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ドミニカ共和国2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
1492年,クリストファー・コロンブスは新世界に向けて出航し,富と冒険をもたらす胸躍る新しい地を発見します。コロンブスは自分が上陸した島をラ・イスラ・エスパニョーラ(イスパニオラ島)と命名します。現在この島は,3分の2をドミニカ共和国が占めています。近年,ドミニカ共和国の幾万もの人々は全く異なる発見をしています。来たるべき新しい世で,神の王国による永遠の義を楽しめるという発見です。(ペテ二 3:13)ではこれから,こうした発見をした心の正直な人々に関する興味深い歴史をお読みください。
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ドミニカ共和国の概要2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
ドミニカ共和国の概要
国土 ドミニカ共和国はイスパニオラ島のおよそ3分の2の面積を占め,残りの3分の1はハイチが占めています。国土は,熱帯雨林や,そびえ立つ山々,マングローブの生える沼地,砂漠など,景観に富んでいます。国の最高峰は,標高3175㍍のドゥアルテ山です。海岸線は美しい白浜がどこまでも続き,内陸部はシバオ谷などの肥沃な谷があります。
住民 大半の住民はヨーロッパ人とアフリカ人の混血です。ほかの人種も少数ながらいますが,最も多いのがハイチ系の人々です。
言語 公用語はスペイン語です。
交わりを楽しむ兄弟姉妹たち
生活 これまで鉱業や,砂糖,コーヒー,タバコ産業が主な収入源でした。しかし近年,観光業や製造業により経済的に成長しています。
気候 温暖な熱帯性気候で,年間平均気温は25℃です。年間平均降水量は,北東部の山岳地では2000㍉を超え,乾燥した地域では750㍉ほどです。熱帯低気圧やハリケーンに襲われることもあります。
文化 米,豆,野菜などが主食です。魚介類やトロピカル・フルーツ,唐辛子,揚げバナナも好まれています。こうした食材の幾つかが,昔ながらの人気料理ラ・バンデーラ・ドミニカーナ(ドミニカの国旗)に使われています。ドミニカの人々は,野球や音楽,それにダンス,特にメレンゲというダンスに情熱を抱いています。また,ドラム,フルート,マリンバと共に,ギターも非常に人気があります。
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発見2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
発見
発見の始まり
1945年4月1日,日曜日,ギレアデ卒業生のレナート・ジョンソンとバージニア・ジョンソンは,ドミニカ共和国の首都シウダード・トルヒーヨ(現在のサントドミンゴ)に到着します。二人は,エホバの証人が一人もいない,戦争や紛争に翻弄された国に足を踏み入れたのです。a 『1946 年鑑』(英語)は,「ここは正真正銘の“開拓者”の区域である。そしてこれらのギレアデ卒業生はゼロから始めなければならなかった」と報告しています。想像してみてください。支部事務所や王国会館もなければ,会衆もありません。知り合いは一人もおらず,スペイン語もほとんど話せません。住む家も家具もなかったのです。二人はどうしたでしょうか。
ジョンソン兄弟はこう述懐しています。「私たちはビクトリアホテルに行って宿を確保しました。宿泊料は,食事も含め,二人で1日5㌦でした。私たちは早速その日の午後に最初の家庭聖書研究を取り決めました。それにはこういういきさつがありました。ブルックリンで私たちと聖書を研究していた二人のドミニカ人の女性が,親族や知人の名前を教えてくれました。その中の一人にグリーン博士がいました。そのグリーン博士を訪ねた時,私たちは博士の隣人のモーゼス・ロリンズにも会いました。私たちが名前と住所を知っていた理由を話すと,二人は王国の音信に熱心に耳を傾け,聖書研究に応じました。モーゼスはほどなくして,地元で最初の王国伝道者になりました」。
1945年6月上旬,さらに4人の宣教者が到着し,すぐにたくさんの文書を配布し,聖書研究も数多く司会するようになります。10月には集会場が必要になったため,宣教者の家の居間と食堂が即席の王国会館となりました。集会には40人もの人たちが出席しました。
最初に真理にこたえ応じた人の中に,皆からパレと呼ばれていたパブロ・ブルサウドがいます。パレはサンティアゴとシウダード・トルヒーヨ間を結ぶバス路線を運行する会社を経営していました。首都へ頻繁に行く機会があったパレは,ある日そこでエホバの証人と話をし,「真理は汝らを自由にすべし」の本を受け取りました。そして毎日証人たちと聖書を研究するようになります。パレは間もなく,宣教者たちと伝道に出るようになり,宣教者たちに交通手段を提供しました。後に,レナート・ジョンソンに会い,二人で関心のある人たちを訪問するため,シウダード・トルヒーヨからサンティアゴ,さらに幾つもの山を越えてプエルト・プラタという海岸沿いの町まで行きました。その町には,ニューヨークのブルックリン本部に手紙を書いていた人たちがいたのです。
ノア兄弟とフランズ兄弟の訪問
1946年3月に,本部からネイサン・ノアとフレデリック・フランズがドミニカ共和国を訪問します。訪問に対する期待が高まり,兄弟たちに加え,75人の関心を持つ人たちがノア兄弟の講演に出席しました。訪問中,ノア兄弟はドミニカ共和国に支部事務所を開設する取り決めをもうけました。
ノア兄弟とフランズ兄弟,国内で最初の王国会館の前で。シウダード・トルヒーヨ
さらに多くの宣教者が到着し,1946奉仕年度の終わりには28人の奉仕者がいました。良いたよりはこの国に伝え始められたばかりだったので,宣教者たちは,組織的かつ徹底的に宣べ伝えることができるよう,多くの晩を費やして区域地図を作成しました。
業の拡大
1947年には約60人の奉仕者が伝道に参加していました。その年には,キューバで奉仕していた幾人かの宣教者がドミニカ共和国に割り当てられました。その中に,ロイ・ブラントとファニタ・ブラントがいます。ブラント兄弟は支部の僕に任命され,その立場で10年間奉仕しました。
1948奉仕年度の終わりには110人の奉仕者が,宣教者たちと共に良いたよりを宣べ伝えていました。しかし,これら熱心な奉仕者は,非常に困難な時期が目前に迫っていたことなど知る由もありませんでした。
a ドミニカ共和国では早くも1932年に,ものみの塔の文書が配布されていました。しかし,関心のある人々を個人的に教える活動が始まったのは,ジョンソン兄弟姉妹が来た1945年のことです。
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「その人たちを見つける日は必ず来ます」2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
「その人たちを見つける日は必ず来ます」
「その人たちを見つける日は必ず来ます」
1935年ごろ,シバオ谷という地域に住むパブロ・ゴンサレスは聖書を読むようになりました。しばらくの間プロテスタントのグループと交わりましたが,その人たちの行ないが聖書と調和していないことが分かり,交わるのをやめました。それでも,独りでみ言葉の研究を続け,学んだ事柄を他の人に話すようになりました。最初は家族や近所の人たちに,次いで近隣地域の人たちに伝えました。パブロは自分の農場と牛を売り,得たお金で各地へ赴き,宣べ伝えました。
パブロはエホバの証人と接する機会はなかったものの,1942年までに少なくとも200組の家族を訪問していました。定期的な集まりも開き,人々に,聖書を学んでそれと調和した生活をするよう強く勧めました。大勢の人がパブロの言葉を心に留め,喫煙や一夫多妻をやめました。
パブロの話を聞いていた人の中に,セレステ・ロサリオがいます。彼女はこう語っています。「わたしが17歳の時のことですが,母のいとこネグロ・ヒメネスがパブロ・ゴンサレスのグループの一つに属していました。ネグロは我が家に来て,聖句を幾つか読んでくれました。それを聞いたわたしは納得し,カトリック教会を脱退することにしました。教会ではラテン語で聖書が読まれるため,わたしたちには理解できなかったのです。ネグロの訪問からしばらくして,パブロ・ゴンサレスが訪ねて来て,母とわたしを励ましてくれました。パブロはこう言いました。『多くの宗教がありますが,わたしたちはそのどれにも属していません。しかし,わたしたちの兄弟たちは世界中にいます。今は,それがだれなのか,何と呼ばれているのか分かりませんが,その人たちを見つける日は必ず来ます』」。
パブロは,ロス・カカオス・サルセド,モンテ・アデントロ,サルセド,ビリャ・テナレスなどの町や都市に聖書研究グループを作りました。1948年,サンティアゴでバスの乗り継ぎをしようとしていたパブロは,街路で伝道している何人かのエホバの証人を見かけ,「ものみの塔」誌を受け取りました。また別の時には,2冊の書籍を受け取り,サンティアゴで開かれるキリストの死の記念式に招待されました。記念式に出席して話に感銘を受けたパブロは,とうとう真理を見つけ,その集まりの出席者こそ探していた人たちであるとの結論に達しました。
宣教者たちは,パブロから聖書を学んでいた人たちを訪問しました。ある集会場所では,大人27人が待っていました。25㌔の道のりを歩いて来た人や50㌔もの距離を馬の背に揺られて来た人もいたのです。兄弟たちが次に訪れた集会場所では78人が,別の場所では69人が集まりに出席しました。
宣教者たちはパブロから約150人の関心ある人のリストを渡されました。それら謙遜で霊的な思いを持つ人たちは,すでに聖書の原則を当てはめていました。必要だったのは,組織と導きでした。セレステはこう話します。「宣教者たちがわたしたちを訪問し,会合が開かれました。バプテスマの取り決めが設けられ,わたしは家族の中で最初にバプテスマを受けました。その後,母フィデリア・ヒメネスと妹カルメンがバプテスマを受けました」。
最初の巡回大会が1949年9月23-25日にかけてサンティアゴで開かれ,宣べ伝える業に拍車がかかりました。大勢の関心ある人が出席し,日曜日の公開講演の出席者は260人にもなりました。28人がバプテスマを受けました。この3日間の大会に出席した多くの人は,神がご意志を成し遂げるためにこの組織を用いておられることを確信しました。
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投獄と禁令2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
投獄と禁令
中立ゆえに投獄される
エンリケ・グラス,この地下牢に2週間投獄された
1949年6月19日,亡命ドミニカ人部隊が独裁者ラファエル・トルヒーヨの打倒を目指し,空路ドミニカへやって来ます。トルヒーヨ政府はすぐに侵攻計画を阻止しましたが,敵とみなした者だけでなく兵役に就くことを拒否した者までも投獄したのです。兵役拒否で投獄された最初のエホバの証人たちの中には,レオン・グラスとその実の兄弟エンリケとラファエル,またレオンの職場の幾人かの同僚たちがいます。
レオンはこう述懐しています。「[私と同僚たち]は逮捕され,軍の諜報部の尋問を受けました。脅された後,釈放されましたが,それも二,三日後に通常の手続きを経ずに徴兵されるために釈放されたようなものでした。徴兵に応じるのを拒んだ私たちは投獄されました。そこにはすでに4人のエホバの証人がいました。そのうちの二人は私の肉親の兄弟でした。釈放された後に,もう一度刑を宣告されました。こうしたことが3度も繰り返され,釈放されては1日か数日すると,再び投獄されました。最後の刑期は5年に及び,私たちは獄中で7年近くを過ごしました」。
「鞭で打たれたり棒やライフルで殴られたりしても耐えることができたのは,エホバが力を与えてくださったからです」
