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  • 生まれつき盲目の男性を癒やす
    イエス 道,真理,命
    • 生まれつき盲目の男性を癒やす

      ヨハネ 9:1-18

      • 生まれつき盲目の物乞いが癒やされる

      イエスはまだエルサレムにいます。安息日に町の中を歩いていたイエスと弟子たちは,生まれつき盲目の物乞いに会います。弟子たちは,「ラビ,この人が生まれつき目が見えないのは,誰が罪を犯したからですか。本人ですか,それとも親ですか」と尋ねます。(ヨハネ 9:2)

      弟子たちは,その男性が前世に罪を犯したとは信じていませんが,母親のおなかの中で罪を犯したと思っているのかもしれません。イエスは答えます。「この人や親が罪を犯したからではありません。この件で,神の力が明らかにされます」。(ヨハネ 9:3)この男性が盲目になったのは,本人や親が何かの間違いをしたり罪を犯したりしたからではありません。人間は全て,アダムが罪を犯したために生まれつき不完全で,欠陥があります。盲目のような障害もその1つです。しかしこの人が盲目だったことがきっかけで,素晴らしいことが起こります。イエスが神の力を明らかにするのです。これまでにたくさんの病気を癒やした時と同じです。

      イエスは神の力を表すことを遅らせてはいけないことを強調し,こう言います。「私たちは昼のうちに,私を遣わした方の意志を行わなければなりません。誰も働くことができない夜が来ようとしています。私は世にいる間,世の光です」。(ヨハネ 9:4,5)イエスの死は迫っており,墓に入ればイエスは何もできなくなります。その時まで,イエスは世に光を輝かせ続けます。

      イエスが盲目の男性の両目に泥を塗っているところ

      では,どのようにこの人を癒やすのでしょうか。イエスは地面に唾を吐いて泥を作り,その男性の両目に塗って,「シロアムの池に行って洗いなさい」と言います。(ヨハネ 9:7)男性がその通りにすると,何と見えるようになります。生まれて初めて目が見えるようになったのです。その喜びを想像できますか。

      近所の人たちと,この男性の障害を知っていた他の人たちは驚き,「これは,座って物乞いをしていた男ではないか」と言います。それに対して,「その人だ」と言う人もいれば,起きたことが信じられず,「違う,でも似ている」と言う人もいます。すると本人は,「私がその人です」と言います。(ヨハネ 9:8,9)

      それで人々は,「では,どうして目が見えるようになったのか」と尋ねます。男性はこう答えます。「イエスという人が泥を作って私の両目に塗り,『シロアムに行って洗いなさい』と言いました。それで,行って洗ったら,見えるようになりました」。彼らが「その人はどこにいるのか」と聞くと,男性は,「知りません」と言います。(ヨハネ 9:10-12)

      その人はパリサイ派の人たちの所に連れていかれます。どのようにして見えるようになったのか,彼らも知りたいのです。それで男性はこう説明します。「その人が私の両目に泥を付け,私は洗いました。今は見えます」。パリサイ派の人たちも喜んでいいはずですが,彼らのうちの何人かはイエスを非難し,「この人は神の所から来たのではない。安息日を守っていない」と言います。一方,「罪人だったら,どうしてこんなしるしを行えるだろうか」と言う人もいます。(ヨハネ 9:15,16)彼らの意見は分かれてしまいました。

      彼らはその人に尋ねることにし,「あなたの目を開けた人だが,何者だと思うか」と聞きます。男性は,「あの人は預言者です」と断言します。(ヨハネ 9:17)

      パリサイ派の人たちは信じようとしません。皆をだますためイエスとその男性は何かをたくらんでいる,と思ったのかもしれません。それで,この男性が本当に目が見えなかったかどうか親に尋ねることにします。

  • パリサイ派の人たちが盲目だった男性に詰め寄る
    イエス 道,真理,命
    • パリサイ派の人たちは,盲目だった男性の視力をイエスが回復させたことを信じません。そこで男性の両親を呼び出します。両親は「会堂から追放」される可能性もあることを知っています。(ヨハネ 9:22)そのようにして他のユダヤ人たちとの交流を断たれるなら,社会的に孤立し,経済的にも生活が苦しくなってしまいます。

      パリサイ派の人たちは2つの質問をします。「これは,生まれつき目が見えなかった息子か。今は見えるのはどうしてか」。両親は,「これは息子で,生まれつき目が見えませんでした。でも,どうして今見えるのかは知りませんし,誰が目を開けたのかも知りません」と答えます。息子から話を聞いていたのかもしれませんが,言い方に気を遣い,「本人に聞いてください。もう大人です。自分で話すはずです」と言います。(ヨハネ 9:19-21)

      それでパリサイ派の人たちは男性を呼び戻します。そして,自分たちはイエスに不利な証拠を持っていると脅し,「神の前で本当のことを言いなさい。私たちはその人が罪人であることを知っているのだ」と言います。男性は追及をかわそうとし,「その人が罪人かどうかは分かりません」と答え,こうも言います。「1つ分かるのは,私は目が見えなかったのが,今は見えるということです」。(ヨハネ 9:24,25)

      彼らは満足せず,「彼はあなたに何をしたのか。どのようにして目を開けたのか」と尋ねます。男性はきっぱりと,「すでに話しましたが,あなた方は聞きませんでした。なぜもう一度聞きたいのですか。あなた方もあの人の弟子になりたいわけではないでしょう」と答えます。彼らは怒りだします。「あなたはあの男の弟子だが,私たちはモーセの弟子だ。神がモーセに語ったということは知っている。だが,この男については,どこからの者か知らない」。(ヨハネ 9:26-29)

      男性は驚き,「あの人がどこからの人か知らないのですか。あの人は私の目を開けました」と言います。そして,神が誰の願いを喜んで聞くかを明快に話します。「神は,罪人たちの願いは聞きませんが,神を畏れてその意志を行う人の願いなら,聞きます。生まれつき盲目の人の目を開けたという話は今まで聞いたことがありません」。結論はこうです。「神の所から来た人でなければ,何もできないはずです」。(ヨハネ 9:30-33)

      パリサイ派の人たちはこの説明に太刀打ちできません。「罪にまみれて生まれながら,私たちを教えるというのか」と言って男性を追い出します。(ヨハネ 9:34)

      イエスはそのことを聞くと男性を捜し,こう尋ねます。「人の子に信仰を持っていますか」。男性は,「それはどなたですか。その方に信仰を持ちたいのですが」と答えます。するとイエスははっきりこう言います。「あなたはその人に会ったことがあります。しかも,その人は今あなたと話しています」。(ヨハネ 9:35-37)

      男性は,「人の子に本当に信仰を持っています,主よ」と答え,信仰と敬意を示しひれ伏します。そこでイエスは深い言葉を述べます。「私がこの世に来たのは裁きのため,すなわち,見えない人が見えるようになり,見える人が見えないようになるためです」。(ヨハネ 9:38,39)

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