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目ざめよ! 1986
目86 11/22 23–27ページ

最大の発見をした発明家

プロテスタントのその信仰復興集会は最高潮に達しようとしていました。巡回説教師は,悪人が永久に火あぶりにされる,火の燃える地獄のぞっとするような恐ろしい状態を熱狂的な弁舌で描写し,その芝居がかった描写に聴衆の大半はすくむ思いで聴き入っていました。その時,二人の少年の笑っているのがその説教師の鋭い目に留まりました。私のいとこと私です。説教師の流ちょうな弁舌は激怒に変わり,私たちはのろいの言葉を浴びせられました。私たちは不敬虔だったわけではありません。ただ,神がその説教師の言うような残忍な方だとは思えなかったのです。

また,私には自分の通っていた教会が迫害されていないことも疑問でした。よく母に,「ぼくたちはなぜ迫害されないの?イエスは,『彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう』と言ったけど,ぼくたちはちっとも迫害されていないじゃない」と言いました。―ヨハネ 15:20。

私は1911年にオハイオ州スタウツビルで生まれました。私の少年時代は,人によっては寂しいものに思えたかもしれません。年の近い兄弟も姉妹もいませんでしたし,近所の子供たちと遊ぶことも許されていませんでした。「あの子たちは言葉遣いが悪いから」と,母は言いました。全くそのとおりで,近所の子供たちの言葉遣いは良くありませんでした。しかし,私は寂しいとは思いませんでした。雑用がたくさんあったうえに,何かを発明するのが好きだったからです。おもちゃは自分で作りました。小さな製紙機を据えて,自分で紙や封筒を作りました。自分のラジオを作り,それでキューバからの放送も受信できました。

私は自分が計画していることをするのに必要な資金を稼ぐため,いろいろと風変わりな仕事をしました。洗濯物の配達をし,冬には教会の暖炉の火をたき,日曜日には教会の大きな鐘を鳴らしました。その仕事は,小柄な少年にとっては大仕事でした。飛び上がってロープに捕まり,鐘が鳴り出すよう全体重をかけて引かなければなりません。そのあと今度は,鳴りやませるために全体重をかけて押さえるのです。

私は読書も好きでした。家の本箱には数冊の本しかありませんでしたが,聖書はいつもテーブルの上に出してありました。私は聖書を理解したいという燃えるような願いを抱いていました。特に福音書と黙示録は繰り返し読みました。そして,黙示録の中で神が私たちに言おうとしておられることを知ることはできないものかと,どれほど思ったかしれません。聖書に対する私の関心は,日曜学校の女教師から,わたしの選んだ30の聖句を暗記できる人には聖書を無料であげますと言われた時にいっそう高まりました。私はそれを成し遂げ,自分の聖書を持つことになって大得意でした。

その女教師のリストに挙げられていた聖句の一つは,何年たっても私の心から離れませんでした。それは詩編 34編7節(ジェームズ王欽定訳)の,「主の使いは主を恐るる者のまわりに営をつらねてこれを助く」という聖句でした。その聖句を最初に黙想したのは9歳の時で,大葉性肺炎にかかった時でした。それより数年前に幼い妹がその病気で死んでいました。当時は抗生物質はありませんでしたから,私は妹の後を追うだろうと思われていました。私は医師が私の死期が迫っていることを母に小声で話しているのを耳にしました。医師は,「しかし,あと2時間持ちこたえれば,助かるかもしれません」とも言いました。私は2時間持ちこたえ,さらに数十万時間も生きてきました。

そのことがあってから数年して,私たちの教会の牧師が家を訪ねて来ました。牧師は自分がどのようにして1911年版のアメリカ標準訳聖書を1冊手に入れたかを説明しました。その時に牧師は,「エホバという神のみ名が旧約全体に用いられている」と言いました。その言葉は私の耳に鳴り響きました。神に名前があるんだって?その名前はエホバだって?私はそれを知って大変感激したのですが,「私は『神』のほうがいいわ」と母が言ったのにはがっかりしました。私は大いに聖書に関心があったので牧師になりたいと思いましたが,自分の通っている教会の教えには同意できませんでした。それで,科学を勉強するために大学に入りました。

私の大学生活は始まらないうちに危うく終わるところでした。私は交通費が安くすむのでバイクを買いました。そして,同じ部屋の友人と一緒に大学へ向かっていた時,突然,立ち往生していたトラックに出くわしました。私はそれをよけようとしたために高さ40フィート(12㍍)の崖から落ちてしまいました。目を閉じると今でも,岩のごつごつした渓谷が自分に向かって迫って来るのが見えます。

集まっていた群衆の中から,黒い服を着た背の高い見知らぬ人が私のそばに寄って来て,今でも印象に残っている厳かな声で,「あなたの神は今日あなたを救われました。その方とはだれかを知り,その方に仕えなさい」と言いました。そして私が不思議に思っているうちにその人はくるりと向きを変えて行ってしまいました。

私は卒業後,教育に関係した管理職に就きました。あるときのこと100人の志願者の中から一人の新しい教員を選考しなければならないことがありました。私はその志願者たちの中のある人の写真を見た時,この人こそ自分の生涯の伴侶となる人だと思いました。私はその人を採用するよう推薦しました。名前はロバータといいました。1年もたたないうちに私はロバータと結婚し,彼女は確かに私の生涯の伴侶となりました。それにロバータは,聖書を理解したいという私の子供のころからの切なる願いを満たす助けにもなってくれました。

私はオハイオ州立大学で科学の博士号を得るために勉強していましたが,神と聖書に対する愛を忘れてはいませんでした。そのころも時折聖書を読んではいましたが,ほとんど理解できませんでした。しかしその状態は1944年に変化しました。ある婦人がロバータの家を訪れ,「子供たち」という題の宗教書を渡して行ったのです。その婦人は私の妻と一緒にその本の研究を始めました。

私はそれがエホバの証人との研究であることを知って,「その研究はやめなさい! あの人たちはいい人たちじゃないよ。自国のために戦わないんだから」と妻に言いました。

ところがロバータは研究をやめませんでした。それで私は調べてみることにしました。そして,地獄は熱くない,魂は不滅ではない,三位一体は真実ではない,と知って大変驚きました。(詩編 16:10。エゼキエル 18:4。ヨナ 2:2。ヨハネ 14:28)神はひとりの神であり,その名はエホバです。それはずっと以前に私の耳に鳴り響いた名前でした。調べれば調べるほど,私の目からはうろこが落ちてゆきました。黒い服を着たあの見知らぬ人が,知って仕えるようにと告げた神を私は見いだしたのです。この神こそ私が命を献げることのできる方でした。火と硫黄で人々をさいなむ残忍な方ではありません。柔和な者は地を受け継ぐと約束しておきながら,地を焼き滅ぼすような詐欺師ではありません。―伝道の書 1:4; 9:5,10。ローマ 6:23。

ロバータと私は価の高い真珠を見つけたということで意見が一致しました。(マタイ 13:45,46)二人とも1945年に,エホバの証人として神のご意志を行なうため,献身の象徴であるバプテスマを受けました。私は博士号を取るための勉強と大学の教授になるという計画を捨て,大手の研究所に就職して発明の仕事を始めました。子供のころから好きだった,何かを発明することと聖書を理解すること,この二つが両方とも再び表面に出て来たのです。

年月がたつうちに,さまざまな興味深い仕事を手懸けました。その一つはヘリコプターに関係した仕事でした。ヘリコプターの羽根の傾斜角が大きすぎて激動が生じると,失速して岩のように墜落します。こうしたことが起きないようにするためには何かが必要でした。私は厚さがわずか1インチの1,000分の20(約0.5㍉)という小型の圧力計を発明しました。そしてその設計に基づいて作られた圧力計が回転翼の表面に取り付けられました。羽根が回転すると,その圧力計が羽根にかかる圧力を示します。この重要な情報を得て設計者たちは問題点を修正し,失速を防ぐことができました。この発明は世界の注目を集めました。

これら小さな圧力計は医療の分野でも用いられました。人々は,実際には食道のけいれんが問題になっているときに,心臓の薬を投与されることがあります。食道に問題がある場合にも,心臓に問題がある場合にも胸と左腕に痛みが生じるからです。小さな三つの圧力感知機の付いた管を食道に挿入すると,食道のけいれんが原因で痛みがあるのかどうかが分かります。そのほか,食道から心臓の拍動を調べることもでき,また,息を吐く時の肺の中の圧力を測定することによって肺気腫を見つけることができ,さらにそれがどの程度進行しているかといったことまで分かります。これは食道運動検査探子と呼ばれて病院で用いられており,世界中に知られています。

