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「わたしの民を慰めよ」イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
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[404,405ページの囲み記事/図版]
エホバ,愛ある羊飼い
イザヤはエホバを,子羊を懐に抱いて世話する愛ある羊飼いに例えています。(イザヤ 40:10,11)このほのぼのとしたイザヤの例えは,羊飼いの実生活の習慣に基づいているようです。現代でも,中東のヘルモン山の斜面で羊飼いたちを観察したある人はこう述べています。「羊飼いたちは,それぞれ自分の羊の群れに変わりはないか注意深く見守っていた。生まれたばかりの子羊を見つけると,自分の厚手の外とうのひだに入れた。子羊はかよわく,母親の後について歩けないからである。懐がいっぱいになると,足をつかんで肩に載せたり,ろばの背の袋やかごに入れたりした。子羊たちが母親の後について歩けるようになるまでそうするのである」。ご自分の民をそのように優しく気遣う神に仕えているということを知ると,慰められるのではないでしょうか。
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「わたしの民を慰めよ」イザヤの預言 ― 全人類のための光 I
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神の言葉は永久に保つ
9,10 イザヤは,人間の命の移ろいやすさと神の「言葉」の永続性をどのように対比させていますか。
9 まず,回復を約束しているその方の言葉は永久に保ちます。イザヤはこう書いています。「聴け,『呼ばわれ!』と,だれかが言っている。すると,『何を呼ばわりましょうか』と,ある者が言った。『肉なる者はすべて青草であり,その愛ある親切はみな野の花のようだ。青草は干からび,花は枯れた。エホバの霊がその上に吹いたからである。確かに,民は青草である。青草は干からび,花は枯れた。しかしわたしたちの神の言葉は,定めのない時に至るまで保つのである』」。―イザヤ 40:6-8。
10 イスラエル人は,草が永久には保たないことをよく知っています。乾期には,照りつける太陽の熱のために緑が,乾ききった茶色に変わってしまいます。幾つかの点で,人間の命は草のようです。実際,非常にはかないものです。(詩編 103:15,16。ヤコブ 1:10,11)イザヤは人間の命の移ろいやすさを,神の「言葉」,あるいは述べられた神の目的の永続性と対比させています。そうです,「わたしたちの神の言葉」は永久に存続するのです。神が話されると,何ものも,その言葉を無効にしたり,それが果たされるのを妨げたりすることはできません。―ヨシュア 23:14。
11 書き記されたみ言葉に収められている約束をエホバが果たされる,と信頼できるのはなぜですか。
11 今日,エホバが目的として述べられた事柄は,聖書という書物の形になっています。聖書は何世紀にもわたって厳しい敵意にさらされ,勇敢な翻訳者や他の人々は命を懸けて聖書を保存してきました。とはいえ,そうした人々の努力だけによって聖書が生き延びてきたわけではありません。聖書を生き延びさせた誉れはすべて,「生ける,いつまでも存在される神」,またみ言葉を保存する方であるエホバに帰されるべきです。(ペテロ第一 1:23-25)では,こう考えてみてください。エホバは書き記されたみ言葉を保存してこられたのですから,そこに収められている約束も果たされると信頼できるのではないでしょうか。
ご自分の羊を優しく世話する強い神
12,13 (イ)回復の約束を信頼できるのはなぜですか。(ロ)ユダヤ人流刑者にはどんな良いたよりがありますか。彼らが確信を抱けるのはなぜですか。
12 イザヤは,回復の約束を信頼できる2番目の理由を挙げます。その約束をしている方は強い神ですが,ご自分の民を優しく世話なさいます。イザヤはこう述べています。「シオンのために良いたよりを携えて来る女よ,高い山に向かってあなたの道を取れ。エルサレムのために良いたよりを携えて来る女よ,力を出してあなたの声を上げよ。声を上げよ。恐れるな。ユダの諸都市に言え,『さあ,あなた方の神です』と。見よ,主権者なる主エホバご自身が強い者として[「強さをもって」,脚注]来られ,そのみ腕はご自分のために支配を行なうのである。見よ,その報いは神と共にあり,その支払う賃金はそのみ前にある。神は羊飼いのようにご自分の群れを牧される。そのみ腕で子羊を集め,それをその懐に抱いて携えて行かれる。乳を飲ませるものたちを注意深く導かれる」。―イザヤ 40:9-11。
