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    ものみの塔 1998 | 10月1日
    • 『エホバ,憐れみと慈しみに富む神』

      「エホバ,エホバ,憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」― 出エジプト記 34:6。

      1 (イ)聖書は,家族内のだれかが清い崇拝から迷い出るのを見た人たちにどんな慰めを差し伸べていますか。(ロ)エホバは,道を踏み外した人をどう見ておられますか。

      あるクリスチャンの父親はこう述べています。「娘が私に,もうクリスチャン会衆の一員でいたいとは思わないと言いました。私はそのあと何日も,何週間も,いえ何か月間も,体にうずきを感じました。死よりも悪い状態でした」。確かに,家族内のだれかが清い崇拝の道から迷い出るのを見るのはつらいことです。あなたにもそのような経験がありますか。もしそうなら,エホバがそのつらさをよく分かってくださっていることを知れば慰められるでしょう。(出エジプト記 3:7。イザヤ 63:9)しかし,道を踏み外したそのような人を神はどう見ておられるのでしょうか。聖書は,エホバが憐れみ深くもそれらの人を,ご自分の恵みのもとに立ち返るよう招いておられることを示しています。神はマラキの時代の反抗的なユダヤ人たちに哀願するかのように,「わたしのもとに帰れ。そうすれば,わたしもあなた方のもとに帰ろう」と言われました。―マラキ 3:7。

      2 聖書は,憐れみがエホバのご性格の本質的な一部であることをどのように示していますか。

      2 神の憐れみは,シナイ山でモーセにはっきりと分かるように言明されました。その場所でエホバはご自身を,「憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる神」として啓示されました。(出エジプト記 34:6)この宣言は,憐れみがエホバのご性格の本質的な一部であることを強調しています。神は「すべての者が悔い改めに至ることを望まれる」と,クリスチャンの使徒ペテロは書きました。(ペテロ第二 3:9)もちろん,神の憐れみは無制限のものではありません。「処罰を免れさせることは決して(しない)」と,モーセは告げられました。(出エジプト記 34:7。ペテロ第二 2:9,10)それでも,「神は愛」であり,憐れみはその特質の持つ大きな一面です。(ヨハネ第一 4:8。ヤコブ 3:17)エホバは「永久にその怒りを保(つ)」ことはなく,「愛ある親切を喜びとされ」ます。―ミカ 7:18,19。

      3 憐れみに関するイエスの見方は書士やパリサイ人の見方とどのように対照的でしたか。

      3 イエスはご自分の天の父を完全に反映しておられました。(ヨハネ 5:19)悪行者たちに対するその憐れみ深い扱いは,罪を大目に見るものではなく,身体的な病気の人に対して示したのと同じ優しい感情の表われでした。(マルコ 1:40,41と比較してください。)そうです,イエスは憐れみを神の律法の「より重大な事柄」の一つとしておられたのです。(マタイ 23:23)それとは対照的に,書士やパリサイ人たちのことを考えてみてください。公正ということを律法厳守の立場で考えていたため,普通,全く憐れみを示しませんでした。彼らはイエスが罪人たちに接しているのを見ると,「この人は罪人たちを歓迎して一緒に食事をする」と文句を言いました。(ルカ 15:1,2)イエスは,そうした非難をする者たちに,三つの例えをもって答えました。いずれも神の憐れみを強調する例えです。

      4 イエスはどんな二つの例えを語られましたか。それぞれの要点は何でしたか。

      4 まずイエスは,ある人が99匹の羊を残して,失われた1匹を捜しに行ったという話をされました。要点は何でしたか。「悔い改める一人の罪人については,悔い改めの必要のない九十九人の義人について以上の喜びが天にある」ということです。次にイエスは,ある女が,なくしたドラクマ硬貨一つを捜し,それを見つけて歓んだという話をされました。適用はどうでしたか。「悔い改める一人の罪人については,神のみ使いたちの間に喜びがわき起こる」ということです。イエスは三つ目の例えをたとえ話の形で語られました。a そのたとえ話は多くの人から,これまでに語られた最も優れた短編とみなされるようになっています。このたとえ話を考察することは,神の憐れみを正しく認識して見倣うための助けになります。―ルカ 15:3-10。

      反抗的な息子が家を出て行く

      5,6 イエスの三つ目の例えに出てくる若いほうの息子は,感謝の念がひどく欠けていることをどのように示しましたか。

      5 「ある人に二人の息子がありました。そして,そのうちの若いほうの者が父親に言いました,『父上,財産のうちわたしの頂く分を下さい』。そこで彼は自分の資産をふたりに分けてやりました。その後,何日もたたないうちに,若いほうの息子はすべての物を取りまとめて遠い土地に旅行に出,そこで放とうの生活をして自分の財産を乱費しました」― ルカ 15:11-13。b

      6 この若いほうの息子は,感謝の念がひどく欠けていることを示しました。第一に,自分のもらえる相続物を要求し,その後,「放とうの生活をして」それを乱費しました。「放とうの生活」という表現は,「放らつな生活」を意味するギリシャ語の翻訳です。ある学者は,この語は「徳性の最大限の放棄を表わす」と述べています。イエスのたとえ話に出てくる若者がよく放とう息子と呼ばれるのももっともなことです。これはむやみにお金を使い,浪費する人を描写する言葉です。

      7 今日,放とう息子に似ているのはどのような人ですか。そのような多くの人が「遠い土地」での独立を求めるのはなぜですか。

      7 今日,この放とう息子に似ている人々がいるでしょうか。確かに,います。比較的に少数ですが,残念ながら,天の父エホバの安全な「家」を出て行った人たちがいます。(テモテ第一 3:15)そのような人たちの中には,神の家の生活環境を制限が多すぎるように感じ,また注意深く見守ってくださるエホバの目を保護と考えるより,かえってうるさく思う人もいます。(詩編 32:8と比較してください。)あるクリスチャンの女性を例にとって考えてみましょう。この人は聖書の原則にしたがって育てられましたが,後にアルコール飲料や麻薬の乱用に関係するようになりました。この女性は,生涯中のその暗い時期を振り返って,こう述べています。「私は,自分でもっと良い生き方ができる,ということを証明したいと思いました。自分のしたいことをしたいと思いましたし,だれにも指図されたくありませんでした」。放とう息子と同じように,この若い女性は独立を求めました。そして,悲しいことに,聖書の教えに反する事柄を習わしにしたため,クリスチャン会衆から追放されなければなりませんでした。―コリント第一 5:11-13。

      8 (イ)神の規準とは正反対の生き方を望む人には,どんな援助が差し伸べられますか。(ロ)崇拝にかかわる事柄の選択をまじめに考えるべきなのはなぜですか。

      8 仲間の信者が神の規準とは正反対の生き方を望み,それを明らかにするのを見ると,本当に心が痛みます。(フィリピ 3:18)そのようなことが起きると,長老や霊的に資格のある他の人たちは,道を踏み外した当人に再調整を施すよう努力します。(ガラテア 6:1)しかし,だれも弟子であるクリスチャンとしてのくびきを受け入れるよう強いられることはありません。(マタイ 11:28-30; 16:24)若者であっても,成年に達したなら,崇拝にかかわる事柄は個人的に選択しなければなりません。結局のところ,わたしたちは各々,神に対して自分の言い開きをすることになる,倫理的に自由な行為者なのです。(ローマ 14:12)言うまでもなく,『自分のまくものを刈り取る』ことにもなります。これは,イエスのたとえ話に出てくる放とう息子がやがて学んだ教訓です。―ガラテア 6:7,8。

      遠い土地での絶望

      9,10 (イ)放とう息子の境遇はどのように変化しましたか。その事態に彼はどう対応しましたか。(ロ)今日,真の崇拝を捨てる一部の人々がどのように放とう息子と同じような窮境に陥るか,例を挙げて説明してください。

      9 「すべての物を使い果たした時,その地方一帯にひどい飢きんが起こり,彼は困窮し始めました。彼はその地方のある市民のもとに行って身を寄せることまでし,その人は彼を自分の畑にやって豚を飼わせました。そして彼は,豚が食べているいなごまめのさやで腹を満たしたいとさえ思っていましたが,彼に何か与えようとする者はだれもいませんでした」― ルカ 15:14-16。

      10 放とう息子は,窮苦に陥りましたが,まだ家に戻ることは考えませんでした。むしろ,ある市民と知り合い,その人から豚を飼う仕事をもらいました。モーセの律法は豚を汚れた動物と規定していたので,そのような職業はユダヤ人には受け入れられなかったことでしょう。(レビ記 11:7,8)しかしその放とう息子は,幾らか良心のとがめを感じたとしても,それを抑えなければなりませんでした。とにかく,その土地の市民である雇い主に,落ちぶれ果てた異国人の感情を気遣ってもらうことなど期待できませんでした。この放とう息子の窮境は,清い崇拝のまっすぐな道を捨てる今日の多くの人の経験に類似しています。多くの場合,そのような人は,以前には下劣と考えていた活動に関係するようになります。例えば,ある若い男性は17歳の時,クリスチャンのしつけに反抗しました。「聖書に基づく教えを受けた歳月は,不道徳や麻薬の乱用のためにすっかり過去のものとなった」ことを認めています。やがて,この青年は武装強盗と殺人の罪で刑務所に入れられました。後に霊的な回復を遂げましたが,「罪の一時的な楽しみ」のために何と大きな代償を払わなければならなかったのでしょう。―ヘブライ 11:24-26と比較してください。