これらの圧力計は,脳に浮腫がある場合に頭蓋内圧を測定するのにも用いられます。また,眼球の角膜に当てれば,心臓が拍動するごとに変化する圧力を測定できます。角膜部の圧力の変化は頸動脈の圧力を反映するので,頸動脈に部分的な閉塞のあるのが発見されることもあります。

もう一つの仕事は計器を見ながら分娩鉗子を使用できるようにすることでした。鉗子に計器を取り付けると,使用中に胎児の頭にどれくらいの圧力がかかっているかが医師に分かるのです。

ある時ひとりの医師が,煙を吸い込むと気管支にどんなことが起きるかを見たいと言いました。それは繊維光学によってできました。その設計は協力者のサミュエル・チェンバーズ(この人もエホバの証人)が行ないました。その器具が作られ,気管支に挿入されました。私たちは,細かい毛,すなわち繊毛が揺れ動いて気管から微粒子を除いてきれいにしているのを見ることができました。ところが,煙が吸い込まれて繊毛に当たると,繊毛は揺れ動かなくなりました! 気管支をきれいにする本来の仕組みを煙が麻痺させたのです。

私はチェンバーズと一緒に特殊な型のペースメーカーも開発しました。そのペースメーカーは心臓の中に挿入されて,内圧を測定し,それと同時に心拍を調整します。そのペースメーカーによって心臓に薬を注入したり,心臓内の血液を少し取り出したりすることができます。それは各地の病院で用いられました。

一時期私は,建造物にかかる機械的な重圧を測定する新しい方法に関して一連の記事を書いていました。それはマグローヒル出版社の依頼によるものでした。それらの記事はかなりの注目を集め,結局は一冊の本になり,しばらくは大学の教科書として用いられました。

それを行なっていたころのこと,私はオハイオ州立大学病院のある医師に輸血について話しました。その医師はエホバの証人のことを取るに足りない者たちと言ってけなし,ものみの塔協会が出版した「血」の小冊子は一医師の言葉を間違って引用しているとして非難しました。

私は声を大きくして言いました。「間違った引用ですと,ドクター。間違った引用がどんなものかくらい知っていますよ。私は毎月,資料を出版しているのです。あの医師の言葉の引用は間違ってなどいません。そのことはあなたもご存じのはずです」。私はやや興奮して,「あなた方医師は血を抜き取ってジョージ・ワシントンを殺したのかもしれないのに,今度は汚血を詰め込んで人々を殺している」と言いました。それでも,そのあとは最高に良い話し合いができました。

同じような事がもう一度ありました。エホバの証人のある年配の婦人が自動車事故に遭い,オハイオ州立大学病院に担ぎ込まれました。担当医は輸血を受けるようその婦人を説得しようとしていました。私はその医師に説明するために呼ばれましたが,その医師は,エホバの証人は医学的なことについて何も知らないくせに,何をすべきかを医師に命じようとする,というような見くびった言い方をして私の論証をはねつけました。

私は,「食道検査探子について何かご存じですか」と尋ねました。私は自分がその装置を考案したこと,そしてかつてこの病院の幹部職員の会合で幾人かの責任者とその装置の用途について話し合ったこともあることを伝えました。その医師の態度はずいぶん変化し,その場の緊張はほぐれました。

私は宇宙計画の難問を解決することに一役買いました。NASA(米国航空宇宙局)はロケットの噴射口の圧力を測定するものを必要としていました。その部分の温度は太陽表面の温度に近くなり得ます。他の圧力探知器はどれも十分に機能しなかったようです。

私は上司と一緒に,ロケットの研究が行なわれていたアラバマ州ハンツビルへ行き,そこでその計画の監督をしているドイツ系のある人に会いました。その人は部屋に入って来るなり,出し抜けに,「ところで,あなた方はどのようにそれをするのですか」と言いました。何の前置きもありませんでした。

私は自分たちの案を説明するようにと言われました。その案とは,ある液体を用いた小さな圧力探知器を作ることでした。その液体は燃えないので探知器を冷やしておけます。

「それなら大丈夫だろう」と,そのドイツ人は言い,会議は終わりました。それは私がそれまでに出席した会議のうちで最も短い会議でした! その装置が出来上がってうまく働いたので,私はNASA賞にあずかりました。私は研究に携わってきたこの25年間に30余りの特許を取得しました。

