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2ページ目ざめよ! 1987 | 7月8日
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1986年11月,伊豆大島の三原山が大噴火を起こし,1万人の島民と観光客のいる島全体を脅かしました。「直ちに避難してください!」という発表があった時,皆はどのように反応したでしょうか。
続く記事をお読みになり,考慮される様々な状況下で,自分ならどのように反応したかを考えてみてください。
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警告に注意を払えば命が助かるかもしれない目ざめよ! 1987 | 7月8日
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警告に注意を払えば命が助かるかもしれない
「徐行」,「注意」,「先を譲れ」などと記された交通標識や黄色の信号の点滅は一種の警告となります。薬品や毒物の入った容器には注意書きや警告が記されています。そのような警告に留意しても別に不都合は生じないはずです。かえって命が助かるかもしれません。
しかし,警告や警報に従うために,種々の計画を中断したり,様々な所有物を手放したりしなければならないような場合もあります。あらしやハリケーンの警報が出されたなら,漁に出ていた人は岸に戻らねばならず,漁に出ようとしていた人は港に留まらねばならなくなり,その日は仕事ができないかもしれません。警報が出されると,それぞれの計画が中断されるだけでなく,家や所有物を手放し,一時的な避難所での不便な生活を我慢しなければならないこともあります。往々にして,そのような警報は無視されることがあり,その結果,人命が失われました。
これはその一例です。1902年の春,カリブ海に浮かぶ美しい島マルチニク島では,すべての事柄が順調にいっていました。ところがその時,災害の起きそうな気配が漂い始めました。島の首都であったサンピエールから8㌔ほどの所にある火山,ペレー山が活動を始めたのです。やがて,噴煙が立ち昇り,火山灰や噴石が降り,刺激臭が立ちこめるにおよんで,町の人々は不安になってゆきました。状況はひどくなるばかりでしたから,現実の危険が差し迫っていることは目に見えていたはずです。
警告は無視された
砂糖きびの収穫期が近づいていたため,サンピエールの実業家たちは,少しも危険はないと言って人々を安心させました。間近に迫った選挙のことが気になっていた政治家たちも,人々が逃げ出すことを望まず,実業家たちと同様の趣旨のことを語りました。宗教指導者たちも彼らと手を結び,何の心配もないと教区民に話しました。そして5月8日になり,ペレー山は大音響と共に爆発しました。高熱の暗雲がサンピエールに押し寄せ,およそ3万人が死亡しました。
米国ワシントン州にあるセントヘレンズ山は何世代もの間,平和と静けさを絵にしたような山でした。その地域には非常に多くの種類の野生動物が満ちており,ハイキングや魚釣りに格好の場所が沢山ありました。ところが,1980年3月になって,頻発する地震や蒸気の小規模な噴出という形で危険な兆候が現われました。5月の初めごろ,その山の活動は一層激しさを増していました。現地および州の当局者は,その火山付近の地域にいる人々に危険を知らせる警報を伝え始めました。
それでも,多くの人がその地域に留まっていましたし,危険地域に入ってはならないという標識を無視する人もいました。すると突然,5月18日,日曜日の早朝,大爆発が起きて山頂からおよそ400㍍下までの部分が吹き飛び,植物や動物の上に,そして与えられた警告に留意しなかった60人ほどの人の上にも,破滅が臨みました。
それとは対照的なことですが,1986年11月に伊豆大島の三原山が大噴火を起こし,1万人の島民と観光客のいる島全体を脅かしました。「直ちに避難してください!」という発表があった時,皆はその警報に注意を払いました。日本の「目ざめよ!」通信員によるこの後に続く記事は,事のてん末を説明します。
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「直ちに避難してください!」目ざめよ! 1987 | 7月8日
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「直ちに避難してください!」
日本の「目ざめよ!」通信員
一晩で1万人が脱出
「直ちに避難してください! 急いでください!」1986年11月21日,三原山が噴火したため,大島特別養護老人ホームのお年寄りは,小学校に避難するようにと言われました。その老人ホームの職員は,数日前から火山の活動が活発になっていたので,そこを退去する準備をしてはいましたが,その日の午後に突如として大噴火が起きたため,皆で避難するのは容易ではありませんでした。
「自分たちが用意していた担架のことなど考えてはいられませんでした」と,その老人ホームの職員の一人である和子さんは説明します。「私たちはお年寄りを抱き抱えたりおぶったりして,町役場が手配してくれた2台のバスのところまで連れて行きました。そのバスはすぐに満員になったので,避難場所までトラックで運んでもらわなければならない人もいました」。
やがて港に到着したお年寄りたちは,島外へ避難するために海上保安庁の巡視船に乗り込みました。それらお年寄りは離島第一陣に入っていました。それに続いて1万人余りの島民と観光客が島外へ避難しました。
地震と噴火
一般に大島と呼ばれている伊豆大島の三原山は,日本で精密観測が行なわれている四つの火山の一つです。三原山の火山活動は穏やかなことで知られていました。ところが,火山噴火予知連絡会が安全宣言を出してからわずか2週間後の1986年11月15日,三原山は噴火しました。第一火口からの噴火は激しさを増してゆきました。(6ページの地図をご覧ください。)この火口の内輪山からカルデラの中に溶岩が流れました。そして同月の21日,思いもよらない噴火に島民は衝撃を受けました。新しい火口ができたのです。続いて地面の数か所の亀裂から100㍍以上の高さの火柱が上がりました。山腹に次々と亀裂が生じ,新たな火柱を噴き上げました。
噴火におびえていた人々に地震が追い打ちをかけました。1時間に全部で80回の地震が島を揺るがしました。火口の外輪山からあふれ出た溶岩は蛇行しながら山腹を下り,大島で一番大きな集落である元町へ向かって進みました。溶岩流が元町方向へ向かったため,植村秀正町長は元町の住民に避難命令を出しました。この時点では,島の南部の波浮地区は安全であると見られていました。
「原爆のようなきのこ雲」
エホバの証人の伊豆大島会衆でただ一人の長老である西村次郎さんは,回顧してこう語りました。「皆でお茶を飲んでいたところ,大きな爆発音が響きわたりました。外に出てみたら,三原山の上にちょうど原爆のようなきのこ雲がかぶさっていました。これはただごとではないと思いました。町役場のスピーカーから何か放送されているのは聞こえましたが,言われていることがはっきり聞き取れなかったので,町役場へ電話しました。返事によると,元町地区の住民はまだ避難するように言われていないということでした。皆食事をしなければなりませんでしたから,御飯を炊いておむすびを作るよう家内に言いました。しかし,一つ目のおむすびを食べ終わらないうちに避難命令が出ました。
「家内の90歳になる母親も含めて私たち5人は,元町港の駐車場へ行きました。人々は島外へ避難するため船に乗ろうと列を作っていました。それは長蛇の列だったのですが,家内の母親が老齢のため一人で歩けないので,私たちは熱海に向かう先発の船に乗せてもらえました」。
ある人にとって,強い愛着を感じるその島を離れるのは容易なことではありませんでした。大島老人ホームで鍼灸師をしている84歳の岡村吉治郎さんは,大島で生活して40年になります。岡村さんは自分の気持ちをこう語っています。「地震はすごかったけど,この程度なら大丈夫だろうと思って,二,三日様子を見ようと考えていました。噴火や地震には慣れているからね。そのうち収まることは分かっていたから,あんまり心配はしてなかったけど,消防団の人たちにとうとう連れ出されてしまって,しようがなかった」。岡村さんは,奥さんのヨシエさんと二人の娘さん,それにお孫さん4人と一緒に避難しました。
全島民に対する避難命令
当初,溶岩流に脅かされていたのは島の北部だけでした。元町地区に住んでいた人の一部は,波浮地区へ移送されました。島の南部の住民は体育館や学校に集合するようにと言われただけでした。
