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  • なぜ謙遜さを身に着けているべきですか
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1991
塔91 7/15 27–30ページ

なぜ謙遜さを身に着けているべきですか

米国の作家エドガー・アラン・ポーが,自分の書いた新しい小説を友人たちに読んで聞かせた直後のことでした。友人たちはふざけて,主人公の名前を使い過ぎだ,と言いました。ポーはどのように反応したでしょうか。一人の友人は,「彼は誇り高く,そのように人前でけなされたことに我慢できなかった。それで発作的に怒りだし,友人たちが止める間もなく燃えさかる火の中に原稿を一枚残らず投げ込んでしまった」と,その時のことを語っています。「非常に面白く,彼のいつもの……陰うつな作風とは全く違った」小説が失われてしまいました。彼が謙遜だったなら,その小説は失われなかったことでしょう。

人は誇りのせいで愚かなことをしてしまうものですが,誇りは世界中にはびこっています。しかし,エホバの僕たちはそうであってはなりません。謙遜さという,言わば美しいデザインの衣服を身に着けていなければならないのです。

謙遜さとは何か

使徒パウロは古代コロサイ市に住む仲間の信者に手紙を書いたときに,謙遜さという,クリスチャンの美しい衣服について触れました。パウロは,「神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい」と勧めました。―コロサイ 3:12。

そうです,謙遜さとは「へりくだった思い」のことです。それは「思いの低さ,誇らないこと,柔和」という意味です。謙遜な人とは「慎みの精神があり,高慢でない」人です。そして,「深い敬意,また恭しい敬意を表わす」人です。(ワールドブック百科事典,第1巻,1030ページ)謙遜さとは憶病や弱さのことではありません。実際,誇りは弱さの表われですが,謙遜さを表わすにはたいてい勇気と強さが必要です。

聖書中で「自分を低くする」と訳されているヘブライ語は,字義通りには「自分自身を踏みつける」という意味です。それで箴言を記した賢人は,「我が子よ,……もし自分の口のことばによって捕らえられたなら,……自分を救い出せ。あなたは仲間の者の掌中に陥ったからである。すなわち,行って,自分を低くし[あなた自身を踏みつけ],その仲間の者にあらしのように懇願を浴びせよ」と助言したのです。(箴言 6:1-3)言い換えれば,誇りを捨てて自分の間違いを認め,事態を正すのです。

本当の謙遜さでなければならない

謙遜に見える人すべてが,本当に謙遜であるとは限りません。謙遜に見えても,実は誇り高く,何としても我を通そうとする人もいます。また,他の人によい印象を与えるために偽の謙遜さという上着を着る人もいます。一例として,使徒パウロは「見せかけの謙遜」を示す人に立ち向かったことがありました。そのような人はだれでも,実際には「もっともな理由もなくその肉の思いのままに思い上がる」者であることをパウロは示しました。そのような人は,神からの好意を受けるかどうかは特定のものを食べたり飲んだり触ったりすること,また宗教上の日を守ることにかかっていると誤って考えていました。なるほど,その人は信心深く謙遜に見えたかもしれませんが,その人の偽の謙遜さは無価値なものでした。(コロサイ 2:18,23)事実,その人は偽の謙遜さのために,命の賞は物質的な事柄を断念する人に与えられると考えるようになりました。それはまた,一種の巧妙な物質主義を生み出しました。というのは,禁欲的な考えは,軽べつしているはずの物質的な事柄に注意を集中させるからです。

一方,本当の謙遜さがあれば,服装や身繕いや生活様式においてうぬぼれの強さを示さないよう抑えられます。(ヨハネ第一 2:15-17)謙遜さという衣服を身に着けている人は,自分自身や自分の能力に過度に注意を引きません。むしろ謙遜さは,思いやりのある態度で他の人に接し,神がご覧になるように自分自身を見る助けになります。ではどのように助けになるのでしょうか。

エホバの見方

預言者サムエルはイスラエルの新しい王に油をそそごうとしていたとき,エホバはエッサイの子エリアブを選ばれたと考えました。しかし神はサムエルに,「その容姿や丈の高さを見てはならない。わたしは彼を退けたからである。神の見るところは人の見るところと異なるからだ。人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ」と言われました。エッサイの子のうち7人は退けられました。神が選ばれたのはダビデでした。ダビデは忠実で謙遜な人であることを実証しました。―サムエル第一 13:14; 16:4-13。

