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わたしたちが聖なる者でなければならないのはなぜかものみの塔 2014 | 11月15日
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1. レビ記はどんな点で助けになりますか。
レビ記には,神聖さに言及する箇所が聖書中の他のどの書よりも数多く含まれています。神聖さはエホバの真の崇拝者すべてに求められる特質なので,レビ記を正しく理解することは,聖なる者であるために助けになります。
2. レビ記にはどんな特色がありますか。
2 預言者モーセが記したレビ記は,「教え(る)のに有益」な聖書の一部です。(テモ二 3:16)この書には,エホバという名が各章に平均10回ほど出てきます。この書の意味を理解するなら,神のお名前に非難をもたらすことは行ないたくないという気持ちが強まります。(レビ 22:32)また,レビ記で繰り返されている「わたしはエホバである」という言葉は,神に従う大切さを思い起こさせます。では,この2つの記事を通して,レビ記のまばゆい宝石のような教訓を味わいましょう。この書は,聖なる崇拝を行なううえで有益な,神からの贈り物なのです。
神聖さが求められる
3,4. アロンとその子らが身を洗ったことは,何を表わしていましたか。(冒頭の挿絵を参照。)
3 レビ記 8:5,6を読む。エホバはアロンをイスラエルの大祭司として選び,その子らを国民のための祭司として奉仕させました。アロンはイエス・キリストを表わし,アロンの子らはイエスの油そそがれた追随者たちを表わします。そうすると,アロンが身を洗ったことは,イエスが自らを清めることを表わしていましたか。そうではありません。イエスは罪がなく「きずのない」方だったので,清められる必要はありませんでした。(ヘブ 7:26; 9:14)しかし,アロンの,身を洗ったあとの状態は,イエスの清く義なる状態を表わします。では,アロンの子らが身を洗ったことは何を表わしますか。
4 それは,天の祭司職に選ばれる人たちが清められることを予示していました。では,アロンの子らが身を清めたことは,油そそがれた者たちのバプテスマを表わしていましたか。いいえ。バプテスマは罪を洗い去るものではなく,エホバ神に無条件の献身をしたことの象徴です。油そそがれた者たちは「み言葉によ(って)」洗われます。ですから,キリストの教えを生活に十分当てはめなければなりません。(エフェ 5:25-27)そのようにして,彼らは神聖なものとされ,清められます。では,「ほかの羊」の場合はどうですか。―ヨハ 10:16。
5. ほかの羊も神の言葉によって清められる,と言えるのはなぜですか。
5 アロンの子らは,ほかの羊の「大群衆」を表わしていたのではありません。(啓 7:9)しかし,ほかの羊も,神の言葉によって聖なるものとされ,清められます。地的な希望を持つ人たちは,イエスの流された血の重要性と益に関する聖書の言葉を読み,その言葉に信仰を置きます。そして,「昼も夜も神に神聖な奉仕を」ささげます。(啓 7:13-15)油そそがれた者たちとほかの羊は継続的に清められます。その結果,彼らの行動は常に清いものに保たれます。(ペテ一 2:12)エホバは,それら2つのグループの清さと一致を見て,喜ばれるに違いありません。彼らは,羊飼いであるイエスに忠節に聞き従っているのです。
6. どんな自己吟味は有益ですか。
6 イスラエルの祭司たちが身体的に清くあるべきだったことは,今日のエホバの民にとって大きな意味があります。研究生の中には,わたしたちの崇拝場所の清さや,清潔できちんとした身なりに注目する人が少なくありません。とはいえ,祭司たちに清さが求められたことから,高められたエホバの崇拝の山に上る人は皆,「心の清い者」でなければならないことも分かります。(詩編 24:3,4を読む。イザ 2:2,3)神への神聖な奉仕は,清い体だけでなく,清い思いと清い心でささげるべきです。そのためには,繰り返し自己吟味しなければなりません。ある人たちはその後,聖なる者となるために大きな変化を遂げる必要があるかもしれません。(コリ二 13:5)例えば,バプテスマを受けているのに故意にポルノを見る人は,「自分は聖なる者だと言えるだろうか」と自問すべきです。そして,その恥ずべき習慣を断つための援助を求めなければなりません。―ヤコ 5:14。
従順によって聖なる者であることを示す
7. イエスは,レビ記 8章22-24節と調和して,どんな手本を示しましたか。
7 イスラエルの祭司職が設けられた時,大祭司アロンとその子らの右の耳,右手の親指,そして右足の親指に,雄羊の血が付けられました。(レビ記 8:22-24を読む。)これは,祭司たちが最善を尽くして従順に務めを果たすことの象徴でした。大祭司イエスもそのように務めを果たしました。イエスの耳は神の指示に向けられ,イエスの手はエホバのご意志を行なうために用いられました。その足が聖なる歩みからそれることはありませんでした。イエスは,油そそがれた者たちとほかの羊の完全な手本となられました。―ヨハ 4:31-34。
8. エホバの崇拝者は皆,どうするべきですか。
8 油そそがれたクリスチャンもほかの羊も,大祭司イエスの忠誠の歩みに倣わなければなりません。エホバの崇拝者は皆,神の言葉の指示に固く従うべきであり,聖霊を悲しませてはなりません。(エフェ 4:30)自分の「足のために……まっすぐな道を作」ることが必要です。―ヘブ 12:13。
9. 統治体の成員と密接に奉仕してきた3人の兄弟たちは,どんなコメントを述べましたか。そのコメントは,わたしたちが聖なる者であるうえで,どのように助けになりますか。
9 地的な希望を持ち,統治体の成員たちと何十年も密接に奉仕してきた3人の兄弟のコメントがあります。1人の兄弟はこう述べました。「この奉仕はまさに特権ですが,統治体の兄弟たちと身近に接していると,油そそがれた者であっても不完全なのだ,ということを時々感じます。それでも,これまで長年わたしが目標にしてきたことの一つは,指導の任に当たる人たちに従順であることです」。別の兄弟はこう語っています。「『キリストに従順』であることを勧めるコリント第二 10章5節のような聖句により,指導の任に当たる兄弟たちに従順と協力を示すよう助けられてきました。その従順は心からのものです」。さらに別の兄弟はこう言います。「エホバが愛するものを愛し,エホバが憎むものを憎むには,また,常にエホバの導きを求め,エホバが喜ばれることを行なうには,エホバの組織に対する従順と,地に関する目的を成し遂げるためにエホバが用いておられる人々への従順を示さなければなりません」。この3人目の兄弟は,統治体の成員になったネイサン・ノアの手本をよく覚えています。1925年の「ものみの塔」誌に「国民の誕生」という記事が掲載された時,記事の内容を疑問視した人たちもいましたが,ノア兄弟はその内容を進んで受け入れたのです。ノア兄弟の示した従順は,この兄弟に深い感銘を与えました。ここに挙げた3人の兄弟たちの言葉を熟考するのは,従順によって聖なる者であることを示す助けになります。
血に関する神の律法への聖なる従順
10. 血に関する神の律法に従うのは,どれほど大切なことですか。
10 レビ記 17:10を読む。エホバはイスラエル人に,「いかなるものであれ血を食べる」ことを禁じました。クリスチャンも,動物の血であれ人間の血であれ,血を避けるよう求められています。(使徒 15:28,29)神から顔を背けられ,会衆から断たれることなど,考えただけでもぞっとします。わたしたちは神を愛しており,神に従いたいと思っています。わたしたちは命の危険に直面するとしても,エホバを知らずエホバに従うことなど意に介さない人たちの要求には屈したくありません。人にあざけられるとしても,神に従うことを選びます。(ユダ 17,18)では,血を食べたり輸血を受け入れたりしないよう「堅く思い定め」るうえで,どんな見方が役立つでしょうか。―申 12:23。
11. 年に1度の贖罪の日は無意味な儀式ではありませんでした。なぜですか。
11 古代イスラエルの大祭司が年に1度の贖罪の日に動物の血を用いたことは,血に対する神の見方を理解する助けになります。血は特別な目的のために用いられました。エホバの許しを求める人たちの贖罪を行なうために使われたのです。雄牛とやぎの血が,契約の箱の覆いのほうに向けて,覆いの前にはね掛けられました。(レビ 16:14,15,19)このことにより,エホバがイスラエル人の罪を許すための道が開かれました。さらにエホバは,人が食用に動物を殺した場合,その血を注ぎ出し,塵で覆うようにと命じられました。「あらゆる肉なるものの魂はその血で……あるから」です。(レビ 17:11-14)こうしたことは無意味な儀式だったのでしょうか。そうではありません。贖罪の日に血を用いることと,血を地面に注ぎ出すようにとの命令は,それ以前にエホバが血に関してノアとその子孫に与えておられた命令に調和しています。(創 9:3-6)エホバ神は,命を支えるために血を食べることを禁じておられたのです。これは,クリスチャンにとって何を意味しますか。
12. パウロは,血と許しの関係について,何と述べていますか。
12 使徒パウロは血が持つ清める力について,ヘブライ人のクリスチャンにこう説明しました。「律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ,血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです」。(ヘブ 9:22)しかし,動物の犠牲の価値は一時的なものにすぎませんでした。パウロがイスラエル人に述べたように,動物の犠牲は,彼らが罪人であり,罪を完全に取り去るにはそれ以上の犠牲が必要であることを思い出させました。律法は「来たるべき良い事柄の影」であり,「事の実質そのものを備えてはいない」のです。(ヘブ 10:1-4)では,罪の許しはどのようにして可能になるのでしょうか。
13. イエスがご自分の血の価値をエホバに差し出したことについて,あなたはどう感じますか。
13 エフェソス 1:7を読む。わたしたちのために進んで「ご自身を渡してくださった」イエス・キリストの犠牲の死は,イエスと父エホバを愛する人すべてにとって重要な意味があります。(ガラ 2:20)とはいえ,わたしたちを本当に釈放し,罪の許しを可能にしたのは,イエスが死と復活の後に行なった事柄です。イエスは,贖罪の日に関するモーセの律法で予表されていた事柄を成就しました。大祭司は贖罪の日に,犠牲の動物の血を幾らか携えて至聖所に入り,あたかも神のみ前にいるかのようにして,それを神に差し出しました。(レビ 16:11-15)イエスも同様に,人間としての血の価値を携えて天そのものに入り,それをエホバに差し出しました。(ヘブ 9:6,7,11-14,24-28)イエスの血に信仰を働かせることによって罪を許され,清い良心を持てるというのは,本当にありがたいことです。
14,15. 血に関するエホバの律法を理解し,それに従うのが大切なのは,なぜですか。
14 「いかなるものであれ血」は食べてはならない,とエホバが命じておられる理由は,これでよく理解できたことでしょう。(レビ 17:10)神が血を神聖なものと見ておられる理由がお分かりでしょうか。血は命を表わしているのです。(創 9:4)あなたも,血に関する神の見方を受け入れ,血を避けるようにとの命令に従うべきだと思われませんか。神との平和を得るための唯一の方法は,イエスの贖いの犠牲に信仰を置き,血が創造者にとって貴重なものであるという認識を持つことなのです。―コロ 1:19,20。
15 わたしたちは皆,突然に血の問題に直面することがあります。家族や仲間のクリスチャンが,輸血を受け入れるか受け入れないかの決定を迫られることもあるでしょう。そうした危機的な状況で,血液分画や医療処置に関する決定を下さなければならないかもしれません。ですから,緊急事態を意識して,調査し,準備をしておくのは非常に重要なことです。そのような方法を講じ,エホバに祈るのは,この問題について妥協せずに確固とした立場を取る助けになります。わたしたちは,聖書で非とされている事柄を受け入れてエホバを悲しませるようなことは,決してしたくありません。今日,医療関係者をはじめ多くの人たちが,命を救おうとして献血を呼びかけています。しかし,エホバの聖なる民は,血の用い方を定める権利は創造者にあることを認めます。創造者にとって,「いかなるものであれ血」は神聖なのです。ですから,わたしたちは血に関する神の律法に従うことを固く決意すべきです。わたしたちは,聖なる行動を取ることにより,イエスの血の,命を救う力に対する深い認識を示します。イエスの血だけが,罪の許しと永遠の命を可能にするのです。―ヨハ 3:16。
血に関する神の律法に従うことを固く決意していますか(14,15節を参照)
聖なる者であるよう,エホバが望んでおられるのはなぜか
16. エホバの民が聖なる者であるべきなのは,なぜですか。
16 イスラエル人はエジプトでの奴隷状態から救出された時,エホバからこう告げられました。「わたしはエホバであり,あなた方をエジプトの地から導き出してあなた方の神たることを示している者なのである。あなた方も聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者だからである」。(レビ 11:45)イスラエルの民に神聖さが求められたのは,エホバが聖なる方だからです。わたしたちもエホバの証人として,聖なる者でなければなりません。レビ記はその点を疑問の余地なく明らかにしています。
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すべての行状において聖なる者でなければならないものみの塔 2014 | 11月15日
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1,2. (イ)神の民は行状に関して,何を求められていますか。(ロ)この記事ではどんな点について考えますか。
霊感のもとに使徒ペテロは,レビ記を引用して,クリスチャンもイスラエル人と同じように聖なる者であるべきことを指摘しました。(ペテロ第一 1:14-16を読む。)「聖なる方」エホバは,油そそがれた者にも「ほかの羊」にも,すべての行状において聖なる者となるために最善を尽くすよう求めておられます。―ヨハ 10:16。
2 レビ記の霊的宝石をさらに調べましょう。それは非常に有益なことであり,学んだことを適用するなら,すべての行状において聖なる者となることができます。この記事では次の点について考えます。妥協をどう見るべきでしょうか。レビ記はエホバの主権を擁護することについて何を教えていますか。犠牲をささげることについて何を学べるでしょうか。
妥協しないよう用心する
3,4. (イ)クリスチャンが聖書の律法と原則に関して妥協してはならないのは,なぜですか。(ロ)復しゅうをしたり恨みを抱いたりすべきでないのは,なぜですか。
3 エホバを喜ばせたいなら,その律法と原則に固く従わなければなりません。妥協しても構わないといった,聖なる者にふさわしくない態度を取ってはなりません。わたしたちはモーセの律法下にはいませんが,その規定から,神の目に何が受け入れられて何が受け入れられないかを洞察できます。例えば,イスラエル人はこう命じられていました。「あなたの民の子らに対して復しゅうをしたり,恨みを抱いたりしてはならない。あなたの仲間を自分自身のように愛さねばならない。わたしはエホバである」。―レビ 19:18。
4 エホバは,復しゅうをしたり恨みを抱いたりしないよう求めておられます。(ロマ 12:19)わたしたちが神の律法と原則を無視すると,悪魔は喜びます。エホバには,そしりをもたらすことになるでしょう。だれかから故意に傷つけられたとしても,憤りを宿す器にならないようにしましょう。神は「土の器」であるわたしたちに,奉仕の務めという宝を持たせてくださいました。(コリ二 4:1,7)そのような器に,腐食性の強い憤りを入れるのは,ふさわしくありません。
5. アロン,そしてその息子たちの死に関する記述から,何を学べますか。(冒頭の挿絵を参照。)