午後5時に野増体育館に避難した平川カオ子さんは,「持って来たのは毛布2枚とこのバッグだけでした。そこで過ごすのは一晩だけだろうと思っていたからです」と言っています。夫の林蔵さんは,新たにできた火口の近くに住んでいた病気の両親のことを考えました。心配した二人は両親を連れて来るためにすぐに車で出かけました。林蔵さんはその時のことを,「すごい地震でしたよ。船に乗っている時のようでした。両親を車に乗せ終わるか終わらないうちに,実家から何キロと離れていないところから噴火したんです」と語っています。彼らはなんとか野増体育館にたどり着きましたが,その後,波浮へ移動するようにと告げられました。
午後10時50分になって,町長は全島民に対して島外への避難命令を出しました。主婦の玉置さんはこう語っています。「第三中学校が避難場所だったのですが,港まで歩かされました。でも,波浮港は浅すぎて大きな船が接岸できないので,結局,私たちはバスで元町まで行かなければなりませんでした。そしてそこから東京行きの船に乗りました」。
1万人余りの島民と観光客の脱出は,町長および役場の職員らが最後の救出船に乗船して,11月22日の午前5時55分ごろに完了しました。伊豆大島からの避難は,大噴火後14時間足らずで完了しました。避難は概してスムーズに秩序正しく行なわれました。この点で町の職員,救出のために大島へ船を派遣した船会社,および進んで協力した島民の行動は称賛に値します。ほんの一部に例外はあったものの,人々は避難命令に直ちに従いました。避難することを拒んだ人も少数ながらいましたが,そのほかに島に留まったのは警察や消防署などの職員数百名だけでした。
それにしても,避難した人々はどこに落ち着いたのでしょうか。だれがそれらの人を世話したのでしょうか。大島のエホバの証人たちはどうなったでしょうか。
[6ページの図/地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
大島
三原山
東京
下田
稲取
桜島
伊東
熱海
海老名
[図]大島
岡田
北山
溶岩流
第二火口
噴火
第一火口
外輪山
差木地
波浮港
三原山
野増
元町
空港
[4ページの図版]
『消防団の人たちにとうとう連れ出されてしまった』
[5ページの図版のクレジット]
2ページの写真は東京大学地震研究所の阿部勝征氏提供。不許複製
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家は後にしたが ― 命は助かった目ざめよ! 1987 | 7月8日
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家は後にしたが ― 命は助かった
日本の「目ざめよ!」通信員
避難者を乗せた最初の数隻の船は,11月21日の夜,伊豆半島沿岸の各港に着きました。後に,それらの港に着いた人々は東京へ移動することになりました。大島は東京都の管轄下にあるからです。東京都は政府と共に率先して救援活動を組織しました。三原山から約80㌔しか離れていない海老名市にあるエホバの証人の支部事務所をはじめ,伊豆および東京近辺のエホバの証人も救援活動を組織しました。
この出来事を取り上げたニュース報道で通常のテレビ番組が中断されました。そのため,近隣のエホバの証人は,大島にいる霊的な兄弟姉妹の身の上を特に案ずるようになりました。伊東会衆の小幡信政さんをはじめとする人たちは,伊豆地方のエホバの証人と連絡を取り,避難者を受け入れるための活動を組織しました。証人たちは,その日の午後6時半ごろには,大島からの兄弟たちを迎えに出るために,伊豆半島各地の港や熱海で待機していました。
西村次郎さんと他の4人がその日の晩の10時ごろ熱海に到着した時,熱海のエホバの証人たちは手に手に「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を掲げて迎えに来ていました。東京都当局はどうすべきかをまだ決定していなかったので,避難者たちは自分の希望する人の所に滞在することを許されました。西村さん一行は湯河原へ向かいました。というのは,西村さんの息子が湯河原会衆の長老として奉仕していたからです。一行が落ち着いたアパートは,大島会衆の避難者のための連絡拠点となりました。