13 聖書時代には,女性たちが,勝ち戦や将来の解放についての良いたよりを叫んだり歌ったりして勝利を祝う習慣がありました。(サムエル第一 18:6,7。詩編 68:11)イザヤは,ユダヤ人流刑者には良いたよりがあることを預言的に示しています。それは,恐れることなく山の頂からも呼ばわることのできるたよりです。エホバはご自分の民を,その民の愛するエルサレムに導き戻されるのです! 民は確信を抱けます。エホバは「強さをもって」来られるからです。それゆえ,何ものも神が約束を果たされるのを妨げることはできません。
14 (イ)イザヤは例えを用いて,エホバがご自分の民を優しく導かれることをどのように示していますか。(ロ)羊飼いが羊を優しく世話することを示す,どんな実例がありますか。(405ページの囲み記事をご覧ください。)
14 とはいえ,この強い神には穏やかな一面があります。イザヤは,エホバがどのように民を故国へ導き戻されるかを,ほのぼのとした表現で描写しています。エホバは,子羊を集めて「懐」に抱いて携えて行く,愛ある羊飼いに似ています。この「懐」という語は衣の上ひだを指しているようです。羊飼いは,群れに付いていけない生まれたばかりの子羊を,そこに入れて運ぶことがあります。(サムエル第二 12:3)牧畜生活に基づくそうした心温まる情景は,流刑に処されたエホバの民に神の愛ある気遣いを保証するものであるに違いありません。確かに,そのような強くて優しい神は民に対する約束を果たしてくださると信頼できます!
15 (イ)エホバはいつ「強さをもって」来られましたか。『神のために支配を行なっている腕』とはだれのことですか。(ロ)恐れることなく,どんな良いたよりをふれ告げるべきですか。
15 イザヤの言葉には,わたしたちの時代に対する預言的な意味が込められています。1914年,エホバは「強さをもって」来られ,天にご自分の王国を設立されました。『神のために支配を行なっている腕』とはみ子イエス・キリストのことであり,エホバはイエスを天の王座に据えられました。1919年,エホバは,地上にいる油そそがれた僕たちを大いなるバビロンへの束縛から救出し,生けるまことの神の清い崇拝を完全に回復することに取りかかられました。それは,広く遠く伝わるよう山の頂から呼ばわるかのようにして,恐れることなくふれ告げるべき良いたよりです。ですから,声を上げ,大胆に,エホバ神がこの地上に清い崇拝を回復されたことを他の人に知らせましょう!
16 エホバは今日のご自分の民をどのように導いておられますか。それはどんな模範となっていますか。
16 今日のわたしたちにとって,イザヤ 40章10節と11節の言葉には,別の実際的な価値もあります。エホバがご自分の民を優しく導かれることに注目すると,慰められます。羊飼いが,他の羊に付いていけない小さな子羊を含め,1頭1頭の羊に必要なものを理解しているのと同様,エホバもご自分の忠実な僕それぞれの限界を理解しておられます。加えて,優しい羊飼いであるエホバは,クリスチャンの牧者たちの模範となっておられます。長老たちは,エホバご自身が示される愛ある気遣いに倣い,群れを優しく扱わなければなりません。エホバが「ご自身のみ子の血をもって買い取られた」群れの一人一人についてどう感じておられるかを,常に思いに留める必要があるのです。―使徒 20:28。
全知全能
17,18 (イ)ユダヤ人流刑者が回復の約束に確信を抱けるのはなぜですか。(ロ)イザヤは,畏怖の念を抱かせるどんな質問を提起していますか。
17 ユダヤ人流刑者が回復の約束に確信を抱けるのは,神が全知全能であられるからです。イザヤはこう述べます。「だれがただの手のくぼみで水を量り,単なる手尺で天を測定し,地の塵を升に盛り,あるいは山を計量器で,丘をはかりで量ったか。だれがエホバの霊を測定したか。だれがその助言者として神に何かを知らせることができようか。神はだれと一緒に協議したので,その者が神に理解させることができたというのか。だれが神に公正の道筋を教え,知識を教え,真の理解の道を知らせるのか」。―イザヤ 40:12-14。
18 これらは,ユダヤ人流刑者が熟考すべき,畏怖の念を起こさせる問いかけです。単なる人間が,広大な海の潮の流れを押しとどめることなどできるでしょうか。もちろんできません。しかしエホバにとっては,地球を覆う海は手のひらに載せた一しずくの水のようです。b また,ちっぽけな人間が,広漠たる星空を測ったり,地球の山や丘の重さを量ったりすることなどできるでしょうか。できません。しかしエホバは,人間が手尺で物を測るのと同じほどたやすく天を測られます。手尺とは,手のひらを広げた時の親指の先から小指の先までの長さです。神は,はかりを使うかのようにして山や丘の重さを量ることもできます。さらに,最も賢い人間であっても,現在の状況下で何をすべきかについて神に忠告をしたり,将来何をすべきかを神に告げたりできるでしょうか。できるはずがありません!
