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致命的な組み合わせ目ざめよ! 1991 | 2月8日
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致命的な組み合わせ
「重大な危機」と,米国のブッシュ大統領は言明しました。南アフリカのスター紙は,「深刻な事態」であると述べています。「一種の疫病」と報じているのは,US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌です。憂慮するある市民は,「社会に対する天罰」だと言いました。
彼らは恐ろしいエイズのことを言っているのでしょうか。そうではありません。別の種類の災厄について述べているのです。この災厄は現在のところほとんどの国で,エイズよりも多くの犠牲者を出しています。一体何でしょうか。それは,飲酒と車の運転という致命的な組み合わせが生む結果のことです。
世界的に見ると,毎年約30万人が交通事故で死亡しています。負傷する幾百万という人々のうち身体障害者となって余生を送る人は何万人にも上ります。金銭的な損害は毎年何千億円という額に上っています。アルコールの関係した事故による損害は,その大きな部分を占めているのです。
米国の場合,1990年までの10年間にエイズで死んだ人の数は約10万人ですが,同じ10年間にアルコールの関係した交通事故で死亡した人の数は25万人に上っています。エイズは多くの場合,乱交を行なう人や麻薬の静脈注射をする人に直接影響を及ぼしますが,酒気を帯びて車を運転する人は自分自身が死ぬだけでなく,周囲にいる罪のない人まで巻き添えにすることがあります。
飲酒運転は,何の関係もない人たちを最もひどい不慮の死に追いやることになる場合が多く,それによって何組もの家族が引き裂かれます。親は子供を,子供は親を,妻は夫を,夫は妻を失うのです。
波を止める努力
この惨害の大波を食い止めようと,多くの努力が払われています。米国では,RID(酒酔いドライバーを追放する会)やMADD(酔っ払い運転に反対する母の会)のような“草の根”組織が,一般大衆の意識高揚運動を行なってきました。様々な酒酔い運転防止プログラムもあります。他の国々にも同じような組織があります。それらの組織は権利を守る面で被害者たちを助け,法律の改正を促します。
警察は,飲酒運転検問所などを設けて,酒気帯びドライバーの逮捕に力を入れるようになっています。アルコール飲料を提供した者を起訴しやすくする様々な法律が制定されてきました。現行の法律をドライバーに思い起こさせるための広告掲示板も用いられるようになっています。
事故死の件数は増え続ける
こうした努力が払われているにもかかわらず,酔っ払い運転による事故死の件数は世界中で増え続けています。ブラジルでは,21分ごとに一人 ― 年間約2万5,000人 ― がアルコールの関係した事故で死亡します。これは同国の交通事故死総数のおよそ50%に相当します。英国とドイツでは,交通事故死全体の約5分の1がアルコールと関係のある事故死と言われています。幾つかの情報筋によると,メキシコでは,交通事故死5万件のうち80%は『基本的に酔っ払い運転に起因する人間の過失』が原因であると,メキシコ・シティーのエル・ウニベルサル紙は報じています。
南アフリカの交通事故による死傷者の25%余りは,アルコールによる事故の犠牲者と見られています。米国では普通1年間に,アルコールの関係した事故で65万人が死傷しますが,そのうちの約4万人は重傷者で,死者の数は2万3,000人を上回ります。これは交通事故死全体のおよそ半数に当たります。
酒気帯びドライバーを抑制しようとの必死の試みから,米国ワシントン州に「酒酔い運転被害者団」が組織されました。これが組織されることは,アルコールや麻薬の影響があるうちに運転したかどで有罪とされた人に刑を宣告する際の司法上の過程の一部になってきました。今日,米国の多くの地域でそのプログラムが採用されています。その目的は,違反者をその無責任な飲酒の悲惨な結果に直面させることです。有罪とされた違反者は,被害者およびその家族の成員の言葉に耳を傾けるよう,そして払われた恐ろしい代価を知るよう法廷によって宣告されます。「目ざめよ!」誌は,そのような会合の模様を近くで見るよう招かれました。
[4ページの図版のクレジット]
Dominic D. Massita, Sr./Accident Legal Photo Service of New York
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被害者と違反者との対面目ざめよ! 1991 | 2月8日
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被害者と違反者との対面
場所は,ニューヨーク州北部ジェネシー郡「酒酔い運転被害者団」。場面は,悲しみを共にする6人の人が心を一つにして,愛する者の写真を掲げ,酒酔い運転で有罪とされた違反者たちに心からの反省を促そうと苦しい努力をしているところです。
以下は,それらの人が語った言葉の抜粋で,本誌が短縮したものです。
被害者
父親: 「これが息子のエリックです。申し分のない子でした。ユーモアたっぷりの朗らかな子でした。今の私は,息子に17歳で死なれて嘆き悲しむ父親になり果てました。私たち夫婦の夢,将来の希望,それに愛が,一瞬にして消え去ってしまいました。酔っ払い運転手に殺されたのです。
「私は家内と一緒に墓地に行きます。私たちにはそれ以外にすがるものがないのです。墓標には,『お父さんとお母さんに会えないとすごく寂しいから,離れていたくない。もしそうなったら,泣いてしまうよ。さようならと言いたいなんて考えたことなど一度もないんだから』というエリックの言葉が刻まれています。私たちも,さようならとは言いたくありません」。
若いやもめ: 「これが私の家族です。22歳のある男性が,自分は酔ってはいないと言い張って,結婚披露宴の会場を出ました。そして小型トラックに乗って,暗く不慣れな道を猛スピードで走っていました。注意信号に近づきましたがそれを無視し,そのまま停止信号の所を突っ走って私たちの車にぶつかったのです。そのあと私は,胸を締めつけられるような痛みを感じて意識を取り戻したのを覚えています。やっと目が開いたので,夫がハンドルに覆いかぶさっているのがぼんやりと見えました。赤ちゃんの泣いている声が聞こえました。『一体どうしたの』と尋ねたのを思い出します。
「だれも返事をしませんでした。31歳の夫のビル,6歳の長男,それに4歳になる双子の息子たちは死んでいたのです。私に残された唯一の希望は,頭に重傷を負って入院した,生後9か月の幼い娘でした。
「雨の降る,もの寂しい水曜日の朝,私が病院で寝ている時に,夫と3人の息子は埋葬されました。私は,4台の棺桶,破損した四つの遺体,二度と会うことも,声を聞くことも,触ることもできない四人のことを考えていました。私はこれからどのようにして生きてゆけばよいのでしょうか。
「幼い娘と私はいやおうなしに新たな人生を始めなければなりませんでした。様々な思い出と共に生活することには耐えられなかったので家を売りました。それでも,夫と3人のかわいい息子が墓地に葬られているという事実に耐えるのはとても難しいことでした。あれほど世話をし,心配し,愛していたのに,夫や子供たちを守ることができなかったのです。この苦しみや挫折感やむなしさは,とうてい言葉では言い表わせません。夫も子供も,もっともっと長く生きられたのに。
「私の家族の命を奪ったのは,冷酷な犯罪者でもアルコール中毒者でも常習的な違反者でもなく,夕方の社交的な集まりに出かけたごく普通の人でした。私がこの大きな代価を払っているのは,ある人が飲酒運転をする気になったからなのです。あなたにも,あなたの愛する人にも,こんなことが決して起きないよう心から願っています」。
母親: 「娘の名前は,ロンダ・リンと言います。6月21日に高校を卒業することになっていました。ロンダは,6月10日に運転手教育課程の最後の授業を受けていました。その日,パーティーでかなりお酒を飲んで酔っていた二人の人が,車を運転するという無責任なことをしました。彼らは一瞬にしてその日をロンダの人生の最後の日にしてしまったのです。運転手教育の教師と二人のクラスメートも道連れでした。