次の日の朝8時に,海老名市にあるものみの塔協会の支部事務所では,救援活動を組織するために支部の代表者を,伊豆方面へ二人,東京方面へ二人,直ちに派遣することを支部委員会が決定しました。
支部の代表者たちが西村さんと救援活動について話し合っていると,塩崎満雄さんが沼津市にある自分の交わっている会衆から救援物資を携えてやって来ました。塩崎さんは避難者たちに衣類を分配しましたが,避難者たちは特にそのことに感謝しました。というのは,大多数の人は着の身着のままで島を脱出したからです。また,塩崎さんが持って来てくれた食物も感謝して受け取りました。
大島会衆の成員に必要な資金を分配するため,伊豆と東京に救援委員会が置かれました。同委員会は避難者たちの霊的な必要も世話することになりました。
東京での救援活動
11月21日の午後9時55分,一部の船は避難者を乗せて伊豆半島の諸都市へ向かっていましたが,東京都知事は避難者全員を東京に集めるようにとの指令を出しました。東京にあるエホバの証人の三田会衆の長老である中村義男さんは,東京での救援活動を組織するよう要請されました。中村さんのマンションは,東京における救援活動の本部となりました。
中村さんは,自分の交わる会衆の幾人かと品川会衆の幾人かの人に,自分と一緒に行動してくれるよう頼みました。そのうち10人は土曜日の午前2時ごろに中村家を出発し,大島からの船が到着する予定になっていた桟橋へと向かいました。兄弟たちは,「エホバの証人の大島会衆の方はこちらにご連絡ください」と書いたプラカードを幾つか用意していました。
彼らは最後の船が到着するまで二つの桟橋の間を行ったり来たりしました。最後の船が着いたのは土曜日の午前10時過ぎでした。中央会衆のエホバの証人も,大島からの船が入港したもう一つのふ頭へ行きました。仲間の信者たちがどの船に乗っているか分からなかったので,東京のエホバの証人たちは,船が入って来る度に出迎えるようにしました。
川島一行さんは,その時の様子を次のように語っています。「宗教団体の中で,その代表者たちが波止場に仲間の信者たちを迎えに来ていたのはエホバの証人だけでした。避難者を出迎えた別のグループといえば,教職員組合の人たちぐらいでした」。
土曜日の夕方,三田・品川両会衆の成員は,大島から来た霊的な兄弟たちが当面分け合えるようにと,衣類などの救援物資を自発的に持ち寄りました。証人たちはそれらの物資を1台のワゴン車に積んで,避難して来た証人たちが宿泊している数か所の避難施設を回りました。その救援物資は,大島からやって来た証人たちのほかに,その場にいたエホバの証人ではない人たちの益にもなりました。
他の人々からの気遣いに励まされる
避難者のエホバの証人の一人はこう語りました。「大島を離れた時は,自分たちがどこへ行くのか知りませんでした。でも,船を降りようとしていた時,『エホバの証人』と記されたプラカードを目にしました。私たちは本当に驚き,感激しました。兄弟たちが波止場に迎えに来てくれているのを見て,家内はほっとして涙をポロポロこぼしました。
「私たちが江東区スポーツセンターに落ち着いて,中村兄弟に電話するかしないうちに,支部の代表者が到着され,私たちを励ましてくださいました。これには本当に感激し,何と言って感謝したらよいか分かりませんでした」。
その週の間に救援委員たちは,エホバの証人が宿泊しているすべての避難施設を訪ね,仲間の信者の必要としている物を確かめました。委員たちは,避難者のエホバの証人たちが地元の諸会衆のよい世話を受けていることを知りました。聖書を研究中の人たちの中には,毎日あちこちのエホバの証人の家に招かれて食事を共にした人もおり,今回の災害に遭って初めて知り合った証人たちから示されたそのような親切に対して感謝していました。
今回の大島からの避難は,適切な警報が出され,人々がそれに従ったのでうまくゆきました。しかし全人類は,足速に近づいているはるかに大きな危険に直面しています。警告は発せられており,その危険を逃れて自分の命を救う方法が人々に示されています。あなたはその警告に聞き従いますか。
[7ページの図版]
仲間の信者たちの落ち着き先を確かめる西村次郎さんa
[脚注]
a エホバの証人であり,深く愛されたこの方は,1987年2月に亡くなりました。
[8ページの図版]
救援物資を分配する塩崎満雄さん
大勢の避難者たちは体育館の冷たい床の上に寝た
