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  • このように感じるのは普通のことですか
  • 愛する家族を亡くしたとき
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  • 聖書の中の泣いた人々
  • 泣くべきか,泣くべきでないか
  • ある人たちはどんな反応をするか
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  • 「この悲しみを抱えてどうやって生きてゆけるだろう」
    目ざめよ! 1987
  • この悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか
    愛する家族を亡くしたとき
  • 乳児の突然死 ― その悲しみと闘う
    目ざめよ! 1988
  • どうすればこの悲しみに立ち向かえるだろうか
    目ざめよ! 1987
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愛する家族を亡くしたとき
亡 7–13ページ

このように感じるのは普通のことですか

身近な親族を亡くしたある男性はこう書いています。「英国に育った子供として,私は自分の感情を人前で表わしてはいけないと教えられていました。私が何かで痛がっていたとき,元軍人の父親が,きっとした口調で,『泣いてはいけない!』と言ったのを覚えています。私は,母親が私たち子供たちのだれか(4人いた)に口づけしたり抱擁したりしたことがあるかどうかを思い出せません。自分が父親の死に接したのは56歳の時でした。言いようのない喪失感を覚えました。それでも,初めのうち,私は泣くことができませんでした」。

文化の違いによりますが,人々が自分の感情をあらわに表現する土地もあります。喜んでいようと悲しんでいようと,他の人たちは,その人がどのような気持ちでいるのかすぐに分かります。他方,世界のある地域,ことに北ヨーロッパや英国の人々,とりわけその男性は,自分の感情を秘め,情感を抑え,苦境にあっても弱みを見せず,心の内を外に表わさないようにしつけられています。しかし,大切なだれかと死別したとき,自分の悲しみの気持ちを表わすのは何か間違っているでしょうか。聖書は何と述べていますか。

聖書の中の泣いた人々

聖書は東地中海地域のヘブライ人によって書き記されましたが,ヘブライ人は感情をよく表現する民族でした。聖書は,自分の悲嘆の気持ちを率直に表わした人たちの例を多く載せています。ダビデ王は殺害された息子アムノンの死を嘆き悲しみました。事実ダビデは,「非常に激しく泣いた」のです。(サムエル第二 13:28-39)ダビデは,王位を奪おうとした背信の息子アブサロムの死をさえ嘆きました。聖書はこう記述しています。「すると,王[ダビデ]は動揺して,門口の上の屋上の間に上って行って泣きだした。彼は歩きながら,このように言った。『我が子アブサロム,我が子,我が子アブサロムよ! ああ,わたしが,このわたしが,お前の代わりに死ねばよかったのに。アブサロム,我が子よ,我が子よ!』」(サムエル第二 18:33)ダビデは普通の父親ならだれもがするように悲しみました。そして,どれほど多くの親たちが,子供の代わりにむしろ自分が死ねばよかった,と感じてきたことでしょう。子供が親より先に死ぬというのはあまりに不自然なことに感じられるのです。

イエスは友人ラザロの死に対してどのように反応されたでしょうか。その墓に近づいて,涙を流されたのです。(ヨハネ 11:30-38)後に,マリア・マグダレネも,イエスの墳墓に近づきつつ泣きました。(ヨハネ 20:11-16)確かに,聖書の述べる復活の希望を理解しているクリスチャンは,死者の状態に関して聖書にはっきり根ざした信条を持たないある人々のように,悲しみに打ちひしがれてしまうことはありません。とはいえ,普通の感情を持つ人間として,真のクリスチャンも,復活の希望を抱いてはいても,だれにせよ愛する者の死を悼み,嘆き悲しむのです。―テサロニケ第一 4:13,14。

泣くべきか,泣くべきでないか

今日のわたしたちの反応はどうでしょうか。感情をはっきり示すのは難しい,あるいは,きまりが悪いでしょうか。カウンセラーたちは何を勧めていますか。それらの人々の現代の見解は,多くの場合,霊感による聖書の古代の知恵を繰り返しているにすぎません。自分の悲嘆を抑えるのではなく,それを表現すべきである,とそれらの人々は述べています。これは,ヨブ,ダビデ,エレミヤなど,古代の信仰の人々を思い出させます。それらの人々の表わした悲嘆の情は聖書の中に残されています。彼らは自分の感情を封じ込めたりはしませんでした。ですから,自分を孤立させてしまうのは賢明ではありません。(箴言 18:1)もちろん,哀悼の気持ちの表わし方は文化によって異なりますし,それぞれの土地で行き渡っている宗教信条によっても違ってきます。a

