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あきらめてはなりません!ものみの塔 1995 | 12月1日
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あきらめてはなりません!
「りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」― ガラテア 6:9。
1,2 (イ)ライオンはどんな方法で獲物をしとめますか。(ロ)悪魔は特に,だれを餌食にすることに関心を抱いていますか。
ライオンは様々な方法で獲物をしとめます。水場や獲物のよく通る道筋で待ち伏せすることもあれば,「荒野における写真集」という本によると,ライオンは「ある状況,例えば,眠っているシマウマの子に出くわすといった状況をうまく利用する」時もあります。
2 使徒ペテロは,わたしたちの「敵対者である悪魔がほえるライオンのように歩き回って,だれかをむさぼり食おうとしてい(る)」と説明しています。(ペテロ第一 5:8)サタンは自分の残りの時が短いことを知り,人間をエホバに仕えさせないよう,ますます大きな圧力を加えています。しかし,この「ほえるライオン」は特に,エホバの僕を餌食にすることに関心を抱いています。(啓示 12:12,17)サタンが獲物をしとめる方法は,動物界のこれに対応する生き物の使う方法に似ています。どのようにでしょうか。
3,4 (イ)サタンはエホバの僕を餌食にするためにどんな方法を使いますか。(ロ)今は「対処しにくい危機の時代」であることから,どんな質問が提起されますか。
3 サタンは,時には待ち伏せを試みて,つまりわたしたちの忠誠心をくじくための迫害や反対を試みて,エホバに仕えるのをやめさせようとする場合があります。(テモテ第二 3:12)しかし,ライオンと同じように,悪魔は,ある状況をうまく利用するだけのこともあります。サタンは,わたしたちが気落ちしたりうみ疲れたりするまで待ち,それからそのような感情的に沈んだ状態に付け込んで,すべてをあきらめさせようとするのです。わたしたちはむざむざと餌食になってはなりません。
4 とはいえ,わたしたちは人類史上最も多難な時期に生活しています。この「対処しにくい危機の時代」にあって,わたしたちの多くは,時には気落ちしたり憂うつになったりすることがあります。(テモテ第二 3:1)では,余りにもうみ疲れてむざむざ悪魔の餌食になってしまうという事態を,どうすれば避けられるでしょうか。そうです,わたしたちはどうすれば,霊感による使徒パウロのこの助言に留意できるでしょうか。「りっぱなことを行なう点であきらめないようにしましょう。うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになるからです」― ガラテア 6:9。
他の人にがっかりさせられても
5 ダビデはどんなことが原因でうみ疲れましたか。それでも,どんなことはしませんでしたか。
5 聖書時代のエホバの非常に忠実な僕たちでさえ,憂うつになることがありました。詩編作者ダビデはこう書いています。「わたしは自分の溜め息でうみ疲れました。わたしは夜通し寝いすを漂わせ,寝床をわたしの涙であふれさせます。わたしの目は煩いのために弱り……ました」。ダビデはなぜそのような気持ちになったのでしょうか。「わたしに敵意を示すすべての者たちのため」である,とダビデは説明しています。他の人たちから害を加えられたため,ダビデは非常に心を痛め,涙がとめどなく流れたのです。それでもダビデは,仲間の人間から受けた仕打ちのゆえにエホバから離れる,ということはしませんでした。―詩編 6:6-9。
6 (イ)わたしたちは他の人の言動によってどのような影響を受けることがありますか。(ロ)ある人たちはどのように,むざむざ悪魔の餌食になっていますか。
6 同様に,わたしたちも,他の人の言動のために,大いに心を痛め,うみ疲れてしまうことがあるかもしれません。「剣で突き刺すかのように無思慮に話す者がいる」と,箴言 12章18節は述べています。思いやりのないその人がクリスチャンの兄弟か姉妹である場合,その『刺し傷』は深手となりかねません。人間の性向として,腹が立ち,もしかしたら憤りを宿すことがあるかもしれません。自分が不親切な,もしくは不公正な扱いを受けたように感じる場合は特にそうです。そのような扱いをした人には言葉をかけにくくなるかもしれず,故意にその人を避けることさえするかもしれません。中には,憤りのためにうみ疲れ,あきらめてしまい,クリスチャンの集会に来なくなった人もいます。痛ましいことですが,そういう人たちはそれによって「悪魔にすきを与え」,むざむざ餌食になっているのです。―エフェソス 4:27。
7 (イ)他の人からがっかりさせられたり傷つけられたりしたとき,どうすれば悪魔の思うつぼにはまることを避けられますか。(ロ)わたしたちはなぜ憤りを捨て去るべきですか。
7 他の人からがっかりさせられたり傷つけられたりしたとき,どうすれば悪魔の思うつぼにはまることを避けられるでしょうか。わたしたちは憤りを宿さないようにしなければなりません。むしろ,できるだけ早く和解するか問題を処理するよう自ら進んで事を運びます。(エフェソス 4:26)コロサイ 3章13節はわたしたちに,「だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き……互いに惜しみなく許し合いなさい」と勧めています。特に,人の感情を害した相手が過ちを認めて本当に悪かったと思っているとき,許してあげるのはふさわしいことです。(詩編 32:3-5および箴言 28:13と比較してください。)しかし,許すということは人の行なった悪を大目に見るとか軽く見るとかいうことではない,という点を念頭に置いておくなら,助けになります。許すということには憤りを捨て去ることが関係しています。憤りは,担ってゆくには大変な重荷です。憤りを宿すと,そのことばかり考え,幸福感を味わえなくなる場合があります。健康を害することさえあります。それとは対照的に,ふさわしい場合に許すなら,自分自身の益になります。わたしたちは,ダビデと同じように,決して,他の人間から何か言われた,あるいはされたからといって,良い努力をあきらめてエホバから離れるということがないようにしたいものです。
自分の至らなさに気づいても
8 (イ)ある人たちが特に自責の念に駆られることがあるのはなぜですか。(ロ)自分を責めてばかりいて自分自身に愛想を尽かすことには,どんな危険がありますか。
8 「わたしたちはみな何度もつまずくのです」と,ヤコブ 3章2節は述べています。自分がつまずいたとき,自責の念に駆られるのはごく自然なことです。(詩編 38:3-8)もし肉の弱さと闘っていて,繰り返し敗北を経験するなら,自責の念は特に強くなる場合があります。a そのような苦闘をしたあるクリスチャンはこう説明しています。「自分が許されない罪を犯したのかどうか分からなくて,生きてゆくのが嫌になりました。私の場合,どうせもう手遅れなんだから,エホバへの奉仕に励んでも仕方がない,と思いました」。わたしたちは,自分を責めてばかりいて自分自身に愛想を尽かすとき,悪魔に絶好のチャンスを与えているのです。そして,悪魔はすかさずそのチャンスを利用することがあるのです。(コリント第二 2:5-7,11)必要なのは,自責の念に対するもっと平衡の取れた見方かもしれません。
9 わたしたちはなぜ神の憐れみを確信しているべきですか。
9 罪を犯したとき,ある程度は自責の念を抱くのももっともなことです。しかし,時には,クリスチャンとして自分は決して神の憐れみに値しないと考え,自責の念がなかなか消えないこともあります。それでも,聖書はわたしたちに次のような温かい保証の言葉を与えています。「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なる方ですから,わたしたちの罪を許し,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」。(ヨハネ第一 1:9)神はわたしの場合にはそうされない,と考えるもっともな理由が何かあるでしょうか。忘れないでください,エホバはご自分のみ言葉の中で,わたしは『進んで許す』と言っておられるのです。(詩編 86:5; 130:3,4)神は偽ることのできない方ですから,わたしたちが悔い改めの心をもって神に近づくなら,み言葉の約束どおりに行なってくださいます。―テトス 1:2。
10 以前の「ものみの塔」誌に,肉の弱さと闘うことに関して,心温まるどんな保証の言葉が載せられていますか。
10 あなたは,もしある弱さを克服したいと思っていたのにまたその弱さに負けてしまったなら,どうすべきでしょうか。あきらめてはなりません。弱さに負けることがあっても,必ずしも,それまでに遂げた進歩がそれですべて無に帰するわけではありません。本誌の1954年5月1日号は,次のような心温まる保証の言葉を述べていました。『わたしたちは,自分の以前の生活の型に殊のほか深く根ざした何らかの悪い癖があって,何度もそれにつまずいて倒れる[かもしれません]。……絶望してはなりません。許されない罪を犯したのだと決めてかからないでください。サタンはあなたがまさにそう推論することを望んでいるのです。あなたが自分自身のことで憂え,悩んでいるということ自体,いい気になっているわけではないことの証拠です。神の許しと清めと助けを求めることに,決してうみ疲れてはなりません。へりくだって真剣に神に頼ってください。同じ弱さのことでどれほど頻繁に近づかなければならないとしても,子供が困った時に父親のもとに行くようにエホバに近づいてください。そうすれば,エホバは過分の親切を施す方ですから,慈しみ深く助けを与えてくださり,もしあなたが誠実であるなら,自分にはもう良心にやましいところはないという自覚を持たせてくださるでしょう』。
自分は十分に行なっていない,と思えても
11 (イ)わたしたちは,王国を宣べ伝える業に参加することについて,どう考えるべきですか。(ロ)あるクリスチャンたちは,宣教に参加することについてのどんな感情を克服するよう努力しましたか。
11 王国を宣べ伝える業はクリスチャンの生活の中で重要な位置を占めており,その業に参加することは喜びをもたらします。(詩編 40:8)しかし,中には,宣教でより多くのことを行なえないために強い自責の念を抱くクリスチャンもいます。そのような自責の念を抱くと,喜びは失われ,エホバから自分は十分に行なっていないと見られているように思えて,良い努力をあきらめてしまうことにもなりかねません。ある人たちがどんな感情を克服しようと努力したか,考えてみてください。
夫と共に3人の子供を育てているあるクリスチャンの姉妹はこう書いています。「貧しいと何をするにも時間がかかる,ということをご存じでしょうか。私は,できる時はいつでも節約しなければなりません。これは要するに,中古品割引や在庫一掃セールをしている店を探し回ったり,時には衣服を繕ったりするために時間が取られるということです。[値引き食品の]クーポン券を使うためにも,つまりそれを切り取って集めて品物と交換するためにも,週に一,二時間取られます。時々,こんなことをしている自分にとても後ろめたいものを感じることがあります。こういう時間があるなら野外奉仕に使うべきだと思うからです」。
4人の子供と未信者の夫を持つある姉妹はこう説明しています。「私は,これではエホバを十分に愛しているとは言えない,と思っていました。それで,エホバに対する自分の奉仕を改善しようと努力しました。本当に一生懸命やってみたのですが,十分にできたと思えたことは一度もありませんでした。実際のところ,私には自尊心というものが全くありませんでした。ですから,自分の奉仕が一体どのようにエホバに受け入れられるのか,見当がつきませんでした」。
全時間奉仕を断念することが必要になったあるクリスチャンの女性はこう述べています。「全時間エホバにお仕えするという約束を果たせないと思うと,耐えられない気持ちでした。どんなにがっかりしたか,お分かりいただけないでしょう。今でも,思い出すと泣いてしまいます」。
12 あるクリスチャンたちが,宣教の面でより多くのことを行なえないために強い自責の念に駆られるのはなぜですか。
12 できるだけ十分にエホバに仕えたいと思うのはごく自然なことです。(詩編 86:12)しかし,ある人たちがより多くのことを行なえないために強い自責の念に駆られるのはなぜでしょうか。ある人たちにとって,それは,自分には価値がないという漠然とした感情と関係があるようです。そのような感情を抱くのは,恐らく,人生において数々の不快な経験をしたためでしょう。それとも,不適当な自責の念に駆られるのは,エホバがわたしたちに何を期待しておられるかに関して非現実的な見方をしているからかもしれません。あるクリスチャンの女性は,「痛みを感じるほどでなければ十分なことをしているとは言えない,と思っていた」ことを認めています。その結果,この人は自分自身のために過度に高い基準を設けました。そして,自分がその基準に達することができなかったとき,いっそう自責の念を募らせました。
13 エホバはわたしたちに何を期待しておられますか。
13 エホバはわたしたちに何を期待しておられるでしょうか。端的に言って,エホバがわたしたちに期待しておられるのは,魂をこめてエホバに仕え,自分の事情の許す範囲の事柄を行なうことです。(コロサイ 3:23)しかし,自分がしたいと思う事柄と現実に自分にできる事柄との間には大きな違いがあるかもしれません。わたしたちは,年齢,健康状態,体力,あるいは家族の責任といった要素によって制約を受けていることでしょう。それでも,できるだけのことを行なうとき,エホバに対する自分の奉仕は魂のこもったものであるという自信を持つことができます。その奉仕は,健康状態や種々の事情が許すゆえに全時間宣教に携わっている人の場合と全く同様,魂のこもった奉仕なのです。―マタイ 13:18-23。
14 あなたは,現実に即してどれほどのことを自分に期待できるかを見定めるために助けが必要な場合,どうすることができますか。
14 では,現実に即してどれほどのことを自分に期待できるか,どうすれば見定めることができるでしょうか。あなたはその件について,信頼の置ける円熟したクリスチャンの友人,例えば,あなたの能力や限界や家族の責任を知っている長老か経験ある姉妹と話し合いたいと思われるかもしれません。(箴言 15:22)忘れてはならないのは,神のご覧になる一個人としてのあなたの価値は,野外宣教でどれほどのことを行なうかによって量られるわけではない,ということです。エホバの僕は皆,エホバにとって貴重な存在です。(ハガイ 2:7。マラキ 3:16,17)宣べ伝える業においてあなたの行なう事柄が他の人より多いにせよ少ないにせよ,最善を尽くしている限り,エホバはそれを喜んでくださるのですから,何も自分を責める必要はありません。―ガラテア 6:4。
多くのことが要求されても
15 会衆の長老たちにはどのように多くのことが要求されますか。
15 「だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます」と,イエスは言われました。(ルカ 12:48)確かに,会衆の長老として奉仕している人には「多くのことが要求されます」。長老たちは,パウロと同じように,会衆のために自分を費やします。(コリント第二 12:15)話の準備をし,牧羊訪問をし,審理問題を扱わなければなりません。そうしたことをみな,自分の家族をないがしろにすることなく行なうのです。(テモテ第一 3:4,5)ある長老たちは,王国会館の建設の援助や,医療機関連絡委員会に関連した奉仕,大会での自発奉仕などにも忙しく携わっています。それら骨折って働く献身的な男子は,どうすれば,そのような数々の責任を担いながらうみ疲れないようにすることができるでしょうか。
16 (イ)エテロはモーセにどんな実際的な解決策を示しましたか。(ロ)長老はどんな特質を表わせば,ふさわしい責任を他の人たちと分担できますか。
16 慎み深く謙遜な人であったモーセが,他の人たちの抱えている色々な問題を顧みなければならず,疲れ果ててしまいそうになった時,しゅうとのエテロが一つの実際的な解決策を示しました。それは,幾らかの責任を他の資格ある男子たちと分担するようにという勧めです。(出エジプト記 18:17-26。民数記 12:3)「知恵は,慎みある者たちと共にある」と,箴言 11章2節は述べています。慎みがあるということは,自分の限界を認めて甘受することを意味します。慎みのある人は,他の人に仕事を委ねるのにやぶさかではなく,またふさわしい責任を資格ある他の男子と分担すると何となく統制力を失うのではないかといった不安も抱きません。b (民数記 11:16,17,26-29)むしろ,熱心にそれらの男子を進歩するよう助けます。―テモテ第一 4:15。
17 (イ)会衆の成員たちはどうすれば長老たちの荷を軽くすることができますか。(ロ)長老の妻はどんな犠牲を払っていますか。わたしたちは,そうした犠牲を当然のものと考えてはいないことをどのように示せますか。
17 会衆の成員たちは,長老たちの荷を軽くするために多くのことを行なえます。皆は,長老たちにもそれぞれ世話すべき家族があることを理解して,長老たちの時間や注意をむやみに要求したりしないでしょう。また,長老の妻が無私の態度で夫を会衆のために与え,進んで犠牲を払っているのを,当然のことのように考えたりもしないでしょう。夫が長老として仕える,3人の子供を持つある母親は,こう説明しています。「私は,家の中で進んで余分の荷を担って夫が長老として奉仕できるようにしていますが,そのことに何の不満もありません。夫がそのように奉仕しているからこそエホバが我が家を豊かに祝福してくださっているのですから,夫が与えているものをねたましく思うことはありません。もっとも,夫が忙しいので,そうでない場合に比べれば,庭の落ち葉をかき集めたり,子供を懲らしめたりする仕事を,しばしば私が多く行なわなければならないのは事実です」。残念なことですが,この姉妹は,一部の人たちから,自分の担っている余分の荷のことでねぎらいの言葉をかけられる代わりに,「どうして開拓奉仕をしないの」といった無神経なことを言われました。(箴言 12:18)他の人の行なえない事柄を批判するよりも,行なっている事柄を褒めるほうがどれほど良いでしょう。―箴言 16:24; 25:11。
終わりがまだ来ていないからといって
18,19 (イ)永遠の命のための走路にあって,今はなぜ,走るのをやめるべき時ではありませんか。(ロ)使徒パウロはエルサレムのクリスチャンたちに,時宜にかなったどんな忠告を与えましたか。
18 走者は,自分が長距離レースの終点に近づいていることを知っていれば,あきらめません。体は忍耐の限界に達しており,疲労困ぱいし,オーバーヒートして脱水状態になっているとしても,ゴールまであとわずかなのですから,走るのをやめるべき時ではありません。同様に,クリスチャンであるわたしたちは命の賞のための走路を走っており,ゴールまであとほんのわずかです。わたしたちにとって,今は走るのをやめたりするべき時ではありません。―コリント第一 9:24; フィリピ 2:16; 3:13,14と比較してください。
19 1世紀のクリスチャンたちも同様の状況に直面しました。西暦61年ごろ,使徒パウロはエルサレムのクリスチャンたちにあてて手紙を書きました。時は尽きようとしていました。当時の邪悪な「世代」,背教したユダヤ人の事物の体制は今にも『過ぎ去ろう』としていたのです。特に,エルサレムにいたクリスチャンは目ざとくあり,忠実でなければなりませんでした。エルサレムが野営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その都市から逃げることが必要でした。(ルカ 21:20-24,32)ですから,『疲れて,あなた方の魂が弱り果ててしまうことのないようにしなさい』という,霊感を受けたパウロの言葉は本当に時宜にかなっていました。(ヘブライ 12:3)使徒パウロはここで,『疲れる』(カムノー)と『弱り果てる』(エクリュオマイ)という,ありありと情景の思い浮かぶ二つの動詞を使っています。ある聖書学者によれば,ギリシャ語のこれらの言葉は『ゴールポストを通過したあと緊張が解けてその場にくずおれる走者たちに関し,アリストテレスが使っています。[パウロの手紙を]読んだ人たちは,まだ走路を走っている最中であり,早まって力を抜いてはなりませんでした。うみ疲れて気をゆるめ,くずおれてしまってはならなかったのです。ここでもまた,困難に面して粘り強さを示すよう呼びかけられています』。
20 パウロの忠告は,今日のわたしたちにとって,なぜ時宜にかなっていますか。
20 パウロの忠告は,今日のわたしたちにとって,なんと時宜にかなっているのでしょう。わたしたちは増し加わる圧力に直面して,自分がもう立っていられなくなりそうな疲れ切った走者のように思える時があるかもしれません。しかし,ゴールまであとわずかなのですから,完走をあきらめてはなりません。(歴代第二 29:11)「ほえるライオン」である,わたしたちの敵対者は,まさに,わたしたちがあきらめることを望んでいるのです。感謝すべきことに,エホバは「疲れた者に力を」与えるための数々の備えを設けてくださっています。(イザヤ 40:29)その備えとは何か,またどうすればそれを活用できるかについては,次の記事で論じられます。
[脚注]
a 例えば,怒りっぽい傾向のような根深い人格特性を抑えようと努力している人や,マスターベーションの問題を克服しようと努力している人がいるかもしれません。―「目ざめよ!」誌,1988年5月22日号,19-21ページ; 1982年2月8日号,16-20ページ,およびものみの塔聖書冊子協会発行の,「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」の198-211ページをご覧ください。
b 「ものみの塔」誌,1992年10月15日号,20-23ページの「長老たち ― 他の人に委ねなさい」という記事をご覧ください。
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エホバは疲れた者に力をお与えになるものみの塔 1995 | 12月1日
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エホバは疲れた者に力をお与えになる
「エホバを待ち望んでいる者は再び力を得る。彼らは鷲のように翼を張って上って行く」― イザヤ 40:31。
1,2 エホバはご自分を信頼する者たちに何をお与えになりますか。わたしたちはこれから何について考慮しますか。
鷲は,空を飛ぶ最も強力な鳥の類に含まれます。翼をはばたくこともなく長距離を滑空することができます。翼スパンが2㍍を超えることもある「鳥類の王者」イヌワシは,「鷲の仲間の中でもとりわけ堂々としている。丘陵や平原の上空に舞い昇り,山の尾根の上を何時間も滑翔したあと,旋回しながら空の中の黒い点のようになるまで上昇する」と述べられています。―「オーデュボン協会 北アメリカ鳥類百科事典」。
2 イザヤは,鷲のその飛行能力を念頭に置いて,こう書いています。「[エホバ]は疲れた者に力を与えておられる。活動力のない者にみなぎる偉力を豊かに与えてくださる。少年は疲れ果てることもあり,うみ疲れることもある。また,若者も必ずつまずくであろう。しかし,エホバを待ち望んでいる者は再び力を得る。彼らは鷲のように翼を張って上って行く。走ってもうみ疲れず,歩いても疲れ果てることがない」。(イザヤ 40:29-31)エホバはご自分を信頼する者たちに,飛翔する鷲の疲れ知らずとも思える翼を与えるかのように,前進する力をお与えになります。このことを知っていると,本当に慰められます。ではこれから,神が疲れた者に力を与えるために設けておられる備えの幾つかについて考慮しましょう。
祈りの力
3,4 (イ)イエスは弟子たちに,どうするよう勧めましたか。(ロ)わたしたちは,祈りに対する答えとしてエホバに何をしていただけると期待できますか。
3 イエスは弟子たちに,「常に祈り,かつあきらめてはならない」と勧めました。(ルカ 18:1)エホバに心情を吐露することは,再び力を得て,生活上の圧力が抗し難く思えてもあきらめないようにする上で本当に助けになるでしょうか。確かに,助けになります。しかし,念頭に置いておかなければならない事柄もあります。
4 わたしたちは,祈りに対する答えとして行なってくださるようエホバに期待する事柄に関して,現実的でなければなりません。いつのまにか重度のうつ病になっていたあるクリスチャンの女性は,後にこう述べました。「ほかの病気の場合と同じように,エホバはこの時代に奇跡を行なうことはなさいません。でも,確かに,病気に対処できるよう,またこの体制下で治せる程度まで治るよう助けてくださいます」。そして,自分の祈りがなぜ重要なのかを説明して,「私は,一日24時間いつでもエホバの聖霊を求めることができました」と付け加えています。ですから,エホバはわたしたちが生活上の様々な圧力を受けないようにされるわけではありませんが,確かに「ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださ(います)」。(ルカ 11:13。詩編 88:1-3)その霊はわたしたちに,直面するどんな試練や圧力にも耐えるだけの力を得させることができます。(コリント第一 10:13)もし必要なら,その霊はわたしたちに,ストレスとなる問題すべてが神の王国によって間もなく実現する新しい世で除かれる時まで耐え忍べるよう,『普通を超えた力』を吹き込むこともできるのです。―コリント第二 4:7。
5 (イ)自分の祈りを有効なものとするためには,どんな二つの事柄が肝要ですか。(ロ)肉の弱さと闘っている場合,どのように祈ることができますか。(ハ)たゆまずささげる具体的な祈りは,エホバの前に何をはっきり示すものとなりますか。
5 しかし,祈りを有効なものとするには,たゆまず,また具体的な点について祈らなければなりません。(ローマ 12:12)例えば,もし肉の弱さと闘っているために時々うみ疲れるのであれば,毎日の初めにエホバに,その日一日中その特定の弱さに屈しないよう助けを懇願してください。その日の間ずっと,そして毎晩寝る前に,同じように祈ってください。もし弱さに負けたなら,エホバに許しを請い求めてください。しかし同時に,何が原因で負けたのか,また今後そういう状況を避けるために自分には何ができるかについてもエホバに話してください。そのようなたゆまずささげる具体的な祈りは,その闘いに勝ちたいというあなたの願いの真剣さを,「祈りを聞かれる方」の前にはっきり示すものとなります。―詩編 65:2。ルカ 11:5-13。
6 自分には祈るだけの価値もないと思えるときでも,エホバが祈りを聞いてくださると期待できるのはなぜですか。
