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「わたしはあなた方のために模範を示しました」ものみの塔 2002 | 8月15日
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「わたしはあなた方のために模範を示しました」
「あなた方は,時間の点から見れば教える者となっているべき(です)」。―ヘブライ 5:12。
1 クリスチャンがヘブライ 5章12節の言葉から多少とも不安を感じるとしても無理はないのはなぜですか。
霊感による,この主題聖句の言葉を読むと,ご自分について多少とも不安を感じるでしょうか。そうだとしても,あなただけではありません。キリストの追随者であるわたしたちは,自分が教える者でなければならないことを知っています。(マタイ 28:19,20)今がどんな時代かを考えても,できるだけ上手に教えるのが急務であることを知っています。しかも,その教えが,教えを受ける人の生死を左右し得ることも知っています。(テモテ第一 4:16)ですから,こう自問するのは当を得たことでしょう。『わたしは,期待されているとおり,本当に教える者となっているか。どうすれば向上できるか』。
2,3 (イ)ある教師は,上手な教え方の土台について何と述べましたか。(ロ)教える点で,イエスはどんな模範を示しましたか。
2 そのような不安があるとしても気落ちする必要はありません。教えることを,単に習得した何かの技術<テクニック>としてとらえると,向上させることの難しさに圧倒されるかもしれません。しかし,上手な教え方の土台は,技術よりはるかに重要なものです。その点について,経験ある教師が,ある本の中で書いている点に注目してください。「上手に教えることは,特定の技術や形式,企画や活動の問題ではない。……教えることは,おもに愛の問題である」。もちろんこの人は,一般の教師の視点で論じていました。とはいえ,この論点は,クリスチャンとしての教える業に一層当てはまると思われます。どのようにですか。
3 わたしたちが教え手の模範者と仰ぐのは,ほかならぬイエス・キリストです。その方は追随者に,「わたしはあなた方のために模範を示しました」と語りました。(ヨハネ 13:15)イエスは,謙遜さを示す面での手本について述べていました。とはいえ,わたしたちのために示された模範には,地上の人間としてのイエスの主要な業,すなわち人々に神の王国の良いたよりを教える業における模範も確かに含まれます。(ルカ 4:43)あなたは,イエスの宣教を特色づける言葉を一つ選ぶとしたら,「愛」という言葉を選ぶのではないでしょうか。(コロサイ 1:15。ヨハネ第一 4:8)天の父エホバに対するイエスの愛は,すべてに優先するものでした。(ヨハネ 14:31)とはいえ,イエスは教え手として,ほかにも二つの面で愛をはっきり示しました。イエスは,自分が教えた真理を愛し,教えた人々をも愛されました。イエスが示した模範のこの二つの面に,さらに焦点を当てましょう。
神の真理に対する長年の愛
4 イエスは,エホバの教えに対する愛をどのように身に着けましたか。
4 取り上げている論題に対する教え手の態度は,教え方の質にかなりの影響を及ぼします。少しでも無関心な態度があると,それは表われて生徒に移ります。イエスは,ご自分が教えた,エホバとその王国に関する貴重な真理に無関心ではありませんでした。この論題に対するイエスの愛は,非常に深いものでした。自らも生徒として,その愛を身に着けたのです。人間になる前の長大な期間,その独り子は意欲的に学ぶ者でした。イザヤ 50章4,5節には,ぴったりとしたこの言葉が記されています。「主権者なる主エホバご自身が教えられた者たちの舌をわたしに与えてくださった。疲れた者にどのように言葉を用いて答えるかをわたしが知るためである。神は朝ごとに目覚めさせてくださる。教えられた者たちのように聞くためにわたしの耳を目覚めさせてくださる。主権者なる主エホバがわたしの耳を開いてくださった。そして,わたしは反抗的ではなかった。わたしは反対の方に向かなかった」。
5,6 (イ)イエスはバプテスマの時,どんな経験をしたと思われますか。それはイエスにどんな影響を与えましたか。(ロ)神の言葉を用いる点で,イエスとサタンはどのように対照的でしたか。
5 イエスは,地上で人間として成長期にあったころも,引き続き神の知恵を愛しました。(ルカ 2:52)そして,バプテスマの時に特異な経験をされました。ルカ 3章21節には「天が開け(た)」とあります。人間になる以前のことを,その時に思い起こすことができたようです。その後,荒野で40日間,断食して過ごされました。天でエホバから教えを受けたいろいろな機会について思い巡らし,大きな喜びを抱いたに違いありません。とはいえ,神の真理に対するイエスの愛は,程なくして試みられました。
6 イエスが疲労し,空腹を覚えていた時,サタンはイエスを誘惑しようとしました。これらふたりの神の子は,何と対照的なのでしょう。いずれもヘブライ語聖書から引用しましたが,その精神は全く異なっていました。サタンは神の言葉を曲解し,不敬にも自分の利己的な目的のためにそれを用いました。実のところ,この反逆者が神の真理に対して抱いていたのは,侮蔑の念にほかなりません。一方イエスは,紛れもない愛をもって聖書を引用し,返答のたびに神の言葉を注意深く用いました。イエスは,霊感によるそれらの言葉が最初に書かれた時よりはるか以前から存在していましたが,それを尊んでいました。それは天の父からの貴重な真理だったのです。イエスはサタンに,エホバからのそうした言葉は食物よりも重要であると語りました。(マタイ 4:1-11)そうです,イエスはエホバから教えられた真理すべてを愛しておられました。ところでイエスは,教え手として,その愛をどのように表わしたでしょうか。
ご自分が教えた真理に対する愛
7 イエスが自分で教えを編み出そうとしなかったのはなぜですか。
7 自分が教えた真理に対してイエスが抱いた愛は,いつでも明らかに表われていました。結局のところ,イエスは難なく独自の見解を作り上げることもできたでしょう。イエスには膨大な知識と知恵の蓄えがありました。(コロサイ 2:3)それでも,自分が教えた事柄すべては,自分自身ではなく,天の父から出ていることを,話を聴く人たちに繰り返し思い起こさせました。(ヨハネ 7:16; 8:28; 12:49; 14:10)イエスは神の真理を深く愛しており,それに代えて自分自身の考えを提示しようなどとは夢にも思わなかったのです。
8 イエスは宣教を開始した時,神の言葉に頼る点でどのように模範を示しましたか。
8 イエスは公の宣教を開始してすぐに,模範を示しました。ご自分が約束のメシアであることを神の民に初めて明らかにした時の方法について考えてください。イエスはただ群衆の前に出て,自分はキリストであると名乗り,その証明として華々しい奇跡を行なってみせたのでしょうか。そうではありません。イエスは会堂に行きました。神の民が常々聖書の朗読をしていた場所です。会堂でイエスはイザヤ 61章1,2節の預言を朗読し,その預言的な真理が自分に当てはまることを説明しました。(ルカ 4:16-22)数々の奇跡も,イエスにエホバの後ろ盾があることの証明となりました。それでもイエスは,教える際,常に神の言葉に頼りました。
9 イエスは,パリサイ人とのやり取りにおいて,神の言葉に対する忠節な愛をどのように示しましたか。
9 イエスは,宗教上の反対者たちから異議を申し立てられた時,知恵を競い合ったなら相手を容易にやりこめることもできたはずですが,そのような方法は採りませんでした。むしろ,神の言葉によって相手の誤りが証明されるようにしました。例えば,パリサイ人がイエスの追随者たちを非難した時のことを思い起こしてください。それら追随者が畑の中を通った際に,穀物の穂を幾つかむしって食べ,安息日の律法を破ったというのです。イエスはこう返答されました。「あなた方は,ダビデおよび共にいた人たちが飢えた時にダビデが何をしたかを読まなかったのですか」。(マタイ 12:1-5)もとより,それら独善的なパリサイ人も,霊感によるサムエル第一 21章1-6節の記録を読んでいたに違いありません。それでも,そこに織り込まれていた重要な教訓を識別してはいませんでした。イエスは,その記述をただ読む以上のことをしていました。それについて考え,その主旨を心に留めていました。その聖句によってエホバが教えられた原則を愛したのです。ですから,その記述と,モーセの律法からの例を挙げて,律法の精神が平衡の取れたものであることを明らかにしました。同じように,イエスは忠節な愛に促されていたので,宗教指導者たちが神の言葉を都合よく曲解したり人間の伝統の泥沼に埋もれさせたりしようとした時にも,み言葉を擁護しました。
10 イエスは,自分の教え方の質について述べる幾つかの預言をどのように成就しましたか。
10 イエスは,取り上げる論題に愛を抱いていたので,ただ型にはまった,無気力で機械的な教え方をしたりはされませんでした。霊感による預言は,メシアが『唇の麗しさ』をもって語り,「優美な言葉」を用いることを示していました。(詩編 45:2。創世記 49:21)イエスは,いつも新鮮で生き生きと音信を伝え,深く愛していた真理を教える際に「人を引きつける言葉」を用いて,それらの預言を成就しました。(ルカ 4:22)イエスのそうした熱意は生き生きとした表情に現われ,イエスの目は論題に対する鋭い関心で輝いていたことでしょう。イエスの話を聴くのは,大きな喜びであったに違いありません。これはまた,学んだ事柄について他の人に語る際に倣うことのできる,何と優れた模範でしょう。