      11 放とう息子の窮状はどのように一層ひどいものとなりましたか。今日,一部の人々は,世の魅力が「むなしい欺き」であることにどのように気づきましたか。

      11 かの放とう息子の窮状は,『彼に何か与えようとする者はだれもいなかった』だけに一層ひどいものでした。彼の新たに見いだした友人たちはどこにいたのでしょうか。放とう息子は,今や無一文であったため,友人たちにとって,あたかも「憎しみの的」のようだったのです。(箴言 14:20)同様に,今日,信仰から迷い出る人たちの多くも,この世の魅力や見解が「むなしい欺き」にすぎないことに気づきます。(コロサイ 2:8)神の組織から一時離れていたある若い女性は,こう述べています。「エホバの導きを得られずに,多くの苦痛や心痛を経験しました。自分を世に合わせようとしましたが,心から他の人たちのようにはなれなかったので,のけ者にされました。私は迷子になったような気持ちになり,手引きしてくれる父親の必要を感じました。自分にはエホバが必要だと悟ったのはその時です。二度と再び神から独立した生き方をしたいとは思いません」。イエスの例えの放とう息子も,同じことを悟りました。

      放とう息子が本心に立ち返る

      12,13 今日,ある人々には,本心に立ち返るのにどんな要素が助けになりましたか。(囲み記事をご覧ください。)

      12 「本心に立ち返った時,彼は言いました,『わたしの父のところでは実に多くの雇い人にあり余るほどのパンがあるのに,わたしはここで飢きんのために死にそうなのだ。立って父のところに旅をし,こう言おう。「父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。そこで彼は立って父親のもとに行きました」― ルカ 15:17-20。

      13 放とう息子は「本心に立ち返(り)」ました。この息子は,しばらくの間,まるで夢の世界で生活しているかのように,快楽の追求にふけっていたのです。しかし今や,自分の霊的な実状を痛感するようになりました。そうです,倒れたとはいえ,この青年にはまだ望みがありました。当人のうちに何かしら善いものが見いだされたのです。(箴言 24:16。歴代第二 19:2,3と比較してください。)今日,神の羊の群れから離れ去る人たちについてはどうでしょうか。それらの人はみな望みを断たれている,つまりどの人の場合もその反抗的な歩みは彼らが神の聖霊に対する罪を犯したことを示している,と結論するのは道理にかなったことでしょうか。(マタイ 12:31,32)必ずしもそうではありません。そのような人々の中には正道から外れた自分の歩みに悩み苦しむ人たちもいて,そのうちの多くはやがて本心に立ち返ります。ある姉妹は,神の組織から離れて過ごしていたころのことを,こう述べています。「一日といえエホバを忘れたことはありませんでした。いつかは何らかの方法で真理に連れ戻してくださるよう,いつも祈っていました」。―詩編 119:176。

      14 放とう息子はどんなことを決心しましたか。そうする際にどのように謙遜さを示しましたか。

      14 しかし,迷い出た人は自分の状況について何をすることができるでしょうか。イエスのたとえ話の中の放とう息子は,家に戻って父の許しを請い求めることにしました。この放とう息子は,「あなたの雇い人の一人のようにしてください」と言う決心をしていました。雇われた僕は,前日に解雇通知を受けかねない日雇い労働者でした。これは,ある意味で家族の一員のようであった奴隷の立場よりさらに低いものでした。ですから,この放とう息子は,息子としての元の立場に回復させてもらうことを期待していたわけではありません。父への忠節を日々証明してゆくために,最も低い身分を受け入れることも全くいとわないのです。ところが,放とう息子には,びっくりするような事が待ち受けていました。

      心温まる歓迎

      15-17 (イ)父親は息子を見てどう反応しましたか。(ロ)父親が長い衣と輪とサンダルを息子にあてがったことにはどんな意味がありますか。(ハ)父親が宴を開かせたことは何を示していますか。

      15 「彼がまだ遠くにいる間に,父親は彼の姿を見て哀れに思い,走って行ってその首を抱き,優しく口づけしたのです。その時,息子は言いました,『父上,わたしは天に対しても,あなたに対しても罪をおかしました。わたしはもうあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください』。しかし父親は自分の奴隷たちに言いました,『さあ早く,長い衣,その一番良いのを出して来てこれに着せ,その手に輪をはめ,足にサンダルをはかせなさい。それから,肥えさせた若い雄牛を連れて来てほふるのだ。食べて,楽しもうではないか。このわたしの息子が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのが見つかったのだ』。こうして彼らは興じ始めました」― ルカ 15:20-24。

      16 愛情深い親ならだれしも,我が子の霊的な回復を切望するものです。ですから,この放とう息子の父親が,その子の戻って来るのを今か今かと期待して,家の前の小道を毎日見つめる様子は容易に想像できます。今や,父親は,小道をやって来る我が子の姿を目にします。若者の外見は明らかに変わっていました。それでも父親は,彼が「まだ遠くに」いる間にだれであるかを悟ります。そのぼろぼろの服や意気消沈した様子より何より,我が子を見て,迎えるために走って行くのです。

      17 父親は息子のところまで行くと,その首を抱き,優しく口づけしました。次いで,奴隷たちに命じ,長い衣と輪とサンダルを息子にあてがわせました。その長い衣は,単なる質素な服ではなく『一番良いもの』でした。恐らく,りっぱな客に出すような豪華な刺しゅうの施された衣服だったことでしょう。輪やサンダルは,普通,奴隷は身に付けていませんでしたから,父親はその息子がれっきとした家族の一員として迎えられていることを明らかにしていました。しかし,父親がしたことはそれだけではありません。息子の帰って来たことを祝う宴を開くよう命じたのです。この人は息子を許していました。それがしぶしぶではなく,また帰って来た息子に対する単なる義務としてでもなかったことは明らかです。許しを差し伸べることを望んだのです。そうすることは歓びでした。

      18,19 (イ)放とう息子のたとえ話はエホバについて何を教えていますか。(ロ)ユダとエルサレムに対する扱いに示されているように,エホバは罪人が立ち返るのをどのように『待ち望んで』おられますか。

      18 ここまでのところで,放とう息子のたとえ話は,わたしたちが崇拝する特権にあずかっている神について何を教えているでしょうか。まず,エホバが「憐れみと慈しみに富み,怒ることに遅く,愛ある親切と真実とに満ちる」方であるということです。(出エジプト記 34:6)実際,憐れみは神の顕著な特質です。困窮している人に対する神の普通の反応の仕方です。次いで,イエスのたとえ話は,エホバが「進んで許してくださる」方であることを教えています。(詩編 86:5)神は,憐れみを差し伸べる根拠となる,罪深い人間の心のわずかな変化にも気づくよう,いわば目を配っておられるのです。―歴代第二 12:12; 16:9。

      19 例えば,神がイスラエルをどう扱われたかを考えてください。預言者イザヤはエホバの霊感により,ユダとエルサレムを『頭から足まで病んでいる』者と描写しました。しかしまた,「エホバはあなた方に恵みを示そうと待ち望み,それゆえにあなた方に憐れみを示そうと立ち上がる」とも述べました。(イザヤ 1:5,6; 30:18; 55:7。エゼキエル 33:11)イエスのたとえ話の父親と同じように,エホバは,いわば『小道を見守って』おられます。ご自分の家を出て行った者がいれば,その人が戻って来るのを切に待ち望んでおられるのです。わたしたちも,愛情深い父親にはまさにそういうことを期待するのではないでしょうか。―詩編 103:13。

      20,21 (イ)多くの人は神の憐れみによってどのように引き寄せられていますか。(ロ)次の記事ではどんなことを考察しますか。

      20 毎年,エホバの憐れみによって多くの人が本心に立ち返り,真の崇拝に戻っています。これは,当人の家族にとって何と大きな喜びでしょう。冒頭で紹介したクリスチャンの父親を例にとれば,その娘は霊的な回復を遂げ,今では全時間奉仕者として仕えています。父親はこう述べています。「私はこの古い事物の体制下で人が望み得る最大の幸福を味わっています。悲しみの涙は喜びの涙に変わりました」。きっとエホバも歓んでおられることでしょう。―箴言 27:11。

      21 しかし,放とう息子のたとえ話はそれで終わりというわけではありません。イエスはその物語を続け,エホバの憐れみと,書士やパリサイ人たちの間で普通に見られた厳格ですぐに善悪を判断しがちな態度とが対照的になるようにされました。どのようにそうされたか ― また,これはわたしたちに何を意味するか ― については,次の記事で考察します。

  • エホバの憐れみに倣いなさい
    ものみの塔 1998 | 10月1日
    • エホバの憐れみに倣いなさい

      「あなた方の父が憐れみ深いように,あなた方も常に憐れみ深くなりなさい」― ルカ 6:36。

      1 パリサイ人は自分たちが憐れみのない者であることをどのように示しましたか。

      人間は神の像に造られていても,神の憐れみに倣っていないことがよくあります。(創世記 1:27)例えば,パリサイ人のことを考えてみてください。一つの集団としての彼らは,安息日にイエスが憐れみに促されてある男性のなえた手を治した時,それを歓ぼうとしませんでした。それどころか,「イエスを滅ぼそうとして」相談しました。(マタイ 12:9-14)また別の時,イエスは,生まれた時から盲目であった男の人をいやしました。この時も,「パリサイ人のある者たち」はイエスの同情心を,喜ぶべきこととはみなしませんでした。それどころか不満げに,「これは神からの人ではない。安息日を守っていないからだ」と言いました。―ヨハネ 9:1-7,16。

      2,3 イエスは,「パリサイ人……のパン種に気を付けなさい」と述べて,何を言おうとされましたか。

      2 パリサイ人の冷淡な態度は,人道に背く犯罪であり,神に対する罪でした。(ヨハネ 9:39-41)このエリート集団やサドカイ人など他の信心家の「パン種に気を付けなさい」とイエスが弟子たちに警告したのも,もっともなことです。(マタイ 16:6)聖書の中でパン種は,罪や腐敗を表わすものとして用いられています。ですから,イエスは,「書士とパリサイ人たち」の教えは清い崇拝を腐敗させかねないと言っておられたのです。どのように腐敗させるのでしょうか。それは,憐れみなどの「より重大な事柄」を無視して,神の律法を専ら彼らの勝手な規則や儀式の観点で見るよう人々を教えることによってです。(マタイ 23:23)こうした儀式主義的な宗教は,神に対する崇拝を耐え難い重荷にしました。

      3 イエスは,放とう息子のたとえ話の第二部で,ユダヤ人の宗教指導者たちの腐敗した考えを暴露されました。エホバを表わす,このたとえ話の中の父親は,悔い改めた息子を喜んで許そうとしました。ところが,『パリサイ人と書士たち』の予型であった,この若者の兄は,この件で全く違った感情を抱いていたのです。―ルカ 15:2。

      兄の憤り

      4,5 放とう息子の兄は,どんな意味で「失われて」いましたか。

      4 「さて,年上の息子は野にいました。そして,帰って来て家に近づくと,合奏と踊りの音が聞こえたのです。そこで,僕の一人を呼び,これはどういうことなのかと尋ねました。僕は言いました,『あなたのご兄弟がおいでになったのです。それで,健やかに戻って来られたというので,あなたのお父様は肥えさせた若い雄牛をほふられたのです』。ところが彼は憤り,入って行こうとはしませんでした」― ルカ 15:25-28。

      5 イエスのたとえ話の中で,問題を抱えていたのが放とう息子一人でなかったことは明らかです。ある参考文献はこう述べています。「ここに描かれている息子たちは二人とも失われている。一方は不義によって身を持ち崩し,他方は自分を義とすることによって盲目になった」。注目したいのは,放とう息子の兄が,歓ぼうとしなかっただけでなく『憤った』ことです。「憤り」を意味するギリシャ語の語根は,怒りのほとばしりというよりも,思いの持続的な状態を暗示します。放とう息子の兄は根深い憤まんを抱いていたようです。そのため,最初から家を出て行ったりすべきではなかったのだから,戻って来たからといって,それを祝うことはふさわしくない,と考えました。

      6 放とう息子の兄はだれを表わしていますか。なぜそう言えますか。

      6 放とう息子の兄は,罪人に同情や心遣いを示すイエスに憤慨した者たちをよく表わしています。これら自分を義とする者たちは,イエスの憐れみに感動することも,罪人が許される時にわき起こる天での喜びを反映することもありませんでした。それどころか,イエスの憐れみに憤り,心の中で「邪悪なことを考え」はじめました。(マタイ 9:2-4)ある時など,一部のパリサイ人は激しく怒って,イエスにいやされた男性を呼びつけたあと会堂から「追い出(す)」ほどでした。その人を追放してしまったようです。(ヨハネ 9:22,34)『入って行こうとしなかった』放とう息子の兄のように,ユダヤ人の宗教指導者たちは,「歓ぶ人たちと共に歓(ぶ)」機会があった時に,しりごみしたのです。(ローマ 12:15)イエスは続けてたとえ話を語り,彼らの邪悪な推論をさらに暴露されました。

