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    ものみの塔 2003 | 6月15日
    • 公平な神エホバに見倣う

      「神に不公平はない」。―ローマ 2:11。

      1,2 (イ)カナン人全般に関するエホバの意図はどのようなものでしたか。(ロ)エホバは何を行なわれましたか。そのことから,どんな問いが生じますか。

      西暦前1473年,モアブの平原に宿営していたイスラエルは,モーセの話に注意深く耳を傾けました。ヨルダン川を渡ると困難が待ち受けています。モーセは,約束の地にいるカナン人の強大な七つの国民を撃ち破るようにという,イスラエルに対するエホバの意図について告げます。モーセの次の言葉は実に心強いものでした。「あなたの神エホバは必ず彼らをあなたに渡され,あなたはこれを撃ち破るのである」。イスラエルはそれらの民と契約を結んではならず,好意を示してもなりませんでした。―申命記 1:1; 7:1,2。

      2 それでもエホバは,イスラエルが最初に攻めた都市で,一つの家族の命を助けました。他の四つの町の人々も神の保護を受けました。なぜでしたか。これらカナン人が生き残ったことに伴う注目すべき出来事から,エホバについて何を学べますか。どのように神に見倣えますか。

      エホバの名声に対する反応

      3,4 イスラエル人の勝利についての知らせは,カナンに住む個々の人にどんな影響を与えましたか。

      3 イスラエルが約束の地に入るに先立って荒野で過ごした40年のあいだ,エホバはご自分の民を保護し,そのために戦われました。約束の地の南方において,イスラエルはカナン人であったアラドの王と相対しました。イスラエル人は,エホバの助けによってその王と民をホルマで撃ち破りました。(民数記 21:1-3)後にイスラエルはエドムの地を迂回して北方に進み,死海の北東に達しました。以前にモアブの民が住んでいたその地域に,今ではアモリ人がいました。アモリ人の王シホンは,イスラエルが自分の領地を通過することを拒みました。ヤハツで戦いが行なわれました。それは,アルノンの奔流の谷より北であったと思われます。その場所でシホンは死にました。(民数記 21:23,24。申命記 2:30-33)さらに北方のバシャンにもアモリ人がおり,オグの支配下にありました。オグは巨人でしたが,エホバの前には無力でした。オグはエドレイで死にました。(民数記 21:33-35。申命記 3:1-3,11)こうした勝利の知らせは,イスラエルのエジプト脱出の話と相まって,カナンに住む個々の人に強い影響を及ぼしていました。a

      4 イスラエルはヨルダン川を渡ってカナンに初めて進入した時,ギルガルに宿営を張りました。(ヨシュア 4:9-19)城壁で囲まれた都市エリコは,そこからさほど遠くありませんでした。カナン人ラハブは,エホバの行動について耳にした事柄に促され,信仰のうちに行動しました。その結果,エホバはエリコに滅びをもたらした時,ラハブとその家にいた者たちの命を助けました。―ヨシュア 2:1-13; 6:17,18。ヤコブ 2:25。

      5 ギベオン人が抜け目なく行動したのはなぜですか。

      5 次にイスラエルは,その川沿いの低地から,中央丘陵地帯に上ります。ヨシュアはエホバの指示に従い,アイの都市に対して待ち伏せ作戦を用います。(ヨシュア 8章)その後,アイ大敗の知らせを受けて,カナンの大勢の王たちが戦いのために集結しました。(ヨシュア 9:1,2)近隣のヒビ人の都市ギベオンの住民の反応は,それとは異なっていました。「彼らは,自分たちのほうから抜け目のない行動を取った」と,ヨシュア 9章4節は伝えています。ラハブと同じように,この人々も,エホバがご自分の民をエジプト脱出の際に,さらにはシホンとオグを撃ち破った際に救出されたことを聞いていました。(ヨシュア 9:6-10)ギベオン人は,抵抗しても無意味であることをわきまえていました。それで,ギベオン,および近隣の三つの都市,ケフィラ,ベエロト,キルヤト・エアリムのため,ギルガルにいたヨシュアのもとに代表団を送りました。代表団は,遠い土地から来たかのように装いました。この策は功を奏しました。ヨシュアは,その人たちを生き長らえさせることを保証する契約を結びました。3日後,ヨシュアとイスラエル人は,だまされたことに気づきます。それでも,その契約についてエホバにかけて誓っていたので,それを守りました。(ヨシュア 9:16-19)エホバはそれを是認されたでしょうか。