泣きたい気持ちになったらどうしたらよいでしょうか。泣くことは人間の性質の一部です。ラザロが死んだ時のことをもう一度思い起こしてください。その時イエスは「霊においてうめき……涙を流された」のです。(ヨハネ 11:33,35)こうしてイエスは,悲しみ悼むことが,愛する人の死に際して決して異常な反応ではないことを示されました。

嘆き悲しんでいる人たち

愛する者を亡くしたとき,悲しんだり泣いたりするのは正常なこと

この点は,小さな娘レイチェルをSIDS(乳児突然死症候群)で失った母親アンの場合によく示されています。アンの夫はこのように述べています。「不思議なことに,アンも私も,葬式では泣きませんでした。ほかのみんなが泣いていました」。しかし,これにこたえてアンはさらにこう述べました。「そうです,でも私は,わたしたちふたりのためにたっぷり泣きました。その悲しい出来事の数週間後,ようやく自分独りになって家にいたある日,私はこみ上げてくるものを抑えられませんでした。私は一日じゅう声を上げて泣きました。でも,それが助けになったと思います。それで気持ちが楽になりました。自分の子供の死を悲しまないではいられなかったのです。悲しんでいる人たちには泣かせてあげるべきだと本当に思います。『泣かないで』と声をかけるのがある意味で自然な反応のようですが,それは実際には助けになりません」。

ある人たちはどんな反応をするか

自分の愛する者の死のゆえに悲痛な心情になったとき,ある人はどんな反応をしたでしょうか。一例として,ファニータの場合を取り上げましょう。ファニータは赤子を亡くすことがどのような気持ちにならせるかを知っています。すでに5回も流産の経験があったからです。彼女はもう一度妊娠しました。そのため,車の事故で入院を余儀なくされた時,当然のことながら心配しました。2週間後に,時ならぬ陣痛が始まりました。しばらくして,小さな女の子バネサが産まれました。900㌘を少し超えるだけでした。「私はとても興奮しました。自分もついに母親になったのです!」とファニータは思い返しています。

しかし,彼女のこの幸福感は長く続きませんでした。その4日後,バネサは死にました。ファニータはこう回想しています。「私は非常にうつろなものを感じました。母親としての誉れは取り去られたのです。全く満たされない気持ちでした。家に戻ってバネサのために私たちが用意していた部屋に入り,その子のために自分が買っておいた小さな肌着を見るのは心の痛むものでした。その後の二,三か月のあいだ,私は娘の誕生の日のことを思い返していました。だれとも何のかかわりも持ちたくありませんでした」。

極端な反応でしょうか。他の人たちには理解しにくいかもしれません。しかし,ファニータのようにそれを実際に経験した人たちは,このような赤ちゃんの場合であっても,しばらく生活した人との死別の場合と同じ悲しみを味わったと語ります。生まれるずっと前から,その子は親たちから愛されていた,とその人々は話すことでしょう。母親とは特別のきずなができています。その赤子が死ぬとき,まぎれもなくひとりの人が失われたことを母親は感じるのです。そして,これこそ他の人々が理解すべき点です。

怒りやとがめの気持ちがどのように影響するか

別の母親は,自分の6歳の息子が先天的心臓疾患のために急死したことを伝えられたとき自分がどのように感じたかを話しています。「私は,感覚のまひ,信じられないという思い,とがめの気持ち,そして,あの子の病気の重さを悟らなかった夫と医師に対する怒りなど,一連の反応を経験しました」。

怒りの気持ちも悲嘆のひとつの兆候です。それが医師や看護婦たちへの怒りとなることもあります。死んでしまう前にもっと手をつくしてくれるべきだったと感じるのです。あるいは,間違ったことを言ったりしたりしているように思える友人や親族に対する怒りとなることもあります。どうして自分の健康をもっと大切にしなかったのかと,故人となった人に対し憤りを持つ人たちもいます。ステラはこのように回想しています。「私は,自分の夫に対して憤りを感じたのを覚えています。このようにならなくてもよかったのを知っていたからです。主人はかなりの病気だったのに,医者の警告を無視したのです」。そして,今は亡き人への憤りの気持ちは,あとに残された人にその死がもたらした重荷のためである場合もあります。

そうした怒りのために罪の意識を持ってしまう人もいます。つまり,怒りを抱いたということで自らをとがめることがあるのです。愛する者の死について自分を責める人たちもいます。「もっと早く医者に行かせていたなら」,「別の医者にみせていたなら」,あるいは「もっと健康に注意させていたなら,死ななかっただろうに」と考えるのです。

母親が子供を抱いていた時のことを思い出している。

子供の死は耐えがたい心の衝撃 ― 純粋な同情と感情移入がその親たちの助けとなる

この罪の意識がさらに進むこともあります。特に,愛する者を突然に,全く予期しない状況で亡くした場合です。今は亡き人に対してかつて怒ったり言い合ったりした時のことを思い出しはじめるのです。あるいは,その死んだ人のために自分のすべき事を全部してあげられなかったと悔やむこともあります。

多くの母親のこうして長く続く悲嘆の過程は,多くの専門家が述べている事柄の裏づけとなります。つまり,子供の死は親,とりわけ母親の生活に,いつまでも残るすきまを生じさせます。

配偶者を亡くしたとき

夫もしくは妻との死別もいやしがたい衝撃となります。とりわけ,二人が連れ添って活動的な人生を送ってきた場合にはそうです。それは,旅行,仕事,種々の楽しみ,相互の依存など,二人が共にしてきた生活スタイル全体の終わりを意味します。

ユニスは夫が心臓発作で急死した時のことをこう説明しています。「初めの1週間,私は感情的に無感覚になっていました。まるで自分の機能が停止してしまったかのようでした。物を味わうことも,においをかぐこともできませんでした。とはいえ,私の論理的感覚だけは別個に働いていました。CPRと投薬によって主人の病状を安定させる努力がなされていた間ずっとそのそばにいましたから,私はよくある拒否症状は経験しませんでした。それでも,強いざせつ感がありました。車が断がいから落ちて行くのを見ていながら,自分では何もできないでいるような気持ちでした」。

彼女は泣きましたか。「もちろん泣きました。特に,送られてきた何百通もの慰めのカードを読んでいた時です。一枚ごとに声を上げて泣きました。それは,その日の残りのひと時に立ち向かう助けになりました。でも,自分がどのような気持ちかと幾度尋ねられても,それは何の助けにもなりませんでした。どう見ても,私は惨めな気持ちでした」。

ユニスにとって,悲しみをこらえて生きる助けとなったものは何でしたか。彼女はこう語っています。「それと気づかず,無意識のうちに,自分のこれまでの生活を続けてゆこうと思い定めていました。それにしても,今なお辛く感じられるのは,日々の生活をあれほど愛した主人が,いま共にいてそれを楽しめないことを思うときです」。

『他の人の言うままになってはならない』

「告別 ― さようならをいつ,どのように」の著者たちはこう忠告しています。「他の人の言うままに行動したり感じたりしてはいけない。悲しみがどのような過程をたどるかは人それぞれに違う。あなたは悲しみすぎている,あるいはもっと悲しんでもよいと他の人たちは考え,その考えをあなたに知らせようとするだろう。そうした人たちを許してあげると共に,それを忘れてしまいなさい。他の人たちが,あるいは社会全体が作り上げた型に無理に自分を合わせようとすることによって,感情面での健康の回復のための自分の成長を妨げることになる」。

言うまでもなく,悲しみに対処する方法は人によって異なります。どんな人にとってもある一つの方法が他の方法より必ず優れている,と言おうとしているのではありません。しかし,沈滞した状態になり,悲嘆に暮れた人が現実の状況に自分を合わせることができなくなってしまうなら,そこには危険があります。その時には,同情心のある友人からの助けが必要でしょう。聖書は,「真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である」と述べています。ですから,助けを求めること,話すこと,そして,泣くこともためらわないでください。―箴言 17:17。

悲しみは死別に対する自然な反応であり,悲嘆していることが人の前であらわに示されるとしても悪いことではありません。しかし,答えの必要な質問がほかにもあります。『自分の悲しみにどうしたら耐えてゆけるでしょうか。とがめや怒りの気持ちを感じるのは普通のことですか。そのような反応にどう対処したらよいでしょうか。死別の悲しみを忍ぶのに何が役に立ちますか』。次の部分はこれらの問いに,また他の多くの問いに答えることでしょう。

a 例えば,ナイジェリアのヨルバ族の人々は,伝統的に魂の輪廻を信じています。そのため,母親が子供を亡くした場合,強い悲嘆が示されますが,それはほんのしばらくの間だけです。ヨルバ語の言い回しにあるとおり,「こぼれ出たのは水,ひょうたんが割れたわけではない」からです。ヨルバの人々によると,これは,水を運ぶひょうたんとも言うべき母親は,恐らく死んだ子供の輪廻として,別の子供を産むことができる,という意味です。エホバの証人は,聖書に全く裏づけのない誤りの教えである不滅の魂や輪廻の思想に基づく迷信的な伝統にはいっさい従いません。―伝道の書 9:5,10。エゼキエル 18:4,20。

考察すべき点

  • 悲しみの表わし方は背景となる文化によってどのように異なる場合がありますか

  • 悲しみを率直に表わした人として聖書の中にどんな例がありますか

  • 愛する人との死別に対してある人たちはどのように反応しましたか。同じ経験をお持ちなら,あなたはどのように対応されましたか

  • 配偶者の死はどのような意味で特別の経験となりますか

  • 悲しみはどのような過程をたどりますか。悲しむのは悪いことですか

  • 悲嘆の過程にはどんな面がありますか(9ページの囲み記事)

  • 乳児の突然死の場合,どんな特殊の状況が親たちに影響しますか(12ページの囲み記事)

  • 多くの母親は流産や死産からどんな影響を受けますか(10ページの囲み記事)

悲嘆の過程

「過程」といっても,悲しみに決まった日程やプログラムがあるわけではありません。悲しみのさまざまな反応はときに重なり合い,その長さにも個人差があります。ここに書き出したのはそのすべての例ではありません。これ以外の反応もあることでしょう。以下は,人がよく経験する悲嘆の症状の幾つかです。

初期の反応: 当初の精神的衝撃。信じられない気持ちになって,それを否定する。感情的に無感覚になる。とがめの気持ち。怒り。

強度の悲嘆は下記の症状を伴うことがある: 記憶の喪失と不眠。極度の疲労。気分の急な変化。判断や思考の誤り。泣き叫びたくなる気持ち。食欲の変化と,それによる体重の増減。体調異常の種々の兆候。無気力感。作業能力の低下。種々の幻覚 ― 死んだ人が触れたり,その声を聞いたり,姿を見たりしたという感覚。子供を亡くした場合,配偶者に対する不条理な憤まん。

安定期: 懐かしさの交じる悲しさ。故人についての楽しい思い出が多くなり,明るい冗談の伴うことさえある。

流産と死産 ― 母親の悲しみ

モナにはすでにほかの子供たちがいましたが,今度の子供の誕生も心待ちにしていました。産まれ出る前でさえ彼女が「一緒に遊び,話しかけ,夢にまで見た」子供だったのです。

母親と,まだ産まれ出ていない子供とのきずなの形成には強力なものがありました。彼女はこう続けます。「レイチェル・アンは,私のおなかの上の本を蹴り落とし,夜には私を寝かせてくれない子供でした。初めて小さく蹴ったころのことを今でも覚えています。そっと優しく小突くような感じでした。この娘が身を動かすたびに,私は深い愛情でいっぱいになりました。私はあの子のことをよく知り,痛がっているときも病気のときも分かるようになりました」。

モナはさらにこう語ります。「医師は私の言うことを信じようとせず,分かってくれた時には遅すぎました。医師は,心配しないでよいと言っていました。私は,娘が死んでしまうような気がしたのだと思います。娘は突然激しく向きを変え,翌日には死んでいました」。

モナの経験は決して類例のないものではありません。「胎児の死に耐えて」の著者フリートマンとグラッドスタインによると,米国だけでも毎年およそ100万人の女性が流産や死産を経験しています。言うまでもなく,世界的な規模で見ると,この数字はずっと大きくなります。

人は往々にして気づかないのですが,流産や死産は女性にとって悲劇であり,いつまでも,場合によっては生涯忘れられない思い出となります。例えば,ベロニカは現在50歳を過ぎた女性ですが,何度かの流産を覚えており,とりわけ9か月目まで生存し,体重6㌔にもなって死産した赤ちゃんのことを思い出します。彼女はその子が死んだまま2週間も胎内に宿していました。「死んだ赤子を産むというのは,母親にとって辛いことなのです」と彼女は語ります。

これら失意した母親の心理的反応は,同じ女性からさえ必ずしも理解されません。流産で自らの子供を失ったある女性はこう書いています。「非常に苦しい方法で私が学んだのは,この事が自分の身に起きるまで,友人たちが耐えていた事柄について自分が全く知らなかった,という点です。人々は今の私に対して冷淡で無知だと感じるのですが,私自身がかつてはそのような立場の人たちに関してそうだったのです」。

夫婦が抱き合って悲しんでいる。

悲嘆する母親にとってもう一つの問題は,その子を失ったことに対して,夫が自分と同じように感じてくれないように思えることです。ひとりの妻はその点をこう言い表わしています。「私はそのとき自分の夫にたいへん失望しました。夫には,そもそも妊娠などなかったのです。私の味わっていた悲しみを夫は経験できなかったのです。私の不安にはとても同情してくれましたが,私の悲しみは分かってもらえませんでした」。

このような反応は,夫としてはむしろ自然かもしれません。夫は,妻が妊娠を通して身体的また感情的に築き上げる胎児とのきずなを持たないのです。とはいえ,夫も喪失を忍ぶのです。ですから,夫と妻の双方が,たとえ感じ方に違いがあるとしても,やはり苦しみを共にしているのだ,という点を認めることが大切です。二人はそれぞれの悲しみを分かち合うべきです。夫の側がそれを表に現わさないでいると,妻のほうでは,自分の夫は無神経だと考えるかもしれません。ですから,涙を共にし,気持ちを分かち,抱擁をもって互いを包んでください。かつてなく互いを必要としている,ということを示してください。そうです,夫である人たち,感情移入をしてください。

乳児の突然死 ― その悲しみと闘う

乳児の突然の死は言いようのない悲劇です。何の異常もなく健康そうに見えた赤ちゃんが,ある日,全く目を覚まさないのです。ほんとうに思いもよらないことです。乳児が,あるいは子供が,親より先に死ぬことをだれが予期するでしょうか。母親の限りない愛の中心となっていた赤ちゃんが,突如,果てしない悲しみの源となってしまうのです。

罪の意識がわき起こってきます。何かの怠慢が原因であったかのように,親たちはその死に責任を感じてしまうのです。『どうすればこのようなことを避けられたのか』と自問します。b 夫の側が,何ら根拠があるわけではないのに,無意識にせよ,妻を責める場合もあります。自分が仕事に出たとき,子供はちゃんと生きており,元気だった。家に帰ってみたら,その子がもうベッドの上で死んでいた。妻は何をしていたのか。その時どこにいたのか。夫婦の生活に緊張のもとを作らないためにも,これらの煩もんをきちんとさせておかなければなりません。

予見しなかった,いえ,予見しえなかった状況がその悲劇をもたらしたのです。聖書はこう述べています。「わたしは日の下で引き返して見たのであるが,速い者が競走を,あるいは力のある者が戦いを自分のものにするわけではない。また賢い者が食物を得るのでも,理解のある者が富を得るのでもなく,知識のある者たちが恵みを得るのでもない。なぜなら,時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨むからである」―伝道の書 9:11。

赤ちゃんを亡くした家族がいる場合,他の人たちはどのように助けになれるでしょうか。子供を亡くしたことのあるひとりの母親はこう答えています。「ある友人は,私が何も言わなかったのに,訪ねて来て,家の掃除をしてくれました。別の人たちは私たちのために食事を作ってくれました。ある方はただ抱擁して支えてくださいました ― 何も言わずに,ただ抱擁だけです。私はその事について話したくありませんでした。起きた事について何度も繰り返し説明する気にならなかったのです。私が何かを怠っていたかのように問いただす質問は要りませんでした。私はその子の母親です。私の子供を助けるために,自分はどんなことでもしたのです」。

b 乳児突然死症候群(SIDS)は,通常,生後1か月から6か月の赤ちゃんに生じるもので,健康な赤ちゃんが何ら説明のつかない原因で突然死亡した場合に用いられる語です。赤ちゃんをあお向けまたは横向きに寝かせ,うつ伏せにならせないようにすれば,避けられる場合もあるとされていますが,寝かせる姿勢だけですべてのSIDSが防げるわけではありません。

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