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    愛する家族を亡くしたとき
    • このように感じるのは普通のことですか

      身近な親族を亡くしたある男性はこう書いています。「英国に育った子供として,私は自分の感情を人前で表わしてはいけないと教えられていました。私が何かで痛がっていたとき,元軍人の父親が,きっとした口調で,『泣いてはいけない!』と言ったのを覚えています。私は,母親が私たち子供たちのだれか(4人いた)に口づけしたり抱擁したりしたことがあるかどうかを思い出せません。自分が父親の死に接したのは56歳の時でした。言いようのない喪失感を覚えました。それでも,初めのうち,私は泣くことができませんでした」。

      文化の違いによりますが,人々が自分の感情をあらわに表現する土地もあります。喜んでいようと悲しんでいようと,他の人たちは,その人がどのような気持ちでいるのかすぐに分かります。他方,世界のある地域,ことに北ヨーロッパや英国の人々,とりわけその男性は,自分の感情を秘め,情感を抑え,苦境にあっても弱みを見せず,心の内を外に表わさないようにしつけられています。しかし,大切なだれかと死別したとき,自分の悲しみの気持ちを表わすのは何か間違っているでしょうか。聖書は何と述べていますか。

      聖書の中の泣いた人々

      聖書は東地中海地域のヘブライ人によって書き記されましたが,ヘブライ人は感情をよく表現する民族でした。聖書は,自分の悲嘆の気持ちを率直に表わした人たちの例を多く載せています。ダビデ王は殺害された息子アムノンの死を嘆き悲しみました。事実ダビデは,「非常に激しく泣いた」のです。(サムエル第二 13:28-39)ダビデは,王位を奪おうとした背信の息子アブサロムの死をさえ嘆きました。聖書はこう記述しています。「すると,王[ダビデ]は動揺して,門口の上の屋上の間に上って行って泣きだした。彼は歩きながら,このように言った。『我が子アブサロム,我が子,我が子アブサロムよ! ああ,わたしが,このわたしが,お前の代わりに死ねばよかったのに。アブサロム,我が子よ,我が子よ!』」(サムエル第二 18:33)ダビデは普通の父親ならだれもがするように悲しみました。そして,どれほど多くの親たちが,子供の代わりにむしろ自分が死ねばよかった,と感じてきたことでしょう。子供が親より先に死ぬというのはあまりに不自然なことに感じられるのです。

      イエスは友人ラザロの死に対してどのように反応されたでしょうか。その墓に近づいて,涙を流されたのです。(ヨハネ 11:30-38)後に,マリア・マグダレネも,イエスの墳墓に近づきつつ泣きました。(ヨハネ 20:11-16)確かに,聖書の述べる復活の希望を理解しているクリスチャンは,死者の状態に関して聖書にはっきり根ざした信条を持たないある人々のように,悲しみに打ちひしがれてしまうことはありません。とはいえ,普通の感情を持つ人間として,真のクリスチャンも,復活の希望を抱いてはいても,だれにせよ愛する者の死を悼み,嘆き悲しむのです。―テサロニケ第一 4:13,14。

      泣くべきか,泣くべきでないか

      今日のわたしたちの反応はどうでしょうか。感情をはっきり示すのは難しい,あるいは,きまりが悪いでしょうか。カウンセラーたちは何を勧めていますか。それらの人々の現代の見解は,多くの場合,霊感による聖書の古代の知恵を繰り返しているにすぎません。自分の悲嘆を抑えるのではなく,それを表現すべきである,とそれらの人々は述べています。これは,ヨブ,ダビデ,エレミヤなど,古代の信仰の人々を思い出させます。それらの人々の表わした悲嘆の情は聖書の中に残されています。彼らは自分の感情を封じ込めたりはしませんでした。ですから,自分を孤立させてしまうのは賢明ではありません。(箴言 18:1)もちろん,哀悼の気持ちの表わし方は文化によって異なりますし,それぞれの土地で行き渡っている宗教信条によっても違ってきます。a

      泣きたい気持ちになったらどうしたらよいでしょうか。泣くことは人間の性質の一部です。ラザロが死んだ時のことをもう一度思い起こしてください。その時イエスは「霊においてうめき……涙を流された」のです。(ヨハネ 11:33,35)こうしてイエスは,悲しみ悼むことが,愛する人の死に際して決して異常な反応ではないことを示されました。

      嘆き悲しんでいる人たち

      愛する者を亡くしたとき,悲しんだり泣いたりするのは正常なこと

      この点は,小さな娘レイチェルをSIDS(乳児突然死症候群)で失った母親アンの場合によく示されています。アンの夫はこのように述べています。「不思議なことに,アンも私も,葬式では泣きませんでした。ほかのみんなが泣いていました」。しかし,これにこたえてアンはさらにこう述べました。「そうです,でも私は,わたしたちふたりのためにたっぷり泣きました。その悲しい出来事の数週間後,ようやく自分独りになって家にいたある日,私はこみ上げてくるものを抑えられませんでした。私は一日じゅう声を上げて泣きました。でも,それが助けになったと思います。それで気持ちが楽になりました。自分の子供の死を悲しまないではいられなかったのです。悲しんでいる人たちには泣かせてあげるべきだと本当に思います。『泣かないで』と声をかけるのがある意味で自然な反応のようですが,それは実際には助けになりません」。

