-
聴け ― エホバの見張りの者が語るものみの塔 1988 | 9月15日
-
-
劇として演じられた預言
9 (イ)エゼキエルはどのように,わたしたちが見倣うべき模範を残しましたか。(ロ)エゼキエルは,エルサレムがバビロニア人によって攻囲されることを示すために,何を行ないましたか。また,390日と40日はそれぞれ何を表わしていましたか。
9 次にエゼキエルは,謙遜かつ大胆に預言的な無言劇を演じ,一つの模範を残しました。その模範は,神から与えられた割り当てを謙遜かつ勇敢に成し遂げるようわたしたちを促すはずです。バビロニア人による攻囲を描写するために,エゼキエルは自分が刻んだエルサレムの絵のあるれんがの前に横たわることになっていました。そして,イスラエルの十部族のとがを担うために390日間,左側を下にして横たわり,次にユダの二部族の罪を負うために,右側を下にして40日間,横たわるのです。一日は一年を表わしました。ですから,390年とは,イスラエルが創立された西暦前997年から,エルサレムが滅びた西暦前607年までのことであり,ユダの40年とは,エレミヤが神の預言者として任命された西暦前647年から,ユダが荒廃した西暦前607年までのことでした。―エゼキエル 4:1-8。エレミヤ 1:1-3。
10 エゼキエルは,攻囲の影響をどのように演じて見せましたか。わたしたちは,神がエゼキエルを支えられたことから,どんな教訓を学べますか。
10 次にエゼキエルは,攻囲の影響を演じて見せました。飢きんを表わすのに,一日わずか200㌘余りの食物と,およそ0.5㍑の水だけで生活したのです。そのパン(律法に反して,小麦,大麦,そら豆,ひら豆,きび,スペルト小麦を混ぜ,糞の上で焼いたもの)は汚れていました。(レビ記 19:19)この行動は,エルサレムの住民がひどい欠乏状態に苦しむことを示していました。しかしエホバが,困難な状況の下にあったエゼキエルを支えられたように,わたしたちがどんな難しい問題に直面しても忠実を保ち,宣べ伝えるというわたしたちの任務を遂行できるよう助けてくださるのを知ると,本当に元気づけられます。―エゼキエル 4:9-17。
11 (イ)エゼキエル 5章1-4節には,どんな行動について語られていますか。それらの行動にはどんな意味がありますか。(ロ)神がエゼキエルの演じた劇を成就されたということは,わたしたちにどんな影響を及ぼすはずですか。
11 エゼキエルは次に剣を用い,髪の毛とあごひげを剃り落としました。(エゼキエル 5:1-4をお読みください。)エゼキエルは自分の髪の毛の3分の1をエルサレムの中で燃やしましたが,飢きんと疫病で死ぬ人はその髪の毛のようになるのです。戦死者は,剣で討たれた3分の1のようになります。生き残る人々は,風に散らされた3分の1の髪の毛のように,諸国民の間に離散させられます。しかし,流刑にされた人の中には,散らされた部分から取られ,エゼキエルの衣服に包まれた少数の髪の毛のようになる人々がいます。それは,それらの人たちが,70年の荒廃が終わった後,ユダで真の崇拝を始めることを示しています。(エゼキエル 5:5-17)エホバがこれらの預言的な劇を成就されたという事実は,預言を成就する方としてエホバに信頼を置くよう,わたしたちを動かすはずです。―イザヤ 42:9; 55:11。
前途にある滅び
12 (イ)エゼキエル 6章1-7節は,侵入者たちが何を行なうことを示していますか。(ロ)エゼキエルの預言によると,対型的なエルサレムとは何ですか。そのエルサレムにどんなことが生じますか。
12 エゼキエルは西暦前613年に,偶像礼拝を行なうユダの住民に何が臨むかを示すため,その土地に呼びかけました。(エゼキエル 6:1-7をお読みください。)侵入者たちは,偽りの崇拝に用いられていた高き所,香台,祭壇を滅ぼすでしょう。飢きんと疫病と戦争による荒廃という考えそのものによって,人々は「ああ!」という叫びを上げ,手をたたき足を踏み鳴らすことによって,それを強調するでしょう。高き所には,霊的な淫行を行なった者たちの死体が散乱することでしょう。対型的なエルサレムであるキリスト教世界が同様な滅びを被るとき,同世界は自分の災いがエホバからのものであることを知るでしょう。―エゼキエル 6:8-14。
13 エホバの手中にある「杖」とは何でしたか。それを用いることによって,どんな結果が生じることになっていましたか。
13 『終わりがこの地[ユダの不忠実な宗教体制]の四方の果てに到来しつつあった』のです。神の手中にある「杖」― ネブカドネザルと彼の率いるバビロニア人の大群 ― がエホバの民とその神殿に敵して行動する時,災厄的な事柄という「花輪」が,偶像礼拝者たちの頭を囲むでしょう。売る者と買う者のユダの「群衆」に属する人々は殺されるか流刑に処せられ,何とか生き続けたどんな人々の手も,無気力のゆえに垂れ下がるでしょう。彼らは自分たちの偽りの宗教の体制が覆される時,悲しみのうちに,言わば自分たちの頭を剃って,はげにします。―エゼキエル 7:1-18。
14 賄賂を用いても,エルサレムのために何をすることはできませんでしたか。そのことはキリスト教世界にとって,何を示すものですか。