      間違った推論

      7,8 (イ)放とう息子の兄が,息子であることの意義を理解していなかったことは,どんな点に表われていますか。(ロ)年上の息子はどんな点で父親のようではありませんでしたか。

      7 「すると,父親が出て来て,彼に懇願しはじめました。彼は答えて父親に言いました,『わたしはこれまで何年というものあなたのために奴隷のように働いてきて,一度といえあなたのおきてを踏み越えたことはありません。それなのに,このわたしには,友人と一緒に楽しむための子やぎさえただの一度も下さったことがありません。それが,娼婦たちと一緒になってあなたの資産を食いつぶした,このあなたの息子が到着するや,あなたは肥えさせた若い雄牛を彼のためにほふったのです』」― ルカ 15:28-30。

      8 このように言った兄は,息子であることの真の意義を理解していない自分をあらわにしました。彼は,雇われた人が雇い主に仕えるのと同じように父に仕えていたのです。父親にも,『わたしはあなたのために奴隷のように働いてきました』と言いました。なるほど,最年長のこの息子は,家を出て行ったり,父のおきてを踏み越えたりしたことはありません。しかし,その従順は愛を動機としたものだったでしょうか。父に仕えることに真の喜びを見いだしていたでしょうか。それとも,むしろ独り善がりの自己満足に陥って,単に「野」での務めを果たしているというだけの理由で自分は良い息子だと考えていたでしょうか。もし本当に献身的な息子であったなら,なぜ父の思いを反映していなかったのでしょうか。弟に憐れみを示す機会が与えられた時,なぜ心に同情の生じる余地がなかったのでしょうか。―詩編 50:20-22と比較してください。

      9 ユダヤ人の宗教指導者たちがどのように年上の息子に似ていたかを説明してください。

      9 ユダヤ人の宗教指導者たちはこの年上の息子に似ていました。法典に固く付き従っているゆえに自分たちは神に対して忠節である,と考えていました。確かに,従順は肝要です。(サムエル第一 15:22)しかし,彼らは業に重きを置きすぎたため,神に対する崇拝を,堅苦しい決まり事,形だけで真の霊性の伴わない専心にしてしまいました。彼らの思いは伝統にとらわれ,心は愛に欠けていました。事実,宗教指導者は一般の人を足の下の泥のようにみなし,人々を「のろわれた者たち」とまで呼んで軽べつしていたのです。(ヨハネ 7:49)実際のところ,神はそのような指導者たちの業にどうして感銘を受けることができるでしょうか。彼らの心は神から遠く離れていたのです。―マタイ 15:7,8。

      10 (イ)「わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない」という言葉はなぜ適切な助言でしたか。(ロ)憐れみの欠如はどれほど重大なことですか。

      10 イエスはパリサイ人たちに,「『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』とはどういうことなのか,行って学んできなさい」と告げました。(マタイ 9:13。ホセア 6:6)彼らの優先順位は混乱していました。憐れみがなければ,ささげる犠牲はすべて無価値なものとなるのです。これは実に重大な事柄です。聖書は,神から「死に価する」とみなされる者たちの中に「憐れみのない者」も含まれると述べているからです。(ローマ 1:31,32)ですから,宗教指導者たちは一つの級として永遠の滅びに定められているとイエスが言われたのも,驚くようなことではありません。憐れみのなさが,彼らがこの裁きに値する大きな理由であったことは明らかです。(マタイ 23:33)しかし恐らく,この級からも個々の人は救助されたことでしょう。このたとえ話の結びの部分でイエスは,年上の息子に対する父親の言葉によってそのようなユダヤ人の考えを再調整することに努めました。どのようにされたかを見てみましょう。

      父親の憐れみ

      11,12 イエスのたとえ話の父親は年上の息子とどのように推論しようとしていますか。父親が「あなたの兄弟」という言い方をしたことにはどんな意義があるかもしれませんか。

      11 「すると,父親は言いました,『子よ,あなたはいつもわたしと一緒にいたし,わたしの物はみなあなたのものだ。だが,わたしたちはとにかく楽しんで歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は,死んでいたのに生き返り,失われていたのに見つかったからだ』」― ルカ 15:31,32。

