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例え聖書に対する洞察,第2巻
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目的 上記の点に示されている通り,すべての例えの主要な目的は教えることです。しかし,聖書の例えは,さらに次のような他の目的にもかなっています。
(1)例えに含まれる十分な深い意味,また心を動かす意味を把握するには時々掘り下げて調べなければならないということは,神を愛しておらず,表面的な関心しか抱いていない人,それゆえに心では真理を欲していない人々を去らせるのに役立ちます。(マタ 13:13-15)神はそのような人々を集めてはおられません。謙遜な人々は例えを聞いて,さらに詳しい説明を求めましたが,誇り高い人々はそうするのを拒みました。イエスは,「耳のある人は聴きなさい」と言われました。そこで,イエスの話を聞いていた群衆の大部分は立ち去ったものの,弟子たちは来て,説明を求めました。―マタ 13:9,36。
(2)例えは,真理を誤用し,神の僕たちをわなにかけようとする者たちから真理を隠します。イエスは,かまを掛けるためのパリサイ人の質問に対し,税金の硬貨の例えを用いて答え,結論として,「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と言われました。イエスの敵たちの場合には,それをどう適用するかということは彼ら自身に委ねられましたが,イエスの弟子たちは,そこに示された中立の原則を十分に理解しました。―マタ 22:15-21。
(3)例えに示された原則の適用は聞き手に委ねられているので,例えは警告や叱責となる明確な音信を聞き手に伝えると同時に,聞き手の敵意を取り除いて,話し手にやり返す根拠がなくなるようにします。言い換えれば,英語のことわざにあるように,『その批評に思い当たる節があるなら,自分のことと思うのがよい』のです。パリサイ人が,収税人や罪人と一緒に食事をしたとしてイエスを批判した時,イエスはこうお答えになりました。「健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に必要なのです。それで,『わたしは憐れみを望み,犠牲を望まない』とはどういうことなのか,行って学んできなさい。わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです」― マタ 9:11-13。
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例え聖書に対する洞察,第2巻
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ギリシャ語聖書中の例え クリスチャン・ギリシャ語聖書も生き生きした例えで満ちています。イエス・キリストは,『あのように話した人はいまだかつてない』と人々から評されました。この方は,これまで地上に生存したすべての人の中で,知識を得させる最も優れた源であられました。(ヨハ 7:46)すべてのものはこの方を通して,神によって造られたのです。(ヨハ 1:1-3; コロ 1:15-17)イエスはすべての創造物を詳しくご存じでした。ですから当然のこととして,イエスの語られた比喩は非常に適切で,人間の感情の描写には深い理解が反映されています。この方は,次のように述べた古代の賢人のようでした。「召集者は自分が賢い者となったばかりでなく,さらに絶えず民に知識を教え,また,熟考し,徹底的に調べたのである。それは,多くの箴言をまとめるためであった。召集者は喜ばしい言葉を見いだし,真実の正確な言葉を書き記そうと努めた」― 伝 12:9,10。
イエスは適切にも,ご自分の弟子たちは「地の塩」であり「世の光」であるとみなされました。(マタ 5:13,14)また,「天の鳥をよく観察しなさい」,『野のゆりから教訓を得なさい』と弟子たちにお勧めになりました。(マタ 6:26-30)イエスはご自身を,自分の羊のために死をもいとわない羊飼いに例えられました。(ヨハ 10:11-15)エルサレムに対しては,「わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。しかし,あなた方はそれを望みませんでした」と言われました。(マタ 23:37)偽善的な宗教指導者たちのことは,「盲目の案内人,ぶよは濾し取りながら,らくだを呑み込む者たちよ!」と呼んでおられます。(マタ 23:24)また,他の人をつまずかせる人に関しては,「その人にとっては,臼石を首にかけられて海の中に投げ込まれたとすれば,そのほうが……ましでしょう」と言明されました。―ルカ 17:1,2。
イエスが用いられた例えは,ヘブライ語聖書中に見られる格言的な言い回しに似て短い簡潔な表現となった場合もありますが,大抵はそうした言い回しよりも長く,物語としての長さと特色を備えていました。イエスが一般に例えの題材としてお用いになったのは,周囲の創造物,日常生活のなじみ深い習慣,折々の出来事や生じ得る状況,聞き手のよく知っている最近の出来事などでした。
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