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あなたは差し迫った大災害に関する警告に注意を払いますか目ざめよ! 1987 | 7月8日
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あなたは差し迫った大災害に関する警告に注意を払いますか
自然災害の中には,人々の生活の崩壊を引き起こすものもあれば,人命や資産に大きな被害をもたらすものもあります。とはいえ,普通そのような災害は,一度に地上の一部の地域とその住民に影響を及ぼすにすぎません。しかし,今の世代は,全人類に影響する地球的規模の災害に直面しているのです。
いいえ,超大国間の核戦争のことではありません。もっとも,核戦争が起これば恐ろしい災害になることでしょう。本誌がここで言おうとしているのは,そのような災害のことではなく,地の面からすべての悪を一掃するという,神の表明された目的のことなのです。
その災害の及ぶ範囲について,イエスは事物の体制の終結に関する預言の中で次のように言われました。「その時,世の初めから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難があ(りま)す。実際,その日が短くされないとすれば,肉なる者はだれも救われないでしょう」。―マタイ 24:3,21,22。
命を失わずにすんだ人々
イエスはその世界的な災害を,古代の世界に惨禍をもたらしたノアの日の大洪水になぞらえ,「人の子の臨在はちょうどノアの日のようだからです」と述べられました。(マタイ 24:37)大洪水前の時代には,『人の悪が地にあふれ,その心の考えのすべての傾向が終始ただ悪に向かっていた』と聖書は述べています。それでエホバは,「わたしは,自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう」と言われました。―創世記 6:5-8。
ノアについてはヘブライ 11章7節に,「信仰によって,ノアは,まだ見ていない事柄について神の警告を与えられた後,敬虔な恐れを示し,自分の家の者たちを救うために箱船を建造しました」と書かれています。ノアとその妻,そして息子たちとその妻たちはみな大洪水を生き残りました。
しかし,当時の人類のうちノアの家族以外の人々は,与えられた警告を無視しました。イエスの言葉によれば,大洪水前のそれらの日,「ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでした」― マタイ 24:38,39。
ロトの日に,神はソドムとゴモラの住民の甚だしい不道徳ゆえに彼らを滅ぼすことを決定されました。それでも彼らは,何事も起こらないかのように,「食べたり,飲んだり,買ったり,売ったり,植えたり,建てたり」していました。ロトは自分の娘の婿になるはずだった人たちにその危険について警告しましたが,「その婿たちの目に,彼は冗談を言っている者のように見え」ました。しかし,神は空から火と硫黄を降らせ,そこの住民をみな滅ぼされたのです。ロトとその娘たちは警告に従ったので命を失わずにすみました。―ルカ 17:28,29。創世記 19:12-17,24。
イエスの時代に出された警告
イエスの時代のユダヤ人たちは,自分たちの伝統を重んじるがゆえに神の言葉を退けていました。そして,キリストすなわちメシアである神のみ子をも退けました。神は,彼らとその栄えある都市エルサレムとに対して,ローマ軍を用いて裁きを執行することを決定されました。イエスはそのことについて警告し,その裁きを逃れる方法をご自分の追随者たちに告げて,こう言われました。
「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが,預言者ダニエルを通して語られたとおり,聖なる場所に立っているのを見かけるなら,……その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい」。また,「エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,その荒廃が近づいたことを知りなさい。その時,ユダヤにいる者は山に逃げはじめなさい。都の中にいる者はそこを出なさい。田舎にいる者は都の中に入ってはなりません。なぜなら,これは処断の日であり,それによって,書かれていることのすべてが成就するのです」。(マタイ 24:15,16。ルカ 21:20-22)それは緊急に行動すべき時であり,自分の物質的な所有物を確保する時間さえ取ってはなりませんでした。イエスはこう言われました。「屋上にいる人は,家から物を取り出そうとして下りてはならず,野にいる人は,外衣を拾おうとして家に帰ってはなりません」― マタイ 24:17,18。