「その日の午後,私のところにロンダが事故に巻き込まれたという電話がかかってきました。私はすぐ駆けつけることしか考えませんでした。病院に着いた時,入って行ってロンダに会ってはいけませんと言われました。でも確かめなければ気が済みませんでした。シーツを取りのけてもらいました。ロンダの顔はひどく腫れ上がっていて傷だらけでした。私はロンダのきれいな目を見つめ,腕に触れてみましたが,押しつぶされた体はそれ以上どうすることもできず,美しい髪の毛を撫でてやるほかありません。しかし,何の反応もありませんでした。ロンダは死んでしまったのです。
「私にはロンダが死んだことを父親と兄弟たちに知らせるというつらい務めがありました。今の私たちの生活は,ぽっかりと大きな穴があいたようで,以前のようではなくなりました。もしロンダを抱き締めることができたら,もう一度抱き締めることができたらと思います。以前と同じ生活に戻ることはもうないでしょう。私たちに残されているのは,思い出だけなのです」。
加害者
青年: 「私の話は皆さんがこれまで聞いた話とは別のものです。1年11か月前のことですが,昨日のことのように覚えています。その夜,私のガールフレンドがボウリングの試合に出ていたので,少し酒を飲みながら観戦することにしました。2時間半ほどの間にビールをコップに五,六杯飲みました。私は責任をわきまえ,1時間待ってから車で家に帰ろうと考えました。
「家路についてから30分ほどたった時,路上に救急車が止まっていて,一人の男の人が道路の真ん中で交通整理をしていました。ところが,その人が目に入った時はもう遅すぎました。私はその人をよけようとしてブレーキを踏みました。車のフロントガラスが割れたとき私は,『鹿か犬でありますように!』と独り言を言いました。でも,そうではないことが分かりました。車から降りてその人のところに駆け寄り,『大丈夫ですか,大丈夫ですか』と叫びました。返答はありませんでした。私はその人の顔を見つめながらその場に立ちつくしていたのを覚えています。全く身の毛のよだつ思いでした。
「州警察の人たちがやって来て私に幾つかの質問をしました。それから,『君はとても協力的だが,足取りも話し方もおかしい。酒を飲んでいたのか』と言いました。彼らは私を詰め所に連れて行き,テストしました。検査値は0.08[米国内のほとんどの場所で違反とされている血中アルコール濃度]でした。自分にこんなことが生じているのが信じられませんでした。こんなことが自分の身に起きることなどないと考えていました。しかし今私は酒気帯び運転による過失致死罪に問われようとしていたのです。
「私は教師としての資格を1か月間剥奪されました。社会が教師をどのように見るか考えてみてください。人々は教師に道徳面でとがめのないことを期待します。それこそ私が努力してきたことでしたが,その時私はそれがすべて失われてゆくのを見ました。
「1年間の保護観察処分,1年7か月の免許停止,250㌦(約3万3,800円)の罰金,1週末の間の留置,600時間の社会奉仕,および9週間にわたるアルコール・カウンセリングの受講が課せられました。それだけではありません。夜中にあの男の人の顔が脳裏に浮かび,驚いて目を覚ますことが何度もありました。それに,戻って友人や家族と顔を合わせなければなりませんでした。それは生涯付きまとう苦闘のように思われました。その苦闘に価値があるとは思えませんでした。教壇に戻り,子供たち全員の顔を見なければなりませんでした。何人の子供たちが私のしたことを知っているだろうかと考えざるを得ませんでした。しかも,心はあの男の人の家族に対する自責の念と後悔で一杯でした。
「その事故を起こした夜は,それまでの人生で最も難しいことをしなければなりませんでした。母に電話して,『母さん,僕,事故を起こして人を死なせてしまったんだ。迎えに来てくれないかな』と言わなければならなかったのです。母が来てくれたとき,私たちはただ抱き合って泣きました。自分がその時経験したことは,自分の最も憎い敵にさえ経験させたいとは思いません。飲酒運転をする人々 ― 私はこの問題で助けになりたいと思っています。この集まりが終わってお帰りになるとき,私たちのことを覚えていてください。決して忘れないでください」。
被害者団は結論を下す
結びにこの被害者団の女性調整者,パトリシャ・ジョンストンは,自分のアルコール中毒の父親の致命的な衝突事故の悲惨な経験を引き合いに出し,こう述べました。「もし私がアルコールの引き起こす悲嘆を瓶詰にし,それを“最後の一杯”として差し上げることができるなら,もう二度とこのような企画をする必要はなくなることでしょう」。
最後に司会者は,質問のある方がいますかと尋ねました。しかし,多くの人は目に涙を浮かべて,「飲酒運転はもう絶対にしない」と言いました。
このような会合が,逮捕された違反者が路上に戻って再び酔っ払い運転をする率にどの程度影響を与えるか,その結果は時間がたってみなければ分かりません。しかし,問題を恐ろしいほど大きなものにしているのは,酔っているのにそれを認めないで道路に出る人が何百万という膨大な数に上っていることです。
米国司法省の司法統計局が出した最近の報告によれば,ここ1年間に酒気帯び運転で逮捕された人の数はほぼ200万人に上っています。しかしさらに,種々の統計の示すところによれば,酒酔い運転で一人が逮捕されるごとに,ほかに2,000人もの酒酔い運転手が取り締まりのされていない地域で捕まることなく車を運転して,多くの死傷者を出す可能性を秘めているということです。
何がそのような致命的で無責任な行動を生む環境を作り出しているのでしょうか。飲酒運転に反対する闘いが繰り広げられながら成果を上げていないのはなぜでしょうか。その答えを幾つか見てみましょう。
[7ページの図版]
加害者が被害者団と対面している場面の再演
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悪いのはだれか目ざめよ! 1991 | 2月8日
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悪いのはだれか
「酔っ払うことは」社会の多くの人に「容認されている」と言うのは,アルコール中毒症に関するニューヨーク州モホーク渓谷審議会のジム・バンダーウッドです。不幸なことに,酒の飲み過ぎがそういう人たちの社会の体質の一部になっていることをうまく否定できる人はいません。
長年の間ほとんどすべての社会が,習慣的な飲酒ばかりか大酒にさえ寛容な態度をとってきました。他の人々は何でも許容するその態度を模倣してきました。バンダーウッドが述べているとおりです。「映画を見るがよい。人を飲み負かし,それでいて自分は素早く行動するヒーローに,我々はいつも拍手を送ってきた。それは一種の自尊心を高める行為とみなされていた。どうしてそういうことと闘えるだろうか」。
ですから,主な罪は飲酒運転によって人を殺傷する人々にあるとはいえ,アルコールに対して平衡を欠いた態度を示す,何でも許容する甘い社会も,その罪の一端にあずかっているのです。
「飲酒は容認されているだけでなく,盛んに奨励されている」と述べるのは,犯罪予防官のジム・トンプソンです。彼は「目ざめよ!」誌に,「多くのスポーツ競技は,ビール産業のようなアルコール産業と結びついている」と語りました。トンプソンは,多くのスポーツ競技が行なわれている間に「テレビで一番よく流されるコマーシャルはビールのコマーシャルで,社会の花形スターたちがこぞって彼らの好きなビールを推奨する」という点を指摘しています。
元米国公衆衛生局長官のC・エベレット・クープの指導のもとに開かれた連邦研究集会は,全米放送連盟と全米広告主協会によってボイコットされました。なぜかというと,その集会はこの酒気帯び運転と過失責任という問題を考える集会だったからです。この集会の教育委員会の議長を務めたパトリシャ・ウォーラー博士はこう述べました。「実は,わたしたち[社会]がこの問題を作り出してきたのです。わたしたちは人々に,テレビの番組が分かる年齢のころからあらゆる圧力を加えていますが,人々もあまり賢くなくてそれに負けてしまうのです。『しかし,我々のせいではない。それは我々の問題ではない』[と,社会は言う]のです」。
