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城門のなぞものみの塔 1988 | 8月15日
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ここでなぞはガリラヤの海の北方,古代ハツォルの遺丘<テル>すなわち塚に移ります。そこは1928年にジョン・ガースタング教授が発掘した場所です。1955年にイスラエル人の考古学者イーゲル・ヤディンは,その大きな遺丘を調査しました。ヤディンは,「これはソロモン王がエホバの家と,……エルサレムの城壁,ハツォルとメギドとゲゼルとを建てるために徴募した,強制労働に徴用された者たちについてのいきさつである」という聖書の言葉を念頭に置いていました。(列王第一 9:15)ソロモンの技師たちが自分たちの再建した他の都市における同様の要塞を築くに際して,一つの基本計画に従ったと考えるのは筋が通っているように思えました。ソロモンの造らせたそのような城門がハツォルにあったでしょうか。
ヤディンのもとで働く人たちは,発掘を進めていた時に,ケースメート城壁,つまり中に幾つかの部屋のある二重の城壁を見つけました。次に,その城壁に連結されている大きな構築物が姿を現わし始めました。ヤディンはこう述べています。「我々は城門を発見したことにすぐに気づいた。……さらに,その城門の設計 ― 六つの部屋と二つの塔から成る ― と寸法は,[何年も]前にメギドで発見された城門の造りと全く同じであることが,間もなく明らかになった。……我々の宿営内に興奮がみなぎった。……我々はメギドの城門の設計図を地面に描き,角と城壁を示すために杭でしるしを付け,『ここには城壁がある』,『そこには部屋がある』という予想を述べ,作業員たちにそのしるしに従って掘るよう指示を与えた。我々の“預言”の正しさが証明された時,我々の威信は大いに高まった。……我々が[作業員たちに],ハツォル,メギド,ゲゼルにおけるソロモンの働きについて聖句から読んで聞かせると,我々の威信は急に低下したが,聖書の威信は一挙に高まった」―「ハツォル: 聖書の大要塞の再発見」。
城門のなぞは,聖書中の手掛かりによって予想されたとおり正確に解明されているかに思われました。しかし,南のゲゼルについてはどうでしょうか。アイルランド人の考古学者,R・A・S・マカリスターが1902年から1909年の間にそこを発掘した時には,ソロモンの業とされるものは何も見つからなかったことを,ヤディンは知っていました。ヤディンでさえ,それを「ゲゼルのなぞ」と呼びましたが,重要な手掛かりが見すごされていたのでしょうか。
ヤディンはこう語っています。「ハツォルで発見されたものと,列王記第一の有名な一節について考えた私は,城門を発見できるのではないかという期待を抱き,改めてマカリスターの報告書を調べてみることにした。『ゲゼルのマカベア時代の城の設計図』という標題の……配置図が偶然に見つかった時の……私の驚きと抑えがたい興奮は,だれでも容易に察しがつくであろう」。マカリスターはその「城」の遺跡を,ユダヤ人のマカベア家の反乱の時(西暦前2世紀)のものとしたのです。しかしヤディンは,古いその図面の中に,『中空になった城壁,外の番小屋,そして都市の門の片側とおぼしき一層重要なもの,まさにメギドとハツォルで発見されたのと同じようなもの』を見て取れると考えました。ヤディンはそれらの手掛かりに関する論文を発表しました。後に,ウィリアム・G・デバー博士はゲゼルで発掘調査を行ないました。結果はどうだったでしょうか。デバーは,「ゲゼルを再建したのはソロモンにほかならない」と,興奮した調子で書きました。あるいは,ヤディンの表現によれば,「果たせるかな,デバーの研究班が城門の残り半分を見つけたことだけではない。層位学や陶器からも,その建物群はソロモンの時代に建設されたものであることが疑問の余地なく証明された」。
そのようなわけで,なぞは解明されました。ヤディンは「聖書考古学者」という本(第33巻,1970年,3?)の中で次のように述べました。「同一の設計図に基づく三つの都市のソロモンの要塞は,列王記の短い聖句の助けによって,場所と年代が突き止められた」。
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城門のなぞものみの塔 1988 | 8月15日
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[25ページの図版]
考古学者たちは,列王第一 9章15節に基づいて,メギドの城門と大きさや形の同じ城門をハツォルで発見した
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