5 レビ記 10章1-11節には,アロンの家族に生じた痛ましい出来事が記されています。天からの火がアロンの子ナダブとアビフを幕屋で焼き尽くした時,家族は胸の張り裂ける思いをしたに違いありません。しかしアロンとその家族は,2人の死を嘆き悲しんではならない,と神から命じられました。何と大きな信仰の試練でしょう。あなたはどうですか。家族その他で排斥されている人がいるなら,その人と交わらないことにより,自分が聖なる者であることを示していますか。―コリント第一 5:11を読む。
6,7. (イ)教会での結婚式に参加するかどうかを決めるに当たり,どんな点を考慮するのは重要なことですか。(脚注を参照。)(ロ)教会での結婚式に参加しない理由を,どのように説明できますか。
6 わたしたちは,アロンとその家族ほどの厳しい試練には直面しないかもしれません。しかし,エホバの証人ではない親族から,教会で結婚式を挙げるので出席して参加してほしい,と言われたらどうでしょうか。聖書には,出席を禁じる明確な命令はありませんが,決定を下す際に導きとすべき原則は幾つかあります。a
7 ここに述べたような状況で,エホバの目から見て聖なる者であろうとすると,エホバの証人でない親族は戸惑うかもしれません。(ペテ一 4:3,4)もちろん,親族を怒らせないように気をつけますが,率直に,そして穏やかに親族と話すのは,たいてい最善の方法です。十分に前もって話すとよいでしょう。式に参加するよう招かれてうれしく思う,と伝えることができます。そして,「宗教的な事柄が関係しているので,式に参加すると特別な日の晴れやかな雰囲気を壊してしまうかもしれないし,出席している方たちに嫌な思いをさせてしまうかもしれない」と,言うことができます。このようにして,信仰の面で妥協することを避けられるでしょう。
エホバの主権を擁護する
8. レビ記はどのようにエホバの主権を強調していますか。
8 レビ記はエホバの主権を強調しています。レビ記には,律法がエホバから来ていることを示す箇所が30以上あります。そのことを認識していたモーセは,行なうようにとエホバから命じられた事柄を行ないました。(レビ 8:4,5)わたしたちも同じです。どんなときも,主権者エホバが望んでおられる事柄を行なうべきです。神の組織からの支えがあるとはいえ,イエスが荒野で誘惑された時と同じように,信仰の試練は,わたしたちが独りでいる時に生じるかもしれません。(ルカ 4:1-13)しかし,神を信頼し,その主権を支持するなら,だれもわたしたちを妥協させることはできません。恐れに屈してしまうことはないのです。―箴 29:25。
9. 神の民があらゆる国で憎まれるのは,なぜですか。
9 キリストの追随者でありエホバの証人であるわたしたちは,世界の様々な国で迫害されます。これは予期すべきことです。イエスは弟子たちにこう言われたからです。「人々はあなた方を患難に渡し,あなた方を殺すでしょう。またあなた方は,わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的となるでしょう」。(マタ 24:9)しかしわたしたちは,そうした憎しみに面しても,辛抱強く王国を宣べ伝え,エホバのみ前に聖なる者であり続けます。正直で清い生活を送り,法律を守る市民であるわたしたちが,そのように憎まれるのは,なぜですか。(ロマ 13:1-7)それは,エホバを自分たちの主権者なる主としているからです。わたしたちは「この方だけに」神聖な奉仕をささげます。その方の義にかなった律法と原則の面で妥協することは決してありません。―マタ 4:10。
10. 中立の点で妥協したある兄弟は,どんな経験をしましたか。
10 わたしたちは「世のものではな(い)」ので,世の戦争や政治問題に関して中立の立場を保ちます。(ヨハネ 15:18-21; イザヤ 2:4を読む。)ある人たちは,神に献身していても,中立の点で妥協してしまいました。そのうちのほとんどは後に悔い改め,憐れみ深い天の父との良い関係を取り戻しました。(詩 51:17)しかし,少数ながら,悔い改めなかった人もいました。例を挙げましょう。第二次世界大戦中に,ハンガリー各地の刑務所に不当に投獄されていた45歳以下の兄弟160人が,ある町に集められ,軍務に就くよう命令されました。忠実な兄弟たちは断固としてそれを拒みましたが,9人は軍の宣誓を行ない,軍服を受け取りました。2年後,そのうちの1人が,忠実な証人たちを処刑する銃殺隊に割り当てられました。ところが,こともあろうに,処刑される証人たちの中に,自分の実の兄弟がいたのです。しかし,その処刑は実行されずに終わりました。
エホバに最良のものをささげる
11,12. 古代イスラエルでささげられた犠牲から,何を学べますか。
11 モーセの律法は,イスラエル人がどんな犠牲をささげるべきかを規定していました。(レビ 9:1-4,15-21)それらの犠牲はイエスの完全な犠牲を指し示していたので,きずのないものであるべきでした。さらに,犠牲をささげる時は,それぞれの犠牲について定められた手順に従うことが求められました。その例として,出産後の母親に求められた事柄を考えてみましょう。レビ記 12章6節にはこうあります。「息子または娘のための自分の浄めの日数が満ちた時に,彼女は若い雄羊,その一年目のものを焼燔の捧げ物のために,そして罪の捧げ物のために若いいえばとかやまばとを,会見の天幕の入口へ,祭司のもとへ携えて来る」。神はこのように明確な規定を設けておられましたが,律法には,愛に富み,道理にかなったエホバの特質が見事に反映されています。羊を出すだけの余裕が母親にないときは,2羽のやまばとか2羽の若いいえばとをささげることが許されていたのです。(レビ 12:8)その母親は,貧しくても,もっと高価な捧げ物を持って来る人と同じように愛され,評価されました。ここから何を学べるでしょうか。
12 使徒パウロは,神に「賛美の犠牲」をささげるよう,仲間のクリスチャンに勧めました。(ヘブ 13:15)わたしたちは唇で,エホバの聖なるみ名を公に宣明します。ろう者の兄弟姉妹であれば,手話でそうした賛美を神にささげます。家から出られないクリスチャンは,手紙や電話で証言したり,訪問客などに証言したりして,神を賛美します。どれほどエホバを賛美できるかは,健康状態や能力によって異なりますが,わたしたちがささげる賛美の犠牲は常に最良のものであるべきです。―ロマ 12:1。テモ二 2:15。
13. わたしたちが野外奉仕の報告を提出するのは,なぜですか。
13 わたしたちの賛美の犠牲は,神への愛ゆえにささげる自発的で個人的なものです。(マタ 22:37,38)では,宣教に費やした時間を毎月報告する取り決めについて,どんな見方をすべきでしょうか。報告を提出することは,敬虔な専心の表われと言えます。(ペテ二 1:7)もちろん,より多くの時間を報告するために宣教に多くの時間を費やさなければならない,と考える必要はありません。実際,介護施設で生活している人や,体の自由が利かない人は,野外奉仕を1時間単位ではなく,15分単位で報告できます。エホバは,そうした奉仕を,その奉仕者の最良の捧げ物とご覧になります。また,ご自分への愛の表明と見て,さらには,エホバの証人として奉仕する貴重な特権への認識の表明と見て,高く評価してくださいます。古代イスラエルにいた貧しい人たちも,神への犠牲をささげることができました。同じように,何らかの限界のある兄弟姉妹たちも,報告を提出することができます。そしてその報告を喜べます。世界全体の報告は,そうした一人一人の報告によって作成されるのであり,組織が王国を宣べ伝える活動の計画を立てるうえで役立っています。ですからわたしたちは,宣教に費やした時間を報告するのです。
研究の習慣と賛美の犠牲
14. 研究の習慣を吟味すべきなのはなぜか,説明してください。
14 レビ記の霊的な宝の幾つかを調べて,この書が霊感を受けた聖書に収められている理由がよくお分かりになったことでしょう。(テモ二 3:16)聖なる者でありたい,という決意が強まりましたか。エホバは,最良のものをささげるよう求めておられます。エホバは,わたしたちがそうするに値する方です。この2つの記事を通して,聖書全体をいっそう深く掘り下げて学びたいと思われたことでしょう。(箴言 2:1-5を読む。)
あなたは,聖書研究と家族の崇拝の時間を優先していますか(14節を参照)
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