ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 聖書はどのようにでも解釈できますか
    ものみの塔 1988 | 12月15日
    • 「あなたは,自分の解釈に合った聖句を聖書から飛び飛びに拾い上げているだけじゃないですか」と,その婦人は,自分の家を訪れたエホバの証人に不服そうに言いました。

      しかし,聖書の色々な箇所の聖句を参照することは,聖句を自分の考えに合うように解釈しようとしている証拠なのでしょうか。そしてもしそうであるとすれば,聖書はどのようにでも解釈でき,どの解釈もみな正当であるということになりますか。

      著者の言い分を聞きましょう

      聖書の著者はエホバ神おひとりですが,筆者は確かに大勢います。これら約40人の聖書筆者の記述には互いに矛盾したところがありません。それは神が著者であることの証拠です。しかし,どんな主題にせよ,ある特定の主題について,言うべきことをすべて言い尽くしている筆者は一人もいません。したがって,ある主題に関して聖書の著者の言わんとするところを理解するには,検討中の主題と密接な関係のある聖句をすべて集める必要があります。先ほどのエホバの証人はそれをしようとしていたのです。

      その証人のやり方にはしっかりした基盤がありました。例えば,聖書のローマ 9章を開いてみてください。ここには忠実なクリスチャンのパウロが同じことをした顕著な例が出ています。この一つの章の中だけで,パウロは聖書の他の箇所から11回引用しています。批判者の中には,パウロも相当「飛び飛びに」引用していると非難する人がいるかもしれません。まず聖書の巻頭の書を引用し,続いて2番目の書を引用する前に39番目の書に飛び,28番目に飛び,最後に23番目の書を引用しています。a

      もしパウロが聖句をその文脈から外して,自分の個人的な考えに合うように曲解したとすれば,それはいうまでもなく間違いです。しかしパウロはそのような罪は犯しませんでした。

  • 聖書はどのようにでも解釈できますか
    ものみの塔 1988 | 12月15日
    • 罪の罰は何か

      罪の罰は,地獄の火の中で意識のあるまま永遠に責め苦を受けることだ,と教えられて信じている人たちがいます。そういう人たちは,悪魔が「火と硫黄との湖に投げ込まれた」と述べている啓示 20章10節を読み,この聖句が彼らの見解を裏づけていると解釈するかもしれません。もちろんそのような解釈は,死んだ者には『何の意識もない』と言う伝道の書 9章5節と合いません。また,「罪の報い」は,意識のあるまま責め苦を受けることではなくて「死です」と述べるローマ 6章23節とも一致しません。それでも,啓示 20章10節は,サタンが(そして恐らくサタンに欺かれた人々が)「昼も夜も限りなく永久に責め苦に遭う」と述べてはいないだろうか,と考える人たちがいるかもしれません。

      1世紀においては,「責め苦」に相当するギリシャ語 ― ここでは聖書筆者のヨハネが用いている ― には特別の意味がありました。囚人は時々(神の律法に反することでしたが)責め苦を受けたので,牢番は拷問者として知られるようになりました。

      別の聖書筆者は,不忠実な奴隷について述べる際にこの点に触れています。その奴隷の主人は,「負い目をすべて支払うまで奴隷を拷問者に渡し」ました。(マタイ 18:34,ジェームズ王欽定訳)このことに関し,国際標準聖書百科事典は次のような見解を述べています。「たぶん投獄そのものが(そうであったことは疑えないので)『責め苦』とみなされていたのであろう。したがって『拷問者たち』が牢番以外の者と考える必要はない」。

      このように,聖句を比較し,聖書が書かれた言語に含まれる意味を考慮すれば,聖書の残りの部分と一致した解釈に到達し得るということが分かります。先入観がなければ,啓示 20章10節が,地獄の火の中での永遠の責め苦を証明するものではないことをはっきり悟ることができます。神に反逆する者はすべて,死の中に永遠に監禁される運命にあるのです。彼らの滅びは,文字通りの火の湖に投げ込まれたのと同じほど完全なものとなるのです。

      将来,地球はどうなるか

      ペテロ第二 3章10節(欽定)によると,「地もまたその中の業も焼け尽き」ます。ある人々はこれを,核による大破壊か何かで地球が破壊されるという意味に解釈します。しかし,聖書の著者が別のところで述べている事柄から考えると,どうしてそのようなことがあり得るでしょうか。詩編作者は霊感のもとに詩編 104編5節(欽定)で,神は「地の基を据え,永久に動くことなからしめた」と述べています。賢王ソロモンも霊感のもとに,伝道の書 1章4節(欽定)で,「世は去り,世は来たる。されど地は永久に留まる」と述べています。

      矛盾しているのでしょうか。そうではありません。聖書の著者である真理の神が自己矛盾を来たされることはありません。ではどうしてこの二つの節は調和していると言えるのでしょうか。ペテロ第二 3章10節の文脈を調べてみましょう。

      ペテロは5節と6節でノアの日の洪水について述べ,7節ではそれを「不敬虔な者たちの裁きと滅亡の日」に臨む破滅になぞらえています。大洪水では何が滅ぼされたでしょうか。6節には「その時の世は……滅びた」とあります。この地球は滅びませんでした。むしろ一つの邪悪な世の体制が滅びたのです。そして神は,創世記 9章11節(欽定)で,「地を滅ぼす洪水」が二度と生じないと約束されたとき,地球のことを言っておられたのでないことは明白です。地球は滅ぼされなかったからです。それでペテロ第二 3章10節によれば,滅ぼされる「地」とは,大洪水のときに滅ぼされた「地」と同じ種類のもの,つまり惑星の地球ではなくて地上の邪悪な人々の社会のことです。―創世記 11:1と比較してください。ここでも「地」が同じような意味で用いられています。

      この解釈と矛盾する聖句は,どんなに探しても見つかりません。ですから当然これは,聖書の著者自身から来る正しい解釈に違いありません。

      どのようにでも解釈できるとなぜ言えないか

      どのようにでも解釈できる料理の本を主婦はどう思うでしょうか。あるいは,読む人が言葉の意味を自分の好きなように解釈できる辞書にお金を費やすことに,どれほどの益があるでしょうか。わたしたちは,神がご自分の被造物にお与えになる指導書がそのような種類のものであることを期待するでしょうか。もしそういうものだとすれば,それを指導書と呼ぶのは正しいことでしょうか。

      正直で神を恐れる人々は,聖書を曲解して『自らに滅びを招く』ことなど考えません。(ペテロ第二 3:16)ですからそれを避けるために,理解したい問題と関連のある聖句をことごとく探し出すのです。以前の見解と明白に矛盾する聖句が見つかれば,その見解は正しいはずがないので直ちに破棄します。

  • 聖書はどのようにでも解釈できますか
    ものみの塔 1988 | 12月15日
    • a 引用句はローマ 9章7節(創世記 21:12),9節(創世記 18:14),12節(創世記 25:23),13節(マラキ 1:2,3),15節(出エジプト記 33:19),17節(出エジプト記 9:16),25節(ホセア 2:23),26節(ホセア 1:10),27,28節(イザヤ 10:22,23),29節(イザヤ 1:9),33節(イザヤ 28:16)にあります。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする