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  • 『そして壁は崩れ落ちていった』
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 『そして壁は崩れ落ちていった』

      「こんな事態になることなどだれが考えていただろうか」。「自分の生涯中にこんなことを目撃することなど考えてもみなかった」。一体何があったのでしょうか。それは,1989年11月に始まった,悪名高いベルリンの壁とその壁が象徴していた事柄すべての崩壊です。a 東ベルリン市民は西ベルリンへ殺到しました。お金のかかる資本主義の楽しみ事を味わうのが目的の人もいれば,家族と再会することを目的としていた人もいました。

      その石壁の破れ目が発端となって幾つもの水門が開かれました。多くの人は,東ヨーロッパが元の状態に戻ることはもう絶対にないと考えています。

      冷戦は終わったのか

      ベルリンの壁の崩壊よりもはるかに大きな意味を持っているのは,東と西とを分けていたイデオロギーの壁が崩れ去ったことです。冷戦は事実上突然に終結した状態になりました。米国の退役陸軍大佐デービッド・ハックワースは,ニューズウィーク誌にこう書いています。「冷戦は終わった。ママのために共産主義者を殺すという強硬派の連中でさえ,冷戦が終わったことを認めている」。

      ドイツの新聞「シュトゥットガルター・ツァイトゥンク」によれば,1990年7月にロンドンで会合を開いたNATO(北大西洋条約機構)も,冷戦の終結を認めました。ジャーマン・トリビューン紙は,「大西洋同盟,冷戦時代に決別の辞」という見出しのもとに,同シュトゥットガルター紙からの次の引用文を載せています。「[共産圏諸国との]41年にわたる対立の後,16人のNATO指導者は新構想への道を開き,冷戦時代に最後の別れを告げた。……敵対関係に代わって協調関係が結ばれることになった。……もはや安全と安定は……主に軍事的手段によってではなく,均衡,対話,および全ヨーロッパの協力という政策によって保証されることになった」。平和を脅かす紛争の舞台は,今やヨーロッパから中東へ移っています。

      民主制への移行には犠牲が伴う

      最新流行の政治は,いわゆる人民の自由選択による民主制で,ほとんどすべての人がこの時流に乗ろうとしています。しかし,払わねばならない代価もあります。東側と西側および西側の資本主義的民主制との間のより温かい関係は,たやすく出来上がるわけではありません。アジアウィーク誌の社説はこう論評しています。「もはや共産圏諸国とは呼べなくなった国々は,経済的な混乱に陥っている。……民主制への移行にはかなりの犠牲が伴う。……民主制には多くの長所があるが,完全な安定性という長所はない」。いわゆるより自由な民主的社会への様々な変化のための代価はだれが払うのでしょうか。

      ポーランドや東ドイツその他の国に住んでいる何百万という人々は,中央統制経済から自由市場経済へ移行する場合当初は失業や困窮に見舞われる,ということに気づき始めています。多くの企業が合理化によって競争力を付けようとすれば,余剰労働者は解雇されることになります。社会の他の分野 ― 軍需産業 ― も深刻な影響を受けます。なぜでしょうか。

      東西間の相互の懸念や敵意が消え去ると,大規模な軍隊の必要も少なくなります。何十万人もの兵士やその家族は,市民生活とそれがもたらすあらゆる圧力に適応せざるをえません。防衛予算は削減される可能性があります。軍需工場の受注は減り,製造業者は事業を多角化しなければならないかもしれません。労働者たちは他の分野へ移って新たな技術を学ばねばならない場合もあります。

      東ヨーロッパのこうした信じ難いほどの騒然とした大変化によって,全く新しい国際情勢が生じています。一体どうしてこういう事態になったのでしょうか。

      決定的な言葉,決定的な変化

      この変化をもたらす決定要素となったのは,ソ連が態度を変えて内政不干渉という立場をとったことでした。過去においては,ソ連がハンガリー(1956年)やチェコスロバキア(1968年)に侵入したときの恐怖が,東ヨーロッパにおける改革派勢力を抑制していました。しかし,ポーランドが連帯の運動による挑戦で1980年代に経験した事柄や,より民主的な政体へ次第に移行していったことは,ソ連の軍事介入政策が以前とは変わったことを示しました。ポーランドの経験は,共産主義の一枚岩に実際にひび割れが生じていたこと,また代価は求められても,穏やかな漸進的変化は可能であることを示唆しました。しかし,何がこのすべてを可能にしたのでしょうか。

      一部の政治評論家によれば,東ヨーロッパに見られる変化すべての根底にあるのは,大統領ミハイル・ゴルバチョフ指導下のソ連における実用主義的な指導方針でした。1990年2月に,ゴルバチョフはこう述べました。「ソ連共産党は,ペレストロイカ[社会の立て直し]を開始し,その概念と政策を創始した。生活のあらゆる面,国民のあらゆる層を包含する深遠なる革命的変化が,国のこの基盤に立脚して推進されてきた。……並はずれた規模と創意による急激な変化が,ペレストロイカの枠内で生じつつある」。

