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「不快な」名前?
神のみ名は口に出さず,JHWHとだけ綴り,「主」と発音することを,我々は従うべき勧告とする,とカトリックの定期刊行物「コムヌウィ・テンピ」は述べています。これは,ローマ市の「ユダヤ人・クリスチャン親交協会」が発起人となり,カトリックやユダヤ教の著名な神学者と学識者の署名が付された請願書に呼応して示された見解です。その請願書は,「出版会社,ならびに新聞と雑誌の編集関係者」が「ヤハウェ」という名を使わないことを要求していました。その名を使うのは,「神のみ名は発音できないと考えるユダヤ人にとって不快な」ことだからです。こうした要請は,今日まで「途絶えることなく続いてきた」,「ユダヤ人の長年の伝統」に基づいている,と同協会は語っています。
しかし,クリスチャンはユダヤ人の伝統を導きとすべきでしょうか。クリスチャンが神のみ名を脇へ押しやり,発音しないようにするのは正しいことでしょうか。聖書によれば,神は「その名をエホバという」ご自分が至高者であることをすべての人が知るよう望んでおられます。(詩編 83:18。エゼキエル 38:23。マラキ 3:16)イエスはこの点で模範を示されました。『神の言葉を無にしていた』ユダヤ人の伝統に従うのではなく,「あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう追随者たちに教えられました。(マタイ 6:9; 15:6)また,犠牲の死を遂げるわずか数時間前でさえ,「わたしはみ名を[弟子たち]に知らせました。またこれからも知らせます」と,祈りの中で言われました。―ヨハネ 17:26。
婚約は契約?
ブラジルの若い女性とその婚約者は,新居の家具の据え付けを終えたばかりでした。招待状が配られ,三日後に控えた結婚式に向けてすべてが順調に運んでいるように見えました。花嫁は新しい生活への期待に胸を膨らませ,仕事を辞めました。そのとき,花婿は何の通告もせずに婚約を破棄してしまいました。捨てられた花嫁はぼう然となり,失意のうちに法的な手段に訴えました。花嫁の弁護士は,『婚約は予備契約であり,不当に破棄された場合,潔白な側の受けた損害がいかなるものであれ,それは償われるべきである』と論じました。裁判所はそれに同意し,男性に対して,『法律に基づいてあらかじめ算定した給料に見合う額の慰謝料』を元の婚約者に支払い,『訴訟費用と弁護料を負担するよう』命じました。判決に関して,ネレウ・メロ弁護士は,サンパウロの新聞「ジョルナル・ダ・ラパ」の中で,「婚約は非常に重要な契約であり,法のもとでは婚約破棄が軽視されることはない」と書きました。
婚約は重要な事柄であるというこの考えは新しいものではありません。モーセの律法のもとでは,婚約した女性が淫行を犯した場合,姦淫を行なった既婚の女性と同じ処罰を受けました。こうしてその女性は,淫行を行なった独身の女性とは異なった扱いを受けました。(申命記 22:23,24,28,29)その当時,婚約は二人が既に夫婦となったかのように,拘束力のあるものとみなされました。(マタイ 1:19)今日のクリスチャンも,婚約は重要な段階であると考えており,それを軽く見ることはありません。―マタイ 5:37と比較してください。
現代の科学技術に合わせる
マルティン・ルターが贖宥(罪に対するある種の処罰からの免除)の販売に抗議した後,ローマ・カトリック教会は1562年にこの慣行を禁止しました。ところが最近になって,バチカンの当局者であるペドロ・アルベランは,贖宥の授与に関する教えが「捨て去られずに昔のまま」残っていることを強調しました。贖宥に関する同教会の改訂された手引き書は,バチカンがこの古い信条を現代の科学技術に結びつけたことを明らかにしています。ロンドン・タイムズ紙によると,司教は,「年に3回ラジオやテレビを通して法王の名によって祝福を授ける際,全贖宥を信者に与える」ことができるようになりました。しかし,それには制約があります。「生放送でなければならず,録画を見るだけでは不十分である」と,贖宥を扱う部局であるバチカン法王庁内赦院のルイジ・デ・マジストリスは述べています。
しかし,販売されるにしても,じかに,またはテレビを通して与えられるにしても,贖宥は聖書に基づいたものでしょうか。イエスは何度か罪を惜しみなく許されましたが,贖宥の必要性については何も語られませんでした。それは使徒たちも同じです。使徒ヨハネは,「[神の]み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清めるのです。わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なる方ですから,わたしたちの罪を許し,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」と書きました。(ヨハネ第一 1:7,9)こうしてすべての罪が許されるなら,処罰によって償われ,贖宥によって覆われるどんなものが残されるのでしょう。―ヨハネ 3:36。ローマ 5:10。