11 イエスは,教え手として能力があっても,誇りのために思い上がることがなかったのはなぜでしたか。
11 イエスは,神の真理に対する抜群の把握力や人を引きつける話し方がもとで,誇りのために思い上がったでしょうか。人間の教師の場合,そうなることもあります。しかし,イエスの知恵は敬虔さを伴うものであったという点に留意できます。そうした知恵に,ごう慢さの入り込む余地はありません。「知恵は,慎みある者たちと共にある」からです。(箴言 11:2)誇りや,ごう慢さを持たないようイエスを守ったものがほかにもあります。
イエスは自分が教えた人々を愛した
12 イエスは,追随者たちが自分の前で畏縮するのを望まないということをどのように示しましたか。
12 イエスが人々に深い愛を抱いていたことは,常にその教え方ににじみ出ていました。イエスの教え方は,誇り高い人々とは異なり,人を畏縮させるようなことはありませんでした。(伝道の書 8:9)ペテロは,イエスのある奇跡を目撃した後,いたく驚いてイエスのひざもとにひれ伏しました。しかしイエスは,追随者たちが自分に対して病的な恐れを持つことを望みませんでした。それで,「恐れなくてもよい」と親切に言い,ペテロもやがて携わることになる,人々を弟子とするという胸の躍るような業について語りました。(ルカ 5:8-10)イエスは,弟子たちが教師に対する怖れにではなく,神についての貴重な真理に対する自分たち自身の愛に動かされることを望んでいました。
13,14 イエスはどのように人々に対して感情移入をしましたか。
13 自分が教えた人々に対するイエスの愛は,その人たちへの感情移入にも表われていました。「群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである」とあります。(マタイ 9:36)イエスは,人々の惨めな状態を思いやり,助けになりたいと思われました。
14 イエスが別の機会に行なわれた感情移入にも注目してください。血の流出を患っていた女性が群衆の中でイエスに近づき,その衣の房べりに触れた時,女性は奇跡的にいやされました。イエスは,力が自分から出て行くのを感じましたが,だれが治されたのかは分かりませんでした。イエスは,その人をどうしても見つけようとされました。なぜでしょうか。その女性が恐れていたかもしれないことですが,律法,あるいは書士やパリサイ人の規則に違反したとして叱りつけるためではありませんでした。かえってイエスはこう言われました。「娘よ,あなたの信仰があなたをよくならせました。平安のうちに行きなさい。そして,あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」。(マルコ 5:25-34)この言葉に表われている感情移入に注目してください。イエスは,ただ「いやされなさい」と言われたのではありません。むしろ,「あなたの悲痛な病気から解かれて健やかに過ごしなさい」と言われました。マルコはここで,字義どおりには『むち打ち』を意味する語を用いており,それはしばしば拷問として行なわれるむち打ちを指していました。ですからイエスは,その女性が病のために苦しんでいたこと,それもおそらく身体面でも感情面でもひどい痛みを経験していたであろうということを認めました。イエスはこの女性を思いやりました。
15,16 イエスの宣教におけるどんな出来事は,イエスが人々の良い面を探したことを示していますか。
15 イエスは,人の良い面を探すことによっても人々に愛を示しました。後に使徒の一人となったナタナエルに会った時のことを考えましょう。「イエスは,ナタナエルが自分のほうへ来るのをご覧になり,彼についてこう言われた。『見なさい,確かにイスラエル人,その内に欺まんのない人です』」。イエスは奇跡的な方法でナタナエルの心のうちを見ておられ,その人について多くのことを知りました。もちろん,ナタナエルは決して完全ではありませんでした。わたしたちすべてと同じように欠点がありました。事実,イエスについて聞いた時,ぶっきらぼうとも言える仕方で,「何か良いものがナザレから出ることがあるだろうか」と述べました。(ヨハネ 1:45-51)それでもイエスは,ナタナエルに関して言えるすべての事柄のうち,積極的な面である正直さに注目しました。
16 同様にイエスは,一人の士官 ― おそらくは異邦人であったローマ人 ― が近づいて来て,病気の奴隷を治してくださるように願い求めた時,その軍人に欠点のあることを知っていました。当時の軍隊の士官は,数々の暴力や流血や偽りの崇拝の行為にかかわるといった過去を持っていたことでしょう。それでもイエスは良い事柄に,すなわちその際立った信仰に注目しました。(マタイ 8:5-13)後に,ご自分のかたわらで苦しみの杭に掛けられた悪行者と話した時にも,イエスはその人の過去の悪事について叱責したりはせず,将来の希望によってその人を励ましました。(ルカ 23:43)イエスは,消極的で批判的な見方は人を気落ちさせるだけであることをよく知っていました。人々の良い点を見いだそうとイエスが努めたことによって,いっそう改善を図るための励みを得た人が多くいたに違いありません。
人々に進んで仕えようとする態度
17,18 イエスは,地に来る割り当てを受け入れることで,他の人に進んで仕えようとする態度をどのように示しましたか。
17 自分が教えた人々に対するイエスの愛の別の強力な証拠は,その人たちに進んで仕えようとする態度です。神の子は,人間になる前から,人類に対して常に親愛の情を抱いていました。(箴言 8:30,31)エホバの「言葉」つまり代弁者として,いろいろな折に人間と接してきたものと思われます。(ヨハネ 1:1)しかし,より直接的に人々を教えるという目的もあって,天での非常に高い地位をあとにし,「自分を無にして奴隷の形を取(られ)」ました。(フィリピ 2:7。コリント第二 8:9)イエスは地上にいた時,他の人からの手厚い世話やもてなしを期待したりはされませんでした。それどころか,こう言われました。「人の子(は),仕えてもらうためではなく,むしろ仕え,自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たの……です」。(マタイ 20:28)イエスは,全くその言葉のとおりに行動しました。
18 イエスは,自分が教えた人々の必要を満たすため謙遜に仕え,その人々のために快く自分を費やしました。約束の地を徒歩で縦横に行き巡り,できるだけ多くの人に会おうと,伝道旅行で幾百キロも歩きました。誇り高いパリサイ人や書士たちとは異なり,いつも謙遜で,近づきやすい人でした。あらゆる人 ― 高位の人,軍人,法律家,女性,子ども,貧しい人,病気の人,また社会からのけ者のようにされていた人たちさえ,怖がらずにいそいそとイエスに近づきました。イエスは完全な方でしたが,人間であり,疲労も空腹も覚えました。しかしイエスは,疲れていた時も,休息や,祈るための静かな時間を必要とした時にも,他の人の必要を自分のことより優先させました。―マルコ 1:35-39。
19 イエスは,謙遜な態度で,辛抱強く,親切に弟子たちと接する点で,どのように模範を示しましたか。
19 イエスは,自分の弟子たちにも同じように進んで仕えようとされました。弟子たちを親切に,辛抱強く教えて,そのことを行ないました。弟子たちが肝要な教訓をなかなか把握しなかった時,イエスは見放すことも,腹を立てることも,叱りつけることもしませんでした。要点が伝わるよう,絶えず新たな方法を探しました。例えば,弟子たちが自分たちの間でだれが一番偉いかと何度も言い争ったことを考えてください。イエスは何度も何度も,ご自分が処刑される前の晩にも,新たな方法を探して,互いに謙遜に接するべきことを教えました。この謙遜さの点でも,他のすべての点におけるのと同様,「わたしはあなた方のために模範を示しました」というイエスの言葉に偽りはありませんでした。―ヨハネ 13:5-15。マタイ 20:25。マルコ 9:34-37。
20 イエスは,どんな教え方により,パリサイ人と異なっていることを示しましたか。その方法が効果的だったのはなぜでしたか。
20 イエスは弟子たちに,何が模範かをただ告げただけではなかったことに注目してください。「模範を示し」,手本によって教えたのです。行なうよう告げた事柄を自分は実行するまでもないと言わんばかりの,人を見下すような高飛車な話し方はしませんでした。パリサイ人はそのような方法を採りました。その人々についてイエスは,「彼らは言いはしますが,実行しない」と述べました。(マタイ 23:3)イエスは謙遜にも,自分の教えのとおりに生き,それを実践することにより,その意味するところを生徒に正確に示しました。ですから,物質主義に妨げられない,簡素な生活を送るようにと促した時,追随者たちはそれがどういうことかと想像する必要はありませんでした。イエスの次の言葉が真実であるのを見ることができたのです。「きつねには穴があり,天の鳥にはねぐらがあります。しかし人の子には頭を横たえる所がありません」。(マタイ 8:20)イエスは謙遜に模範を示すことにより,弟子たちに仕えました。
21 次の記事ではどんな点を扱いますか。
21 イエスが,かつて地上に存在した最も偉大な教え手であることに疑問の余地はありません。ご自分が教えた事柄を愛し,教えた人々を愛していたことは,イエスを見,その話を聞いた,心の正直な人すべてにとって明らかでした。そのことは,イエスの示した模範を研究する,今日のわたしたちにも同じく明らかです。とはいえ,わたしたちはどうすればキリストの完全な手本に倣えるでしょうか。次の記事では,その問いを取り上げます。
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「絶えずわたしのあとに従いなさい」ものみの塔 2002 | 8月15日
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「絶えずわたしのあとに従いなさい」
「あなた方はこうした道に召されたのです。キリストでさえあなた方のために苦しみを受け,あなた方がその歩みにしっかり付いて来るよう手本を残されたからです」。―ペテロ第一 2:21。
1,2 教え手としてのイエスの完全な模範があまりに高潔で,わたしたちには倣えないわけではないのはなぜですか。
イエス・キリストは,かつて地上に存在した教え手の中でも,ひときわ偉大な教え手です。加えて,イエスは完全な人で,人間としての全生涯を通じて罪をおかしたことがありませんでした。(ペテロ第一 2:22)しかしこれは,教え手としてのイエスの模範があまりに高潔で,不完全な人間にはとても倣えないということでしょうか。決してそうではありません。
2 前の記事で見たとおり,イエスの教えの土台は愛でした。愛は,だれもが培えるものです。神の言葉は,他の人々への愛の面で成長し,向上するようにと,しばしば促しています。(フィリピ 1:9。コロサイ 3:14)エホバはご自分の被造物に対し,能力の及ばないことを求めたりはされません。実際,「神は愛」であり,ご自身の像に人を造られたので,愛を示せるものとしてわたしたちを設計された,と言えます。(ヨハネ第一 4:8。創世記 1:27)ですから,主題聖句の使徒ペテロの言葉を読む時にも,確信をもってそれにこたえ応じることができます。キリストの足跡にしっかり付いてゆくことは可能です。実際,「絶えずわたしのあとに従いなさい」というイエスご自身の命令にも従えるのです。(ルカ 9:23)ここで,キリストが示した愛にどのように倣えるかを考えましょう。まず,ご自分が教えた真理に対する愛,次に,ご自分が教えた人々に対する愛についてです。
学ぶ真理に対する愛を強化する
3 勉強することが苦手な人もいるのはなぜですか。それでも,箴言 2章1-5節にはどんな訓戒がありますか。
3 他の人に教える真理を愛するには,そのような真理を学ぶことに自ら愛を持たなければなりません。今日の世界で,その種の愛はたやすく身に着くわけではありません。学校教育の不備や,年少のころについた良くない癖などのため,勉強することがなかなか好きになれない人は少なくありません。それでも,エホバから学ぼうとすることは肝要です。箴言 2章1-5節にはこうあります。「我が子よ,あなたがわたしのことばを受け入れ,わたしのおきてを自分に蓄え,そして,耳を向けて知恵に注意を払い,心を識別力に傾けるなら,さらに,理解を求めて呼ばわり,識別力を求めて声を上げるなら,銀を求めるようにそれを求めつづけ,隠された宝を求めるようにそれを尋ね求めつづけるなら,そのとき,あなたはエホバへの恐れを理解し,まさに神についての知識をも見いだすことであろう」。
4 心を「傾ける」とはどういうことですか。そうするのに,どんな見方が助けになりますか。
4 1-4節で,「受け入れ」,「蓄え(る)」だけでなく,「求めつづけ」,「尋ね求めつづける」努力が相次いで促されている,という点に注目してください。とはいえ,このすべてを行なうように動かすものは何でしょうか。「心を識別力に傾ける」という言い回しに注目してください。ある参考文献によれば,この訓戒は,「単に注意を払うようにという訴えではなく,ある姿勢を,すなわち教えを意欲的に受け入れようとする姿勢をとるようにという要求」です。では,エホバが教えてくださる事柄を受け入れさせ,学ぼうとする意欲を抱かせるものは何でしょうか。物事に対するわたしたちの見方です。「まさに神についての知識」を「銀」のように,「隠された宝」のように見る必要があるのです。
5,6 (イ)時が過ぎると,どんなことが起きる場合もありますか。どうすればそれを防げますか。(ロ)聖書の中で見つけた宝のような知識を絶えず増し加えるべきなのはなぜですか。
5 そうした見方を身に着けるのは難しいことではありません。例えば,あなたが取り入れた「神についての知識」には,エホバが意図しておられること,つまり忠実な人々が地上の楽園でいつまでも生きるという真理も含まれているでしょう。(詩編 37:28,29)その真理を初めて学んだ時,あなたはそれを本当の宝,思いと心を希望と喜びで満たしてくれる知識とみなしたのではないでしょうか。では,今はいかがですか。時の経過と共に,その宝に対する認識が薄れ,あるいは色あせてきたでしょうか。そうであれば,二つの面で努力してください。第一に,認識を呼び覚ます,つまり,エホバが教えてくださった一つ一つの真理を大切に見る理由について,折にふれて自分の思いを新たにしてください。何年も前に学んだものについても,そうしてください。
6 第二に,宝を絶えず増し加えてください。結局のところ,高価な宝石一つをたまたま掘り当てたとしたら,それをただポケットに入れて,満足げに立ち去るでしょうか。それとも,さらに掘り進めて,ほかにもないかどうかと確かめるでしょうか。神の言葉には,宝石や貴金属の塊にも似た真理がぎっしり詰まっています。これまでにどれほど見つけたにしても,さらに多くを見つけることができます。(ローマ 11:33)ひと塊の真理を掘り起こしたなら,こう自問してください。『これはなぜ宝と言えるだろうか。これによって,エホバのご性格や目的をいっそう深く洞察できるだろうか。イエスの足跡に従う点で助けになる何らかの実際的な導きを与えているだろうか』。こうした点を思い巡らすなら,エホバが教えてくださった真理に対する愛を強化できるでしょう。
教える真理に対する愛を示す
7,8 聖書から学んだ真理を愛していることを人に示すどんな方法がありますか。例を挙げてください。
7 他の人々を教える際,神の言葉から学んだ真理を愛していることをどのように示せるでしょうか。宣べ伝えて教える業において,イエスの模範に倣って聖書に大いに頼ることです。近年,世界じゅうの神の民に対し,公の宣教で聖書をなおいっそう用いるようにとの励ましが与えられてきました。その提案を当てはめる際,聖書から伝えている事柄をあなた自身が大切に見ているということをどうしたら家の人に伝えられるかを探ってください。―マタイ 13:52。
8 例えば,昨年ニューヨーク市で起きたテロ攻撃の後,クリスチャンの一姉妹は,宣教で会った人々に,詩編 46編1,11節を紹介していました。姉妹はまず人々に,その惨事の余波にどのように対処しておられるでしょうか,と尋ねました。そして,反応に注意深く耳を傾け,それに感謝してから,「こうした難しい時期に私にとって真に慰めとなった聖句をお読みしてもよいでしょうか」と述べました。断わった人はほとんどおらず,良い話し合いがたくさんできました。同じ姉妹は,若い人と話す時にはよくこう言います。「私は聖書教育の活動を50年ほどしていますが,これまで一つとして,この本で解決できなかった問題はなかったのですよ」。誠実で熱意のある近づき方をすることにより,神の言葉から学んだ事柄を大切に見,愛していることを人々に示せます。―詩編 119:97,105。
9,10 信じる事柄に関する質問に答える際,聖書を用いることが重要なのはなぜですか。
9 わたしたちの信じる事柄について人々から尋ねられるなら,それは自分が神の言葉を愛していることを示すための優れた機会となります。わたしたちはイエスの模範に倣い,ただ自分自身の考えで答えを述べたりはしません。(箴言 3:5,6)むしろ,返事を述べる際に聖書を用います。自分が答えられない質問をされるのではないかと不安を感じることがあるでしょうか。二つの積極的な手段について考えてみましょう。
10 できる備えをしておく。使徒ペテロはこう書きました。「あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」。(ペテロ第一 3:15)自分の信じる事柄について弁明する備えができていますか。例えば,聖書に添わない何らかの習慣やしきたりに加わらない理由を知りたいと思う人に,「それは私の宗教に反しています」と述べるだけで十分だとは考えないでください。そのように答えるなら,自分にかかわる決定を他の人に任せているかのような印象を与え,カルトの信者と誤解されてしまうでしょう。むしろ,「神の言葉 聖書がそれを禁じています」,あるいは「神はそれを喜ばれません」と述べるほうがよいでしょう。そのうえで,理由について筋の通った説明をしてください。―ローマ 12:1。
11 神の言葉の真理に関する質問に答える備えをするために,調査用のどんな道具が助けになるでしょうか。
11 備えができていないと感じるなら,「聖書から論じる」の本が自国語で出ている場合,幾らか時間を取ってそれを研究するのはいかがでしょうか。a 持ち上がりそうな論題を幾つか選んで,聖書的な論点を幾らか覚えるのです。「論じる」の本と聖書をいつでも参照できるようにしておきましょう。どちらも,ためらわずに用いてください。調査の道具がありますので,それを使って質問に対する聖書からの答えを探したい,と述べるのです。
12 聖書の質問の答えが分からない場合,どのように対応できるかもしれませんか。
12 むやみに心配しない。不完全な人間で,すべての答えを知っている人はいません。ですから,聖書の質問に答えられない時には,いつでも次のような返事を述べるとよいでしょう。「興味深い質問をしてくださってありがとうございます。正直なところ,私も答えが分からないのですが,聖書はその点も扱っているはずです。聖書を調べるのは好きですので,ご質問について調べてから,改めてお訪ねしたいと思います」。こうした率直で慎みある答え方は,後で話を続ける足がかりとなるに違いありません。―箴言 11:2。
教える人々に対する愛
13 宣べ伝える相手の人々に対して積極的な見方を保つべきなのはなぜですか。
13 イエスは,自分が教えた人々に愛を示しました。この点でどのようにイエスに倣えるでしょうか。周囲にいる人々に対して無神経な態度を取ることのないようにしましょう。確かに,「全能者なる神の大いなる日の戦争」はいよいよ差し迫っており,幾十億もの人々のうち滅びを被る人は多いでしょう。(啓示 16:14。エレミヤ 25:33)とはいえ,わたしたちは,だれが生き続け,だれが死ぬかを知りません。その裁きは,これから将来になされ,エホバの任命した方であるイエス・キリストによって行なわれます。その裁きが下されるまで,わたしたちは一人一人を,エホバの僕になる見込みのある人とみなします。―マタイ 19:24-26; 25:31-33。使徒 17:31。
14 (イ)人々に感情移入をしているかどうか,どのように自己吟味できますか。(ロ)どんな実際的な面で感情移入をし,他の人々に個人的な関心を払えますか。
14 ですからわたしたちは,イエスのように,人々に対して感情移入をすることに努めます。こう自問できるでしょう。『この世の宗教的,政治的,また商業的な勢力の巧妙な偽りや欺きにだまされている人々のことを思いやっているだろうか。わたしたちの携える音信に無関心な様子なら,なぜそう感じるのかを理解するように努めているだろうか。自分も,現在エホバに忠実に仕えている他の人たちも,かつては同じように感じていたことを認めているだろうか。状況に合わせて自分の近づき方を変えているだろうか。それとも,望みがないとみなして,人々を見限ってしまっているだろうか』。(啓示 12:9)人々は,わたしたちの感情移入の純粋さに気づくなら,音信にこたえ応じる度合いが高くなるでしょう。(ペテロ第一 3:8)感情移入はまた,宣教で会う人々に一層の関心を払うように動かします。人々の質問や,人々が気に掛けている事柄に留意できるでしょう。再び訪ねる際には,前回の訪問の時に述べられたことについてずっと考えていたということを示せるでしょう。また,何か差し迫って必要な点があるなら,何らかの実際的な助けを差し伸べることができるかもしれません。
15 人々の良い面に目を留めるべきなのはなぜですか。どうすればそれができますか。
15 わたしたちは,イエスと同じように人々の良い面に目を留めます。ひとり親が子育てに懸命な努力を払っているかもしれません。家族を養うために奮闘している男性もいるでしょう。年配の方が霊的な事柄に関心を示すこともあります。会う人々のそうした面に気づき,それぞれに応じて褒めるでしょうか。そのようにすることで共通の立場を強調し,王国について証言する機会が開かれることにもなるでしょう。―使徒 26:2,3。
愛を示すには謙遜さが不可欠
16 宣べ伝える相手の人に,いつも温和に,敬意をこめて接することが重要なのはなぜですか。
16 自分が教える人々に対する愛があれば,聖書の次の賢明な警告に留意するように促されるでしょう。「知識は人を思い上がらせるのに対し,愛は人を築き上げます」。(コリント第一 8:1)イエスは豊富な知識を持っていましたが,高圧的になることはありませんでした。ですから,自分の信じる事柄を伝える時にも,論争的な口調や,自分のほうが優れているといったそぶりを避けてください。目標は,心を動かし,自分が大いに愛する真理に人々を引き寄せることです。(コロサイ 4:6)ペテロがクリスチャンに,弁明の備えをしているようにと助言した時,「温和な気持ちと深い敬意をもって」そうするようにとも諭したことを忘れないでください。(ペテロ第一 3:15)こちらが温和で敬意をこめて接すれば,人々はわたしたちの仕える神にいっそう引き寄せられることでしょう。
17,18 (イ)奉仕者としてのわたしたちの資格に批判的な態度を取る人に対してどのように対応できますか。(ロ)聖書を勉強する人にとって,古代の聖書言語に関する知識が不可欠なものでないのはなぜですか。
17 自分の知識や教育によって人々に感銘を与えようとする必要はありません。大学の何かの学位や称号を得ていない人の話を聴こうとしない人たちが区域内にいるとしても,そうした態度のゆえに気後れすることはありません。イエスも,当時名門とされたラビの学校を出ていないという反発を気に留めませんでした。一般の偏見に押されて,幅広い学識によって人々に感銘を与えようともしませんでした。―ヨハネ 7:15。
18 クリスチャンの奉仕者にとって,世俗の教育をどれほど受けていようと,それよりもはるかに重要なのは,謙遜さと愛です。偉大な教育者エホバは,わたしたちを宣教奉仕のために資格のある者にならせてくださいます。(コリント第二 3:5,6)また,キリスト教世界の一部の僧職者がどう言おうとも,神の言葉の教え手となるために,古代の聖書言語を学ぶ必要があるわけではありません。エホバは聖書に霊感を与えて,それが明快かつ具体的な語句で書かれるようにされたので,ほとんどだれもがその貴重な真理を把握できます。その真理は,幾百もの言語に翻訳されても,元の形を保っています。ですから,古代の言語についての知識は,ときに役立つ場合もありますが,不可欠なものではありません。さらに,言語面の能力についての誇りの気持ちが,真のクリスチャンに不可欠な特性である,教えやすさを失わせてしまうことがあります。―テモテ第一 6:4。
19 クリスチャン宣教はどんな意味で,一種の奉仕と言えますか。
19 クリスチャン宣教は謙遜な態度の必要な仕事である,ということに疑問はありません。わたしたちは常々,反対や無関心に,また迫害にも身をさらします。(ヨハネ 15:20)それでも宣教を忠実に果たすことによって,肝要な奉仕を行なうことになります。この業によって謙遜な態度で他の人々に仕え続けるなら,イエス・キリストが人々に示した愛に倣っていることになります。考えてください。羊のような人ひとりに会うために,関心のない,または反対する1,000人に伝道しなければならないとしても,それには努力するだけの価値があるのではないでしょうか。確かにそうです。ですから,あきらめることなくこの業をひたすら続けてゆくなら,まだ出会っていない,羊のような人々のために忠実に奉仕していることになります。エホバとイエスは,終わりが来る前に,そうした貴重な人々がさらに多く見いだされ,援助を受けられるように見届けられるに違いありません。―ハガイ 2:7。
20 模範によって教える方法として,どんなものがありますか。
20 模範によって教えることも,人々に進んで仕えようとする態度を示す方法です。例えばわたしたちは,「幸福な神」エホバに仕えるのが,考え得る最善の,最も充実した生き方であることを人々に教えたいと思っています。(テモテ第一 1:11)人々は,わたしたちの行動,また近所の人や仕事仲間や学校の友達との接し方を観察して,わたしたちが幸福で,満ち足りているのを見ることができるでしょうか。同様に,わたしたちは聖書研究生に対し,この冷酷かつ過酷な世界にあって,クリスチャン会衆が愛の宿る安らぎの場であることを教えます。研究生は,わたしたちが会衆内のすべての人を愛し,互いの平和を保つように努めていることにすぐ気づくでしょうか。―ペテロ第一 4:8。
21,22 (イ)自分の宣教について吟味するなら,どんな機会をとらえられるかもしれませんか。(ロ)次号の「ものみの塔」誌の記事では,どんな点を取り上げますか。
21 宣教に進んで取り組もうとするとき,自分を吟味し直さなければならないと思う場合もあるでしょう。正直にそれをして,自分は全時間宣教を始めることにより,あるいは必要の大きな所に移ることによって奉仕を拡大できる立場にある,と気づいた人は少なくありません。あるいは,外国語を学び,自国の区域内で増大する外国からの移住者のために奉仕しようと志した人々もいます。もしそうした選択の機会が開かれているなら,注意深く,祈りのうちに考慮してください。奉仕の生活は,大きな喜び,満ち足りた気持ち,思いの平安をもたらします。―伝道の書 5:12。
22 自分が教える真理に対する愛,また教える人々に対する愛を強化することによって,これからもぜひともイエス・キリストに倣ってゆきましょう。この二つの点で愛を身に着けて,はっきり示すことは,キリストのような教え手となるための立派な土台を持つ助けになります。とはいえ,その土台の上にどのようにさらに築き上げてゆけるでしょうか。次号の「ものみの塔」誌では,イエスが用いた教え方の具体的な例の幾つかを,一連の記事で取り上げます。
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