-
王国伝道者は裁判に訴える神の王国は支配している!
-
-
13章
王国伝道者は裁判に訴える
1,2. (イ)宗教指導者たちは,伝道の業に対してどんな措置を講じましたか。しかし,使徒たちはどうしましたか。(ロ)伝道を禁じる命令に使徒たちが従わなかったのはなぜですか。
西暦33年のペンテコステの少し後のことです。エルサレムのクリスチャン会衆は,数週間前に発足したばかりです。サタンは,今が攻撃を加える絶好の機会と見ます。会衆が強くなる前にぬぐい去ってしまおうと考えたのです。サタンは速やかに物事を動かし,宗教指導者たちが王国伝道の業を禁止するように仕向けます。しかし,使徒たちは勇敢に伝道を続け,多くの人々が男性も女性も「主を信じる者」となりました。―使徒 4:18,33; 5:14。
使徒たちは「彼の名のために辱められるに足る者とされたこと」を歓んだ
2 反対者たちは怒りに駆られ,今度は使徒たち全員を投獄します。ところが,夜中にエホバのみ使いが獄の戸を開き,夜明けに使徒たちはまたもや宣べ伝えていました。使徒たちは再び逮捕されて支配者たちの前に連れ出され,伝道を禁じる命令を破ったとして非難されます。使徒たちは大胆にこう答えます。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。支配者たちは激怒し,使徒たちを「除き去ってしまいたい」と思います。しかしこの重要な局面で,民から重んじられていた律法教師ガマリエルが発言し,支配者たちにこう警告します。「注意してください。……この人たちに手出しせず,彼らをほっておきなさい」。意外にも,支配者たちはこの勧めを受け入れ,使徒たちを去らせます。使徒たちはどうしますか。おじけづいたりせず,「たゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明し続け」ました。―使徒 5:17-21,27-42。箴 21:1,30。
3,4. (イ)サタンは神の民を攻撃するために昔からどんな方法を用いてきましたか。(ロ)この章と,14,15章では,どんな点を考えますか。
3 西暦33年のその裁判は,クリスチャン会衆が当局者からの反対を受けた最初のケースでした。しかし,それは始まりに過ぎませんでした。(使徒 4:5-8; 16:20; 17:6,7)現代においてもサタンは,真の崇拝の反対者たちが当局者たちを唆して,伝道の業を禁止するように仕向けます。反対者たちは神の民に関して様々な訴えを起こしてきました。その1つは,わたしたちが公共の秩序を乱し,面倒を起こしている,というものです。さらに,扇動者だという訴えもあれば,訪問販売員だという訴えもあります。兄弟たちはそのような非難の誤りを証明するため,ふさわしい時に裁判を起こしてきました。それらの裁判はどんな結果になりましたか。何十年も前に下されたそれらの判決は,現在あなたにどのような影響を与えていますか。これから幾つかの裁判の例を取り上げ,「良いたよりを擁護して法的に確立する」点でどのように役立ったかを考えてみましょう。―フィリ 1:7。
4 この章では,わたしたちが自由に宣べ伝える権利をどのように擁護してきたかを考えます。14,15章では,世のものとはならないために,また王国の規準に従って生きるために,どのような法的闘いが行なわれてきたかを考察します。
面倒を起こす者? それとも,神の王国の忠節な擁護者?
5. 1930年代の終わりに王国伝道者たちが逮捕されたのはなぜですか。指導の任に当たる人たちは,何を行なうことを考えましたか。
5 1930年代の終わりに,米国各地の州や都市はエホバの証人に対して,宣教奉仕を行なうための許可証の取得を義務づけようとしました。しかし,兄弟たちは許可証の申請をしませんでした。許可は後に取り消される可能性があります。また兄弟たちは,王国の音信を宣べ伝えるようにという命令はイエスがクリスチャンに与えたものであり,その命令の遂行を妨げる権限はどの国の政府にもない,と考えていました。(マル 13:10)結果として,王国伝道者は何百人も逮捕されました。組織の中で指導の任に当たる人たちは,裁判に訴えることを考えました。宗教を自由に実践するエホバの証人の権利を国が不当に制限している,ということをはっきり示したいと思ったのです。折しも1938年,ある事件が起きました。その事件がきっかけで,後に画期的な判決が下されることになります。いったい何が起きたのでしょうか。
6,7. キャントウェル家の人たちは,どんな経験をしましたか。
6 1938年4月26日,火曜日の朝,60歳のニュートン・キャントウェルと妻のエスター,息子のヘンリー,ラッセル,ジェシーは,コネティカット州のニューヘブン市へ伝道に出かけました。5人とも特別開拓者です。彼らは一日を伝道に充てるつもりでしたが,それより長くなる心積もりもしていました。すでに何度か逮捕されており,再び逮捕されるかもしれないと思っていたのです。それでも,王国の音信を宣べ伝えたいという願いは変わりませんでした。一家は2台の車でニューヘブンにやって来ました。ニュートンは,聖書文書と携帯用の蓄音機を載せた自家用車を運転し,22歳のヘンリーはサウンドカーを運転しました。案の定,数時間後にこの家族は警察官に止められました。
7 最初に18歳のラッセルが,次いでニュートンとエスターが逮捕されました。16歳のジェシーは遠くから,両親と兄が警察官に連行されるのを見ていました。ヘンリーは町の別の場所で伝道していたので,若いジェシーは一人だけになりました。それでも蓄音機を携えて伝道を続けました。ジェシーはカトリックの男性二人に会い,了承を得てからラザフォード兄弟の「敵」という講演のレコードをかけました。しかし,二人は聞いているうちに怒りだし,ジェシーを殴ろうとしました。ジェシーは穏やかにその場を去りましたが,しばらくして警察官に呼び止められました。こうしてジェシーも拘束されました。警察はキャントウェル姉妹を起訴しませんでしたが,キャントウェル兄弟と息子たちを起訴しました。しかし,彼らはその日のうちに保釈されました。
8. ジェシー・キャントウェルが,面倒を起こす者として有罪判決を受けたのはなぜですか。
8 数か月後の1938年9月,キャントウェル家の人たちはニューヘブンの事実審裁判所に出廷しました。ニュートンとラッセルとジェシーは,許可なしに寄付集めをしたとして有罪判決を受けました。コネティカット州の最高裁判所に上訴がなされましたが,ジェシーは平穏妨害の罪で有罪になりました。面倒を起こす者とみなされたのです。なぜでしょうか。レコードを聞いたカトリックの男性二人が法廷で,その講演は自分たちの宗教を侮辱する挑発的なものだった,と証言したからです。わたしたちの組織の責任ある兄弟たちは,それらの有罪判決に異議を申し立て,米国最高裁判所に上訴しました。
9,10. (イ)米国最高裁判所は,キャントウェル家に関する事件でどんな判決を下しましたか。(ロ)この判決から現在のわたしたちはどのような益を得ていますか。
9 1940年3月29日に始まった裁判で,首席裁判官チャールズ・E・ヒューズと8人の陪席裁判官は,エホバの証人側の弁護士ヘイドン・カビントン兄弟の弁論を聞きました。a コネティカット州の検察官が,エホバの証人は面倒を起こす者であることを証明しようとして陳述を行なうと,裁判官の一人はこう尋ねました。「キリスト・イエスが広めた音信は当時,受けが良くなかったのではありませんか」。すると,州の検察官はこう答えました。「そのとおりです。そして,聖書に関するわたしの記憶が正しければ,その音信を広めたイエスがどうなったかも聖書は述べています」。実に興味深い発言です。検察官は意図せずに,エホバの証人はイエスと同類で,州はイエスを有罪にした者たちと同類だと述べてしまったのです。1940年5月20日,米国最高裁判所は全員一致で,エホバの証人側勝訴の判決を下しました。
ヘイドン・カビントン(手前中央),グレン・ハウ(左)が他の兄弟姉妹と共に,法的勝利を得て裁判所をあとにする
10 この判決にはどんな意義がありましたか。この判決は,宗教を自由に実践する権利の保護範囲を広げ,それに伴い,連邦政府や州政府や地方自治体が宗教的自由を合法的に制限することはできなくなりました。さらに最高裁判所は,ジェシーの行動は「公共の平穏と秩序を脅かすものではない」と判断しました。その判決により,エホバの証人が公共の秩序を乱す者ではないことがはっきり示されたのです。神の僕たちにとって非常に重要な法的勝利です。この判決から現在のわたしたちはどのような益を得ていますか。エホバの証人である弁護士はこう述べています。「宗教を自由に実践する権利が認められ,不当な制限を課される心配がないので,エホバの証人は現在,住んでいる地域で人々に希望の音信を伝えることができています」。
扇動者? それとも真理の宣明者?
「神とキリストと自由に対するケベックの燃える憎しみは,カナダ全体の恥」
11. カナダの兄弟たちはどんなキャンペーンを行ないましたか。なぜですか。
11 1940年代に,カナダのエホバの証人は激しい反対に遭いました。崇拝を自由に行なう権利を国が無視していることを公表するため,1946年に,カナダの兄弟たちは16日間のキャンペーンを行ないました。そして,「神とキリストと自由に対するケベックの燃える憎しみは,カナダ全体の恥」(英語)という4ページのパンフレットを配布しました。ケベック州の兄弟たちは,僧職者のけしかけた暴動,警察による残虐行為,集団暴行などの被害を受けていました。このパンフレットはその詳細を伝え,「エホバの証人の不当逮捕が続いている」と述べています。「モントリオール大都市圏で,エホバの証人に対する起訴は約800件に及んで」いました。
12. (イ)パンフレットの配布キャンペーンに対して,反対者はどんな反応を示しましたか。(ロ)兄弟たちはどんな罪で起訴されましたか。(脚注を参照。)
12 パンフレットの配布活動を受けて,ケベック州知事モーリス・デュプレッシは,エホバの証人に対する「容赦のない闘争」を行なうと宣言しました。デュプレッシは,ローマ・カトリックのビルヌーブ枢機卿と結託していました。起訴件数はたちまち800件から1,600件へと倍増しました。ある開拓者の姉妹は,「幾度も警察に逮捕されました。その回数は数えきれないくらいです」と述べました。そのパンフレットを配布しているところが見つかったエホバの証人は,「文書による扇動罪」で起訴されました。b
13. 扇動罪で最初に裁判にかけられたのはだれでしたか。裁判所はどんな判決を下しましたか。
13 1947年,エメイ・ブーシェ兄弟と18歳の娘ジゼル,また11歳の娘ルシールは,扇動罪で裁判にかけられました。エホバの証人がその容疑で裁判を受けた最初のケースです。この親子は,ケベック市南部の丘陵地にある自分たちの農場の近くで,「ケベックの燃える憎しみ」のパンフレットを配布しました。とはいえ,面倒を起こす無法者とは程遠い人たちです。ブーシェ兄弟は腰の低い温厚な人で,小さな農場を営み,馬車で時おり町に出かけるという静かな生活を送っていました。それにもかかわらず,この家族はパンフレットにあるようなひどい仕打ちを受けてきました。事実審裁判所の裁判官は,エホバの証人を嫌っており,ブーシェ兄弟の無罪を示す証拠を認めようとはしませんでした。むしろ,そのパンフレットが敵意をあおるものであり,それゆえブーシェ親子は有罪である,とする検察側の主張を受け入れました。その裁判官の見解を煎じ詰めると,真実を語るのは犯罪なのです。エメイとジゼルは文書による扇動罪で有罪とされ,年若いルシールも2日にわたって留置されました。兄弟たちはカナダの最高裁判所に上訴し,最高裁はその件を審理することに同意しました。
14. ケベック州の兄弟たちは,迫害が続いた期間中も,どうしましたか。
14 そうした時期にも,ケベック州の勇敢な兄弟姉妹は,暴力的な攻撃が執ように続く中,王国の音信を宣べ伝え続けました。多くの場合,その奉仕は良い結果を生みました。パンフレットの配布キャンペーンが始まった1946年からの4年間で,ケベック州のエホバの証人は300人から1,000人に増えたのです。c
15,16. (イ)カナダの最高裁判所は,ブーシェ家に関する事件でどんな判決を下しましたか。(ロ)この勝利は,エホバの証人や他の人々にどんな影響を与えましたか。
15 1950年6月,カナダ最高裁判所は9人の裁判官全員でエメイ・ブーシェの件を審理しました。6か月後の1950年12月18日,同裁判所はエホバの証人に有利な判決を下しました。エホバの証人側の弁護士グレン・ハウ兄弟が説明するとおり,裁判所が被告人側の次の主張を認めたからです。すなわち,「扇動」は政府に対する暴動や反乱をあおり立てることを要件とする,という主張です。しかし,そのパンフレットは,そのようにあおり立てるところの全くない,自由な言論の合法的な一形態でした。ハウ兄弟は,「エホバがどのように勝利を与えてくださるかをじかに見る思いでした」と述べています。d
16 最高裁判所のこの判決は,神の王国の大勝利と言えます。ケベック州のエホバの証人が文書による扇動罪で起訴されていた未決の122の事件に関しても,罪を問う根拠が失われたのです。さらに,この判決により,カナダと他の英連邦諸国の国民は,政府の物事の行ない方に関して懸念を述べる自由を持つことになりました。この勝利はまた,ケベック州で行なわれていた,教会と国家によるエホバの証人の自由に対する攻撃をくじくものとなりました。e
訪問販売員? それとも神の王国の熱心な伝道者?
17. 一部の政府は,わたしたちの伝道活動をどのような方法で規制しようとしますか。
17 今日のエホバの僕たちは,初期クリスチャンと同様,「神の言葉を売り歩く者では」ありません。(コリント第二 2:17を読む。)ところが,政府がわたしたちの宣教活動を,商取引に関する法律によって規制しようとすることがあります。エホバの証人は訪問販売員なのか,それとも宗教上の奉仕者なのか,という点が争点となった2つの裁判を取り上げましょう。
18,19. デンマークの当局者は,伝道活動をどのような方法で制限しようとしましたか。
18 デンマーク。1932年10月1日に施行された法律により,訪問販売の許可証なしに印刷物を販売することは違法になりました。しかし,兄弟たちは許可証を申請しませんでした。法律が施行された翌日,5人の伝道者が首都コペンハーゲンから約30㌔西のロスキレという町に行き,一日,伝道をしました。その日の終わりに,アウグスト・レーマンが伝道から戻ってきませんでした。許可証なしに物品を販売したとして逮捕されていたのです。
19 1932年12月19日,アウグスト・レーマンは出廷しました。訪問して聖書文書を勧めていた,と証言しましたが,訪問販売をしていたことは否認しました。事実審裁判所はレーマンの主張を受け入れ,こう述べました。「被告人は……自活することができている。経済的な利益を得てはおらず,そのような利益を得る意図もなかった。むしろ,当人の活動は当人に金銭面で損失をもたらしている」。裁判所はエホバの証人側の主張を支持し,レーマンの活動は「商売には当たらない」という判決を下しました。しかし,神の民に敵対する人々は,国内の伝道活動を制限することを決意していました。(詩 94:20)検察官は上訴を続け,その件は国の最高裁判所で争われることになりました。兄弟たちはどのように反応しましたか。
20. デンマークの最高裁判所はどんな判決を下しましたか。兄弟たちはどうしましたか。
20 最高裁判所での審理が行なわれるまでの1週間,デンマーク各地のエホバの証人は伝道活動を増し加えました。1933年10月3日,火曜日,判決が言い渡されました。最高裁判所は,アウグスト・レーマンは法律に違反してはいない,という下級審の判決を支持したのです。エホバの証人は引き続き自由に伝道を行なえることになりました。兄弟姉妹は,この法的勝利に対するエホバへの感謝を表わすため,いっそう熱心に伝道しました。この判決以来,デンマークの兄弟たちは政府からの干渉を受けずに宣教奉仕を行なうことができています。
デンマークの勇敢なエホバの証人,1930年代
21,22. マードック兄弟に関する事件で,米国最高裁判所はどんな判決を下しましたか。
21 米国。1940年2月25日,日曜日,開拓者のロバート・マードック・ジュニアと7人のエホバの証人は,ペンシルバニア州ピッツバーグに近いジャネット市で,伝道中に逮捕されました。彼らは,許可証を取得せずに文書を勧めていたとして,有罪判決を受けました。この件は上訴され,米国最高裁判所は審理を行なうことに同意しました。
22 1943年5月3日,最高裁判所はエホバの証人の主張を認める判決を下しました。同裁判所は,許可証の取得を義務づけるべきではない,としました。「合衆国憲法で認められた権利の行使に対して料金」を課すことになるからです。最高裁判所は市の条例を,「出版の自由を制限し,宗教の自由な実践を妨げるもの」として無効としました。裁判官のウィリアム・O・ダグラスは,同裁判所の多数意見として,エホバの証人の活動は「単なる伝道でも,宗教文書の配布でもない。両者の結合である」と述べました。そしてこう続けています。「この形態の宗教活動は,……教会での礼拝や説教壇からの説教と同じほど高い地位を占めている」。
23. 1943年の法的勝利が,現在のわたしたちに重要な意味を持つのはなぜですか。
23 この最高裁判所判決は,神の民の重要な法的勝利となりました。わたしたちはクリスチャンの奉仕者であり,セールスマンではない,という事実が確認されたのです。エホバの証人は1943年のその記念すべき日に,米国の最高裁判所における13件の訴訟のうち12件で勝訴しました。マードック事件はその1つでした。これらの判決は,後の裁判において強力な判例となりました。実際,王国の音信を公にも家から家にも宣べ伝えるわたしたちの権利に反対者たちがなおも異議を唱え,裁判に発展する場合がありました。
「自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」
24. 宣べ伝える業が政府によって禁止される時,わたしたちはどうしますか。
24 エホバの僕たちは,王国の音信を自由に宣べ伝える権利が政府によって法的に認められる時,そのことを本当にありがたく思います。しかし,宣べ伝える業が政府によって禁止される時は,伝道の方法を調整し,可能な方法で業を続けます。使徒たちのように,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 5:29。マタ 28:19,20)それとともに,わたしたちの活動に対する禁止令の解除を求めて裁判に訴えます。2つの例を取り上げましょう。
25,26. どんないきさつで,エホバの証人に関する裁判がニカラグアの最高裁判所で行なわれましたか。どんな結果になりましたか。
25 ニカラグア。1952年11月19日,宣教者で支部の僕のドノバン・マンスターマンは,首都マナグアの出入国管理局に出向きました。局の責任者アルノルド・ガルシア大佐のところに出頭するよう命じられたからです。ドノバンは大佐から,ニカラグアのエホバの証人は「自分たちの教義についての伝道と宗教活動を続けることを禁じられている」と告げられました。その理由を尋ねると,ガルシア大佐は,エホバの証人は宣教活動を行なう許可を政府の大臣から得ておらず,共産主義者だと言われているからだ,と説明しました。共産主義者だと,だれが言っていたのでしょうか。ローマ・カトリックの僧職者たちです。
禁令下のニカラグアの兄弟たち
26 マンスターマン兄弟は直ちに行政・宗教省とアナスタシオ・ソモサ・ガルシア大統領に不服を申し立てましたが,聞き入れられませんでした。それで兄弟たちは活動の方法を調整しました。王国会館を閉鎖し,少人数のグループで集まりました。街路証言はやめましたが,王国の音信を宣べ伝えることは続けました。同時に,ニカラグアの最高裁判所に,禁止令を無効とする裁判所命令を請求しました。幾つもの新聞が禁止令および裁判所命令の請求について広く報道し,最高裁判所はその件を審理することに同意しました。どんな結果になりましたか。1953年6月19日,最高裁判所は全員一致でエホバの証人側に有利な判決を下しました。同裁判所は,禁止令は憲法の保障する表現の自由,良心の自由,信念を表明する自由を侵害している,と裁定しました。また,ニカラグア政府とエホバの証人との関係を以前の状態に回復するよう命じました。
27. ニカラグアの人々が最高裁判所の判決に驚いたのはなぜですか。兄弟たちは,その勝利についてどんな見方をしましたか。
27 ニカラグアの人々は,最高裁判所がエホバの証人の主張を支持する判決を下したことに驚きました。カトリックの僧職者の影響力が非常に強かったため,最高裁判所はそれまで僧職者との衝突を避けてきました。また,政府の役人の力が強かったため,その決定を覆すこともほとんどありませんでした。この勝利が与えられたのは,王イエスが保護してくださったからであり,自分たちが宣べ伝える業をやめなかったからでもある,と兄弟たちは考えました。―使徒 1:8。
28,29. 1980年代半ばに,ザイールではどんな変化が起きましたか。
28 ザイール。1980年代半ばに,ザイール(現在のコンゴ民主共和国)には3万5,000人ほどのエホバの証人がいました。王国の業の拡大に対応するため,支部は新しい施設の建設を進めていました。1985年12月には,首都キンシャサで国際大会が開かれ,市のスタジアムに世界各地からの代表者を含む3万2,000人ほどが集いました。しかしその後,エホバの僕たちを取り巻く状況は変わり始めます。何が起きたのでしょうか。
29 当時ザイールでは,カナダのケベック州出身の宣教者マーセル・フィルトー兄弟が奉仕していました。デュプレッシ時代の迫害を経験した人です。兄弟はこう語っています。「1986年3月12日,責任ある兄弟たちは,ザイールのエホバの証人協会は違法であると宣言した書状を渡されました」。その禁止令には,大統領モブツ・セセ・セコの署名がありました。
30. 支部委員会はどんな重要な決定を下す必要がありましたか。どうすることに決めましたか。
30 翌日,国営ラジオで,「[ザイール]では,二度とエホバの証人について聞くことはないでしょう」という放送がなされました。すぐに迫害が始まりました。王国会館は破壊され,兄弟たちは持ち物を強奪され,逮捕され,投獄され,殴打されました。子どもたちでさえ留置されたのです。1988年10月12日,政府はわたしたちの組織の持ち物を没収し,軍の師団である治安警備隊が支部を占拠しました。責任ある兄弟たちはモブツ大統領に不服を申し立てましたが,返事はありませんでした。その時点で,支部委員会は重要な決定を迫られました。最高裁判所に訴えるべきか,それとも待つべきか,という決定です。当時,支部委員会の調整者として奉仕していた宣教者のティモシー・ホームズは,「エホバに知恵と導きを求めました」と語っています。支部委員会は祈りつつ検討した末,今は法的措置を取るべき時ではない,と考えました。むしろ,兄弟たちを世話することと,宣べ伝える業を続ける方法を探すことに力を傾けました。
「その訴訟期間中,エホバがどのようにして物事を動かされるかを目の当たりにしました」
31,32. ザイール最高裁判所は,注目すべきどんな決定を下しましたか。兄弟たちはその決定からどんな益を受けましたか。
31 それから数年が過ぎました。エホバの証人に対する圧力は和らぎ,国内での人権意識が高まりました。支部委員会は,禁止令の妥当性を問うためザイール最高裁判所に上訴する時が来た,と判断しました。注目すべきことに,最高裁判所はその件を審理することに同意しました。こうして,大統領の禁止令から7年近くたった1993年1月8日,最高裁判所はエホバの証人に対する政府の措置は違法であったと裁定し,禁止令が解除されました。考えてみてください。裁判官たちは身の危険も顧みず,大統領の決定を無効にしたのです。ホームズ兄弟は,「その訴訟期間中,エホバがどのようにして物事を動かされるかを目の当たりにしました」と語っています。(ダニ 2:21)この勝利によって,兄弟たちの信仰は強められました。兄弟たちは,いつ,どのように行動すべきかを王イエスが臣民に教えてこられたのだと感じました。
コンゴ民主共和国のエホバの証人はエホバを崇拝する自由を歓ぶ
32 禁止令が解除された結果,支部事務所は宣教者を再び受け入れ,新しい支部施設を建設し,聖書文書を輸入することができるようになりました。f 世界中の神の僕たちは,エホバがご自分の民の霊的福祉を守っておられるのを知って,大いに喜びました。―イザ 52:10。
「エホバはわたしの助け主」
33. この章で取り上げた裁判から,どんなことを学べますか。
33 この章で取り上げた法的な闘いは,イエスが次の約束を果たしてこられた証拠です。「わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう」。(ルカ 21:12-15を読む。)時にエホバは,現代のガマリエルのような人たちを起こしてご自分の民を保護し,勇敢な裁判官や弁護士を動かして正義を擁護させてこられました。エホバは反対者たちの武器の力をそがれたのです。(イザヤ 54:17を読む。)どんな反対も,神の業を止めることはできません。
34. わたしたちの法的勝利が注目に値するのはなぜですか。それはどんなことを示す証拠ですか。(「王国伝道の業を促進した,最高裁判所における重要な勝訴判決」という囲みを参照。)
34 わたしたちの法的勝利が注目に値するのはなぜでしょうか。考えてみてください。エホバの証人は,名声や影響力のある人たちではありません。選挙で投票したり,政治活動を支援したり,政治家の力を借りようとしたりもしません。さらに,最高裁判所の裁判の当事者となったエホバの証人は,一般に「無学な普通の人」たちです。(使徒 4:13)ですから人間的な観点で言えば,それらの裁判所には,有力な宗教的・政治的反対者に不利な判決を下してまでエホバの証人を助ける理由はないはずです。にもかかわらず,裁判所はわたしたちに有利な判決を幾度も下してきました。そうした法的勝利は,わたしたちが「神の見ておられるところで,キリストと共に」歩んでいる証拠です。(コリ二 2:17)ですから,わたしたちは使徒パウロのように,「エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない」とはっきり言えるのです。―ヘブ 13:6。
a この「キャントウェル 対 コネティカット州」事件は,ヘイドン・カビントン兄弟が米国最高裁判所でエホバの証人を弁護した43件の訴訟のうち,最初のものでした。兄弟は1978年に亡くなりました。残されたドロシー姉妹は,2015年に92歳で亡くなるまで忠実に奉仕しました。
b この起訴は,1606年に制定された法律に基づいてなされました。その法律によれば,陪審は,ある人の発言が敵意を抱かせるものだと判断したなら,たとえその発言内容が真実であっても,当人に有罪を宣告できました。
c 1950年に,ケベック州には164人の全時間奉仕者がいました。その中には,ギレアデ卒業生63人が含まれていました。それら卒業生は,厳しい反対が待ち受けていることを知りつつ,ケベック州で奉仕する割り当てを進んで受け入れました。
d W・グレン・ハウ兄弟は勇気ある弁護士で,1943年から2003年にかけて,カナダと他の国々における何百件もの訴訟で手腕を発揮しました。
e この事件についての詳細は,「目ざめよ!」2000年4月22日号18-24ページの『戦いはあなた方のものではなく,神のもの』という記事を参照。
f 治安警備隊は最終的に支部の敷地から立ち退きましたが,新しい支部施設は別の場所に建設されました。
-
-
神の政府だけを忠節に支持する神の王国は支配している!
-
-
14章
神の政府だけを忠節に支持する
1,2. (イ)今日に至るまでイエスの追随者たちの指針となってきたのはどんな原則ですか。(ロ)敵対者たちはどのような方法でわたしたちを征服しようとしてきましたか。どんな結果になっていますか。
イエスは,ユダヤ国民を裁く世俗の最高権威者ピラトの前に立ちました。その際,今日に至るまでご自分の真の追随者たちの指針となる原則を示し,こう語りました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。(ヨハ 18:36)ピラトはイエスを処刑しましたが,その勝利は長くは続きませんでした。イエスは復活したからです。強大なローマ帝国の皇帝たちは,キリストの追随者たちを打ち砕こうとしましたが,成功しませんでした。クリスチャンは当時知られていた世界の各地に王国の音信を広めたのです。―コロ 1:23。
2 王国が1914年に設立されて以来,史上有数の軍事大国の幾つかは神の民をぬぐい去ろうとしてきました。それでも,わたしたちを征服した国は一つもありません。多くの政府や党派は,紛争の際に,わたしたちを自分たちの側に無理やり付かせようとしてきました。しかし,わたしたちを分裂させようとするその働きかけも成功していません。今日,王国の臣民は事実上,世界のあらゆる国に住んでいます。とはいえ,わたしたちは真の世界的な兄弟関係で結ばれ,世の政治的な事柄に関して厳正中立を保っています。わたしたちの一致は,神の王国が支配しており,王イエス・キリストが今なお臣民を指導し,精錬し,保護していることを示す紛れもない証拠です。イエスがこのことをどのように行なってこられたかを考えましょう。また,「世のものではない」という立場を貫くわたしたちに対し,イエスが与えてくださった,信仰を強める法的勝利の幾つかを取り上げます。―ヨハ 17:14。
前面に掲げられた問題
3,4. (イ)神の王国が誕生したころ,どんな出来事がありましたか。(ロ)神の民は最初から,中立の問題を十分に理解していましたか。説明してください。
3 王国が誕生した後,天で戦争が起こり,サタンは地に投げ落とされました。(啓示 12:7-10,12を読む。)地上でも戦争が起こり,その戦争によって神の民の決意は試みられました。神の民は,イエスの手本に従って世のものではないという立場を取ることを決意していました。それでも当初は,政治的な事柄すべてから離れているために何が求められるかを十分には理解していませんでした。
4 一例を挙げましょう。1904年に発行された「千年期黎明」(英語)第6巻は,a 戦争に加わらないようクリスチャンに勧めていました。しかしながら,その本は,クリスチャンは徴兵されたなら,非戦闘員の何らかの任務に配属されるよう手を尽くすべきである,と論じていました。それがかなわず戦場に送られたなら,殺人を決して犯さないようにするべきである,ともありました。当時の状況について,1905年にバプテスマを受けた英国のハーバート・シーニアーはこう語りました。「兄弟たちの間で大きな混乱が生じていました。軍に入隊して非戦闘員の作業だけを行なうのは正しいことなのかどうか,明確な指示はありませんでした」。
5. 「ものみの塔」1915年9月1日号の中で,わたしたちの理解はどのように精錬され始めましたか。
5 しかし,「ものみの塔」(英語)1915年9月1日号の中で,この問題に関する理解が精錬され始めました。この記事は,「聖書研究」(英語)の本で勧められていた事柄について,「そのような歩みは妥協に当たるのではないだろうか」と問いかけました。ではクリスチャンが,軍服の着用と兵役を拒むなら銃殺する,と脅される場合はどうでしょうか。その記事はこう論じました。「平和の君に忠節を保つゆえに,またその命令に背くことを拒むゆえに命を落とすほうが,地上の王たちを支持する者,はたから見ると天の王の教えに従わない者として命を落とすよりもよいのではないか。わたしたちが望むのは前者であろう。つまり,天の王に忠実であるがゆえに死ぬことを選ぶのである」。このような力強い論議を展開しながらも,その記事は,「こうするよう強く勧めているわけではない。これは単なる提案である」と結んでいます。
6. ハーバート・シーニアー兄弟の経験からどんなことを学べますか。
6 関係する問題点を明確に理解し,正面からそれに向き合った兄弟たちもいます。前述のハーバート・シーニアーはこう述べました。「わたしにとっては,弾丸を船から降ろすこと[非戦闘員の任務]と,それらの弾丸を銃に装填し発射できるようにすることには,原則的に何の違いもありませんでした」。(ルカ 16:10)シーニアー兄弟は良心的に兵役を拒否した結果,刑務所に入れられました。シーニアー兄弟と他の4人の兄弟は,16人の良心的拒否者から成るグループに区分されていました。16人の中には他の宗派の人も含まれていました。彼らは一時期,英国のリッチモンド刑務所で服役し,後に“リッチモンドの16人”として知られるようになります。ある時,ハーバートと他の良心的拒否者たちは,船でひそかにフランスの前線へ護送されます。そして現地で銃殺刑を宣告され,銃殺隊の前に整列させられました。しかし,実際に処刑されることはなく,10年の刑に減刑されました。
「私は,たとえ戦争の脅威にさらされていても,神の民はすべての人に対して平和な態度を保つべきだということを認識するようになりました」。―サイモン・クレーカー(7節を参照)
7. 第二次世界大戦が始まったころ,神の民はどんな点を理解していましたか。
7 第二次世界大戦が勃発したころには,エホバの民は全体として,中立の意味とイエスの手本に従うために求められる事柄とをいっそう明快に理解していました。(マタ 26:51-53。ヨハ 17:14-16。ペテ一 2:21)例えば,「ものみの塔」(英語)1939年11月1日号には,「中立」と題する重要な記事が掲載されました。その記事はこう述べていました。「現在,エホバの契約の民を律する規範とは,交戦当事国の間で厳正中立を保つことである」。後にニューヨーク市ブルックリンの本部で奉仕したサイモン・クレーカーは,この記事から学んだことについて次のように述べました。「私は,たとえ戦争の脅威にさらされていても,神の民はすべての人に対して平和な態度を保つべきだということを認識するようになりました」。この霊的食物は時宜にかなったものでした。その記事によって神の民は,王国に対する忠節が前例のない攻撃を受ける事態に備え,思いを引き締めることができたのです。
反対という「川」に脅かされる
8,9. 使徒ヨハネの預言はどのように成就しましたか。
8 王国が1914年に誕生した後,龍である悪魔サタンは象徴的な川を口から吐き出すことにより,神の王国の支持者たちをぬぐい去ろうとします。そのことが使徒ヨハネによって預言されていました。b(啓示 12:9,15を読む。)この預言はどのように成就しましたか。1920年代以降,神の民に対する反対は急増しました。第二次世界大戦中に北米に住んでいた多くの兄弟たちと同様,クレーカー兄弟も神の王国に忠節であったため刑務所に入れられました。実際,当時米国では,宗教上の理由で戦争に行くことを拒んで連邦刑務所に収容された受刑者のうち,3分の2以上がエホバの証人でした。
9 悪魔とその手先たちは,王国の臣民がどこに住んでいるかにかかわりなく,その忠誠を打ち砕こうと躍起になりました。アフリカ,米国,ヨーロッパの各地で,王国の臣民は法廷や仮釈放審査会に連れ出されました。彼らは,中立の立場を貫くことを固く決意していたため,投獄され,殴打され,障害を負わされました。ドイツにおいて神の民は,「ハイル・ヒトラー」とあいさつすることや戦争に加わることを拒んだため,極度の圧力にさらされました。ナチ時代には推定6,000人が収容所に入れられ,ドイツ人や外国人のエホバの証人1,600人以上が迫害者たちの手にかかって命を落としました。それでも悪魔は,神の民に永続的な害を及ぼすことはできませんでした。―マル 8:34,35。
「地」が「川」を呑み込む
10. 「地」は何を象徴していますか。「地」は神の民のため,どのように事態に介入してきましたか。
10 使徒ヨハネの記した預言が明らかにしているところによれば,「地」すなわちこの体制の諸要素のうち良識ある態度を取る部分が,迫害という「川」を呑み込み,神の民を助けることになります。預言のこの箇所はどのように成就してきましたか。第二次世界大戦に続く数十年間に,「地」はメシア王国の忠実な支持者たちのため,しばしば事態に介入してきました。(啓示 12:16を読む。)例えば,大きな影響力を持つ裁判所が,エホバの証人の権利を保護したことがあります。それには,兵役を拒否する権利や,国家主義的な儀式への参加を拒む権利などが含まれます。これからまず,兵役の問題に関連してエホバがご自分の民にお与えになった重要な勝利について考えましょう。―詩 68:20。
11,12. シクレラ兄弟とトリメノス兄弟はどんな問題に直面しましたか。それぞれどんな結果になりましたか。
11 米国。アンソニー・シクレラは,エホバの証人の両親に育てられ,15歳の時にバプテスマを受けました。シクレラ兄弟は21歳の時,宗教の奉仕者として徴兵委員会に登録しました。2年後の1950年には,良心的拒否者として再分類されることを求める申請をしました。連邦捜査局の報告書は兄弟に関して何の問題も指摘していませんでした。それにもかかわらず,司法省は兄弟の申請を退けました。幾度かの裁判を経た後,米国最高裁判所がシクレラ兄弟に関する件を審理した結果,下級裁判所の判決は取り消され,兄弟に有利な判決が下されました。この判決は,兵役を良心的に拒否する他の米国市民のために判例を確立する助けとなりました。
12 ギリシャ。1983年,イアコボス・トリメノスは軍服の着用を拒んだため不服従の罪で有罪とされ,刑務所に入れられました。釈放後,トリメノス兄弟は会計士として働くための申請を行ないましたが,前科の記録があったため申請は却下されました。兄弟は裁判を起こしましたが,国内のすべての裁判で敗訴し,ヨーロッパ人権裁判所に申し立てを行ないます。2000年に,17人の裁判官から成るヨーロッパ人権裁判所の大法廷は,兄弟に有利な判決を下しました。これは,差別的な扱いを非とする判例となりました。この時まで,ギリシャの3,500人余りの兄弟たちには,中立の立場を守って投獄されたことで前科がありました。ですが,この有利な判決が下された後,国は兄弟たちの前科を取り消すための法律を制定しました。加えて,国は数年前に別の法律を制定しており,代替の市民的奉仕活動を行なう権利をすべての市民に与えていました。その法律が有効であることは,ギリシャの憲法が改正された時に再確認されました。
「法廷に入る前に,エホバに熱烈に祈りました。穏やかな気持ちになれるようエホバが助けてくださるのを実感しました」。―イバイロ・ステファノフ(13節を参照)
13,14. イバイロ・ステファノフとバハン・バヤティアンに関する裁判から,どんなことを学べると思いますか。
13 ブルガリア。1994年,19歳のイバイロ・ステファノフは軍隊に召集されました。ステファノフ兄弟は,軍隊に入ることを,また軍の指揮下で行なう非戦闘員の任務を果たすことを拒みました。兄弟は1年半の刑を言い渡されましたが,良心的に兵役を拒否する権利を主張し,上訴しました。この件は最終的にヨーロッパ人権裁判所で審理されることになりました。2001年,まだ審理が行なわれていなかった時点で和解が成立しました。ブルガリア政府はステファノフ兄弟に,さらには代替の市民的奉仕活動を行なう意志のある国民全員に,恩赦を与えたのです。c
14 アルメニア。2001年,バハン・バヤティアンは兵役義務の対象者になりました。d 軍隊に入ることを良心的に拒否したバヤティアンは,国内におけるすべての裁判で敗訴します。2002年9月,2年半の刑に服役し始めますが,10か月半で釈放されました。そのころバヤティアンはヨーロッパ人権裁判所に申し立てを行ないました。その件を審理した同裁判所は,2009年10月27日,バヤティアン側敗訴の判決を下しました。この判決により,同じ問題に直面するアルメニアの兄弟たちも望みを絶たれたかに思えました。しかし,ヨーロッパ人権裁判所の大法廷がこの件を再び審理します。2011年7月7日,同裁判所はバヤティアン側勝訴の判決を下しました。ヨーロッパ人権裁判所において,宗教的信条による良心的兵役拒否が,思想,良心および宗教の自由に基づき保護されるべきであると認められたのは,これが初めてでした。この判決は,エホバの証人の権利だけでなく,欧州評議会の加盟国に住む何億もの人々の権利を保護するものでもあります。e
アルメニアの兄弟たちは,ヨーロッパ人権裁判所による勝訴判決の後に刑務所から釈放された
国家主義的な儀式に関する問題
15. エホバの民が国家主義的な儀式への参加を拒むのはなぜですか。
15 エホバの民はメシア王国に忠節を保つゆえに,兵役を拒否するだけでなく,国家主義的な儀式への参加を敬意ある態度で拒みます。国家主義の風潮は,とりわけ第二次世界大戦の開戦後,世界中で一気に強まりました。多くの国で,市民は誓いの暗唱や国歌斉唱や国旗敬礼により,自国への忠誠を誓うよう求められてきました。しかし,わたしたちはエホバだけに全き専心をささげます。(出 20:4,5)その結果,洪水のような迫害がわたしたちに押し寄せました。それでもエホバは,やはり「地」が水のような反対を呑み込むよう動かしてこられました。この点で,エホバがキリストを通して与えてくださった注目すべき勝利の幾つかを取り上げましょう。―詩 3:8。
16,17. リリアン・ゴバイタスとウィリアム・ゴバイタスはどんな問題に直面しましたか。二人に関する事件から,どんなことを学べますか。
16 米国。1940年,米国最高裁判所は,「マイナーズビル学区 対 ゴバイティス」事件において,8対1でエホバの証人側敗訴の判決を下しました。12歳のリリアン・ゴバイタスfと10歳の弟ウィリアムは,エホバに忠節を保つことを願い,国旗敬礼と忠誠の誓いをすることを拒みました。そのため,二人は放校されました。この件は最高裁判所で審理され,学校側の措置は「国家の一致」という利益にかない合憲である,という判断が下されました。この判決を機に,エホバの証人に対する熾烈な迫害が生じます。放校される子どもが増え,大人は仕事を失いました。かなりの数の人が暴徒からひどい攻撃を受けました。「我が国の名誉」(英語)という本は,「1941年から1943年にかけてエホバの証人に対してなされた迫害は,20世紀のアメリカにおける宗教的不寛容としては他に類を見ないものである」と述べています。
17 神に敵対する人たちの勝利は,長くは続きませんでした。1943年,最高裁判所はゴバイティス事件に似た,もう一つの事件を審理しました。「ウェスト・バージニア州教育委員会 対 バーネット」事件です。今回,最高裁判所はエホバの証人側勝訴の判決を下したのです。米国の歴史上,最高裁判所が自ら下した判断をこれほど短期間に覆したのは,前例のないことでした。この判決の後,米国のエホバの民があからさまな迫害を受けるケースは激減しました。それとともに,すべての米国市民の権利が強化されることにもなりました。
18,19. パブロ・バロスは,自分が強さを保つうえで何が助けになったと述べていますか。エホバの僕たちは,この手本にどのように見倣えますか。
18 アルゼンチン。1976年,8歳のパブロ・バロスと7歳の弟ウーゴは,国旗掲揚式に加わらないため放校されました。その処分が下される前に,女性の校長はパブロを突き飛ばし,頭をたたきました。さらに,二人を放課後1時間学校に残らせ,愛国的な儀式に無理やり加わらせようとしました。この試練についてパブロは次のように述べています。「エホバの助けがなかったら,忠誠を曲げさせようとする圧力に耐えることができなかったと思います」。
19 この件で裁判が起こされ,裁判官は二人を放校するという学校側の決定を支持しました。しかし,アルゼンチンの最高裁判所に上訴が行なわれます。1979年,最高裁判所は下級裁判所の判決を覆し,こう述べました。「当該処罰[放校処分]は,憲法で保障された学習の権利(第14条)および国が初等教育を確実に施すという義務(第5条)とは相いれないものである」。エホバの証人の子ども約1,000人がこの勝利の恩恵を受けました。放校処分が差し止められた子どもたちもいれば,パブロとウーゴのように,公立学校へ再入学を認められた子どもたちもいました。
多くのエホバの証人の子どもたちは試練のもとで忠実を保っている
20,21. ロエル・エンブラリナグとエミリー・エンブラリナグに関する裁判の例から,あなたの信仰はどのように強められますか。
20 フィリピン。1990年,9歳の少年ロエル・エンブラリナグと10歳の姉エミリーは,国旗に敬礼しなかったために放校されました。エホバの証人のほかの児童66人も同じ理由で放校されました。ロエルとエミリーの父親レオナルドは,学校側と話し合う努力をしましたが,成果は得られませんでした。状況がいっそう深刻になったため,レオナルドは最高裁判所に申し立てをしました。しかし,経済的に余裕がなく,弁護士をつけることができませんでした。この家族はエホバに導きを求めて熱烈に祈りました。その間にも,子どもたちは周りからひどいことを言われました。レオナルドとしても,自分は法律の知識がないので裁判には勝てないだろう,と感じていました。
21 そのような中,弁護士のフェリーノ・ガナルがこの家族の弁護を引き受けてくれました。国内でも有数の法律事務所に勤めていたことのある人です。この裁判が行なわれるころには,ガナル氏はすでに法律事務所を退職し,エホバの証人になっていました。最高裁判所はこの件に関し,全員一致でエホバの証人側勝訴の判決を下し,放校処分を無効としました。神の民の忠誠を曲げさせようとする人たちのもくろみは,またしてもくじかれたのです。
中立が一致につながる
22,23. (イ)エホバの民がこれほど多くの画期的な勝訴判決を得てきたのはなぜですか。(ロ)わたしたちが全世界に及ぶ平和な兄弟関係を築いていることから,何が分かりますか。
22 エホバの民がこれほど多くの画期的な勝訴判決を得てきたのはなぜでしょうか。わたしたちは政治的な影響力を持っていません。それでも,世界各地の数々の裁判で,公平な裁判官は反対者たちの執拗な攻撃からわたしたちを保護してきました。またその過程で,憲法の判例を築いてもきました。勝利を得るためのわたしたちの努力に,キリストの後ろ盾があったことは明らかです。(啓示 6:2を読む。)わたしたちが法的な闘いを行なうのはなぜですか。法制度の改革を意図しているわけではありません。むしろ,今後も妨げられることなく王イエス・キリストに仕えられるようにすることを目指しているのです。―使徒 4:29。
23 今の世では,政治的な争いによる分裂や,根深い憎しみによるひずみが見られます。統治する王イエス・キリストは,そうした状況においても中立の立場を保とうとする世界中の追随者たちの努力を祝福してきました。サタンは,わたしたちを分裂させて征服しようと躍起になっていますが,成功していません。王国は現に,「戦いを学」ぶことを拒む幾百万もの人々を集めています。全世界に及ぶ平和な兄弟関係を築いているわたしたちの存在そのものが一つの奇跡であり,神の王国が支配している紛れもない証拠なのです。―イザ 2:4。
a この第6巻は,「新しい創造物」(英語)という題でも知られています。「千年期黎明」のシリーズは後に,「聖書研究」と呼ばれるようになりました。
b この預言について詳しくは,「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」という本の27章,184-186ページを参照。
c この和解により,ブルガリア政府には,良心的拒否者全員に対し,軍の管理下にはない代替の市民的奉仕活動の機会を提供することも求められました。
d 詳しくは,「ものみの塔」2012年11月1日号の「ヨーロッパ人権裁判所 ― 良心的兵役拒否の権利を擁護」という記事を参照。
e アルメニア政府は過去20年間に,450人を超えるエホバの証人の若者を投獄しました。2013年11月,投獄されていた最後のエホバの証人たちが釈放されました。
f 裁判所の記録はつづりの間違いにより「ゴバイティス」となっています。
-
-
崇拝の自由のために闘う神の王国は支配している!
-
-
15章
崇拝の自由のために闘う
1,2. (イ)神の王国の市民としての立場を証明するものは何ですか。(ロ)エホバの証人が時に,宗教的な自由のために闘わなければならなかったのはなぜですか。
あなたは神の王国の市民ですか。エホバの証人であるあなたは,神の王国のれっきとした市民です。では,その市民としての立場を証明するものは何でしょうか。パスポートなどの公文書ではありません。むしろ,エホバ神をどのように崇拝しているかが証明となります。真の崇拝には,何を信じるかということだけでなく,何を行なうかということも関係してきます。神の王国の律法に従っているかどうかが問われるのです。神への崇拝は,わたしたちの生活のあらゆる面を包含しています。それには,どのように子どもを育てるか,さらには健康上の問題にどのように対処するかということも関係してきます。
2 わたしたちは神の王国の市民としての立場を最も大切にし,王国の律法に従おうとしています。しかし,そのような立場は今の世界で尊重されるとは限りません。政府がわたしたちの崇拝を制限しようとすることや,場合によっては根絶しようとすることさえあります。キリストの臣民は時に,メシアなる王の律法に従って生きる自由のために闘わなければなりませんでした。それは意外なことではありません。聖書時代のエホバの民も,エホバを崇拝する自由のためにしばしば闘う必要がありました。
3. 王妃エステルの時代に,神の民はどんな闘いをしなければなりませんでしたか。
3 例えば,王妃エステルの時代に神の民は,自らの存続のために闘わなければなりませんでした。首相である邪悪なハマンがペルシャの王アハシュエロスに,王の領土に住むユダヤ人を皆殺しにすることを持ちかけたからです。ハマンは,ユダヤ人の「法令はほかのどの民族のものとも違って」いると唱えました。(エス 3:8,9,13)エホバはこの時,ご自分の僕たちを見捨てたりはなさいませんでした。エステルとモルデカイは,神の民を保護してくれるよう王に嘆願し,その努力をエホバは祝福されました。―エス 9:20-22。
4. この章ではどんなことを考えますか。
4 現代においてはどうでしょうか。前の章で考えたように,世俗の権力者たちは時としてエホバの証人に反対してきました。この章では,反対する政府がわたしたちの崇拝をどのように制限しようとしてきたかを取り上げます。これから次の3つの分野を扱います。(1)一つの組織として存続し,自分たちの望む仕方で崇拝を行なう権利。(2)聖書の原則にかなった医療処置を選ぶ自由。(3)エホバの規準に従って子どもを育てるという親の権利。それぞれの分野に関して,メシア王国の忠節な市民が,自分たちの貴重な立場を守るためにどのように奮闘し,その努力がどのように祝福されたかを考えてみましょう。
法的認可と基本的自由のための闘い
5. 法的認可にはどんな利点がありますか。
5 エホバを崇拝するために,人間の政府からの法的認可は必要ではありません。それでも,法的に認可されているなら,崇拝を行なうのが容易になります。例えば,王国会館や大会ホールで自由に集まりを持つ,聖書文書を印刷もしくは輸入する,良いたよりを公の場で人々に伝える,などの活動を妨げられることなく行なえます。多くの国でエホバの証人は法的に登録されており,法的に認可されている他の宗教と同様,崇拝の自由を得ています。とはいえ,政府が法的認可を与えない場合や,わたしたちの基本的自由を制限しようとする場合もあります。幾つかの例を挙げてみましょう。
6. 1940年代初め,オーストラリアのエホバの証人はどんな困難に直面しましたか。
6 オーストラリア。1940年代初め,オーストラリア総督はわたしたちの信条を戦争の遂行を“阻害”するものとみなしました。そのため,禁止令が課されました。エホバの証人は集会や伝道を自由に行なえなくなり,ベテルの活動は停止させられ,王国会館は差し押さえられました。わたしたちの聖書文書を所持することも禁止されました。オーストラリアのエホバの証人は,数年にわたってひそかに活動を続けます。その後,事態が好転します。1943年6月14日,オーストラリア高等裁判所は禁止令を取り消したのです。
7,8. ロシアの兄弟たちは長年,崇拝の自由のためにどんな闘いをしてきましたか。
7 ロシア。エホバの証人は何十年にもわたって共産主義政権下で禁止令を課されていましたが,1991年,ついに法的に登録されました。旧ソビエト連邦の崩壊後は,ロシア連邦における法的認可が1992年に与えられました。ところが,程なくして反対者たち,とりわけロシア正教会の関係者たちが,わたしたちの急速な増加に脅威を感じるようになります。反対者たちは1995年から1998年にかけて,エホバの証人に対し,続けざまに5件の刑事告発をします。検察官はどの件に関しても,違法行為の証拠を提出することができませんでした。しかし,反対者たちは態度を変えず,1998年に民事訴訟を起こします。当初はエホバの証人に有利な判決が下りましたが,反対者たちはその判決を受け入れようとしませんでした。上訴がなされ,結果として2001年5月,エホバの証人は敗訴しました。その年の10月に再審理が開始され,その判決が2004年に下されます。エホバの証人がモスクワで用いていた法人を解散させ,その活動を禁止する,という判決です。
8 迫害が勢いを増しました。(テモテ第二 3:12を読む。)エホバの証人は嫌がらせを受け,襲撃されました。宗教的な文書は押収され,崇拝の場所を借りたり建てたりすることが非常に難しくなりました。このような苦難に遭遇した兄弟姉妹の気持ちを想像できるでしょうか。エホバの証人はすでに2001年にヨーロッパ人権裁判所に申し立てを行なっており,2004年には付加的な情報を提出しました。2010年,判決が下されました。同裁判所は,ロシアがエホバの証人の活動を禁止したことの背後に宗教的不寛容があることをはっきり見て取り,ロシア国内の裁判所の判決を支持する理由はない,と裁定しました。エホバの証人が違法行為を行なっているという証拠はなかったからです。ヨーロッパ人権裁判所はまた,モスクワにおける禁止令はエホバの証人の法的権利を剥奪することを意図したものである,と指摘しました。今回の判決は,エホバの証人の信教の自由を擁護するものです。ロシアの当局者は判決を履行していませんが,ロシアに住む神の民は,こうした勝利に大いに勇気づけられています。
ティトス・マヌサキス(9節を参照)
9-11. ギリシャのエホバの民は,集会で崇拝を行なう自由を得るために,どのように闘ってきましたか。どんな結果になりましたか。
9 ギリシャ。1983年,ティトス・マヌサキスはクレタ島のイラクリオンで会場を借り,少人数のエホバの証人が崇拝のために集まれるようにしました。(ヘブ 10:24,25)やがて,正教会のある司祭が警察に苦情を訴え,エホバの証人がその会場を崇拝のために使用していることに抗議しました。エホバの証人の信条が正教会とは異なっていることが気に入らなかったのです。当局者はティトス・マヌサキスおよび地元の3人のエホバの証人を刑事訴追します。彼らは罰金を科され,2か月の刑を宣告されました。神の王国の忠節な市民である4人は,この裁判所の判決が崇拝の自由を侵害するものであると考え,国内の裁判所に上訴し,最終的にはヨーロッパ人権裁判所に申し立てを行ないました。
10 1996年,ヨーロッパ人権裁判所は清い崇拝の反対者たちに大きな痛手となる判決を言い渡します。同裁判所は,「エホバの証人は,ギリシャの法律で定められている『既知の宗教』の定義の枠内に入る」と述べました。また,ギリシャ国内の裁判所の判決は,「申立人の信教の自由に直接の影響を」及ぼすことを指摘しました。さらに,ギリシャ政府には「宗教的信条,またはその信条を表現する手段が正当であるか否かを決定する」権利はない,とも裁定しました。こうして,エホバの証人に対する有罪判決は覆され,崇拝の自由が擁護されたのです。
11 しかし,この勝利によって,ギリシャにおける問題がなくなったわけではありません。その後,ギリシャのカサンドリアで別の法廷闘争が始まり,12年近くに及びました。この裁判で反対を主導したのは正教会の主教です。2012年,ギリシャで最高位の行政裁判所である国務院は,神の民に有利な判決を下しました。この判決は,ほかならぬギリシャ憲法が保障する信教の自由を引き合いに出しながら,たびたびなされてきた訴え,すなわちエホバの証人は既知の宗教ではないという訴えを退けました。裁判所は,「『エホバの証人』の教理は非公開のものではない。したがって,彼らは既知の宗教を信奉している」と述べました。カサンドリアの小さな会衆の成員は,今では自分たちの王国会館で崇拝のために集会を開けるようになり,そのことを喜んでいます。
12,13. フランスで反対者たちは,「布告によって難儀を仕組」もうとして,どんな方法を用いましたか。どんな結果になりましたか。
12 フランス。神の民に反対する人は,法的な「布告によって難儀を仕組」むという策略を用いることがあります。(詩編 94:20を読む。)例えば,1990年代半ばに,フランスの税務当局は,フランスのエホバの証人が用いている法人の一つであるアソシアシオン・レ・テモワン・ド・ジェオバ(エホバの証人協会)の財務の監査を始めました。予算担当大臣は次のように述べて,監査の真の意図を明らかにしました。「この監査は……解散命令もしくは刑事訴追につながり得る。それにより,協会は運営に支障をきたすようになるか,我々の管轄地域における活動を停止せざるを得なくなるだろう」。この監査で不正は何も見いだされなかったにもかかわらず,税務当局はエホバの証人協会に対して法外な課税をしました。もしこの策略が適用されたなら,兄弟たちは巨額の税を支払うために支部事務所を閉鎖し,建物を売却するしかなかったでしょう。神の民は,大きな打撃となる事態に直面しても,あきらめませんでした。エホバの証人は断固たる行動を取り,この不当な措置に異議を申し立て,最終的に2005年,ヨーロッパ人権裁判所に提訴しました。
13 2011年6月30日,同裁判所の判決が言い渡されました。信教の自由からすると,国家は極端な場合を除き,宗教的信条の正当性やその信条を表明する方法の正当性を評価すべきではない,という考えが示されました。ヨーロッパ人権裁判所は次のようにも述べました。「当該課税は,協会の重要な財源を切り断つものである。結果的に協会は,信者が実際的な形で崇拝の自由を行使するうえで必要とする支援を行なえなくなる」。同裁判所は全員一致で,エホバの証人側勝訴の判決を下したのです。喜ばしいことに,フランス政府は最終的に,エホバの証人協会から取り立てた金額を,利息を含めて返還しました。また同裁判所の命令に従って,支部の財産に設定した担保権を解除しました。
いま法的な面で不公正を経験している霊的な兄弟姉妹のために,折あるごとに祈ることができる
14. 崇拝の自由のための闘いにおいて,わたしたちには何ができますか。
14 昔のエステルとモルデカイのように,今日のエホバの民も,エホバの命じておられる仕方で崇拝をささげる自由のために闘います。(エス 4:13-16)この闘いにおいて,あなたにもできることがあります。いま法的な面で不公正を経験している霊的な兄弟姉妹のために,折あるごとに祈ることができます。そのような祈りは,苦難や迫害を忍ぶ兄弟姉妹にとって大きな力となります。(ヤコブ 5:16を読む。)法廷における幾つもの勝利は,エホバがそうした祈りに基づいて行動してくださることを物語っています。―ヘブ 13:18,19。
自分の信条にかなった医療処置を選ぶ自由
15. 血の使用に関して神の民はどんな点を考慮に入れますか。
15 11章で考えたように,神の王国の市民は,血の誤用を避けるようにという,聖書に基づく明確な指針を与えられています。今日,血の誤用は広く見られます。(創 9:5,6。レビ 17:11。使徒 15:28,29を読む。)わたしたちは輸血を受け入れませんが,神の律法に違反しないかぎり,自分や子どもたちが最善の医療を受けられるよう望んでいます。多くの国の最高裁判所は,人には自分の良心や宗教的信条に照らして医療処置を選択もしくは拒否する権利があることを認めています。しかし国や地域によっては,この点で神の民が大きな問題に直面することもあります。幾つかの事例を挙げましょう。
16,17. 日本の一姉妹は,手術の際にどんな不本意な扱いを受けましたか。姉妹の祈りはどのように聞かれましたか。
16 日本。63歳の主婦の武田みさえは,大きな手術を受けなければなりませんでした。神の王国の忠節な市民である武田姉妹は,無輸血で治療を受けたいという願いを医師に明確に伝えていました。ところが何か月も後になって,手術の際に輸血が施されたことを知り,愕然としました。欺かれ,暴行を受けたように感じた武田姉妹は,1993年6月,医師団と病院を訴えました。姉妹は控えめな性格で,話し方は穏やかでしたが,揺るぎない信仰を抱いていました。満員の法廷で立派に証言し,体力に限界がある中でも1時間以上にわたって証言台にとどまりました。その後,亡くなる1か月前まで法廷に出廷しました。その勇気と信仰に感銘を受けるのではないでしょうか。武田姉妹は,この闘いを祝福してくださるようエホバに絶えず請願していたと述べています。姉妹は祈りが聞かれることを確信していました。その後どうなったでしょうか。
17 武田姉妹が亡くなってから3年後,最高裁判所は姉妹側に勝訴判決を下しました。本人の明確な意思に反して輸血を施したのは不当である,という主張を認めたのです。2000年2月29日の判決には,本件のような場合,「意思決定をする権利は,人格権の一内容として尊重されなければならない」とありました。武田姉妹は,聖書によって訓練された良心に沿った医療処置を選ぶという自由のために,断固闘いました。そのおかげで,日本のエホバの証人は現在,無断で輸血されることを心配せずに医療を受けることができます。
パブロ・アルバラシーニ(18-20節を参照)
18-20. (イ)アルゼンチンの控訴裁判所は,輸血拒否の意思を医療上の指示書によって示す権利を擁護し,どんな裁定を下しましたか。(ロ)血の誤用という問題において,キリストの指導に服していることをどのように示せますか。
18 アルゼンチン。神の王国の市民は,自分が意識不明の間に医療上の決定が必要となる場合に備えて,何ができますか。自分の意思を伝える法的文書を携帯することです。パブロ・アルバラシーニもそのようにしました。2012年5月,パブロは強盗未遂事件に巻き込まれ,数か所に銃弾を受けました。病院に搬送された時には意識不明の状態で,輸血に関する自分の立場を説明することができませんでした。兄弟は医療上の指示書を4年以上前に作成し署名しており,それを携帯していました。重篤な状態で,命を救うには輸血が必要だと考える医師たちもいましたが,病院としては本人の意思を尊重するつもりでした。ところが,エホバの証人ではない父親が,パブロの意思に反して輸血を施す裁判所命令を取り付けました。
19 パブロの妻の代理を務める弁護士が,直ちに上訴します。数時間のうちに,控訴裁判所は下級裁判所の命令を取り消し,医療上の指示書に記されている本人の意思を尊重すべきである,という裁定を下しました。パブロの父親はアルゼンチンの最高裁判所に上訴しました。最高裁判所は,輸血拒否の意思を表明した本人の医療上の指示書が,自らの「判断,意図,自由意思をもって作成されたことを疑うべき理由はない」と裁定しました。そして次のようにも述べました。「判断能力を持つすべての成人は,自らの健康に関して事前に指示する能力を有し,……特定の医療処置……を受け入れたり退けたりできる。担当医は,これらの指示を聴き入れなければならない」。
自分の医療上の指示書に記入しましたか
20 アルバラシーニ兄弟は,今ではすっかり回復しています。兄弟も妻も,医療上の指示書を作成しておいて本当によかった,と思っています。簡単ながら重要なこの手順を踏むことにより,兄弟は,神の王国を通して行使されるキリストの支配に服していることを示しました。あなたもご家族も,このような方法で緊急時の備えをしていますか。
エイプリル・カドレス(21-24節を参照)
21-24. (イ)カナダの最高裁判所が,未成年者の輸血拒否に関して注目に値する判決を下した経緯を述べてください。(ロ)この経験から,エホバに仕える若い人はどんな励みが得られますか。
21 カナダ。一般的に言って,裁判所は,子どもにどんな医療を施すのが最善かを決める親の権利を認めています。場合によっては,判断能力を持つ未成年者についても,本人の医療上の決定を尊重すべきである,と裁定するケースもあります。エイプリル・カドレスの場合がそうでした。エイプリルは14歳の時,ひどい内出血のため病院に搬送されました。その数か月前に,「医療上の事前の指示」カードを作成し,緊急時でも輸血はしないでほしいと指示していました。担当医はこの明確な意向を無視し,輸血の裁判所命令を取り付けます。そして,本人の意思に反して輸血を施しました。この少女は後に,その時のことをレイプになぞらえました。
22 エイプリルと両親は裁判を起こしました。2年後,この件はカナダの最高裁判所で争われました。違憲であるとのエイプリル側の主張は認められず,形の上では敗訴となりました。それでも裁判所は,訴訟費用を相手側に負担させ,エイプリルに有利な内容の判決を下しました。この判決は,医療処置を自分で決定する権利を行使したいと考える,判断能力のある他の未成年者にとっても有利なものとなりました。最高裁判所は次のように述べました。「医療処置を施す際,16歳未満の者に対しても,特定の医療処置に関する当人の見方に,十分な自主的思考と判断能力が反映されていることを,当人が実証する機会を与えるべきである」。
23 この裁判は,最高裁判所が判断能力を有する未成年者の憲法上の権利を論じたという点で,重要な意味を持っています。この判決が下されるまで,カナダの裁判所は,ある医療処置が子どもの最善の利益に資すると判断するなら,その医療処置を16歳未満の子どもに施す許可を出すことができました。しかし,この判決が下された今,裁判所は16歳未満の若者に対して,十分な判断能力を有していることを示す機会をまず与えることが必要になりました。その機会を与えずに,当人の意思に反する治療を許可することができなくなったのです。
「神のみ名を賛美し,サタンが偽り者であることを証明することに,少しですが貢献できました。そのことを考えると,うれしくなります」
24 闘いは3年に及びましたが,エイプリルは頑張り通したことをどう思っているでしょうか。「そうして良かったです」と言っています。今では元気になり,正規開拓奉仕をしているエイプリルは,こう語ります。「神のみ名を賛美し,サタンが偽り者であることを証明することに,少しですが貢献できました。そのことを考えると,うれしくなります」。エイプリルの経験からも分かるように,若い人も勇気ある立場を取り,神の王国の正真正銘の市民であることを示せるのです。―マタ 21:16。
エホバの規準に従って子どもを育てる面での自由
25,26. 夫婦が離婚に至る場合,どんな状況が生じることがありますか。
25 エホバは,ご自分の規準に従って子どもを育てる責任を親にゆだねておられます。(申 6:6-8。エフェ 6:4)この務めは簡単なものではありません。夫婦が離婚に至る場合はなおさらです。子育てに関する両者の方針は大きく異なる場合があります。例えば,エホバの証人である親は,子どもをクリスチャンの規準に従って育てたいと強く願うのに対し,証人でないほうの親はそれに異議を唱える,という状況が生じます。言うまでもなく,エホバの証人である親は,離婚によって夫婦の結びつきは断たれるとしても,双方が子どもの親であることに変わりはない,という点を十分に認識すべきでしょう。
26 証人でないほうの親が,子どもの親権を求めて裁判を起こすことがあります。子どもの宗教へのかかわりを自分の側で決めようとしてのことです。中には,エホバの証人として育てるなら子どもに害が及ぶと主張する人もいます。子どもは誕生日の祝いやクリスマスなどの様々な行事を楽しむことができず,医療上の緊急事態が起きた時には“命を救う”輸血を受けられない,と唱えるのです。幸い,裁判所は多くの場合,単に一方の親の宗教が子どもに害を及ぼすかどうかを判断しようとするのではなく,何が子どもにとって最善の利益となるかを検討します。幾つかの例を見てみましょう。
27,28. 子どもにエホバの証人の教育を施すなら害を与えるという主張に対して,オハイオ州最高裁判所はどんな裁定を下しましたか。
27 米国。1992年,オハイオ州最高裁判所で,ある裁判が行なわれました。エホバの証人でない父親は,幼い息子にエホバの証人の教育を施すなら息子に害を与えることになる,と主張していました。下級裁判所は父親の主張を認め,親権を父親に与えていました。母親のジェニファー・ペーターは面接交渉権を与えられましたが,「いかなる形であれエホバの証人の信条を子どもに教えたり,その信条に触れさせたり」しないよう命じられました。この裁判所命令はあまりに広範で,ペーター姉妹が息子のボビーに聖書や聖書の道徳規準について話すことすらできない,という意味にも解釈できました。姉妹の気持ちを察することができますか。ペーター姉妹は打ちのめされました。それでも,辛抱しエホバが行動してくださるのを待つことを学んだ,と述べています。「エホバがずっとそばで支えてくださいました」とも言っています。姉妹の弁護士は,エホバの組織の援助のもと,オハイオ州最高裁判所に上訴しました。
28 最高裁判所は下級裁判所の判決を支持しませんでした。最高裁判所は,「双方の親には,子どもに教育を施す基本的な権利があり,それには道徳的および宗教的な価値観を伝える権利も含まれる」と述べました。さらに,エホバの証人の掲げる宗教上の価値観が子どもの身体的および精神的福祉を害する,ということが示されない限り,裁判所には宗教に基づいて一方の側の親権を制限する権利はない,としました。最高裁判所は,エホバの証人の宗教的信条が子どもの精神的または身体的福祉に悪影響を及ぼすという証拠はない,と認定しました。
裁判でエホバの証人の親に親権が与えられた例は少なくない
29-31. デンマークの一姉妹は,どんな理由で娘の親権を失いましたか。最終的に,デンマークの最高裁判所はどんな判断を下しましたか。
29 デンマーク。アニータ・ハンセンも同様の問題に直面しました。離婚していた夫が,7歳の娘アマンダの親権を手に入れようと裁判を起こしたからです。地方裁判所は2000年に,ハンセン姉妹に親権を与えていました。しかし,アマンダの父親が高等裁判所に上訴します。高等裁判所は地方裁判所の判決を覆し,父親に親権を与えました。高等裁判所は,二親の人生観の相違が双方の宗教信条に基づいていることを理由に,父親のほうが子どもを教えるのに適している,と判断しました。ですから,ハンセン姉妹は実際のところ,エホバの証人であるために親権を失ったのです。
30 この厳しい試練の時期に,ハンセン姉妹は時折ひどく落ち込み,どう祈ったらよいか分からないこともありました。姉妹はこう語っています。「そんな時,ローマ 8章26,27節からとても慰められました。エホバは,言葉にならないわたしの思いを分かっていてくださると,感じることができたからです。エホバはどんな時もわたしを見ていて支えてくださいました」。―詩編 32:8; イザヤ 41:10を読む。
31 ハンセン姉妹はデンマークの最高裁判所に上訴しました。裁判所は判決の中で次のように述べました。「親権の問題は,何が子どもの最善の利益に資するかを具体的に査定したうえで決定すべきである」。この裁判所はまた,親権に関する判断は,二親が意見の相違をどう扱うかに基づいて下すべきであり,エホバの証人の「教理や立場」に基づいて下すべきではない,としました。たいへん喜ばしいことに,最高裁判所は,ハンセン姉妹が親として適格であることを認め,娘の親権を母親に与えました。
32. ヨーロッパ人権裁判所の判決によって,エホバの証人の親に対する差別的な扱いはどのように正されましたか。
32 ヨーロッパ諸国。子どもの親権をめぐる法的な争いが,国内の最高裁判所では決着しない場合もあります。ヨーロッパ人権裁判所は,親権をめぐる裁判にも関与してきました。人権裁判所は2つの事例において,それぞれの国の裁判所が,宗教だけに基づき,エホバの証人である親と証人でない親に対する扱いの面で相違を生じさせた,と認定しました。ヨーロッパ人権裁判所は,そのような扱いを差別的と評し,「実質的に宗教の違いのみに基づく区別は受け入れられない」と裁定しました。人権裁判所のそうした判決の恩恵にあずかった,エホバの証人である母親は安堵し,大変だったころをこう振り返っています。「子どもに害を及ぼしていると非難されて,とてもつらく感じました。わたしはただ子どもたちにとって最善と思えるもの,つまりクリスチャンとしての教育を与えようとしていただけなのです」。
33. エホバの証人の親は,フィリピ 4章5節の原則をどのように当てはめますか。
33 もちろん,エホバの証人の親で,子どもの心に聖書の規準を教える権利をめぐって係争中の人は,道理にかなうバランスの取れた態度を取るように努めます。(フィリピ 4:5を読む。)エホバの証人の親は,神の道に従って子どもを訓練する権利を持てることを感謝します。それとともに,証人でないほうの親が子どもに対する責務を分担することを望むなら,その立場を認めます。では,エホバの証人の親は,子どもを訓練する責任をどれほど真剣に果たしますか。
34. 今日のクリスチャンの親は,ネヘミヤの時代のユダヤ人からどんなことを学べますか。
34 ネヘミヤの時代の例は教訓となります。ユダヤ人はエルサレムの城壁を修理し再建するため懸命に働きました。そうすれば,自分や家族を周辺の敵国から守ることができたからです。そのためネヘミヤは,「自分たちの兄弟,息子および娘,妻および家のために戦いなさい」と強く勧めました。(ネヘ 4:14)当時のユダヤ人が払った努力は,大きな意味を持ちました。今日でも,エホバの証人の親は,真理の道に従って子どもを育てるため懸命に努力します。子どもは学校や近所で不健全な影響に絶えずさらされています。そのような影響力がメディアを通して家庭に入り込むこともあります。親の皆さん,お子さんが霊的に立派に成長できるよう,安全な環境を整えましょう。そのような努力は大きな意味を持つ,ということを忘れないでください。
真の崇拝に対するエホバの支えを確信する
35,36. エホバの証人が自分たちの法的権利のために闘ったことは,どんな良い結果になりましたか。あなたはどんなことを決意していますか。
35 現代のエホバの組織は,崇拝の自由のために闘ってきました。その努力をエホバは確かに祝福してくださいました。法的な闘いをしてきた神の民は,しばしば裁判所で強力な証言を行なうことができ,それは一般の人々に対しても証言となりました。(ロマ 1:8)エホバの証人による多くの法的勝利の付随的な益として,エホバの証人ではない人々の市民としての権利が強化されることにもなりました。とはいえ,わたしたち神の民は社会改革を目指すわけでも,自己の正しさを証明したいわけでもありません。エホバの証人が法的権利を求めて裁判で闘ってきたのは,何にもまして,清い崇拝を確立し推進することを願っているからです。―フィリピ 1:7を読む。
36 エホバを崇拝する自由のために闘ってきた人々から,信仰に関する大切な教訓を学べます。そのような教訓を心に銘記しましょう。さらに,忠実であり続け,次のことを確信しましょう。エホバはわたしたちの業を支えてくださり,ご意志を行なうための力を今後も与えてくださるのです。―イザ 54:17。
-