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  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 1990年の夏の間,東ヨーロッパ各地の主要都市でエホバの証人の大会が開かれました。東ドイツをはじめとする多くの国の証人たちが出席した一つの大会の会場は,当時西ベルリンにあったオリンピア競技場でした。出席者4万4,532人のうち,およそ3万人は東ドイツからの出席者だったと推定されています。ベルリナー・モルゲンポスト紙が伝えたところによると,新たに証人となった1,017人がオリンピア競技場の競泳用プールでバプテスマを受けました。それは全身を水中に浸す浸礼でした。この方法によって「関係者は原始キリスト教の型を固く守る」のです。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 1990年の「清い言語」大会には,ソ連全土に散らばっているエホバの証人全員を代表して,ソ連から1万7,000人が,ワルシャワの会場に設けられたロシア語の区画に集まりました。彼らはソ連で大会を開くことが可能になる日を待ち望んでいます。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 「清い言語」を1990年の世界的なテーマとする地域大会が,ブラショフ市とクルージュ-ナポカ市で開かれました。プログラムはルーマニア語とハンガリー語で提供されました。3万6,000人を超える人々が出席し,1,445人がバプテスマを受けました。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 東方正教会の勢力が強い近隣のブルガリアでは,証人たちは,まだ法的に認められていませんが,部屋を借りて会衆の集会を開いています。200人余りの人がギリシャのサロニカまで旅行し,ブルガリア語とギリシャ語で行なわれた「清い言語」大会に出席しました。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 「清い言語」大会は,国内の主要な地域の人々が出席できるよう,ペーチ,ミシュコルツ,デブレツェン,およびブダペストで開催されました。ハンガリー語を話す人たちが約2,000人,チェコスロバキアやソ連からやって来ました。エホバの証人の国際的な一致を強調しようと,フィンランドからは700人が出席しました。ハンガリー大会の出席者総数は,ルーマニアからの約2,000人を含めて2万1,568人でした。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • 1990年8月にプラハで大会が開かれ,出席者数は2万3,876人,バプテスマを受けた人は1,824人でした。その競技場を大会に備えてきれいにするため,自発的に約9,500人の証人たちが5万8,000時間以上を費やして清掃や塗装を行ないました。チェコスロバキア・テレビ局のある代表者はこう述べました。「これまで私たちは多くの行事を見てきましたが,この競技場での皆さんの組織には感服しました。これほどの規模の集会を企画したのが初めてとはとても思えませんよ」。ある訪問者はこう言いました。「あなた方の間に見られる霊的な雰囲気や温かい関係や愛はすばらしいと思います。私は一友人として来たのですが,今は友人以上の者として帰ることになりました」。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • [8,9ページの囲み記事]

      ついに与えられた信教の自由!

      次に挙げるのは,1990年7月にベルリンで開かれた「清い言語」大会に元の東ドイツから出席した証人たちの言葉です。

      「わたしの名前はリディアです。8歳です。ドイツ民主共和国から来ました。この地域大会に出席できて本当にうれしいです。だって1年前には国境が開いてなかったんですもの。記念式は内緒で祝わなければなりませんでした。でもこんどは自由です。みんなが歌を歌い始めたとき,涙が出ました。本当にうれしくて,学校で話さずにはいられないと思います」。

      「私たちは,ここベルリンにおける国際的な兄弟関係のただ中にエホバの客として招かれ,心は喜びと感謝でいっぱいです」― ベルント。

      「ドイツ民主共和国の兄弟たちもプログラムに組み込まれていたということは,ある特別な面を強調しています。つまり,エホバはご自分の民が禁令下にある時でさえ彼らを訓練し,彼らが資格を得るようにされるということです」― ゴットフリート。

      「拍手や歌声から,みんなが幸福な気持ちでいることが分かりました。それは人の心を揺さぶる大音響でした。エホバは大いに喜ばれたに違いありません」― エゴン。

      「バプテスマを受けたあと,幾人かの兄弟たちから水がとても冷たかったんじゃないかと尋ねられましたが,そんなことは分からなかったと答えるしかありませんでした。エホバの祝福が非常に温かかったので,水の温度などほとんど気にもしなかったのです」― ハイドルン。

      「宿舎の雰囲気はもう信じられないほどでした。デンマーク,モザンビーク,英国,カリフォルニア,ドイツ南部,スペイン,ドイツ民主共和国などから来た仲間です。私たちは皆一緒に歌を歌い,全員が『清い言語』を話していました」― ユッタ。

      「私たちは,出席できた1958年大会や最後の大会である1960年のベルリン大会の思い出をいつも子供たちに話して聞かせました。しかし,今私たちが経験している事柄は,私たちの思い出や期待をすべて超越しているのです」― ウォルフガング。

      「一番感激したのは,何万もの人々が起立してエホバに賛美の歌を歌った時です。閉会の歌と祈りの時は特に感動しました。涙をこらえることはできませんでした」― モニカとラインハルト。

  • 東ヨーロッパのエホバの証人
    目ざめよ! 1991 | 1月8日
    • [9ページの図版]

      大会で行なわれた様々な活動: (左下から右回り)ワルシャワにおける新しいブロシュアーの提供; ブダペスト大会のハンガリー語の演壇とルーマニア語の演壇; ベルリン大会でノートを取る人々; プラハにおける大会前の競技場の外装直し

      [10ページの図版]

      大会で行なわれた様々な活動: (左から右回り)ルーマニア大会におけるバプテスマ; プラハの競技場; ベルリン大会で「神を探求する人類の歩み」の本を手にする家族; ブダペスト大会の話し手; ポーランド大会で聖書を調べる人々

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