19,20 イザヤは,エホバの偉大さを強調するために,どんな描写表現を使っていますか。
19 地の強大な国々については何と言えますか。神が約束の言葉を果たされるのを阻めるでしょうか。イザヤは諸国民を次のように描写して,答えを与えています。「見よ,諸国民は手おけの一しずくのようであり,彼らははかりの上の塵の薄い層のようにみなされた。見よ,神は島々をもただの微小な塵のように持ち上げられる。レバノンでさえ火を燃やしつづけるのに十分ではなく,その野生動物も焼燔の捧げ物のために十分ではない。すべての国の民は神のみ前にあっては存在しないもののようであり,無きもの,実在しないもののように神にみなされた」。―イザヤ 40:15-17。
20 諸国民を一まとめにしても,エホバにとっては,手おけからこぼれる一しずくの水のようなものです。はかりに積もった微小な塵にすぎず,何の影響も及ぼしません。c 想像してみてください。巨大な祭壇を築き,その祭壇のまきとして,レバノンの山々を覆うすべての木を使います。そして,犠牲として,それらの山々を歩き回るすべての動物をささげます。しかし,それほどの捧げ物でさえ,エホバにはふさわしくありません。さらにイザヤは,そうしたイメージではまだ足りないかのように,より強烈な表現を用い,エホバの目にはすべての国の民は「無にも満たないもの」のようである,と述べます。―イザヤ 40:17,新改訂標準訳。
21,22 (イ)イザヤは,エホバが比類のない方であることをどのように強調していますか。(ロ)イザヤの生き生きとした描写から,どんな結論を引き出せますか。(ハ)預言者イザヤは,科学的に正しいどんなことを記録していますか。(412ページの囲み記事をご覧ください。)
21 次いでイザヤは,エホバが比類のない方であることをさらに強調するため,金銀や木で偶像を作る人々の愚かさを示しています。そうした偶像が「地の円の上に住む方」,地の住民を統べ治める方を適切に表わせるなどと考えるのは,何と愚かなことでしょう。―イザヤ 40:18-24をお読みください。
22 こうした生き生きとした描写すべてから,一つの結論を引き出せます。比類のない全知全能のエホバが約束を果たされるのを何ものも妨げ得ないということです。イザヤの言葉は,バビロンで故国に帰ることを待ち焦がれていたユダヤ人流刑者を大いに慰め,力づけたに違いありません。今日わたしたちも,将来に関するエホバの約束が実現することを確信できます。
「だれがこれらのものを創造したのか」
23 ユダヤ人流刑者は,どんな理由のゆえに元気を奮い起こせますか。ここでエホバは,ご自身に関して何を強調しておられますか。
23 ユダヤ人流刑者には,元気を奮い起こせる理由がもう一つあります。救出を約束しているのは,万物の創造者,またすべての活動力の源である方なのです。エホバは,ご自分の驚異的な力量を強調するため,創造物が明らかに示すご自分の能力に注意を引いておられます。「『あなた方はわたしをだれに例えて,わたしをそれに等しい者となし得るのか』と,聖なる方は言われる。『あなた方の目を高く上げて見よ。だれがこれらのものを創造したのか。それは,その軍勢を数によって引き出しておられる方であり,その方はそれらすべてを名によって呼ばれる。満ちあふれる活動力のゆえに,その方はまた力が強く,それらの一つとして欠けてはいない』」。―イザヤ 40:25,26。
24 エホバは自ら語り,ご自分に並ぶものがないことをどのように示されますか。
24 イスラエルの聖なる方ご自身が語っておられます。エホバは,ご自分に並ぶものがないことを示すため,天の星に注意を向けさせます。兵隊を整列させることのできる軍司令官と同様,エホバは星を指揮しておられます。仮にエホバが星の点呼を取ることがあるとすれば,『それらの一つとして欠けることはない』でしょう。膨大な数の星があるにもかかわらず,神は一つ一つを名によって,つまりそれぞれの固有の名あるいは名前のような呼称によって呼ばれます。星は,忠順な兵士のように持ち場を守り,適切な秩序を保ちます。指導者である方が「活動力」に満ちあふれ,『力が強い』からです。ですから,ユダヤ人流刑者には確信を抱く理由があります。星を指揮する創造者には,ご自分の僕たちを支える力もあるのです。
25 イザヤ 40章26節に記録されている神の招きにどのようにこたえ応じることができますか。そうするなら,どのような気持ちになりますか。