14 エホバと,エホバの刑執行隊を買収することはできません。(エゼキエル 7:19をお読みください。)カルデア人の「強盗」が神聖な器具を奪って神殿を廃虚にした時,賄賂は,「隠れ場」つまり至聖所の神聖さが汚されるのを防ぎ得ませんでした。ゼデキヤ王が捕虜にされ,レビ人の祭司職に就いていた主要な者たちが殺された時,エホバは『強い者たちの誇りを絶やされ』ました。(列王第二 25:4-7,18-21)そうです,神が契約違反者として『彼らを裁かれた』時,攻囲されたエルサレムの中にいた罪人たちは,賄賂によって苦境から逃れることはできませんでした。同様に,キリスト教世界が神聖視している物事が近々冒涜される時,同世界が自らに臨む神からの裁きの執行を賄賂によって免れることはできません。エホバの「見張りの者」の言うことを聴くのは,その時では遅すぎるのです。―エゼキエル 7:20-27。
-
-
聴け ― エホバの見張りの者が語るものみの塔 1988 | 9月15日
-
-
生き残るために印を付けられる
17 どんな七人の男子が幻に出てきましたか。彼らは何をしましたか。
17 次に,七人の男子 ― 一人は亜麻布をまとった書記官,あとの六人は打ち砕く武器を持っている ― に注目しましょう。(エゼキエル 9:1-7をお読みください。)「六人の者」は,エホバの天的な刑執行隊を表わしていました。もっとも,エホバは地上の代理者をも用いることができます。『亜麻布をまとった人』が額に印を付けた人々は,神殿で行なわれていた忌むべき事柄に同調していなかったので,神の情けを経験することになります。「六人の者」による刑の執行は,その場所で偶像礼拝を行なっていた70人の長老たちと,タンムズのために泣いていた女たち,そして太陽を崇拝していた25人の人たちから始まりました。それらの人たち,また神に不忠節だった他の人たちは,西暦前607年にバビロニア人によって殺されました。
18 (イ)現代の『亜麻布をまとった人』とはだれですか。(ロ)「印」とは何ですか。今それを持っているのはだれですか。印がある人々には,どんな結果が生じますか。
18 対型的な『亜麻布をまとった人』は,油そそがれたクリスチャンの級です。彼らは,キリストの「ほかの羊」の「大群衆」の一部となる人々に象徴的な印を付けるため,家から家に訪問します。その「印」は,そのような羊が,キリストのような人格を備えた,献身しバプテスマを受けた人であることの証拠です。彼らはキリスト教世界で行なわれている「忌むべきことのために嘆息し,うめいて」います。そして,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから出て来ました。(啓示 18:4,5)彼らの「印」は,彼らが「大患難」の際に命を救われるべき者であることを,神の刑執行隊に明らかにします。彼らは,油そそがれた者たちと共に他の人たちに印を付けることにより,その「印」を保持できます。ですから,もしあなたが『印を付けられている』なら,『印を付ける』業に熱心に参加してください。―エゼキエル 9:8-11。
前途にある,火のような滅び
19 現代の『亜麻布をまとった人』は,キリスト教世界全体に何を振りまいていますか。
19 亜麻布をまとった人は,天の戦車の車輪の間を行き,火の付いた炭を手に取りました。それらの炭はエルサレムの上にまき散らされ,その滅びが,神の火のような憤りの表明であることを,前もって通告しました。(エゼキエル 10:1-8。哀歌 2:2-4; 4:11)エゼキエルの時代,エホバの怒りはバビロニア人という手段によって注ぎ出されました。(歴代第二 36:15-21。エレミヤ 25:9-11)では,現代についてはどうですか。対型的な『亜麻布をまとった人』は,神の怒りが間もなくキリスト教世界と大いなるバビロンの残りの部分にあらわにされるという通告として,神の火のような音信をキリスト教世界全体に振りまいています。もちろん,エホバの「見張りの者」の言葉を聴こうとしない人々には,生き残れる見込みはありません。―イザヤ 61:1,2。啓示 18:8-10,20。
20 (イ)天の戦車とケルブとの間に調和があることは,わたしたちにどのような影響を及ぼすはずですか。(ロ)ある君たちは何を行なっていましたか。彼らは間違ったこととして,エルサレムを何に例えましたか。
20 注意は再び天の戦車,つまり神の天的な組織に向けられます。戦車の車輪とケルブとの間に調和があることに注目すると,わたしたちは神の地的な組織と十分に協力するよう動かされるはずです。わたしたちは忠節さゆえに,その組織を不実な人間から守るべきです。(エゼキエル 10:9-22)エゼキエルの時代にもそのような不実な人間がいました。エゼキエルは,25人の政治上の君たちが,エジプト人の助けを取りつけて,神の刑執行隊に対する反逆を企てているのを見たからです。それらの君たちはエルサレムを大釜に,自分たちを釜の中にあって安全な肉に例えました。しかし,彼らは何と間違っていたのでしょう。反逆の計画者たちの一部はバビロニア人という「よそ者」の「剣」によって殺されることになっており,捕虜になるはずの人たちもいました。神はご自分との契約を破ったことに関してユダヤ人に申し開きをお求めになるので,そのような結果が生じるのです。(エゼキエル 11:1-13。出エジプト記 19:1-8; 24:1-7。エレミヤ 52:24-27)キリスト教世界は神との契約関係にあると主張しながら,この世的な提携に信頼を置いているので,エホバの刑執行隊による攻撃を受けて滅び失せます。
-