刑務所では絶えず試練にさらされました。囚人や看守からいつも嘲られました。兄弟たちが最初に投獄されていた“オサマ砦”の司令官は,こう言いました。「エホバの証人諸君,お前たちが悪魔の証人になったらわたしに報告したまえ。そうすれば釈放してやろう」。しかし,反対者たちは兄弟たちの忠誠を打ち砕くことはできませんでした。レオンはその理由をこう説明します。「エホバはいつも忍耐する力を与えてくださいました。ささいな事柄においても事態に介入してくださっているのが分かりました。鞭で打たれたり棒やライフルで殴られたりしても耐えることができたのは,エホバが力を与えてくださったからです」。
エホバの証人の活動が禁止される
真の崇拝に敵対する人々からの迫害は,国中で激しさを増しました。それでも1950年5月には,宣教者のほかに238人の奉仕者がおり,そのうち21人が全時間の開拓者でした。
中立の立場ゆえに兄弟たちが実刑判決を受けたことを伝える新聞記事
そのころ,諜報部の捜査官が大統領秘書官に次のような手紙を書き送りました。「エホバの証人の宗派の信者たちは,この都市[シウダード・トルヒーヨ]の至る所で熱心に活動を続けております。……再度申し上げますが,エホバの証人に対しては特に注意する必要があります。と申しますのは,彼らは伝道活動などによって,一部の世論,特に民衆に間違った思想を植え込んでいるからです」。
ブラント兄弟は内務警察相J・アントニオ・ウングリアから,兵役,国旗敬礼,税金に関するエホバの証人の立場を示した文書を提出するよう求められました。兄弟は,「神を真とすべし」の本の情報に基づく文書を提出しますが,1950年6月21日に,エホバの証人の活動を禁止する法令が出されます。兄弟はウングリアの執務室に呼び出され,禁令を直接伝えられます。宣教者たちは国外退去になるのですかと尋ねると,ウングリアは,法令を守り自分たちの宗教について他の人に話さないなら留まることができる,と述べました。a
a 法令が出されるまでの数週間,カトリックの司祭たちは新聞にエホバの証人を非難する長文の記事を掲載しました。それらの記事で,エホバの証人は共産主義者であると偽り伝えられました。
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伝道は続けられる2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
伝道は続けられる
宣教者たちは地下に潜って活動を続ける
業が禁止され,非常に困難な時期が始まりました。宣教者のアルマ・パーソン姉妹はこう述べます。「王国会館は閉鎖され,業は禁止されました。地元の兄弟姉妹たちは多くの試練や苦しみを経験しました」。また,兄弟たちは失業や投獄も経験しました。それでも,「エホバの導きや保護をはっきりと感じることが何度もありました」と姉妹は語ります。兄弟たちは「エホバの導き」に信頼を置き,地下活動を続けます。
レナート・ジョンソンは,集会を開くことが禁止されていた時のことをこう語ります。「兄弟たちは……少人数のグループに分かれて,個人の家でひそかに集まるようになりました。私たちはそこで,謄写版刷りの『ものみの塔』誌の記事を研究しました。忠節な人たちは皆,それら少人数の研究グループの中でエホバが引き続き与えてくださる霊的な力をとても大事にしました」。
ロイ・ブラントとファニタ・ブラントは,禁令の間,ドミニカ共和国に留まった
政府からの監視や嫌がらせは強まりますが,兄弟姉妹はひるみませんでした。内務警察相ウングリアが大統領に宛てた1950年9月15日付の手紙には,こう記されています。「リー・ロイ・ブラント氏およびエホバの証人の他の指導者たちを幾度もここに呼び出し,ドミニカ共和国で非合法化されたこの団体の宣伝活動をやめるよう警告を与えています。しかし,彼らはその命令に従っていないようです。私の所には,彼らが下された行政処分を無視して,ひそかに宣伝活動を行なっているとの報告が連日,各地から届いています」。手紙の最後には,エホバの証人の「外国人の指導者たち」の国外退去が提言されていました。
「力の源」
1950年の末にノア兄弟とヘンシェル兄弟がドミニカ共和国を訪問し,その後,一部の宣教者たちはアルゼンチン,グアテマラ,プエルトリコに任命されます。残りの宣教者は,国に留まれるよう世俗の仕事に就きます。ブラント兄弟は電力会社に就職し,他の宣教者は英語教師になりました。『1951 年鑑』(英語)はこう報告しています。「宣教者たちが逃げ出すのではなく,国内にいること自体,彼らから真理を学んだ主の忠実な追随者たちの力の源となっている。奉仕を続ける宣教者たちの勇気を目にし,うれしく思っている」。
『国内にいること自体,忠実な人たちの力の源となっている』
ドロシー・ローレンスは,英語を教えた宣教者の一人です。姉妹は英語を教えるだけでなく,関心のある人と聖書研究も行ない,幾人かを真理に導くことができました。
エホバの忠節な崇拝者たちは絶えず監視されながらも,様々な方法を講じて野外奉仕を続けました。例えば,書籍はばらばらにして数ページを折りたたみ,シャツのポケットや買い物袋に忍ばせました。人目を引かずに伝道するためです。野外奉仕報告の用紙は,食料品の買い物リストに見せかけました。書籍,小冊子,雑誌,再訪問,時間を,パパイヤ,豆,卵,キャベツ,ほうれん草に置き換えました。謄写版刷りの「ものみの塔」誌は,この地でよく見かける植物ユカ(キャッサバ)の名にちなんで,ユカと呼ばれました。
弟子を作る業は続けられる
1954年6月16日,ラファエル・トルヒーヨがバチカンとの協定に署名し,特別の特権がドミニカ共和国のローマ・カトリック教会の聖職者に与えられます。禁令は4年間続いていましたが,1955年には478人の奉仕者がいました。困難な状況にもかかわらず,なぜこのような増加が可能になったのでしょうか。『1956 年鑑』(英語)は,「わたしたちの強さの秘訣は,エホバの霊である。兄弟たちは一致し,強い信仰を持ち,勇敢に前進している」と述べています。
1955年7月にエホバの証人の世界本部は,トルヒーヨに公式の手紙を送ります。その中で,エホバの証人の中立の立場を詳しく説明し,また,「エホバの証人およびものみの塔聖書冊子協会に対する禁令を解除」するよう要求します。どんな結果になったでしょうか。
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自由,そして再び禁令2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
自由,そして再び禁令
思いがけない自由
マヌエル・イエレスエロは尋問中に当局によって殺された
幾年も禁令が続いた困難な時期に,レナート・ジョンソンとバージニア・ジョンソン,またロイ・ブラントとファニタ・ブラントは,宣教者として割り当てられた地に留まりました。レナートはこう述べています。「ロイ・ブラントと私は,当局からの尋問を受けるために召喚されました。トルヒーヨ政府は以前に,マヌエル・イエレスエロ兄弟を呼び出しました」。イエレスエロ兄弟は尋問中に殺されてしまいますが,最後まで忠誠を保ちました。では,ジョンソン兄弟とブラント兄弟はどうなったでしょうか。レナートはこう続けます。「到着すると私たちは別々に尋問され,答えは録音されていたようでした。その時は何も起こりませんでしたが,2か月後に新聞は,トルヒーヨ政府がエホバの証人に対する禁令を解くこと,またエホバの証人は業を公に再開できることを伝えました。王国会館が再び各地に置かれ,エホバの業は前進を続けました」。
1950年の禁令前,261人が宣べ伝える活動に参加していました。そして,禁令が解かれた1956年8月には,522人が良いたよりを宣明しました。兄弟たちは6年間,投獄されたり拘束されたり,また常に監視下に置かれたりしていたので,宣教を自由に行なえることを知って本当に興奮しました。
驚くような事態の展開に,エホバの民はどう反応したでしょうか。兄弟たちはすぐに,業の再組織に取りかかります。会衆の集会場所を探し,新しい区域地図や会衆の記録を作成しました。そして,文書の依頼や受け取りができるようになり,とても喜びました。自由に伝道できる状況を活用して熱心に奉仕した結果,わずか3か月後の1956年11月には,612人が宣べ伝える業に参加しました。
憎しみをあおる聖職者たちの運動
トレダノの覚書には,エホバの証人の出版物の輸入を禁止する計画について述べられている
カトリックの聖職者たちは,エホバの証人の信用を落とそうと直ちに行動を起こします。トルヒーヨとバチカンが結んだ協定を後ろ盾に,エホバの証人を根絶するため,政府への働きかけを強めました。カトリックの司祭オスカル・ロブレス・トレダノは内務長官のビルヒリオ・アルバレス・ピナに覚書を送り,「『エホバの証人』の一派がもたらす脅威に,ドミニカの人々の道義心を呼び覚ます」ため,自分が払っている努力を政府に支援していただきたい,と要請しています。
トレダノは,「エホバの証人の布教活動を相殺する」ことが自分の主な目的であると説明しています。そして,エホバの証人の出版物,特に「真理は汝らを自由にすべし」の本と「ものみの塔」誌の輸入を禁止するようにとも勧めています。
再び禁令になる
トルヒーヨ政府の中にも,宗教指導者たちに加担する人たちがいて,エホバの証人を攻撃する計画に加わりました。1957年6月,ドミニカ党の議長フランシスコ・プラッツ-ラミレスはトルヒーヨに覚書を送り,「有害で反愛国的な傾向のあるエホバの証人と闘うため,一連の集会を計画しております」と述べました。
エホバの証人を誹謗中傷する作戦は,すぐに効果を発揮します。「トルヒーヨ カリブの小カエサル」(英語)という本はこう述べています。「1957年の夏の数か月間,ドミニカの新聞には,『扇動および悪質な』活動を理由に政府高官がエホバの証人を次々と起訴したことが報じられた。そして,イエズス会の司祭マリアノ・バスケス・サンスが,トルヒーヨの所有するラジオ局ラ・ボス・ドミニカーナ[ドミニカの声]を通じてその一派を共産主義の僕,また『ひねくれて,抜け目のない,犯罪者,売国奴』と非難したことを契機に,一連の出来事が生じた。大司教リカルド・ピティニとオクタビオ・アントニオ・ベラスの署名入りの司教教書は,司祭たちに『甚だしい異端』から教区民を守るよう要請した」。
教会と国家が手を組み,自分たちの目的を達成します。7月にドミニカ共和国議会が,エホバの証人の活動を禁止する法案を可決したのです。間もなく,兄弟姉妹たちは殴打や警察からの残虐行為を受けるようになり,約150人が逮捕されました。
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カトリック教会とトルヒーヨ2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
カトリック教会とトルヒーヨ
トルヒーヨはカトリック教会とどんな関係にあったのでしょうか。ある政治アナリストは次のように述べています。「1930-1961年まで長く続いたトルヒーヨの時代,教会とドミニカ共和国は持ちつ持たれつの関係にあった。独裁者は教会を優遇し,教会はトルヒーヨ政権を支持した」。
1954年,トルヒーヨはローマへ行き,法王との協定に署名します。トルヒーヨの側近だったヘルマン・オルネスはこう書いています。「ドミニカ教会は圧倒的にトルヒーヨ寄りだった。[このことは]“総統”[トルヒーヨ]にとって大きな後ろ盾となった。大司教リカルド・ピティニとオクタビオ・ベラスに率いられた聖職者たちは,その政権の主要な宣伝者だった」。
オルネスはこう続けます。「法王はことあるごとにトルヒーヨに心からの挨拶を送っている。……1956年,シウダード・トルヒーヨで[トルヒーヨ]後援によるカトリック文化会議が開かれたが,フランシス・スペルマン枢機卿は法王の特使として,心温まるメッセージを読み上げた。ニューヨークから来たスペルマン枢機卿は,大元帥[トルヒーヨ]から大歓迎された。温かく抱擁する二人の姿は,翌日のドミニカ各紙の第一面を飾った」。
1960年,タイム誌(英語)はこう述べています。「これまでトルヒーヨと教会は良い関係にある。南北アメリカの大司教リカルド・ピティニは現在83歳で目が見えないが,4年前,トルヒーヨを褒め称え,『この“独裁者”は民から愛され敬われている』という内容の手記をニューヨーク・タイムズ紙に寄せている」。
カトリック教会は,トルヒーヨの残忍な独裁政治を30年にわたり忠実に支持してきました。しかし,政治情勢が変化するとその立場を変え始めました。前述の政治アナリストはこう説明しています。「独裁支配に対する反対が増し,その後,国内で民主政治を確立しようとする企てがなされると,長年トルヒーヨと非常に親しい関係にあった教会は,立場を変化させることを余儀なくされた」。
結局,2011年にカトリック教会はドミニカ国民に謝罪しました。ドミニカン・トゥデイ(英語)には,次のような司教教書の引用が掲載されました。「私たちは罪を犯し,信仰や聖職,責任に必ずしも忠実でなかったことを告白いたします。それゆえ,赦しを願い求め,ドミニカ国民の皆様からの理解と寛容を懇願いたします」。
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猛攻撃2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
猛攻撃
「彼らは根絶されるだろう」
ボルボニオ・アイバルは,業が禁止されていた1955年1月19日にバプテスマを受けました。バプテスマ後,モンテ・アデントロとサンティアゴでたくさんの聖書研究を司会しました。1956年に禁令が解かれると,ボルボニオの妻をはじめ,兄弟が研究を司会した幾人もの人がバプテスマを受けました。
1957年7月半ば,サルセドで政府高官による会合が開かれました。エホバの証人を攻撃するその集まりについて,アイバル兄弟はこう語ります。「主要な話し手はフランシスコ・プラッツ-ラミレスでした。プラッツ-ラミレスは,『もう数日もすれば,彼らは根絶されるだろう』と述べました」。その数日後の7月19日,警察はブランコ・アリバ,エル・ホボ,ロス・カカオス,モンテ・アデントロでエホバの証人を一斉検挙しました。
アイバル兄弟はこう述懐しています。「わたしも逮捕され,兄弟たちと共にサルセドの軍の司令部に連行されました。そこに着くとすぐに,サラディンという大佐から何度も殴られました。わたしたちを脅す彼の目は怒りに満ちていました。その後,わたしたちは男性と女性に分かれて二列に並ばされました。兄弟たちは看守から殴られたり蹴られたりし,姉妹たちはこん棒でたたかれました。その間,看守たちは,『俺はカトリックだ。お前らを殺してやる』と言っていました」。
「わたしは聖書を読んだことがあるし,エホバが神であることも知っている」
兄弟は罰金と3か月の拘禁刑を言い渡されました。兄弟はこうも述べています。「収容されていた時,サントス・メリド・マルテという陸軍大将がわたしたちの所を訪れ,こう言いました。『わたしは聖書を読んだことがあるし,エホバが神であることも知っている。君たちは投獄されるようなことは何もしていないが,わたしにはどうすることもできない。君たちが投獄されたのはカトリックの司教たちの差し金だからだ。刑期を短くできるのは,その司教たちか,ヘフェ(“ボス”のトルヒーヨ)だけなんだ』」。
「それで,お前がボスなんだな」
逮捕された人の中に,フィデリア・ヒメネスの娘たちと姪たちもいました。皆,フィデリアに研究を司会してもらった人たちです。フィデリアはその時は逮捕されませんでしたが,後に自ら当局に出頭しました。投獄されていた兄弟たちを励ますためです。刑期中に,ルドビノ・フェルナンデスという悪名高い上級軍司令官が刑務所を公式訪問します。尊大さと残忍さで知られていたフェルナンデスはフィデリアを連れて来させ,こう言いました。「それで,お前がボスなんだな」。
「いいえ,ボスはあなた方です」。
「じゃ,お前は牧師だな」。
「いいえ,牧師はイエスです」。
「みんながここに閉じ込められているのは,お前のせいなんじゃないか。お前がみんなを教えたんだろ」。
「いいえ,この人たちが投獄されているのは,聖書から学んだことを実践しているからです」。
フィデリアがそう述べた時,やはり逮捕された二人の兄弟ペドロ・ヘルマンと,フィデリアのいとこネグロ・ヒメネスが廊下を通りかかりました。二人は独居房から普通監房に連れて行かれるところでした。ネグロのシャツは血だらけで,ペドロの片方の目は大きく腫れ上がっていました。フィデリアは二人がひどく殴られたことを察し,司令官に,「神を恐れる善良で正直な人たちに,このような仕打ちをするのですか」と言いました。フィデリアがおびえていないことが分かった司令官は,姉妹を監房に連れ帰るよう看守に命じました。
そうした激しい反対に直面した時には勇気を示す必要がありますが,兄弟たちは本当に勇敢な態度を示しました。役人もそのことに気づきました。例えば,大統領の警護を監督していたルイス・アルセノ・コロンが,外務大臣に宛てた1957年7月31日付の次の手紙からも分かります。「最近国会で,エホバの証人として知られる一派の活動が非合法化されましたが,大半の信者は全く動じていません」。
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頭はだれか2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
頭はだれか
「彼らは頭のいない状態にな(る)」
1957年7月13日,コロンは外務大臣に次のような手紙も書き送っていました。「『蛇は頭を打て』という昔の有名な格言があります。エホバの証人一派を国から根絶するための大きな一歩は,宣教師を追い出す方法を考えることです。そうするなら,彼らは頭のいない状態になり,業は停止するでしょう」。
保安局局長アルトゥロ・エスパイヤは間もなく,残っていた10人の宣教者の国外退去を命じます。1957年7月21日にロイ・ブラント兄弟はトルヒーヨに手紙を書き,自分たちの状況を説明するために会見したい旨を記します。その手紙には一部こうあります。「ある人々がエホバのみ名に対して行なっている悪意ある攻撃は,昔,誤った情報を与えられた人たちがイエスの使徒たちに対して行なった事柄と同じです」。兄弟はトルヒーヨに使徒 2章から6章を読むように勧め,「裁き人ガマリエルの率直で分別のある助言は,当時と同様,今日でも価値があります」と述べました。次いで,目立つかたちで使徒 5章38,39節を引用しています。「あの人たちをほっておきなさい。彼らが行なっている業が神からのものであるなら,あなた方はいずれ,自分たちが神と戦っていることに気づくだろう」。しかし,訴えは聞き入れられませんでした。1957年8月3日,宣教者たちは飛行場へ連れて行かれ,国外退去になりました。
「頭」はイエス
ドナルド・ノイルスは20歳という若さで支部の仕事を監督した
宣教者たちがいなくなり,地元の兄弟姉妹はどうなったでしょうか。コロンが述べたように,「頭のいない」状態になったでしょうか。そのようなことはありません。「体である会衆の頭」はイエスだからです。(コロ 1:18)ですから,ドミニカ共和国のエホバの民は「頭のいない」状態ではありませんでした。エホバとその組織に引き続き世話されたのです。
宣教者が国外退去になった後,ドナルド・ノイルスが支部の監督に任命されました。兄弟は,20歳で,バプテスマを受けて4年しかたっていませんでした。巡回監督として数か月奉仕したことはありましたが,支部の仕事は全く初めてでした。兄弟は自宅の一室を事務所として使用しました。屋根がトタン,壁が木,そして床は地面がむき出しという質素な事務所で,シウダード・トルヒーヨ市内のグアレイという犯罪多発地区に位置していました。ノイルス兄弟はフェリクス・マルテの助けを借りて,国内の兄弟姉妹のために「ものみの塔」誌の写しを作りました。
1958年の謄写版刷り「ものみの塔」誌
マリー・グラスは,夫のエンリケが投獄されている間も,ノイルス兄弟の手助けをしました。こう語っています。「世俗の仕事が午後5時に終わると,ノイルス兄弟の事務所へ行き,『ものみの塔』誌をタイプしました。次にノイルス兄弟が謄写版でそれを複製しました。その後,“み使い”という暗号名のサンティアゴの姉妹が,18㍑入りの植物油の空き缶に雑誌を入れ,布をかぶせてから,キャッサバやジャガイモやタロイモを詰めました。そして一番上に麻袋をかぶせました。姉妹は公共の乗り物を使って国の北部へ行き,各会衆に1冊ずつ雑誌を届けました。会衆では,家族ごとにその雑誌を借りて研究しました」。
グラス姉妹はこう続けます。「注意深さが必要でした。通りには,捜査員がうようよしていたからです。彼らは『ものみの塔』がどこで印刷されているのかを突き止めようとしましたが,発見できませんでした。エホバがわたしたちをいつも保護してくださったからです」。
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逮捕の危険2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
逮捕の危険
「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」
エホバの忠節な僕たちにとって,禁令中も霊的食物を得つづけるのは重要なことでしたが,それには危険が伴いました。当時,大勢の兄弟たちは逮捕され,何度も刑期に服さなければなりませんでした。
ファニータ・ボルヘスはこう語っています。「わたしは1953年に真理を学びました。エホバの証人として逮捕される危険があることはよく分かっていました。そしてその通りになりました。1958年11月,エネイダ・スアレス姉妹の所を訪れていた時に,秘密警察が来て,集会を開いていたとして起訴されました。わたしたちは3か月の拘禁刑と,一人100ペソ(当時の100㌦に相当する)の罰金の支払いを言い渡されました」。
秘密警察が保管していた兄弟姉妹たちに関する詳細な情報。
政府はあらゆる手を尽くして集会をやめさせようとしましたが,兄弟たちはくじけませんでした。とはいえ,「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」である必要がありました。(マタ 10:16)アンドレア・アルマンサルはこう語ります。「集会には皆,時間差をつけて来なければなりませんでした。また疑われないよう,帰りも時間をずらす必要があったので,晩遅くになることもよくありました」。
ヘレミアス・グラスは,父親のレオンが投獄中に生まれ,1957年,7歳の時に伝道者になりました。兄弟は,自宅での秘密の集会や,怪しまれないための予防策について覚えています。こう述べます。「出席者には番号の書かれた小さな厚紙が渡されました。帰る時にどの方向へ行くべきかが番号で分かるようになっていました。集会が終わると,父はわたしを玄関に立たせ,帰る人たちの番号を確認し,二人ずつ玄関を出て同じ方向へは行かないようにと指示させました」。
別の予防策は,見つかる可能性の低い時間帯に集会を開くことでした。メルセデス・ガルシアは,おじのパブロ・ゴンサレスを通して真理を知りました。姉妹が7歳の時に母親が亡くなり,父親も投獄されていました。それで,姉妹を含む子どもたち10人は,自分たちだけで生活しなければなりませんでした。1959年,メルセデスは9歳でバプテスマを受けました。気づかれないよう,バプテスマの話は午前3時半にある兄弟の家で行なわれ,それから首都を流れるオサマ川でバプテスマが施されました。「近所の人たちが目覚めはじめる朝5時半に,わたしたちは帰途に就きました」と言います。
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忍耐してついに解放される2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
忍耐してついに解放される
用心深く奉仕する