しかし,何と言っても私にとって最大の発見は,発明家としての発見ではありませんでした。それは,まことの神エホバの本質の再発見でした。それと共にエホバの名の意味する事柄をすべて理解しました。(詩編 83:18)私は仕事仲間にエホバについて話し,そのうちの幾人かと家庭聖書研究を行ないました。彼らの家族もその研究に参加しました。ある研究には17人が,またもう一つの研究には19人が出席していました。

私と同じ職場にいた人はたいてい,私がエホバの証人であることを知っていました。昼食時には,証言できるように,いつもいろいろ違った人を選んではそのそばに座るようにしました。ある日のことひとりの人に,「ここに腰掛けても構いませんか」と尋ねたところ,「いえ,困ります」と言われました。私は苦笑せざるをえませんでした。その人は私のことを聞いていて,証言を受けたくなかったようです。

ある時,私の働いていた職場にオハイオ州知事が訪れ,私は指名されて知事と話すことになりました。そのことは私にとって有利に働きました。私はオハイオ州最高防犯刑務所で聖書研究を行なっていましたが,研究生である服役者に私がバプテスマを施すのをプロテスタントの教戒師は許そうとしませんでした。私はその教戒師に,「ご存じのように,私はちょうど先週,州知事と話しました。あなたは援助を必要としておられると思います」と言いました。するとたちまち態度が変わりました。「ちょっと待ってください。その件については考えてみましょう」と言いました。教戒師はそれを実行し,私は中に入って研究生に会いました。

コロンバスの王国会館に通い始めたころ,そこには会衆が二つありましたが,25年後にその数は,24になりました。そのころ私は都市の監督として奉仕していました。一つの際立った経験となったのは,その地域の大会ホールを建設したことです。私はノーマン・ワトソンと聖書研究をしていましたが,ある日,大会ホールを建てる地所を必要としているということを話しました。

ワトソン氏は直ちに,「では土地を幾つか見に行きましょう」と言って,私をあちこちの場所に案内し,「どれをお望みですか」と尋ねました。ワトソン氏はオハイオ州ロンドンにある立派な土地を寄贈してくださいました。そしてその後にバプテスマを受けました。

その大会ホールの建設には1年と2か月かかりました。建設委員は毎週集まって手持ちの資金を計算しました。工事をさらに1週進めるだけの資金があるでしょうか。毎週こうした状態でしたが,建設を続行するに足る資金をエホバは毎週備えてくださいました。ノア兄弟とスーター兄弟が献堂式のプログラムのためにブルックリン本部から来てくださいました。

ロバータと私は,エホバを知るよう他の人を助けて多くの幸福な年月を過ごしてきました。私たちが最初に真理を伝えた人の一人は,いとこのボーン・クライツでした。私にとって彼に真理を伝えるのは特にうれしいことでした。ボーンは,ずっと昔に信仰復興運動の説教師が私たちの愛ある神エホバを中傷する地獄の火の話をしていた時,私と一緒に笑ってその説教師の怒りを買った人物です。私の母も年をとってからエホバという神のみ名を愛するようになりました。90歳の時,エホバの証人になりたいとの願いを言い表わして亡くなりました。現在,ロバータと私はフロリダ州シーブリングの会衆でエホバに仕える特権を楽しんでいます。

迫害される宗教に入っていないという,子供のころの悩みはついに過去のものとなりました。エホバの証人は全地で迫害されています。そして,迫害に遭いながらも証人たちは,私が少年のころに覚えた,「エホバのみ使いは神を恐れる者たちの周囲に陣営を張っており,彼らを助け出す」という聖句の真実さを経験しています。―ネルソン・クライツの語った経験。

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「あなたの神は今日あなたを救われました。その方とはだれかを知り,その方に仕えなさい」

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私はそれがエホバの証人との研究であることを知って,「その研究はやめなさい!」と妻に言いました

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気管支をきれいにする本来の仕組みを煙が麻痺させたのです

[26ページの拡大文]

その装置が出来上がってうまく働いたので,私はNASA賞にあずかりました

[23ページの図版]

圧力計を手にしたネルソン・クライツ

[27ページの図版]

研究中のネルソンと妻のロバータ

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