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信仰の欠如に気をつけなさいものみの塔 1998 | 7月15日
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信仰の欠如に気をつけなさい
「兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい」― ヘブライ 3:12。
1 ヘブライ人のクリスチャンに対するパウロの言葉は,どんな衝撃的な現実に注意を喚起していますか。
エホバとの個人的な関係を享受していた人が,「邪悪な心」を育て,「生ける神から離れ(る)」とは,考えるだけでも恐ろしいことです。しかし,これは何と強烈な警告でしょう。使徒パウロのこの言葉は,不信者にではなく,イエス・キリストの贖いの犠牲に対する信仰に基づいて自分の命をエホバに献げていた人々に語りかけられたものなのです。
2 どんな質問を考慮する必要がありますか。
2 そのような祝福された霊的な状態にある人が,「信仰の欠けた邪悪な心」を育てることなど,どうしてあり得るのでしょうか。実際,神の愛と過分のご親切を味わっておきながら,故意に神から離れるなどということが,どうしてあり得るのでしょうか。このことはわたしたちのだれにでも生じ得るのでしょうか。考えただけでも身が引き締まります。是非とも,この警告が発せられた理由を調べてみなければなりません。―コリント第一 10:11。
そのような強い助言が与えられたのはなぜか
3 1世紀のエルサレム内外のクリスチャンに影響を与えていた状況について説明してください。
3 パウロは西暦61年に,ユダヤにいたヘブライ人のクリスチャンにあてて手紙を書いたようです。ある歴史家によると,当時は「エルサレムの都でも,ユダヤ州全域の他のどこでも,まじめで正直な人々にとって平和も安全もない」時代でした。圧制的なローマ軍の駐留や,反ローマのユダヤ人熱心党の虚勢や,混沌とした時勢に乗じた盗賊たちの犯罪活動などが錯綜して,不法と暴虐が助長された時代でした。そうしたことすべてのために,そのような問題に巻き込まれないよう懸命に努力していたクリスチャンにとって,物事は非常に難しくなりました。(テモテ第一 2:1,2)事実,その中立の立場ゆえに,一部の人々からは,社会に適応しない者,さらには治安をかき乱す者とみなされました。クリスチャンはしばしば虐待され,身体上の害を被りました。―ヘブライ 10:32-34。
4 ヘブライ人のクリスチャンは,宗教的性質を帯びたどんな圧力にさらされましたか。
4 ヘブライ人のクリスチャンは,宗教的性質を帯びた強い圧力も受けていました。イエスの忠実な弟子たちの熱心さや,その結果としてのクリスチャン会衆の急速な拡大は,ユダヤ人 ― とりわけ,その宗教指導者 ― のねたみと憤りを引き起こしました。それら指導者は,イエス・キリストの追随者たちを苦しめたり迫害したりするためなら何でもしました。a (使徒 6:8-14; 21:27-30; 23:12,13; 24:1-9)一部のクリスチャンは,たとえ露骨な迫害は免れたとしても,やはりユダヤ人から侮べつされ,あざけられました。キリスト教は,神殿,祭司職,祭り,規定に従った犠牲など何もなく,ユダヤ教の持つ光輝を欠いた新興宗教としてさげすまれました。その指導者であるイエスでさえ,有罪を宣告された犯罪者として死刑にされたのです。クリスチャンには,自分の宗教を実践するために,信仰,勇気,忍耐力がなければなりませんでした。
5 ユダヤのクリスチャンにとって霊的に目ざとくあることが肝要だったのはなぜですか。
5 とりわけ,ユダヤにいたヘブライ人のクリスチャンは,その国民の歴史上極めて重大な時代に生きていました。自分たちの主であるイエス・キリストが,ユダヤ人の事物の体制の終わりをしるしづけるものとなると言われた多くの事柄が,すでに起きていました。終わりは遠い先のことではないはずです。クリスチャンは生き残るために,霊的に目ざとくあって,いつでもすぐ「山に逃げ」られるようにしていなければなりませんでした。(マタイ 24:6,15,16)彼らには,イエスが命じておられたとおり直ちに行動を起こすための,信仰と霊的持久力があるでしょうか。幾らか疑問があったようです。