今日の若い違反者 ― 明日の飲んだくれ
飲酒は,テレビ,映画,広告といった様々な手段によって美化されています。これは感じやすい若者の思いに,『お酒を飲めば,いつまでも幸福に暮らせる』というメッセージを伝えます。
「普通の子供は飲酒が認められる法定年齢に達するまでに,人々がアルコールを飲んでいる場面をテレビで7万5,000回も見る」と述べているのは,全米テレビ暴力対策連合のT・ラデッキ博士です。英国の研究者アンダーズ・ハンセン博士は,英国のゴールデンアワーのテレビ番組を調査して,創作に基づく番組全体の71%に飲酒の場面があることを発見しました。飲酒の場面は1時間に平均3.4回あり,自動車事故や殺人といった「アルコールの消費によって生じる,より具体的な結果を描く場面が極めて少ない」ことをハンセンは嘆いています。
コラムニストのコルマン・マッカーシーは,ワシントン・ポスト紙の記事の中でこう述べています。「酒の宣伝マンである元運動家たち……の陽気な騒ぎの背後にあるのは,宣伝と販売促進運動である。その意図は,子供たちをとりこにすること,また大学生たちに社交上手になるにはアルコールを飲む,それも大量に飲むことが絶対必要だという考えをたたき込むことにある。『うまい,かなりいける』と宣伝する人たちに言わせれば,酒を飲まない者は話にならないのである」。
ソ連では,飲酒運転が大きな国内問題になっています。飲酒の習慣が変えられるだろうかと疑う役人もいます。ある人は,「酒は我々ロシア人の生活に溶け込んでいる」と語っています。それは事実かもしれませんが,多くの人は飲酒を娯楽の一種とみなしています。ですから,感じやすい若者たちは,人々がよく酒を飲む環境の中で大人になります。
J・バンダーウッドは,米国には「若者の飲酒文化がある。アルコールはソフトボール,ボウリング,スーパーボウル,サービスタイムなどと同じになっている。レクリエーションと言えば,アルコール。アルコールと言えば,レクリエーションなのだ」と説明しています。そして,「心理的,社会的,あるいは身体的に中毒にかかっていなければ,成長してそういう状態から抜け出すかもしれない」と述べています。しかし,そのあとでこう警告しています。「我々の行なった調査で分かった,しかも十分に立証されている一つのことは,14歳ないし16歳で深酒をするようになる人は1年もたたないうちに中毒になる場合があり,20代初期に始める人はほんの数年で中毒になるということである」。
米国の16歳から24歳までの若者の死因のトップが,アルコールの関係した交通事故であるのも不思議ではありません。他の多くの国でもこれは死因のトップを占めているに違いありません。それでウォーラー博士の結論によれば,酒を飲まない方向に導く家庭環境の中で子供を育てようとする良心的な親は,「他の方向に引っ張る」,何でも許容する社会と対じすることになります。
ですから,今日の飲酒する若者は,明日の慢性的な飲んだくれの大人となりかねません。しかも,その人はリハビリを受けようとしない場合が多く,一般の人々の路上の安全にとって重大な脅威となります。34歳のある常習犯は,国が定めた強制的なアルコール中毒矯正課程を経た後,大酒を飲んで小型トラックを運転し,ケンタッキー・ハイウェイの反対車線を走りました。そして,十代の若者で満員のバスに衝突し,若者24人と大人3人の合計27人を焼死させました。実際,酔っ払い運転で有罪宣告を受けた人の4分の1余りは前科のある人たちであることが確認されています。
アルコール ― 一種の合法麻薬
アルコールは一種の合法麻薬である,という点に一般の人々の注意を喚起している権威者は少なくありません。それらの権威者は,アルコールをほかの惑でき性の強い麻薬と同じにみなしています。
米国のブッシュ大統領は,ホワイトハウスの特別な概要報告会の席で,酔っ払い運転は「人を廃人にする点ではクラックと同じであり,人を無差別に殺す点ではギャングの抗争と同じだ。しかも酔っ払い運転はその両方を合わせたよりも多くの子供を殺している」と言明しました。そして,「我々は子供たちに,アルコールは一種の麻薬だということを教えなければならない」ということも強調しました。
あなたがこれまでアルコールを麻薬とみなしていなかったとしても,それはあなただけではありません。「多くの人はアルコールを麻薬と関連づけて考えない」と,交通安全局長のC・グラジアノは述べ,さらに,「弁護士であれ,医師であれ,判事であれ,アルコールはだれにでも影響を及ぼし得る。……アルコールは入手しやすい。いとも簡単に手に入る」と言っています。ほとんどの国で合法とされていますから,いろいろな店で購入できます。多くの場合,ほとんど規制されていません。
専門的に言えば,アルコールは食物です。カロリーが含まれているからです。それでもやはり,麻薬として類別されなければなりません。アルコールには体の中枢神経系の働きを抑制する作用があるからです。大量に飲めば,バルビタール剤と同じように体に麻酔性の影響を及ぼします。J・バンダーウッドはこう述べています。アルコールは「気分を変える作用[があるので]ストレス緩和剤になる。抑制力を緩め,思考過程を変える。実際にはできないのにできるという気になる」。そこに飲酒運転の問題があります。バンダーウッドが結論として述べているとおり,「運動能力の鈍った人は判断も鈍く,動作も鈍い」のです。
離婚や失業,家庭問題など,難しい事態に陥っている人の中には,その悩みやストレスから逃れようとして,しばしば深酒をする人がいます。そのような人はそうした状態のもとで「酒酔い運転をはじめ,理性を欠いた無責任な行動」をする,と「アルコールに関する研究」誌は述べています。
しかし,酔うまで飲まなければ動作に影響は出ないというわけではありません。ほんの一,二杯飲んだだけでも運転手の判断力は鈍り,自分自身と他の人たちの命を脅かすことになる場合があります。
社会に降りかかるこの災いの影響は実に悲惨です。この社会は,商業的貪欲と,合法ではあっても非常な危険性を秘めたこの物質を許容する態度との致命的な組み合わせに毒されています。では,この悲劇を経験して嘆き悲しんでいる人にとって,一体どんな慰めがあるのでしょうか。解決策を見いだすうえでどんな真の希望があるのでしょうか。
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十代で深酒をする人は,1年で中毒になる場合がある
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酔うまで飲まなければ運転動作に影響は出ないというわけではない
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飲酒は,テレビをはじめとする様々な手段によって美化されている
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被害者にはどんな慰めがあるか目ざめよ! 1991 | 2月8日
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被害者にはどんな慰めがあるか
アルコールの関係した事故で家族の者を突然亡くした人には,「別れを告げたり,……『愛しているよ』と言ったりする……時がない」と述べているのは,「酔っ払い運転による衝突事故を生き残った人の悲しみ」という本の著者,ジャニス・ロードです。
すでに見たとおり,生き残った人たちは,ショック,恐れ,怒り,失意など,多くのことに対処しなければなりません。そのような形で家族の者が死ぬと,永久に失われたという気持ちに襲われるものです。生存者たちは,自分が被った心の傷は絶対にいえることはないと考えるかもしれません。
多くの当局者は,そのような事故で家族を亡くした人の心痛を認め,毎年驚くほど多い事故死を減らすための法律の制定や条件づくりに努力しています。例えばある当局者は,飲酒運転の罪を犯す人の性格の弱さを指摘し,そういう人のための施設の開設を提案しています。そこで行なわれる教育や仕事や麻薬矯正を通して,『強められ,力を与えられて』自分の弱さを克服できるというわけです。
本当に必要なものは何か