西暦66年,イエスの預言は成就して,エルサレムはケスチウス・ガルスの率いるローマ軍に包囲されました。ローマ人は,実際に神殿の城壁を崩しにかかっており,そのようにしてユダヤ人の聖なる場所に立っていましたから,ユダヤ人にとって嫌悪すべきものでした。警告となるしるしはそこにありましたが,逃げる機会はありませんでした。ところが,意外なことにケスチウス・ガルスは自分の軍隊を撤退させました。クリスチャンたちは山に逃げはじめました。しかし,その都市に住んでいた大半の人々はそのままそこに留まり,他の土地に住んでいたユダヤ人たちは宗教上の祭りのために引き続きそこへやって来ました。
西暦70年,その都市が過ぎ越しの祭りを祝う人で込み合っていた時分に,ティツス将軍の率いるローマ軍がまさしく戻ってきてエルサレムを攻囲しました。やがて城壁は破られ,神殿と都市全体が破壊されました。歴史家ヨセフスによると,110万人が死に,9万7,000人の生存者はエジプトや他の土地へ奴隷として売られました。イエスの警告に注意を払わなかった人々はそのような運命になりました。イエスが命じられたようにその都市から逃げた人たちは無事でした。
今出されている警告に注意を払いなさい
マタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 21章に記録されているようなイエスの預言は,より大きな成就をみることになっていました。イエスがご自分の臨在のしるしについての使徒たちの質問にも答えておられたことを忘れないようにしましょう。聖書の中で,イエスの臨在は,世界全体の事物の体制の終わりと関連づけられています。(ダニエル 2:44。マタイ 24:3,21)イエスは,目には見えないご自分の再来つまり臨在が,戦争,食糧不足,地震,疫病,不法の増加,ご自分の弟子たちが迫害を受けること,諸国民の苦もん,人々が人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失うようになること,などを包含する一つのしるしによって特徴づけられるであろうと話されました。―マタイ 24:7,8,12。ルカ 21:10,11,25,26。
それら苦しみの劇痛すべてが第一次世界大戦以降の世代に増し加わってきたことをだれが否定できるでしょうか。人々がそうした事柄の意味を理解するため,イエスは次のように預言されました。「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)エホバの証人は,王国のこの良いたよりを200以上の国や地域で,200ほどの異なった言語を用いて熱心に宣べ伝え,差し迫った神の裁きの執行について人々に警告してきました。イエスは,第一次世界大戦と共に始まった苦しみの劇痛の始まりを見る人々に言及し,「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」と言われました。―マタイ 24:34。
イエスの警告に注意を払うといっても,文字どおりの山に逃げたり,地上のどこかほかの場所に逃れたりするのではなく,まことの神エホバに頼り,命を保つための神の備えについて学ぶことによって注意を払うのです。この警告を出している人たち,つまりエホバの証人と連絡を取り,共に聖書研究を行ない,交わることによってそうすることができます。
火山による滅びを免れた,日本のおよそ1万人の人にとって警告に注意を払うことが不可欠であったのであれば,この終わりの時における世界的な滅びをエホバの保護を受けて免れるために今行動することの重要性は,はるかに大きいと言わねばなりません。
[10ページの図版]
ロトとその娘たちは,警告に聞き従ったために滅びを免れた
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