わたしたちは謙遜さという衣服によって,高慢になったり,せん越になったり,ついには神の不興を買ったりすることがないよう守られます。神は「ごう慢な者に敵し,謙遜な者に過分のご親切を施される」のです。(ヤコブ 4:6)神の見方は詩編作者の次の言葉の中に示されています。「エホバは高い所におられますが,それでも,謙遜な者をご覧になるからです。しかし高ぶった者については,ただ遠くから知っておられるにすぎません」。(詩編 138:6。ペテロ第一 5:5,6)神がご自分の僕たちに期待しておられることは,ミカ 6章8節で提起されている,「エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか」という質問からはっきり分かります。

神とキリストが示された謙遜さ

エホバがわたしたちに謙遜さを示すよう期待しておられるとしても少しも不思議ではありません。謙遜さは神ご自身の特質の一つなのです。ダビデは,神によって敵から救い出された後に,こう歌いました。「あなた[エホバ]はその救いの盾をわたしに下さり,……あなたの謙遜さがわたしを大いなる者とするのです」。(詩編 18:35。サムエル第二 22:1,36)エホバは天の最も高いところにおられるにもかかわらず,『ご自分を低くして天と地をご覧になり,立場の低い者をまさしく塵の中から立ち上がらせておられます。神は貧しい者をまさしく灰溜めから高められます。これを高貴な者たちと共に座らせるためです』。(詩編 113:5-8)神は罪深い人類に憐れみを示すことによって謙遜さを表わされます。罪人の扱い方や罪のための犠牲としてみ子をお与えになったことによって,神の謙遜さ,愛,そして他の特質が表明されました。―ローマ 5:8; 8:20,21。

「気質が温和で,心のへりくだった」イエス・キリストは,人間として謙遜さの最高の模範を残されました。(マタイ 11:29)イエスは弟子たちに,「だれでも自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです」と言われました。(マタイ 23:12)これは口先だけの言葉ではありませんでした。イエスは亡くなられる前の晩に使徒たちの足を洗うという,当時の習慣では奴隷が行なう奉仕をされました。(ヨハネ 13:2-5,12-17)イエスは地上に来られる以前に神に謙遜に仕えておられましたし,復活されて天の高められた地位に就いてからも謙遜さを示してこられました。それでパウロは仲間の信者に,「他の人が自分より上であると考えて」,イエス・キリストと同じ謙遜な態度を持つようにと諭しました。―フィリピ 2:3,5-11。

神とキリストが謙遜さを示されたのですから,神の是認を得たい人はこの特質を表わさなければなりません。これまでに時々ごう慢になることがあったなら,へりくだって神の許しを祈り求めるのが賢明でしょう。(歴代第二 32:24-26と比較してください。)そしてうぬぼれた考えを持つことなく,パウロの次の助言を当てはめる必要があります。「高ぶった事柄を思わず,むしろ,へりくだった事柄を求めなさい」。(ローマ 12:16)では,わたしたちと他の人は謙遜さによってどのような益を得られるのでしょうか。

謙遜さの益

謙遜さの益の一つは,自分のことを自慢しないよう我慢できるということです。そうすれば,他の人に不快な思いをさせたり,成し遂げたことに感激してもらえなくて自分が恥ずかしい思いをしたりしないですみます。わたしたちは自分自身にではなく,エホバにあって誇るべきです。―コリント第一 1:31。

謙遜さは,わたしたちが神の導きを得る助けになります。エホバはダニエルのところに幻を携えたみ使いを遣わされました。それは,ダニエルが導きと理解を求めて神のみ前でへりくだったからです。(ダニエル 10:12)エズラはエルサレムの神殿を美しくするために大量の金や銀を携えてエホバの民をバビロンから導き出そうとしていたとき,民が神のみ前でへりくだるために断食をふれ告げました。どのような結果になりましたか。危険の伴う旅の間,エホバは彼らを敵の襲撃から守られました。(エズラ 8:1-14,21-32)神から与えられた務めを自分自身の知恵や力に頼りながら果たそうとするのではなく,ダニエルやエズラのように,謙遜さを示し,エホバの導きを求めましょう。

もしわたしたちが謙遜さという衣服を身に着けているならば,他の人に敬意を払うでしょう。例えば,謙遜な子供たちは親に敬意を払って従います。また,謙遜なクリスチャンは国籍や人種や背景の異なる仲間の信者に敬意を払います。なぜなら,謙遜さによってわたしたちは公平な見方ができるようになるからです。―使徒 10:34,35; 17:26。

謙遜さは愛と平和を促進します。謙遜な人は,自分が持っていると思う権利を認めさせようとして仲間の信者と争ったりしません。パウロは築き上げることだけを行ない,どんな兄弟の良心をもかき乱そうとはしませんでした。(ローマ 14:19-21。コリント第一 8:9-13; 10:23-33)また謙遜さは,自分に対して罪を犯した人を許すことによって愛と平和を促進する助けにもなります。(マタイ 6:12-15; 18:21,22)わたしたちは謙遜さに動かされて,自分が傷つけてしまった人のところへ行き,過ちを認め,許しを求め,犯してしまったかもしれないどんな間違いをも正すために自分にできることを行ないます。(マタイ 5:23,24。ルカ 19:8)傷つけられたほうの人が近づいてきたならば,わたしたちは謙遜さに促され,愛の精神をもって平和的に問題を解決します。―マタイ 18:15。ルカ 17:3。

救いは謙遜さを示すかどうかにかかっています。例えば,神に関して,「謙遜な民を,あなたは救われますが,あなたの目はごう慢な者たちに向かいます。彼らを低くするためです」と言われています。(サムエル第二 22:28)王イエス・キリストは,「真理と謙遜と義のために乗り進(む)」ときに,ご自分とみ父の前でへりくだる者を救われます。(詩編 45:4)謙遜さを示す人は次の言葉によって慰められます。「地の柔和な者たち,神の司法上の定めを守り行なってきたすべての者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ。恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう」― ゼパニヤ 2:3。

謙遜さと神の組織

謙遜さによって神の民は神の組織に感謝し,忠誠を保つ者として組織にとどまるよう動かされます。(ヨハネ 6:66-69と比較してください。)受けたいと願っていた奉仕の特権を得ていないとしても,謙遜さがあれば,会衆内で責任を担っている人々と協力するよう助けられます。そしてわたしたちが謙遜に協力すれば,良い模範を示すことになります。

一方,謙遜さがあれば,エホバの民の間で受けている奉仕の特権に関連して,うぬぼれの気持ちを表わさないよう守られます。謙遜であれば,神の組織の中で特権を得て行なってきた業に対して称賛を求めないよう守られます。そのうえ,もし長老として仕えているならば,謙遜さは神の羊の群れを優しく扱う助けになります。―使徒 20:28,29。ペテロ第一 3:8。

謙遜さと懲らしめ

謙遜さという衣服は,わたしたちが懲らしめを受け入れる助けになります。謙遜な人はユダの王ウジヤのようではありません。ウジヤの心はとてもごう慢になったため,権限がないのに祭司の務めを行なおうとしました。彼は『エホバに対して不忠実なことをし,神殿に入って香の祭壇の上で香をたこうとしました』。そして自分を正そうとした祭司に対して激怒したとき,らい病に打たれました。謙遜さが欠けていたために何と高い代償を払ったのでしょう。(歴代第二 26:16-21。箴言 16:18)ウジヤのようになって,誇りに妨げられてみ言葉と組織を通して与えられる神からの懲らしめを受け入れられないということが決してないようにしましょう。

この点について,パウロは油そそがれたヘブライ人のクリスチャンに次のように語りました。「[あなた方は]あなた方を子と呼びかけているこの勧めをすっかり忘れてしまっています。『我が子よ,エホバからの懲らしめを軽く見てはならず,また神に正されるとき,弱り果ててもならない。エホバは自分の愛する者を懲らしめられるからである。事実,自分が子として迎える者をすべてむち打たれるのである』。……確かに,どんな懲らしめも当座は喜ばしいものに思えず,かえってつらいことに思えます。しかし後には,それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出すのです」。(ヘブライ 12:5-11)加えて,『懲らしめの戒めは命の道である』ことを忘れないようにしましょう。―箴言 6:23。

謙遜さを常に身に着けておく

クリスチャンが常に謙遜さという衣服を身に着けているのは非常に重要なことです。それによってわたしたちは王国宣明者として最後まで忍耐し,「永遠の命のために正しく整えられた」人を捜すため家から家に謙遜に証言することができます。(使徒 13:48; 20:20)事実,わたしたちが謙遜であれば,誇り高い反対者がわたしたちの義の道を憎むとしても,あらゆる点で神に従い続けるよう助けられます。―詩編 34:21。

謙遜さによってわたしたちは『心をつくしてエホバに依り頼む』よう動かされるので,神はわたしたちの道筋をまっすぐにしてくださいます。(箴言 3:5,6)実際,わたしたちはこのりっぱな特質を身に着けてはじめて,真の意味で神と共に歩み,神の是認と祝福を受けることができるのです。弟子ヤコブが書いているとおりです。「エホバのみ前にあって謙遜になりなさい。そうすれば,あなた方を高めてくださるでしょう」。(ヤコブ 4:10)ですから,エホバ神が仕立ててくださった謙遜さという美しい衣服を身に着けているようにしましょう。

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