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    ものみの塔 2011 | 9月15日
    • 競走を忍耐して走りましょう

      「自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか」。―ヘブ 12:1。

      1,2. 使徒パウロは,クリスチャンの人生を何に例えましたか。

      毎年,各地でマラソン大会が開かれます。一流のランナーは優勝をねらって走りますが,ほとんどの参加者の目標はそれほど高くありません。とにかく完走することを目指すのです。

      2 聖書の中で,クリスチャンの人生は競走に例えられています。使徒パウロは古代コリントのクリスチャンにあてた第一の手紙の中でその例えを用いました。こう書いています。「競走の走者はみな走りはしますが,ただ一人だけが賞を受けることを,あなた方は知らないのですか。あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい」。―コリ一 9:24。

      3. ただ一人だけが賞を受ける,とパウロが述べたのはなぜですか。

      3 パウロは,クリスチャンのうち一人だけが命の賞を得ると言っていたのでしょうか。ほかの走者の努力は無駄になってしまいますか。そんなことはありません。当時の競走の走者は,優勝という目標に向かって厳しい訓練に励みました。パウロは,仲間のクリスチャンが永遠の命を目指してそのように励むことを願っていました。そうするなら,命の賞を得られるでしょう。クリスチャンの競走では,完走者全員に賞が与えられます。

      4. わたしたちの前に置かれた競走について,どんな点を考える必要がありますか。

      4 これは,命を目指す競走を走るわたしたち皆にとって励みとなりますが,同時に,気を引き締めるべきことも分かります。なぜなら,賞は,天での命であれ地上の楽園での命であれ,何にも代えがたいものだからです。競走の走路が長く険しいのは確かです。障害物,気を散らすもの,危険がたくさんあります。(マタ 7:13,14)残念なことに,ペースを落としたり,疲れ果てたり,倒れてしまったりした人もいます。命を目指す競走には,どんな落とし穴や危険があるでしょうか。どうすればそれに陥らずに済みますか。完走するために何ができるでしょうか。

      完走するには忍耐が必要

      5. パウロはヘブライ 12章1節で,競走についてどんなことを述べていますか。

      5 パウロは,エルサレムとユダヤのヘブライ人のクリスチャンに書き送った手紙の中でも,競走について述べています。(ヘブライ 12:1を読む。)競走に参加すべき理由だけでなく,完走するために行なうべき事柄に注意を引いています。では,なぜこの手紙を書いたのか,また何をするよう励ましたかったのか,調べてみましょう。その後,霊感によるパウロの助言からどんな教訓が得られるかを考えましょう。

      6. クリスチャンは宗教指導者からどんな圧力を受けていましたか。

      6 1世紀のクリスチャン,特にエルサレムとユダヤにいた人たちは,多くの試練や苦難に遭っていました。依然として強い影響力を持っていたユダヤ人の宗教指導者から,大きな圧力を受けていました。宗教指導者たちは以前に,イエス・キリストを扇動者として非難し,犯罪者として死刑に処しており,その後も反対の手を緩めませんでした。「使徒たちの活動」の書には,西暦33年のペンテコステの奇跡的な出来事の直後に始まった,クリスチャンへの数々の脅しや攻撃の様子が記録されています。忠実な人たちは厳しい状況にあったのです。―使徒 4:1-3; 5:17,18; 6:8-12; 7:59; 8:1,3。

      7. パウロが手紙を書き送ったクリスチャンは,どんな重大な局面を迎えつつありましたか。

      7 また当時,ユダヤ人の事物の体制の終わりが差し迫っていました。イエスは追随者たちに,不忠実なユダヤ国民に臨む滅びについて告げていました。その終わりの前に生じる出来事を教え,生き残るためにどう行動すべきか具体的な指示を与えていました。(ルカ 21:20-22を読む。)クリスチャンたちはどうするでしょうか。イエスはこう警告していました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい」。―ルカ 21:34。

      8. ペースを落としたり疲れ果てたりしたクリスチャンがいたのはなぜだと考えられますか。

      8 パウロがヘブライ人への手紙を書いた時,イエスがこの警告を与えてから30年近くたっていました。その間,クリスチャンたちに何が起きていたでしょうか。ある人たちは,様々な圧力や気を散らすもののために霊的な進歩が滞り,弱くなっていました。(ヘブ 5:11-14)周りの大半のユダヤ人と同じようにしたほうが楽だ,と感じた人もいたようです。ユダヤ人たちは神を完全に捨てたわけではなく,律法にもある程度従っているのだから,と考えたのかもしれません。また,モーセの律法や伝統に固執する会衆の成員に説き伏せられたりおびえたりしている人もいました。パウロは,霊的な警戒を怠らずに競走を忍耐して走るよう兄弟たちを助けるため,何と述べるでしょうか。

      9,10. (イ)ヘブライ 10章の終わりのほうで,パウロはどんな励ましの言葉を述べていますか。(ロ)パウロが古代の証人たちの信仰の行ないについて書いたのはなぜでしたか。

      9 パウロが神の霊感のもと,どのようにヘブライ人のクリスチャンを強めようとしたかは注目に値します。ヘブライ 10章で,律法は「来たるべき良い事柄の影」にすぎないと論じ,キリストの贖いの犠牲の価値をはっきり示しました。そして章の終わりのほうで,こう諭しています。「あなた方には忍耐が必要なのです。それは,神のご意志を行なった後,約束の成就にあずかるためです。あと『ほんのしばらく』すれば,『来たらんとする者は到来し,遅れることはない』のです」。―ヘブ 10:1,36,37。

      10 ヘブライ 11章では,神への真の信仰とはどういうものかを巧みに説明し,古代の信仰の男女の手本を例として挙げています。それは単なる余談だったのでしょうか。そんなことはありません。ヘブライ人たちは,信仰には勇気ある行動と忍耐が求められるということを知る必要がありました。信仰の厚い古代の僕たちの立派な手本は,試練や苦難に立ち向かうための力となります。ですから,パウロは過去の忠節な人たちの信仰の行ないを列挙した後,こう言いました。「これほど大勢の,雲のような証人たちに囲まれているのですから,わたしたちも,あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか」。―ヘブ 12:1。

      「雲のような証人たち」

      11. 「大勢の,雲のような証人たち」について考えると,どんな効果がありますか。

      11 「大勢の,雲のような証人たち」は,競走の行方を見物しているだけの観客のようではありません。むしろ,かつては競走の参加者だったと言えます。そして,見事に完走しました。すでに亡くなっているとはいえ,新人ランナーを励ませるベテランランナーのようです。新人ランナーは,優秀な走者たちに囲まれて見守られているとしたら,どう感じるでしょうか。ベストを尽くして頑張ろうと思うのではないでしょうか。古代の証人たちは,この比喩的な競走がどんなに厳しくても完走は可能である,ということの証拠でした。ですから,1世紀のヘブライ人のクリスチャンは,「雲のような証人たち」の手本をしっかり思いに留めるなら,勇気を出し,『競走を忍耐して走る』ことができました。わたしたちもそうできます。

      12. パウロが挙げた人たちの状況は,どのようにわたしたちと似ていますか。

      12 パウロが挙げた信仰の厚い人たちの多くは,わたしたちと状況が似ています。例えば,ノアは洪水前の世が終わろうとしている時に生活していました。わたしたちは現在の事物の体制の終わりが迫っている時に生活しています。アブラハムとサラは故郷を離れ,真の崇拝を推し進めてエホバの約束の成就を待つよう求められました。わたしたちは自分を捨てて,エホバの是認とエホバが差し伸べておられる祝福を得るよう勧められています。モーセは約束の地を目指して危険な荒野を旅しました。わたしたちは約束の新しい世を目指して,邪悪な世の中を歩んでいます。こうした人たちの経験,成功や失敗,長所や短所について考えることは,大いに助けになります。―ロマ 15:4。コリ一 10:11。

      どのようにして完走したか

      13. ノアはどんな困難に直面しましたか。克服できたのはなぜですか。

      13 これらエホバの僕たちは,どのように忍耐して競走を走り抜いたのでしょうか。パウロがノアについて何と述べたかに注目しましょう。(ヘブライ 11:7を読む。)ノアにとって,『地の大洪水が,すべての肉なるものを滅ぼし去る』というのは,「まだ見ていない」事柄でした。(創 6:17)それまでに全く例のないことだったのです。それでもノアは,そんなことは起こり得ないと言ってはねつけたりはしませんでした。なぜでしょうか。何であれエホバが言われたことはそのとおりになる,という信仰があったからです。エホバから求められた事柄は難しくてできない,とは考えませんでした。むしろ,『まさにそのとおりに行ない』ました。(創 6:22)ノアがすべきことはたくさんありました。箱船を建造し,動物を集め,自分たちと動物のための食料を箱船に運び入れ,警告の音信を宣べ伝え,家族を霊的に強めなければなりませんでした。このすべてを「まさにそのとおりに」するのは容易ではなかったでしょう。しかし信仰と忍耐を示し,家族と共に生き残って祝福を得ました。

      14. アブラハムはどんな試練を忍耐しましたか。わたしたちはどんな教訓を得られますか。

      14 わたしたちを囲む「雲のような証人たち」としてパウロが次に挙げているのは,アブラハムとサラです。二人はウルでの普通の生活を捨てなければなりませんでした。将来どうなるか分からなかったでしょう。それでも,試練の中,揺るがぬ信仰を抱き,従順でした。アブラハムは真の崇拝のために進んで払った数々の犠牲ゆえに,適切にも,「信仰を持つ人すべての父」と呼ばれています。(ロマ 4:11)ヘブライ人たちはアブラハムの生涯についてよく知っていたので,パウロは主な点にしか触れていません。とはいえ,次のような貴重な教訓を引き出しています。「[アブラハムとその家族を含む]これらの人はみな信仰のうちに死にました。彼らは約束の成就にあずかりませんでしたが,それをはるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また一時的居留者であることを公に宣明しました」。(ヘブ 11:13)アブラハムとサラは,神への信仰と神との個人的な関係により,競走を忍耐して走ることができたのです。

      15. モーセが生き方を変化させたのはなぜでしたか。

      15 モーセもエホバの模範的な僕で,「雲のような証人たち」の一人です。特権階級の豊かな暮らしを後にし,「神の民と共に虐待されることを選び」ました。なぜでしょうか。パウロはこう述べています。「彼は報いを一心に見つめたのです。……彼は,見えない方を見ているように終始確固としていたのです」。(ヘブライ 11:24-27を読む。)モーセは「罪の一時的な楽しみ」によって気を散らされたりはしませんでした。神とその約束を現実のものととらえていたので,並外れた勇気と忍耐を示せました。イスラエル人をエジプトから約束の地に導くため,労を惜しまず励んだのです。

      16. モーセは約束の地に入れなくても落胆しなかった,とどうして言えますか。

      16 アブラハムと同じくモーセも,生きている間に神の約束の成就を経験することはできませんでした。イスラエル人が約束の地に入る態勢を整えていた時,こう告げられました。「あなたは遠くからその地を見るが,わたしがイスラエルの子らに与える地に行ってそこに入ることはないのである」。これは,以前にモーセとアロンが民の反逆にいら立ち,「メリバの水のところで,……イスラエルの子らの中にあって[神]への忠順に背く行動をした」からでした。(申 32:51,52)モーセは落胆したり憤ったりしたでしょうか。いいえ。民を祝福し,最後にこう言いました。「イスラエルよ,あなたは幸いな者! だれかあなたのような者がいるだろうか。エホバにあって救いを享受する民。それはあなたの助けとなる盾,あなたの卓逸した剣なる方」。―申 33:29。

      学べる教訓

      17,18. (イ)命を目指す競走について,「雲のような証人たち」から何を学べますか。(ロ)次の記事ではどんなことを考えますか。

      17 わたしたちを囲む「雲のような証人たち」の幾人かの人生から,競走を走り抜くには神とその約束への絶対の信仰が不可欠だということが分かります。(ヘブ 11:6)信仰は,わたしたちの生活の中心となっているべきです。隅に追いやられているようであってはなりません。エホバの僕は信仰のない人とは違い,先にあるものに目を向けます。「見えない方」を見ることができるので,競走を忍耐して走れます。―コリ二 5:7。

      18 クリスチャンの競走を走るのは簡単ではありません。それでも,完走することは可能です。次の記事では,さらにどんなことが助けになるかを考えます。

  • 「それを獲得するような仕方で走りなさい」
    ものみの塔 2011 | 9月15日
    • 「それを獲得するような仕方で走りなさい」

      「あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい」。―コリ一 9:24。

      1,2. (イ)パウロはヘブライ人のクリスチャンをどのように励ましましたか。(ロ)パウロは神の僕たちにどんな諭しを与えていますか。

      使徒パウロはヘブライ人への手紙の中で,仲間のクリスチャンを励ますために印象的な例えを用いました。命を目指す競走を自分たちだけで走っているのではないことを思い起こさせています。クリスチャンたちは,見事に完走した「大勢の,雲のような証人たち」に囲まれていたのです。かつての走者たちの信仰の行ないと懸命な努力をしっかり思いに留めるなら,疲れ果てずに走りつづけるための力が得られたでしょう。

      2 前の記事で,「雲のような証人たち」の幾人かについて考えました。その生き方から,揺るがぬ信仰があれば神への忠節を保って競走を走り通せる,ということが分かります。わたしたちも同じように完走するには,どうすればよいのでしょうか。パウロはこう諭していました。「わたしたちも,あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨て,自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか」。―ヘブ 12:1。

      3. ギリシャ競技の走者に言及した助言で,パウロは何を言わんとしていましたか。

      3 当時人気のあるスポーツだった競走について,「初期キリスト教の背景」(英語)という本は,「ギリシャ人たちは裸で走り,競い合った」と述べています。a 走者たちは,走る速度を落としかねない余計な物を一切身に着けなかったのです。品位に欠けたことではありますが,走者はとにかく賞を得るためにそうしました。パウロが言わんとしていたのは,命を目指す競走においても,賞を得るには邪魔な物をすべて取り去る必要がある,ということでした。これは,1世紀のクリスチャンだけでなく,わたしたちにとっても大切な助言です。では,賞を獲得するのに妨げとなるどんな重荷があるでしょうか。

      『あらゆる重荷を捨てる』

      4. ノアの時代の人々は,どんなことにかまけていましたか。

      4 『あらゆる重荷を捨てなさい』とパウロは助言しました。重荷には,わたしたちが競走に注意を集中して最善を尽くすのを阻みかねないものがすべて含まれます。どんなものがあるでしょうか。パウロが挙げていたノアについて考えると,イエスの言葉が思い浮かびます。「ノアの日に起きたとおり,人の子の日にもまたそうなるでしょう」という言葉です。(ルカ 17:26)イエスは,前例のない滅びが来ることを主に言っていたのではありません。むしろ,人々の生活の仕方に言及していました。(マタイ 24:37-39を読む。)ノアの時代,ほとんどの人は神を喜ばせようとすることはおろか,神に関心を払うことすらありませんでした。何によって気が散らされていたのでしょうか。特別なことではありません。食べ,飲み,結婚するといった普通の事柄です。問題は,イエスが述べたように,『注意しなかった』ことでした。

      5. 競走を完走するのに何が助けになりますか。

      5 ノアとその家族と同じく,わたしたちも日々行なうべきことがたくさんあります。生計を立て,家族を養わなければなりません。そのために多大の時間や体力が奪われることもあります。とりわけ不況の時には,生活してゆけるかどうか不安になりやすいものです。さらに,献身したクリスチャンとして,大切な神権的責任もあります。宣教に参加し,準備して集会に出席し,個人研究や家族の崇拝によって霊的な強さを保ちます。ノアは,神への奉仕においてなすべきことが多くあっても『まさにそのとおりに行ないました』。(創 6:22)負わなければならない荷を最小限にし,不必要な荷を抱えないことは,クリスチャンの競走を完走するために不可欠です。

      6,7. イエスのどんな助言を心に留めるべきですか。

      6 パウロはどういう意味で,「あらゆる重荷」を捨てるようにと助言したのでしょうか。もちろん,わたしたちはすべての責任から自由になることはできません。とはいえ,イエスの次の言葉を心に留めてください。「思い煩って,『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません。これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです」。(マタ 6:31,32)食べるものや着るものといった普通の事柄も,あるべき位置にとどめないなら,重荷やつまずきのもとになりかねません。

      7 「あなた方の天の父は,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられる」と,イエスが述べたことに注目してください。天の父エホバはご自分の分を果たし,わたしたちの必要を顧みてくださるということです。もっとも,『これらのものすべて』は,好きなものや欲しいものとは違うかもしれません。そうだとしても,「諸国民がしきりに追い求めているもの」について思い煩わないように,と告げられています。なぜでしょうか。イエスは後にこう言いました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい」。―ルカ 21:34。

      8. 今はまさに『あらゆる重荷を捨てる』べき時なのはなぜですか。

      8 競走のゴールはすぐそこです。それなのに,不必要な重荷によって押しひしがれてしまうとしたら,非常に残念なことです。ですから,使徒パウロの次の助言に従うのは賢明です。「自ら足りて敬虔な専心を守ること,これは大きな利得の手段です」。(テモ一 6:6)この言葉を心に留めるなら,賞は大いに獲得しやすくなるでしょう。

      「容易に絡みつく罪」

      9,10. (イ)「容易に絡みつく罪」とは何のことですか。(ロ)そのために,信仰はどのように弱まることがありますか。

      9 パウロは,「あらゆる重荷」だけでなく「容易に絡みつく罪」も捨てるようにと書きました。これは何のことでしょうか。「容易に絡みつく」と訳されているギリシャ語は,聖書の中でこの聖句にしか出てきません。学者のアルバート・バーンズはこう述べています。「走者は,脚に巻きついて邪魔になる服のせいで動きにくくなることのないよう注意を払った。同じように,特にクリスチャンは,これと似た状況を生じさせかねないものをみな捨て去るべきである」。絡みつくもののために,信仰はどのように弱まることがあるでしょうか。

      10 クリスチャンが一夜にして信仰を失うことはありません。徐々に,ある場合は気づかないうちに,そうなるものです。パウロは手紙の前のほうで,「流され」たり「信仰の欠けた邪悪な心を育て」たりする危険について警告していました。(ヘブ 2:1; 3:12)走者は脚に服が絡みつくと,たいてい倒れます。競走に不向きな服を着ることの危険を無視するなら,倒れるリスクは高くなります。なぜ危険を無視してしまうのでしょうか。不注意,自信過剰,あるいは気が散っているためでしょう。パウロの助言からどんな教訓を得られますか。

      11. どんなものによって信仰を失うことがありますか。

      11 信仰を失うのは,ある程度の期間行なった事柄の結果である,ということを覚えておくべきです。「容易に絡みつく罪」について別の学者は,「自分の状況や性向や交友ゆえに最大の誘引力を持つ罪」であると述べています。つまり,置かれている環境や自分の弱さや交友は,どれもわたしたちに大きな影響を及ぼすということです。そうしたものにより,信仰は弱まったり失われたりしかねません。―マタ 13:3-9。

      12. 信仰を失わないために,どんな助言を真剣に受け止めるべきですか。

      12 忠実で思慮深い奴隷級は長年にわたり,見るものや聞くもの,つまり心や思いを向けるものに注意するよう促してきました。お金や物を追い求めることの危険についても警告してきました。きらびやかで目を奪うエンターテインメントや,次々に発売される電子機器によって,横道にそらされてしまう危険があります。もし,こうした助言は厳しすぎるとか,他の人には当てはまるが自分は大丈夫だ,などと感じるとしたら,大きな間違いです。サタンの世が提供するものは巧妙で,気づかないうちに絡みつきます。不注意や自信過剰,気が散っていたことが原因で倒れた人もいます。そうしたことのために命という賞を獲得できなくなる場合があるのです。―ヨハ一 2:15-17。

      13. 有害な影響力から,どのように身を守ることができますか。

      13 わたしたちは日々,世の目標や価値観や考え方にさらされています。(エフェソス 2:1,2を読む。)それでも,どれほど影響を受けるかは主に,わたしたちがどう対応するかにかかっています。パウロが述べている「空中[空気]」は死をもたらします。窒息しないよう常に警戒していないなら,競走を走り抜くことができなくなります。走りつづけるためのどんな手本があるでしょうか。イエスは,いわば先頭を走る最高の走者です。(ヘブ 12:2)パウロも良い手本です。クリスチャンの競走を自分も走っていると述べて,自分に倣うよう仲間に勧めています。―コリ一 11:1。フィリ 3:14。

