ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目98 8/22 26–27ページ
  • 英国宗教改革 ― 変革の時代

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 英国宗教改革 ― 変革の時代
  • 目ざめよ! 1998
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • クロムウェル時代
  • 英国国教会 ―“絶滅の危機”にさらされているか
    目ざめよ! 1981
  • 主教の陰謀をくじいた機知に富む王妃
    目ざめよ! 1998
  • 今や事実として認められた宗教上の不寛容
    目ざめよ! 2000
  • 宗教上の不一致 ― 英国におけるその歴史
    目ざめよ! 1985
もっと見る
目ざめよ! 1998
目98 8/22 26–27ページ

英国宗教改革 ― 変革の時代

「それは変革と再評価のまっただ中の世界であった」。

これは,J・J・スカレスブリクが「ヘンリー8世」(英語)という伝記の中で,16世紀の英国について述べた言葉です。ヨーロッパで生じた宗教的大変動のため,一部の人々は,正統派の宗教を改革する必要があると考えるようになりました。

論争の的となったマルティン・ルターの教えを支持する人は英国にもいました。それに14世紀末以降,聖書の熱心な伝道者で,擁護者だったロラード派の人々も,よく忍耐して英国の至る所で自分たちの教えを広めていました。

ウィリアム・ティンダル訳のギリシャ語聖書を頒布させまいとする強力な敵の妨害があったにもかかわらず,ティンダル訳は1526年までには何冊も英国に届いており,煉獄,全実体変化(全質変化),僧職者の独身制などカトリックの伝統的な教えは,聖書の裏付けの全くないものであることが暴露されました。

しかし,英国の宗教改革の炎を燃え上がらせる要因となったのは,国王の家庭問題による危機でした。ヘンリー8世は,カトリック教徒である妻,アラゴンのキャサリンを離婚しようとしました。王位継承者としての男の子が欲しかったからです。キャサリンがヘンリーに産んだ6人の子供は,メアリーという名の娘以外は皆,死産もしくは夭折しました。さらに,ヘンリーは若くて陽気なアン・ブーレンにひかれて結婚したいと考えていました。

ヘンリーの有能で有力な盟友,枢機卿トマス・ウルジーは,それと知らずに宗教改革をいっそう促進しました。ヘンリーの治世が始まった1509年以来,ウルジーは着実に権力と富を得ていました。やがてその影響力は,国王に次ぐほどになりました。しかしウルジーは人気がありませんでした。というのは,横暴で,税金を引き上げていたからです。その上,自分は自らの教会の法律よりも上位にあると考えていたようです。二人の非嫡出子をもうけていたからです。

貴族たちはウルジーの失脚をたくらんでいたので,ヘンリーが必死に望んでいた離婚を成立させることにウルジーが失敗すると,その失脚は決定的なものになりました。職を奪われたウルジーは1530年に,反逆罪のかどで国王の前に出頭する直前に亡くなりました。

英国では反教権主義が強まりました。歴史家のスカレスブリクによれば,「教会は徹底的な浄化を必要としており,この非経済的な重荷,つまりこれほど人手を要し,これほど富を無駄にし,これほど多くを奪いながら,代わりにほとんど何も与えないこの巨大な制度に社会はもはや耐えることができない……また,英国の富がローマに流出しているため……[英国]経済が損なわれているとされて」いました。

クロムウェル時代

やがてヘンリーの離婚問題は,同国王の主立った顧問トマス・クロムウェルとカンタベリーの新大主教トマス・クランマーの助力を得て“解決され”ました。英国の教会はローマ教会との関係を絶ち,国王が英国の教会の首長になりました。クランマーは1533年に,ヘンリーとキャサリンの結婚を無効であると宣言していました。ヘンリーはその時までにアン・ブーレンとすでに結婚しており,彼女は妊娠していました。教皇権からのこうした離脱は,重大な影響を及ぼしました。

クロムウェルは教会に対する無制限の権限を与えられ,従わねばならないのは国王に対してのみという状況でした。しだいに修道院は取り壊され,その資産は国王に引き渡され,大いに必要とされた歳入の補充に当てられました。その上,クロムウェルは英訳聖書を印刷・頒布する面でたいへん重要な役割を演じました。それは,A・G・ディケンズが自著「英国宗教改革」(英語)の中で,「政治的主導権,出版企画,資金調達,英国国教会に対する『大聖書』の強制使用などは,国王の代行者トマス・クロムウェルから出たことであった」と述べている通りです。

聖書が一般大衆にいっそう入手しやすくなるにつれて,正統派の宗教に関する人々の見方は大きな影響を受けました。ディケンズはこう述べています。「イエス・キリストや使徒たちの生活の特徴である気取りのない簡素さは,中世末およびルネッサンス期の教会の威圧的な大司法機構,莫大な富,壮大で豪華な建造物などとは異様なまでの著しい対照をなしていた」。

ヘンリーはある種の宗教改革に対する関心を表わしましたが,多くの場合,政策を左右したのは強力な宗教的確信ではなく,政治上の便宜主義でした。ヘンリーは対立し合う二つの党派が宮廷内にあること,つまり改革を望む党派と伝統的な宗教を維持したいと考える保守派とがあることをよく知っていました。それで,優位を保つため,巧みにそれら二つの党派を互いに対抗させました。

改革の黄金時代はクロムウェルの失脚により,1540年には一時的に中断されました。反対者だった保守派の人々は,クロムウェルが反逆者であり,異端者でもあることをヘンリーに納得させたため,クロムウェルは裁判にかけられることもなく処刑されました。

保守派はしばらくの間,優勢を保ったように見えましたが,すでに根づいていた改革を阻止することはできませんでした。それにしても,宗教改革はその約束を果たしませんでした。プロテスタントの改革者たちは,ローマ・カトリックの信仰を汚染していた,人間の偽りの教えや伝承の多くを根絶しなかったのです。

1543年にヘンリーが,6番目で最後の妻となったキャサリン・パーと結婚した時,改革を望む人々は元気を出しました。この王妃は宗教上の新たな教えに深い関心を示しました。しかし保守派は,闘わずに屈伏したいなどとは考えませんでした。彼らの巡らした陰謀や宮廷での策謀に巻き込まれた新王妃は,自分の命を守るため必死に闘わねばなりませんでした。そのいきさつは,「目ざめよ!」誌の後の号で取り上げられます。

[26ページの図版]

ヘンリー8世とアン・ブーレン

アラゴンのキャサリン

ウィリアム・ティンダル

トマス・クロムウェル

トマス・クランマー

トマス・ウルジー

[27ページの図版のクレジット]

Thomas Wolsey: From the book The Story of Liberty, 1878; crest, background design, and King Henry VIII with Anne Boleyn: From the book The Library of Historic Characters and Famous Events, Vol. VII, 1895; Catherine of Aragon, Thomas Cranmer, and Thomas Cromwell: From the book Heroes of the Reformation, 1904

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする