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目ざめよ! 1999
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聖書の見方

死者に敬意を払うべきですか

「ほとんどの人は,深いところに根ざした感情に動かされて,死んだ動物に対するのとは異なる敬意を抱いて死者の体を扱う」― ブリタニカ百科事典(ENCYCLOPÆDIA BRITANNICA)。

大抵の人は亡くなった愛する人に何らかのかたちで敬意を払います。亡くなった人は新聞の死亡告知欄で栄誉を与えられ,さまざまな賛辞でたたえられます。宗教的あるいは伝統的な儀式を含む念入りな葬式が一般に行なわれている土地もあります。死者のための儀式が数日,数週,あるいは数か月続くこともあります。学校,空港,通りや町の名称が,亡くなった有名人にちなんで付けられます。英雄とされた人物をしのんで記念碑が建てられ,祝日が設けられます。

しかし神の言葉によると,死者はどんな栄誉を与えられてもそれを全く知りません。(ヨブ 14:10,21。詩編 49:17)死者はその人を覚えている人の記憶の中でのみ生きています。聖書は,「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もな(い)」と述べています。(伝道の書 9:5)聖書が差し伸べているのは,将来に起きる復活の希望です。(ヨハネ 5:28,29; 11:25)しかしその時まで,死者は無の状態になります。文字どおり塵になっているのです。―創世記 3:19。ヨブ 34:15。

死者の状態に関する聖書の明確な立場から見て,死者に敬意を払うことには何か意味があるのでしょうか。クリスチャンは,愛する人の葬式や埋葬に関連した伝統的な習慣に従いますか。

偽りの前提に基づく儀式

死者に関連した伝統的な儀式の多く,恐らくその大部分は,聖書に基づかない宗教上の教えに深く根ざしています。ブリタニカ百科事典には,一部の儀礼は「故人を悪霊の攻撃から守ること」を意図しており,「死の伝染や死者の恨みから生きている人を守ることが儀礼の目的となってきた場合もある」と述べられています。死者が目に見えない領域で生きているという,真実でない前提に基づくそうした習慣はいずれも,聖書の真理と真っ向から対立します。―伝道の書 9:10。

多くの人は死者をあがめます。そのような崇拝の形態には,死んだ先祖に犠牲や祈りをささげることが含まれます。そうした儀式に携わる人の中には,自分の行ないを崇拝とは見ず,むしろ死者に対する畏敬の念や深い敬意の表現とみなす人もいます。とはいえ,死んだ先祖に対するその種の信心には宗教的な背景があり,聖書の教えと相いれません。イエス・キリストは,「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕をささげなければならない」と言われました。―ルカ 4:8。

平衡の取れた見方

死んだ人を敬い,敬意を払うことが,いつでも宗教上の偽りの教えと結び付いているわけではありません。例えば聖書の記述には,忠実な王ヒゼキヤが死後にどのように敬意を払われたかが記されています。神の民は,「彼をダビデの子らの埋葬所の坂道に葬った。その死に際して,ユダのすべての人々とエルサレムの住民が彼に敬意を表した」のです。(歴代第二 32:33)もう一つの例は,イエスの場合です。聖書は,弟子たちが「イエスの体を取り,埋葬に備えて行なうユダヤ人の習慣どおり,それを香料と一緒に巻き布で巻いた」と述べています。―ヨハネ 19:40。

聖書は,死んだ人の体や埋葬に関連して取られた特別な手順について,ほかにも多くの事例を収めています。それらの習わしは先祖崇拝ではなく,死者が生きている人の営みに引き続き影響を及ぼすことができるという誤った信条に基づくものでもありませんでした。むしろ,死を悼む人たちが,自分の愛する人に深い敬意を表わしたのです。聖書はそのようにして敬意を表わすことを非としてはいません。それは人の自然な感情に基づくものだからです。とはいえ聖書は,葬式でむやみに,あるいはヒステリックに感情をあらわにすることを是認していません。一方,愛する人の死に直面したときに,感情を押し殺して平然としているようにとクリスチャンに勧めているわけでもありません。

それでエホバの証人は,愛する人の葬式や埋葬の場に出席する際,死者にふさわしい敬意を示し,誉れを配します。(伝道の書 7:2)花や葬儀に関することなど,地元の習慣に関係した事柄について,クリスチャンは聖書の教えと調和しない慣行を避けるよう個人的に注意深く選択します。それには良い判断と平衡が求められます。「宗教・倫理百科事典」(Encyclopædia of Religion and Ethics)はこう説明しています。「ある儀礼の持つ意義や価値は時代によって変化する。それで,その儀礼に付された意味が後代には元の意味とかけ離れたものとなることがあり,それに関する一般的な説明がその起源に何も光を投じていないこともある」。a

賛辞を述べるのは間違っているか

平衡を保つという原則は,死者に賛辞を述べることにも当てはまります。エホバの証人は葬式の際,遺族を慰めることに努めます。(コリント第二 1:3-5)正式なプログラムの中に一人かそれ以上の話し手を含めることができるかもしれませんが,それを,故人の徳をたたえて賛辞を述べる人を次々と並べる場にするのはふさわしくないでしょう。むしろ葬式は,復活の希望を与えてくださったご親切を含め,神のすばらしい特質をたたえる機会となります。

しかしこれは,葬式の話の中で故人の良い特質を思い起こすのが間違っているという意味ではありません。(サムエル第二 1:17-27と比較してください。)亡くなった人が死に至るまで神に忠実であったなら,その人は見倣うべき優れた模範です。(ヘブライ 6:12)神の僕の忠誠の歩みについて深く考えるのは良いことです。葬式の際にそうした積極的な考えを他の人たちと分かち合うなら,生きている人たちを慰め,亡くなった人をしのぶことができます。

真のクリスチャンは死者を崇拝しませんし,一般に行なわれている聖書の真理と対立する儀礼にもかかわりません。一方,神の僕は,死者は単なる塵なのだから葬式の習慣はみな意味もなければ必要もない,といった極端な見方も退けます。そして亡くなった人を悼み,その人のことを思い起こします。その悲痛な気持ちは,死者には苦しみがなく,復活の希望があるという聖書の真理によって和らげられます。

[脚注]

a 「ものみの塔」誌,1991年10月15日号,31ページには次のような指針が載せられています。「本当のクリスチャンは,自分がある習慣に従うならば,聖書にない信条や慣行を取り入れていることを他の人に示すことになるだろうか,と考えてみるべきです。その答えは,時代や場所によって違ってくるかもしれません。ある習慣(または図案)には,数千年前なら偽りの宗教にまつわる意味があったかもしれません。あるいは,今でもどこかの遠い国ではそのような意味があるかもしれません。しかし,時間をかけていろいろ調べてみるのではなく,『自分の住んでいる所ではどんな見方が一般的だろうか』と考えてください。―コリント第一 10:25-29と比較してください」。

[10ページの図版]

1632年,スウェーデン国王グスタフ2世の死後に行なわれた,国王に敬意を表する葬列

[クレジット]

From the book Bildersaal deutscher Geschichte

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