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真の崇拝者の大群衆 ― どこから来たかものみの塔 1995 | 2月1日
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真の崇拝者の大群衆 ― どこから来たか
「見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た……大群衆が,……み座の前と子羊の前に立っていた」― 啓示 7:9。
1 啓示の書に記されている数々の預言的な幻が,今日のわたしたちにとって大きな関心事であるのはなぜですか。
西暦1世紀の終わりごろ,使徒ヨハネは,エホバの目的に関連した驚くべき出来事の幻を見ました。ヨハネが幻で見た事柄の一部は今まさに成就しています。その他の事柄は,ごく近い将来に成就することになっています。それらの事柄はすべて,全創造物の前でみ名を神聖なものにするというエホバの壮大な目的の劇的な成就に結びついています。(エゼキエル 38:23。啓示 4:11; 5:13)さらに,それらはわたしたち各々の命の見込みにも関連しています。どのようにでしょうか。
2 (イ)使徒ヨハネは4番目の幻の中で何を見ましたか。(ロ)わたしたちはこの幻に関して,これからどんな質問を考慮しますか。
2 啓示の書に記されている一連の幻の4番目の中で,ヨハネは「わたしたちの神の奴隷たち」が額に証印を押されるまでみ使いたちが滅びの風を引き止めているのを見ました。そしてそのあと,大きな興奮を誘う事態の進展を目にしました。「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」が,一致してエホバを崇拝し,そのみ子を敬っている情景を目にしたのです。その大群衆は大患難から出て来る人々である,とヨハネは告げられました。(啓示 7:1-17)この「わたしたちの神の奴隷たち」と描写されている人々はだれでしょうか。そして,患難を生き残る「大群衆」を構成するのはだれですか。あなたはその一人になるでしょうか。
「わたしたちの神の奴隷たち」とはだれのことか
3 (イ)イエスは,ヨハネ 10章1-18節で,ご自分と追随者たちとの関係をどのように例えで示されましたか。(ロ)イエスは犠牲としてのご自分の死によって羊たちのために何を可能にされましたか。
3 イエスは死を遂げる4か月ほど前に,ご自身は「りっぱな羊飼い」,追随者たちは「羊」であり,自分はその「羊」のために命をささげる,ということを話されました。また,ご自分が比喩的な羊の囲いの中に見いだし,そのあと特別な世話をする羊のことを特に述べられました。(ヨハネ 10:1-18)a イエスは愛をこめて羊のために自分の魂を実際になげうち,彼らが罪と死から自由にされるために必要な贖いの代価を用意されました。
4 ここでイエスの言っておられる事柄に一致して羊として選ばれた最初の者たちはだれですか。
4 しかし,りっぱな羊飼いであるイエスは,そうする前に,自ら弟子たちを集められました。最初に弟子となったのは,イエスの例えに出てくる「戸口番」であるバプテストのヨハネがイエスに引き合わせた人たちです。イエスは,複合の「アブラハムの胤」の一部になる機会を喜んで受け入れる人々を捜しておられました。(創世記 22:18。ガラテア 3:16,29)イエスは彼らの心に天の王国に対する認識を植え込み,自分は天の父の家に彼らのための場所を準備しに行く,と約束されました。(マタイ 13:44-46。ヨハネ 14:2,3)いみじくもイエスはこう言われました。「バプテストのヨハネの日から今に至るまで,天の王国は人々の押し進む目標となっており,押し進んでいる者たちはそれをとらえつつあります」。(マタイ 11:12)それらイエスに付き従ってその目標に到達しようとした人たちは,イエスの話された羊の囲いの中にいる者たちでした。
5 (イ)啓示 7章3-8節で言及されている「わたしたちの神の奴隷たち」とはだれのことですか。(ロ)ほかにも大勢の人が霊的イスラエル人と共に崇拝に加わることになっていましたが,何がそのことを示していますか。
5 その天的な目標に向かって首尾よく押し進む人たちは,啓示 7章3節から8節で「わたしたちの神の奴隷たち」とも呼ばれています。(ペテロ第一 2:9,16をご覧ください。)そこで言及されている14万4,000人は,生来のユダヤ人だけなのでしょうか。イエスの例えに出てくる比喩的な羊の囲いの中にいるのは,ユダヤ人だけでしょうか。絶対にそのようなことはありません。彼らは神の霊的イスラエルの成員であり,全員がキリストと結ばれてアブラハムの霊的な胤となっているのです。(ガラテア 3:28,29; 6:16。啓示 14:1,3)言うまでもなく,いつかは定員の満たされる時が来ることになっていました。では,そのあとどうなるのでしょうか。聖書が予告していたとおり,他の者たち ― 大群衆 ― が,それら霊的イスラエル人と共にエホバを崇拝するようになるのです。―ゼカリヤ 8:23。
「ほかの羊」― 彼らは異邦人のクリスチャンか
6 ヨハネ 10章16節はどのような事態の進展を指し示していますか。
6 イエスは,ヨハネ 10章7節から15節で一つの羊の囲いに言及したあと,もう一つのグループのことを持ち出し,「わたしにはほかの羊がいますが,それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず,彼らはわたしの声を聴き,一つの群れ,一人の羊飼いとなります」と言われました。(ヨハネ 10:16)その「ほかの羊」とはだれのことでしょうか。
7,8 (イ)ほかの羊とは異邦人のクリスチャンのことであるという考えは,なぜ誤った前提に基づいていると言えますか。(ロ)ほかの羊とはだれのことかを理解する上で,この地のための神の目的に関するどんな事実が影響を及ぼすはずですか。
7 キリスト教世界の注解者たちは一般に,これらほかの羊は異邦人のクリスチャンであり,先に言及された羊の囲いの中にいる者たちはユダヤ人,つまり律法契約のもとにあった人たちであって,どちらのグループも天に行く,という見解を取っています。しかし,イエスはユダヤ人として生まれ,生まれながらに律法契約のもとにありました。(ガラテア 4:4)それに,ほかの羊を,天的な命をもって報われる異邦人のクリスチャンとみなす人たちは,神の目的の重要な面を考慮に入れていません。エホバは,最初の人間を創造してエデンの園に置かれた時,ご自分の目的は地が人の住む所となり,全地が楽園になり,そこを世話する者としての人間が ― 自分たちの創造者に敬意を抱いて従うという条件で ― 生活を永久に楽しむことである,という点を明らかにされたのです。―創世記 1:26-28; 2:15-17。イザヤ 45:18。
8 エホバの目的は,アダムが罪をおかしても挫折したわけではありません。神は愛をこめてアダムの子孫のために,アダムの認識し損なったものを享受する機会にあずかる備えを設けられました。エホバは救出者を,すなわち胤を起こすと予告されました。その胤を通して,数々の祝福がすべての国の民に差し伸べられるのです。(創世記 3:15; 22:18)その約束は,地上にいる善良な人がすべて天に行くことを意味するものではありませんでした。イエスは,「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように」と祈るようご自分の追随者たちに教えました。(マタイ 6:9,10)ヨハネ 10章1節から16節に記されている例えを話した時よりさほど前のことではありませんが,イエスは弟子たちに,み父に是認されて天の王国を与えられるのは「小さな群れ」だけであると言っておられました。(ルカ 12:32,33)ですから,イエスがご自分のことを羊のために魂をなげうつりっぱな羊飼いとして示しておられる例えを読む際に,イエスがご自分の愛ある世話のもとに連れて来られる人々の大多数,すなわち天の王国の地上の臣民となる人たちのことを度外視するのは誤りでしょう。―ヨハネ 3:16。
9 聖書研究者たちは,早くも1884年に,ほかの羊とはどんな人々のことであると理解していましたか。
9 「ものみの塔」誌は早くも1884年に,ほかの羊とは,神の当初の目的が成就される状況になったこの地上で生きる機会を与えられる人々である,ということを明らかにしました。それら初期の聖書研究者は,これらほかの羊の中に,イエスが地上で宣教に携わっておられた時よりも前に生き,また死んだ人々が含まれることを悟っていました。しかし,彼らが正しく理解していなかった細かな点もあります。例えば,ほかの羊を集めることは,油そそがれた者すべてが天的な報いを受けた後に行なわれると考えられていました。それでも,ほかの羊が単なる異邦人のクリスチャンではないことは,確かにはっきり理解されていました。ほかの羊の一人になる機会は,ユダヤ人にも異邦人にも,つまりあらゆる国民と種族の人々に開かれているのです。―使徒 10:34,35と比較してください。
10 イエスから真にご自分のほかの羊とみなされる者であるためには,わたしたちに関してどんなことが言えなければなりませんか。
10 ほかの羊は,イエスの述べた説明にかなうためには,人種的あるいは民族的な背景にかかわりなく,イエス・キリストをりっぱな羊飼いと認める人々でなければなりません。それにはどんなことが含まれているでしょうか。彼らは柔和さと進んで導かれる態度を表わさなければなりません。そうした特質は羊の特徴なのです。(詩編 37:11)小さな群れについて言えるのと同じように,彼らは「[りっぱな羊飼いの]声を知って」いなければならず,彼らに影響を及ぼそうとするような他の者たちに導かれて行ってはなりません。(ヨハネ 10:4。ヨハネ第二 9,10)彼らは,イエスが羊たちのために自分の魂をなげうって行なわれた事柄の重要性を認識し,その備えに全き信仰を働かせなければなりません。(使徒 4:12)エホバに対してのみ神聖な奉仕を行なうよう,王国をいつも第一に求めるよう,常に世から離れているよう,また互いに自己犠牲的な愛を示し合うよう,りっぱな羊飼いから促される時,その声を『聴か』なければなりません。(マタイ 4:10; 6:31-33。ヨハネ 15:12,13,19)あなたは,イエスからご自分のほかの羊とみなされる人たちに関するその描写にかなっていますか。かないたいと思いますか。本当の意味でイエスのほかの羊になる人は皆,なんと貴重な関係に入ることができるのでしょう。
王国の権威に対する敬意
11 (イ)イエスはご自分の臨在のしるしの中で,羊とやぎについてどんなことを言われましたか。(ロ)イエスの言っておられる兄弟たちとはだれのことですか。
11 イエスは上記の例えを述べてから数か月後に,再びエルサレムにおられました。オリーブ山の上で神殿域を見渡せる所に座っておられた時,弟子たちに『ご自分の臨在と事物の体制の終結のしるし』に関する詳細を説明されました。(マタイ 24:3)そして,この時にも,羊を集めることについて話されました。とりわけ,こう言われました。「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に到来すると,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう」。イエスはこのたとえ話の中で,王からそのように注意を向けられる者たちは王の『兄弟たち』をどう扱うかに基づいて裁かれることを示されました。(マタイ 25:31-46)これら兄弟たちとはだれのことでしょうか。彼らは霊によって生み出されたクリスチャンであり,それゆえに「神の子」です。イエスは神の初子です。したがって,彼らはキリストの兄弟なのです。彼らは,啓示 7章3節で述べられている「わたしたちの神の奴隷たち」,すなわちキリストと共に天の王国にあずかるために人類の中から選ばれた者たちなのです。―ローマ 8:14-17。
12 人々がキリストの兄弟たちをどう扱うかということが非常に重要なのはなぜですか。
12 これら王国の相続者たちを他の人間がどう扱うかは,極めて重要な問題です。あなたは彼らをイエス・キリストが,またエホバがご覧になるように見ますか。(マタイ 24:45-47。テサロニケ第二 2:13)それら油そそがれた者たちに対する態度は,イエス・キリストご自身に対する,またそのみ父である宇宙の主権者に対する態度を反映するものなのです。―マタイ 10:40; 25:34-46。
13 聖書研究者たちは1884年当時,羊とやぎのたとえ話をどの程度理解していましたか。
13 「ものみの塔」誌はいみじくも,1884年8月号の誌上で,このたとえ話の中の「羊」は自分の前に地上での完全な命の見込みを置くようになる者たちである,と指摘しました。また,このたとえ話はキリストがその栄光ある天の王座から支配している時に当てはまるに違いない,ということも理解されていました。しかし,当時彼らは,イエスがそこに描かれている分ける業をいつ始めるのか,またその業がどれほどの期間続くのかといった点を,はっきり識別していたわけではありません。
14 1923年の大会で行なわれた講演は,聖書研究者たちがイエスの預言的なたとえ話の成就する時を理解する上で,どのように助けになりましたか。
14 しかし,1923年に大会の講演の中で,当時のものみの塔協会の会長,J・F・ラザフォードは,羊とやぎのたとえ話の成就する時をはっきりさせました。なぜでしょうか。なぜなら,一つの点として,そのたとえ話は,王の兄弟たちが ― 少なくとも,その一部が ― なお地上にいることを示しているからです。人間のうち本当の意味でイエスの兄弟と呼べるのは,霊によって生み出された追随者だけです。(ヘブライ 2:10-12)これらの人は千年期の最初から最後まで地上にいるわけではないので,その千年期には人々がイエスの述べられたような仕方で彼らに善を行なう機会はないでしょう。―啓示 20:6。
15 (イ)聖書研究者にとって,どんな進展は,イエスのたとえ話の羊を正しく見分ける助けになりましたか。(ロ)羊たちは王国に対する認識をどのように証明してきましたか。
15 1923年のその講演では,羊およびやぎに関する主の説明にかなう人たちを見分ける努力が払われましたが,そのたとえ話の意味がすっかり明確になるまでには,ほかにも解明されなければならない事柄がありました。その後の年月の間に,エホバは漸進的にそれら細かい重要な事柄にご自分の僕たちの注意を引かれました。そうした事柄の中には,1927年に明らかにされた,「忠実で思慮深い奴隷」とは地上にいる霊によって油そそがれたクリスチャン全体のことである,という明確な理解が含まれていました。また,ヨナダブがエヒウと結びついたように,恐れなくエホバの油そそがれた僕たちと結びつくことが必要であるという,1932年に明示された認識も含まれていました。(マタイ 24:45。列王第二 10:15)その時,啓示 22章17節に基づいて,それら羊のような人たちは王国の音信を他の人々に伝える業に参加するよう特に励まされました。それらの人はメシアによる王国に対する認識を抱いているなら,主の油そそがれた者たちに人道主義的な親切を差し伸べるにとどまらず,自分の命をキリストを通してエホバに献げて,油そそがれた者たちと密接に交わり,彼らの行なっている業に熱意を抱いて参加するよう動かされるはずです。あなたはそうしていますか。そうする人たちに対して王はこう言われるでしょう。「さあ,わたしの父に祝福された者たちよ,世の基が置かれて以来あなた方のために備えられている王国を受け継ぎなさい」。彼らの前には,王国の地上の領域で完全さのうちに永遠の命を得るという壮大な見込みがあることになります。―マタイ 25:34,46。
「大群衆」― どこに向かっているか
16 (イ)初期の聖書研究者たちは,啓示 7章9節の大いなる群衆,つまり大群衆の実体に関して,どんな間違った考えを抱いていましたか。(ロ)そうした見解はいつ,またどんな根拠に基づいて正されましたか。
16 エホバの僕たちは,しばらくの間,啓示 7章9,10節の大いなる群衆(つまり,大群衆)とヨハネ 10章16節のほかの羊やマタイ 25章33節の羊とは異なると信じていました。聖書が大群衆は『み座の前に立っている』と述べているので,大群衆は王座には就かないものの,天におり,キリストと共同の相続人として,しかしみ座の前の二次的な場所において支配する,と考えられていました。彼らは,さほど忠実ではないクリスチャン,真の自己犠牲の精神を示さない人たちとみなされていました。そのような見解は,1935年に正されました。b 啓示 7章9節をマタイ 25章31,32節などの聖句に照らして検討した結果,この地上にいる人々であっても『み座の前に』いると言えることが明らかになりました。また,神が忠実さに関する二通りの規準を持つことはない,という点も指摘されました。神の是認を得たいと思う人は皆,神への忠誠を保たなければならないのです。―マタイ 22:37,38。ルカ 16:10。
17,18 (イ)地上におけるとこしえの命を期待する人の数が,1935年以降,大幅に増加したのはなぜですか。(ロ)大群衆に属する人たちは,どんな大切な業に熱意を抱いて参加していますか。
17 エホバの民はそれまで長年にわたり,地に関する神の約束について語っていました。彼らは,ある事が1920年代に起きると期待していたゆえに,「現存する万民[英文字義,何百万人]は決して死することなし」とふれ告げました。しかし,当時,命のための神の備えを受け入れた人は何百万人もいませんでした。真理を実際に受け入れた人々の大多数は,聖霊によって天的な命への希望を育んでいました。しかし,特に1935年以後,著しい変化が生じました。これは「ものみの塔」誌がそれまで地上におけるとこしえの命の希望を無視していたということではありません。エホバの僕たちは幾十年にもわたり,そのことについて語ると共に,聖書の描写にかなう人々を捜していました。しかしエホバは,ご自分の定めの時に,確実にその人々が姿を現わすようにされました。
18 入手可能な記録の示すところによると,長年の間,記念式に出席した人はほとんど全員が表象物にあずかっていました。ところが,1935年以降25年もたたないうちに,毎年のキリストの死の記念式に出席する人の数は急増し,表象物にあずかる人の数の100倍を上回るようになりました。これらほかの人は,どういう人たちなのでしょう。大群衆の成員になる見込みを持つ人々です。明らかに,大群衆を集め,目前に迫った大患難を生き残る備えをさせる,エホバの時が到来していたのです。予告どおり,彼らは「すべての国民と部族と民と国語の中から」来ています。(啓示 7:9)彼らはイエスが次のように言って予告された業に熱意を抱いて参加しています。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:14。
[脚注]
a ヨハネ 10章の羊の囲いについての包括的な最新の論考については,「ものみの塔」誌,1984年5月15日号,10-20,31ページをご覧ください。
b 「ものみの塔」誌(英文),1935年8月1日号および15日号。
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神聖な奉仕をささげる大群衆ものみの塔 1995 | 2月1日
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神聖な奉仕をささげる大群衆
「[彼らは]その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」― 啓示 7:15。
1 霊的な理解に関し,1935年にどんな里程標に達しましたか。
それは1935年5月31日のことです。米国のワシントン特別区でのエホバの証人の大会に出席した代表者たちの間には大きな喜びがありました。その大会で初めて,啓示 7章9節の大いなる群衆(つまり,大群衆)の実体が,聖書の残りの部分に調和して,またすでに展開し始めていた種々の出来事に一致して,はっきり解明されたのです。
2 神から天的な命に召されていないことを悟る人の数が増大していたことは,どんな点に示されていますか。
2 その6週間ほど前に,エホバの証人の諸会衆で主の晩さんの祝いが行なわれた時,出席者のうち1万681人(約6人に一人)は,表象物であるパンとぶどう酒にあずかりませんでしたが,そのうちの3,688人は神の王国の活発な宣明者でした。それらの人はなぜ表象物にあずかることを思いとどまったのでしょうか。なぜなら,彼らは聖書から学んだ事柄に基づいて,自分は神から天的な命に召されてはおらず,別の形でエホバの愛ある備えにあずかれる,ということを悟っていたからです。それで,その大会で話し手が,「地上で永遠に生きる希望を抱いておられる方々は,全員ご起立願います」と求めた時,どんなことが生じたでしょうか。何千人もの人々が立ち上がり,聴衆の間に喝采がわき起こって,なかなか静まらなかったのです。
3 大いなる群衆の実体が解明されたことが,野外宣教を推し進める新たな刺激となったのはなぜですか。エホバの証人はそのことについてどう感じましたか。
3 出席者たちは,その大会で学んだ事柄から,宣教を推し進める新たな刺激を受けました。彼らは,次の点を認識するようになりました。すなわち,今,この古い体制が終わる前に,わずか数千人ではなく人々の大いなる群衆が,楽園となる地上で永久に生きることを期待して,命を保たせるためのエホバの取り決めのもとに来る機会を与えられるということです。なんと心温まる音信でしょう。真理を愛する人々に,そのような音信が差し伸べられたのです。エホバの証人は,なすべき大きな業 ― 喜ばしい業 ― があることを悟りました。幾年も後に,統治体の成員になったジョン・ブースは昔を振り返って,「あの大会では,歓ぶべきことが沢山ありました」と語りました。
4 (イ)大群衆を集める業は,1935年以来,実際にどの程度行なわれてきましたか。(ロ)大群衆に属する人々は,自分の信仰が生きた信仰であることをどのように証明していますか。
4 その後の年月の間に,エホバの証人の数は劇的に増大しました。第二次世界大戦中にはさんざん迫害を加えられ,それも多くは暴力的迫害であったにもかかわらず,人数は10年足らずでほぼ3倍になりました。そして,1935年当時,公の証しを行なっていた5万6,153人の伝道者は,1994年までに,230余りの国や地域に住む490万人以上の王国宣明者へと増大しました。これらの人々の大多数は,エホバから楽園となる地上での完全な命を賜わる人々の中に含めてもらうことを,切なる期待を抱いて待ち望んでいます。彼らは,小さな群れに比べると,確かに大群衆を成しています。この大群衆は,信仰があると言いながら信仰をはっきり表明しない人々ではありません。(ヤコブ 1:22; 2:14-17)彼らは皆,他の人々に神の王国についての良いたよりを伝えています。あなたはその幸福な群衆の一人ですか。活発な証人であることは,大群衆としての身分を証明する重要な事柄の一つですが,これにはさらにほかの事柄も関係しています。
『み座の前に立っている』
5 大群衆が『み座の前に立っている』ということは何を示唆していますか。
5 使徒ヨハネは,与えられた幻の中で,大群衆が「み座の前と子羊の前に立ってい(る)」のを見ました。(啓示 7:9)この文脈の中で描かれているように,彼らが神のみ座の前に立っているということは,彼らがエホバの主権を全面的に認めていることを示唆しています。これには多くの事柄が含まれています。例えば,(1)何が善で何が悪かをご自分の僕たちのために決めるエホバの権利を認めます。(創世記 2:16,17。イザヤ 5:20,21)(2)エホバからみ言葉を通して語りかけられる時,その声に耳を傾けます。(申命記 6:1-3。ペテロ第二 1:19-21)(3)エホバから監督の務めを託された人たちに服することの重要性を認識します。(コリント第一 11:3。エフェソス 5:22,23; 6:1-3。ヘブライ 13:17)(4)不完全な者であるとはいえ,いやいやながらではなく,心から進んで神権的な指導にこたえ応じるよう真剣に努めます。(箴言 3:1。ヤコブ 3:17,18)彼らがみ座の前にいるのは,自分が心から敬い,深く愛するエホバに神聖な奉仕をささげるためです。この大群衆の場合,み座の前に『立っている』ということは,み座に座っておられる方から是認されていることを示唆しています。(啓示 6:16,17と比較してください。)どんな根拠に基づいて是認されるのでしょうか。
『白くて長い衣を着ている』
6 (イ)大群衆が「白くて長い衣を着て」いることは,何を意味していますか。(ロ)大群衆はどのようにしてエホバのみ前における義なる立場を得ますか。(ハ)キリストの流された血に対する信仰は,大群衆の生活にどれほど影響を及ぼしていますか。
6 使徒ヨハネが自分の見た事柄について描写した言葉によれば,この大群衆の成員は「白くて長い衣を着て」います。その白くて長い衣は,エホバのみ前における彼らの清い義なる立場を象徴しています。彼らはどのようにしてそのような立場を得たのでしょうか。わたしたちはすでに,ヨハネの幻の中で彼らが「子羊の前に」立っているのを見ました。彼らはイエス・キリストが「世の罪を取り去る,神の子羊」であることを認めています。(ヨハネ 1:29)ヨハネは,幻の中でみ座の前にいた長老たちの一人が,「彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである」と説明するのを聞きました。(啓示 7:14,15)比喩的に言って,彼らは,人を請け戻す効力のあるキリストの血に信仰を働かせることにより,自分の衣を洗ったのです。彼らは贖いについての聖書の教えにただ頭の中で同意しているのではありません。贖いに対する感謝の念が彼らの内なる人に影響を及ぼしています。それゆえに,「心の中で」信仰を働かせているのです。(ローマ 10:9,10)このことは彼らが自分の命をどのように用いるかということに多大の影響を及ぼしています。彼らは信仰のうちに,キリストの犠牲に基づいてエホバに献身し,その献身の象徴として水の浸礼を受け,献身の意味に本当に調和した生活を送り,こうして神との是認された関係を楽しむようになるのです。なんとすばらしい特権でしょう。本当に大切に守るべき特権です。―コリント第二 5:14,15。
7,8 エホバの組織は,大群衆が自分の衣を汚れのない状態に保てるよう,どのように助けてきましたか。
7 エホバの組織は彼らの永続的な福祉に愛ある関心を抱いているがゆえに,人の身分証明とも言えるその衣に汚点を付けかねない,つまり衣を汚しかねない態度や行ないに繰り返し注意を促してきました。人は口先で何と言おうと,衣が汚れてしまえば啓示 7章9,10節の預言的な描写に十分かなう者ではなくなるからです。(ペテロ第一 1:15,16)1941年以降の「ものみの塔」誌はそれまでに出版されたものを補強して,他の人々に宣べ伝えておきながらそれ以外の時間に淫行や姦淫などの行ないに関係するのは言語道断であるということを繰り返し示しました。(テサロニケ第一 4:3。ヘブライ 13:4)1947年には,クリスチャンの婚姻に関するエホバの規準はすべての国や地域で適用される,ということが強調されました。土地の慣習で何がよしとされていようと,一夫多妻の習わしを続ける人はエホバの証人にはなれないのです。―マタイ 19:4-6。テトス 1:5,6。
8 1973年に,世界中のエホバの証人は,次のことを教えられました。すなわち,エホバの証人は皆,どこにいようとも ― 王国会館の中にいる時や野外奉仕に携わっている時だけでなく,世俗の仕事をしている時や人目につかないような場所にいる時でも ― タバコの誤用といった,人を汚すことが分かっている習慣に関係するのを完全にやめなければならないということです。(コリント第二 7:1)1987年のエホバの証人の地域大会でクリスチャンの若者たちは,神のみ前で清い立場を保つためには裏表のある生活をしないよう気をつけなければならない,と強く諭されました。(詩編 26:1,4)「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式」には自分を「世から汚点のない状態に」保つことが含まれるゆえに,「ものみの塔」誌は再三再四,様々な面に表われる世の霊を避けるようにと警告してきました。―ヤコブ 1:27。
