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南アフリカの宗教上のジレンマ目ざめよ! 1988 | 6月22日
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1652年,オランダのプロテスタント信者が最初に,アフリカ南端に恒久的な植民地を建設しました。その子孫は今日,オランダ語から発展したアフリカーンス語を話します。やがてオランダ教会は枝分かれして幾つもの改革派教会ができ,オランダ改革派教会が最大の教会となりました。国の白人人口の3分の1強は,オランダ改革派教会の信者になっています。
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プロテスタント教会とアパルトヘイト目ざめよ! 1988 | 6月22日
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プロテスタント教会とアパルトヘイト
「南アフリカ・ダイジェスト」誌のある記事は,オランダ改革派教会の「建物,礼拝,および教会員になる機会は,人種や皮膚の色に関係なく,すべての人に対して開かれていると宣言された」と伝えました。
オランダ改革派教会は人種の完全分離を何十年も支持してきたのに,1986年10月に行なわれた教会指導者の会合で,その歴史的な変革が採択されたのはなぜでしょうか。
多くの人は驚かれるかもしれませんが,前世紀には,白人,黒人奴隷,およびヨーロッパ人-アフリカ人の混血の人たちは,皆一つのオランダ改革派教会に属していました。ところが1857年に,教会会議は,深刻化する人種間の敵意に屈し,混血の人々の礼拝を別の建物で行なうこともできると述べました。同会議はそのような決定を聖書が奨励しているわけではないことを認めましたが,「一部の人の弱さゆえに」そのように決定されました。その決定によって,1881年に,オランダ改革派ミッション教会と呼ばれる,混血の人々のための別個の宗派が設立されることになりました。
それらの教会指導者たちは,自分たちがどんなことを始めたかをほとんど悟っていませんでした。間もなく,黒人とインド人のための別個の宗派も設立されました。オランダ改革派の多くの教会では,出席できるのは白人だけに限定されました。かつて「弱さ」とみなされたものは,教会の厳格な方針となり,黒人たちは自分の雇用主である白人の葬式の際に追い払われることもありました。そのような辱めに遭って,黒人の教会員の間に憤りが高まりました。
「アパルトヘイト……教会の方針」
1937年,オランダ改革派教会連邦協議会は,政府に対し,白人が混血の人と結婚することを禁じる法案を可決するよう要請しましたが,政府は承諾しませんでした。オランダ改革派教会連邦協議会は,1939年に再びその要望を出し,同時に,白人に独自の居住地,学校,大学などを与えるよう求めました。幾つもの僧職者の代表団が,そのことについて政府との折衝に当たりました。1942年,オランダ改革派教会の連邦ミッション協議会は,政府に対し,「教会は,将来,人種的アパルトヘイトのこの原則が厳格に施行されるのを見届けたい」と書き送りました。
その後1948年になって,白人の国民党が,アパルトヘイト政策を立法化するために努力することを公約して政権を執り,すぐにアパルトヘイト関係の新たな法律が次々と実施されるようになりました。選挙の後,オランダ改革派教会の機関誌「ディ・ケルクボーデ」は,誇らしげにこう述べました。「[一つの]教会として我々は,……人々のこれら二つのグループを分離させるべく,かねてから慎重に努めてきた。この点では,アパルトヘイトを教会の方針と呼んでも間違いではない」。
聖書の教え?
その時まで,教会のアパルトヘイト支持の呼びかけは,おもに伝統に基づくものでした。1948年のトランスバール会議でも,「聖書の原則にしばられているという意識的な主張」はしていなかったことが認められていました。しかし,今度は新たな取り組み方にはずみがつきました。アパルトヘイトが聖書の教えとして提示されるようになったのです。
1974年のオランダ改革派教会総会は,「聖書から見た人間関係と南アフリカ情勢」という題の報告書を公表しました。「[その報告書]には,古典的な言葉でアパルトヘイト神学がよく説明されていた」と,「オランダ改革派教会とアパルトヘイト」という本の編さん者であるヨハン・キングホーン博士は述べています。その報告書には,バベルにおける人類の分離に関する話が長々と説明され,「様々な人種グループの分離発展……に基づく政治体制の正当性は,聖書によって証明できる」と述べられていました。また,イエスの行なった,追随者が「完全にされて一つにな(る)」ようにという懇願に関しても触れられていました。(ヨハネ 17:23)そして,そのような一致は「必ずしも一つの機構の中で示される必要はない」と主張されていました。
「信用危機」
南アフリカのプロテスタント教会は,多くの批判の的になってきました。改革派教会世界連盟は,1982年にカナダのオタワ市で会合を開き,アパルトヘイト神学を「異端」と宣言しました。南アフリカ・オランダ改革派教会は加盟教会としての資格を一時停止されました。さらに,南アフリカ政府自体も,いわゆる異人種間の婚姻を禁じる法律をも含む幾つかのアパルトヘイト関係の法律を廃止することにより,教会に圧力を加えました。
教会はどのように反応してきたでしょうか。オランダ改革派教会の牧師の中にもアパルトヘイトを公然と批判するようになった人がいます。オランダ改革派教会の神学者デービッド・ボスク教授は,「アパルトヘイトは異端である」という本の中で,「アフリカーンス改革派教会は,自分たちの根ざすところに戻りさえすれば,自分たちが今大切にしているものは異端にほかならない,ということを悟ることができる」と述べています。
しかし,そのような撤回によって教会員にどんな影響が及んできたでしょうか。オランダ改革派教会の神学者バーナード・コンブリンク教授はこう述べています。「多年にわたり,一つの見解と方針が聖書的なものとして唱道されてきたのに,今度は『突然に』他の見解が聖書と一致するものとして唱道されている,という事実を指摘して,教会員の中には,ためらいなく教会の信用危機をうんぬんする人もいる」。
実際,オランダ改革派教会の「信用危機」は,同総会がアパルトヘイトについての決議案を受け入れた1986年10月に頂点に達しました。その決議案には一部次のように述べられていました。「強制的な差別や人々の分離を聖書の規定として説明することはできない,という確信が深まった。聖書によってそのような規定を正当化する試みは,誤ったもの,また退けるべきものと認められねばならない」。
このようにアパルトヘイト神学を否定したことは,白人の間に複雑な反応を引き起こしてきました。オランダ改革派教会会議は黒人の改革派教会との一体化を図ろうとしていないので中途半端だった,と考えている人は少なくありません。しかし,教会は余りにも変わってしまったと考え,教会に対する財政的支持を差し控えている人もいます。1987年6月27日,土曜日,オランダ改革派教会と意見を異にする人々,2,000人がプレトリアで会合しました。彼らは多数決によって,アフリカーンス・プロテスタント教会と呼ばれる,白人だけの新しい教会を結成しました。
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