25 わたしたちは,イザヤ 40章26節に記録されている「あなた方の目を高く上げて見よ」という神の招きを拒むことなどどうしてできるでしょうか。現代の天文学者の数々の発見により,星空はイザヤの時代の人々が考えた以上に畏怖の念を起こさせるものであることが明らかになってきました。強力な望遠鏡で天空を探る天文学者たちは,観察可能な宇宙には推定1,250億もの銀河があると考えています。しかも,その一つである天の川銀河だけをとっても,一説によれば,1,000億以上の星があるのです。そうした知識を得ると,創造者に対する崇敬の念やその方の約束の言葉に対する全き信頼の気持ちが心の中にわき上がってくるのではないでしょうか。
26,27 バビロンにいる流刑者の心情はどのように描写されていますか。彼らはどんなことを知っているはずですか。
26 エホバは,長年に及ぶ捕囚状態によってユダヤ人流刑者の意気がくじけることをご存じなので,イザヤに霊感を与え,あらかじめ次のような保証の言葉を書き記させます。「どんな理由があって,ヤコブよ,あなたは言うのか,イスラエルよ,あなたは言い立てるのか,『わたしの道はエホバから覆い隠された。わたしに対する公正はわたしの神ご自身をよけて行く』と。あなたはまだ知るようになっていないのか。聞かなかったのか。地の果てを創造された方,エホバは,定めのない時に至るまで神である。神は疲れ果てることも,うみ疲れることもない。その理解は探り出すことができない」。―イザヤ 40:27,28。d
27 イザヤの記録したエホバの言葉は,故国から何百キロも離れたバビロンにいる流刑者の心情を描写しています。一部の人たちは,神は自分たちの「道」,つまりつらい人生行路を,見ることも知ることもない,と考えています。エホバは自分たちが忍んでいる不公正に無関心だ,と考えているのです。そうした人たちは,個人的に経験してはいなくても,少なくとも伝え聞いた情報によって知っているはずの事柄を,思い起こさせられています。エホバはご自分の民を救出することができ,またそうすることを望んでおられます。とこしえの神であり,全地の創造者です。それゆえ,創造の際に発揮された力を今でも有しておられ,強大なバビロンといえどもエホバの手の及ばないものではありません。そのような神が疲れたり,ご自分の民の期待に背いたりすることはあり得ません。民は,エホバの行ないをすべて把握できると期待すべきではありません。神の理解,つまり洞察や識別や知覚は,民の理解力を超えているからです。
28,29 (イ)エホバは,ご自分がうみ疲れた者たちを助けることを,どのように民に思い起こさせておられますか。(ロ)エホバがどのように僕たちに力をお与えになるかを示すため,どんな例えが用いられていますか。
28 エホバはイザヤを通して,意気消沈した流刑者たちに引き続き励ましを与え,こう言われます。「神は疲れた者に力を与えておられる。活動力のない者にみなぎる偉力を豊かに与えてくださる。少年は疲れ果てることもあり,うみ疲れることもある。また,若者も必ずつまずくであろう。しかし,エホバを待ち望んでいる者は再び力を得る。彼らは鷲のように翼を張って上って行く。走ってもうみ疲れず,歩いても疲れ果てることがない」。―イザヤ 40:29-31。
29 エホバは,疲れた者に力を与える必要について述べた際,流刑者たちが故国に戻るためにしなければならない難儀な旅を念頭に置いておられたのかもしれません。エホバは,支えを求めて頼ってくるうみ疲れた者たちを助けるのは自分にとっては当然であるということを,ご自分の民に思い起こさせておられます。人間の中でも特に生気にあふれた「少年」や「若者」でさえ,疲れ切ったり,疲労こんぱいしてつまずいたりすることがあるでしょう。しかしエホバは,ご自分に依り頼む人たちに力を,走ったり歩いたりできる疲れ知らずの力を与えると約束しておられます。鷲は何時間も滑空を続けられる力強い鳥です。鷲が見るからにやすやすと飛ぶさまを例えに用いて,エホバがどのようにご自分の僕たちに力をお与えになるかが示されています。e ユダヤ人流刑者は,神からのそのような支えを期待できるので,絶望しなくてよいのです。
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