しかし,それがどれほど望ましいものであろうと,被害者の心の傷を消すことのできる人や機関はありませんし,死んだ人を生き返らせることのできる人もいません。あらゆる害を除いて元通りにするのに必要なものは,人間の力のはるかに及ばないものなのです。本当に必要なのは,世界の在り方を今とは全く違った形に直すことです。今日の利己的で破壊的な,非常に多くの人命を奪う,“どんな犠牲を払ってでもスリルを”という考え方を基盤としない世界に変えることです。
そうした悲惨な出来事が過去のものとなる,そういうより良い世界に望みを置く確かな根拠が何かあるのでしょうか。確かにあります。実際,この地上に新しい世界が実現する確かな希望があるのです。その世界では,そういう悲惨な出来事はなくなります。しかも事故で死亡した人たちが生き返ってくるのです。彼らが家族と再会する時,その喜びは言葉で言い表わせるものではないでしょう。それは,過去の悲惨な出来事の悲しい思い出がやがて永久に消え去る新しい世なのです。
新しい世に関するこの希望は,神の霊感によるみ言葉,聖書の中に見いだせます。聖書には,「神は実際に死を永久に呑み込み,主権者なる主エホバはすべての顔から必ず涙をぬぐわれる」と述べられています。(イザヤ 25:8)これには死者を墓からよみがえらせることも含まれます。使徒パウロが,「わたしは神に対して希望を持っております……義者と不義者との復活があるということです」と書いているとおりです。(使徒 24:15)イエスや使徒たちは死んだ人を復活させることにより,そのことを実証しました。―ルカ 7:11-16; 8:40-42,49-56。ヨハネ 11:1,14,38-45。使徒 9:36-42; 20:7-12。
墓からよみがえらされた人の生活をも含め,新しい世の地上での生活は,ついにはすべての人が完全になって,実にすばらしいものとなります。神のいやしの力によって,その時生きているすべての人は精神も体も完全に健康になります。「『わたしは病気だ』と言う居住者はいない」。「その時,盲人の目は開かれ,耳の聞こえない者の耳も開けられる。その時,足のなえた者は雄鹿のように登って行き,口のきけない者の舌はうれしさの余り叫びを上げる」。―イザヤ 33:24; 35:5,6。マタイ 15:30,31もご覧ください。
聖書は地上における人類の将来の状態を描写して,神は「彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」と述べています。(啓示 21:4)そのすばらしい恵みを与え,幸福な状態をもたらす方はこう宣言しておられます。「以前のことは思い出されることも,心の中に上ることもない。しかし,あなた方はわたしが創造しているものに永久に歓喜し,それを喜べ」― イザヤ 65:17,18。
こうしたことは一体だれの権威によって生じるのでしょうか。それは,偉大な希望の与え主であり宇宙の創造者であるエホバ神の権威と力によります。神はみ言葉の中で,間もなく『義の宿る』その新しい体制が現在の利己的で暴力的な事物の体制に取って代わることを保証しておられます。現在の事物の体制はその「終わりの日」に入ってすでに相当の年月が経過しているのです。―ペテロ第二 3:13。テモテ第二 3:1-5,13。箴言 2:21,22。
神の言葉が与える慰め
エホバの証人は他の人々と同様,現代の悲惨な出来事に対して免疫になっているわけではなく,この危険な世界にあって事故や他の原因で死んだりしないよう神の保護を期待しているわけでもありません。そういうことは現在のところ神のご意志ではないことを彼らは知っています。伝道の書 9章11節は,「時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨む」と述べています。しかし,証人たちは長年,神の言葉に人々の注意を引いてきました。神の約束はそれを信じる人すべてに永続する慰めをもたらすからです。
エホバの証人のある女性は,自分の義理の弟が酔っ払い運転手の起こした事故で死に,その妻(証人の妹)が頭に重傷を負って精神的な障害を抱え,絶え間ない世話を必要とする状態になったとき,悲しみに打ちひしがれてしまいました。妹夫婦もエホバの証人だったのです。彼女はこう語りました。
「その1年間はほとんどずっと,よく泣きましたし,憤りを感じていました。この悲劇を引き起こした若者を恨み,その若者をよく監督していなかった親を恨みました。その怒りは,そういう事態を防いでくれなかった神とみ使いたちに向けられることもありました。神に仕えていた二人の立派な人間の命が,あんなことで無駄になってしまったのです。
「もちろん,神に直接の責任があったわけではなく,そういうことが起きるのを神が願っておられたわけでもないことは分かっていました。でも私は,神がわたしたちの歩みを一歩一歩導き,そのような害を被らないよう保護してくださると思っていたのです。それからはそのことに関してもっと平衡のとれた見方をしなければならないことに気づき,答えを探し始めました。
「心の痛みを払いのけて,その問題を理性的に考えられるようになるまでには,しばらく時間がかかりました。私はアサフのような気持ちでした。詩編 73編でアサフは,邪悪な者たちのほうが恵みを受けているかのように思えたと述べています。でもその同じ詩編の中で神の言葉は,決してそうではないこと,邪悪な者たちは神から恵みを示されず,定めの時に滅びに至ることを示しています。
「私は,神ではなく自分の考え方が間違っていることに気づきました。私は幾つかの聖句を間違って適用していました。神は現時点における事故や病気や死からの解放を保証しておられるのではなく,そのような祝福を将来,新しい世において与えることを約束しておられるのです。現在の私たちに対する神の保護について神の言葉が実際に述べている事柄,つまり身体的な面ではなく霊的な面で保護してくださっているということを理解したとき,憤りは次第に収まってゆきました。そして今度は,災いの真の源として悪魔サタンに焦点を合わせることができるようになりました。サタンは神に反逆した時から人殺しでありうそつきなのです。苦しみに満ちたこの世の神となっているのはサタンであることを聖書は明らかにしています。―ヨハネ 8:44。コリント第二 4:4。
「なぜ苦しみがあるのか,なぜ神はそれを許しておられるのか,神はどのように苦しみを除き去られるのか,といった事柄に関する真理を一層十分に認識したとき,神は私たちの敵ではなく,救いにほかならないことがはっきりしました。
「また,エホバはご自分に仕える者を聖霊によって支えられるということを知って大いに慰められました。聖霊によって『普通を超えた力』が得られる,と聖書は保証しています。こうして神は私たちに,耐え難い事柄を耐え忍べるよう力を与えてくださるのです。さらに,復活の際に家族に会えるという希望によって慰めてくださいます。ですから,私たちは逆境を乗り越えることができるのです」。―コリント第二 4:7。
すばらしい将来
これまで長年の間に,エホバの証人をも含め,多くの人に様々な種類の悲惨な出来事が臨みました。これは,時と予見しえない出来事はすべての人に臨むという神の言葉の真理を確証するものです。(伝道の書 9:11)しかし,神の僕たちの体験は,エホバがご自分の民を苦難の時に慰め,支えてくださるという神の言葉の真実さを確証するものでもあり,またそのような災いが過去のものとなる新しい世におけるすばらしい将来を保証するものでもあります。
神の義の新しい世では仲間の人間に対する純粋の愛や貴重な命の賜物に対する敬意が見られることを知ると,本当に慰められる思いがします。そうした立派な特質が,今この世に浸透している利己心や利益のために人間の弱さを利用する態度に取って代わります。また,飲み過ぎや麻薬の使用に多くの人を追いやる現在の世の心配事や負担や不安もなくなります。
今でさえエホバの証人は,一致をもたらす愛の力によって互いに結ばれた世界的な兄弟関係を作り上げています。(ヨハネ 13:34,35)この兄弟関係に入っている人たちは,家族を亡くした人を助ける強力な支援体制を形成しています。彼らは自分が慰められたように,慰めを求める人をだれでも喜んで援助します。―コリント第二 1:3,4。
[13ページの図版]
聖書は死者の復活があることを約束している
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