      アジアウィーク誌が論評しているとおり,「今日,幾らかの後退はあるものの,[ゴルバチョフの]グラスノスチ(公開)とペレストロイカ(立て直し)の運動は,ハンガリー,ポーランド,およびソビエト・ブロック内の至る所の改革者たちを励まして」きました。グラスノスチとペレストロイカという,重要なこれら二つのロシア語は,1985年にゴルバチョフがソ連で政権を握って以来,世界の語彙に入りました。それらの語は共産主義世界における政治に対する一つの新しい姿勢を表わすものとなりました。

      政治評論家フィリップ・マルコビシは,フランスの保守的な雑誌「ル・コティディアン・ド・パリ」の中でチェコスロバキアにおける変化について書き,それも「モスクワのおかげで」生じたのだと述べています。「なぜなら,この一事は明らかだからである。ソ連は変化が起きるのをただ許しただけではない。チェコスロバキアが,他の国民の民主主義と同じように,自分に課せられている厳しい束縛を確実に振り捨てるようにしたのだ。……プラハでも東ベルリンでも,大衆の示威運動が変化を誘発した。街路に繰り出した人々が強引に当局を降伏させ,退陣に追い込んだのである」。

      その結果として,政治的なセントヘレンズ山が噴火したかのように,ポーランド,東ドイツ,ハンガリー,チェコスロバキア,ブルガリア,およびルーマニアなど,東ヨーロッパ全土で,ほんの数か月間に民主化と独立を求める動きが激化しました。

      ドイツ再統一 祝福,それとものろい?

      それはヨーロッパに住んでいる人の多くが今考量している疑問です。二つのドイツは1990年の7月に通貨統合を行ない,10月には政治的統一を成し遂げました。これによって何百万もの人が喜ぶ一方,ヨーロッパの多くの人がおののくことにもなります。その中には西ドイツの元の家主に自分の家を明け渡さねばならないかもしれない東ドイツの一部の人々も含まれます。英国の一部の指導者たちは黙して語らなかったにもかかわらず,英国のある新聞は,「我々は新生ドイツをとにかく信用しなければならないであろう」という見出しを掲げました。

      ナポレオン(1812年)やヒトラー(1941年)の恐るべき侵略に遭って大損失を被ったソ連は,第二次世界大戦が終結したときに,東ヨーロッパに緩衝地帯を設けて自国の安全を確保したいと思いました。そのため東ヨーロッパの八つの共産主義国から成るソビエト・ブロックが1945年から数年たたないうちに形成されました。b 現在,ソ連はドイツや米国の脅威をそれほど感じていないため,以前の衛星国に対する鉄のような統制力はゆるくなりました。1946年にチャーチルが言った“鉄のカーテン”があたかも消失して,新しい光が差し込んでいるかのようです。

      これらの変化はあなたにどのような影響を及ぼし得るか

      わたしたちはすでに多くの国のそうした変化による幾つかの経済効果に注目しました。人によっては新たな仕事,新たな住まい,新たな技術を意味します。他の多くの人にとっては,失業や苦闘を意味するでしょう。それは自由市場世界の哲学 ― 適者生存 ― の副産物です。

      他方,民主化への移行は人々のより自由な移動を可能にしつつあります。つまり国際的な観光旅行ができるということです。他の国々(例えば,スペインやイタリア)が過去30年にわたって経験してきたように,外国観光旅行はどの政府にとっても,国際収支の問題に大きな相違をもたらす可能性があります。西側に住んでいる人々の中には,例えば,ブダペスト,プラハ,ブカレスト,ワルシャワ,ライプチヒなど,東ヨーロッパの歴史的に有名な都市,その名によっていにしえの栄光が呼び覚まされる都市にぜひ行ってみたいと思っている人々が何百万人もいます。人々はレニングラード,モスクワ,オデッサなどを自由に訪問できることをも望んでいます。同様に,東ヨーロッパの人々も西側へ旅行したいと思っています。確かに,国際観光旅行によって偏見や無知という障壁は幾らか取り除かれます。少なからぬ旅行者たちが気づいているとおり,いわゆる宿敵であった人たちと同じ海岸で過ごせば,敵がい心はすぐに消え去ります。

      壁の崩壊には,何百万もの人の心を引きつけるもう一つの面があります。それは他の国々に住んでいる同じ宗教を信じる仲間と自由に交われる可能性があることです。これはどの程度可能になるでしょうか。東ヨーロッパでは宗教の分野にどんな変化が生じているのでしょうか。次の記事ではそうした質問が取り上げられます。

      [脚注]

      a ベルリンを東西に分断していた47㌔に及ぶ“ベルリンの壁”は,1961年に東ドイツが,西側への逃亡を阻止する目的で築いたものです。

      b 八つの国とは,チェコスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,ポーランド,東ドイツ,アルバニア,およびユーゴスラビアです。

      [5ページの地図]

      (正式に組んだものについては出版物を参照)

      ドイツ

      ベルリン

      ユーゴスラビア

      ハンガリー

      ポーランド

      ルーマニア

      チェコスロバキア

      アルバニア

      ブルガリア

      ソ連

  • 東ヨーロッパ ― 宗教の復興?
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 東ヨーロッパ ― 宗教の復興?

      東ヨーロッパでは過去数十年にわたり表現の自由が抑圧されていましたが,それには宗教に対する厳しい制限も含まれていました。無神論が盛んに宣伝され,幾つかの大聖堂や教会は無神論の博物館に変えられました。多くの旅行者が訪れるレニングラードの博物館などはその一つです。僧職にあるならばどんな人でも,時の政権の侍女になりました。アルバニアなどは1967年に,修道院,教会,モスクなど崇拝の場所をすべて公式に閉鎖して,ラジオ・ティラナにより「世界初の無神論国家」と宣言しました。

      しかし,自由が春の花のように東ヨーロッパの至る所で開花している今,宗教はどうなっているのでしょうか。フランスの作家ジャン-フランソワ・カーンはこう書いています。「弾圧に悩まされていた宗教は,抑圧に悩まされていた国民と手をつなぐことができる。そのことが昨日はイランで起きた。今日はソ連のアゼルバイジャンで起きている。明日になれば,ロシア中に野火のように広がるかもしれない」。今でさえ幾つかの宗教は,国家主義的な理念や目標をもって提携し,政治的抗議のための主要な道具の一つとなりつつあります。カトリック教会および正教会の司祭たちやルーテル教会の牧師たちの存在によってその運動を神聖化しています。

      では,新たな民主化の雰囲気の中で宗教上の自由はどうなっているでしょうか。

      事態は実に大きく変化した

      東ヨーロッパの主要な宗教,特にカトリック教会は,新政府から法的承認を得ようと直ちに行動を起こしました。例えば,オッセルバトーレ・ロマノ紙は,「[1990年]2月9日,法王庁とハンガリー共和国との間で一つの協定が成立した」と伝えました。この協定により,双方は外交関係を再確立することに合意しました。(バチカンは一つの主権国家とみなされています。)

      バチカンからの別の報道によれば,1946年に弾圧されたウクライナ系カトリック教会は,公認を要請し,「ウクライナにおける教会生活に関する実務上の問題について,政府およびロシア正教会との」折衝に入りました。

      1990年4月,法王はチェコスロバキアを訪れ,プラハ空港で「同共和国の大統領バツラフ・ハベル氏……をはじめとする,教会および国家の要人たちの」出迎えを受けました。(オッセルバトーレ・ロマノ紙)チェコスロバキアでも新たな宗教的風土が出来上がりつつあります。

      カトリック教会はポーランドでは常に,無視することのできない勢力でした。現在では新たな自由を得て力を誇示し,学校に宗教の授業を再導入する運動を展開しています。ある司祭はこう述べました。「学校は国の財産である。ポーランド国民の90%以上はカトリック教徒である。……他の宗教に対するふさわしい敬意を払いつつ学校で宗教教育が行なわれるなら,教師および……当局の権威は回復される。なぜなら,その教育は人の倫理的基幹を扱うからである」。

      ルーマニアの正教会について報じたある記事は,「[チャウシェスク]政権に協力していた主教や幾人かの司教は解任され,教会の活性化を図るために一つの委員会が設けられた。多くの以前の不信者たちが宗教に転じ,地元の教会に詰めかけている。……今から40年前に解散させられたルーマニア・ビザンチン・カトリック教会は再組織することを許されている」と述べています。―オーソドックス・ユニティー誌,1990年7月号。

      アルバニアにおける変化

      新聞報道によれば,ユーゴスラビアとギリシャに挟まれたアドリア海沿岸にこぢんまりと収まっている,人口325万の小さな山国アルバニアで,驚くべき変化が徐々に進行しています。ドイツの新聞「ディ・ウェルト」は,「旧式共産主義のヨーロッパ最後の砦であるアルバニアでは,人々が足で意思表示をし始めている」と伝えました。つまり人々は,西側の大使館に逃げ込んで,そこからイタリア,ドイツ,その他の国々への亡命を許可してもらうのです。

      その記事はさらに,「1990年5月に,アルバニア人は旅券の発行と,宗教活動を禁じる法律の廃止を約束された」と述べています。(1990年7月15日付,ジャーマン・トリビューン紙からの引用)歴史学のデニス・R・ヤンツ教授が書いているとおり,「徹底的な世俗化を進める長く厳しい闘いも放棄されたように思われ」ます。しかし,同教授はさらに,「証拠からすると……この国の宗教は実際,壊滅的な打撃を被っている」と述べています。

      こうした状況の中でエホバの証人は,いつもの厳正中立の立場を守っています。聖書の原則にのっとって,政治的また国家主義的な分裂には巻き込まれません。彼らは,神の王国を全世界に宣べ伝えるという自分たちの使命が果たせるよう,神が状況を平和なものにしてくださることを信じています。―マタイ 22:21。テモテ第一 2:1,2。ペテロ第一 2:13-15。

      では,東ヨーロッパのエホバの証人についてはどうでしょうか。禁令下でも繁栄してきたでしょうか。彼らには宗教上の自由があるのでしょうか。

      [7ページの図版]

      東ヨーロッパの諸教会に人々は戻ってくるだろうか

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