現在,妻フランシアと共にベテルで奉仕しているラファエル・パレドは,1957年,18歳の時に伝道者になりました。ラファエルは,奉仕に出ると私服警官に尾行されたことを覚えています。警察はラファエルや一緒に奉仕している人たちを逮捕しようと,機会をうかがっていました。「捕まらないよう,裏通りや狭い路地をすり抜けたり,フェンスを飛び越えたりしたこともありました」とラファエルは言います。アンドレア・アルマンサルは,逮捕されないために自分たちがどんなことをしたか,こう説明しています。「用心深く行動しました。1軒の家を訪問すると,次の10軒は飛ばして,その隣の家を訪問しました」。
ついに解放される
1959年まで,トルヒーヨは30年近く政権を握っていましたが,政治情勢は変化していました。1959年6月14日,トルヒーヨ打倒を目指し,亡命ドミニカ人部隊が再びドミニカ共和国へ侵攻しました。しかし失敗に終わり,共謀者たちは殺されるか,投獄されるかしました。とはいえ,数を増していた反トルヒーヨ勢力は,政権が盤石でないと感じ取り,反対を強めました。
1960年1月25日,長年トルヒーヨ政府と協力関係にあったカトリック教会の聖職者団は,人権侵害に抗議する司教教書を公布しました。ドミニカの歴史家ベルナルド・ベガはこう述べています。「1959年6月の侵攻,またその関係者への弾圧,その後の,国内の地下抵抗運動に対する弾圧を目にした教会は,初めてトルヒーヨに対して敵対的な立場を取るようになった」。
興味深いことに,トルヒーヨ政府は1960年5月にエホバの証人に対する禁令を解除します。解放は意外なところから,カトリック教会と仲たがいをしたトルヒーヨ自身からもたらされたのです。
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宣べ伝える自由を得る2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
宣べ伝える自由を得る
トルヒーヨ暗殺される
1960年,トルヒーヨの独裁支配に対する国際的な批判や国内からの反対が強まっていました。そうした政治的緊張のさなか,1961年1月に,世界本部からミルトン・ヘンシェルが訪問し,3日間の大会に出席しました。大会の公開集会には957人が出席し,27人がバプテスマを受けました。ヘンシェル兄弟は訪問中,業の再組織や区域地図の作成に取りかかれるよう兄弟たちを援助しました。
エンリケ・グラスとフリアン・ロペスの二人が巡回監督として任命され,諸会衆を訪問しました。ロペス兄弟は,「わたしの巡回区は,北部のすべての会衆と東部にある2つの会衆で構成され,エンリケの巡回区は,東部の残りの会衆と南部のすべての会衆が含まれていました」と言います。巡回監督の訪問によって,会衆は再び組織とつながり,兄弟たちは霊的に強められました。
ドミニカ共和国へ向かうサルビノ・フェラーリとヘレン・フェラーリ,1961年
1961年に,ギレアデ第2期の卒業生サルビノ・フェラーリとヘレン・フェラーリが到着しました。キューバでの宣教者としての経験は,ドミニカ共和国の大規模な霊的収穫を行なううえで非常に役立ちました。フェラーリ兄弟は後に支部委員になり,亡くなる1997年までその立場で奉仕しました。妻のヘレンは79年間,その大半は宣教者として,全時間奉仕を行なっています。
フェラーリ兄弟姉妹が到着した直後,トルヒーヨの恐怖政治は5月30日の晩に悲惨な仕方で終わりを迎えます。暗殺者たちがトルヒーヨの乗った車に銃弾を浴びせたのです。しかし,トルヒーヨの暗殺は政治的な安定にはつながらず,社会的および政治的な混乱が続きました。
宣べ伝える業は前進する
その間にも,さらに多くの宣教者が到着します。ギレアデ第1期生のウィリアム・ディングマンと,妻のエステル,テルマ・クリッツ,フロッシー・コロネオスです。兄弟姉妹たちは,プエルトリコ支部からドミニカ共和国へ任命替えになりましたが,それはトルヒーヨが暗殺されてからわずか2日後のことです。ディングマン兄弟はこう述べました。「到着した時,国内は大動乱の状態で,軍事活動が盛んに行なわれていました。革命の起こることが心配され,兵士たちは高速道路を通る人を一人残らず検問しました。私たちも幾つかの検問所で止められ,その都度,手荷物を調べられました。スーツケースの中身が全部,どんな小さなものも取り出されたのです」。政情が不安定な中で宣べ伝えるのは大変なことでした。
テルマ・クリッツ,エステル・ディングマンとウィリアム・ディングマン。3人は67年にわたる熱心な宣教者奉仕を行なった今もドミニカ共和国で奉仕している
兄弟はこう続けます。「トルヒーヨの独裁統治の期間中,人々は,エホバの証人が共産主義者で,最も悪質な人間だと教えられていました。……しかし私たちは,徐々に偏見を打ち砕くことができました」。業が再び本格的になり,ますます多くの誠実な人々が王国の音信にこたえ応じました。1961奉仕年度の終わりには,33人の特別開拓者が奉仕していました。
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留まって活動を続ける2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
留まって活動を続ける
彼らは真理を見つけた
フアナ・ベントゥーラは宣べ伝える業が禁止されていたときに研究を始め,1960年にオサマ川でバプテスマを受けました。ある時,サントドミンゴの福音派教会の牧師が,フアナを投獄してしまいたいと思いました。牧師いわく,フアナが「信者たちを奪い去っている」からです。牧師は,エホバの証人がうそつきなことを証明したいと考えました。また,フアナの信用を落としたいとも思い,フアナに教会へ来て新たに見いだした信仰に関する質問に答えるようにと言いました。
フアナはこう語ります。「牧師はわたしに3つの質問をしました。『なぜ選挙に行かないのか,なぜ戦争に行かないのか,なぜエホバの証人と名乗るのか』という質問です。それぞれの質問に聖書から答えると,集まった人たちは皆,それらの聖句を開き,読んだ事柄に驚きました。多くの人は自分たちが真理を見つけたことに気づき,全員が聖書研究を始めました。やがて25人がエホバに献身しました」。この出来事によって,サントドミンゴでの宣べ伝える業に弾みがつきました。
エホバの証人は留まって活動を続ける
トルヒーヨの暗殺後,政治的に不安定な状態が続きました。『1963 年鑑』(英語)は,「通りには兵士があふれ,毎日のようにストライキや暴力事件が起きている」と報告しています。しかし,こうした政治的混乱にもかかわらず,宣べ伝えて弟子を作る業は前進しました。1963奉仕年度の終わりには,1155人の伝道者最高数に達しました。
1962年に世界本部からネイサン・ノアが訪問し,土地の購入の手はずを整えました。急速に拡大していた宣べ伝える業を世話できるさらに大きな施設を建設するためです。その新たな土地に2階建ての施設と王国会館が建設され,1963年10月12日,土曜日,世界本部のフレデリック・フランズが新しい支部施設の献堂の話を行ないました。エホバの証人がドミニカ共和国で活動を続けるつもりでいることは明らかでした。施設が献堂されて間もなく,ハリー・ダフィールドとパキタ・ダフィールドが到着します。兄弟姉妹は,キューバから強制退去になった最後のエホバの証人の宣教者でした。
革命にもかかわらず増加する
1965年4月24日に革命が起き,困難な時期が続きましたが,エホバの民は霊的に繁栄しました。1970年には3378人の奉仕者がおり,63の会衆がありました。奉仕者の半数余りは過去5年以内に組織に入って来た人たちでした。『1972 年鑑』(英語)はこう述べています。「彼らの職業は様々です。自動車整備士,農業従事者,バスの運転手,会計士,建築家,大工,弁護士,歯科医,それに政治家だった人もいます。真理に対する愛とエホバに対する愛によってみな引き寄せられたのです」。
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さらに多くの奉仕者が必要2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
さらに多くの奉仕者が必要
遠隔地に良いたよりを伝える
さらに大勢の宣教者が遣わされました。ピート・パスカル,エイモス・パーカーとバーバラ・パーカー,ボリビアで奉仕していたリチャード・スタッダードとベルバ・スタッダード,またコロンビアで奉仕していたジェシー・キャントウェルとリン・キャントウェルなどです。それらの宣教者たちによって,急速に拡大する宣べ伝える業がさらに推し進められました。聖書の教育活動は1973年までには,都市部で盛んに行なわれていました。しかし,農村部にはまだ王国の良いたよりは伝えられていませんでした。それで,農村部に住む人たちの霊的必要を世話するための取り決めが設けられました。田舎の地域で2か月間働く奉仕者が募られたのです。19人の正規開拓者が応じました。1973年12月から1977年1月まで,宣べ伝える業がほとんどあるいは全く行なわれていない地域に大勢の開拓者が割り当てられました。
「聖書の出版物をニワトリや卵や果物と交換しました」
この特別な奉仕に参加した一人の開拓者は,こう言います。「聖書の音信を紹介し人々に文書を配布するのに1日を費やし,二日目は関心を示した人々に再訪問をするのに用いました。田舎の人たちはほとんどお金を持っていませんので,聖書の出版物をニワトリや卵や果物と交換しました。エホバに感謝すべきことに,私たちは空腹を感じたことは一度もありませんでした」。聖書が読まれるのを耳にすることは多くの人にとって生まれて初めてのことでした。宗教指導者たちが,エホバは悪魔であると人々に告げていたこともありました。それで次の詩編 83編18節といった聖句を読んだ時に人々はどんなにか驚いたことでしょう。「その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者……です」。幾つかの場所では関心があまりにも大きかったので,公開集会が組織されました。
さらに大勢の宣教者,そして新しい支部
1979年9月,宣教者に任命されたアベゲイル・ペレスとジョージナ・ペレスが到着し,巡回奉仕に割り当てられました。1987年には,宣べ伝える業を強化するために,ギレアデ卒業生のトム・ディーンとシャーリー・ディーンが遣わされました。また,プエルトリコから移動して来た特別全時間奉仕者たちによっても大きな益が及びます。さらに1988年8月に,宣教者のライナー・トンプソンとジーン・トンプソンがドミニカ共和国に任命されます。兄弟姉妹にとっては5か所目の割り当てでした。
1989年,平均伝道者数は1万1081人に増加し,さらに増加が見込まれました。2万494件の聖書研究が報告されたのです。こうした増加によって難しい問題も持ち上がりました。それまで支部の建物はその目的に十分かなっていましたが,1980年代後半になると,あまりにも手狭になりました。「過密状態だったため,支部の外に宿舎や倉庫を見つける必要が生じました」とトンプソン兄弟は述べています。
兄弟はこう続けます。「新しい支部に適した土地を見つけるのは大変でした。すると,わたしたちが土地を探していることを知ったある実業家から連絡が入りました。その人が言うには,エホバの証人だけに一等地を売りたいということでした。その人は昔,縫製業を手広く営んでいたのですが,秘書と従業員の幾人かがエホバの証人だったようです。幾年もの間,エホバの証人の際立った正直さと敬意のこもった行状を目にし,とても感銘を受けたそうです。エホバの証人を高く評価していたその実業家は,破格の値で土地を売ってくれました」。その土地は1988年12月に購入され,その後,隣接する3つの土地も取得されました。支部と隣接する大会ホールを合わせると,9ヘクタールほどの広さになります。
国内外から来た大勢の兄弟姉妹が新しい支部と大会ホールの建設を手伝いました。支部施設が献堂されたのは1996年11月です。統治体の成員ケアリー・バーバー,セオドア・ジャラズ,ゲリト・レッシュが献堂式のプログラムを扱いました。翌日,特別な集まりが国内最大級の2つのスタジアムで開かれ,その後1万人を超える人たちが新しい支部施設を見学しました。
「マケドニアへ渡って来(る)」
ドミニカ共和国のエホバの民の歴史は,必要の大きな場所で奉仕するためにこの国に移動して来た大勢の兄弟姉妹なしには語れません。聖書研究をたくさん司会できる霊的に肥沃な畑に関する報告を読んで,励まされた大勢の兄弟姉妹たちが,1980年代後半から,いわば「マケドニアへ渡って来(た)」のです。(使徒 16:9)その人たちが,ドミニカにおける収穫の業で経験している喜びを他の兄弟たちに語り,こうして,1990年代にはさらに大勢の人たちが移動して来るようになったのです。
例えば,デンマーク出身のステバン・ナアエーヤとミリアム・ナアエーヤは,2001年からドミニカ共和国で奉仕しています。ミリアムはそれ以前にも姉と共に1年半ここで奉仕していました。ナアエーヤ兄弟姉妹は,なぜ異なる文化や言語の国に移り住んだのでしょうか。姉妹はこう語ります。「わたしたち夫婦は共に,霊的に強い家庭で育ちました。両親は若いとき特別開拓者でした。子どもが生まれた後は正規開拓者として奉仕していました。わたしたちはいつも両親から,全時間奉仕をしてエホバにすべてをささげるようにと励まされていました」。
ナアエーヤ兄弟姉妹は2006年から特別開拓者として奉仕し,真理を学ぶよう大勢の人を援助してきました。兄弟はこう語ります。「数え切れないほど多くの祝福を受けています。どんな困難や健康上の問題があっても,受けてきた素晴らしい祝福や,エホバを知って愛するよう誠実な人たちを援助する時の喜びに比べれば,それは取るに足りません。愛情深い友人も大勢できました。ドミニカ共和国で奉仕して,謙遜さや辛抱強さを学びましたし,簡素な生活によって,エホバへの信仰と信頼が強まりました」。
この国で20年余り奉仕してきたジェニファー・ジョイは,手話の区域で働いている
この国で奉仕している大勢の外国人の姉妹の中に,ジェニファー・ジョイがいます。姉妹は1992年に,長年宣教者として奉仕していた伯母のイーデス・ホワイトに会うため,ドミニカを訪れ,宣教で良い成果を得ました。また,必要の大きな所で奉仕する海外からの姉妹たちにも会いました。ジェニファーはこう言います。「わたしは内気で,あまり自信もありませんでしたが,『姉妹たちにできるなら,わたしにもできるかもしれない』と思いました」。
姉妹は最初,1年間滞在する予定でしたが,1年また1年と滞在を延ばし,今では20年余りドミニカで奉仕しています。エホバの崇拝者になるよう,多くの研究生を援助してきました。また,手話の分野での発展に貢献したり,言語クラスのカリキュラムの準備に携わったりする喜びも得ました。
「エホバはこれまでずっとわたしを世話してくださったのですから,次の年は世話してくださらないのではないか,と心配する必要はありません」
ジェニファーはどのように自活しているのでしょうか。「毎年,数か月カナダに帰って仕事をします。これまで色々な仕事をしました。写真の現像や撮影,家の塗装,事務所の清掃,車のヘッドライトの組み立て,カーペットの製造などです。また,ツアーガイド,旅行代理店の社員,英語の教師,通訳としても働きました」と言います。姉妹は自分の状況を荒野での古代イスラエル人の状況に例え,こう言います。「イスラエル人はエホバの口から出るすべての言葉によって生きました。そのみ言葉は,彼らを顧みると約束しています。そしてエホバはそのとおりのことをされました。イスラエル人は毎日食物を得,服やサンダルはすり切れませんでした。(申 8:3,4)エホバはわたしたちのことも世話してくださると約束しています。(マタ 6:33)エホバはこれまでずっとわたしを世話してくださったのですから,次の年は世話してくださらないのではないか,と心配する必要はありません」。
これまで,自己犠牲の精神を持つ1000人以上の福音宣明者たちがオーストリア,スウェーデン,スペイン,台湾,日本,プエルトリコ,米国,ポーランド,ロシアといった様々な国から移動して来ました。それら必要の大きな所で奉仕する30もの異なる国籍の兄弟姉妹は,アメリカ手話,イタリア語,英語,スペイン語,中国語,ハイチ・クレオール語,ロシア語の会衆と交わっています。兄弟姉妹は,使徒ペテロが述べた次のような精神を示しています。「ご覧ください,わたしたちはすべてのものを後にして,あなたに従ってきました」。―マル 10:28。
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互いに愛し合う兄弟たち2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
互いに愛し合う兄弟たち
新しい学校は増し加わる必要を満たす
エホバはご自分の僕たちの勤勉な働きを祝福され,1994年には,平均して1万6354人の王国伝道者が259の会衆に交わっていました。この胸の躍るような増加のため,有能な長老や奉仕の僕の必要性が高まりました。その同じ年,統治体はドミニカ共和国で宣教訓練学校(現在は,「王国福音宣明者のための学校」)を開くことを承認しました。
2011年10月までに25のクラスが開かれ,約600人が卒業しました。現在,卒業生の半数は何らかの全時間奉仕をしています。そのうちの71人は特別開拓奉仕,5人は巡回奉仕を行なっています。第10期のクラスまでは支部で開かれましたが,第11期からはビリャ・ゴンサレスにある専用の施設で行なわれています。
「エホバの証人は仲間を大事にする人たちだ」
1998年9月22日にハリケーン・ジョージがドミニカ共和国を襲いました。風速53㍍の風が吹き荒れ,大きな被害をもたらしました。幾万もの人々が家を失い,300人以上が亡くなりました。災害救援委員会は地区建設委員会の助けを得て,ラ・ロマナにある王国会館に救援センターを設置し,約300人の兄弟姉妹が救援活動に携わりました。その中には,16の異なる国から駆けつけた人たちもいました。
王国会館23棟と800軒を超える兄弟姉妹の家が,修理もしくは建て直されました。年配の正規開拓者のカルメンという姉妹は,38年住んでいた家が全壊し,途方に暮れました。しかし,15人の兄弟たちから成るチームが,新しい家の基礎工事をするためにやって来た時,喜びを抑えることができませんでした。姉妹はこう言いました。「エホバはわたしたちのことをいつも心に留めてくださり,世話してくださいます。兄弟たちがわたしのために建てたこの美しい家を見てください。近所の人たちは,『エホバの証人は仲間を大事にする人たちだ。本当に互いを愛しているのが分かる』と言っています」。痛手を負った兄弟姉妹の救援が行なわれている際,これと同じような言葉が国中で聞かれました。
ハリケーン・ジョージは大災害をもたらしましたが,エホバの民の救援活動により,被災した兄弟たちは霊的また身体的に慰められました。そして何よりも,救援に当たった兄弟たちの自己犠牲的な努力は,真の慰めの源であるエホバに賛美をもたらしました。
王国会館建設が加速する
新しい弟子が急速に増えていたため,王国会館の必要が高まりました。そのため,2000年11月,資金や人材の限られた国々のための取り決めを活用して王国会館の建設に着手します。こうして,会衆は,居心地の良い魅力的な王国会館を約8週間で建てることができるようになりました。2011年9月までに,2つの建設グループによって145棟の王国会館が新築もしくは改装されました。
王国会館だけでなく,建設奉仕者の存在も強力な証言となりました。例えば,国の北西部の小さな町で,兄弟たちは新しい王国会館の候補地を見つけました。特別開拓者の兄弟が,その土地を取得したい旨を地主に話しました。すると,「いくら言っても無駄だよ。この土地は売らないし,教会を建てるということなら,なおさらだ」と言われてしまいました。
この地主の男性は,特別開拓者の兄弟との話し合いがあって間もなく,エホバの証人である高齢の兄に会うためにプエルト・プラタへ行きました。そして,あるエホバの証人の家族が病気の兄を引き取って世話していることを知りました。その家族は兄を病院や集会や伝道に連れて行ってくれていたのです。男性は兄に,世話のお礼に幾ら支払っているのかと尋ねましたが,「お金は払っていないよ,仲間だからね」という返事が返ってきました。
「これほど一致していて親切な人たちは見たことがない」
証人たちの人並み外れた親切に感激したこの男性は,以前自分の所へ来た特別開拓者と連絡を取り,気持ちが変わり土地を売ることにした,と言いました。兄弟たちは土地を取得し,王国会館を建て始めました。地主の妻は,以前エホバの証人に対してかなり否定的な見方をしていましたが,建設現場で兄弟たちが一致して働く様子を見て,「これほど一致していて親切な人たちは見たことがない」と言いました。
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増加に取り組む2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
増加に取り組む
「あらゆる人が救われ」るようにする
エホバのご意志は,「あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ること」です。(テモ一 2:4)この神の見方と調和して,ドミニカ共和国のエホバの証人たちは,区域に住むあらゆる人に会うための誠実な努力を払ってきました。それには,刑務所に収容されている人たちも含まれます。
1997年,特別開拓者の夫婦がサン・クリストバルのナハヨ刑務所を毎週訪問していました。二人は,薬物の密売で投獄されていた23歳のコロンビア人のグロリアという女性に出会います。グロリアは,不当に投獄されていたある姉妹と聖書の話し合いをしていました。聖書の疑問に答えるため,兄弟姉妹はグロリアに「聖書から論じる」などの出版物を渡しました。熱心に学ぶグロリアから感化を受けた他の受刑者たちも,週1度の訪問の際の集まりに出席するようになり,その数は増えてゆきました。
グロリアは,真理によって大きく変化します。1999年にバプテスマを受けていない伝道者になり,刑務所という区域で毎月70時間以上,宣べ伝えました。また,他の受刑者との進歩的な研究も6件司会しました。その後,2000年に大統領恩赦を申請すると,良い行状ゆえに受理されました。グロリアは釈放されてコロンビアに送り返されます。それから間もなく,家族からの強い反対はありましたが,バプテスマを受けました。
グロリア・カルドナは刑務所で真理を知った。現在は夫と共に開拓者として奉仕している
その後,グロリアは開拓奉仕を始めます。そして,長老の兄弟と結婚し,現在は夫と共に正規開拓者としてコロンビアの必要の大きな場所で奉仕しています。研究生の幾人かを献身とバプテスマの段階まで援助することができました。姉妹は,エホバに恩義を感じています。それで自分にしてもらったように,真理を知るよう人々を援助することが,エホバに感謝を示す最善の方法だと考えています。
グロリアの経験が示すように,鉄格子でさえ,命を救う真理を学ぶ妨げとはなりません。支部の代表者は刑務局の役人と会い,兄弟たちがさらに多くの刑務所で聖書研究を司会するための許可を願い求めました。結果として,43人の兄弟と6人の姉妹に,13の刑務所で聖書の教育活動を行なう許可が下りました。
「あなたの天幕の綱を長く……せよ」
20世紀の終わりには,この国に2万1684人の良いたよりの奉仕者がおり,342の会衆と交わっていました。また3万4380件の聖書研究が司会されていました。記念式には7万2679人が出席しました。こうした増加が得られたのは,エホバの民がイザヤの次の言葉に緊急感をもってこたえ応じたからです。「あなたの天幕の場所をもっと広くせよ。そして,彼らにあなたの壮大な幕屋の天幕布を張り伸ばさせよ。ためらうな。あなたの天幕の綱を長く……せよ」。―イザ 54:2。
増え続ける奉仕者を収容できる大会ホールの確保が大きな問題となりました。1996年に,サントドミンゴの支部に隣接する大会ホールが完成します。そのホールは,首都サントドミンゴとその周辺地域の諸会衆にとって大いに役立つものでした。しかし,残りの地域の諸会衆が使用するビリャ・ゴンサレスの大会ホールは,どう見ても改装もしくは建て替えが必要でした。
2001年に統治体は,ビリャ・ゴンサレスの敷地に2500席の大会ホールの建設を承認しました。兄弟たちは,宣教訓練学校(現在は,「王国福音宣明者のための学校」)で使用する施設も建設されることを知り,興奮しました。大会ホールに隣接して建てられるその施設には,寮室,教室,図書室,厨房,食堂があります。2004年に統治体のセオドア・ジャラズが,献堂の話を行ないました。それ以来,15クラスの生徒がその学校を卒業しています。
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ハイチ・クレオール語の畑2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
ハイチ・クレオール語の畑
ハイチ・クレオール語の畑を開拓する
スペイン語の畑はとても産出的でしたが,やがて他の言語を話す人々がこの国に移り住み,希望の音信にこたえ応じるようになりました。隣国ハイチから来た人たちの主要言語はハイチ・クレオール語です。ドミニカとハイチの関係は常に良好だったわけではありませんが,幾十万ものハイチ人がドミニカ共和国の労働人口のかなりの部分を占め,近年その数は急激に増加しています。
幾年もの間,ハイチ・クレオール語を話す人が真理に関心を示すと,スペイン語会衆と交わって霊的な援助を受けていました。しかし,より良い霊的援助がなされるよう,1993年に統治体はグアドループ支部に次の指示を与えます。それは,ドミニカ共和国のハイチ・クレオール語の畑で奉仕できる特別開拓者を募ることです。その呼びかけに,バルナベ・ビアビアニーとジェルメーヌ・ビアビアニーを含む,3組の夫婦が応じました。ビアビアニー兄弟はこう言います。「最初はハイチ・クレオール語のブロシュアーは2種類しかありませんでした。他の文書はフランス語だったので,わたしたちはハイチ・クレオール語にまず翻訳しなければなりませんでした」。
1996年1月には,ハイチ・クレオール語のグループを援助したいと願う奉仕者がイグエイに9人,サントドミンゴに10人いました。それらの都市に群れが設立され,やがて会衆になりました。しかし,会衆は解散になります。多くのハイチ人がスペイン語の習得を願い,スペイン語会衆と交わることを望んだのです。「わたしたちは奉仕部門の兄弟たちと会合を持ち,当分の間この言語の奉仕を行なわないのが賢明だと判断しました」と,ビアビアニー兄弟は言います。
ハイチ・クレオール語の区域での業を再開する
2003年,統治体は宣教者の夫婦ドン・バークとグラディス・バークをドミニカ共和国のハイチ・クレオール語の区域に遣わしました。二人はイグエイで2年間奉仕し,良い成果が見られるようになりました。2005年6月1日,ハイチ・クレオール語の会衆が設立されたのです。ドン・バーク,バルナベ・ビアビアニー,また宣教者のスティーブン・ロジャーズが国中を精力的に回り区域を耕しました。
業はよく前進し,さらに会衆が設立されます。2006年9月1日,ハイチ・クレオール語の最初の巡回区が組織されました。巡回区は7つの会衆と2つの群れから成り,バルナベ・ビアビアニーが巡回監督として奉仕しました。
その後何年かにわたり,さらに数人の宣教者がこの区域に割り当てられました。また,カナダ,ヨーロッパ,米国などから大勢の奉仕者が移動して来ました。資格を備えた兄弟たちが,ハイチ・クレオール語の言語コースの準備に割り当てられました。
ハイチ人ではない人がハイチ・クレオール語を話すと,エホバの証人とみなされることが少なくない
大勢のドミニカ人の兄弟たちがこの言語を学び,ハイチ人に良い影響が及んでいます。今では,ドミニカ人の奉仕者がハイチ・クレオール語で聖書の真理を説明すると,相手の緊張は和らぎ,王国の音信が伝えやすくなります。本当に大勢の兄弟たちがこの言語を学んでいます。そのため,ハイチ人ではない人がハイチ・クレオール語を話すと,エホバの証人とみなされることが少なくありません。
異なる文化の人に関心を示すと,大きな影響が及ぶことを示す例があります。ハイチ・クレオール語の言語コースに出席したドミニカ人の開拓者の姉妹の経験です。姉妹は奉仕で関心のあるハイチ人の夫婦に会い,その後,聖書研究を始めたいと思い再訪問しました。姉妹はこう言います。「二人に会うと,わたしは奥さんの頬にキスをしました。それはドミニカの女性の習慣でしたが,奥さんが泣き始めたんです。『どうなさったんですか』と尋ねると,『この国に来て何年にもなりますが,キスをして挨拶してくれたのは,あなたが初めてなんです』という答えが返ってきました」。
この畑における勤勉な働きにエホバの祝福が注がれ,驚くべき増加がもたらされました。2009年9月1日には,ハイチ・クレオール語の会衆が23,群れが20あり,2つ目の巡回区が組織されました。2011年の記念式の出席者数は,将来の増加の見込みを示しています。例えば,リオ・リンピオという小さな町の11人の奉仕者は,記念式に594人が出席するのを見て喜びました。また,ラス・ヤヤス・デ・ビアハマという町にはエホバの証人は一人もいませんが,そこで行なわれた記念式には170人が出席しました。2011年9月になると,33の会衆と21の群れが存在するようになり,翌年に3つ目の巡回区が組織されました。
ドミニカ支部とハイチ支部は,両国の兄弟たちを訓練するために協力し合いました。「独身の兄弟のための聖書学校」の5つのクラスと「クリスチャンの夫婦のための聖書学校」の4つのクラスがハイチ・クレオール語で開かれたのです。
ハイチ・クレオール語を学んでいる兄弟姉妹たち
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ハイチで発生した地震2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
ハイチで発生した地震
中国語の畑における増加
2005年に支部は,中国語を話すベテル奉仕者の呉 梃華<ウ ティンファ>を特別開拓者に任命しました。中国語を話す大勢の人々に宣べ伝えるためです。呉兄弟の両親は中国からサントドミンゴに移住し,兄弟はこの国で生まれ育ちました。
2008年1月1日,サントドミンゴに北京<ペキン>官話の会衆が設立され,2011年にはサンティアゴに群れができました。36人の正規開拓者と数人の補助開拓者を含む,70人の奉仕者は,毎月平均76件の聖書研究を司会しています。
英語を話す人々を探す
2007年までに,376の会衆に交わる2万7466人の奉仕者が4万9795件の聖書研究を司会していました。とはいえ,この国には英語を母語とする人も大勢おり,英語会衆は1つもありませんでした。2008年4月,支部は宣教者のドナルド・エルウェルとジェーン・エルウェルをサントドミンゴに遣わします。英語の群れを立ち上げるためです。小さいながらも熱意に燃えた奉仕者の一群はまず,英語を話す人たちがどこに住んでいるのかを調査し,次いで区域を組織して,徹底的な証言を行なえるようにしました。
こうした努力によって,サントドミンゴの英語の群れは増加し,2009年7月に39人の奉仕者から成る会衆が設立されました。他の地域でも同様の努力が払われた結果,2011年11月には,国内に7つの英語会衆と1つの英語の群れができていました。
盲ろう者の女性がエホバの側に立つ
特別開拓者の姉妹が触手話でロリスと話している
アッシャー症候群を患うロリスは,孤児として育ちました。生まれつき耳が聞こえず,16歳の時に視力も失い始めました。昼間は幾らか見えますが,夜は全く見えません。それで日が暮れると,触手話だけが意思を通わせる手段です。
ロリスは23歳の時に,特別開拓者の夫婦と出会います。その時,ろう者の男性と同棲しており,男性との間には1歳になる聴者の娘がいました。会衆の集会に招待されたロリスは,集会で学んだ事柄に深く心を動かされました。
ロリスはすぐに生活を変化させます。例えば,その男性と結婚せずに一緒に住むのはふさわしくないことを知ると,関係を合法化する重要性について男性と話し合い,聖書の道徳規準を曲げるつもりはないと述べました。ロリスの率直さに驚いた男性は,結婚に同意しました。
結婚後,ロリスは伝道者になり,すぐバプテスマを受けました。エホバの証人との研究でアメリカ手話を覚えたロリスは,真理はもちろんのこと,アメリカ手話も娘に教えています。
巨大地震がハイチを襲う
ドミニカとハイチの人々は,2010年1月12日火曜日を忘れることはできないでしょう。その日,壊滅的な地震がハイチを襲ったのです。エホバの証人の統治体は直ちにドミニカ支部に対して,救援活動に必要な金銭をハイチ支部へ送ることを承認します。それがかなりの額に上るため,身長190㌢,体重127㌔のエバン・バティスタが届けることになりました。兄弟はベテルの医師でした。
バティスタ兄弟を遣わす決定は,神の導きだったことが明らかになります。と言うのは,兄弟が国境まで行くと,医療上の助けが本当に必要とされていることが分かったからです。重傷を負った人が大勢ハイチ支部に隣接する大会ホールに運び込まれていました。兄弟たちはバティスタ兄弟が医師だと分かると,ハイチに留まってもらえるよう,ドミニカ支部に電話をしました。言うまでもなく,それは許可されます。こうして,地震のわずか数時間後に,ハイチの霊的兄弟たちに対する大規模な救援活動が始まりました。
2010年に発生した地震の後,援助のために集まった兄弟たち
ドミニカ支部の購入部門は,取り引きのある幾つもの食品業者と連絡を取り,米や豆などの基本食糧品6800㌔余りを入手し,それらを1月14日木曜日の午前2時30分にハイチへ送りました。これは国外からハイチに届いた最初の救援物資のようです。その日の後刻,ドミニカ共和国からさらに3人の医師が7時間かけてハイチ支部に到着します。すでに夜遅くなっていましたが,医師たちは宿舎には向かわず,負傷した人々の所へ行って真夜中まで治療に当たりました。翌日,さらに4人の医師と4人の看護師がドミニカ共和国からやって来ました。大会ホールには仮設の手術室が設けられ,医療環境は劣悪でしたが,外科手術も行なわれました。12人の医師と看護師は,翌週にかけて300人余りを治療しました。
毎日,重篤な状態の人たちが治療のためにドミニカ共和国へ送られました。ハイチに救援物資を運んで来た車両が,それらの人たちをドミニカの医療センターに搬送するということもありました。ドミニカ支部は患者訪問グループを組織して,負傷した人たちを励まし,必要な医療や生活必需品が与えられるようにしました。また,地元の会衆は付き添って来た家族に食べ物や宿舎を備えました。
エホバの証人は食事40万食を含む,450㌧余りの寄付された物資を無償で分配した
箴言 17章17節には,人を元気づける次のような言葉があります。「真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である」。災害後,エホバの民はその言葉通り,苦しんでいる仲間のために自分を与え続けました。エホバがご自分の霊とクリスチャンの兄弟たちを通して,死に面していた忠節な人たちをも,支えてくださったという経験は数多くあります。熱心な救援活動は何か月も続けられ,エホバの証人は食事40万食を含む,450㌧余りの寄付された物資を無償で分配しました。また,世界各地から駆けつけた78人の医療従事者は,大勢のボランティアと共に,自分たちの時間や技術を惜しみなく与えました。a
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素晴らしい見込み2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
素晴らしい見込み
良い評判
エホバの証人がドミニカ共和国で活動を始めてから70年ほどがたちます。その間,非常に良い評判を得てきました。奉仕していると,人々が近寄って来て文書を求めることがよくあります。また,「この宗教は好きだ」とか「エホバの証人は聖書に従って生活している」といった言葉を耳にすることも珍しくありません。