      12 父親が「あなたの兄弟」という表現を用いたことに注目してください。なぜそう言ったのでしょうか。年上の子が少し前に父親に話した時,放とう息子のことを「わたしの兄弟」とは呼ばず,「あなたの息子」と呼んだことを思い起こしてください。兄は自分と弟との間の家族の絆を認めていないように思えます。それで今,父親は上の子に,事実上,『これはただわたしの息子というのではない。あなたの兄弟,あなた自身の血肉なのだ。あなたにも,彼が戻って来たことを歓ぶ十分の理由がある』と言っているのです。イエスの言わんとするところは,ユダヤ人の指導者たちにとって明白であったはずです。彼らのさげすんだ罪人たちは,実のところ,彼らの「兄弟」でした。実際,「常に善を行なって罪をおかすことのない義なる者は,地にひとりもいない」のです。(伝道の書 7:20)ですから,著名なユダヤ人たちにも,罪人が悔い改めたときには歓ぶべき十分の理由がありました。

      13 イエスのたとえ話が急に終わっていることから,どんなまじめな質問が生じますか。

      13 このたとえ話は,父親が諭したところで急に終わっています。あたかもイエスは聞き手に,この物語に自分なりの結末を書き加えなさいと言っておられるかのようです。年上の息子がどんな反応を示したにせよ,聞き手は各々,『罪人が悔い改める時に天で生じる喜びにあなたは加わりますか』という質問に直面しました。今日のクリスチャンにも,その質問に対する自分の答えを示す機会があります。どのように示せるでしょうか。

      今日,神の憐れみに倣う

      14 (イ)憐れみということに関し,エフェソス 5章1節のパウロの助言をどのように適用できますか。(ロ)神の憐れみに関して,どんな考え違いをしないように気をつける必要がありますか。

      14 パウロはエフェソス人に,「愛される子供として,神を見倣う者となりなさい」と訓戒しました。(エフェソス 5:1)ですから,クリスチャンであるわたしたちは,神の憐れみの深さを認め,それを心に深く銘記し,そして他の人を扱う際にこの特質を示すべきです。しかし,ここで一つの点に留意するのはふさわしいことです。神の憐れみを,罪の重大性に目をつぶることと勘違いしてはなりません。例えば,『罪を犯しても,いつでも神に許しを祈り求めることができるし,神は憐れみ深く接してくださる』といった,のんきな考え方をする人がいます。そのような態度は,聖書筆者ユダの言う,「わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え(る)」ことと同じようなものです。(ユダ 4)エホバは憐れみ深い方ですが,悔い改めない悪行者を扱うときには,「処罰を免れさせることは決して(されません)」。―出エジプト記 34:7。ヨシュア 24:19; ヨハネ第一 5:16と比較してください。

      15 (イ)憐れみに対する平衡の取れた見方を保つことが,特に長老たちに必要なのはなぜですか。(ロ)長老たちは故意の悪行を容認したりしませんが,何をするよう努力すべきですか。それはなぜですか。

      15 とはいえ,他方の極端に走ることがないように気をつける必要もあります。つまり,真に悔い改め,犯した罪のことで敬虔な悲しみを表わしている人に対して,厳しい態度で,すぐに善悪を判断しようとする傾向に陥らないことです。(コリント第二 7:11)長老たちはエホバの羊の世話をゆだねられていますから,審理問題を扱う際には特に,その点で平衡の取れた見方を保つことは肝要です。クリスチャン会衆は清い状態に保たれなければなりません。ですから,排斥処置を取って『邪悪な人を除く』のは聖書的に正しいことです。(コリント第一 5:11-13)同時に,憐れみを差し伸べるべきはっきりした根拠がある場合,憐れみを示すのは良いことです。それで長老たちは,故意の悪行を容認したりしませんが,公正の許す範囲内で,愛のある憐れみ深い道を探すよう努めます。「憐れみを実践しない人は,憐れみを示されることなく自分の裁きを受け(ま)す。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します」という聖書の原則を常に意識しているのです。―ヤコブ 2:13。箴言 19:17。マタイ 5:7。

      16 (イ)道を踏み外した人が戻って来るのをエホバが願っておられることを,聖書を用いて示してください。(ロ)わたしたちは,罪を悔い改めて戻って来た人を自分も歓迎していることをどのように示せますか。

      16 放とう息子のたとえ話は,道を踏み外した人が立ち返るのをエホバが願っておられることを明示しています。実際,神は,当人が救い難い者であることを自ら証明するまで招待を差し伸べられます。(エゼキエル 33:11。マラキ 3:7。ローマ 2:4,5。ペテロ第二 3:9)放とう息子の父親のように,エホバは,戻って来た人の面目を傷つけないように扱い,当人をれっきとした家族の一員として受け入れられます。あなたはその点でエホバに倣っていますか。仲間の信者が排斥された後しばらくして復帰する時,あなたはどのような反応を示しますか。「喜びが天に」あることはすでに分かっています。(ルカ 15:7)では,地上に,あなたの会衆に,さらにはあなたの心には喜びがあるでしょうか。それとも,たとえ話の年上の息子の場合のように,最初から神の羊の群れを離れ去ったりすべきではなかったのだから,戻って来たからといって歓迎するのはふさわしくないといった,憤まんのようなものがありますか。

      17 (イ)1世紀のコリントではどんな事態が進展しましたか。パウロはその問題を扱うよう会衆の人々にどのように助言しましたか。(ロ)パウロの勧めが実際的なものであったのはなぜですか。今日,それをどのように適用できますか。(右の囲み記事もご覧ください。)

      17 この点で自己吟味する助けとして,西暦55年ごろにコリントで起きた事柄を考えてみてください。その地で,ある男性は会衆から追放されましたが,結局,自分の生活を清めました。兄弟たちはどうすべきでしたか。当人の悔い改めを疑いの目で見て,引き続きその人を避けるべきでしたか。そうではありません,パウロはコリント人にこう勧めました。「親切に許して慰め,そのような人が過度の悲しみに呑み込まれてしまうことのないようにすべきです。それで,あなた方が彼に対する愛を確証するように勧めます」。(コリント第二 2:7,8)多くの場合,悪行を悔い改めた人は,恥辱や絶望感を特に抱きやすい状態にあります。ですから,その人は,自分も仲間の信者やエホバから愛されている,ということを再保証してもらう必要があります。(エレミヤ 31:3。ローマ 1:12)これは極めて重要なことです。なぜでしょうか。

      18,19 (イ)コリント人は以前には自分たちが寛容すぎることをどのように示しましたか。(ロ)憐れみのない態度を取ると,どのようにコリント人が「サタンに乗ぜられる」可能性がありましたか。

      18 パウロは,許しを実践するようコリント人に訓戒した時,その理由の一つとして,「わたしたちがサタンに乗ぜられることのないためです。わたしたちはその謀りごとを知らないわけではないのです」と述べました。(コリント第二 2:11)それはどういう意味でしたか。それ以前にパウロは,コリント会衆が寛容すぎることを戒めなければなりませんでした。同じその男性が罰も受けずに罪を行なうのを彼らは許していたのです。そうすることにより,会衆 ― 特に長老たち ― は,サタンの思うつぼにはまっていました。サタンは会衆が評判の悪い状態に陥るのを喜んだはずだからです。―コリント第一 5:1-5。

      19 もし彼らが他方の極端に走って,悔い改めた人を許そうとしなければ,サタンはそれに乗じて彼らを別の方向へ行かせることになります。どうしてそう言えるでしょうか。厳しくて憐れみのない彼らの態度に付け込めるという意味でそう言えます。もし罪を悔い改めた人が「過度の悲しみに呑み込まれて」しまう ― あるいは,「今日の英語訳」のように,「悲しみのあまりすっかりあきらめて」しまう ― としたら,長老たちはエホバのみ前で何と重大な責任を負うことになるのでしょう。(エゼキエル 34:6; ヤコブ 3:1と比較してください。)ですから,イエスが追随者たちに「これら小さな者の一人」をもつまずかせないよう注意したあとで,「自分自身に注意を払いなさい。あなたの兄弟が罪を犯すなら,叱責を与え,その人が悔い改めるなら,許してあげなさい」と言われたことには十分の理由があったのです。a ―ルカ 17:1-4。

      20 罪人が悔い改めると,天でも地上でもどのように喜びが生じますか。

      20 清い崇拝に戻って来る人は毎年幾千人にも上り,それらの人は,エホバが差し伸べてくださった憐れみに感謝しています。クリスチャンの一姉妹は自分が復帰した時のことについて,「これまでを振り返ってみても,あの時ほど自分が幸福だと思ったことはありません」と述べています。もちろん,この姉妹の喜びはみ使いたちにも伝わっています。わたしたちも,罪人が悔い改めるときに生じる『天での喜び』に加われますように。(ルカ 15:7)そのようにするとき,わたしたちはエホバの憐れみに倣っていることになるのです。

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