国により除き去られることになっており,これが北の王が迎える結末だと言えるでしょう。(ダニエル 2:44)ダニエル 11章44節と45節には,その最後の戦闘までの事態の進展が描かれています。北の王が終わりを迎える時,「これを助ける者(が)いない」のは,ごく当然のことなのです。

  • 競い合う王たちの終わりが近づく
    ダニエルの預言に注意を払いなさい
    • [284ページの図表/図版]

      ダニエル 11章に出てくる王たち

      北の王 南の王

      ダニエル 11:5 セレウコス1世ニカトール プトレマイオス1世

      ダニエル 11:6 アンティオコス2世 プトレマイオス2世

      (妻ラオディケ) (娘ベレニケ)

      ダニエル 11:7-9 セレウコス2世 プトレマイオス3世

      ダニエル 11:10-12 アンティオコス3世 プトレマイオス4世

      ダニエル 11:13-19 アンティオコス3世 プトレマイオス5世

      (娘クレオパトラ1世) 後継者: プトレマイオス

      後継者たち: 6世

      セレウコス4世および

      アンティオコス4世

      ダニエル 11:20 アウグスツス

      ダニエル 11:21-24 ティベリウス

      ダニエル 11:25,26 アウレリアヌス 女王ゼノビア

      ローマ帝国の

      崩壊

      ダニエル 11:27-30前半 ドイツ帝国 英国と,

      (第一次世界大戦) その後の

      英米世界強国

      ダニエル 11:30後半,31 ヒトラーの第三帝国 英米世界強国

      (第二次世界大戦)

      ダニエル 11:32-43 共産主義陣営 英米世界強国

      (冷戦)

      ダニエル 11:44,45 これから起こるb 英米世界強国

      [脚注]

      b ダニエル 11章の預言は,様々な時代において北の王および南の王の立場を占める政治的存在の名を予告していません。それらの王たちの実体は,物事が生じ始めてから理解されるようになります。さらに,抗争は何らかの出来事に関連して生じるので,抗争のない休止期間もあります。一人の王が支配権を握り,もう一方の活動が停滞しているときなどがそうです。

      [271ページ,全面写真]

      [279ページの写真]

      南の王による「押し」には,ハイテク技術を駆使したスパイ活動や,軍事行動による威嚇も含まれている

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