ある兄弟の寄贈した土地に王国会館を建てようとした際に生じた出来事を考えてみましょう。この兄弟が土地の登記を行なおうとした時,だれかがその土地を不正に登記していたことが分かりました。その人は,自分から土地を奪おうとしているとして兄弟を訴えました。問題は法廷に持ち込まれましたが,それは厄介な裁判になりました。その男性が,本人の土地であることを示す書類を持っていたからです。
裁判官はある時,兄弟側の弁護士に,だれの代理人なのかと質問しました。弁護士が,エホバの証人の団体の代理人であると答えると,裁判官はこう述べました。「そうであるなら,これらの申し立ての真実性を疑う理由はない。わたしはエホバの証人のことを知っている。彼らは正直な人たちだ。だれかをだましたり,人のものを取ったりすることなど決してない」。
法廷で証拠が提出されると,男性が書類を偽造していたことが明らかになり,エホバの証人に有利な判決が下されました。「これは珍しいことではありません。各地の法廷で,エホバの証人について語られると,決まって深い敬意のこもった反応が示されます」とエホバの証人である弁護士は述べています。
将来に目を向ける
あとどれほど多くの義を愛する人々が聖書を学んで,まことの神の崇拝者になるのかは,時間がたってみなければ分かりません。しかし,そうした人々を見いだすための努力が払われています。例えば,2013年,ドミニカ共和国のエホバの証人は宣べ伝える活動に1100万時間を費やし,7万1922件の聖書研究を司会しました。また,9776人が何らかの開拓奉仕に携わりました。同じ年の8月には,3万5331人が活発に奉仕しました。将来の増加も大いに見込まれています。記念式に12万7716人が出席したのです。
1945年4月にレナート・ジョンソンとバージニア・ジョンソンが王国の良いたよりを伝え始めてから,この国における宣べ伝えて弟子を作る業は大きな発展を遂げてきました。ドミニカ共和国のエホバの証人は,自分たちの豊かな霊的相続財産を大切に思っています。また,真の崇拝者たちがこれまで勇敢にささげてきた犠牲にも感謝しています。しかし何よりも,今得ている特権を貴重なものとみなしています。それは,「神の王国について徹底的な証し」を行なうという特権です。(使徒 28:23)兄弟姉妹は,この島のすべての人が世界中の仲間の崇拝者たちと共に,「エホバ自ら王となられた! 地は喜べ。多くの島々は歓べ」と歌える日を心待ちにしているのです。―詩 97:1。
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22人もの人が教会を脱退する2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
22人もの人が教会を脱退する
ヘルマン・ゴメラは11人きょうだいの下から2番目でした。父親と姉と妹の3人が亡くなると,母親のルイーサは家族を連れて町へ引っ越し,メノー派教会へ通い始めました。ヘルマンの伯父たちとその家族がメノー派の信者だったからです。
ヘルマンはこう語ります。「1962年,特別開拓者の夫婦が町に引っ越して来ました。『この夫婦は“悪魔の教え”で町民たちを堕落させている』とうわさされていました。しかし,二人がピーニャ家を訪問すると家の中に招き入れられました。ピーニャ家は大家族でした。家族の皆が,特別開拓者が示した親切や優しさに感動し,話される事柄に注意深く耳を傾けました。その訪問により,ピーニャ家とわたしの3人の姉が研究を始めました」。
ヘルマンはこう続けます。「ある日,特別開拓者の夫婦がピーニャ家を訪れていた際,わたしの母も招かれました。その夫婦は,地上で永遠に生きる希望について述べている聖句を幾つも読んでくれました。『では,なぜわたしの教会は天国へ行くと教えているのですか』と母が尋ねると,兄弟は聖書から答えました。そして,地上での復活について聖書が述べている事柄を説明しました。その説明に好感を抱いた母は,学んだことを他の人にも話し始めました。
「自分の教会の信者たちがエホバの証人と研究していることを知ったメノー派の牧師たちは,研究をやめさせようと説得を試みました。しかし,それは脅しが入った乱暴なやり方でした。それに対してピーニャ家の母親マクシミーナはきっぱりとこう言いました。『いいですか,わたしは大人です。自分のことは自分で決めます』。
「結局,22人がメノー派教会を脱退しました。そして借りた建物で行なわれていた集会に出席し始めました。母は1965年にバプテスマを受け,わたしも4年後の1969年,13歳でバプテスマを受けました」。
現在のヘルマンと姉たち。皆,エホバに忠実に仕えている
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「ライオンのように戦いました」2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
「ライオンのように戦いました」
ルイス・エドアルド・モンタス
生まれた年 1906年
バプテスマ 1947年
プロフィール 独裁者ラファエル・トルヒーヨが率いる党の役員だった。真理を学び,2000年に亡くなるまで忠実に奉仕した。
ルイスはトルヒーヨの親族で,与党パルティド・ドミニカーノ(ドミニカ党)で財務を担当していました。しかし,トルヒーヨ政権に嫌気が差し,度々自分の立場から退こうとしたものの,トルヒーヨはそれを許しませんでした。
ルイスはトルヒーヨに2人の兄を殺害されると,2度ほどトルヒーヨの暗殺を企てます。しかし,暗殺計画の容疑者として名前は挙げられませんでした。トルヒーヨをなんとか殺すことはできないかと,幾人もの霊媒師のもとを訪ねます。ルイスの言葉によると,トルヒーヨは「自分が一番偉いと思っている獣のような人」でした。ある霊媒師を訪ねた時,テーブルの上にあった「真理は汝らを自由にすべし」という本が目に入り,それを読み始めました。その内容にとても興味をそそられ,家に持ち帰りました。後に,これこそ自分が探し求めていた真理だと確信しました。
ルイスはシウダード・トルヒーヨへ行った時,エホバの証人の集会に出席して本や雑誌を数冊手に入れ,一晩中それらの出版物を読みました。その後,聖書研究を申し込みます。霊的に成長すると,トルヒーヨ政権から離れる決心をします。そのことがトルヒーヨの耳に入ると,プエルトリコの領事という高いポストを提示されました。迫害されることは予期できましたが,それを断わりました。
「わたしは様々な虐待を受けました。政府は,考え得る限りのわなを仕掛けてきました。ですが,この世の快楽は退ける,と決意していました」と述べています。ルイスは良いたよりを率直に語る奉仕者になり,地元のカトリックの司祭たちから「説教師」と呼ばれました。初めて集会に出席してから半年後の1947年10月5日にバプテスマを受けました。
バプテスマを受けると,ルイスは警察に追われ,投獄され,独房に入れられました。また様々な試みを受けました。それでも,逮捕されて法廷に出されるたびに,その状況を活用して証言しました。ルイスはこう語ります。「わたしは自分の信仰を擁護するために,ライオンのように戦いました。そして,そのことを懐かしく思い出します」。
神の忠実な僕としてのルイスの経歴が,注目されずに終わることはありませんでした。1994年,ドミニカ共和国のエル・シグロ紙に,ルイスに関する次のような記事が掲載されました。「ルイス・エドアルド・モンタス氏はサン・クリストバルで,真摯な人として知られている。思いやりや温和さを備えた彼のような人はなかなかいない。サン・クリストバルの歴史の中で,モンタス氏について知られていることは,クリスチャンとしての活動に関連している」。
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王国の希望は夢ではありません2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
王国の希望は夢ではありません
エフライン・デ・ラ・クルス
生まれた年 1918年
バプテスマ 1949年
プロフィール 7つの刑務所に投獄され激しく殴打されたが,神の王国を宣べ伝える決意が揺らぐことはなかった。
1948年,わたしは,妻パウラと娘と共にブランコ・アリバで行なわれていたエホバの証人の集会に出席し始めました。往復で40㌔歩く必要がありましたが,集会を休むことは決してありませんでした。1949年1月3日に,わたしとパウラはバプテスマを受けました。
6か月後にわたしを含む会衆の成員の幾人かが逮捕され,3か月の刑の宣告を受けて投獄されました。わたしたちは床で寝なければならず,食事は一日に一度,しかも調理用バナナと紅茶だけでした。刑務所から釈放される時に役人たちから脅されました。そうすればわたしたちが宣べ伝えるのをやめると思ったようです。ですが,家に戻ると,集会の出席や伝道をひそかに再開しました。捜査員から常に監視されていたので,個人の家や,コーヒー畑,農場などで集まりました。何度も同じ場所で集まるのを避けるため,集会の最後に次の集会場所が発表されました。伝道は一人で行ないました。服装は作業着で,文書や聖書は使いませんでした。それでも1949年から1959年の間に,わたしは7つの異なった刑務所に入れられ,その都度3か月から6か月の刑で服役しました。
迫害者の中にわたしの親族もいたため,特に用心する必要がありました。見つからないように山の中や農場で寝ましたが,それでも捕まる時がありました。シウダード・トルヒーヨにあるラ・ビクトリア刑務所に送られたこともあります。そこは一つの監房に50から60人ほどが収容されているような所でした。食事は一日2食で,朝はコーンミール,昼は少量の豆とご飯が出されました。言うまでもなく収容されていた兄弟たちは皆,他の囚人に伝道しました。集会も定期的に開かれました。集会では聖句を暗唱したり,宣教での経験を語ったりしました。
最後に投獄された時,兵士からライフルの台じりで頭と脇腹を殴られました。その時の殴打や,受けた様々な虐待の影響で今でも体の痛みが残っていますが,それらの試みはわたしの信仰と忍耐,そしてエホバに仕える決意を強めるものとなりました。
わたしは現在96歳ですが,会衆で奉仕の僕として仕えています。長い距離を歩くことはできませんが,家の前に座って,通りかかる人たちに証言しています。わたしにとって王国の希望は夢ではありません。それは現実のものであり,その希望を60年余り宣べ伝えています。王国の音信を初めて聞いた日から,わたしにとって新しい世は現実のものでしたが,それは今も変わっていません。a
a エフライン・デ・ラ・クルスは,この年鑑が準備されている間に亡くなりました。
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エホバの証人をやめません2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
エホバの証人をやめません
アナ・マリア(マリー)・グラス
生まれた年 1935年
バプテスマ 1956年
プロフィール 若いころは熱心なカトリック教徒だった。聖書の真理を学んでからは,家族や教会,国家からの反対を勇敢に耐え忍んだ。
わたしはとても信心深く,カトリック教会の活動に積極的に参加していました。教会の聖歌隊で歌い,司祭が地方の宗教施設でミサを執り行なう時には,同行しました。1955年に姉から,来たるべきパラダイスについての話を聞きました。姉は聖書と,『御国のこの良いたより』の小冊子,そして『神を真とすべし』の本をくれました。それで,司祭に聖書を読んでもよいか尋ねたところ,聖書を読むなら「気が狂ってしまう」と言われました。でも,わたしはとにかく読んでみようと思いました。
わたしがボカ・チカの祖父母の家に引っ越すと,司祭からなぜ教会に来ないのかと尋ねられました。わたしは,教会の教えの多くが聖書に見いだせないことに気づいたからです,と答えました。すると,司祭はひどく腹を立て,「よく聴きなさい。君はわたしの群れから迷い出てしまった羊なんだぞ」と大声で怒鳴りました。
「いいえ,司祭こそエホバの群れから迷い出た羊です。羊はエホバに属しているのであって,どんな人にも属してはいません」と答えました。
二度と教会には戻りませんでした。姉の所に引っ越し,真理を聞いてからちょうど6か月後にバプテスマを受けました。そしてすぐに開拓奉仕を始めました。翌年,巡回監督として奉仕していたエンリケ・グラスと結婚しました。ある時,ラ・ロマナにある公園で伝道していると,夫が警察官に逮捕されました。夫が連行される時,わたしは後を追いかけてこう言いました。「わたしもエホバの証人です。一緒に伝道していました。どうしてわたしも連れて行かないんですか」。でも警察はわたしを逮捕しようとしませんでした。
夫はすでに合計で7年半,服役していましたが,今回は20か月の刑を宣告されました。わたしは毎週日曜日に面会に行きました。ある時,刑務所長から,「なぜこんな所にいるんだね」と尋ねられました。
「夫がエホバの証人で,ここに入れられているんです」。
「あなたはまだ若いし,将来がある。どうしてエホバの証人なんかとかかわって,時間を無駄にするのか」。
「わたしもエホバの証人です。もし7回殺されて7回復活するとしても,エホバの証人をやめません」と答えると,刑務所長はうんざりして,わたしに立ち去るよう命じました。
禁令が解かれると,わたしたち夫婦は巡回と地域の奉仕を幾年にもわたって行ないました。夫は2008年3月8日に亡くなりましたが,わたしは今も正規開拓者として奉仕しています。
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エホバは大勢の人の心を開いてくださった2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
エホバは大勢の人の心を開いてくださった
レオナルド・アモール
生まれた年 1943年
バプテスマ 1961年
プロフィール 若い時に真理を学び,50年余りエホバへの全時間奉仕を行なっている。
1961年,トルヒーヨが暗殺された約1か月後にバプテスマを受けました。大学で法学を学んでいたため,父は法律関係の職業に就いてほしいと願っていました。しかし,わたしは神の教育の素晴らしさを知っていたので,父からの反対はありましたが,大学を辞めました。その後まもなく,特別開拓者の任命を受けました。
特別開拓者としてラ・ベガという都市に割り当てられたことがあります。そこは長年,カトリックの勢力が非常に強い地域でした。わたしがいた間は,真理を受け入れる人はだれもいませんでした。公開講演をした際,聴衆はわたしのパートナーだけでした。しかし,個人研究,大会への出席,また熱烈な祈りを行ない,エホバはわたしを支えてくださいました。わたしは祈りの中で,ラ・ベガに会衆は本当にできるのでしょうか,とエホバに尋ねたことがあります。うれしいことに,今では6つの王国会館,14の会衆,そして800人余りの伝道者がいます。
1965年にアンヘラと結婚し,1981年にベテルに招待されました。わたしがバプテスマを受けた時,国内には681人の伝道者しかいませんでした。それが今では3万6000人を超える伝道者がおり,大会にはさらに大勢の人が出席しています。エホバが聖書の真理を受け入れるようこれほど大勢の人の心を開いてくださったことに,心を打たれます。
支部委員会(左から右): ライナー・トンプソン,フアン・クリスピン,トーマス・ディーン,レオネル・ペゲロ,レオナルド・アモール,リチャード・スタッダード
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反政府主義的な無神論者から神の僕へ2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
反政府主義的な無神論者から神の僕へ
フアン・クリスピン
生まれた年 1944年
バプテスマ 1964年
プロフィール かつては無神論者だった。これまで50年間エホバに忠実に仕えてきた。
わたしは若いころ,憎しみに満ちた宗教の歴史に幻滅しました。また神がなぜ貧困や不公正を終わらせないのか,さらに,熱心に教会へ通っている人々が,なぜ聖書の教えに従わないのか理解できませんでした。それで無神論者になり,世の中を変える方法は政治革命しかないと思いました。
1962年に「目ざめよ!」誌を読み始め,1963年にエホバの証人と聖書を研究することに同意しました。学んだ事柄に大きな衝撃を受けました。様々な宗教グループの残虐行為は神のせいではないことや,神は人類に対して愛ある目的を持っておられることを理解できたのです。研究を始めてから2か月後,わたしは神の王国がこの腐敗した事物の体制に取って代わることを人々に伝えるようになりました。1964年にバプテスマを受け,1966年に特別開拓者に任命されました。わたしは真理によって命が救われたと信じています。以前の仲間は殺されたり,投獄されたり,他の国へ亡命したりしなければならなかったからです。エホバ神は,義の行き渡る新しい世を約束しています。そのエホバがわたしを,希望のない無神論者から神の僕へと変えてくださったことに感謝しています。
ベテルで朝の崇拝を司会するクリスピン兄弟
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真理を最初に受け入れたろう者2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
真理を最初に受け入れたろう者
ホセ・ペレス
生まれた年 1960年
バプテスマ 1982年
プロフィール 子どものころ,会衆に手話のできる人が一人もいなかったが,兄弟たちの示す愛により真理に引き寄せられた。
わたしは子どものころ聴力を失い,ろう学校で手話を学びました。最初に真理に接したのは11歳の時で,近所のエホバの証人の家族が会衆の集会に誘ってくれました。話は理解できませんでしたが,温かく歓迎され,これからも出席しようと思いました。会衆の大勢の人が,食事や交わりに招待してくれました。
1982年に伝道者になり,その年のうちにバプテスマを受けました。1984年,同じろう者のエバと結婚しました。わたしたち夫婦は聖書の真理の幾つかは深く理解していませんでしたが,愛という明白なしるしによってエホバの組織を見分けることができ,会衆の一員であることをうれしく思いました。―ヨハ 13:35。
1992年,幾人かの兄弟姉妹にアメリカ手話を教えるための取り決めが設けられました。兄弟姉妹はすぐにろう者を探すことに取りかかり,良いたよりを宣べ伝えました。1994年には,25人の兄弟姉妹に手話を教えるために,プエルトリコから一組の夫婦が支部に招待されました。こうして手話の区域での業に弾みがつきました。
その同じ年に,わたしとエバは新たに発足した手話の群れの集会に出席するようになりました。こうして初めて,エホバの宇宙主権に対するサタンの挑戦や,神の目的におけるメシアの王国の役割といった聖書の教えについて,いっそう深く理解できました。
1995年12月1日にアメリカ手話会衆がサントドミンゴとサンティアゴに発足しました。2014年8月の時点で,26の手話会衆と18の手話の群れがあります。
わたしたち夫婦は3人の子どもに第一言語として手話を教えました。長男のエベルは米国支部で手話翻訳の援助をしています。わたしは会衆で奉仕の僕として,エバは正規開拓者として奉仕しています。
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人生の目的を見いだす2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
人生の目的を見いだす
ホセ・エステベス
生まれた年 1968年
バプテスマ 1989年
プロフィール 子どものころ,より良い生活を求めて地方から都市へ移動した。そこで真理を学び,長年の間,熱心に神の王国を第一にしてきた。
ホセは11歳の時,サントドミンゴに移動し,靴磨きをしたり,かき氷やオレンジを売ったりして暮らしていました。青年になるころには,働き者という評判を得ていました。数年後,エホバの証人の兄から自宅の管理の仕事をしてほしいと頼まれました。ホセは兄の家のテーブルの上に,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本があるのを見つけ,それを夜通し読み,人生の目的を見つけたと思いました。
次の週末,ホセは最寄りの王国会館に行き,エホバの証人だと自己紹介しました。そして兄弟たちに,集会に出席して良いたよりを伝える必要があることを知っていると話しました。また,『永遠に生きる』の本からクリスチャンがすべきでない事柄を学んでおり,そのどれも行なっていないと伝えました。ホセは15日後に伝道者として承認され,その半年後,21歳でバプテスマを受けました。
仕事の予定が集会と重なったので,その仕事を辞めて,別の仕事に就きました。収入は4分の1になりましたが,集会に出席したり,開拓奉仕を行なったりできるようになりました。その後,結婚して2人の男の子の父親になったため,やむなく開拓奉仕を中断しました。
ホセは,幼い時から子どもに真理を教えることを決意していました。それで妻のホセフィーナが長男のノエを妊娠して3か月のとき,お腹の赤ちゃんに聞こえるようにと,「わたしの聖書物語の本」を声に出して読みました。ノエが生まれるまでには,本を読み終えていました。次男のネフタリにも同じことをしました。
ホセはやがて仕事の責任者となり,給料が以前の仕事の10倍になりました。しかし,子どもが10歳と13歳になった2008年,管理職を離れて開拓奉仕を再開しました。今回は妻と子どもたちも一緒に始めました。収入が大幅に減ったため,家族で協力し合って出費を抑えていますが,家族4人で毎月30件ほどの聖書研究を司会しています。イエスは,王国を第一にするなら,エホバ神が祝福してくださると保証しています。(マタ 6:33)その約束に信頼を寄せてきたホセの家族は,エホバがご自分の言葉を果たされる方であることを実感しています。
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神に仕えるのをやめたいと思いました2015 エホバの証人の年鑑
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ドミニカ共和国
神に仕えるのをやめたいと思いました
マルティン・パレデス
生まれた年 1976年
バプテスマ 1991年
プロフィール 司祭になるための勉強をしていた時,真理を学んだ。それ以来,真の崇拝者になるよう多くの人を援助してきた。
わたしは敬虔なカトリックの家庭で育ち,司祭になりたいと思っていました。それで12歳の時,それぞれ異なる司祭が担当する3つの課程を履修しました。1990年,14歳の時に国内でも有数の神学校に招かれました。
わたしは急速に進歩し,このまま努力すれば司教になれると言われました。しかしわたしは幻滅を感じるようになりました。聖書ではなく人間の哲学を教えられたからです。また,司祭たちが非常に不道徳でした。性的な嫌がらせを受けるようになった時,神に仕えるのをやめたいと思いました。
そのような時,神学校の経理の男性が宣教者の夫婦から,「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」の本を受け取りました。わたしはその本を借りて読み通し,「これこそ探し求めていたものだ」と思いました。それで神学校を辞め,エホバの証人と研究し,集会に出席し始めました。そして8か月後の1991年7月,バプテスマを受けました。それから正規開拓奉仕を始め,後にマリアという開拓者の姉妹と結婚しました。2006年からは特別開拓者として奉仕しています。以前,神に仕えるのをあきらめようと思ったことがありますが,今は,真理に飢え渇いた人々を神の真の崇拝者になるよう援助しています。そのことに大きな喜びを感じています。
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