      どのようにして「それを獲得する」か

      14. パウロはどんな心構えで競走を走っていましたか。

      14 パウロはどんな心構えで競走を走っていたのでしょうか。エフェソスの長老たちと最後に話した際,こう言いました。「自分の行程と,主イエスから受けた奉仕の務め……を全うできさえすれば,わたしは自分の魂を少しも惜しいとは思いません」。(使徒 20:24)競走を走り抜くために,パウロはすべてを,命さえも犠牲にすることをいとわなかったのです。行程を全うできなければ,良いたよりのために払った努力はみな無駄になると考えていました。とはいえ,絶対に完走できると思い上がったりはしませんでした。(フィリピ 3:12,13を読む。)晩年になって初めて,幾らか自信をもって,「わたしは戦いをりっぱに戦い,走路を最後まで走り,信仰を守り通しました」と言いました。―テモ二 4:7。

      15. パウロは仲間の走者にどんな励ましを与えましたか。

      15 パウロはさらに,仲間のクリスチャンが脱落せずに走り通すのを見たい,と強く願っていました。例えば,フィリピのクリスチャンに,自分の救いのために懸命に努力するよう勧めました。『命の言葉をしっかりつかんでいる』べきことを思い起こさせ,こう言っています。「こうしてわたしはキリストの日に,自分が無駄に走ったり無駄に骨折ったりはしなかったという,歓喜の理由を持てるのです」。(フィリ 2:16)コリントのクリスチャンにもこう勧めています。「あなた方も,[賞]を獲得するような仕方で走りなさい」。―コリ一 9:24。

      16. ゴールして賞を受けることをしっかり思い描くべきなのはなぜですか。

      16 マラソンのような長距離走では,最初のうちゴールは見えません。それでもランナーは,走っている間ずっとゴールを意識します。そしてゴールが近づくと,その意識はいっそう高まります。わたしたちの競走もそうあるべきです。ゴールして賞を受けることを,はっきりイメージしていなければなりません。そうすれば賞を獲得しやすくなります。

      17. 賞を意識しつづけることに,信仰はどう関係していますか。

      17 「信仰とは,望んでいる事柄に対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」と,パウロは書いています。(ヘブ 11:1)アブラハムとサラは快適な暮らしを進んで後にし,「よそからの者,また一時的居留者」として生活しました。なぜそうできたのでしょうか。神の約束の成就を『はるかに見た』からです。モーセは「罪の一時的な楽しみ」や「エジプトの宝」を退けました。どうしてそれほどの信仰と強さを示せたのでしょうか。「報いを一心に見つめた」からです。(ヘブ 11:8-13,24-26)パウロがこれらの人の記述を「信仰によって」という言葉で始めているのは,もっともなことです。彼らは信仰により,当座の試練や苦難ではなく,自分たちのために神がしておられた事柄と将来行なわれる事柄に目を向けることができたのです。

      18. 「容易に絡みつく罪」を捨てるために何ができますか。

      18 ヘブライ 11章に出てくる信仰の男女について黙想し,その手本に倣うなら,信仰を培い,「容易に絡みつく罪」を捨てることができます。(ヘブ 12:1)また,同じ信仰を育んでいる人たちと集まり合うことにより,『互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合う』こともできます。―ヘブ 10:24。

      19. なぜ賞を意識しつづけるべきですか。

      19 わたしたちは競走の最終部分にいます。ゴールは目前です。信仰とエホバの助けがあれば,『あらゆる重荷と容易に絡みつく罪とを捨てる』ことができます。父エホバの約束なさった祝福という賞を獲得するような仕方で走ることができるのです。

      [脚注]

      a これは古代ユダヤ人の反感を買いました。外典のマカベア第二書によれば,背教した大祭司ヤソンが,ギリシャ化の一環としてエルサレムに体育場を建てることを提案した時,かなりの争論が起きました。―マカベア第二4:7-17。

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