6 ユダヤのクリスチャンには緊急に何が必要でしたか。
6 ユダヤ人の事物の体制全体が崩壊する前の最後の10年間,ヘブライ人のクリスチャンが会衆内外から厳しい圧力を受けていたことは明らかです。彼らには励ましが必要でした。しかしまた,自分の選んだ道が正しい道であることや,それまでの苦しみや忍耐が無駄ではないことを彼らに理解させるための助言や導きも必要でした。幸い,パウロが臨機応変に行動し,助けを差し伸べました。
7 パウロがヘブライ人のクリスチャンにあてて書いた事柄に,わたしたちはなぜ関心を持つはずですか。
7 パウロがヘブライ人のクリスチャンにあてて書いた事柄は,わたしたちにとって大いに関心のある事柄であるはずです。なぜでしょうか。なぜなら,わたしたちは当時とよく似た時代に生きているからです。わたしたちは毎日,サタンの支配下にあるこの世からの様々な圧力を感じます。(ヨハネ第一 5:19)わたしたちの眼前で,終わりの日や「事物の体制の終結」に関するイエスと使徒たちの預言が成就しています。(マタイ 24:3-14。テモテ第二 3:1-5。ペテロ第二 3:3,4。啓示 6:1-8)とりわけ,「起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ(る)ことができるよう」霊的に目ざとい状態でいなければなりません。―ルカ 21:36。
モーセより偉大な方
8 パウロは,ヘブライ 3章1節に記された事柄を述べることにより,仲間のクリスチャンに,何をするよう勧めていましたか。
8 パウロは肝要な点に触れ,「わたしたちが信仰を告白する使徒また大祭司,イエスを思い見なさい」と書きました。(ヘブライ 3:1)ここで『思い見る』とは,「はっきり認める……,十分に理解する,綿密に考える」という意味です。(「バインの旧新約聖書用語解説辞典」)ですから,パウロは仲間の信者たちに,彼らの信仰と救いにおけるイエスの果たす役割を本当に認識するために真剣に努力するよう勧めていたのです。真剣に努力すれば,信仰のうちにしっかり立とうという決意は強まるはずです。では,イエスの役割はどのようなものでしたか。イエスを『思い見る』べきなのはなぜですか。
9 パウロがイエスを「使徒」また「大祭司」と呼んだのはなぜですか。
9 パウロは「使徒」また「大祭司」という語をイエスに適用しました。「使徒」とは遣わされた者のことであり,ここでは人類に意思を伝えるための神の手段と関連があります。「大祭司」は人間が神に近づくための経路となる人です。これら二つの備えは真の崇拝に不可欠であり,イエスはその両方の役を実際に果たす方です。人類に神についての真理を教えるために天から遣わされた方なのです。(ヨハネ 1:18; 3:16; 14:6)イエスはまた,罪の許しのためのエホバの霊的神殿の取り決めにおける対型的な大祭司として任命された方でもあります。(ヘブライ 4:14,15。ヨハネ第一 2:1,2)わたしたちは,イエスを通して得られる祝福のすばらしさを本当に認識しているなら,信仰のうちにしっかりとどまる勇気と決意を抱くことでしょう。
10 (イ)パウロは,ユダヤ教よりキリスト教のほうが勝っていることを認識するようヘブライ人のクリスチャンたちをどのように助けましたか。(ロ)論点を補強するためにパウロはどんな普遍的真理を引き合いに出しましたか。
10 パウロは,クリスチャン信仰の価値を強調するために,イエスを,ユダヤ人が先祖の中で最大の預言者とみなしていたモーセと比較しました。ヘブライ人のクリスチャンにとって,モーセよりイエスのほうが偉大であることを心底から理解できたのであれば,ユダヤ教よりキリスト教のほうが勝っていることを疑う理由はありませんでした。パウロの指摘したとおり,モーセは神の「家」― イスラエル国民もしくは会衆 ― を託されるにふさわしい者とみなされましたが,忠実な従者もしくは僕にすぎませんでした。(民数記 12:7)一方イエスは,子,すなわちその家の上に立つ主人でした。(コリント第一 11:3。ヘブライ 3:2,3,5)論点を補強するためにパウロは,このような普遍的真理を引き合いに出しました。「言うまでもなく,家はすべてだれかによって造られるのであり,すべてのものを造られたのは神です」。(ヘブライ 3:4)だれよりも神が偉大である,ということにはだれも異議を唱えないでしょう。神はすべてのものの建築者,つまり創造者だからです。それで論理的に言って,イエスは神の同労者だったのですから,モーセを含め他のどんな創造物よりも偉大な方であるはずです。―箴言 8:30。コロサイ 1:15-17。
11,12 パウロはヘブライ人のクリスチャンに何を「終わりまでしっかりと」保つよう勧めましたか。わたしたちはその助言をどのように適用できますか。
11 実際,ヘブライ人のクリスチャンは非常に恵まれた立場にありました。パウロは,彼らが「天の召しにあずかる人たち」であることを思い起こさせました。その召しは,ユダヤ人の体制が差し伸べたどんなものよりも尊ばれるべき特権です。(ヘブライ 3:1)パウロの言葉は,それら油そそがれたクリスチャンに,自分たちがユダヤ人の遺産に関連した事柄を捨てたことを悔やむよりもむしろ,新たな相続物を受け継ぐ見込みがあることに感謝する気持ちを抱かせたに違いありません。(フィリピ 3:8)パウロは彼らに,その特権を当たり前のものとみなさず,しっかりとらえるよう勧め,こう言いました。「キリストは[神]の家の上に立つ子として忠実でした。はばかりのないことばと希望にかかわる誇りとを終わりまでしっかりと堅く保つなら,わたしたちはその方の家となるのです」― ヘブライ 3:6。
12 そうです,ヘブライ人のクリスチャンは,差し迫ったユダヤ人の事物の体制の終結を生き残りたいなら,神から与えられた希望を「終わりまでしっかりと」保つ必要がありました。わたしたちも今日,この体制の終わりを生き残りたいのであれば,同じようにしなければなりません。(マタイ 24:13)生活上の思い煩いや,人々の無関心,あるいは自分自身の不完全な傾向のために,神の約束に対する信仰が揺らぐなどということがあってはなりません。(ルカ 21:16-19)どうすれば自分自身を強化できるかを知るために,パウロがさらに述べている言葉に注意を払いましょう。
「心をかたくなにしてはならない」
13 パウロはどんな警告を与えましたか。そして,詩編 95編をどのように適用しましたか。
13 ヘブライ人のクリスチャンの恵まれた立場について考察した後,パウロはこのような警告を与えました。「今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように,荒野で試した日のように心をかたくなにしてはならない」。(ヘブライ 3:7,8)パウロは詩編 95編から引用していたので,「聖霊が述べ(てい)る」と言うことができました。b (詩編 95:7,8。出エジプト記 17:1-7)聖書は神の聖霊によって霊感を受けたものなのです。―テモテ第二 3:16。
14 イスラエル人はエホバがしてくださった事柄に対してどのように応じましたか。それはなぜですか。
14 イスラエル人はエジプトでの奴隷状態から自由にされた後,エホバとの契約関係に入るという大きな誉れを与えられました。(出エジプト記 19:4,5; 24:7,8)ところが彼らは,神がしてくださった事柄に感謝を示すどころか,すぐに反逆の行動をしました。(民数記 13:25–14:10)どうしてそんなことが起きたのでしょうか。パウロはその理由を指摘しました。彼らの心がかたくなになったからです。しかし,神の言葉に敏感で良い反応を示す心がどうしてかたくなになるのでしょうか。そうしたことを防ぐために何をしなければならないでしょうか。
15 (イ)昔も今も『神の声』はどのように人に伝えられていますか。(ロ)『神の声』に関してどんなことを自問する必要がありますか。
15 パウロはその警告の始めに,「もしこの方の声を聴いたら」という条件文を付しました。神はモーセや他の預言者たちを通してご自分の民に話しかけられました。その後エホバは,み子イエス・キリストを通して話されました。(ヘブライ 1:1,2)今日わたしたちには,完全にそろった神の霊感による言葉,聖書があります。また,「時に応じて」霊的「食物」を与えさせるためにイエスが任命した「忠実で思慮深い奴隷」もいます。(マタイ 24:45-47)ですから,神は今でも話しておられます。では,わたしたちは聴いているでしょうか。例えば,服装や身繕い,あるいは娯楽や音楽の選択についての助言にどのようにこたえ応じているでしょうか。言われている事柄を『聴いて』,つまりそれに注意を払い,従っているでしょうか。もし助言に対して言い訳をしたり,異議を唱えたりする習慣があるなら,心をかたくなにする油断のならない危険に身をさらしていることになります。
16 わたしたちの心はどういう場合にかたくなになり得ますか。
16 わたしたちの心は,もしわたしたちができる事やすべき事を言い訳して拒むなら,やはりかたくなになり得ます。(ヤコブ 4:17)イスラエル人は,エホバがしてくださった事柄すべてを知りながら,信仰を働かせず,モーセに逆らい,カナンについての良くない報告を信じ,約束の地に入ることを拒みました。(民数記 14:1-4)そのためエホバは,彼らが荒野で40年 ― つまり,その世代の不信仰な者たちが死に絶えるのに要する期間 ― を過ごすことになる,と布告されました。神は彼らに嫌悪を覚え,こう言われました。「『彼らの心は常に迷い,彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった』。それでわたしは怒りのうちに誓った,『彼らにはわたしの休みに入らせない』と」。(ヘブライ 3:9-11)ここにわたしたちに対する教訓のあることが分かるでしょうか。
わたしたちに対する教訓
17 イスラエル人はエホバの力ある業を見,神の宣言を聞いたにもかかわらず,信仰がなかったのはなぜですか。
17 エジプトから出て来たイスラエル人の世代は,エホバの力ある業や宣言を,自分の目で見,自分の耳で聞きました。それでも,神が自分たちを無事に約束の地に導き入れてくださるという信仰を持っていませんでした。なぜでしょうか。「彼ら自身はわたしの道を知るに至らなかった」と,エホバは言われました。彼らはエホバが言われ,行なわれた事柄を知ってはいましたが,自分たちを顧みてくださる神の能力に確信や信頼を培っていませんでした。自分の個人的な必要や欲求にかまけて,神の道や目的についてはほとんど考えませんでした。そうです,神の約束に対する信仰がなかったのです。
18 パウロによれば,どんな行動を取ると「信仰の欠けた邪悪な心」が育つことになりますか。
18 ヘブライ人にあててさらに述べられた言葉はわたしたちにも同じように当てはまります。「兄弟たち,あなた方のうちのだれも,生ける神から離れて,信仰の欠けた邪悪な心を育てることがないように気をつけなさい」。(ヘブライ 3:12)パウロは,「生ける神から離れ(た)」結果が「信仰の欠けた邪悪な心」であることを指摘して,問題の核心を突いています。この手紙の前の方では,注意を払わないために『流される』ということを述べています。(ヘブライ 2:1)しかし,『離れる』と訳されているギリシャ語は,「離れて立つ」を意味し,「背教」という語と関連があります。それは,侮べつの響きを伴う故意の意識的な抵抗,脱退,離脱を表わします。
19 助言を聴かないでいると,どのように重大な結果になるかもしれませんか。例を挙げて説明してください。
19 したがって,教訓は,もし「この方の声を聴(か)」ないなら,つまりエホバがみ言葉や忠実な奴隷級を通して与えてくださる助言をいつも無視するようになるなら,ほどなくして心は無感覚になり,かたくなになる,ということです。例えば,未婚の男女が少し親密になりすぎるという場合があります。二人が問題を無視してしまうなら,どうでしょうか。自分たちのしたことを繰り返さないよう守られるでしょうか,それとも,また同じことをしやすくなるだけでしょうか。同様に,奴隷級が,音楽や娯楽などをよく選ぶ必要があることについて助言を述べるとき,わたしたちはそれを感謝して受け入れ,必要なら調整するでしょうか。パウロは,「集まり合うことをやめたり(しない)」よう勧めました。(ヘブライ 10:24,25)そう助言されているにもかかわらず,一部の人はクリスチャンの集会に対して無頓着な見方をします。集会を何回か休んでも,さらには特定の集会には全く出席しなくてもかまわない,と考えるかもしれません。
20 聖書的な助言に積極的にこたえ応じることが肝要なのはなぜですか。
20 聖書や聖書に基づいた出版物中にはっきり表明されているエホバの「声」に積極的にこたえ応じていない場合,「生ける神から離れて」いる自分にすぐ気づくでしょう。助言を無視する消極的な態度は,容易に助言を軽視し,批判し,それに積極的に抵抗する態度になり得ます。もし正さないでいるなら,「信仰の欠けた邪悪な心」が育つ結果になり,そのような道から立ち返ることは,大抵の場合,非常に困難です。(エフェソス 4:19と比較してください。)いみじくもエレミヤはこう書いています。「心はほかの何物にも勝って不実であり,必死になる。だれがこれを知りえようか」。(エレミヤ 17:9)それゆえにパウロは,仲間のヘブライ人の信者たちにこう勧めました。「『今日』ととなえられる限り日ごとに勧め合い,あなた方のだれも,人を欺く罪の力のためにかたくなになることのないようにしなさい」― ヘブライ 3:13。
21 わたしたちすべては何をするよう勧められていますか。わたしたちにはどんな見込みがありますか。
21 エホバがみ言葉とご自分の組織を通して今日なお語りかけてくださっているとは,何とうれしいことでしょう。わたしたちは「初めに抱いた確信を終わりまでしっかりと堅く保(つ)」よう「忠実で思慮深い奴隷」が引き続き助けてくれることに感謝しています。(ヘブライ 3:14)わたしたちにとって今は,神の愛と導きにこたえ応じるべき時です。そうするとき,わたしたちはエホバのもう一つのすばらしい約束 ― 神の休みに『入る』という約束 ― の成就にあずかれるのです。(ヘブライ 4:3,10)これはパウロがこの後でヘブライ人のクリスチャンと論じた点であり,わたしたちが次の記事で考察する点でもあります。
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あなたは神の休みに入っていますかものみの塔 1998 | 7月15日
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あなたは神の休みに入っていますか
「神の休みに入った人は,……その人も自分の業を休んでいる」― ヘブライ 4:10。
1 休息が非常に望ましいのはなぜですか。
休息。何と快い,うれしい言葉でしょう。今日のせかせかした忙しい世の中で生活していれば大抵だれでも,少し休息を取れるなら大変ありがたいということを認めます。わたしたちは若いか年老いているか,結婚しているか独身かにかかわらず,日々の生活に追われて疲れ果てたと感じることがあります。体の具合の良くない人や疾患を抱えている人にとっては,一日一日が難儀なものとなります。聖書が述べるとおり,「創造物すべては今に至るまで共にうめき,共に苦痛を抱いている」のです。(ローマ 8:22)休息している人は必ずしも怠けているわけではありません。休息は人間に必要なものであり,その必要は満たされねばなりません。
2 エホバはいつから休んでおられますか。