      ある人たちはどんな反応をするか

      自分の愛する者の死のゆえに悲痛な心情になったとき,ある人はどんな反応をしたでしょうか。一例として,ファニータの場合を取り上げましょう。ファニータは赤子を亡くすことがどのような気持ちにならせるかを知っています。すでに5回も流産の経験があったからです。彼女はもう一度妊娠しました。そのため,車の事故で入院を余儀なくされた時,当然のことながら心配しました。2週間後に,時ならぬ陣痛が始まりました。しばらくして,小さな女の子バネサが産まれました。900㌘を少し超えるだけでした。「私はとても興奮しました。自分もついに母親になったのです!」とファニータは思い返しています。

      しかし,彼女のこの幸福感は長く続きませんでした。その4日後,バネサは死にました。ファニータはこう回想しています。「私は非常にうつろなものを感じました。母親としての誉れは取り去られたのです。全く満たされない気持ちでした。家に戻ってバネサのために私たちが用意していた部屋に入り,その子のために自分が買っておいた小さな肌着を見るのは心の痛むものでした。その後の二,三か月のあいだ,私は娘の誕生の日のことを思い返していました。だれとも何のかかわりも持ちたくありませんでした」。

      極端な反応でしょうか。他の人たちには理解しにくいかもしれません。しかし,ファニータのようにそれを実際に経験した人たちは,このような赤ちゃんの場合であっても,しばらく生活した人との死別の場合と同じ悲しみを味わったと語ります。生まれるずっと前から,その子は親たちから愛されていた,とその人々は話すことでしょう。母親とは特別のきずなができています。その赤子が死ぬとき,まぎれもなくひとりの人が失われたことを母親は感じるのです。そして,これこそ他の人々が理解すべき点です。

      怒りやとがめの気持ちがどのように影響するか

      別の母親は,自分の6歳の息子が先天的心臓疾患のために急死したことを伝えられたとき自分がどのように感じたかを話しています。「私は,感覚のまひ,信じられないという思い,とがめの気持ち,そして,あの子の病気の重さを悟らなかった夫と医師に対する怒りなど,一連の反応を経験しました」。

      怒りの気持ちも悲嘆のひとつの兆候です。それが医師や看護婦たちへの怒りとなることもあります。死んでしまう前にもっと手をつくしてくれるべきだったと感じるのです。あるいは,間違ったことを言ったりしたりしているように思える友人や親族に対する怒りとなることもあります。どうして自分の健康をもっと大切にしなかったのかと,故人となった人に対し憤りを持つ人たちもいます。ステラはこのように回想しています。「私は,自分の夫に対して憤りを感じたのを覚えています。このようにならなくてもよかったのを知っていたからです。主人はかなりの病気だったのに,医者の警告を無視したのです」。そして,今は亡き人への憤りの気持ちは,あとに残された人にその死がもたらした重荷のためである場合もあります。

      そうした怒りのために罪の意識を持ってしまう人もいます。つまり,怒りを抱いたということで自らをとがめることがあるのです。愛する者の死について自分を責める人たちもいます。「もっと早く医者に行かせていたなら」,「別の医者にみせていたなら」,あるいは「もっと健康に注意させていたなら,死ななかっただろうに」と考えるのです。

      母親が子供を抱いていた時のことを思い出している。

      子供の死は耐えがたい心の衝撃 ― 純粋な同情と感情移入がその親たちの助けとなる

      この罪の意識がさらに進むこともあります。特に,愛する者を突然に,全く予期しない状況で亡くした場合です。今は亡き人に対してかつて怒ったり言い合ったりした時のことを思い出しはじめるのです。あるいは,その死んだ人のために自分のすべき事を全部してあげられなかったと悔やむこともあります。

      多くの母親のこうして長く続く悲嘆の過程は,多くの専門家が述べている事柄の裏づけとなります。つまり,子供の死は親,とりわけ母親の生活に,いつまでも残るすきまを生じさせます。

      配偶者を亡くしたとき

      夫もしくは妻との死別もいやしがたい衝撃となります。とりわけ,二人が連れ添って活動的な人生を送ってきた場合にはそうです。それは,旅行,仕事,種々の楽しみ,相互の依存など,二人が共にしてきた生活スタイル全体の終わりを意味します。

      ユニスは夫が心臓発作で急死した時のことをこう説明しています。「初めの1週間,私は感情的に無感覚になっていました。まるで自分の機能が停止してしまったかのようでした。物を味わうことも,においをかぐこともできませんでした。とはいえ,私の論理的感覚だけは別個に働いていました。CPRと投薬によって主人の病状を安定させる努力がなされていた間ずっとそのそばにいましたから,私はよくある拒否症状は経験しませんでした。それでも,強いざせつ感がありました。車が断がいから落ちて行くのを見ていながら,自分では何もできないでいるような気持ちでした」。

      彼女は泣きましたか。「もちろん泣きました。特に,送られてきた何百通もの慰めのカードを読んでいた時です。一枚ごとに声を上げて泣きました。それは,その日の残りのひと時に立ち向かう助けになりました。でも,自分がどのような気持ちかと幾度尋ねられても,それは何の助けにもなりませんでした。どう見ても,私は惨めな気持ちでした」。

      ユニスにとって,悲しみをこらえて生きる助けとなったものは何でしたか。彼女はこう語っています。「それと気づかず,無意識のうちに,自分のこれまでの生活を続けてゆこうと思い定めていました。それにしても,今なお辛く感じられるのは,日々の生活をあれほど愛した主人が,いま共にいてそれを楽しめないことを思うときです」。

      『他の人の言うままになってはならない』

      「告別 ― さようならをいつ,どのように」の著者たちはこう忠告しています。「他の人の言うままに行動したり感じたりしてはいけない。悲しみがどのような過程をたどるかは人それぞれに違う。あなたは悲しみすぎている,あるいはもっと悲しんでもよいと他の人たちは考え,その考えをあなたに知らせようとするだろう。そうした人たちを許してあげると共に,それを忘れてしまいなさい。他の人たちが,あるいは社会全体が作り上げた型に無理に自分を合わせようとすることによって,感情面での健康の回復のための自分の成長を妨げることになる」。

      言うまでもなく,悲しみに対処する方法は人によって異なります。どんな人にとってもある一つの方法が他の方法より必ず優れている,と言おうとしているのではありません。しかし,沈滞した状態になり,悲嘆に暮れた人が現実の状況に自分を合わせることができなくなってしまうなら,そこには危険があります。その時には,同情心のある友人からの助けが必要でしょう。聖書は,「真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である」と述べています。ですから,助けを求めること,話すこと,そして,泣くこともためらわないでください。―箴言 17:17。

      悲しみは死別に対する自然な反応であり,悲嘆していることが人の前であらわに示されるとしても悪いことではありません。しかし,答えの必要な質問がほかにもあります。『自分の悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか。とがめや怒りの気持ちを感じるのは普通のことですか。そのような反応にどう対処したらよいでしょうか。死別の悲しみを忍ぶのに何が役に立ちますか』。次の部分はこれらの問いに,また他の多くの問いに答えることでしょう。

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    愛する家族を亡くしたとき
    • 悲嘆の過程

      「過程」といっても,悲しみに決まった日程やプログラムがあるわけではありません。悲しみのさまざまな反応はときに重なり合い,その長さにも個人差があります。ここに書き出したのはそのすべての例ではありません。これ以外の反応もあることでしょう。以下は,人がよく経験する悲嘆の症状の幾つかです。

      初期の反応: 当初の精神的衝撃。信じられない気持ちになって,それを否定する。感情的に無感覚になる。とがめの気持ち。怒り。

      強度の悲嘆は下記の症状を伴うことがある: 記憶の喪失と不眠。極度の疲労。気分の急な変化。判断や思考の誤り。泣き叫びたくなる気持ち。食欲の変化と,それによる体重の増減。体調異常の種々の兆候。無気力感。作業能力の低下。種々の幻覚 ― 死んだ人が触れたり,その声を聞いたり,姿を見たりしたという感覚。子供を亡くした場合,配偶者に対する不条理な憤まん。

      安定期: 懐かしさの交じる悲しさ。故人についての楽しい思い出が多くなり,明るい冗談の伴うことさえある。

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    • 流産と死産 ― 母親の悲しみ

      モナにはすでにほかの子供たちがいましたが,今度の子供の誕生も心待ちにしていました。産まれ出る前でさえ彼女が「一緒に遊び,話しかけ,夢にまで見た」子供だったのです。

      母親と,まだ産まれ出ていない子供とのきずなの形成には強力なものがありました。彼女はこう続けます。「レイチェル・アンは,私のおなかの上の本を蹴り落とし,夜には私を寝かせてくれない子供でした。初めて小さく蹴ったころのことを今でも覚えています。そっと優しく小突くような感じでした。この娘が身を動かすたびに,私は深い愛情でいっぱいになりました。私はあの子のことをよく知り,痛がっているときも病気のときも分かるようになりました」。

      モナはさらにこう語ります。「医師は私の言うことを信じようとせず,分かってくれた時には遅すぎました。医師は,心配しないでよいと言っていました。私は,娘が死んでしまうような気がしたのだと思います。娘は突然激しく向きを変え,翌日には死んでいました」。

      モナの経験は決して類例のないものではありません。「胎児の死に耐えて」の著者フリートマンとグラッドスタインによると,米国だけでも毎年およそ100万人の女性が流産や死産を経験しています。言うまでもなく,世界的な規模で見ると,この数字はずっと大きくなります。

      人は往々にして気づかないのですが,流産や死産は女性にとって悲劇であり,いつまでも,場合によっては生涯忘れられない思い出となります。例えば,ベロニカは現在50歳を過ぎた女性ですが,何度かの流産を覚えており,とりわけ9か月目まで生存し,体重6㌔にもなって死産した赤ちゃんのことを思い出します。彼女はその子が死んだまま2週間も胎内に宿していました。「死んだ赤子を産むというのは,母親にとって辛いことなのです」と彼女は語ります。

      これら失意した母親の心理的反応は,同じ女性からさえ必ずしも理解されません。流産で自らの子供を失ったある女性はこう書いています。「非常に苦しい方法で私が学んだのは,この事が自分の身に起きるまで,友人たちが耐えていた事柄について自分が全く知らなかった,という点です。人々は今の私に対して冷淡で無知だと感じるのですが,私自身がかつてはそのような立場の人たちに関してそうだったのです」。

      夫婦が抱き合って悲しんでいる。

      悲嘆する母親にとってもう一つの問題は,その子を失ったことに対して,夫が自分と同じように感じてくれないように思えることです。ひとりの妻はその点をこう言い表わしています。「私はそのとき自分の夫にたいへん失望しました。夫には,そもそも妊娠などなかったのです。私の味わっていた悲しみを夫は経験できなかったのです。私の不安にはとても同情してくれましたが,私の悲しみは分かってもらえませんでした」。

      このような反応は,夫としてはむしろ自然かもしれません。夫は,妻が妊娠を通して身体的また感情的に築き上げる胎児とのきずなを持たないのです。とはいえ,夫も喪失を忍ぶのです。ですから,夫と妻の双方が,たとえ感じ方に違いがあるとしても,やはり苦しみを共にしているのだ,という点を認めることが大切です。二人はそれぞれの悲しみを分かち合うべきです。夫の側がそれを表に現わさないでいると,妻のほうでは,自分の夫は無神経だと考えるかもしれません。ですから,涙を共にし,気持ちを分かち,抱擁をもって互いを包んでください。かつてなく互いを必要としている,ということを示してください。そうです,夫である人たち,感情移入をしてください。

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    • 乳児の突然死 ― その悲しみと闘う

      乳児の突然の死は言いようのない悲劇です。何の異常もなく健康そうに見えた赤ちゃんが,ある日,全く目を覚まさないのです。ほんとうに思いもよらないことです。乳児が,あるいは子供が,親より先に死ぬことをだれが予期するでしょうか。母親の限りない愛の中心となっていた赤ちゃんが,突如,果てしない悲しみの源となってしまうのです。

      罪の意識がわき起こってきます。何かの怠慢が原因であったかのように,親たちはその死に責任を感じてしまうのです。『どうすればこのようなことを避けられたのか』と自問します。b 夫の側が,何ら根拠があるわけではないのに,無意識にせよ,妻を責める場合もあります。自分が仕事に出たとき,子供はちゃんと生きており,元気だった。家に帰ってみたら,その子がもうベッドの上で死んでいた。妻は何をしていたのか。その時どこにいたのか。夫婦の生活に緊張のもとを作らないためにも,これらの煩もんをきちんとさせておかなければなりません。

      予見しなかった,いえ,予見しえなかった状況がその悲劇をもたらしたのです。聖書はこう述べています。「わたしは日の下で引き返して見たのであるが,速い者が競走を,あるいは力のある者が戦いを自分のものにするわけではない。また賢い者が食物を得るのでも,理解のある者が富を得るのでもなく,知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら,時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである」―伝道の書 9:11。

      赤ちゃんを亡くした家族がいる場合,他の人たちはどのように助けになれるでしょうか。子供を亡くしたことのあるひとりの母親はこう答えています。「ある友人は,私が何も言わなかったのに,訪ねて来て,家の掃除をしてくれました。別の人たちは私たちのために食事を作ってくれました。ある方はただ抱擁して支えてくださいました ― 何も言わずに,ただ抱擁だけです。私はその事について話したくありませんでした。起きた事について何度も繰り返し説明する気にならなかったのです。私が何かを怠っていたかのように問いただす質問は要りませんでした。私はその子の母親です。私の子供を助けるために,自分はどんなことでもしたのです」。

  • この悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか
    愛する家族を亡くしたとき
    • この悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか

      「私は自分の感情をこらえるのにかなりの重圧を感じました」。マイクは,父親が死んだ時のことを思い出してこのように語ります。マイクにとって,自分の悲しみを抑えるのは男らしいことでした。しかし後に,自分のこの考え方が正しくないことに気づきました。それで,マイクの友人が祖父を亡くした時には,自分がどのようにしたらよいかが分かっていました。こう語っています。「何年か前だったなら,肩をたたいて,『めそめそするなよ』と言っていたことでしょう。しかし今は,彼の腕を取ってこう言いました。『どのようにでも君の感じるままでいいんだよ。それが君の助けになるんだから。独りでいたいのなら,僕はどこかへ行くし,一緒にいて欲しいなら,僕はここにいる。感じるままでいることを恐れなくてもいいんだよ」。

      マリーアンも,夫を亡くしたとき,自分の感情をこらえることに難しさを覚えました。このように回想しています。「私は,他の人たちの良い手本にならなければいけないと考えて,自分の普通の感情を表わしませんでした。でも,他の人のために強い支えになろうとしてみても,自分の助けにはならないことをやがて知りました。私は自分の状況を分析してみて,『どうしても泣きたければ泣いたほうがよい。強がってはいけない。それを自分の体から出してしまいなさい』と言えるようになりました」。

      こうして,マイクもマリーアンも共に,悲しみがあるならそれを表わしなさい,と勧めています。これは間違いではありません。なぜ? なぜなら,悲しみを感じて表わすことは,感情を解きほぐすのに必要なことだからです。感情を解放することによって,重圧となっているものを除くことができます。感じていることをそのとおり自然に表現することは,それに正確で思いやりのある情報が伴っているなら,あなたの感情を正しい視点に置くのに役立つのです。

      もちろん,すべての人が自分の悲しみを同じ方法で示すわけではありません。そして,愛する人を急に亡くしたのか,あるいは長い闘病の後であったのかという点も,残された人の感情面の反応に関係することでしょう。とはいえ,一つのことは確かなようです。つまり,自分の感情を抑圧することは,体の面でも情緒の面でも有害です。自分の抱く悲しみの気持ちを解放するほうが,ずっと健康的なのです。どのように? 聖書はこの点で実際的な助言を差し伸べています。

      悲しみの気持ちを解放する ― どのように?

      話すことは感情の解放に役立ちます。古代の族長ヨブは,自分の10人の子供すべてに先立たれ,加えて他の幾つもの悲劇に遭遇したとき,このように言いました。「わたしの魂は自分の命に対して確かに嫌悪を感ずる。わたしは自分についての気遣いを漏らそう[ヘブライ語,「解き放とう」]。わたしは自分の魂の苦しみのうちにあって語ろう!」(ヨブ 1:2,18,19; 10:1)ヨブとしては,自分の気にかかっている事柄をもはや抑えておくことができませんでした。それを解き放つことが必要であり,『語らないでは』いられませんでした。同じように,英国の劇作家シェークスピアも「マクベス」の中にこう書いています。「悲しみには言葉を与えよ。黙せし悲嘆は,ふくらみすぎし心にささやきて,その破裂を命ぜん」。

      ですから,自分の感じている事柄を,辛抱づよく同情心をもって聴いてくれる「真の友」に話すのは,ある程度の安らぎとなります。(箴言 17:17)自分の経験や感情を言葉で言い表わしてみると,それを理解し,それと取り組むことが大抵の場合やさしくなります。そして,聴いてくれる人が,同じように肉親を亡くしたことがあり,死別の経験を乗り越えた人であれば,問題にどのように対処したらよいかについて何かの実際的な提案をくみ出すことができるでしょう。ひとりの母親は,自分の子供を亡くしたとき,同じように死別の悲しみを知る別の母親と話すことがどうして支えとなったかを,このように述べています。「ほかにも同じ経験をして,それから立ち直っている人がおり,その人がしっかり生きて,生活にそれなりの秩序を取り戻していることを知るのは,私にとってとても力になりました」。

      悲しんでいる女性が自分の気持ちを書き留めている。

      聖書の中の例は,自分の気持ちを書きとめてみることが悲しみの気持ちを表現する助けになる場合のあることを示している

      自分の感じていることを他の人に話したい気持ちにならないならどうでしょうか。サウルとヨナタンが死んだとき,ダビデは情感あふれる哀歌を詠んで,自分の悲しみの気持ちをそこに注ぎ出しました。その哀悼の詩はやがて聖書のサムエル記第二の書の一部として記録されました。(サムエル第二 1:17-27。歴代第二 35:25)これと同じように,自分の気持ちは文章のほうが表現しやすいと感じる人もいます。夫を亡くしたある人は,感じたことを書きしたため,自分の記したことを幾日ものちに読み返した,と話しています。これは,この人にとって気持ちを解きほぐす助けになりました。

      話すにせよ書くにせよ,自分の感情を何かの形で伝えることは,悲しみを解きほぐす助けになります。それはまた,何か誤解している点を整理するのにも役立ちます。子供を亡くしたある母親はこのように話しています。「夫と私は,子供を亡くしたあとに離婚してしまった人たちのいることを聞き,そのような事が自分たちに起きないようにと願いました。それで,何かの怒りを感じて相手を責めたい気持ちになった時にはいつも,二人でその点をよく話し合いました。そのようにすることによって,私たちはむしろ互いに引き寄せられたと思います」。こうして,自分の感情を伝えることによって,たとえ同じ死を悼んでいる場合でも,人によって悲しみ方が違い,それぞれのペースと方法があるのだ,という点を理解できるようになるでしょう。

      もう一つ,悲しみを解きほぐすのに役立つのは,声を出して泣くことです。『泣き叫ぶのに時がある』と聖書は述べています。(伝道の書 3:1,4)自分の愛する人の死はまさにそのような時です。悲しみの涙を流すことは,それから癒えるための過程として必要なことのようです。

      ひとりの若い女性は,母親を亡くしたときに親しい友の一人がどのようにそれを乗り越える支えとなってくれたかを思い出してこう述べています。「友人はいつでも私の求めにこたえてそこにいてくれました。いっしょに泣き,話の相手となってくれました。私は自分の感情をありのままに表わすことができ,それが私にとって重要でした。きまりの悪い思いをせずに声を上げて泣くことができたのです」。(ローマ 12:15をご覧ください。)涙を見せることについて恥じらう必要もありません。すでに見たとおり,聖書の中には,イエス・キリストをはじめ,明らかに何らためらうことなく悲嘆の涙を人の前で流した信仰の男女の例がたくさんあります。―創世記 50:3。サムエル第二 1:11,12。ヨハネ 11:33,35。

      悲しむ人たちが他の人たちから慰められている。

      どんな文化においても,悲しむ人にとって慰めは貴重なもの

      しばらくは,自分の感情がどのようになるか予測もつかないようなことさえあるかもしれません。それほどの予告もなく涙があふれ出て来ることもあるでしょう。夫を亡くしたひとりの女性は,スーパーマーケットでの買い物(夫の生前によくいっしょに行なったこと)が自分に涙をもよおさせることがあるのを知りました。とりわけ,夫の好物であった食品につい手を伸ばしてしまったりしたときです。自分に寛容であってください。涙をこらえなければならないと感じなくてもよいのです。忘れないでください,それは悲しみの,自然で,必要な過程なのです。

      とがめの気持ちと取り組む

      さきにも述べたとおり,自分の愛する者との死別ののちに,罪の意識を感じる人がいます。この点は,忠信の人ヤコブが,自分の息子ヨセフは「たちの悪い野獣」に殺されたのだと信じ込まされた時に示した,激しい悲嘆の情を説明するものとなるかもしれません。息子たちの安否を確かめさせようとしてヨセフを遣わしたのはヤコブ自身でした。ですからヤコブとしては,『なぜ自分はヨセフを独りで出してしまったのか。なぜあの子を,野獣の群がる所に送ってしまったのか』と,自らを罪の意識で責めさいなんでいたことが考えられます。―創世記 37:33-35。

      あなたも,自分の側の何かの手落ちが,愛する人の死の一因となったと感じるようなことがあるかもしれません。実際であれ,想像上のことであれ,その種のとがめを意識するのも,こうした悲しみに対するごく普通の反応の一つであることを理解しておくのは役立ちます。ここでも,そのような感情を自分だけのものにしておくべき理由はありません。自分がどのようにとがめを感じているかを話すことが,大いに必要な安どの気持ちをもたらすことでしょう。

      しかしながら,どれほど人を愛しているとしても,わたしたち自身はその人の命を制御することはできず,「時と予見しえない出来事」がわたしたちの愛する人に臨むのを防ぐことはできません。(伝道の書 9:11)さらに,あなたの動機は悪いものではなかったはずです。例えば,医師にみせるのをもっと早くできなかったからといって,あなたとしては,自分の愛する人が病気になって死ぬことを意図したのでしょうか。もとよりそうではありません! では,その人の死を来たらせた責任が本当にあなたにあるのでしょうか。決してそうではありません。

      ひとりの母親は,娘を車の事故で亡くしましたが,その後,とがめの気持ちに対処することを学びました。こう説明しています。「自分が娘を行かせたことで責められるものを感じました。でも,そのような感じ方は賢くないと思うようになりました。娘を父親といっしょに使いに行かせたことそのものに間違ったことはありません。それはただ,一つのひどい事故だったのです」。

      『それでも,ああ言えば良かった,こうすれば良かったと思うことがあまりに多い』と言われるかもしれません。きっとそうでしょう。しかし,自分は完全な父親,母親,子供であった,と言える人がわたしたちの中にだれかいるのでしょうか。聖書は,「わたしたちはみな何度もつまずくのです。言葉の点でつまずかない人がいれば,それは完全な人で(す)」と述べて,大切な点を銘記させています。(ヤコブ 3:2。ローマ 5:12)ですから,自分が完全ではないという事実を受けとめてください。『もしああしていれば』とあれこれ考えてみても,状況は少しも変わらず,むしろ立ち直りを遅らせてしまうだけでしょう。

      自分の落ち度は想像ではなく実際のものだった,と信じるそれなりの理由があるとしましょう。その場合でも,罪の意識を和らげる点で最も重要な要素は何かを考えてください。それは,神からの許しです。聖書はこのような保証の言葉を与えています。「ヤハよ,あなたの見つめるものがとがであるなら,エホバよ,いったいだれが立ち得るでしょうか。あなたのもとには真の許しがあるからです」。(詩編 130:3,4)過去に戻って事態を変えるということはできません。しかし,過去の誤りについて神の許しを請うことはできます。その後はどうすればよいのでしょうか。神が,以前の過ちをぬぐい去ることを約束しておられるのであれば,あなたも自分を許すべきではないでしょうか。―箴言 28:13。ヨハネ第一 1:9。

      怒りの気持ちに対処する

      もしかしたら,医師や看護婦たち,友人たち,さらには今は亡き人に対してさえ,ある種の怒りのようなものも感じておられるでしょうか。これも,死別に対するごく普通の反応の一つであることを認めてください。あなたのその怒りの気持ちは,自分が受けた打撃の自然な反映なのかもしれません。ある著述家はこう書いています。「その怒りの気持ちに気づくこと,しかしそれにしたがって行動せず,ただ自分がそれを感じていることを知っているだけで,それが持つ破壊的な影響から逃れることができる」。

      自分のその怒りの気持ちを言い表わす,もしくは分かち合うことも助けになるかもしれません。どのように? もちろん,無制御に爆発させることによってではありません。聖書は,怒りの気持ちを長く宿しているのは危険であると警告しています。(箴言 14:29,30)しかし,思いやりのある友とそれについて語り合うことが慰めとなることでしょう。また,怒りの気持ちが生じるとき,精力的に体を動かすことが,感情を解きほぐすのに役だったと感じている人たちもいます。―エフェソス 4:25,26もご覧ください。

      自分の感じている事柄について正直で包み隠しのないのは大切なことですが,ここで少し注意しておくべき点もあります。自分の感情を表現することと,それを他の人にぶつけることには大きな違いがあります。自分の感じた怒りや失意について他の人を責める必要はありません。ですから,自分の感情について思いのままに語りつつも,人に敵対したりすることのないよう気をつけてください。(箴言 18:21)悲しみに対応してゆく点では,一つの非常に優れた助けがほかにあります。それについて次に取り上げましょう。

      神からの助け

      聖書はこう保証しています。「エホバは心の打ち砕かれた者たちの近くにおられ,霊の打ちひしがれた者たちを救ってくださる」。(詩編 34:18)そうです,神との関係が,他の何事にも勝って,愛する人の死に対応する助けとなるのです。どのようにでしょうか。ここまでに述べたすべての実際的な提案は,神の言葉である聖書に基づき,あるいはそれにかなったものなのです。これらの点を当てはめることは,耐えてゆくための助けとなることでしょう。

      さらに,祈りの価値を見落とさないでください。聖書はこう勧めています。「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる」。(詩編 55:22)同情心のある友に自分の感情について語りつくすことが助けとなるのであれば,「すべての慰めの神」に自分の心の中を注ぎ出すことは,はるかに大きな助けとなるはずではないでしょうか。―コリント第二 1:3。

      祈ることによって単に気持ちが軽くなるというのではありません。「祈りを聞かれる方」は,誠実に求めるご自分の僕たちに聖霊を与えることを約束しておられます。(詩編 65:2。ルカ 11:13)そして,神の聖霊つまり神の活動する力は,あなたが日一日と進んでゆくことができるよう,『普通を超えた力』を与えることができます。(コリント第二 4:7)忘れないでください,神は,ご自分の忠実な僕たちがどんな問題にぶつかろうとも,そのいずれにも耐え忍ぶことができるように助けることがおできになるのです。

      子供を死に奪われたひとりの女性は,その喪失に耐えてゆく上で,祈りの力が自分と自分の夫にとってどれほど支えとなったかを思い出して,こう語っています。「晩に家にいて,悲しみにただ押しつぶされそうになった時には,声を上げていっしょに祈りました。娘なしで何かをしなければならなかった最初の時,最初の会衆の集会に行ったとき,最初に大会に出席したとき,私たちは力ぞえを求めて祈ったものです。朝,目を覚まして,その現実が全くこらえがたいものに思えた時にも,助けてください,とエホバに祈りました。なぜか,自分独りで家に入ることは私にとって本当にやるせないものでした。それで,独りで家に帰った時にはいつも,ただエホバに祈りをささげて,なんとか平静さを保てるようにとお願いしました」。この忠実な婦人は,こうした祈りが間違いなく相違を来たしたことを確信しており,それは全く正しいことです。あなたも,たゆまぬ祈りにこたえ応じて,『一切の考えに勝る神の平和が,あなたの心と知力を守ってくださる』のを知ることでしょう。―フィリピ 4:6,7。ローマ 12:12。

      神が与えてくださる助けはまさしく相違を来たします。クリスチャンの使徒パウロは,神が「すべての患難においてわたしたちを慰めてくださり……わたしたちがどんな患難にある人たちをも慰めることができるようにしてくださる」と述べました。確かに,神の助けはその苦痛を除き去るわけではありません。しかし,それに耐えやすくすることができます。それは,あなたがもはや泣くことがないとか,自分の愛する者を忘れるとかいう意味ではありません。ですが,あなたは立ち直ることができます。そして,立ち直ることを通して,その経験は,同様の喪失に直面する他の人たちを助ける面で,あなたを,いっそう同情心に富む,思いやりのある人とすることでしょう。―コリント第二 1:4。

      考察すべき点

      • 悲しみがあるときそれを自然に表わすのはなぜ良いことですか

      • 悲しみの気持ちを解きほぐすにはどうしたらよいですか

      • とがめや怒りの気持ちと取り組む点で聖書はどのように助けになりますか

      • 愛する者との死別に耐えるのに,神との関係はどのように助けになりますか

      • 悲しみと取り組むためにどんな実際的な提案がありましたか

      幾つかの実際的な提案

      友人に頼りなさい: 他の人が何か助けになろうとしていて,自分が少しでもその援助を生かせるようなら,それを受け入れることをためらわないでください。それが,その人の気持ちの表わし方でもあることを察してください。ちょうど良い言葉が見つけられないでいるのかもしれません。―箴言 18:24。

      健康に気をつけなさい: 悲しみは,特にその初めのうちは,人を疲れさせます。あなたの体は,これまで以上に十分な休養と健康的な運動と適切な栄養を必要としています。定期的に家庭医の診断を受けるのもよいかもしれません。

      大きな決定は先に延ばしなさい: 家を売るか,仕事を変えるかなどの決定は,できるなら,しばらく時間を置いて,はっきり判断できるようになるまで待つことです。(箴言 21:5)夫に先立たれたひとりの婦人は,その死後幾日もしない時に主人の遺品の多くを人に分けてしまいましたが,後になって,自分にとって大事な思い出の品々も配ってしまったことに気づきました。

      自分に対して寛容でありなさい: 悲しみの気持ちは,人が普通に思うよりずっと長く続く場合があります。毎年その時期になると,今は亡き愛する人の思い出がよみがえって心がうずくこともあります。特別の写真,歌,ときには香りさえもが,涙をさそうこともあります。家族との死別に関するある科学的な研究は,悲嘆の過程を次のように説明しています。「遺族はひとつの感情から別の感情へと非常に速く劇的に揺れ動く。しばらくは,故人を思い出させる事物を避けようとする気持ちと,故人を意識的にしのぶ気持ちとが交錯することもある」。エホバの貴重な約束をいつも銘記しているようにしてください。―フィリピ 4:8,9。

      人の気持ちをくみ取りなさい: 他の人たちに対しても辛抱づよくありなさい。その人たちとしても,どことなく戸惑っているのです。どのように言ったらよいのか分からなくて,ぎこちなく場違いなことを言ってしまうこともあるのです。―コロサイ 3:12,13。

      悲しみを紛らそうとして薬やアルコールに頼ることには用心しなさい: 薬や酒類によって何らかの安らぎが得られたとしても,それはせいぜい一時的なものでしかありません。薬剤の服用は医師の監督のもとで行なうべきです。その場合でも,注意してください。中毒性の薬物がたくさんあります。加えてそれが,悲しみの過程を長引かせることさえあります。一病理学者はこう警告しています。「悲劇は耐え,忍び,やがて理性的に受け止めねばならないものであるが,薬剤でその[当人]を打ちのめして無理にそれを阻むと,その過程を長引かせたり歪めたりする結果にもなる」。永続する安らぎは,エホバの壮大な約束について黙想することから得られます。―詩編 1:2; 119:97。

      通常の日課に戻りなさい: 仕事に出かけ,買物に行き,その他の務めを果たすのに,初めのうちは自分を多少強いなければならないかもしれません。それでも,定めの日課をいつもどおりに追ってゆく営みが,あなたご自身にとって有益であることに気づかれることでしょう。クリスチャンの活動に忙しく携わってください。―コリント第一 15:58と比較してください。

      深い悲しみから抜け出ることを恐れてはいけない: 奇妙に聞こえるかもしれませんが,家族を亡くした人の中には,深い悲しみの状態から抜け出ることを恐れている人たちもいます。それによって,故人となった人への愛が薄れることになりはしないかと懸念するのです。決してそうではありません。悲痛な気持ちを去らせることによって,必ずやいつまでも残るであろう大切な思い出に道を明けることになるのです。―伝道の書 3:1,4。

      過度に心配してはならない: 『これから自分はどうなるのだろうか』と心配になることもあるでしょう。聖書は,一日一日と物事に取り組んでゆくようにと諭しています。「一日ごとに充実した生き方をしようとすることが私にとって本当に助けとなっています」と,夫を亡くしたひとりの女性は話しています。イエスは弟子たちに,「次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです」と言われました。―マタイ 6:25-34。

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