-
その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
-
-
その後1985年に,エホバの証人は8月に開かれた四つの大規模な大会のためにポーランド最大級の競技場を使用することができました。オーストリアのある代表者は飛行機で到着した際,大会のためにポーランドへ来たエホバの証人を歓迎するアナウンスがスピーカーから流れるのを聞いて驚きました。その人を迎えに来ていたポーランドのある年配の証人は,そのアナウンスを聞いて政府の態度が変化したことを知り,喜びの涙を抑えることができませんでした。それらの大会には,16か国から来たグループを含む9万4,134人が出席しました。一般の人々は生じている事柄を知っていたでしょうか。確かに知っていました。それらの大会の開催中も大会後も,主要な新聞に記事が載り,テレビには大勢の大会出席者が映り,国営ラジオ放送は大会プログラムの一部を流したのです。多くの人たちは見聞きした事柄に好感を持ちました。
1989年5月12日,ポーランド政府がエホバの証人に宗教団体としての法的認可を与えた時,ポーランドでのさらに大規模な大会の計画が進められていました。それから3か月もたたないうちに,ホジュフ,ポズナニ,ワルシャワで三つの国際大会が開催され,合計出席者数は16万6,518人になりました。驚くべきことに,当時のソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とチェコスロバキアの大勢の証人たちも必要な旅行許可を得ることができ,大会に出席していました。何十年ものあいだ国家が強力に無神論を唱道してきたこれらの国々で,エホバの証人による弟子を作る業は成果を挙げていたでしょうか。その答えは,多くの若者を含む6,093人がそれらの大会で水の浸礼を受けるために自分を差し出した時に明らかになりました。
一般の人々は,証人たちが大変良い意味で他の人々と異なっていることを認めざるを得ませんでした。新聞には次のように書かれていました。「エホバ神を崇拝する人々は ― 彼ら自身が言うとおり ― その集まりを非常に高く評価している。それはまさしく彼らの間の一致を表わし示すものである。……大会出席者たちは,秩序正しさ,穏やかな態度,清潔さなどの点で見倣うべき手本である」。(ジチエ・ワルシャウイ紙)
-
-
その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
-
-
法的認可が得られる前でさえ,統治体の成員はかなりの数の国を訪問して,クリスチャンの兄弟たちを援助するために何ができるか調べていました。そして禁令が解除された後には,業の組織化を援助するためにそのような国をさらに多く訪れ,数年のうちに,ポーランド,ハンガリー,ルーマニア,チェコスロバキア,ロシア,ウクライナ,エストニア,ベラルーシの証人たちと直接会って話し合いました。
こうした国々に住む証人たちを強め,一般の人々に神の王国の音信を強く印象づけるため,大会が取り決められました。当時の東ドイツで禁令が解除されてから5か月もたたないうちに,そうした大会がベルリンのオリンピア競技場で開かれました。他の64の国の証人たちが,出席するようにという招待にすぐ応じました。彼らは,厳しい迫害にもめげず何十年もの間エホバへの忠節を示したクリスチャンの兄弟姉妹と共にその特別な行事を楽しむことを,特権とみなしたのです。
1990年と1991年には,東ヨーロッパ全域でほかにも大会が開かれました。1990年にハンガリーで四つの地方的な大会が開催された後,1991年にブダペストのネープ競技場で開かれる国際的な集まりが取り決められ,その集まりには35の国から4万601人が出席しました。1990年,エホバの証人は40数年ぶりにルーマニアで公の大会を開くことができました。その年,ルーマニア全土で一連の大会が,そしてその後二つの大規模な大会が開かれました。1991年にはさらに八つの大会が開催され,3万4,808人が出席しました。1990年,当時のユーゴスラビアでは,その国を構成している共和国の各々で大会が開かれました。翌年,ユーゴスラビアには内戦の危機が迫っていましたが,1万4,684人のエホバの証人はクロアチアの首都ザグレブで国際大会を楽しみました。警官たちは,クロアチア人,モンテネグロ人,セルビア人,スロベニア人や他の人たちが平和裏に集まってプログラムに耳を傾けている様子を見て,大変驚きました。
当時のチェコスロバキアでも直ちに大会が取り決められました。1990年にプラハで開かれた全国大会には2万3,876人が出席しました。競技場の管理者側は目にした事柄に大いに満足し,証人たちが次回の大会にこの国最大の施設を使用できるよう取り計らいました。1991年のその歴史的な大会の際には,7万4,587人の熱心な大会出席者たちがプラハのストラホフ競技場を埋め尽くしました。チェコ人とスロバキア人の出席者たちは,公の宣教や個人と会衆での研究に用いるための母国語版の「新世界訳聖書」全巻の発行が発表された時,大いに喜び,熱烈な拍手を送りました。
1991年にエホバの証人は,当時ソ連の領土内にあった場所でも,歴史上初めて公に大会を開くことができました。エストニアのタリンでの大会の後,シベリアで一つ,ウクライナの主要都市で四つ,カザフスタンで一つの大会が開かれ,出席者合計数は7万4,252人でした。そして,それらの地域で行なわれていたエホバの証人による弟子を作る業の最近の成果として,7,820人が水の浸礼を受けるために自分を差し出しました。それは大会で興奮したために下した感情的な決定ではありませんでした。バプテスマ希望者たちは何か月も前から,場合によっては何年も前から注意深い準備を行なっていたのです。
-
-
その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
-
-
多くの人が喜んで耳を傾けるようになる
1991年,当時のソ連で証人たちが大会を開いた時,一般の人々は証人たちを詳しく観察する機会を得ました。人々はどう反応したでしょうか。ウクライナのリボフでは,ある警官が大会出席者の一人にこう言いました。「皆さんは人に良いことを教えるのが大変上手ですね。それに神のことを話し,暴力を振るうことはありません。我々はどうして皆さんを迫害していたのだろうと話し合っていたんですよ。結局,我々は皆さんの話に耳を傾けたことがなかったので,皆さんのことを何も知らなかったのです」。しかし,今や多くの人が耳を傾けており,エホバの証人はそうした人を援助したいと考えていました。
-
-
その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
-
-
その後1992年に,ロシアで二番目に大きな都市サンクトペテルブルクで記憶に残る国際大会が開かれましたが,出席者のうち約1万7,000人はロシア以外の27の国から来た人々でした。大会は広く宣伝され,エホバの証人のことを一度も聞いたことのない人々もやって来て,出席者最高数は4万6,214人に達しました。ロシア全域の人々が出席し,中には日本に近い極東のサハリン島から来た人たちもいました。かつてソ連の一部だったウクライナやモルドバなどの国々からは,大勢のグループがやって来ました。彼らは良い知らせを携えて来ており,報告によると,キエフやモスクワやサンクトペテルブルクなどの都市にある個々の会衆では,集会の平均出席者数が証人たちの数の2倍以上になっていました。エホバの証人との聖書研究を希望する大勢の人々は,順番待ちのリストに名前を載せてもらわなければなりませんでした。ラトビアからは約600人,エストニアからはそれを上回る人々が出席しました。サンクトペテルブルクのある会衆では,100人以上の人ががこの大会でバプテスマを受ける準備を整えていました。関心を示した人々の中には,若い人たちや高い教育を受けた人たちがかなりいました。確かに,長い間世界から無神論のとりでとみなされてきたこの広大な区域で,霊的な収穫という重要な業が進行しているのです。
-
-
その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
-
-
[504ページの図版]
1989年,ポーランドのホジュフにおけるバプテスマ希望者の一部
-
-
その5 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
-
-
[506ページの図版]
1991年に開かれた歴史的な大会
チェコスロバキアのプラハ
エストニアのタリン(右)
クロアチアのザグレブ(右)
ハンガリーのブダペスト(上)
ルーマニアのバヤマレ(右)
ロシアのウソリエシビルスコエ(下)
カザフスタンのアルマアタ(上)
ウクライナのキエフ(左)
-