6 しかし,時には,うみ疲れてしまった人が,自分には祈るだけの価値もないと思うこともあります。そのような気持ちになったあるクリスチャンの女性は,後にこう述べました。「それはとても危険な考え方です。なぜなら,それは自分で自分を裁いたことになるからです。でも,裁きはわたしたちのすべきことではないのです」。実際,「神ご自身が裁き主」です。(詩編 50:6)聖書はわたしたちに,「心に責められるようなことがあっても,……神はわたしたちの心より大きく,すべてのことを知っておられる」と保証しています。(ヨハネ第一 3:20)わたしたちが自分には祈るだけの価値もないと自分自身を裁くときも,エホバはわたしたちに対してそのように考えてはおられないかもしれません。そのことを知っていると,本当に慰められます。神は,わたしたちが自分には祈るだけの価値もないと思う原因となったかもしれない生活上の事情をも含め,わたしたちについて「すべてのことを知っておられ」ます。(詩編 103:10-14)神はご自分の憐れみや思いやり深さに促されて,「砕かれ,打ちひしがれた心」からの祈りをお聞きになります。(詩編 51:17)神は「立場の低い者の訴えの叫びに耳を閉じる者」を自ら有罪としておられるのですから,どうして助けを求めるわたしたちの叫びを聞くことを拒んだりされるでしょうか。―箴言 21:13。
兄弟関係の温かさ
7 (イ)再び力を得るようわたしたちを助けるためにエホバが設けてくださっているもう一つの備えは何ですか。(ロ)わたしたちの兄弟関係について何を知っていることは,自分を力づけるものとなりますか。
7 再び力を得るようわたしたちを助けるためにエホバが設けてくださっているもう一つの備えは,わたしたちクリスチャンの兄弟関係です。兄弟姉妹から成る世界的な家族の一部になるのは,なんという貴重な特権でしょう。(ペテロ第一 2:17)生活上の様々な圧力がのしかかってくるとき,この兄弟関係の温かさは,再び力を得るための助けになります。どのようにでしょうか。ストレスを生じさせる難しい問題に直面しているのが自分一人ではない,ということを知っているだけでも力づけられます。わたしたちの兄弟姉妹の中には,同じような圧力や試練に直面してわたしたちの感情と非常によく似た感情を抱いている人もいるに違いありません。(ペテロ第一 5:9)自分が経験している事柄は珍しいことではなく,自分の感情も異常なものではない,ということを知っていれば安心できます。
8 (イ)わたしたちが多くの必要な援助や慰めをわたしたちの兄弟関係のうちに見いだせることは,どんな例に示されていますか。(ロ)あなたはこれまでに,個人的にどのように「真の友」からの援助や慰めを得ましたか。
8 わたしたちはこの兄弟関係の温かさの中に,自分が困った時に多くの必要な援助や慰めを与えてくれる「真の友」を見いだすことができます。(箴言 17:17)多くの場合,必要なのはちょっとした親切な言葉や思いやりのある行為だけです。自分はだめな人間だという感情を克服しようと努力したあるクリスチャンは,以前のことを思い起こしてこう述べています。「私の抱いていた消極的な考えを克服するよう私を助けるために,私自身についての積極的な事柄を私に言って聞かせてくださる友人たちがいました」。(箴言 15:23)ある姉妹は,自分の幼い娘の死後しばらくは,会衆の集会で王国の歌,特に,復活のことに触れた歌を歌うことを難しく感じました。姉妹は当時を思い起こしてこう述べています。「ある時,通路を隔てた隣の席にいた姉妹が,私の泣いているのを見て,そばに来て私の体に腕を回し,歌の残りを一緒に歌ってくださいました。私は,兄弟姉妹に対する愛が満ち満ちているのを感じ,自分たちが集会に来ていることを本当に幸せに感じました。そして,自分たちの助けはそこ,王国会館にあるのだと思いました」。
9,10 (イ)わたしたちは自分たちの兄弟関係の温かさにどのように貢献できますか。(ロ)特にだれが健全な交わりを必要としていますか。(ハ)わたしたちは励ましの必要な人たちを助けるために何をすることができますか。
9 もちろん,わたしたち各々にはクリスチャンの兄弟関係の温かさに貢献する責任があります。ですから,わたしたちは自分の心を,兄弟姉妹全員を包むように「広く」すべきです。(コリント第二 6:13)うみ疲れてしまった人が,自分に対する兄弟関係の愛が冷めていると感じるとしたら,それはなんと残念なことでしょう。ところが現に,寂しい気持ちがする,また無視されているように思える,という報告を寄せるクリスチャンたちがいるのです。夫が真理に反対しているある姉妹はこう願い出ました。「築き上げる友情,励まし,愛のこもった交わりなどを望まない人や必要としない人がいるでしょうか。どうか兄弟姉妹たちに,私たちはそれらを必要としている,ということを思い起こさせてください」。そうです,特に,生活の中での様々な事情のために憂うつになる人たち ― 配偶者が信者ではない人,ひとり親の立場にある人,慢性的な健康上の問題を抱えている人,老齢の人,その他 ― は,健全な交わりを必要としています。わたしたちのうちに,その点を思い起こす必要のある人がいるでしょうか。
10 わたしたちは助けるために何ができるでしょうか。自分を広くして,愛を表わすようにしましょう。だれかをもてなそうと思う時には,励ましの必要な人たちを忘れないようにしましょう。(ルカ 14:12-14。ヘブライ 13:2)その人の状況からして招待に応じるのは難しいだろうと決めてかかるのではなく,とにかく誘ってみてはどうでしょうか。どうするかは当人に決めてもらうのです。その人は,たとえ応じられなくても,気にかけてもらっているのを知って,きっと励まされることでしょう。そういう人は,再び力を得るのにまさにそれを必要としているのかもしれません。
11 憂うつになっている人たちは,どんな面での助けを必要としているかもしれませんか。
11 憂うつになっている人たちは,ほかの面での助けを必要としている場合があります。例えば,一人で子供を育てている母親は,父親のいない自分の息子に関心を示してくれる円熟した兄弟を必要としているかもしれません。(ヤコブ 1:27)重い健康上の問題を抱えている兄弟や姉妹は,買い物や家事を手伝ってくれる人を必要としているかもしれません。年老いた人は話し相手になってくれる人を切望していたり,野外宣教に出かけるのに少しの助けを必要としているかもしれません。そのような援助が継続的に必要とされているとき,それは本当に『わたしたちの愛の純真さを試すもの』となります。(コリント第二 8:8)困窮している人がいる場合,時間が取られ,骨が折れるのでかかわりになるのを避けようとする代わりに,他の人の必要に敏感であってこたえ応じることにより,クリスチャン愛を試すテストに合格したいものです。
神の言葉の力
12 神の言葉はどのように,再び力を得るための助けになっていますか。
12 人は食べることをやめるなら,すぐに体力を失います。つまり,力が出なくなります。それで,エホバはもう一つの方法として,わたしたちが霊的によく養われるよう取り計らうことにより,前進するための力を与えてくださっています。(イザヤ 65:13,14)神はどんな霊的食物を供給しておられますか。まず,み言葉聖書です。(マタイ 4:4。ヘブライ 4:12と比較してください。)それはどのように再び力を得るための助けになるでしょうか。直面する圧力や問題のために力が奪われ始めたなら,聖書時代の忠実な男女の抱いた感情や実生活における苦闘について読んで力を得ることができます。それらの男女は,忠誠の際立った模範ですが,「わたしたちと同様の感情を持つ」人間でした。(ヤコブ 5:17。使徒 14:15)彼らはわたしたちと同じような試練や圧力に直面しました。幾つかの例を考えてみましょう。
13 聖書時代の忠実な男女がわたしたちの場合とよく似た感情を持ち,よく似た経験をしていたことは,聖書中のどんな例が示していますか。
13 族長アブラハムは,復活に対する信仰を抱いてはいましたが,妻の死を深く憂え嘆きました。(創世記 23:2。ヘブライ 11:8-10,17-19と比較してください。)悔い改めたダビデは,自分は罪を犯したのでエホバに仕えるのにふさわしくないと感じました。(詩編 51:11)モーセは,自分は委ねられる務めに適していないという気持ちを抱きました。(出エジプト記 4:10)エパフロデトは,重い病気にかかったために自分が「主の業」において余り活動できない,ということが知られるようになったとき,憂うつな気持ちになりました。(フィリピ 2:25-30)パウロは,堕落した肉と闘わなければなりませんでした。(ローマ 7:21-25)フィリピにある会衆に交わっていた二人の油そそがれた姉妹,ユウオデアとスントケは,仲良くやってゆく上で幾らか問題を抱えていたようです。(フィリピ 1:1; 4:2,3)次のことを覚えておくと,本当に励みになります。それら忠実な人たちは,わたしたちと同じような感情を持ち,同じような経験をしながらも,あきらめなかったということです。エホバも,彼らに愛想を尽かしたりはされませんでした。
14 (イ)エホバはどんな手段を用いて,わたしたちが神の言葉から力を得られるように助けてくださっていますか。(ロ)「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌に社会,家族,感情などの問題に関する記事が掲載されてきたのはなぜですか。
14 エホバはみ言葉から力を得るようわたしたちを助けるために,忠実で思慮深い奴隷級を用いて,『時に応じた食物』を途絶えることなく供給してくださっています。(マタイ 24:45)忠実な奴隷は昔からずっと「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を用いて,聖書の真理を擁護し,神の王国を人類唯一の希望として宣明してきました。特にこれまで数十年間,これらの定期刊行物には,神の民の一部の人々でさえ直面する,社会,家族,感情などの難しい問題に関する,時宜にかなった聖書的な記事が載せられてきました。そのような情報はどんな目的で出版されているのでしょうか。確かに,そうした難しい問題を経験している人たちが神の言葉から力と励みを得るよう助けるために出版されています。しかし,そのような記事は,わたしたちの兄弟姉妹のうちのある人たちが経験しているかもしれない事柄をわたしたち皆が一層はっきり理解するための助けにもなっています。ですから,わたしたちは,「憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くありなさい」というパウロの言葉に一層留意しやすくなっているのです。―テサロニケ第一 5:14。
「風からの隠れ場」である長老たち
15 イザヤは,長老として仕えている人たちについてどんなことを預言しましたか。このために長老たちにはどんな責任が生じますか。
15 エホバは,うみ疲れた時のわたしたちを助けるためにさらに別のものを備えてこられました。会衆の長老たちです。それら長老たちについて,預言者イザヤはこう書いています。「各々は必ず風からの隠れ場,雨あらしからの隠れ場所,水のない地方における水の流れ,やせた地における重い大岩の陰のようになる」。(イザヤ 32:1,2)ですから,長老たちには,エホバが自分たちについて予告しておられた事柄に自分を合わせる責任があります。彼らは「必ず」他の人に慰めやさわやかさを与える者,また進んで『互いの重荷[または,「悩みとなるもの」; 字義,「重いもの」(複数形)]を負い合う』者となるようにすべきです。(ガラテア 6:2,脚注)彼らはこれをどのように行なうことができるでしょうか。
16 長老たちは,祈るのもふさわしくないと思っている人を助けるために何をすることができますか。
16 前にも触れたように,人はうみ疲れてしまうと,時には祈るのもふさわしくないと思うことがあります。長老たちは何をすることができますか。その人と一緒に,またその人のために祈ることができます。(ヤコブ 5:14)うみ疲れたその人の聞いている所で,その人がエホバから,また他の人たちからどれほど愛されているかを理解するのを助けてくださるようエホバにお願いするだけでも,きっと慰めを与えるものとなることでしょう。長老のささげる熱烈な,心のこもった祈りを聞くことは,苦しんでいる人の確信を強める助けになるかもしれません。その人は,もし自分のためにささげられる祈りにエホバが答えられると長老たちが確信しているのなら,自分もそのように確信できる,と推論するよう助けられるかもしれません。
17 長老たちはなぜ,親身になって聴くべきですか。
17 「すべての人は,聞くことに速く,語ることに遅く……あるべきです」と,ヤコブ 1章19節は述べています。長老たちは,うみ疲れた人が再び力を得られるよう助けようと思うなら,親身になって聴くことも必要です。ある場合,会衆の成員たちは,この事物の体制下では解決できない問題や圧力と取り組んでいるかもしれません。ですから,彼らが必要としているのは,問題を“解決する”何らかの解答ではなく,ただよく耳を傾けてくれる人 ― 本来ならこう考えるべきだなどと言ったりせず,批判的にならずに聴いてくれる人 ― に話を持ちかけることだけなのかもしれません。―ルカ 6:37。ローマ 14:13。
18,19 (イ)長老にとって,機敏に聴くようにすることは,うみ疲れた人の荷を余計に重くしてしまうという事態を避ける上でどのように助けになりますか。(ロ)長老たちが「思いやり」を示すとき,どんな結果になりますか。
18 長老の皆さん,機敏に聴くようにすれば,うみ疲れた人の荷をうっかり余計に重くしてしまうという事態を避ける助けになります。例えば,兄弟か姉妹が何度か集会を休んだ場合,あるいは野外宣教の面で低調になっている場合,当人は宣教においてもっと頑張ること,あるいは集会にもっと定期的に出席することについての助言を本当に必要としているのでしょうか。そうかもしれません。しかし,あなたは事情をすべて把握していますか。健康上の問題が悪化しているのでしょうか。家族に関する種々の責任が最近変わったのでしょうか。ほかに当人を憂うつにさせている事情や圧力があるのでしょうか。忘れないでください,その人は自分がもっと多くのことを行なえないためにすでに相当自責の念に駆られているかもしれません。
19 では,どうすれば兄弟姉妹の助けになれるでしょうか。結論を引き出してアドバイスを与える前に,相手の話を聴くことです。(箴言 18:13)相手を理解するための質問をして,当人の心の感情を『くみ上げて』ください。(箴言 20:5)そうした感情を無視しないで,認めてあげることです。うみ疲れた人には,エホバが気遣ってくださり,様々な事情で余りできない場合もあることを理解してくださっている,という確信を持たせてあげる必要があるかもしれません。(ペテロ第一 5:7)長老たちがそのような「思いやり」を示すとき,うみ疲れた人は「自分の魂にとってさわやかなものを見いだす」ことでしょう。(ペテロ第一 3:8。マタイ 11:28-30)彼らはそのようなさわやかさを見いだすとき,もっと多くのことを行なうようにと言われる必要はありません。心に促されて,エホバへの奉仕において自分に無理なくできることをすべて行なうようになるのです。―コリント第二 8:12; 9:7と比較してください。
20 この邪悪な世代の終わりがもうそこまで来ているのですから,わたしたちはどうするよう決意すべきですか。
20 確かに,わたしたちは人類史上最も多難な時期に生活しています。終わりの時が残り少なくなるにつれ,サタンの世での生活上の圧力は増し加わってゆきます。忘れないでください,悪魔はほえるライオンのように,わたしたちを簡単に餌食にできるよう,わたしたちがうみ疲れてあきらめるのを待っています。しかし,なんと感謝すべきことでしょう,エホバは疲れた者に力を与えてくださるのです。わたしたちは,神があたかも飛翔する鷲の力強い翼を与えてくださっているかのように,前進する力を与えるために設けてくださっている備えを,十分に活用したいものです。この邪悪な世代の終わりは目前なのですから,今は永遠の命という賞のための走路を走るのをやめるべき時ではありません。―ヘブライ 12:1。
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