      6 ヨシュアがギベオン人と契約を結んだことに,エホバはどのように反応されましたか。

      6 ギベオン人は,イスラエル人のために木を切る者,また水を運ぶ者となることが許されました。幕屋にある「エホバの祭壇のために」その仕事をするのです。(ヨシュア 9:21-27)そのうえ,アモリ人の5人の王とその軍勢がギベオン人を脅かした際に,エホバは奇跡的に介入されました。雹の石で死んだ敵勢は,ヨシュアの部隊によって倒された者の数を上回りました。エホバはヨシュアの願いを聞き入れ,相手を完全に敗走させるため太陽と月を静止させることまでされました。ヨシュアはこう述べています。「エホバが人の声を聴き入れてそのようになった日は,その前にも後にも一度もない。エホバは自らイスラエルのために戦っておられたのである」。―ヨシュア 10:1-14。

      7 ペテロの認めたどんな点の真実さが一部のカナン人についてはっきり示されましたか。

      7 カナン人ラハブとその家族,およびギベオン人は,エホバに恐れを持ち,それにそった行動を取りました。その人たちが受けた扱いは,後にクリスチャンの使徒ペテロが語った事柄の真実さをはっきりと示しています。『神は不公平な方ではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられるのです』。―使徒 10:34,35。

      アブラハムとイスラエルに対する扱い方

      8,9 アブラハム,およびイスラエル国民に対する扱い方において,エホバの公平さはどのように示されていますか。

      8 弟子ヤコブは,アブラハムとその子孫に対する扱い方に見られる神の過分のご親切に注意を引いています。アブラハムが「エホバの友」となったのは,どの民族の出身かではなく,その信仰のゆえでした。(ヤコブ 2:23)アブラハムの信仰とエホバへの愛は,子孫に数々の祝福をもたらしました。(歴代第二 20:7)エホバはアブラハムにこう約束されました。「わたしは確かにあなたを祝福し,あなたの胤を確かに殖やして天の星のように,海辺の砂の粒のようにする」。そして,次の節の約束にも注目してください。「あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう」。―創世記 22:17,18。ローマ 4:1-8。

      9 エホバは,イスラエルに対する扱い方によって偏愛を示したのではなく,神に従う人たちのためにご自分が何を行なえるかをお示しになりました。その扱い方は,忠実な僕たちに対してエホバが忠節な愛をどのように表明されるかの例となっています。イスラエルはエホバの「特別な所有物」でしたが,だからといって,他の国民が神の情け深さを経験することから締め出されたわけではありません。(出エジプト記 19:5。申命記 7:6-8)確かにエホバはイスラエルをエジプトでの奴隷状態から買い戻し,それゆえに,「地上のすべての家族のうちただあなた方だけを知った」と明言されました。しかしそれとともにエホバは,預言者アモスや他の人たちを通し,「あらゆる国の民」のためにも素晴らしい見込みを差し伸べられました。―アモス 3:2; 9:11,12。イザヤ 2:2-4。

      イエス,公平な教え手

      10 イエスは,公平さに関して,み父にどのように見倣いましたか。

      10 み父の厳密な描出であるイエスは,地上での宣教期間中,エホバの公平さに見倣いました。(ヘブライ 1:3)当時,イエスの主要な関心は,「イスラエルの家の失われた羊」を見つけることでした。それでもイエスは,井戸の傍らでサマリア人の女性に証言することをためらいませんでした。(マタイ 15:24。ヨハネ 4:7-30)また,非ユダヤ人と思われる,軍の士官の願いを入れて奇跡を行なうこともしました。(ルカ 7:1-10)これらは,神の民に対する愛を行動で実証することに加えてなされた事柄です。イエスの弟子たちは,遠く広く宣べ伝えることもしました。エホバの祝福を受けられるかどうかの判断基準は,国籍ではなく,各人の態度と結びついていることが明らかになりました。謙遜で心の正直な人,真理に飢えている人々が,王国の良いたよりにこたえ応じました。一方,誇り高く,ごう慢な人は,イエスとその音信をさげすみました。イエスはこう言明しました。「天と地の主なる父よ,わたしはあなたを公に賛美します。あなたはこれらのことを賢くて知能のたけた者から注意深く隠し,それをみどりごたちに啓示されたからです。そうです,父よ,このようにするのは,あなたのよみされるところとなったのです」。(ルカ 10:21)愛と信仰に基づいて接すれば,他の人に対して公平に行動できます。それがエホバの是認される方法なのです。

      11 初期のクリスチャン会衆において,公平さはどのように表わされましたか。

      11 初期のクリスチャン会衆で,ユダヤ人と非ユダヤ人は対等でした。パウロはこう説明しています。「栄光と誉れと平和が,良い事柄を行なうすべての人に,ユダヤ人を初めとしてギリシャ人にもあるのです。神に不公平はないからです」。b (ローマ 2:10,11)エホバの過分のご親切にあずかれるかどうかは,どの民族の出身かではなく,エホバについて,またみ子イエスの贖いによって差し伸べられた見込みについて学んでどう反応するかにかかっていたのです。(ヨハネ 3:16,36)パウロはこう書きました。「外面のユダヤ人がユダヤ人ではなく,また,外面の肉の上での割礼が割礼でもないのです。内面のユダヤ人がユダヤ人なのであって,その人の割礼は霊による心の割礼で,書かれた法典によるものではありません」。次いでパウロは,「ユダヤ人」(「ユダの」という意味で,たたえられた,称賛されたという語義)という語にかけたしゃれを用いて,「その人に対する称賛は,人間からではなく,神から来ます」と言い添えました。(ローマ 2:28,29)エホバは,人を公平に称賛されます。わたしたちはどうでしょうか。

      12 啓示 7章9節は,どんな見込みを差し伸べていますか。だれに対してですか。

      12 後に使徒ヨハネは幻の中で,油そそがれた忠実なクリスチャンたちが,14万4,000人の霊的国民として描写されているのを見ました。その中では「イスラエルの子らのすべての部族の者たちが証印を押され(て)」いました。その後にヨハネが目にした光景では,『すべての国民と部族と民と国語の中から来た大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていて,彼らの手には,やしの枝があり』ました。(啓示 7:4,9)ですから,現代のクリスチャン会衆からは,どの民族,またどの言語の人も締め出されてはいません。どんな背景の人にも,来たるべき「大患難」を生き残って,新しい世で「命の水の泉」から飲むという見込みが開かれています。―啓示 7:14-17。

      好ましい影響

      13-15 (イ)どうすれば人種や文化の違いを乗り越えることができますか。(ロ)親しみを表わすことの益を示す,どんな例がありますか。

      13 エホバはわたしたちのことをよく知っておられます。良い父親が,子どものことをよく知っているのと同じです。同様に,他の人の文化や背景に関心を払って,その人のことを理解するようになると,さまざまな相違点はささいに見えてきます。民族的な障壁はなくなり,友情と愛のきずなは強まります。一致が促進されます。(コリント第一 9:19-23)この面で良い例となるのは,外国の任命地で奉仕する宣教者たちの活動です。宣教者は,現地に住む人々に関心を払うので,すぐに地元の会衆に溶け込みます。―フィリピ 2:4。

      14 公平さの好ましい影響は,いろいろな国ではっきり見られます。エチオピア出身のアクリルという男性は,英国の首都ロンドンで孤独に感じていました。他の国から来た人に対する一般的な態度によそよそしいものを感じ,それが孤独感に輪をかけました。今日のヨーロッパの多くの大都市で感じられる点です。エホバの証人の王国会館でクリスチャンの集会に出席した時は,なんと違っていたのでしょう。そこにいた人たちから歓迎されたアクリルは,すぐにくつろいだ気持ちになりました。そして,創造者に対する認識を深める点で急速な進歩を遂げました。やがてアクリルは,機会を探しては,その地区に住む人々に王国の良いたよりを広めるようになりました。実際,ある日,一緒に組んで伝道していた仲間から,今は何を人生の目標にしていますかと聞かれ,いつか母語であるアムハラ語の会衆の一員になりたい,と即答しました。地元の英語会衆の長老たちはこのことを知ると,アクリルの母語による公開聖書講演を喜んで取り決めました。出席するようにとの呼びかけに応じて,多数の外国人,また地元の人々が集って,英国初のアムハラ語による公開集会を支持しました。今では,エチオピア人や,その地域の他の人たちから成る,一つに結ばれて繁栄する会衆があります。そこに集う多くの人たちは,エホバの側に立場を定めるのに,またその象徴としてクリスチャンのバプテスマを受けるのに妨げは何もないと感じています。―使徒 8:26-36。

      15 性格や背景は人によって異なります。それゆえに勝っているとか劣っているとかいうことはありません。それらはただ相違点にすぎません。マルタ島でエホバの献身した僕となって間もない人たちのバプテスマが行なわれた時,それを見る現地の証人たちはあふれんばかりに喜びを表わし,英国から来てそれを見ていた人たちの目にはこぼれ出る喜びの涙がありました。気持ちの表わし方は,マルタ島の人と英国の人たちとで異なっていましたが,双方がエホバへの強固な愛のもとに,クリスチャンの友愛のきずなで結ばれました。―詩編 133:1。コロサイ 3:14。

      偏見を克服する

      16-18 クリスチャン会衆内で偏見を克服できることを示す,どんな経験がありますか。

      16 エホバへの愛とクリスチャンの兄弟たちへの愛が深まるにつれ,人々に対する見方の点で,エホバにいっそう厳密に見倣うことができるようになります。ある国籍,人種,文化の人々に対し,かつてどんな偏見を抱いていたとしても,それを克服することができます。アルバートの例を考えましょう。アルバートは第二次世界大戦でイギリス軍に従軍し,1942年のシンガポール陥落の時に日本軍の捕虜となりました。その後およそ3年にわたり,“死の鉄道”の敷設工事に携わりました。“クワイ川にかかる橋”(戦場にかける橋)として知られるようになった場所の近くです。釈放された終戦時には,体重は30㌔余りしかなく,あごと鼻を骨折し,赤痢,白癬,マラリアを患っていました。幾千人もの仲間の捕虜はもっとひどい状態にあり,生還しなかった人も大勢いました。アルバートは数々の残虐行為を見,また自らも経験したことで,1945年に帰還した時には苦々しい思いを抱き,神や宗教とは一切かかわりを持つまいと感じていました。

      17 そのうち,妻のアイリーンがエホバの証人になりました。アルバートは,妻を喜ばせようと,エホバの証人の地元の会衆が開く集会に何度か出席しました。全時間宣教に携わっていたポールというクリスチャンの青年が,一緒に聖書研究を行なうためにアルバートを訪ねました。やがてアルバートは,エホバが個々の人に目を留め,その心の状態をご覧になる,ということを理解するようになりました。そして,エホバに献身し,バプテスマを受けました。

      18 ポールは後にロンドンに引っ越して日本語を学び,日本語会衆と交わるようになりました。ポールが,日本から訪ねて来たエホバの証人幾人かを自分の以前の会衆に連れて行くことについて述べた時,その会衆の兄弟たちは,アルバートが日本人に対して強い偏見を抱いていたことを思い出しました。アルバートは英国に帰還して以来,日本から来た人とはだれとも顔を合わせないようにしていました。それで兄弟たちは,アルバートがどう対応するか,気をもみました。しかし,心配は無用でした。アルバートは,それら訪問客を,無条件の兄弟の愛情をもって迎えたのです。―ペテロ第一 3:8,9。

      「自分を広くしなさい」

      19 もし少しでも不公平な傾向があるなら,使徒パウロのどんな忠告が助けになりますか。

      19 「えこひいきをするのは良くない」。賢王ソロモンはそのように書いています。(箴言 28:21)自分のよく知る人々に親しみを感じるのは自然です。一方では時に,よく知らない人にはあまり関心を示さない,という傾向になりがちです。そうした不公平な扱いは,エホバの僕にふさわしくありません。確かに,わたしたちすべては,『自分を広くする』ようにというパウロの明確な忠告に従うのが良いでしょう。そうです,背景の異なる仲間のクリスチャンへの愛の点で自分を広げるのです。―コリント第二 6:13。

      20 生活のどんな面で,公平な神エホバに見倣うべきですか。

      20 天への召しという特権を得ていようと,地上でいつまでも生きる見込みを持っていようと,物事に公平であるなら,一つの群れ,一人の羊飼いのもとで一致を享受できます。(エフェソス 4:4,5,16)公平な神エホバに見倣うように努めるなら,クリスチャン宣教において,家庭で,会衆で,そうです,生活のすべての面において益になります。どうしてそう言えるでしょうか。次の記事でその点を取り上げます。

      [脚注]

      a エホバの名声は後に,神聖な歌の題材となりました。―詩編 135:8-11; 136:11-20。

      b ここの「ギリシャ人」という表現は,異邦人全般を指します。―エホバの証人の発行した「聖書に対する洞察」,第1巻,756ページ。

  • だれについても良い点を見ようとする
    ものみの塔 2003 | 6月15日
    • だれについても良い点を見ようとする

      「私の神よ,どうか,益となりますように,私を覚えてください」。―ネヘミヤ 13:31。

      1 エホバは,すべての人に対して,どのように善良に行動されますか。

      どんよりしたうっとうしい日が幾日も続いたあとに陽光が降り注ぐのは,何とも喜ばしい変化です。人々は気持ちが高まり,爽快な気分になります。また逆に,焼けつく日ざしと日照りが長く続いた後のにわか雨は,たとえ土砂降りであっても,さわやかさと安堵感をもたらしてくれます。愛ある創造者エホバは,地球の大気中に,気象現象という素晴らしい賜物を組み入れてくださいました。イエスは次のように教えて,神の恵み深さに注意を喚起しました。「あなた方の敵を愛しつづけ,あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それは,あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです」。(マタイ 5:43-45)そうです,エホバはすべての人に対して善良に行動されます。神の僕たちも,他の人の良い点を見ようとして神に見倣うように努めるべきです。

      2 (イ)エホバはどんな根拠に基づいて善良に行動されますか。(ロ)わたしたちが神の善良さにどうこたえるかという点で,エホバは何に注目されますか。

      2 エホバはどんな根拠に基づいて善良に行動されるのでしょうか。アダムが罪に陥って以来,エホバはいつでも人間の良い点を見ようとしてこられました。(詩編 130:3,4)神の目的は,従順な人間を楽園での命に回復させることです。(エフェソス 1:9,10)過分のご親切のもとに,約束の胤を通して罪と不完全さから救出される見込みが与えられました。(創世記 3:15。ローマ 5:12,15)贖いの取り決めを受け入れることにより,最終的に完全さを取り戻すための道が開かれます。エホバは今わたしたち一人一人を見守っておられ,わけても,神の寛大さに対する反応を見ようとしておられます。(ヨハネ第一 3:16)神の善良さに対する感謝を表わそうとして行なうどんなことにも注目してくださるのです。「神は不義な方ではないので,あなた方……の働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」と,使徒パウロは書いています。―ヘブライ 6:10。

      3 どんな問いについて考察するのは有益ですか。

      3 では,どのようにエホバに見倣い,他の人の良い点を見ようとすることができるでしょうか。この問いの答えを,生活の四つの面に照らして考察してみましょう。(1)クリスチャン宣教,(2)家庭,(3)会衆,(4)他の人との関係です。

      宣べ伝え,弟子を作る面で

      4 クリスチャン宣教に携わることが,他の人の良い点を見ようとすることの表われと言えるのはなぜですか。

      4 「畑は世界です」。小麦と雑草のたとえ話の意味を弟子たちが尋ねた時,その答えとしてイエスは上のように説明しました。キリストの現代の弟子であるわたしたちは,宣教奉仕に携わる際,この真理を認識しています。(マタイ 13:36-38; 28:19,20)野外宣教には,自分の信仰を公に宣明することが含まれます。エホバの証人が今,家から家や街路での宣教奉仕でよく知られていること自体,王国の音信にふさわしい人すべてを捜し出す点で勤勉であることの証拠です。実際イエスは,「どんな都市または村に入っても,そこにいるふさわしい人を捜し出し……なさい」と指示しました。―マタイ 10:11。使徒 17:17; 20:20。

      5,6 あきらめることなく,人々の家を繰り返し訪ねるのはなぜですか。

      5 約束なしで人々を訪ねる時,わたしたちの音信に対する反応を見ることになります。ある家では話を聴こうとする人がいるのに,奥から別の人が,「関心がありません」と言って遮り,そこで終わってしまうことがあります。ある人の反対,または関心の欠如によって他の人が振り回されるのは,ほんとうに残念に思えます。では,だれについても努めて良い点を見ようとするために何ができるでしょうか。

      6 次にその地区で伝道する際,その同じ家を訪ねると,以前の訪問の時に会話を遮った人と直接に話す機会が持てることもあります。その時のことを覚えておくのは,心の準備に役立ちます。その人は,家族にその王国の音信を聴かせるべきではないと思って,良い動機で反対した,とも考えられます。わたしたちの意図を誤り伝える情報によって見方が形成されていたのかもしれません。しかし,だからといってわたしたちは,その家で王国の良いたよりを宣べ伝えるのをあきらめません。巧みに誤解を正すようにします。わたしたちは,神についての正確な知識に至るようにすべての人を助けたいと思っています。そうすればその人をも,エホバがご自分の側に引き寄せられるかもしれません。―ヨハネ 6:44。テモテ第一 2:4。

      7 人々に近づく時,積極的な見方をするのに何が助けになりますか。

      7 イエスが弟子たちに与えた指示は,家族の反対を考慮に入れたものでした。イエスはこう言われたのではないでしょうか。「わたしは分裂を生じさせるため,男をその父に,娘をその母に,若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです」。さらに,「人の敵は自分の家の者たちでしょう」とも語っています。(マタイ 10:35,36)それでも,人の状況や態度は変化します。突然の病気,親族の死,災害,感情面の行き詰まり,その他の多くの要素が,宣べ伝える業に対する人々の反応の仕方に影響を与えます。こちらが消極的な見方をし,伝道してもこたえ応じることはないと思っているなら,ほんとうに人々の良い点を見ようとしていることになるでしょうか。むしろ,喜びを抱きつつ,別のときに改めて訪ねてみることができないでしょうか。異なる反応が見られるかもしれません。時には,ただ何を言うかではなく,どのように言うかで反応の変わることがあります。伝道を始める前にエホバに熱烈に祈るなら,積極的な見方を保ち,人々の心に訴えるように王国の音信を伝えるための助けが得られるに違いありません。―コロサイ 4:6。テサロニケ第一 5:17。

      8 クリスチャンが,信者でない親族の良い点を見ようとするなら,どんな結果になるかもしれませんか。

      8 ある会衆では,同じ家族内の大勢の人がエホバに仕えています。家族の年下の人が,年長の親族の粘り強さに打たれて敬意を抱くようになった場合も少なくありません。家庭内で,また夫婦間での良い関係を保つ様子を見て,年下の人たちは心を変化させたのです。クリスチャンの妻で,使徒ペテロの助言に留意し,「言葉によらず」に夫を引き寄せた人も数多くいます。―ペテロ第一 3:1,2。

      家庭で

      9,10 ヤコブもヨセフも,どのように家族の良い点を見ようとしましたか。

      9 家族は緊密なきずなで結ばれています。この面でも,人の良い点を見ようとすることができます。ヤコブが息子たちをどう扱ったかという点から教訓を得ましょう。聖書の創世記 37章3,4節は,ヤコブがヨセフを特に愛したことを述べています。ヨセフの兄弟たちはそのためにねたみを抱き,ヨセフの殺害を謀るまでになりました。それでも,後年ヤコブとヨセフが取った態度に注目してください。二人とも家族の良い点を見ようとしました。

      10 ヨセフは,飢きんに見舞われたエジプトで食糧管理長官を務めていた時,兄弟たちを迎え入れました。自分がだれかをすぐには明かしませんでしたが,あれこれ手配して,兄弟たちが十分に世話を受けられるように,また老齢の父親に食糧を持ち帰ることができるようにしました。そうです,ヨセフは憎まれて害を被ったにもかかわらず,兄弟たちの最善の益を図ったのです。(創世記 41:53–42:8; 45:23)同様にヤコブは,臨終の床で,息子たち全員に対して預言的な祝福を述べました。間違った行動のゆえにある種の特権が削減された人もいましたが,その地で相続分を受けられない人は一人もいませんでした。(創世記 49:3-28)ヤコブはその時,変わりない愛を申し分のないかたちで示しました。

      11,12 (イ)どんな預言的実例は,家庭で良い点を見ようとすることの大切さを強調していますか。(ロ)放とう息子に関するイエスの例えに出てくる父親の手本から,どんな教訓を学べますか。

      11 不信仰なイスラエル国民をエホバが辛抱強く扱われたことも,神がどのように人々の良い点を見ようとするかについて,さらに洞察を得させてくれます。エホバは,ご自分の変わらぬ愛を例証するものとして,預言者ホセアの家庭事情を用いました。ホセアの妻ゴメルは,繰り返し姦淫を犯しました。それでもエホバは,ホセアにこう指示されます。「もう一度行って,友に愛されて姦淫を犯している女を愛せよ。それは,他の神々に頼って干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らに対するエホバの愛と同様である」。(ホセア 3:1)なぜこのような指示を与えたのでしょうか。神の道から迷い出た国民の中からも,神の堪忍にこたえ応じる人たちがいることを知っておられたからです。ホセアはこう明言します。「後にイスラエルの子らは戻って来て,自分たちの神エホバを,また自分たちの王ダビデを必ず求めるであろう。末の日に,彼らはエホバのもとに,その善良さのもとにわななきながらやって来るのである」。(ホセア 3:5)これは確かに立派な手本であり,家庭で困難に面する時に思い起こすことのできるものです。引き続き家族の良い点を見ようとするなら,少なくとも堪忍の点で立派な手本を示すことになるでしょう。

      12 放とう息子に関するイエスのたとえ話も,自分の家族の良い点を見ようとする面でいっそうの洞察を得させます。年下の息子は,放らつな生活をやめてから家に戻りました。父親は,その息子を憐れみ深く扱いました。家を出たりしたことのなかった年上の息子が不満を述べた時,父親はどう反応したでしょうか。年上の息子に語りかけ,「子よ,あなたはいつもわたしと一緒にいたし,わたしの物はみなあなたのものだ」と告げます。苦い思いでこの息子を冷たくあしらったのではなく,ただ父親としての愛を確信させました。実際,さらにこう述べています。「わたしたちはとにかく楽しんで歓ばないわけにはいかなかったのだ。このあなたの兄弟は,死んでいたのに生き返り,失われていたのに見つかったからだ」。わたしたちも同じように,いつも他の人の良い点を見ようとすることができます。―ルカ 15:11-32。

      クリスチャン会衆で

      13,14 クリスチャン会衆で,愛に関する王たる律法を実践する一つの方法は何ですか。

      13 わたしたちはクリスチャンとして,愛に関する王たる律法を実践することを目指しています。(ヤコブ 2:1-9)会衆の成員で,物質面の状況が自分とは異なる人を仲間として受け入れているかもしれません。とはいえ,人種的,文化的,さらには宗教的背景に根ざす「階級差別」を設けていることはないでしょうか。そうであれば,どのようにヤコブの助言を心に留めることができますか。

      14 クリスチャンの集会に出席するすべての人を歓迎することによって,広い心を持っていることを実証できます。進んで声を掛けるなら,王国会館に来た新しい人は,初めに幾らか緊張して,人前を気にしていても,それは薄れるでしょう。実際,クリスチャンの集会に初めて出席して,こう述べた人がいます。「だれもがとても友好的でした。だれもがわたしを前々から知っていたかのようです。とても居心地よく感じました」。

      15 どうすれば会衆の若い人たちが年長の人に関心を払うように助けることができますか。

      15 会衆によっては,集会が終わると,王国会館の内外で幾人かの若者たちが固まり,年長の人々と交わろうとしないことがあります。こうした傾向を直すために,どんな積極的なことができますか。もちろん,最初のステップは,親が子どもを家庭で訓練して,集会に備えることです。(箴言 22:6)いろいろな出版物を用意しておく仕事を子どもに与えることができます。集会で必要な文書を全員が持参できるようにするためです。親はまた,子どもが王国会館で,高齢で体の弱い人たちと少しでも話すよう励ますのに,最も良い立場にあります。子どもとしても,そのような人に何か話せることがあるなら,満足感を持てるでしょう。

      16,17 大人はどのようにして,会衆内の若い人たちの良い点を見ようとすることができますか。

      16 年長の兄弟姉妹も,会衆内の若い人たちに関心を払うべきです。(フィリピ 2:4)自分から進んで,励みとなる仕方で若い人に話しかけることができます。多くの場合,大切な要点が集会で詳しく論じられます。集会が楽しかったか,また特に益となり,当てはめたいと思った点があるかを若い人に尋ねてみることができます。若い人たちも会衆の欠かせない成員ですから,その人たちがよく話を聴いていたことを評価し,集会で注解したりプログラムの一部を果たしたりしたことを褒めるべきです。若者が会衆の年長の人たちとどう接し,家での簡単な用事をどう果たすかは,より大きな責任を後に担えるかどうかの判断の目安となるでしょう。―ルカ 16:10。

      17 若い人の中には,責任を受け入れることによって進歩し,身につけてきた霊的特質のゆえに,より重い割り当てを担えるようになる人もいます。なすべき事柄を持っているなら,愚かな行動が抑えられることにもなるでしょう。(テモテ第二 2:22)そのような割り当ては,奉仕の僕として仕えることを目指している兄弟たちが『ふさわしいかどうか試す』ものとなるでしょう。(テモテ第一 3:10)集会に進んで参加し,宣教奉仕に熱心さを示し,会衆のすべての人を気遣う様子から,長老たちは,それら兄弟たちの持つ可能性を見定め,さらに割り当てを与えられるかどうかを考慮できるでしょう。

      だれについても良い点を見ようとする

      18 判断や裁きという点で,どんな落とし穴を避けるべきですか。なぜですか。

      18 「裁きにおいてえこひいきをするのはよくない」と,箴言 24章23節は明言しています。天的な知恵は,長老たちが会衆内の物事を裁く際に不公平であってはならないと定めています。ヤコブはこう明言しました。「上からの知恵はまず第一に貞潔であり,次いで,平和を求め,道理にかない,進んで従い,憐れみと良い実とに満ち,不公平な差別をせず,偽善的でありません」。(ヤコブ 3:17)言うまでもなく,長老たちは他の人の良い点を見ようとすると同時に,自分たちの行なう判断や裁きが個人的な関係や感情によって曇らされることのないように注意する必要があります。詩編作者アサフはこう書いています。「神は神たる者の集会において立場を取っておられる。神は神々[「神のような者たち」,脚注,人間の裁き人を指す]の真ん中で裁きを行なわれる。『あなた方はいつまで不正な裁きを行ない,邪悪な者たちを偏りみるのか』」。(詩編 82:1,2)ですから,クリスチャンの長老たちは,友人や親族の関係する物事において,決してえこひいきをすることのないようにします。こうして会衆の一致を守り,エホバの霊が自由に流れるようにします。―テサロニケ第一 5:23。

      19 どうすれば他の人の良い点を見るようにすることができますか。

      19 兄弟姉妹の良い点を見ようとするなら,テサロニケの会衆に手紙を書いたパウロの態度に倣うことになります。こう述べています。「さらに,わたしたちはあなた方に関し,主にあってこう確信しています。あなた方が,わたしたちの命じることを行なっており,またこれからも行なってゆくであろうと」。(テサロニケ第二 3:4)人の良い点を見ようとすると,その人の落ち度を覆うようにしようという気持ちが強まります。兄弟たちの,褒めることのできる面を探そうとすることでしょう。批判的な精神は避けるに違いありません。パウロは,「家令に求められるのは,忠実であることです」と書いています。(コリント第一 4:2)会衆で家令の務めを果たす人たちだけでなく,クリスチャンの兄弟姉妹すべてが,その忠実さゆえに慕わしい存在となってきます。こうしてわたしたちはその人々に引き寄せられ,クリスチャンの友情というきずなが強まります。わたしたちも,パウロが同時代の兄弟たちに抱いたのと同じ見方をします。兄弟たちは「神の王国のための……同労者」であり,わたしたちを「強める助け」なのです。(コロサイ 4:11)こうしてわたしたちは,エホバのような態度を表わします。

      20 だれについても良い点を見ようとする人にはどんな祝福がありますか。

      20 わたしたちは確かに,ネヘミヤの次の祈りに共鳴します。「私の神よ,どうか,益となりますように,私を覚えてください」。(ネヘミヤ 13:31)エホバが人の良い点を見ようとしてくださるというのは,なんとうれしいことでしょう。(列王第一 14:13)わたしたちも,人と接する際に同じようにできますように。そうすることによって,今や間近な新しい世における請け戻しととこしえの命の見込みを持つことができるでしょう。―詩編 130:3-8。

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