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非常に大勢の,雲のような証人たちものみの塔 1987 | 1月15日
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信仰とは何か
4 信仰とは何ですか。
4 パウロはまず信仰を定義しました。(ヘブライ 11:1-3をお読みください。)信仰は一部「望んでいる事柄に対する保証された期待」と定義されます。信仰を持つ人には,神の約束されることはみな果たされたも同然であるとの保証があります。信仰はまた,「見えない実体についての明白な論証」でもあります。見えない実体に関する,確信を与える証拠は極めて強力なので,信仰はその証拠に相当すると言われています。
5 信仰によってわたしたちは何を悟りますか。
5 信仰によって「昔の人々は」神を喜ばせたことを「証しされたのです」。さらに,「信仰によって,わたしたちは,事物の諸体制[地球・太陽・月・星]が神の言葉によって配列され,それゆえ,見えるものが,現われていないものから出ていることを悟ります」。神は目に見えない霊者であられるので,見ることはできませんが,わたしたちはエホバがそうした事物の創造者であられることを確信しています。―創世記 1:1。ヨハネ 4:24。ローマ 1:20。
信仰と「古代の世」
6 アベルが,「女の胤」に関するエホバの預言的な言葉が実現するという「保証された期待」を抱いていたのはなぜですか。
6 信仰には幾つかの面がありますが,その一つは罪のための犠牲が必要であることに対する認識です。(ヘブライ 11:4をお読みください。)「古代の世」において,血の犠牲に対する信仰は,最初の人間夫婦であったアダムとエバの二人目の息子,アベルによって示されました。(ペテロ第二 2:5)アベルは自分自身のうちに,受け継いだ罪の,死を来たす影響力を認めたに違いありません。(創世記 2:16,17; 3:6,7。ローマ 5:12)さらにアベルは,神の布告が成就してアダムが困難な労役を強いられ,エバが出産時に相当の苦しみを味わうようになったことにも気づいていたものと思われます。(創世記 3:16-19)したがって,アベルには,エホバが語られた別の事柄も実現するという「保証された期待」がありました。それらの事柄の中には,神が蛇に語り,大欺まん者のサタンに差し向けた次の預言的な言葉が含まれています。「わたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」― 創世記 3:15。
7 (イ)アベルは,罪のための犠牲の必要性に対する認識をどのように示しましたか。(ロ)神はどのような意味で,『アベルの供え物について証しされ』ましたか。
7 アベルは,描画的にアベル自身の命の代わりとなり得る動物の犠牲を神に差し出し,約束の胤に対する信仰を表わしました。ところが,信仰の欠けた兄のカインは血の含まれていない野菜をささげました。その後カインは殺人者となってアベルの血を流しました。(創世記 4:1-8)とはいえ,アベルは自分がエホバから義とみなされたこと,「神が彼の供え物について証しされた」ことを知って死にました。神はどのようにそうされたのでしょうか。信仰によってささげられたアベルの犠牲を受け入れることによってです。アベルの信仰と神からの是認については,霊感による記録が引き続き証ししており,それゆえに『アベルは死んだとはいえなお語っているのです』。アベルは罪のための犠牲の必要性を認めていました。あなたは,それよりもはるかに重要なイエス・キリストの贖いの犠牲に信仰を抱いていますか。―ヨハネ第一 2:1,2; 3:23。
8 (イ)エノクが行なった勇敢な証しから,わたしたちは信仰について何を学びますか。(ロ)エノクはどのように「死を見ないように移され」ましたか。
8 信仰は,神からの音信を大胆に語るようわたしたちを動かします。(ヘブライ 11:5,6をお読みください。)エホバの初期の証人であったエノクは,不敬虔な人々に臨む神の裁きの執行について勇敢に予告しました。(ユダ 14,15)エノクの敵たちはエノクを殺そうとしたに違いありませんが,神はエノクが死の苦しみを味わわないよう,「彼を取られ」ました。(創世記 5:24)もっとも,まず「彼は,……神を十分に喜ばせたと証しされ」ました。どのようにでしょうか。「信仰によって,エノクは死を見ないように移され(た)」のです。同様に,パウロもクリスチャン会衆の将来の霊的パラダイスの幻を与えられたためと思われますが,移されました。つまり「パラダイスに連れ去られ」ました。(コリント第二 12:1-4)そうすると,エホバが敵の手が届かないようにエノクを死の眠りにつかせたとき,エノクも,来たるべき地上のパラダイスの幻を見ていたのかもしれません。神を喜ばせるには,わたしたちもエノクのように,神からの音信を大胆に語らなければなりません。(使徒 4:29-31)そして,神がおられることと,神が「ご自分を切に求める者に報いてくださること」をも信じなければなりません。
9 ノアの歩み方は,神の指示にしっかり従うことが信仰の別の面であることをどのように示しましたか。
9 神からの指示にしっかり従うのも,信仰の一つの面です。(ヘブライ 11:7をお読みください。)ノアは信仰をもって行動し,『神が命じたとおりに』行ないました。(創世記 6:22; 7:16)ノアは,「まだ見ていない事柄について神の警告」を与えられ,全地に及ぶ洪水が生じるというエホバの言葉を信じました。そして,神への信仰と,敬虔な恐れを示し,「自分の家の者たちを救うために箱船を建造しました」。このように従順と義にかなった業とにより,ノアは,信仰を持たない世をその邪悪な業のゆえに罪に定め,世が滅びに値することを示しました。―創世記 6:13-22。
10 ノアは箱船を造っていたにもかかわらず,ほかのどんな活動のために時間を取りましたか。
10 ノアは「義の伝道者」だったので,エホバの証人でもありました。(ペテロ第二 2:5)箱船を造るのに忙しかったにもかかわらず,ノアは今日のエホバの証人が行なうように時間を取って伝道しました。確かにノアは神からの警告を語る布告者として,それら洪水前の人々に大胆に語りましたが,「[彼らは]洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでした」。―マタイ 24:36-39。
洪水後の族長たちの信仰
11 (イ)信仰にはエホバの約束に対する全き確信が含まれることを,アブラハムはどのように示しましたか。(ロ)アブラハムは信仰のうちに,どんな「都市」を待ち望んでいましたか。
11 信仰には,エホバの約束に対する全き確信が含まれます。(ヘブライ 11:8-12をお読みください。)アブラハム(アブラム)は信仰により,神の命令に従い,物質的には多くのものを提供できる,カルデア人の都市ウルを離れました。「地上のすべての家族」はアブラハムによって自らを祝福し,アブラハムの胤には土地が与えられるというエホバの約束を信じたのです。(創世記 12:1-9; 15:18-21)アブラハムの息子のイサクと孫のヤコブは『アブラハムと共にその同じ約束の相続人』でした。信仰によってアブラハムは,「異国にいるようにして,約束の地に外国人として居留」しました。「その都市の建設者また造り主(が)神で」ある「真の土台を持つ都市」に期待をかけていたのです。そうです,アブラハムは神の天の王国を待ち望んでいました。その王国のもとで,アブラハムは地上の命に復活させられることになるのです。あなたの生活の中で,王国はこれと同じほど重要な地位を占めていますか。―マタイ 6:33。
12 サラがエホバの約束に信仰を持ったために,どんなことが生じましたか。
12 神を恐れる族長の妻たちもエホバの約束に対する信仰を持っていました。例えば,アブラハムの妻サラはおよそ90歳までうまずめであったのに,また「年齢の限界を過ぎていた」のに,信仰によって「胤を宿す」力を与えられました。「約束してくださった方[神]を忠実な方とみなしたからです」。間もなくサラはイサクを産みました。こうして,生殖力に関しては「死んだも同然」だった100歳のアブラハムから,やがて「数の多い点で天の星のような……子供が生まれたのです」。―創世記 17:15-17; 18:11; 21:1-7。
13,14 (イ)アブラハムもイサクもヤコブも「約束の成就にあずかりませんでした」が,どのような反応を示しましたか。(ロ)神の約束がすぐに成就するのを見ることがないとしても,わたしたちは族長たちが示したエホバに対する忠節から,どのような益を得られますか。
13 信仰があれば,神の約束の成就をすぐに見ることができないとしても,エホバに対する忠節を保てます。(ヘブライ 11:13-16をお読みください。)忠実な族長たちはみな,自分たちに対する神の約束が完全に成就するのを見ることなく死にました。しかし「彼らは……[約束された事柄を]はるかに見て迎え入れ,自分たちがその土地ではよそからの者,また一時的居留者であることを公に宣明しました」。そうです,彼らは信仰のうちに生涯を終えました。約束の地がアブラハムの子孫のものとなるまでには,まだ幾世代もあったからです。
14 アブラハムもイサクもヤコブも,自分の生きているうちに神の約束の成就を経験しなかったために憤ったり,背教者になったりはしませんでした。エホバを捨ててウルに帰り,世の活動に没頭するようなことはありませんでした。(ヨハネ 17:16; テモテ第二 4:10; ヤコブ 1:27; ヨハネ第一 2:15-17と比較してください。)むしろこれらの族長たちは,ウルよりもはるかに勝った場所,「すなわち天に属する場所」を『とらえました』。ですからエホバは,「彼らの神として呼び求められることを恥とはされません」。彼らは死ぬまで至高者への信仰を保ったので,彼らのために神が用意されたメシアの王国,つまり「都市」の領域の一部である地上での命に間もなく復活させられるでしょう。では,あなたはいかがですか。多年にわたって「真理のうちを歩み」,エホバへの奉仕を行ないながら年齢を加えてきたとしても,神が約束された新しい体制に対する確信を保たなければなりません。(ヨハネ第三 4。ペテロ第二 3:11-13)あなたも忠実な族長たちも,そのような信仰に対する大きな報いを得ることでしょう。
15 (イ)アブラハムが事実上,犠牲としてイサクを差し出すことができたのはなぜですか。(ロ)アブラハムとイサクに関する出来事から,わたしたちの信仰はどんな影響を受けるはずですか。(ハ)その出来事は預言的に何を表わしていましたか。
15 疑いを抱かず,神への従順を示すのも,信仰の重要な一面です。(ヘブライ 11:17-19をお読みください。)アブラハムは疑問を抱かずエホバに従ったため,「独り子」,すなわちアブラハムがサラによって得た唯一の子である「イサクをささげたも同然でした」。どうしてアブラハムにそのようなことができたのでしょうか。「神は[必要なら]死人の中からでも[イサク]をよみがえらせ」,アブラハムの子孫に関する約束を果たす「ことができると考え(た)」からです。アブラハムの手の中にあった短刀でイサクの命がまさに奪われようとした時,み使いの声がそれをとどめました。ですからアブラハムは,「ひとつの例えとして」イサクを死から受けました。わたしたちも同様に,自分の命や子供たちの命が危険にさらされても,信仰のうちに神に従うよう動かされるはずです。(ヨハネ第一 5:3)さらに注目に値する点ですが,この時のアブラハムとイサクは,エホバ神が贖いとして独り子イエス・キリストを備え,み子に信仰を働かせる人々が永遠の命を持てるようにしてくださることを預言的に表わしていました。―創世記 22:1-19。ヨハネ 3:16。
16 わたしたちの子供たちと,神の約束に対する信仰に関して,族長たちはどんな模範を残していますか。
16 信仰を持っている人は,将来に関して神が約束しておられる事柄に希望を置くよう,自分の子供たちを助けるでしょう。(ヘブライ 11:20-22をお読みください。)族長たちに対するエホバの約束がその存命中に完全には成就しなかったにもかかわらず,彼らの信仰は大変強く,族長たちはその約束を大事な相続物として子供たちに伝えました。こうして「イサクは,来たらんとする事柄に関してヤコブとエサウを祝福し」,臨終の近かったヤコブは,ヨセフの息子であったエフライムとマナセに祝福を宣言しました。ヨセフ自身,イスラエル人がエジプトを去って約束の地に向かうことに強い信仰を抱いていたので,エジプトを出る時には自分の骨を持ってゆくよう兄弟たちに誓わせました。(創世記 27:27-29,38-40; 48:8-22; 50:24-26)あなたは,エホバが約束された事柄に対してこれと同じほどの信仰を培うよう,ご家族を助けていますか。
信仰は神を第一にするようわたしたちを動かす
17 モーセの両親はどのように信仰のうちに行動しましたか。
17 信仰は,わたしたちがこの世の提供するどんなものよりも,エホバとその民を大切にするための動機づけとなります。(ヘブライ 11:23-26をお読みください。)モーセの両親が信仰のうちに行動した時,イスラエル人はエジプトの束縛からの解放を必要とする奴隷でした。『彼らは[誕生したヘブライ人の男子を殺すようにという]王の命令を恐れませんでした』。むしろモーセを三月のあいだ隠し,結局はパピルスのひつに入れてナイル川の岸辺の葦の間に置きました。ファラオの娘に見つけられたモーセは『彼女自身の子として育てられました』。しかし,最初は自分の父アムラムと母ヨケベドの家で育てられ,霊的な訓練を受けました。それからファラオの家の者となったモーセは,「エジプト人の知恵をことごとく教授され」,「言葉にも行ないにも強力」に,知力も体力も優れた者となりました。―使徒 7:20-22。出エジプト記 2:1-10; 6:20。
18 モーセはその信仰ゆえに,エホバの崇拝に関してどのような立場を取りましたか。
18 ところが,エジプトの教育を受け,王の家での物質的な華々しさに接しても,モーセはエホバの崇拝を捨てたり,背教者になったりはしませんでした。むしろ,「信仰によって……成人した時,ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み」ました。そのような歩み方は,モーセがヘブライ人の一兄弟を擁護した時にそれとなく示されました。(出エジプト記 2:11,12)彼は「罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民[エホバの崇拝者である仲間のイスラエル人]と共に虐待されることを選びました」。あなたがエホバのバプテスマを受けた僕で,ふさわしい霊的教育に関する確かな経歴をお持ちであるなら,モーセの模範に従って真の崇拝のために堅く立ちますか。
19 (イ)モーセが生活の中でエホバとその民を第一にしたことはどのように明らかですか。(ロ)モーセはどんな報いが与えられることを期待していましたか。
19 モーセは「キリストの非難をエジプトの宝に勝る富とみなした(ため)」,エホバの民と進退を共にしました。恐らくモーセは,『キリスト,つまり神の油そそがれた者を表わす古代の型となることに伴う非難をエジプトの宝に勝る富とみなした』のでしょう。王の家の者として,モーセはエジプトの富と名声をほしいままにすることもできましたが,信仰を働かせ,「報いを一心に見つめたのです」。その報いとは,神が約束された新しい体制において地上に復活し,とこしえの命を得ることです。
20 信仰があればエホバの僕として恐れなくなることをモーセの経験はどのように示していますか。
20 信仰があれば,わたしたちは恐れなくなります。わたしたちはエホバが救出者であられることに確信を抱いているからです。(ヘブライ 11:27-29をお読みください。)ファラオはモーセがエジプト人を殺したことを知ると,モーセを亡き者にしようとしました。「しかしモーセはファラオのもとから逃げて行き,ミディアンの地に住もうとし」ました。(出エジプト記 2:11-15)ですから,「信仰によって,彼[モーセ]はエジプトを去りましたが,[イスラエルのために神を代表したことで,モーセの命を奪うと脅した]王の怒りを恐れることはありませんでした。彼は,見えない方を見ているように終始確固としていたのです」と書いたパウロは,ヘブライ人が後にエジプトを出ることに言及しているようです。(出エジプト記 10:28,29)モーセは実際に神を見たことはありませんでしたが,エホバとモーセの交渉は非常に現実的なものだったので,モーセはまるで「見えない方」を見ているように行動しました。(出エジプト記 33:20)あなたとエホバとの関係もそれと同じほど強力ですか。―詩編 37:5。箴言 16:3。
21 イスラエルがエジプトから出発することに関し,「信仰によって」何が起きましたか。
21 イスラエルがエジプトから出発する直前,「信仰によって,彼[モーセ]は過ぎ越しと血を掛けることとを執り行ない,滅ぼす者が自分たち[イスラエル人]の初子に触れないようにしました」。そうです,エジプト人の初子は死んでもイスラエルの初子は死を免れるという確信のもとに過ぎ越しを行なうには,信仰が必要でした。そして,その信仰は報われました。(出エジプト記 12:1-39)さらに,「信仰によって,彼ら[イスラエルの民]は乾いた陸地を行くかのようにして紅海を通りました。しかし,あえてそこに乗り出したエジプト人たちは呑み込まれました」。神は何とすばらしい救出者になられたのでしょう! 加えて,この救出によって,イスラエル人は「エホバに対して恐れを抱き,エホバとその僕モーセに信仰を置くようになった」のです。―出エジプト記 14:21-31。
22 信仰に関して,考慮すべきどんな質問が残っていますか。
22 モーセと族長たちの信仰は今日のエホバの証人にとってまさしく模範です。しかし,神が,神権的に組織された一国民としてのアブラハムの子孫とさらに交渉をお持ちになられた時,何が生じましたか。古代のその後の信仰の業から,何を学べますか。
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世は彼らに値しなかったものみの塔 1987 | 1月15日
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世は彼らに値しなかった
「彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ……ました。世は彼らに値しなかったのです」― ヘブライ 11:37,38。
1,2 古代のエホバの証人たちはどんな状況のもとで忠誠を保ちましたか。彼らの行動は今日の神の僕たちにどのような影響を与えますか。
古代のエホバの証人は,不義の人間社会からもたらされる数々の試みに遭っても神への忠誠を保ちました。例えば,神の僕たちは石打ちにされ,剣による殺りくに遭い,虐待され,患難を経験しました。それでもその僕たちの信仰は揺らぎませんでした。ですから,確かに使徒パウロが述べているように,「世は彼らに値しなかったのです」。―ヘブライ 11:37,38。
2 大洪水前の人々,族長たち,それにモーセが示した信仰を鼓舞する敬虔な行動は,信仰のうちに神に仕えるよう現代のエホバの証人たちを促します。では,ヘブライ 11章と12章で言及されているほかの人たちはどうでしょうか。彼らの信仰に伴う幾つかの面について考えると,どのような益が得られますか。
裁き人・王・預言者たちの信仰
3 エリコとラハブに関する出来事は,信仰に業の裏づけがなければならないことをどのように示していますか。
3 信仰は単なる信念ではありません。そこには業もしくは行動の裏づけがなければなりません。(ヘブライ 11:30,31をお読みください。)モーセの死後,イスラエル人は信仰のゆえにカナンの地で次々に勝利を収めましたが,そのためには彼らの側に努力が求められました。例えば,ヨシュアと他の人々の信仰によって,「エリコの城壁は,七日のあいだ彼らが周囲を回った後に倒れ落ちました」。しかし,「信仰によって,娼婦ラハブは,不従順に行動した者たち[信仰のない,エリコの住民]と共に滅びないですみました」。なぜでしょうか。「彼女は[イスラエル人の]斥候たちを平和に迎え」,彼らをカナン人から隠して,自分の信仰を証明したからです。ラハブの信仰には,「エホバが[イスラエル人の前から]紅海の水を干され」,アモリ人の王シホンとオグに対する勝利を彼らにお与えになったという報告に基づく確固とした根拠がありました。ラハブはふさわしい道徳上の変化を遂げました。そしてその積極的な信仰は祝福を受け,エリコが倒壊した時には家の者と共に保護され,イエス・キリストの先祖に当たる女性の一人となりました。―ヨシュア 2:1-11; 6:20-23。マタイ 1:1,5。ヤコブ 2:24-26。
4 ギデオンとバラクの経験は,危険に直面しても信仰を示すことについて,何を強調していますか。
4 信仰は,危険に直面してもエホバに全幅の信頼を寄せることによって示されます。(ヘブライ 11:32をお読みください。)パウロは,「ギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たち」について話してゆくなら,時間が足りなくなることを認めました。それらの人たちの偉業は,危険な状況下での信仰と,神への信頼に関する十分な証拠を提出しています。例えば,裁き人のギデオンは,信仰によって,またわずか300人の部隊であったにもかかわらず,圧迫を加えるミディアン人の軍事力を粉砕するための力を神から付与されました。(裁き人 7:1-25)裁き人バラクと,装備の乏しい1万人の歩兵隊は女預言者デボラから励ましを受け,シセラの率いる武装した900台の戦車を擁する,王ヤビンのはるかに強い勢力を打ち負かしました。―裁き人 4:1-5:31。
5 サムソンとエフタは,エホバに全幅の信頼を寄せていることの証拠となる信仰をどのような仕方で表わしましたか。
5 もう一人,イスラエルの裁き人の時代に信仰に関する模範を示した人として,フィリスティア人の強力な敵となったサムソンがいます。確かにサムソンは最後に捕虜となり,盲目にされましたが,フィリスティア人が自分たちの崇拝する偽りの神ダゴンに大規模な犠牲をささげていた建物の柱を引き倒した時,彼らのうちの大勢の人々を殺しました。そうです,サムソンはそれらのフィリスティア人と共に死にましたが,自暴自棄になって自殺したのではありません。信仰のうちにエホバに頼り,神と神の民のそれら敵対者に復しゅうを遂げるのに必要な力をエホバに祈り求めました。(裁き人 16:18-30)アンモン人に対する勝利をエホバから与えられたエフタも,エホバに全幅の信頼を寄せていることの証拠となる信仰を表わしました。そうした信仰があったからこそ,終生処女のままでエホバに仕えるよう自分の娘をささげて神への誓いを果たすことができたのです。―裁き人 11:29-40。
6 ダビデはどのように自分の信仰を示しましたか。
6 さらに信仰に関して際立っていたのはダビデです。フィリスティア人の巨人ゴリアテと戦った時のダビデはほんの少年にすぎませんでした。「あなたは剣と槍と投げ槍とを持ってわたしに向かって来るが,わたしは……万軍のエホバのみ名をもってあなたに向かって行く」とダビデは言いました。そうです,ダビデは神に頼り,そびえ立つようなそのフィリスティア人を殺し,その後は神の民のために戦う勇敢な戦士なる王となりました。またその信仰ゆえに,ダビデはエホバの心にかなう人になりました。(サムエル第一 17:4,45-51。使徒 13:22)サムエルも他の預言者も,生涯を通じて強い信仰と,神への十分な信頼とを表わしました。(サムエル第一 1:19-28; 7:15-17)老若を問わず,現代のエホバの僕たちにとって本当にりっぱな模範です。
7 (イ)『信仰により,王国を闘いで撃ち破った』のはだれですか。(ロ)『信仰により,義を成し遂げた』のはだれですか。
7 わたしたちは信仰によって,あらゆる忠誠の試みに首尾よく対処し,神のご意志に調和していることなら何でも成し遂げることができます。(ヘブライ 11:33,34をお読みください。)信仰の業をさらに挙げたパウロは,ヘブライ人の裁き人,王,預言者などを念頭に置いていたものと思われます。すぐ前でそのような人々の名前を挙げているからです。ギデオンやエフタのような裁き人は「信仰により,王国を闘いで撃ち破り」ました。ダビデ王も同じようにし,フィリスティア人,モアブ人,シリア人,エドム人などを制圧しました。(サムエル第二 8:1-14)廉直な裁き人も,信仰によって「義を成し遂げ」,サムエルや他の預言者たちの義にかなった助言によって,少なくとも一部の人々は悪行を避けるよう,あるいは捨てるよう動かされました。―サムエル第一 12:20-25。イザヤ 1:10-20。
8 ダビデはどんな約束を得ましたか。その約束により,どんな結果が生じましたか。
8 ダビデは信仰により『約束を得た』人でした。エホバは「あなたの王座は,定めのない時までも堅く立てられたものとなる」と,ダビデに約束されました。(サムエル第二 7:11-16)そして,神は1914年にメシアの王国を設立することによってその約束を果たされました。―イザヤ 9:6,7。ダニエル 7:13,14。
9 どのような状況のもとで,『信仰によって,ライオンの口がふさがれました』か。
9 預言者ダニエルは,王から禁令が課されていても,毎日の習慣通り神に祈り続け,忠誠の試みに首尾よく対処しました。そのようにしてダニエルは,忠誠を保つ者の信仰により,自分が投げ込まれたライオンの坑の中にいてもエホバによって命を保護されたという意味で「ライオンの口をふさ(いだ)」のです。―ダニエル 6:4-23。
10 信仰によって「火の勢いをくい止め」たのはだれですか。それほど強い信仰があれば,わたしたちにとって何が可能になりますか。
10 ダニエルのヘブライ人の仲間で,忠誠を保っていたシャデラク,メシャク,アベデネゴは,「火の勢いをくい止め」たも同然でした。極度に熱せられた炉の中で殺される危険が迫っていた時,この3人は,わたしたちの神がわたしたちを救い出してくださるかどうかにかかわりなく,バビロニアの支配者の神々に仕えたり,王の立てた像を崇拝したりはしません,と王ネブカドネザルに告げました。エホバはその炉の火を消されませんでしたが,3人のヘブライ人が決して傷つかないようにされました。(ダニエル 3:1-30)わたしたちも,これほど強い信仰があれば,敵の手にかかって殺される恐れが生じるとしても,神への忠誠を保てます。―啓示 2:10。
11 (イ)信仰によって『剣の刃を逃れた』のはだれですか。(ロ)信仰によって『強力な者とされた』のはだれですか。(ハ)『戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させた』のはだれですか。
11 ダビデは,サウル王の部下の「剣の刃を逃れ」ました。(サムエル第一 19:9-17)預言者エリヤとエリシャも,剣による死を逃れました。(列王第一 19:1-3。列王第二 6:11-23)しかし,『信仰により,弱かったのに強力な者とされた』のはだれですか。そうです,ギデオンは,イスラエルをミディアン人から救うには自分自身も部下の者たちも弱すぎると考えました。ところがギデオンは神によって「強力な者とされ」,神は,わずか300人の部下しかいなかったギデオンに勝利をお与えになりました。(裁き人 6:14-16; 7:2-7,22)サムソンは髪の毛を切り取られた時,「弱かったのに[エホバによって]強力な者とされ」,多くのフィリスティア人を殺しました。(裁き人 16:19-21,28-30。裁き人 15:13-19と比較してください。)軍事的にも体力的にも弱い状態から「強力な者とされた」人として,パウロはヒゼキヤ王のことも考えていたのかもしれません。(イザヤ 37:1-38:22)『戦いにおいて勇敢な者となった』神の僕の中には,裁き人のエフタと王ダビデがいます。(裁き人 11:32,33。サムエル第二 22:1,2,30-38)さらに,『異国の軍勢を敗走させた』人の中には,裁き人バラクが含まれます。(裁き人 4:14-16)これらの業績はすべて,わたしたちも信仰によって忠誠のどんな試みにも首尾よく耐え,エホバのご意志と調和したことなら何でも成し遂げられるという確信を与えるはずです。
模範的な信仰を示したほかの人々
12 (イ)どんな『女たちがその死者を復活によって再び受けました』か。(ロ)特定の信仰の人々の復活は,どんな意味で「勝った」復活となりますか。
12 信仰には復活に対する信念も含まれますが,復活は神への忠誠を保つ助けになる希望です。(ヘブライ 11:35をお読みください。)信仰のゆえに,「女たちはその死者を復活によって再び受けました」。エリヤは信仰と神の力により,ザレパテで一人のやもめの息子を復活させ,エリシャはシュネム人の女の息子を命によみがえらせました。(列王第一 17:17-24。列王第二 4:17-37)「またほかの人々は,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました[文字通りには,杖で殴打された]。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです」。聖書の中で名前の明らかにされていないこれらのエホバの証人は,信仰の妥協が求められるような救出を受け入れなかったため,殴打されて死んだのでしょう。彼らの復活は,(エリヤやエリシャによみがえらされた人々とは違い)やむを得ずもう一度死ぬという必要がなく,「とこしえの父」であられるイエス・キリストによる王国の支配のもとで生じるので,「勝った」復活です。イエス・キリストの贖いは,地上における終わりのない命への機会を開きます。―イザヤ 9:6。ヨハネ 5:28,29。
13 (イ)「あざけりやむち打ち」を経験したのはだれですか。(ロ)「なわめや獄」を経験したのはだれですか。
13 信仰があるなら,迫害を耐え忍ぶことができます。(ヘブライ 11:36-38をお読みください。)迫害された時には復活の希望を思い出し,神が『あざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練[つまり,信仰の試み]を受けたほかの人々』を支えられたように,わたしたちをも支えることがおできになるのを知るのは有益なことです。イスラエル人は「絶えず……[神の]預言者たちをあざけっていたので,ついにエホバの激怒がその民に向かって起こ(った)」と記されています。(歴代第二 36:15,16)ミカヤ,エリシャ,および神の他の僕たちは信仰によって「あざけり」を耐えました。(列王第一 22:24。列王第二 2:23,24。詩編 42:3)「むち打ち」はイスラエルの王や預言者たちの時代に知られていたもので,反対者たちは侮辱するためにエレミヤを平手打ちにしただけでなく,エレミヤを「打ち」ました。「なわめや獄」は,エレミヤの経験に加えて,ミカヤやハナニといった預言者の経験を思い起こさせるかもしれません。(エレミヤ 20:1,2; 37:15。列王第一 12:11; 22:26,27。歴代第二 16:7,10)現代のエホバの証人たちも同様な信仰を持っているので,「義のために」これに匹敵する苦しみを耐えることができました。―ペテロ第一 3:14。
14 (イ)『石打ちにされた』人々の中にだれがいますか。(ロ)「のこぎりで切り裂かれ」たのはだれかもしれませんか。
14 『彼らは石打ちにされた』とパウロは述べました。そのような信仰の人の一人は,祭司エホヤダの子ゼカリヤです。ゼカリヤは神の霊に包まれて,ユダの背教者たちに敵して語りました。結果はどうでしたか。陰謀を企てた者たちはエホアシュ王の命令により,エホバの家の中庭でゼカリヤを石撃ちにしました。(歴代第二 24:20-22。マタイ 23:33-35)パウロは,『彼らは試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれた』と付け加えました。「試練に遭わされ」た人の一人としてパウロが考えていたのは,預言者ミカヤかもしれません。また,ユダヤ人の伝承によれば,確証はないものの,イザヤはマナセ王の時代にのこぎりで二つに切り裂かれたとされています。―列王第一 22:24-28。
15 「虐待」され,『砂漠をさまよった』のはだれですか。
15 『剣による殺りくに遭って死んだ』人たちもいます。例えば,エリヤの仲間の,神の預言者たちは,邪悪な王アハブの時代に『剣で殺され』ました。(列王第一 19:9,10)エリヤもエリシャも,信仰に関して『羊の皮ややぎの皮をまとって行き巡り,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにあった』人々の一人でした。(列王第一 19:5-8,19。列王第二 1:8; 2:13。エレミヤ 38:6と比較してください。)迫害の対象となって『砂漠や山々,またほら穴や地の洞くつをさまよった』人々としては,エリヤとエリシャだけでなく,偶像礼拝を行なう王妃イゼベルが「エホバの預言者を断ち滅ぼし」始めた時,オバデヤが50人ずつ洞くつに隠し,パンと水を供給した100人の預言者も含まれているに違いありません。(列王第一 18:4,13。列王第二 2:13; 6:13,30,31)忠誠を保った何とりっぱな人々でしょう!「世[不義の人間社会]は彼らに値しなかった」とパウロが述べたのも不思議ではありません。
16 (イ)キリスト教時代以前のエホバの証人がまだ「約束の成就」にあずかっていないのはなぜですか。(ロ)キリスト教時代以前のエホバの証人が「完全にされる」ことは,何と関係があるに違いありませんか。
16 信仰があれば,神を愛する者たちすべては神のご予定の時に『約束の成就にあずかる』という確信を抱けます。(ヘブライ 11:39,40をお読みください。)キリスト教時代以前の,忠誠を保った人たちは「その信仰によって証しされ」,今ではそのことが聖書に記されるようになりました。しかし,王国の支配下におけるとこしえの命の見込みを持つ者として地上に復活させられるという神の「約束の成就」には,まだあずかっていません。なぜですか。イエスの油そそがれた追随者たち「を別にして彼らが完全にされることのないように」するためです。神はそれら油そそがれた追随者たちのために「さらに勝ったもの」,つまり天的な不滅の命,およびキリスト・イエスの共同支配者になるという特権「を予見」されました。油そそがれたクリスチャンは,1914年に王国が設立されてから始まった復活により,キリスト教時代以前のエホバの証人たちが地上に復活させられる前に,天において「完全にされ」ます。(コリント第一 15:50-57。啓示 12:1-5)キリスト教時代以前の初期の証人たちが「完全にされる」とは,彼らが地上に復活し,最終的には「腐朽への奴隷状態から自由にされ」,キリストの千年統治の期間中,大祭司イエス・キリストと14万4,000人の天的な従属の祭司の奉仕を通して人間としての完全さに到達することと関係があるに違いありません。―ローマ 8:20,21。ヘブライ 7:26。啓示 14:1; 20:4-6。
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