9 実際に大患難後も神のみ座の前に是認された状態で立つのは,どういう人たちですか。
9 来たるべき大患難の後もなお神の是認された僕として『み座の前に立っている』のは,信仰に促されて霊的また道徳的に清い状態を保つような生き方をする人たちです。クリスチャンとしての生き方を始めるだけでなく,忠節のうちにその生き方を貫く人々なのです。―エフェソス 4:24。
『彼らの手には,やしの枝がある』
10 ヨハネが見た大群衆の手にあるやしの枝には,どんな意味がありますか。
10 使徒ヨハネが見たように,大群衆の際立った特色の一つは,「彼らの手には,やしの枝があった」という点です。それにはどんな意味があるのでしょうか。きっとヨハネは,それらやしの枝を見てユダヤ人の幕屋の祭りを思い起こしたことでしょう。それは,夏の収穫のあとに行なわれた,ヘブライ暦の上で最も喜ばしい祭りです。律法に調和して,その祭りの期間中の住まいにする仮小屋を作るために,やしの葉が他の木々の枝と共に用いられました。(レビ記 23:39-40。ネヘミヤ 8:14-18)また,神殿にいた崇拝者たちはハレル(詩編 113-118編)が歌われている間,やしの枝を振りました。ヨハネはまた,大群衆がやしの枝を振っているのを見て,多分,イエスがろばに乗ってエルサレムに入城された時のことを思い起こしたでしょう。その時,崇拝者たちの群衆は喜びにあふれてやしの枝を振り,「エホバのみ名によって来たる者,イスラエルの王こそ祝福された者!」と叫びました。(ヨハネ 12:12,13)ですから,やしの枝を振っているということは,大群衆がエホバの王国とその油そそがれた王を喜びにあふれて迎えていることを示唆しています。
11 神の僕たちがエホバに仕えることに実際に喜びを感じるのはなぜですか。
11 大群衆は今でさえ,エホバに仕えながらそのような喜びの霊を表わしています。これは,何ら辛苦には直面しないとか,悲嘆や苦痛など全く経験しないとかいう意味ではありません。エホバに仕え,エホバを喜ばせることから生じる満足感があるので,そうした事柄は相殺されるのです。例えば,夫と共に45年間グアテマラで奉仕したある宣教者は,自分たちを取り巻いていた原始的な状態について,また王国の音信を携えてインディオの村まで行く生活に付き物だった,きつい仕事や危険な旅について語りました。そして,話の結びに,「あのころのわたしたちは最高に幸せでした」と述べました。こう語った時のこの婦人は老齢と病気の影響を感じていましたが,彼女の日記の最後の箇所には,「非常に報いの多い,充実した人生でした」という言葉が含まれています。エホバの証人は地上のどこにおいても,自分の携わっている宣教に関してこの婦人と同じ感慨を抱いています。
『昼も夜も神聖な奉仕をささげている』
12 昼夜の別なく,エホバはこの地上のどんなことに目を留めておられますか。
12 これら喜びにあふれた崇拝者たちは,「[エホバの]神殿で昼も夜も[エホバに]神聖な奉仕を」ささげています。(啓示 7:15)地球上の至る所で幾百万人もの人々がこの神聖な奉仕に参加しています。ある国や地域では夜間で人々が眠っていても,他の国や地域では太陽が昇っており,エホバの証人は証しの業に励んでいます。彼らは地球の自転と共に,絶えず,昼も夜も,エホバへの賛美を歌っているのです。(詩編 86:9)しかし,啓示 7章15節で言われている昼夜を分かたぬ奉仕は,個人としての奉仕に一層よく当てはまります。
13 「昼も夜も」奉仕することの意味について,聖書はどのようなことを示唆していますか。
13 大群衆を構成している人は各々,昼も夜も神聖な奉仕をささげています。これは,彼らの行なう物事はすべて神聖な奉仕とみなされる,という意味でしょうか。確かに,彼らは何をしていようと,それをエホバの誉れとなる仕方ですることを学んでいます。(コリント第一 10:31。コロサイ 3:23)しかし,「神聖な奉仕」は,神への崇拝に直接関係している事柄にだけ当てはまります。ある活動に「昼も夜も」携わるということは,それを定期的に,あるいは一貫して行なう,また真剣に努力して行なう,ということを意味しています。―ヨシュア 1:8; ルカ 2:37; 使徒 20:31; テサロニケ第二 3:8と比較してください。
14 わたしたち個人としての野外奉仕が,「昼も夜も」奉仕しているという描写にかなうのはなぜですか。
14 エホバの大いなる霊的な神殿の地上の中庭で奉仕する大群衆を構成している人々は,野外宣教に定期的に一貫して参加するよう努めています。多くの人は,野外宣教に毎週参加することを目標にしてきました。ほかに,正規開拓者または補助開拓者として一生懸命に努力している人たちもいます。これらの人はしばしば,早朝の街路や商店で証しの業に励んでいます。ある証人たちは,関心を抱いている人の都合に合わせて,夜遅くに聖書研究を司会しています。彼らは,買い物に出かけた折に,旅行している時に,昼休みの時間に,また電話でも証言します。
15 わたしたちの神聖な奉仕には,野外宣教のほかに何が含まれますか。
15 会衆の集会に参加することも神聖な奉仕の一部であり,クリスチャンの集会場の建設や管理に関連した仕事もそうです。クリスチャンの兄弟姉妹がいつもはつらつとエホバへの奉仕を行なえるよう,霊的また物質的な面で彼らを励ましたり助けたりする努力も含まれています。これには医療機関連絡委員会の仕事も含まれます。ベテルで行なわれているあらゆる形態の奉仕,それに大会での自発奉仕も,すべて神聖な奉仕です。まさに,わたしたちの生活は,エホバとの関係を中心にして営まれている場合,神聖な奉仕で満ちています。聖句が述べているとおり,エホバの民は『昼も夜も神聖な奉仕を』ささげており,そうすることに大きな喜びを見いだしています。―使徒 20:35。テモテ第一 1:11。
『すべての国民,部族,民,国語の中から来ている』
16 大群衆が『すべての国民から』来ることは,どのように真実となっていますか。
16 大群衆に属する人々は,すべての国民の中から来ています。神は不公平な方ではなく,イエス・キリストを通して設けられた贖いの備えはそれらの人々すべてを益するのに十分なものです。聖書に基づいて1935年に初めて大群衆の実体が明らかにされた時,エホバの証人は115の国や地域で活動していました。羊のような人々を捜すその業は,1990年代に入るころにはその2倍を超える数の国や地域に及んでいました。―マルコ 13:10。
17 あらゆる『部族,民,国語』の人々を助けて大群衆の中に含めるために,何が行なわれていますか。
17 エホバの証人は,大群衆の成員になる見込みのある人々を捜し出す点で,種々の国民に対してだけでなく,それらの国民の中の部族や民や言語グループにも注意を向けてきました。証人たちはそれらの人々に音信を伝えるために聖書関係の文書を300余りの言語で出版しています。これには,資格のある翻訳者のチームを訓練して維持し,それらの言語をすべて処理できるコンピューター機器を供給すると共に,実際の印刷を行なうことも含まれます。過去わずか5年間に36の言語がリストに加えられました。それらの言語を話している人々の総数は,およそ9,800万人に上ります。なおその上に,証人たちはそれらの人々を,神の言葉を理解できるよう助けるため個人的に訪問するよう努めています。―マタイ 28:19,20。
「大患難から出て来る」
18 (イ)大患難がぼっ発する時,だれが安全に保護されますか。(ロ)その時,どんな喜ばしい宣言がなされますか。
18 み使いたちが啓示 7章1節で述べられている滅びの風を解き放つ時,油そそがれた「わたしたちの神の奴隷たち」だけでなく,彼らに加わって真の崇拝を行なってきた大群衆も,エホバの愛ある保護を経験します。使徒ヨハネが告げられたように,大群衆に属する人々は生存者として「大患難から出て来る」でしょう。その時,彼らは心から感謝と賛美の叫び声を上げることでしょう。「救いは,み座に座っておられるわたしたちの神と,子羊とによります」と宣言するのです。そして,天で仕えている神の忠節な僕たちは皆,その声に加わって,「アーメン! 祝福と栄光と知恵と感謝と誉れと力と強さが,わたしたちの神に限りなく永久にありますように。アーメン」と宣言します。―啓示 7:10-14。
19 生き残った人たちは,喜ばしいどんな活動にあずかることを切望しますか。
19 それはなんと喜ばしい時となるのでしょう。生きている者すべてが唯一まことの神の僕なのです。それらの者すべては,エホバに仕えることを最大の喜びとするのです。なすべき仕事は沢山あります。すべて喜ばしい仕事です。地球は楽園<パラダイス>に変えられなければなりません。何十億人もの死者は復活させられ,次いでエホバの道に沿って教育されなければなりません。そうした業にあずかれるとは,なんという喜ばしい特権なのでしょう。
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