2 エホバ神ご自身,休息しておられます。創世記にはこう述べられています。「天と地およびその全軍は完成した。そして,七日目までに神はその行なわれた業を完了し,次いで七日目に,行なわれたすべての業を休まれた」。エホバはその「七日目」に特別な意義を付されました。霊感による記録は,続いてこう述べているからです。「それから神は七日目を祝福してそれを神聖にされた」。―創世記 2:1-3。
神はご自分の業を休まれた
3 神はどんな理由で休まれたのではありませんか。
3 神はなぜ「七日目」に休まれたのでしょうか。もちろん,疲れたからというわけではありません。エホバは「満ちあふれる活動力」を有しておられ,「疲れ果てることも,うみ疲れることもない」のです。(イザヤ 40:26,28)また,神が休まれたのは,息抜きや気分転換が必要だったからでもありません。イエスは,「わたしの父はずっと今まで働いてこられました。ですからわたしも働きつづけるのです」と言われました。(ヨハネ 5:17)ともかく,「神は霊であられ」,物質の被造物に特有の身体的な周期や必要に縛られることはないのです。―ヨハネ 4:24。
4 「七日目」はそれに先立つ『六日間』とどのように異なっていましたか。
4 ではどうすれば,神が「七日目」に休まれた理由を幾らかでも洞察できるでしょうか。次の点に注目することです。神はそれに先立つ長大な期間である創造の『六日間』に成し遂げた事柄を大変喜ばれましたが,特別に「七日目」を祝福し,それを『神聖な』日と宣言された,という点です。コンサイス・オックスフォード辞典は「神聖な」という言葉を,「専ら(一つの神,または何らかの宗教的な目的に)献げられた,もしくは充てられた」と定義しています。したがって,エホバが「七日目」を祝福して『神聖な』日と宣言されたことは,その日と神の『休み』が,神の側の何らかの必要というよりも,神の神聖な意志や目的と関連があるに違いない,ということを示唆しています。どのように関連しているのでしょうか。
5 神は創造の初めの『六日間』に何を始動させましたか。
5 それに先立つ創造の『六日間』に神は,地球とそれを取り巻くすべての物の営みを制御する循環や法則すべてを定め,始動させました。科学者たちは目下,それらの仕組みがどれほど驚嘆すべきものかを学んでいます。「六日目」の終わりごろ,神は最初の人間男女を創造し,二人を「エデン(の),その東のほう(の)園」に置きました。そして最後に,人間家族と地に関するご自分の目的を次の預言的な言葉で宣言されました。「子を生んで多くなり,地に満ちて,それを従わせよ。そして,海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。―創世記 1:28,31; 2:8。
6 (イ)「六日目」の終わりに神は,それまでに創造したすべてのものについてどうお感じになりましたか。(ロ)「七日目」はどんな意味で神聖ですか。
6 創造の「六日目」が終わった時,記述によると,「神は自分の造ったすべてのものをご覧になったが,見よ,それは非常に良かった」とあります。(創世記 1:31)神はご自分の造ったすべてのものに満足されました。それで,地球に関しては創造の業をそれ以上行なうことを休まれた,つまりやめられたのです。しかし,その時のパラダイスの園は,完全で美しかったとはいえ,小規模な地域にすぎず,地上には被造物である人間が二人しかいませんでした。地と人間家族が神の意図された状態になるまでには時間がかかります。そのために神は「七日目」を定め,それに先立つ『六日間』に創造したすべてのものがこの期間にご自分の神聖な意志にそって発展するようにされました。(エフェソス 1:11と比較してください。)「七日目」が終わる時,地は完全な人間から成る一つの家族がとこしえに住まう世界的パラダイスとなっているのです。(イザヤ 45:18)「七日目」は,地と人類に関する神のご意志が遂行され,成し遂げられる日として取り分けられて,つまり献げられています。その意味で,この日は「神聖」なのです。
7 (イ)神はどんな意味で「七日目」に休まれましたか。(ロ)「七日目」が終わる時までにすべてのものはどのようになりますか。
7 そのようなわけで,神は「七日目」に創造の業を休まれました。それはあたかも,身を引いて,ご自分の始動させたものが進展してゆくままにされたかのようです。神は,「七日目」の終わりまでにはすべてのものがまさにご自分の意図したとおりになっている,という全き確信を持っておられます。たとえ邪魔があったとしても,それは克服されています。従順な人類すべては,神のご意志が完全に実現する時,益を受けることになります。何ものもこれを妨げることはできません。神の祝福が「七日目」の上にあり,神はその日を「神聖」にされたからです。従順な人類にとって,何と輝かしい見込みでしょう。
イスラエルは神の休みに入り損なった
8 イスラエル人はいつ,どのようにして安息日を守るようになりましたか。
8 イスラエル国民は,仕事と休息に関するエホバの取り決めから益を受けました。神はシナイ山でイスラエル人に律法を与える前から,モーセを通してこう告げておられました。「エホバがあなた方に安息日を与えたことに注目せよ。そのゆえに六日目には二日分のパンを与えているのである。各々自分の所に座しているように。七日目にはだれも自分の場所から出てはいけない」。それで「民は七日目に安息を守ることにな(り)」ました。―出エジプト記 16:22-30。
9 安息日の律法はなぜイスラエル人にとって歓迎すべき変化であったと考えられますか。
9 この取り決めは,エジプトでの奴隷状態から救出されたばかりのイスラエル人にとって初めてのものでした。エジプト人や他の国民は五日ないし十日の周期で時を計っていましたが,奴隷のイスラエル人が休息の日を持つことを許されたとは考えられません。(出エジプト記 5:1-9と比較してください。)ですから,まず間違いなく,イスラエルの民はこの変化を歓迎した,と結論できます。彼らは安息日の要求を重荷や制約とはみなさず,喜んでそれに従ったはずです。実際,後に神は,安息日がエジプトでの彼らの奴隷状態と神による救出を思い起こさせるものとなる,とお告げになりました。―申命記 5:15。
10,11 (イ)イスラエル人は従順であれば,何を楽しむことを期待できましたか。(ロ)イスラエル人が神の休みに入り損なったのはなぜですか。
10 モーセと共にエジプトを出たイスラエル人は,従順であったなら,約束された「乳と蜜の流れる地」に入る特権を得ていたことでしょう。(出エジプト記 3:8)そして,その地で,安息日だけでなく生涯にわたってずっと真の休息を楽しんだことでしょう。(申命記 12:9,10)ところが,そのようになりませんでした。彼らに関して使徒パウロはこう書いています。「聞いたのに苦々しい怒りを起こさせたのはだれでしたか。実に,モーセのもとにエジプトを出たすべての人たちではありませんでしたか。また,神はだれに対して四十年のあいだ嫌悪を覚えられたのですか。罪をおかして,その死がいが荒野に倒れた人たちに対してではありませんでしたか。また,神は,ご自分の休みに入らせないということを,不従順に行動した人たち以外のだれに対して誓われたでしょうか。こうしてわたしたちは,彼らが信仰の欠如のゆえに入れなかったことを知るのです」― ヘブライ 3:16-19。
11 わたしたちに対する何と強力な教訓でしょう。その世代は,エホバに対する信仰の欠如のゆえに,神が約束しておられた休息を得ることができませんでした。それどころか,荒野で滅びうせてしまいました。彼らは,自分たちがアブラハムの子孫として,地のすべての国の民に祝福をもたらす点で神のご意志と密接に関係していることを認識しませんでした。(創世記 17:7,8; 22:18)神のご意志にそって努力するよりもむしろ,自分たちの日常的で利己的な欲望にすっかり気を散らされてしまったのです。わたしたちは決してそのような事態に陥ることがありませんように。―コリント第一 10:6,10。
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